押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第25話 畑と自転車と甘い芋

 

 江古田のリサイクルショップで、篠原澪は中古自転車の前に立っていた。

 

 店の奥には、洗濯機や炊飯器や古い棚が並んでいる。入り口近くの自転車置き場には、前かごのついた銀のママチャリと、荷台がしっかりした黒いママチャリがあった。どちらも新品ではない。ハンドルの金属に少し曇りがあり、ベルの音も片方は少し眠たい音を出す。それでもブレーキは利く。タイヤもまだ使える。異世界の農道で試すには、むしろ新品より気が楽だった。

 

 澪は値札を見て、財布の中身を思い出し、それから二台の自転車を交互に見た。

 

「自転車って、異世界だと完全にチート移動手段ですよね……」

 

 店員は、少し変わったことを呟く女子大生を見る顔をした。

 

「通学用ですか?」

 

「ええと、まあ、移動用です」

 

「それは自転車全部そうですね」

 

「そうですね」

 

 澪は笑って誤魔化した。

 

 防犯登録の手続きをして、レシートを受け取り、店の外まで押して出る。二台の自転車を一人で持ち帰る方法を店員が少し心配してくれたが、澪は「近くに人が来ますので」と言って、いったん角を曲がった。

 

 人通りの少ない駐車場脇で、澪は二台の自転車へ手をかざす。

 

 収納。

 

 一台目はすっと入った。重さは米袋よりずっと軽い。だが、形が面倒だった。ハンドル、前かご、ペダル、荷台、車輪。収納の中で場所をやたら要求する。

 

 二台目を入れた時、澪は少し眉を寄せた。

 

「大豆より軽いのに、形が面倒……」

 

 収納五になっていなかったら、これを二台まとめて持ち込む気にはなれなかったかもしれない。

 

 澪はレシートを財布にしまい、次の店へ向かった。

 

 

 

 

 

 ドン・キホーテの焼き芋売り場は、遠くからでも分かった。

 

 甘い匂いが通路に漂っている。焼き芋の機械の中で、太い芋がじっくり熱を受けていた。澪はその前で立ち止まり、少しだけ目を細めた。

 

 これを異世界で出したらどうなるか。

 

 大豆もやしであれだけ騒ぎになったのだ。焼き芋は、もっと分かりやすい。甘い。温かい。腹にたまる。子どもに渡せば、一瞬で笑顔になる気がした。

 

 澪は数本だけ買った。

 

 本当はトトや孤児院の子どもたちの分も買いたかった。けれど、今日は農家へ見せるための品だ。荷物も増える。値段も安くはない。甘い匂いに負けて買いすぎると、後で帳面の前で青ざめる。

 

 スマホでサツマイモの価格も確認する。箱売りで五キロ、一万円前後。品種によってもっと高い。食べ物として売るなら、高すぎる。屋台で庶民向けに出す値段ではない。

 

 澪は焼き芋の袋を抱え、スマホの画面を見ながら小さく呟いた。

 

「これは売る芋じゃなくて、増やす芋ですね……」

 

 それでも、焼き芋の匂いは正義だった。

 

 澪は一瞬、一本くらい自分で食べてもいいのではないかと思ったが、我慢して収納に入れた。

 

 温度変化無し。

 

 この能力が、今日はたぶん一番危険な誘惑になる。

 

 

 

 

 

 押し入れを抜けた先では、リュシアの屋台裏がもう昼前の慌ただしさに入っていた。

 

 煮込みの鍋から湯気が立ち、洗った器が布の上に伏せられている。リュシアは銅貨を小皿に分けながら、澪の顔を見て言った。

 

「来たね。農家の方から、芽が出たって話は来てるよ」

 

 澪は一瞬、ぱっと顔を明るくした。

 

「もう収穫ですか?」

 

 リュシアの手が止まった。

 

「早いよ。芽だよ、芽」

 

「あ」

 

 澪はそこで、自分の感覚が大豆もやしに引っ張られていたことに気づいた。三日で伸びる豆草ばかり見ていたせいで、畑の作物まで早送りで育つ気がしていた。

 

 リュシアは小皿を並べ直しながら、呆れたように言う。

 

「畑の豆は、豆草より気が長い」

 

「そうですよね……」

 

「見に行くなら今日でもいいけど、歩くと二時間くらいかかるよ」

 

「二時間」

 

 澪は少し考えた。

 

 今日のために用意したものがある。

 

「それなら」

 

 澪は屋台裏の少し広いところに立ち、収納から二台のママチャリを出した。

 

 銀と黒の自転車が、がちゃん、と軽い音を立てて地面に並んだ。

 

 リュシアの手が止まる。

 

 近くにいたトトも固まる。

 

 屋台の裏で洗い物をしていた子どもまで、口を開けた。

 

 

 

 

 

「澪、また変なものを持ってきたね」

 

 リュシアは、銀のママチャリの前かごを指でつついた。

 

「自転車です」

 

「馬ではないのかい」

 

「馬ではありません」

 

「餌は?」

 

「いりません」

 

「水は?」

 

「いりません」

 

 トトが、車輪の横にしゃがみ込んだ。

 

「じゃあ、何で走るんだ」

 

「あたしの脚です」

 

 リュシアはしばらく黙って、ペダルを見た。それから澪を見る。

 

「澪、また自分を働かせる道具を持ってきたね」

 

「そういう言い方をすると、急につらくなります」

 

 トトはもう前かごを掴んでいた。

 

「俺も行く!」

 

「行かない」

 

 リュシアが即答する。

 

「豆草の親戚を見に行く!」

 

「大豆です。あと今日は危ないので置いていきます」

 

「自転車乗る!」

 

「そこが一番危ない」

 

 リュシアの声は揺るがなかった。

 

 トトはむっとした顔で車輪を見た。

 

「俺、速そうなのに」

 

「速そうな子ほど転ぶんだよ」

 

「転ばない」

 

「昨日、桶につまずいた子が何を言ってるんだい」

 

 トトは目を逸らした。

 

 澪は銀の自転車を押し、リュシアには黒い自転車を渡した。リュシアは自転車のハンドルを握り、少しだけ慎重な顔になる。

 

「本当に、これに乗るのかい」

 

「町の中では押して歩きます。外に出てから試しましょう」

 

「それがいいね。町中でこれに乗ったら、客より野次馬が増える」

 

 トトはまだ諦めていなかったが、リュシアがひと睨みすると、渋々屋台裏へ戻った。

 

 

 

 

 

 市場の中では、自転車を押して歩いた。

 

 それでも十分目立った。

 

 丸い車輪が二つ、細い金属の車体、前かご、荷台、ペダル。荷車とは違う。馬車でもない。担ぐ道具でもない。通行人が振り返る。子どもが寄ってくる。リュシアが目だけで追い払う。

 

「見るだけだよ。触ったら倒れる」

 

 その一言で、子どもたちは半歩下がった。

 

 市場を抜け、町外れの道へ出る。そこから先は畑へ向かう農道だった。澪はまず自分で乗り、足で少し地面を蹴ってからペダルを踏む。

 

 道は、現代の舗装された道とは比べものにならなかった。

 

 石がある。轍がある。乾いた泥が固まっている。前かごが小刻みに揺れ、ハンドルが取られそうになる。澪は思ったより速度を出せなかった。

 

 リュシアは、最初かなり警戒していた。

 

 澪がブレーキ、ペダル、ハンドルを教える。リュシアは商売人らしく、道具の扱いを覚えるのが早い。何度か足をつきながら、それでも少しずつ前へ進む。

 

「これ、馬車より揺れるんじゃないかい」

 

「道が悪いんです」

 

「餌はいらないけど、人間の脚を食う道具だね」

 

「言い方」

 

 リュシアは軽く笑った。

 

「でも、歩くよりは早い。荷台をうまく使えば、軽い荷なら運べる。馬を持てない者には、かなり大きい道具だね」

 

「やっぱり、分かりますか」

 

「分かるよ。危ないこともね」

 

 その言葉に、澪は頷いた。

 

 便利な道具は、すぐに真似したがる人が出る。子どもが勝手に乗れば転ぶ。盗まれれば戻ってこない。壊れれば修理も難しい。

 

 自転車は、ただ速いだけではなかった。

 

 また管理表が増える予感がした。

 

 

 

 

 

 農家の畑に着くころには、澪の脚は少し重くなっていた。

 

 農家の男は、二人と二台の自転車を見て目を丸くした。

 

「何だ、それは」

 

「自転車です」

 

「馬か?」

 

「馬ではありません」

 

 今日二回目のやり取りだった。

 

 農家はしばらく自転車を見ていたが、澪たちが大豆を見に来たと知ると、すぐに畑へ案内してくれた。

 

 畑の一角に、澪が渡した大豆がまかれていた。土は乾きすぎず、湿りすぎず、少し盛り上げた畝の上から、小さな芽が顔を出している。

 

 澪はしゃがみ込んだ。

 

 出ている。

 

 ちゃんと出ている。

 

 すべてではない。ところどころ芽が出ていない場所もある。鳥に突かれた跡も少しあった。土の乾きや畝の高さで差が出ているのも分かる。

 

 それでも、ぱっと見て八割ほどは発芽していた。

 

 農家の男は、腕を組んで言った。

 

「食う豆をまいたにしては、悪くない」

 

 澪は胸の奥から息を吐いた。

 

「よかった……」

 

 リュシアが横で言う。

 

「澪、顔が完全に親だね」

 

「豆の親ではありません」

 

「豆を見る顔じゃないよ、それ」

 

 澪は言い返そうとして、もう一度大豆の芽を見た。

 

 確かに、ちょっとだけ親の顔だったかもしれない。

 

 

 

 

 

 畑の脇で、澪は農家に種まき前の処理について話した。

 

「もやしの場合は、三十度前後のぬるま湯にしばらく浸けてから育てると、発芽のスイッチが入りやすくなります」

 

 農家は眉を上げた。

 

「豆を湯につけるのか。煮るのではなく?」

 

「煮ません。熱すぎると駄目です。皮をふやかして、起こす感じです」

 

「起こす」

 

「はい。乾いた豆を、起きやすくする感じです。ただ、畑にまく分を全部いきなりやるのは怖いので、次は一部だけ試すのがいいと思います」

 

 農家は畑を見た。

 

「半分ずつか」

 

「もっと少なくてもいいです。普通にまく分と、ぬるま湯に浸ける分を分けて、どちらがよく出るか見たいです」

 

「鳥にも食われる」

 

「そこも見たいです。あと、水をやりすぎると腐るかもしれません」

 

 農家は少し笑った。

 

「豆一つで、見ることが多いな」

 

 リュシアがすかさず言う。

 

「澪が持ってくるものは、だいたい見ることが増えるよ」

 

「そんな評判なんですか」

 

「そんな実績だね」

 

 澪は黙った。

 

 

 

 

 

 大豆の畑を見たあと、澪は農家の畑と納屋を見せてもらった。

 

 大麦、小麦、じゃがいも、葉物野菜、ナス、瓜、インゲン。

 

 どれも現代のものとよく似ているが、少しずつ違う。じゃがいもは小ぶりで、皮が厚い。ナスは形が不揃いで、瓜は香りが強い。葉物はしっかりしているが、柔らかい品種ではなさそうだった。

 

 澪は畑の端で立ち止まった。

 

「芋はありますか」

 

「芋ならある」

 

 農家が持ってきたのは、澪が見てもじゃがいも系の芋だった。煮物や焼き物にできそうだが、甘い匂いはない。

 

「ほかに、甘い芋はありますか」

 

「甘い芋?」

 

「焼くと甘くなる、こう……」

 

 澪はそこで、収納に入れた焼き芋を思い出した。

 

「見てもらってもいいですか」

 

 農家は不思議そうな顔をしたが、庭先の日陰へ案内してくれた。

 

 

 

 

 

 澪が収納から焼き芋を取り出すと、庭先に甘い匂いが広がった。

 

 まだ温かい。

 

 収納五の温度変化無しが、こんなところで威力を出している。澪は一瞬、便利すぎるなと思った。焼き芋の温かさまでそのまま持ち込めるのは、危険なくらい便利だ。

 

 農家の奥さんが顔を出した。

 

「何の匂いだい」

 

 リュシアも、少しだけ目を細めた。

 

「澪、それは反則の匂いだね」

 

「反則ではありません。焼き芋です」

 

 澪は焼き芋を半分に割った。皮の内側から、しっとりした実が顔を出す。湯気が立ち、蜜のような香りが強くなる。

 

「こういう芋はありますか」

 

 農家は首を振った。

 

「これは……芋なのか」

 

「芋です。砂糖は入っていません」

 

「砂糖なしで、この匂いか」

 

 澪は小さく切り分け、農家と奥さん、リュシアに渡した。自分も少しだけ口に入れる。

 

 甘い。

 

 現代では普通に売っている焼き芋なのに、こちらで食べると暴力的に甘く感じる。農家の男は、一口食べて動きを止めた。

 

 奥さんも、目を丸くした。

 

「菓子じゃないのかい」

 

「芋です」

 

 農家はゆっくり噛んだ。

 

「腹に残る。甘いのに、軽い菓子じゃない」

 

 リュシアは小さく頷いた。

 

「これは売れるね。けど、澪の国で買った分をそのまま切って売ったら、庶民の食べ物じゃなくて金持ちの菓子になる」

 

 澪は焼き芋の皮を見下ろした。

 

「じゃあ、売るより……」

 

「農家に食わせる。甘さを分からせる。畑で増やしたいと思わせる。そっちが先だね」

 

 農家は焼き芋の断面を見たまま、低く言った。

 

「なら、食う芋ではなく、植える芋だ」

 

 その声で、澪は農家の目が変わっていることに気づいた。

 

 畑の人間の目だった。

 

 

 

 

 

「これは作ってみたい」

 

 農家が言った。

 

 澪は驚いて顔を上げた。

 

「ただ、失敗するかもしれません」

 

「畑は失敗するものだ」

 

 その返事が早かった。

 

 澪は少し背筋を伸ばした。農家が本気で考えている。なら、甘い話だけでは済ませられない。

 

「堆肥はかなり入れた方がいいと思います。麦わら、家畜の糞、大豆の茎葉や莢殻を積んで寝かせる必要があります」

 

「肥やしなら作れる」

 

「それと、水がずっと溜まる場所は向かないと思います。水はけの良い畑の方がいいです。水をあまり引けない畑端や、乾きやすい上の畑で試せるかもしれません」

 

 その瞬間、農家の表情が変わった。

 

「なら、うちの上の畑でいける」

 

 リュシアが聞き返した。

 

「上の畑?」

 

「水路から遠い。麦でも少し弱い。だが、雨の後も水が残らん。土は軽い。あそこが使えるなら大きい」

 

 農家は焼き芋をもう一口食べた。

 

「水を食わずに、この甘さが畑から取れるなら、試さない理由がない」

 

 澪は、甘さよりも、その言葉にぞくっとした。

 

 売れるから作るのではない。

 

 使いにくい畑が使えるかもしれないから、作る。

 

 農家は、土地の使い道で焼き芋を見ていた。

 

 

 

 

 

 澪は現代側の価格を説明した。

 

「ただ、今これを現代で買うと高いです。五キロで一万円くらいします。こちらの銅貨で考えると、百二十枚前後になると思います」

 

 農家の奥さんが息を呑んだ。

 

「高いね」

 

 澪は頷いた。

 

「食用として庶民へ売るには高すぎます」

 

 リュシアが、焼き芋の皮を指先で折りながら言った。

 

「でも、種芋と作り方込みなら話が違うね。畑で増やせるなら、五キロの芋が五キロで終わらない」

 

 澪はリュシアを見た。

 

 リュシアは、すでに売るものとしてではなく、農家に作らせるものとして見ている。

 

「品種も分けた方がいいと思います。甘いもの、料理向きのもの、比較的育てやすそうなものを少しずつ」

 

 農家が眉を上げた。

 

「芋にも種類があるのか」

 

「あります。甘さも、食感も、向く料理も違います」

 

「なら、一種類に賭けるよりいい。上の畑を区切って、どれがこの土に合うか見る」

 

 農家の声はもう決まっていた。

 

 澪は焼き芋を持ってきただけのつもりだった。だが、話はすでに畑の区画と堆肥の量に進んでいる。

 

 

 

 

 

 農家はしばらく黙ったあと、家の中へ入った。

 

 澪はリュシアと顔を見合わせた。

 

「怒らせましたか」

 

「逆だと思うよ」

 

 リュシアの予想通り、農家は小さな包みを持って戻ってきた。布を開くと、小金貨が一枚入っている。

 

 澪は固まった。

 

「小金貨一枚、預ける」

 

「え」

 

「食うためじゃない。畑で増やすためだ。用意できるだけ用意してくれ」

 

 澪は慌てた。

 

「失敗するかもしれません」

 

「畑は失敗する。だが、何も試さなければ、上の畑は今年も痩せた麦だけだ」

 

 農家は、小金貨を澪の方へ押し出した。

 

 リュシアが小さく頷く。

 

「澪、受けな。これは芋代じゃない。上の畑で試すための種代と、作り方を聞くための銭だ」

 

 澪は小金貨を見た。

 

 重い。

 

 金属としての重さではない。期待と、責任と、三十キロのサツマイモと、知らない畑の土が全部乗っている気がした。

 

 澪は両手で受け取った。

 

「……用意できるだけ、用意します」

 

 

 

 

 

 澪はその場で帳面を出した。

 

 畑一枚まるごとではなく、上の畑の一角で試す。合計三十キロほど。品種は分ける。

 

 紅はるか。シルクスイート。紅あずま。鳴門金時。安納芋。

 

 名前だけ書くと、ここが異世界の農家の庭先だということを忘れそうになる。

 

 農家は帳面を覗き込み、首をひねった。

 

「全部、芋の名か」

 

「はい。甘いもの、しっとりしたもの、料理向きのもの、比較的安く手に入るものを分けて用意します」

 

「畑を区切って植える」

 

「はい。どれがこの土地に合うか見ます」

 

 リュシアが横から言った。

 

「小金貨一枚は、芋三十キロと作り方込みの値だね」

 

「作り方込み……」

 

「澪の知識も売ってるんだよ。安売りしない」

 

 澪は小金貨を見て、また少し緊張した。

 

 知識込み。

 

 その言葉は嬉しいが、怖い。

 

 現代なら検索で出てくることでも、こちらでは畑を動かす値段になる。失敗した時に笑って済む話ではない。

 

 農家はそんな澪を見て、少しだけ笑った。

 

「最初からうまくいくとは思っていない。だが、甘い芋の匂いは覚えた。あれは試す」

 

 その言葉で、澪はようやく頷けた。

 

 

 

 

 

 帰り道、自転車は行きより重く感じた。

 

 荷台には誰も乗っていない。前かごもほとんど空だ。焼き芋はもうない。大豆も持っていない。

 

 それなのに、ペダルが重い。

 

 小金貨一枚を預かってしまった。品種を選ばなければならない。三十キロのサツマイモを買う。種芋として使えるかどうかも考える。堆肥づくりを説明する。上の畑をどう区切るか。保存はどうするか。干し芋は作れるか。焼き芋をどう広めるか。

 

 考えることが、農道の石より多い。

 

 横を走るリュシアが言った。

 

「澪、背中が重い」

 

「今日は荷台に誰も乗ってません」

 

「違う。小金貨の重さだよ」

 

 澪は反論できなかった。

 

「……重いです」

 

「でも、悪い重さじゃない」

 

「そうですね」

 

「農家が自分で出した銭だ。澪が無理に売ったわけじゃない」

 

 澪はペダルを踏みながら頷いた。

 

 そうだ。

 

 焼き芋を見せたのは澪だ。だが、作りたいと言ったのは農家だった。

 

 それだけは、間違えないようにしようと思った。

 

 

 

 

 

 市場へ戻ると、トトが待っていた。

 

 最初に自転車を見た。

 

 次に澪の手元を見た。

 

 最後に、澪の顔を見た。

 

「で、俺の甘い芋は?」

 

 澪は固まった。

 

 リュシアも、少しだけ止まった。

 

 焼き芋は全部、農家で試食に使ってしまった。農家、農家の奥さん、リュシア、澪が少しずつ食べ、最後の一切れは農家が「種芋として見たい」と言って持っていった。

 

 トトの分は、ない。

 

「……ありません」

 

 澪が小さく言うと、トトの目が大きくなった。

 

「俺を置いていって、甘い芋も置いてこなかったのか!」

 

 リュシアが腕を組む。

 

「置いていった子の分はないよ」

 

「ひどい!」

 

「勝手に自転車へ乗ろうとした子にもないね」

 

「もっとひどい!」

 

 澪は慌てて両手を合わせた。

 

「次は多めに買ってきます。焼き芋、少なすぎました」

 

 トトは頬を膨らませた。

 

「約束だぞ」

 

「約束です」

 

「俺、一番大きいやつ」

 

「それは相談で」

 

「約束が小さくなった!」

 

 リュシアが笑った。

 

「まず自転車に勝手に触らない約束を守りな」

 

 トトは自転車を見て、甘い芋を思い出して、また澪を睨んだ。

 

 農業の話は大きくなった。

 

 だが、目の前のトトには、焼き芋がなかったことの方がずっと大きな問題だった。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、澪は帳面を開いた。

 

 机の上には、小金貨一枚を包んだ布がある。現代の財布とは別に置いてあるのに、そこだけ妙に重く見えた。

 

 澪は今日のことを書き出していく。

 

 大豆発芽八割。

 

 ぬるま湯処理、次回一部試験。

 

 現地作物確認。

 

 甘い芋、現地に無し。

 

 サツマイモ試験栽培。

 

 水を引きにくい上の畑。

 

 堆肥必須。

 

 品種バラバラ三十キロ。

 

 小金貨一枚預かり。

 

 焼き芋は人数分より多く買う。

 

 澪は筆を止め、深くため息をついた。

 

 大豆の芽を見に行っただけだった。

 

 なのに、帰ってきた時には、自転車と、甘い芋と、水の少ない畑と、堆肥の話が増えていた。

 

 さらに、食べ損ねたトトの怒りも増えた。

 

 澪は帳面の最後に、大きめの字で書いた。

 

 焼き芋は、人数分より多く買う。

 

 その下に、少し小さく書き足す。

 

 品種バラバラで三十キロ。

 

 上の畑を区切る。

 

 堆肥を積む。

 

 水が残りにくい場所で試す。

 

 これはもう、芋を買う話ではなく、畑を変える話だった。

 

 澪は帳面を閉じ、小金貨の包みをもう一度見た。

 

 もやしの次は、芋だった。

 

 押し入れの向こうで、畑がまた一つ、澪の予定表に入り込んできた。

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