12月も残り少なくなった頃、六畳間の机は、食事をする場所としての役目をほとんど失っていた。
ノートパソコンの左右に置かれた画面には、細長い船体の断面図と、数値の並んだ表が映っている。壁際には印刷した資料が立て掛けられ、床には丸めた図面が3本。押入れの前だけは空けてあるものの、その境界にも充電器の線が迫っていた。
澪はコンビニの袋を持ったまま、足を止めた。
「真壁さん」
「何かね、澪君」
返事はすぐにあった。だが、真壁の目は画面から離れない。
「お昼、食べましたか」
真壁の指が止まった。
その間だけで、答えは分かった。
「朝は食べた」
「今、午後3時です」
「そうか」
真壁は画面の隅に出ている時刻を見た。確認しただけで、驚いた様子はない。そのまま設計図へ視線を戻しかけたので、澪は机の端に積まれていた資料を持ち上げた。
「ここを空けます」
「その資料は推進機の比較用だ」
「捨てません。重ねます。ご飯を置く面積だけください」
異世界では、第1期住宅の建設が始まっている。つい先日まで何もなかった新町に、今度は人が暮らすための家が増えようとしていた。
その一方で、ゲンダイ側の六畳間では、人が一人食事をする面積が図面に奪われている。
澪が資料を揃えている間にも、真壁は船体断面の一部を拡大した。
「以前の貨物飛行船とは、形が違うんですね」
「あれは要求性能を考えるための資料だ。造る物は別になる」
真壁は画面の船体を回転させた。長い船体の内部がいくつもの区画に分かれ、上部に大きな浮力嚢、下部に貨物区画が並んでいる。
「基本の浮力はヘリウムで得る。重力制御へ全てを依存させれば、停止時に船と荷がまとめて落ちる」
「重力制御は、積める量を増やす方に使うんですか」
「それだけではない。離着陸時の荷重変化と、強風時の姿勢保持にも使える。ただし、重力制御、風制御、推進機構は互いに切り離す」
真壁が指で触れるたび、船体の左右と底部に色の違う線が増えた。
「一つが止まっても、残りで退避する。結界も船体保護と貨物保護を分ける。貨物区画で事故が起きた時、船全体へ広げない」
「今、増やしましたよね」
「分けた方がよい」
「昼食を確認している間に、設計を進めないでください」
「設計上の欠落に気づいた」
澪は買ってきたおにぎりと味噌汁を、ようやく空いた机へ置いた。
真壁は椅子を半歩だけずらした。食べるためではなく、別の資料を取るために見えたので、澪は味噌汁の蓋を先に開けて手渡す。
「冷める前にお願いします」
「承知した」
真壁は素直に受け取った。ただし、片手はまだマウスに載っている。
飛行船には、荷物だけでなく人も乗る。真壁が食事を忘れることと、船の安全設計は別の問題である。それでも、操縦者が真壁と同じように動けることを前提にしていないかは、後で確認した方がよさそうだった。
澪はスマホの予定表を開き、飛行船の確認事項の下へ一行加えた。
操縦者が疲れている時の誤操作対策。
書き終えると、明日から冬休みだという事実が、ようやく現実味を持った。
休みになったからといって、予定が減るわけではなかった。
店内には、揚げ物の匂いと、いくつもの卓から重なる笑い声が満ちていた。
澪は膝の上に紙袋を置き、向かいに座る佐伯たちの話を聞いていた。
「冬休み中、一回は集まった方がいいよね。発表の修正、年明け最初のゼミでって言われても無理だし」
「オンラインでいいんじゃない? 三浦、実家帰るんでしょ」
「帰るけど、年末年始ずっとじゃないよ。神谷こそ予定あるって言ってたじゃん」
「クリスマスは予定がある。今ここにいる」
「今日がその予定なんだ」
佐伯が笑い、神谷が箸袋を丸めて投げる真似をした。
研究発表の修正箇所、冬休み中のアルバイト、実家へ帰る日。話題は次々に移っていく。異世界の冬支度も、地下ドックも、飛行船の浮力も出てこない。
少し前までなら、澪は話の切れ目を探しているうちに、次の話題へ置いていかれていた。今も得意になったとは思わない。それでも、三浦の帰省日を聞き、共有資料を更新できる日を確かめ、自分の予定も伝えられる。
4人で作った発表が、会話へ入るための細い橋になっていた。
「そうだ。交換しようよ」
佐伯が椅子の横から包みを取り出した。
クリスマスが近いから、一人一つをくじで回すのではなく、3人へ小さな物を一つずつ用意する。そう決めたのは前の週だった。
澪も膝の紙袋を持ち上げた。
3つの細長い箱には、それぞれ青いジルコンのネックレスが入っている。
地下ドックを掘った際に出た鉱石のうち、宝飾に使える物を分け、不純物を除き、色と透明度の良い部分だけを残した。そう書けば短い。実際には、青の濃さを揃えすぎると作り物めいて見え、違いを残しすぎると3人のうち誰かだけ質が低く見えるため、数mmの石を何度も並べ直した。
石座と金具は、修さんの教室で覚えたとおり、自分の手で作った。佐伯には少し丸みのある形、神谷には直線を入れた形、三浦には石の縁が柔らかく見える形。3石は同じ大きさでも、全く同じ品にはしていない。
「え、ちょっと待って」
箱を開けた佐伯が、ネックレスと澪の顔を見比べた。
「これ、本当に篠原さんが作ったの?」
「はい。石を選ぶところから」
「石を選ぶって、店でルースを買ったってこと?」
「いえ、元の石から、使えるところを分けて……」
そこから先を説明すれば、地下ドックの掘削物と収納内工程に行き着いてしまう。
澪は箱の中へ視線を戻した。
「材料を扱う機会があったので、練習も兼ねて作りました」
「練習で渡す物じゃないよ、これ」
三浦が指先で石を持ち上げ、店の灯りへ透かした。小さな青が揺れ、白いテーブルへ薄い影を落とす。
「3人とも、少し形が違う」
「好みが分からなかったので、普段着ている服に合わせました。もし金具が合わなかったら、直します」
「そこまで保証付きなの?」
神谷の声に、3人が笑った。
澪も遅れて笑いながら、自分の指先を見た。
異世界では、何万tもの土や鉱石を収納へ入れ、建材へ分けてきた。その自分が今は、友人の首元で数mmの石が傾かないかを気にしている。
量が違いすぎて、同じ仕事には思えない。
けれど、身に着ける人の顔を思い浮かべながら作ったのは、こちらの3つだった。
「篠原さん、これ、お返しの金額が合わないんだけど」
佐伯が自分の用意した袋を抱えた。
「材料は手元にあった物ですから」
「そういう問題じゃない気がする」
「では、研究発表の修正を手伝ってください」
「急に現実的」
今度は、澪も同じところで笑えた。
彫金教室の忘年会は、作業机を壁際へ寄せた工房で開かれた。
火を落とした炉の匂いに、買ってきた料理と珈琲の香りが混じっている。工具棚には布が掛けられていたが、長い柄の槌やヤットコの先が少しだけ覗いていた。
「澪ちゃん、こっち」
妙子が空いている椅子を引いた。
以前、指輪の高さや着け心地を見てもらった時と同じ、柔らかな声だった。その隣には、肩までの髪を耳へ掛けた少女が座っている。
「娘の理央。17歳」
「理央です」
少女は小さく頭を下げた。澪も名乗ると、理央はもう一度だけ会釈した。
大勢を避けているようには見えなかった。修さんに皿を渡し、妙子に飲み物を尋ねられれば普通に答える。ただ、教室の参加者たちの会話へ、自分から言葉を差し込むことはなかった。
視線だけが、よく動いている。
誰がどの工具の話をしているか。机の端に置かれた未完成の指輪が、どちらから光を受けているか。理央は会話より先に、物を見ていた。
澪が上着を脱いだ時、理央の目が胸元で止まった。
「それ、ジルコンですか」
澪は自分のネックレスへ触れた。ゼミの3人へ渡した物と同じ材料で作った、小粒の青い石だった。
「はい。よく分かりましたね」
「父の本で見ました。青いのはありますけど、これ、色が少し違うから」
理央は手を伸ばさず、少し身体を寄せて石の横を見た。
「カットも、自分でしたんですか」
「はい」
「石も?」
声が一段だけ上がった。
「元の石から使える部分を分けて、磨きました。金具は、こちらで教えていただいた方法です」
「見てもいいですか」
「もちろんです」
澪は留め金を外し、掌へ載せて差し出した。
理央は両手で受け取ると、正面より先に石座の裏を見た。光を入れる穴、爪の位置、鎖を通す金具。指先で触れず、角度を変えながら確かめている。
「裏まで作ってある」
「裏の角が肌に当たると痛いので」
「こういうの、大学で作るんですか」
「大学では、作りません。大学は経済や経営の方です」
「じゃあ、2年生?」
「はい」
「大学って、知らない人と話さないと駄目ですか」
問い方は平らだったが、理央の親指が鎖の輪を同じ場所でなぞっていた。
「授業によります。私は、ゼミで4人の班になって……最初は、ほとんど話せませんでした」
「今も?」
「今は、前よりは。先日、その3人と忘年会をしました。これと似たネックレスも渡しました」
澪は自分で話しながら、大学へ入った頃の教室を思い出した。隣の席の人へ声を掛けるだけで、話す順番を頭の中で作り、その順番を考えている間に授業が終わったこともある。
「発表も、4人で作りました。一人なら考えなくてもよかったことが増えましたけど、一人では出せなかった物にもなりました」
理央はネックレスを澪へ返し、少し間を置いた。
「私、高校、ほとんど行ってないです」
妙子たちの笑い声が、少し離れたところで上がった。
澪は理由を考えかけた。病気なのか、人間関係なのか、授業なのか。それを聞いてどうするのかまで考えると、口に出せる言葉は一つしか残らなかった。
「そうなんですね」
理央が顔を上げた。
「それだけですか」
「ほかに何か言った方がいいですか」
澪は本気で困って尋ねた。
学校へ戻った方がいいとは言えない。行かなくていいとも、事情を知らない自分には決められない。大丈夫という言葉も、何を大丈夫とするのか分からなかった。
理央は数秒、澪を見た。それから、口元を少し曲げた。
「別に。ないです」
「よかったです」
「それも、ちょっと変」
今度は、はっきり笑った。
会話が途切れても、先ほどまでのような重さは残らなかった。
理央にせがまれ、澪はスマホの中に残っている作品の写真を見せた。初めて作ったネックレス、ガラスの飾り、銀線を巻きすぎて重くなった試作品。出来のよい物だけを選ぶつもりだったが、失敗作の写真の方を理央は長く見た。
「これは、重そう」
「重かったです。使う材料を減らすのが怖くて、増やしすぎました」
「こっちは?」
「教会の古い窓枠と、子どもたちが磨いた木片で作った物です」
画面には、木の壁掛けが映っていた。
古い材の傷を消し切らず、浅く彫った船と木をつないでいる。枝の周りには唐草のような線が伸び、船はどこかへ向かう形にも、どこかから戻ってきた形にも見えた。
理央の指が、画面の上で止まった。
「……これ、うちにあります」
「え?」
「玄関に。たぶん、同じです」
「同じ物は作っていません」
澪の返事が早くなった。一点しか作っていない。似た意匠の品も出していなかった。
「お母さん」
理央に呼ばれ、妙子が皿を持ったまま振り向いた。
「どうしたの?」
「玄関の、木の。これじゃない?」
妙子はスマホを受け取ると、画面へ顔を近づけた。
「あら、本当。これよ」
「妙子さんが買われたんですか」
「ええ。通販で見つけたの。玄関の壁に合うと思って。まさか澪ちゃんが作った物だったなんて」
妙子が修さんを呼び、画面を見せた。
「世間は狭いな」
修さんは写真を見た後、澪の指先へ目を移した。
「この頃から、裏の取付金具まで自分で?」
「はい。壁から落ちたら危ないので」
「澪ちゃんらしいわねえ」
皆が笑った。
澪も笑いながら、画面の木彫を見た。
作った時、古い燭台の鑑定には、微弱加護が一つ出ていた。
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帰路:1
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帰る場所を思い出す気持ちを、僅かに助ける。
船は行き来の形。木は留まる形。
作品は売れて、自分の手元を離れた。それきり、誰の家に掛かったのか考えたこともなかった。
それが、修さんの家の玄関にある。
奇妙な偶然だった。今は、それ以外の意味を持たせる理由はなかった。
料理が減り、珈琲が2度目に淹れられる頃、話題は互いの近況へ移った。
「真壁さんは、今日は来られなかったのか」
修さんに尋ねられ、澪は六畳間の机を思い出した。
「今、船の設計にのめり込んでいます。画面と資料を広げて、食事の時間にも気づかないくらいで」
「ああ、分かるな」
「あなたは分かっちゃ駄目でしょう」
妙子がすぐに返した。
「男の人って、そういうところあるわよねえ。うちの人も、細工を始めると夜中まで止まらないの」
「区切りの悪いところで止める方が難しい」
「そう言って、夕飯を3回温めたことがあるでしょう」
修さんは珈琲へ手を伸ばし、答えなかった。
妙子は呆れたように笑った後、懐かしい物を見る目で夫を見た。
「亡くなった兄も、何かにのめり込むと、とことんだったわ」
「お兄さんがいらしたんですか」
「ええ。ずいぶん前に亡くなったけどね」
妙子は紙コップを両手で包んだ。
「亡くなる何日か前にも、父と私が喧嘩してたのよ。成人式に着る着物のことで」
「着物ですか」
「そう。父は父で、この色の方がいいって譲らないし、私は私で、自分が選んだ色を着るって聞かなくて」
妙子が苦笑する。
「そこへ兄が帰ってきたものだから、父も私も兄に聞いたの。どっちがいいと思うって」
理央が母親を見る。
「それ、おじさん困るでしょ」
「困ってたわよ。着物を見て、父の顔を見て、私の顔を見て。それで結局、『妙子が着るんだから、妙子が好きな方でいいだろう』って」
「お母さんの味方したんだ」
「そうしたら今度は父が兄に、『お前まで甘やかすな』って言い始めてね」
妙子が笑う。
「最後には母まで出てきて、『着物一枚で何人喧嘩するの』って」
修さんも笑った。
「賑やかな家だったんだな」
「そうね。あの時は、数日後に兄がいなくなるなんて、誰も考えてなかったもの」
笑みはそのままだった。
けれど、声だけが少し静かになった。
「会社員だったの。2000年のお正月に会社で倒れて、そのまま」
妙子は紙コップへ目を落とした。
「後から聞いたら、年越しの2000年問題で、ずっと会社に泊まり込んでいたんですって。家族には詳しいことを何も言わなかったから、亡くなってから知ったのよ」
澪の手の中で、スマホが急に重くなった。
2000年。
正月。
会社員。泊まり込み。
そして、妹。
離れていた言葉が、一つの線へ並んでいく。
ヴァルトは、前世でブラック企業に勤めていた。2000年の正月に泊まり込みで働き、倒れ、そのまま亡くなった。父母と妹を残して。
それだけではない。
亡くなる数日前。
成人式を控えた妹が、着物の色を巡って父親と喧嘩していた。
妙子が以前話してくれた成人式の記憶まで、同じ場所へ重なった。
偶然なら、どこまで重なるものなのだろう。
名前を聞けば、確かめられるかもしれない。
澪は口を開きかけ、閉じた。
亡くなった人の名前を、知り合ったばかりの娘の前で、急に尋ねる理由を説明できない。何より、重なったからといって同じ人だとは限らなかった。
「急だったんですね」
「ええ。でも、もう26年だから」
妙子はそう言って、理央の空いた皿へ料理を取り分けた。
26年。
その時間を、妙子は夫と暮らし、娘を育ててきた。
ヴァルトは異世界で魔術師となり、妹の知らない人生を生きてきた。
澪のスマホには、先ほどの木彫がまだ映っている。
船と、根を張った木。
帰路。
「写真を撮ろう」
修さんの声で、止まっていた空気が動いた。
作業机の前へ椅子を寄せ、教室の参加者たちが並ぶ。澪も呼ばれて、妙子の近くへ入った。
理央は列の端へ立とうとしたが、妙子が腕を伸ばした。
「理央、こっち」
「ここでいい」
「家族なんだから、隣」
理央は少しだけ顔をしかめ、それでも妙子と修さんの間へ入った。
撮影役がタイマーを押し、慌てて列へ戻る。
澪は笑顔を作りながら、隣に並ぶ3人を意識していた。
この写真を、ヴァルトへ見せるべきなのか。
シャッターの音が鳴った時にも、答えは出なかった。
数日後。
採石場の秘密基地では、飛行船に使う魔道具の検討が続いていた。
真壁が設計した船体へ、重力制御や風制御、結界をどう組み込むか。ヴァルトは机の上に広げられた図面を確認し、いくつかの術式について真壁へ修正案を渡していた。
「では、この部分は一度組み直してみよう」
「お願いします。こちらでも術式の干渉を確認しておきます」
真壁が図面を持って奥の作業区画へ移る。
澪は残った資料を揃えながら、ヴァルトへ声を掛けた。
「ヴァルトさん」
「はい」
「大学、冬休みに入りました」
「そうでしたか。それなら、しばらく講義はありませんね」
「課題はありますけどね」
澪は苦笑した。
「ゼミの人たちと忘年会もしました。クリスマスのプレゼントを交換して」
「それはよいですね。以前より、大学のお話に人の名が増えました」
「そうですね」
澪はそこで一度、手を止めた。
スマホはポケットに入っている。
彫金教室の忘年会から数日経っていたが、妙子の兄についてヴァルトへどう話すかは、まだ決め切れていなかった。
2000年の正月。
会社員。
2000年問題への対応で泊まり込み、会社で倒れて亡くなった兄。
成人式の数日前、着物の色を巡って父親と喧嘩していた妹。
条件は重なっている。
けれど、同じ人物だと決めつけることはできなかった。
「もう一つ、修さんの彫金教室でも忘年会があったんです」
「修さんというのは、澪さんが細工を教わっている方でしたね」
「はい。最後に集合写真を撮ったんです」
これなら見せられる。
澪はスマホを取り出して写真を開いた。
「こんな感じでした」
「ほう」
ヴァルトは何気なく画面へ目を向けた。
教室の参加者たちが二列に並んでいる。
修。
妙子。
理央。
そして澪。
ヴァルトの視線が、ある一人のところで止まった。
「……母さん」
澪は動かなかった。
ヴァルトが、わずかに画面へ顔を近づける。
目元。
頬。
笑った時の口元。
26年前の記憶にいる妹ではない。
むしろ、記憶の中の母親に近い。
「……いや」
ヴァルトの眉が僅かに寄った。
「妙子?」
澪の胸が強く鳴った。
「ヴァルトさん」
ヴァルトは聞いていなかった。
写真の女性から目を離さない。
「妙子です。これは……」
今度は、はっきり言った。
澪の中に残っていた疑いが、その一言で消えた。
「この写真は数日前に撮ったものです」
ヴァルトが、ようやく澪を見る。
「なぜ、澪さんが妙子と一緒に?」
「順番に説明します」
澪は写真へ指を置いた。
「この男性が修さんです。私に彫金を教えてくださっている方です」
ヴァルトの視線が妙子の隣へ移る。
「その方と妙子が?」
「ご夫婦です」
しばらく返事がなかった。
「……結婚したのですね」
「はい」
ヴァルトの目が妙子へ戻る。
26年前。
成人式を前にして、父親と着物の色で言い争っていた妹。
自分が、
『妙子が着るんだから、妙子が好きな方でいいだろう』
そう言った妹が、今は知らない男の隣で穏やかに笑っている。
「妙子は……生きているのですね」
「はい。お元気です」
ヴァルトは目を閉じなかった。
写真の中にある26年を、一つでも取りこぼしたくないようだった。
「それから」
澪は妙子の反対側に立つ少女を指した。
「この子が理央ちゃんです。17歳です」
「理央……」
「修さんと妙子さんの娘さんです」
ヴァルトが理央を見る。
そして、もう一度妙子を見る。
「……娘」
意味が追いつくまで、少し時間がかかった。
「では」
ヴァルトの声が止まる。
写真の少女を見る。
「私に、姪がいるのですか」
「はい」
ヴァルトは何も言わなかった。
澪も急いで次の話をしなかった。
秘密基地の奥から、真壁が何かを動かす音がかすかに聞こえる。
いつもの作業場所だった。
いつもの仕事の途中だった。
それなのにヴァルトにとっては今、26年前に途切れた家族の時間だけが、突然目の前へ戻ってきていた。