押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第250話 帰る場所

 

 12月も残り少なくなった頃、六畳間の机は、食事をする場所としての役目をほとんど失っていた。

 

 ノートパソコンの左右に置かれた画面には、細長い船体の断面図と、数値の並んだ表が映っている。壁際には印刷した資料が立て掛けられ、床には丸めた図面が3本。押入れの前だけは空けてあるものの、その境界にも充電器の線が迫っていた。

 

 澪はコンビニの袋を持ったまま、足を止めた。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

 返事はすぐにあった。だが、真壁の目は画面から離れない。

 

「お昼、食べましたか」

 

 真壁の指が止まった。

 

 その間だけで、答えは分かった。

 

「朝は食べた」

 

「今、午後3時です」

 

「そうか」

 

 真壁は画面の隅に出ている時刻を見た。確認しただけで、驚いた様子はない。そのまま設計図へ視線を戻しかけたので、澪は机の端に積まれていた資料を持ち上げた。

 

「ここを空けます」

 

「その資料は推進機の比較用だ」

 

「捨てません。重ねます。ご飯を置く面積だけください」

 

 異世界では、第1期住宅の建設が始まっている。つい先日まで何もなかった新町に、今度は人が暮らすための家が増えようとしていた。

 

 その一方で、ゲンダイ側の六畳間では、人が一人食事をする面積が図面に奪われている。

 

 澪が資料を揃えている間にも、真壁は船体断面の一部を拡大した。

 

「以前の貨物飛行船とは、形が違うんですね」

 

「あれは要求性能を考えるための資料だ。造る物は別になる」

 

 真壁は画面の船体を回転させた。長い船体の内部がいくつもの区画に分かれ、上部に大きな浮力嚢、下部に貨物区画が並んでいる。

 

「基本の浮力はヘリウムで得る。重力制御へ全てを依存させれば、停止時に船と荷がまとめて落ちる」

 

「重力制御は、積める量を増やす方に使うんですか」

 

「それだけではない。離着陸時の荷重変化と、強風時の姿勢保持にも使える。ただし、重力制御、風制御、推進機構は互いに切り離す」

 

 真壁が指で触れるたび、船体の左右と底部に色の違う線が増えた。

 

「一つが止まっても、残りで退避する。結界も船体保護と貨物保護を分ける。貨物区画で事故が起きた時、船全体へ広げない」

 

「今、増やしましたよね」

 

「分けた方がよい」

 

「昼食を確認している間に、設計を進めないでください」

 

「設計上の欠落に気づいた」

 

 澪は買ってきたおにぎりと味噌汁を、ようやく空いた机へ置いた。

 

 真壁は椅子を半歩だけずらした。食べるためではなく、別の資料を取るために見えたので、澪は味噌汁の蓋を先に開けて手渡す。

 

「冷める前にお願いします」

 

「承知した」

 

 真壁は素直に受け取った。ただし、片手はまだマウスに載っている。

 

 飛行船には、荷物だけでなく人も乗る。真壁が食事を忘れることと、船の安全設計は別の問題である。それでも、操縦者が真壁と同じように動けることを前提にしていないかは、後で確認した方がよさそうだった。

 

 澪はスマホの予定表を開き、飛行船の確認事項の下へ一行加えた。

 

 操縦者が疲れている時の誤操作対策。

 

 書き終えると、明日から冬休みだという事実が、ようやく現実味を持った。

 

 休みになったからといって、予定が減るわけではなかった。

 

 

 

 店内には、揚げ物の匂いと、いくつもの卓から重なる笑い声が満ちていた。

 

 澪は膝の上に紙袋を置き、向かいに座る佐伯たちの話を聞いていた。

 

「冬休み中、一回は集まった方がいいよね。発表の修正、年明け最初のゼミでって言われても無理だし」

 

「オンラインでいいんじゃない? 三浦、実家帰るんでしょ」

 

「帰るけど、年末年始ずっとじゃないよ。神谷こそ予定あるって言ってたじゃん」

 

「クリスマスは予定がある。今ここにいる」

 

「今日がその予定なんだ」

 

 佐伯が笑い、神谷が箸袋を丸めて投げる真似をした。

 

 研究発表の修正箇所、冬休み中のアルバイト、実家へ帰る日。話題は次々に移っていく。異世界の冬支度も、地下ドックも、飛行船の浮力も出てこない。

 

 少し前までなら、澪は話の切れ目を探しているうちに、次の話題へ置いていかれていた。今も得意になったとは思わない。それでも、三浦の帰省日を聞き、共有資料を更新できる日を確かめ、自分の予定も伝えられる。

 

 4人で作った発表が、会話へ入るための細い橋になっていた。

 

「そうだ。交換しようよ」

 

 佐伯が椅子の横から包みを取り出した。

 

 クリスマスが近いから、一人一つをくじで回すのではなく、3人へ小さな物を一つずつ用意する。そう決めたのは前の週だった。

 

 澪も膝の紙袋を持ち上げた。

 

 3つの細長い箱には、それぞれ青いジルコンのネックレスが入っている。

 

 地下ドックを掘った際に出た鉱石のうち、宝飾に使える物を分け、不純物を除き、色と透明度の良い部分だけを残した。そう書けば短い。実際には、青の濃さを揃えすぎると作り物めいて見え、違いを残しすぎると3人のうち誰かだけ質が低く見えるため、数mmの石を何度も並べ直した。

 

 石座と金具は、修さんの教室で覚えたとおり、自分の手で作った。佐伯には少し丸みのある形、神谷には直線を入れた形、三浦には石の縁が柔らかく見える形。3石は同じ大きさでも、全く同じ品にはしていない。

 

「え、ちょっと待って」

 

 箱を開けた佐伯が、ネックレスと澪の顔を見比べた。

 

「これ、本当に篠原さんが作ったの?」

 

「はい。石を選ぶところから」

 

「石を選ぶって、店でルースを買ったってこと?」

 

「いえ、元の石から、使えるところを分けて……」

 

 そこから先を説明すれば、地下ドックの掘削物と収納内工程に行き着いてしまう。

 

 澪は箱の中へ視線を戻した。

 

「材料を扱う機会があったので、練習も兼ねて作りました」

 

「練習で渡す物じゃないよ、これ」

 

 三浦が指先で石を持ち上げ、店の灯りへ透かした。小さな青が揺れ、白いテーブルへ薄い影を落とす。

 

「3人とも、少し形が違う」

 

「好みが分からなかったので、普段着ている服に合わせました。もし金具が合わなかったら、直します」

 

「そこまで保証付きなの?」

 

 神谷の声に、3人が笑った。

 

 澪も遅れて笑いながら、自分の指先を見た。

 

 異世界では、何万tもの土や鉱石を収納へ入れ、建材へ分けてきた。その自分が今は、友人の首元で数mmの石が傾かないかを気にしている。

 

 量が違いすぎて、同じ仕事には思えない。

 

 けれど、身に着ける人の顔を思い浮かべながら作ったのは、こちらの3つだった。

 

「篠原さん、これ、お返しの金額が合わないんだけど」

 

 佐伯が自分の用意した袋を抱えた。

 

「材料は手元にあった物ですから」

 

「そういう問題じゃない気がする」

 

「では、研究発表の修正を手伝ってください」

 

「急に現実的」

 

 今度は、澪も同じところで笑えた。

 

 

 

 彫金教室の忘年会は、作業机を壁際へ寄せた工房で開かれた。

 

 火を落とした炉の匂いに、買ってきた料理と珈琲の香りが混じっている。工具棚には布が掛けられていたが、長い柄の槌やヤットコの先が少しだけ覗いていた。

 

「澪ちゃん、こっち」

 

 妙子が空いている椅子を引いた。

 

 以前、指輪の高さや着け心地を見てもらった時と同じ、柔らかな声だった。その隣には、肩までの髪を耳へ掛けた少女が座っている。

 

「娘の理央。17歳」

 

「理央です」

 

 少女は小さく頭を下げた。澪も名乗ると、理央はもう一度だけ会釈した。

 

 大勢を避けているようには見えなかった。修さんに皿を渡し、妙子に飲み物を尋ねられれば普通に答える。ただ、教室の参加者たちの会話へ、自分から言葉を差し込むことはなかった。

 

 視線だけが、よく動いている。

 

 誰がどの工具の話をしているか。机の端に置かれた未完成の指輪が、どちらから光を受けているか。理央は会話より先に、物を見ていた。

 

 澪が上着を脱いだ時、理央の目が胸元で止まった。

 

「それ、ジルコンですか」

 

 澪は自分のネックレスへ触れた。ゼミの3人へ渡した物と同じ材料で作った、小粒の青い石だった。

 

「はい。よく分かりましたね」

 

「父の本で見ました。青いのはありますけど、これ、色が少し違うから」

 

 理央は手を伸ばさず、少し身体を寄せて石の横を見た。

 

「カットも、自分でしたんですか」

 

「はい」

 

「石も?」

 

 声が一段だけ上がった。

 

「元の石から使える部分を分けて、磨きました。金具は、こちらで教えていただいた方法です」

 

「見てもいいですか」

 

「もちろんです」

 

 澪は留め金を外し、掌へ載せて差し出した。

 

 理央は両手で受け取ると、正面より先に石座の裏を見た。光を入れる穴、爪の位置、鎖を通す金具。指先で触れず、角度を変えながら確かめている。

 

「裏まで作ってある」

 

「裏の角が肌に当たると痛いので」

 

「こういうの、大学で作るんですか」

 

「大学では、作りません。大学は経済や経営の方です」

 

「じゃあ、2年生?」

 

「はい」

 

「大学って、知らない人と話さないと駄目ですか」

 

 問い方は平らだったが、理央の親指が鎖の輪を同じ場所でなぞっていた。

 

「授業によります。私は、ゼミで4人の班になって……最初は、ほとんど話せませんでした」

 

「今も?」

 

「今は、前よりは。先日、その3人と忘年会をしました。これと似たネックレスも渡しました」

 

 澪は自分で話しながら、大学へ入った頃の教室を思い出した。隣の席の人へ声を掛けるだけで、話す順番を頭の中で作り、その順番を考えている間に授業が終わったこともある。

 

「発表も、4人で作りました。一人なら考えなくてもよかったことが増えましたけど、一人では出せなかった物にもなりました」

 

 理央はネックレスを澪へ返し、少し間を置いた。

 

「私、高校、ほとんど行ってないです」

 

 妙子たちの笑い声が、少し離れたところで上がった。

 

 澪は理由を考えかけた。病気なのか、人間関係なのか、授業なのか。それを聞いてどうするのかまで考えると、口に出せる言葉は一つしか残らなかった。

 

「そうなんですね」

 

 理央が顔を上げた。

 

「それだけですか」

 

「ほかに何か言った方がいいですか」

 

 澪は本気で困って尋ねた。

 

 学校へ戻った方がいいとは言えない。行かなくていいとも、事情を知らない自分には決められない。大丈夫という言葉も、何を大丈夫とするのか分からなかった。

 

 理央は数秒、澪を見た。それから、口元を少し曲げた。

 

「別に。ないです」

 

「よかったです」

 

「それも、ちょっと変」

 

 今度は、はっきり笑った。

 

 会話が途切れても、先ほどまでのような重さは残らなかった。

 

 理央にせがまれ、澪はスマホの中に残っている作品の写真を見せた。初めて作ったネックレス、ガラスの飾り、銀線を巻きすぎて重くなった試作品。出来のよい物だけを選ぶつもりだったが、失敗作の写真の方を理央は長く見た。

 

「これは、重そう」

 

「重かったです。使う材料を減らすのが怖くて、増やしすぎました」

 

「こっちは?」

 

「教会の古い窓枠と、子どもたちが磨いた木片で作った物です」

 

 画面には、木の壁掛けが映っていた。

 

 古い材の傷を消し切らず、浅く彫った船と木をつないでいる。枝の周りには唐草のような線が伸び、船はどこかへ向かう形にも、どこかから戻ってきた形にも見えた。

 

 理央の指が、画面の上で止まった。

 

「……これ、うちにあります」

 

「え?」

 

「玄関に。たぶん、同じです」

 

「同じ物は作っていません」

 

 澪の返事が早くなった。一点しか作っていない。似た意匠の品も出していなかった。

 

「お母さん」

 

 理央に呼ばれ、妙子が皿を持ったまま振り向いた。

 

「どうしたの?」

 

「玄関の、木の。これじゃない?」

 

 妙子はスマホを受け取ると、画面へ顔を近づけた。

 

「あら、本当。これよ」

 

「妙子さんが買われたんですか」

 

「ええ。通販で見つけたの。玄関の壁に合うと思って。まさか澪ちゃんが作った物だったなんて」

 

 妙子が修さんを呼び、画面を見せた。

 

「世間は狭いな」

 

 修さんは写真を見た後、澪の指先へ目を移した。

 

「この頃から、裏の取付金具まで自分で?」

 

「はい。壁から落ちたら危ないので」

 

「澪ちゃんらしいわねえ」

 

 皆が笑った。

 

 澪も笑いながら、画面の木彫を見た。

 

 作った時、古い燭台の鑑定には、微弱加護が一つ出ていた。

 

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 帰路:1

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 帰る場所を思い出す気持ちを、僅かに助ける。

 

 船は行き来の形。木は留まる形。

 

 作品は売れて、自分の手元を離れた。それきり、誰の家に掛かったのか考えたこともなかった。

 

 それが、修さんの家の玄関にある。

 

 奇妙な偶然だった。今は、それ以外の意味を持たせる理由はなかった。

 

 料理が減り、珈琲が2度目に淹れられる頃、話題は互いの近況へ移った。

 

「真壁さんは、今日は来られなかったのか」

 

 修さんに尋ねられ、澪は六畳間の机を思い出した。

 

「今、船の設計にのめり込んでいます。画面と資料を広げて、食事の時間にも気づかないくらいで」

 

「ああ、分かるな」

 

「あなたは分かっちゃ駄目でしょう」

 

 妙子がすぐに返した。

 

「男の人って、そういうところあるわよねえ。うちの人も、細工を始めると夜中まで止まらないの」

 

「区切りの悪いところで止める方が難しい」

 

「そう言って、夕飯を3回温めたことがあるでしょう」

 

 修さんは珈琲へ手を伸ばし、答えなかった。

 

 妙子は呆れたように笑った後、懐かしい物を見る目で夫を見た。

 

「亡くなった兄も、何かにのめり込むと、とことんだったわ」

 

「お兄さんがいらしたんですか」

 

「ええ。ずいぶん前に亡くなったけどね」

 

 妙子は紙コップを両手で包んだ。

 

「亡くなる何日か前にも、父と私が喧嘩してたのよ。成人式に着る着物のことで」

 

「着物ですか」

 

「そう。父は父で、この色の方がいいって譲らないし、私は私で、自分が選んだ色を着るって聞かなくて」

 

 妙子が苦笑する。

 

「そこへ兄が帰ってきたものだから、父も私も兄に聞いたの。どっちがいいと思うって」

 

 理央が母親を見る。

 

「それ、おじさん困るでしょ」

 

「困ってたわよ。着物を見て、父の顔を見て、私の顔を見て。それで結局、『妙子が着るんだから、妙子が好きな方でいいだろう』って」

 

「お母さんの味方したんだ」

 

「そうしたら今度は父が兄に、『お前まで甘やかすな』って言い始めてね」

 

 妙子が笑う。

 

「最後には母まで出てきて、『着物一枚で何人喧嘩するの』って」

 

 修さんも笑った。

 

「賑やかな家だったんだな」

 

「そうね。あの時は、数日後に兄がいなくなるなんて、誰も考えてなかったもの」

 

 笑みはそのままだった。

 

 けれど、声だけが少し静かになった。

 

「会社員だったの。2000年のお正月に会社で倒れて、そのまま」

 

 妙子は紙コップへ目を落とした。

 

「後から聞いたら、年越しの2000年問題で、ずっと会社に泊まり込んでいたんですって。家族には詳しいことを何も言わなかったから、亡くなってから知ったのよ」

 

 澪の手の中で、スマホが急に重くなった。

 

 2000年。

 

 正月。

 

 会社員。泊まり込み。

 

 そして、妹。

 

 離れていた言葉が、一つの線へ並んでいく。

 

 ヴァルトは、前世でブラック企業に勤めていた。2000年の正月に泊まり込みで働き、倒れ、そのまま亡くなった。父母と妹を残して。

 

 それだけではない。

 

 亡くなる数日前。

 

 成人式を控えた妹が、着物の色を巡って父親と喧嘩していた。

 

 妙子が以前話してくれた成人式の記憶まで、同じ場所へ重なった。

 

 偶然なら、どこまで重なるものなのだろう。

 

 名前を聞けば、確かめられるかもしれない。

 

 澪は口を開きかけ、閉じた。

 

 亡くなった人の名前を、知り合ったばかりの娘の前で、急に尋ねる理由を説明できない。何より、重なったからといって同じ人だとは限らなかった。

 

「急だったんですね」

 

「ええ。でも、もう26年だから」

 

 妙子はそう言って、理央の空いた皿へ料理を取り分けた。

 

 26年。

 

 その時間を、妙子は夫と暮らし、娘を育ててきた。

 

 ヴァルトは異世界で魔術師となり、妹の知らない人生を生きてきた。

 

 澪のスマホには、先ほどの木彫がまだ映っている。

 

 船と、根を張った木。

 

 帰路。

 

「写真を撮ろう」

 

 修さんの声で、止まっていた空気が動いた。

 

 作業机の前へ椅子を寄せ、教室の参加者たちが並ぶ。澪も呼ばれて、妙子の近くへ入った。

 

 理央は列の端へ立とうとしたが、妙子が腕を伸ばした。

 

「理央、こっち」

 

「ここでいい」

 

「家族なんだから、隣」

 

 理央は少しだけ顔をしかめ、それでも妙子と修さんの間へ入った。

 

 撮影役がタイマーを押し、慌てて列へ戻る。

 

 澪は笑顔を作りながら、隣に並ぶ3人を意識していた。

 

 この写真を、ヴァルトへ見せるべきなのか。

 

 シャッターの音が鳴った時にも、答えは出なかった。

 

 

 

 

 

 数日後。

 

 採石場の秘密基地では、飛行船に使う魔道具の検討が続いていた。

 

 真壁が設計した船体へ、重力制御や風制御、結界をどう組み込むか。ヴァルトは机の上に広げられた図面を確認し、いくつかの術式について真壁へ修正案を渡していた。

 

「では、この部分は一度組み直してみよう」

 

「お願いします。こちらでも術式の干渉を確認しておきます」

 

 真壁が図面を持って奥の作業区画へ移る。

 

 澪は残った資料を揃えながら、ヴァルトへ声を掛けた。

 

「ヴァルトさん」

 

「はい」

 

「大学、冬休みに入りました」

 

「そうでしたか。それなら、しばらく講義はありませんね」

 

「課題はありますけどね」

 

 澪は苦笑した。

 

「ゼミの人たちと忘年会もしました。クリスマスのプレゼントを交換して」

 

「それはよいですね。以前より、大学のお話に人の名が増えました」

 

「そうですね」

 

 澪はそこで一度、手を止めた。

 

 スマホはポケットに入っている。

 

 彫金教室の忘年会から数日経っていたが、妙子の兄についてヴァルトへどう話すかは、まだ決め切れていなかった。

 

 2000年の正月。

 

 会社員。

 

 2000年問題への対応で泊まり込み、会社で倒れて亡くなった兄。

 

 成人式の数日前、着物の色を巡って父親と喧嘩していた妹。

 

 条件は重なっている。

 

 けれど、同じ人物だと決めつけることはできなかった。

 

「もう一つ、修さんの彫金教室でも忘年会があったんです」

 

「修さんというのは、澪さんが細工を教わっている方でしたね」

 

「はい。最後に集合写真を撮ったんです」

 

 これなら見せられる。

 

 澪はスマホを取り出して写真を開いた。

 

「こんな感じでした」

 

「ほう」

 

 ヴァルトは何気なく画面へ目を向けた。

 

 教室の参加者たちが二列に並んでいる。

 

 修。

 

 妙子。

 

 理央。

 

 そして澪。

 

 ヴァルトの視線が、ある一人のところで止まった。

 

「……母さん」

 

 澪は動かなかった。

 

 ヴァルトが、わずかに画面へ顔を近づける。

 

 目元。

 

 頬。

 

 笑った時の口元。

 

 26年前の記憶にいる妹ではない。

 

 むしろ、記憶の中の母親に近い。

 

「……いや」

 

 ヴァルトの眉が僅かに寄った。

 

「妙子?」

 

 澪の胸が強く鳴った。

 

「ヴァルトさん」

 

 ヴァルトは聞いていなかった。

 

 写真の女性から目を離さない。

 

「妙子です。これは……」

 

 今度は、はっきり言った。

 

 澪の中に残っていた疑いが、その一言で消えた。

 

「この写真は数日前に撮ったものです」

 

 ヴァルトが、ようやく澪を見る。

 

「なぜ、澪さんが妙子と一緒に?」

 

「順番に説明します」

 

 澪は写真へ指を置いた。

 

「この男性が修さんです。私に彫金を教えてくださっている方です」

 

 ヴァルトの視線が妙子の隣へ移る。

 

「その方と妙子が?」

 

「ご夫婦です」

 

 しばらく返事がなかった。

 

「……結婚したのですね」

 

「はい」

 

 ヴァルトの目が妙子へ戻る。

 

 26年前。

 

 成人式を前にして、父親と着物の色で言い争っていた妹。

 

 自分が、

 

『妙子が着るんだから、妙子が好きな方でいいだろう』

 

 そう言った妹が、今は知らない男の隣で穏やかに笑っている。

 

「妙子は……生きているのですね」

 

「はい。お元気です」

 

 ヴァルトは目を閉じなかった。

 

 写真の中にある26年を、一つでも取りこぼしたくないようだった。

 

「それから」

 

 澪は妙子の反対側に立つ少女を指した。

 

「この子が理央ちゃんです。17歳です」

 

「理央……」

 

「修さんと妙子さんの娘さんです」

 

 ヴァルトが理央を見る。

 

 そして、もう一度妙子を見る。

 

「……娘」

 

 意味が追いつくまで、少し時間がかかった。

 

「では」

 

 ヴァルトの声が止まる。

 

 写真の少女を見る。

 

「私に、姪がいるのですか」

 

「はい」

 

 ヴァルトは何も言わなかった。

 

 澪も急いで次の話をしなかった。

 

 秘密基地の奥から、真壁が何かを動かす音がかすかに聞こえる。

 

 いつもの作業場所だった。

 

 いつもの仕事の途中だった。

 

 それなのにヴァルトにとっては今、26年前に途切れた家族の時間だけが、突然目の前へ戻ってきていた。

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