12月も残りわずかになった。
採石場の秘密基地では、季節より先に飛行船の方が進んでいた。
大型画面には細長い船体の断面が表示され、ヘリウムを収める気嚢区画、その下を貫く骨格、貨物区画、推進機構の配置が何度も書き直されている。重力制御と風制御、結界はそれぞれ別系統として引かれ、どれか一つが止まっても他まで巻き込まないよう、接続箇所にも手が入っていた。
「真壁殿。ここは重力制御と姿勢制御を直接つながない方がよいでしょう」
ヴァルトが画面を指した。
「片方に異常が出た時、切り離せる方が扱いやすいです」
「私もそう考えていた」
真壁は即座に線を消し、間へ別の制御部を置いた。
「ここで遮断する。風制御も同様にしよう」
「その方がよいですね」
澪は少し離れた机で、変更された箇所を手元の資料へ移していた。
この数日、ずっとこの調子だった。
真壁は飛行船本体の設計へ入り、ヴァルトは魔術系統の相談役として捕まり、澪は変更点がどこへ波及したのかを追っている。
設計図は一枚なのに、直した場所から別の問題が出て、そちらを直すとまた別の線が増える。
最近ようやく、船というものが一枚の図面ではなく、何十もの仕組みが折り重なったものなのだと実感していた。
澪はペンを置き、腕を伸ばした。
「私、年越しは実家へ帰りますね」
口にしてから、指が止まった。
実家。
ほんの数日前までなら、何も考えなかった言葉だった。
澪は横目でヴァルトを見る。
ヴァルトは画面に表示された術式を見ていた。
妙子の写真を見せた時の顔が、澪の中にはまだ残っている。
26年前に別れた妹。
今では夫がいて、17歳の娘までいる。
だがヴァルトは、ゲンダイへ行きたいとは言わなかった。
妙子に会いたいとも言わなかった。
澪も聞かなかった。
「大学もお休みなのでしたね」
ヴァルトが画面から顔を上げた。
「はい。課題はありますけど、年末年始くらいは帰ろうかなって」
「それがよいでしょう。ご家族とゆっくりしてきてください」
「ありがとうございます」
それだけだった。
澪は、少しだけ肩の力を抜いた。
味噌や醤油を懐かしがることと、26年後の東京へ帰ることは同じではない。ヴァルトが今暮らしている場所も、仕事をしている場所も、教室で待っている子どもたちがいる場所も、こちらなのだ。
「真壁さんは?」
「こちらにいる」
間髪を入れず返ってきた。
「やっぱり飛行船ですか」
「うむ。船体側を固めたい。気嚢と骨格が決まれば製造へ移れる」
「年越しの日もですか?」
真壁が澪を見た。
「食事には参加する」
「そういう意味ではなくてですね」
「年越しの食事をしながら設計してはいけない、という決まりがあるのかね」
「ないですけど」
「ならば問題ない」
問題がなくなってしまった。
澪はヴァルトを見る。
「ヴァルトさんは?」
「私もこちらにおります」
「やっぱり」
「真壁殿を一人にしますと、年を越した時には別の試験装置まで増えていそうですので」
「ヴァルト君」
「はい」
「それは私を止めるためかね」
「違います」
ヴァルトは平然と答えた。
「増えた物を把握するためです」
真壁が何も言わなくなった。
澪は口元を押さえた。
止める気はないらしい。
むしろ一緒に増やす側だった。
「リュシアさんも空運会社のことで忙しいでしょうし……」
「そうでしょうね」
「じゃあ、私だけゲンダイですね」
「数日でしょう」
ヴァルトはそう言って、再び画面へ向いた。
「戻られた時に説明出来るよう、変更箇所はこちらでも残しておきます」
「お願いします」
澪も資料を引き寄せた。
帰ることを決めても、目の前の線はまだ三本ほど増えている。
年末というものは、もう少し仕事が減っていくものだった気がする。
少なくともゲンダイでは。
その日の午後、リュシア商会の奥では、年末らしくない種類の荷が机を占領していた。
商品ではない。
人の名前だった。
「こっちは木工。こっちは金工。こっちは大きな布を扱える職人。縄と索具を扱える人間は別にしてあるよ」
リュシアが紙束を順にずらす。
真壁は向かいで一枚ずつ目を通し、澪とヴァルトは横から覗き込んでいた。
セルマも同じ卓にいる。
工房からそのまま来たのか、袖口には細かな白い粉が残り、髪からは乾燥させた薬草の匂いがした。
トトはリュシアの横で、荷の受領控えと自分の帳面を広げている。
「前より増えましたね」
澪が紙の厚みを見る。
「侯爵家へ話を通してからは、こっちも条件を出せるようになったからね」
リュシアは別の束を持ち上げた。
「ただ、腕のある人ほど本人だけってわけにはいかないよ。家族がいる。弟子がいる。家はどうする、子どもはどこで学ぶ、病気になったらどうする、妻や夫にも仕事はあるのかって、そっちを聞かれる」
「当然でしょうね」
「だから町を先に造ってたのが効いてるのさ。まだ全部出来ちゃいないけど、第1期の家は動き始めてる。学校も医療も、侯爵家と話が進んでるって言える」
リュシアは紙を一枚抜いた。
「それに、親方格も何人か話を聞いてくれてる。自分がずっと船を造るんじゃなくても、若いのを教えるなら興味があるって人もいるよ」
真壁の指が止まった。
「結構」
「その顔、何か始める顔だね」
「人が来るなら教育が要る」
真壁の前へ新しい紙が出た。
「ほらね」
リュシアが澪を見た。
「私、人を探してるって報告しただけなんだけど」
「私に言われても」
澪が答えている間にも、真壁の紙には項目が増えていく。
最初は全員共通。
危険な場所へ入らない。
退避の合図を覚える。
誰の指示を聞くか。
荷の見分け方。
積み下ろし。
火災や事故の時の動き。
その横から職種別に枝を伸ばし、船体、気嚢、推進、魔道具、荷役、航路、商務へ分かれていく。
「真壁さん」
「何かね」
「まだ雇ってませんよね」
「だから今作る」
リュシアも身を乗り出した。
「船もまだないよ」
「船が出来てから人を育て始めれば、船を待たせることになる」
「今、人を探してるんだけどね」
「ならば並行出来る」
「話が一つ先へ行くんじゃなくて、三つくらい先へ行くね、あなたは」
真壁は聞いていなかった。
模擬設備。
部分実機。
実機。
書き込みはさらに続いている。
「リュシア姉、終わったぞ」
トトが帳面を差し出した。
「こっちが受け取った分。こっちが届けた分。全部、相手の印ももらった」
リュシアが目を通す。
「収納へ入れた時の数は?」
「ここ」
「出した時は?」
「こっち」
「最初と最後を一枚で比べられるようにしてないね」
「あ」
「私が見つけたんじゃ意味がないよ。自分で直しな」
「分かった」
トトは素直に帳面を引き戻した。
数字を二つ書き足してから、今度は澪の方へ顔を向ける。
「澪姉ちゃん」
「はい?」
「オレ、商人になったぞ」
声が明らかに一段大きくなった。
「司祭様のところで?」
「うん。ちゃんとジョブ変わった」
トトは胸を張る。
「もう荷を持ってくだけじゃないんだ。誰から受け取ったか見て、数えて、収納して、届けて、渡した相手の印ももらって、戻って報告する」
「それで、その最後が今一つ抜けてたんだね」
リュシアが帳面を指す。
「今直した!」
「なら次は最初から書きな」
「分かってるって」
口ではそう返しながら、トトは嬉しそうだった。
「これで飛行船に近づいたよな?」
「近づいたんじゃないですか」
澪が答える前に、真壁が顔を上げた。
「トト君」
「何?」
「荷役と商務、双方の訓練へ入ってもらう」
トトの目が丸くなった。
「両方?」
「荷を積む者が、何を誰から預かり、どこへ渡す荷か知らんでは困る。逆も同じだ」
「じゃあ、乗れる?」
「そのための訓練だ」
「よし!」
「まだ何も終わっちゃいないよ」
リュシアがすぐ横から刺す。
「今日の帳面も一か所抜けてたろ」
「次は忘れない!」
「その次もだよ」
「だから分かってるって!」
トトは帳面を抱えたまま、それでも真壁の訓練表を覗き込んでいる。
以前なら、飛行船へ乗りたいと言っているだけだった。
今は、そこへ行くための仕事を一つずつ覚え始めている。
「人を育てる話なら」
セルマが水を一口飲んだ。
「私も報告があるわ」
澪はそちらを向いた。
「ベラクルスの件ですか?」
「そう」
セルマは疲れたように額へ手を当てた。
「西方のベラクルスまで行って、帰ってきたわ」
「どうでした?」
「8人連れて帰った」
「8人?」
澪が聞き返す。
「全員、親を失った子どもよ」
セルマはそこで声を落とした。
「弟子になれそうな子を見るつもりではいたけど、実際に会ってみたら、8人とも置いて帰る気にはならなかったの。だから連れてきた」
ヴァルトがセルマを見る。
「8人全員ですか」
「そうよ」
「一度に?」
「一度に」
「大変ですね」
「大変よ」
セルマは即答した。
「今日は食事をさせて、身体を洗わせて、服を替えさせて、寝床を決めるだけで半日よ。細い子もいるし、古い傷が残ってる子もいる。でも急いで薬を使わなきゃいけない子はいない。それだけは助かったわ」
「工房へは?」
澪が聞く。
「まだ勝手に入れない。火も薬品も硝子もあるのよ。最初に教えるのは錬金術じゃなくて、入っていいところと駄目なところ。知らない瓶を開けない。知らない草を口に入れない。手を洗う。そこから」
「8人とも弟子にするのかい?」
リュシアが尋ねる。
「見るわよ」
セルマは迷わなかった。
「錬金術師になるかは本人たちが育ってから決めればいい。でも私のところに来たんだから、読み書きも、薬草も、手の使い方も教える。8人ともね」
澪の頭に、ふと建物の数字が浮かんだ。
「セルマさん」
「何?」
「居室、10室でしたよね」
「そうよ」
「サラさんとニナさんがいて、今回8人」
セルマが黙った。
リュシアも数えた。
「10だね」
「10ですね」
ヴァルトも答えた。
全員の視線が真壁へ向いた。
真壁は訓練表を書いていた。
「真壁さん」
「何かね、澪君」
「10室、全部使います」
「結構」
セルマの目が細くなった。
「何であなたが満足そうなのよ」
「空室が無駄にならずに済む」
「最初から10室造ったのはあなたでしょう」
「必要になると考えた」
「私は多いって言ったわよね」
「聞いた」
「今、全部埋まったの」
「結構ではないか」
「そこが腹立つのよ」
セルマは机へ手を置きかけ、自分の袖に薬草の粉が残っていることへ気づいて引っ込めた。
リュシアが笑う。
「弟子を育てる工房が、本当に10人になったね」
「まだ全員、正式な弟子だとは言ってないわ」
「でも追い出す気もないんだろ?」
「ないわよ」
「じゃあ似たようなものじゃないかい」
「その辺は本人たちと決めるわ」
セルマはそう言ってから、ヴァルトへ視線を向けた。
「そういえば、あなたのところはどうなの?」
「私ですか」
「子どもたちよ」
「ああ」
ヴァルトは少し姿勢を直した。
「授業は順調です。王都から来た20人と、リオさん、メルさんで22人。読み書きと計算は互いに教え合えるようになってきました。魔力制御も、急がせなければ――」
「22人か」
セルマが言う。
「多いわね」
「ええ。ただ、正式に弟子として教える者については、そろそろ適性を見て――」
真壁の鉛筆が止まった。
「ヴァルト君」
「はい」
「君はまだ、あの22人を弟子候補だと思っているのかね」
ヴァルトが真壁を見る。
「そのつもりですが」
「そうか」
真壁は鉛筆を置いた。
「では聞くが、君のところを出ていくつもりの者は何人いる」
「出ていく?」
「弟子にならないから、もう教室へ来ないと言いそうな者だ」
ヴァルトの眉が寄る。
「それは……」
言葉が止まった。
澪は何となく分かってしまった。
真壁が何に気づいたのか。
ヴァルトはずっと、22人を教えている。
読み書きも計算も、魔術も。
後から来たリオとメルへも、後から来たから下になるわけではないと自分で言った。
毎日同じ教室へ来て、授業が終われば一緒に食事へ行く。
その22人の中から、自分だけ明日から来ませんと言う子がいるだろうか。
「……いませんね」
ヴァルトが答えた。
「ならば、彼らは自分たちを何だと思っている」
「生徒でしょう」
真壁が首を傾ける。
「誰の」
「私のです」
「その先生の弟子になるために、皆で町へ来たのではなかったかね」
ヴァルトが黙った。
リュシアが口元を押さえている。
セルマは遠慮なく言った。
「まさか、あなた本人だけまだ候補だと思ってたの?」
「専門的な意味での弟子と、基礎を学ぶ生徒は別だと考えていました」
「それ、22人に言ったの?」
「……言っていません」
「じゃあ向こうは知らないじゃない」
ヴァルトが眉間へ指を当てた。
澪も笑いを堪えながら言う。
「たぶんですけど、全員もうヴァルトさんの弟子だと思っていますよ」
「澪さんまで」
「だって、先生って呼ばれてますよね」
「呼ばれています」
「毎日教えてますよね」
「教えています」
「出ていく人はいないんですよね」
「……いません」
セルマが頷いた。
「22人ね」
「なぜセルマさんまで決定するのですか」
「私は今日、8人連れて帰ってきたばかりだからよ。人数の話には敏感なの」
「それとこれは別でしょう」
「でも私は自分の10人を候補だからって外へ出す気はないわ」
ヴァルトが止まった。
真壁が短く言う。
「ヴァルト君」
「はい」
「22人だ」
「何度も数えなくても分かっています」
「人数の話ではない」
「分かっています」
返事だけが少し早かった。
トトが不思議そうにヴァルトを見る。
「先生、22人も弟子いるのか」
「トト君まで先生と呼ばないでください。私は君を教えていません」
「でも先生なんだろ?」
「そうですが」
「じゃあ先生じゃん」
ヴァルトが黙った。
リュシアがとうとう声を出して笑った。
夜になると、地下1階のフードコートはさらに賑やかになった。
年越しを前に酒や料理を持ち帰る客が増え、厨房では焼いた肉の匂いと煮込みの湯気が絶えない。壁際には長卓が何本も並べられ、店員が椅子の数を確かめながら往復している。
昼間の話を引きずったまま、澪たちは夕食の卓を囲んでいた。
ヴァルトだけは、時々遠い目をしている。
弟子22人。
どうやら数字そのものは前から分かっていたのに、意味だけが今日になって変わったらしい。
「まだ考えてるの?」
セルマが聞いた。
「考えていません」
「その返事は考えてる人の返事よ」
「セルマさんは、ご自分の10人を心配してください」
「してるわよ。だからここへ食べに来たの。今日はもう工房で火を使いたくないもの」
「それは賢明です」
「そこだけ急に先生みたいに言わないで」
そんな話をしているところへ、護衛を伴った少女が入ってきた。
周囲の何人かが気づいて道を空ける。
リュシアが先に立った。
「姫様」
澪たちも続く。
「姫様」
「うむ。座ってよいか?」
「もちろんです」
澪が椅子を引いた。
姫様は護衛を少し離れた場所へ残し、卓へ座る。
「父上から、皆へ話してよいと言われたので来た」
「何か決まったんですか?」
「クララのことだ」
澪の手が止まる。
姫様の表情は、知らせを持ってきた侯爵令嬢というより、嬉しいことを早く言いたくて仕方がない少女の方に近かった。
「養女の話が正式に決まった」
「本当ですか」
「ああ」
姫様は大きく頷く。
「王家にも教会にも話を通した。ローゼンベルク家のことも調べた。クララ本人にも父上と兄上が話をして、本人が受けると言った」
そこで口元が緩む。
「だから、クララは我が家の家族になる」
「おめでとうございます、姫様」
澪が言うと、リュシアも頭を下げた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます、姫様。クララさんも安心されたでしょう」
ヴァルトも続ける。
「うむ。ただし、クララは孤児院を出ないそうだ」
「侯爵邸へ移らないんですか?」
「今やっていることを途中でやめたくないと言っている。父上も、それで構わないと」
姫様は料理を一つ取った。
「養女にするのは、あいつを屋敷へ閉じ込めるためではないからな」
澪は、その言葉に胸の奥が緩むのを感じた。
誰かに守られるため、また別の場所へ移されるのではない。
家族が出来ても、クララは自分で選んだ場所にいられる。
「それと、卵も元気だぞ」
姫様が続けた。
「竜の卵ですか?」
「そうだ」
姫様の目が急に輝いた。
「触ってはいない」
「まだ何も聞いてません」
「先に言っておいた方がよいと思った」
少し離れたところに立っていた護衛が、ほんのわずかに目を伏せた。
澪には、その一言がこれまで何度必要になったのか分かる気がした。
「クララは今も毎日見ている。温度も魔力も、自分がどれくらい疲れたかも書いているそうだ。浄化も治療も前よりずっと上手くなったと司祭様が言っていた」
「魔力供給は続けているのですか?」
ヴァルトが尋ねる。
「ああ。一度に無理をしないようになった。決めたところで止めている」
「それならよいでしょう」
「ただな」
姫様が声を落とした。
「卵が動くようになった」
澪は目を瞬いた。
「転がるんですか?」
「転がらない」
即答された。
「中から押すのだ。クララが魔力を渡す頃になると、殻の内側から動く。置いた向きが少し変わっていたこともある」
セルマの目つきが変わった。
「熱は?」
「上がることはあるが、前みたいに荒くはないそうだ」
「クララがいない時は?」
「反応は弱い。近くへ来ると動くことがある」
「孵化が近い可能性はありますね」
ヴァルトが言う。
姫様の顔がさらに明るくなった。
「やはりそう思うか?」
「可能性です。まだ断定は出来ません」
「分かっている。勝手に割ったりはしない」
「それもまだ誰も言ってません」
澪が返すと、姫様が少し不満そうな顔をした。
「私はそこまでしないぞ」
護衛が視線を上げた。
「姫様」
「何だ」
「何も申し上げておりません」
「その顔は何か言っている」
リュシアが横を向いた。
セルマも水を飲むふりをしている。
ここで笑ってはいけないのだろうが、澪も耐えるのが難しかった。
「それでも」
姫様は気を取り直した。
「クララが近づくと反応するからといって、クララの竜だとは決めない。父上にも言われている。まだ卵だ」
「はい。それがいいと思います」
澪は頷いた。
クララが毎日世話をしてきたことと、竜を所有することは別だ。
孵ってから何が起きるかも分からない。
けれど、あの火山から運び出した時には不安定だった命が、今は内側から殻を押している。
それだけで十分だった。
姫様は報告を終えると、本来の目的を果たした顔で料理へ手を伸ばした。
「ところで、これは何だ?」
「姫様、それは辛いですよ」
「どれくらいだ?」
「姫様」
護衛の声が早かった。
「私はまだ食べるとは言っていない」
「存じております」
「ではなぜ止めた」
「次に何をなさるか分かりましたので」
澪はとうとう俯いた。
年越し前のフードコートには、笑い声が一つ増えた。
食事を終えて地下通路へ出る頃には、人の数もだいぶ減っていた。
店では最後の片付けが始まり、壁際には年越し用の長卓がきれいに並んでいる。
姫様は先に侯爵邸へ戻った。
トトもリュシアから帳面を返され、明日直して持ってくると言って店へ帰っている。
残ったのは澪、真壁、ヴァルト、リュシア、セルマだった。
「じゃあ、私は工房へ戻るわ」
セルマが外套を整える。
「8人が夜中に起きないとも限らないし」
「お疲れさまです」
「澪は実家へ帰るんでしょう?」
「はい」
「ちゃんと休んできなさいよ」
「セルマさんに言われると重いです」
「何でよ」
「今日8人連れて帰ってきた人なので」
「それと休むのは別よ」
セルマは当然のように返した。
リュシアも求人の紙を鞄へ収める。
「私も明日はまた人に会うよ。年が変わる前に話だけ聞いておきたいって職人がいるんだ」
「年末まで大変ですね」
「商売なんてそんなものさ」
澪は通路の先を見た。
自分は数日後、実家へ帰る。
こちらではリュシアが飛行船のための人を集め、トトが商人として仕事を覚える。
セルマの工房には10人。
ヴァルトには22人。
クララは侯爵家の家族になり、それでも孤児院へ残る。
ほんの1年前なら、誰一人として自分の周りにいなかった人たちだった。
ずいぶん増えたものだ。
その横で、真壁が足を止めた。
「ヴァルト君」
「はい」
「境界で超広範囲の魔物を一か所に集めて殲滅したいのだが」
ヴァルトは一度だけ瞬いた。
「ああ、東街道の。」
場所まで聞いていないのに通じた。
澪は思わず2人を見比べる。
真壁は当然のように続けた。
「飛行船の乗組員の教育兼レベルアップも兼ねたい。方法を考えておいてくれ」
「承知しました。誘導する範囲と、集積させる位置を考えておきます」
「待っておくれ」
リュシアが鞄を抱えたまま止まった。
「さっきまで、私が人を集めてる話だったよね」
「承知している」
真壁が頷く。
「人はリュシア君が集める」
「私は子どもを集めたんじゃないわよ」
セルマがすぐに言った。
「連れて帰ったの」
「結果として10人だ」
「結果だけ見るのやめてくれる?」
真壁は最後にヴァルトを見る。
ヴァルトが嫌そうに眉を寄せた。
「その流れで私を見るのは、やめていただけませんか」
「魔物はヴァルト君が集める」
「やはり私ですか」
「適材適所だ」
「私の適所だけ、ずいぶん物騒ですね」