押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第251話 年越し前の棚卸し

 

 12月も残りわずかになった。

 

 採石場の秘密基地では、季節より先に飛行船の方が進んでいた。

 

 大型画面には細長い船体の断面が表示され、ヘリウムを収める気嚢区画、その下を貫く骨格、貨物区画、推進機構の配置が何度も書き直されている。重力制御と風制御、結界はそれぞれ別系統として引かれ、どれか一つが止まっても他まで巻き込まないよう、接続箇所にも手が入っていた。

 

「真壁殿。ここは重力制御と姿勢制御を直接つながない方がよいでしょう」

 

 ヴァルトが画面を指した。

 

「片方に異常が出た時、切り離せる方が扱いやすいです」

 

「私もそう考えていた」

 

 真壁は即座に線を消し、間へ別の制御部を置いた。

 

「ここで遮断する。風制御も同様にしよう」

 

「その方がよいですね」

 

 澪は少し離れた机で、変更された箇所を手元の資料へ移していた。

 

 この数日、ずっとこの調子だった。

 

 真壁は飛行船本体の設計へ入り、ヴァルトは魔術系統の相談役として捕まり、澪は変更点がどこへ波及したのかを追っている。

 

 設計図は一枚なのに、直した場所から別の問題が出て、そちらを直すとまた別の線が増える。

 

 最近ようやく、船というものが一枚の図面ではなく、何十もの仕組みが折り重なったものなのだと実感していた。

 

 澪はペンを置き、腕を伸ばした。

 

「私、年越しは実家へ帰りますね」

 

 口にしてから、指が止まった。

 

 実家。

 

 ほんの数日前までなら、何も考えなかった言葉だった。

 

 澪は横目でヴァルトを見る。

 

 ヴァルトは画面に表示された術式を見ていた。

 

 妙子の写真を見せた時の顔が、澪の中にはまだ残っている。

 

 26年前に別れた妹。

 

 今では夫がいて、17歳の娘までいる。

 

 だがヴァルトは、ゲンダイへ行きたいとは言わなかった。

 

 妙子に会いたいとも言わなかった。

 

 澪も聞かなかった。

 

「大学もお休みなのでしたね」

 

 ヴァルトが画面から顔を上げた。

 

「はい。課題はありますけど、年末年始くらいは帰ろうかなって」

 

「それがよいでしょう。ご家族とゆっくりしてきてください」

 

「ありがとうございます」

 

 それだけだった。

 

 澪は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 味噌や醤油を懐かしがることと、26年後の東京へ帰ることは同じではない。ヴァルトが今暮らしている場所も、仕事をしている場所も、教室で待っている子どもたちがいる場所も、こちらなのだ。

 

「真壁さんは?」

 

「こちらにいる」

 

 間髪を入れず返ってきた。

 

「やっぱり飛行船ですか」

 

「うむ。船体側を固めたい。気嚢と骨格が決まれば製造へ移れる」

 

「年越しの日もですか?」

 

 真壁が澪を見た。

 

「食事には参加する」

 

「そういう意味ではなくてですね」

 

「年越しの食事をしながら設計してはいけない、という決まりがあるのかね」

 

「ないですけど」

 

「ならば問題ない」

 

 問題がなくなってしまった。

 

 澪はヴァルトを見る。

 

「ヴァルトさんは?」

 

「私もこちらにおります」

 

「やっぱり」

 

「真壁殿を一人にしますと、年を越した時には別の試験装置まで増えていそうですので」

 

「ヴァルト君」

 

「はい」

 

「それは私を止めるためかね」

 

「違います」

 

 ヴァルトは平然と答えた。

 

「増えた物を把握するためです」

 

 真壁が何も言わなくなった。

 

 澪は口元を押さえた。

 

 止める気はないらしい。

 

 むしろ一緒に増やす側だった。

 

「リュシアさんも空運会社のことで忙しいでしょうし……」

 

「そうでしょうね」

 

「じゃあ、私だけゲンダイですね」

 

「数日でしょう」

 

 ヴァルトはそう言って、再び画面へ向いた。

 

「戻られた時に説明出来るよう、変更箇所はこちらでも残しておきます」

 

「お願いします」

 

 澪も資料を引き寄せた。

 

 帰ることを決めても、目の前の線はまだ三本ほど増えている。

 

 年末というものは、もう少し仕事が減っていくものだった気がする。

 

 少なくともゲンダイでは。

 

 

 

 

 

 その日の午後、リュシア商会の奥では、年末らしくない種類の荷が机を占領していた。

 

 商品ではない。

 

 人の名前だった。

 

「こっちは木工。こっちは金工。こっちは大きな布を扱える職人。縄と索具を扱える人間は別にしてあるよ」

 

 リュシアが紙束を順にずらす。

 

 真壁は向かいで一枚ずつ目を通し、澪とヴァルトは横から覗き込んでいた。

 

 セルマも同じ卓にいる。

 

 工房からそのまま来たのか、袖口には細かな白い粉が残り、髪からは乾燥させた薬草の匂いがした。

 

 トトはリュシアの横で、荷の受領控えと自分の帳面を広げている。

 

「前より増えましたね」

 

 澪が紙の厚みを見る。

 

「侯爵家へ話を通してからは、こっちも条件を出せるようになったからね」

 

 リュシアは別の束を持ち上げた。

 

「ただ、腕のある人ほど本人だけってわけにはいかないよ。家族がいる。弟子がいる。家はどうする、子どもはどこで学ぶ、病気になったらどうする、妻や夫にも仕事はあるのかって、そっちを聞かれる」

 

「当然でしょうね」

 

「だから町を先に造ってたのが効いてるのさ。まだ全部出来ちゃいないけど、第1期の家は動き始めてる。学校も医療も、侯爵家と話が進んでるって言える」

 

 リュシアは紙を一枚抜いた。

 

「それに、親方格も何人か話を聞いてくれてる。自分がずっと船を造るんじゃなくても、若いのを教えるなら興味があるって人もいるよ」

 

 真壁の指が止まった。

 

「結構」

 

「その顔、何か始める顔だね」

 

「人が来るなら教育が要る」

 

 真壁の前へ新しい紙が出た。

 

「ほらね」

 

 リュシアが澪を見た。

 

「私、人を探してるって報告しただけなんだけど」

 

「私に言われても」

 

 澪が答えている間にも、真壁の紙には項目が増えていく。

 

 最初は全員共通。

 

 危険な場所へ入らない。

 

 退避の合図を覚える。

 

 誰の指示を聞くか。

 

 荷の見分け方。

 

 積み下ろし。

 

 火災や事故の時の動き。

 

 その横から職種別に枝を伸ばし、船体、気嚢、推進、魔道具、荷役、航路、商務へ分かれていく。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「まだ雇ってませんよね」

 

「だから今作る」

 

 リュシアも身を乗り出した。

 

「船もまだないよ」

 

「船が出来てから人を育て始めれば、船を待たせることになる」

 

「今、人を探してるんだけどね」

 

「ならば並行出来る」

 

「話が一つ先へ行くんじゃなくて、三つくらい先へ行くね、あなたは」

 

 真壁は聞いていなかった。

 

 模擬設備。

 

 部分実機。

 

 実機。

 

 書き込みはさらに続いている。

 

「リュシア姉、終わったぞ」

 

 トトが帳面を差し出した。

 

「こっちが受け取った分。こっちが届けた分。全部、相手の印ももらった」

 

 リュシアが目を通す。

 

「収納へ入れた時の数は?」

 

「ここ」

 

「出した時は?」

 

「こっち」

 

「最初と最後を一枚で比べられるようにしてないね」

 

「あ」

 

「私が見つけたんじゃ意味がないよ。自分で直しな」

 

「分かった」

 

 トトは素直に帳面を引き戻した。

 

 数字を二つ書き足してから、今度は澪の方へ顔を向ける。

 

「澪姉ちゃん」

 

「はい?」

 

「オレ、商人になったぞ」

 

 声が明らかに一段大きくなった。

 

「司祭様のところで?」

 

「うん。ちゃんとジョブ変わった」

 

 トトは胸を張る。

 

「もう荷を持ってくだけじゃないんだ。誰から受け取ったか見て、数えて、収納して、届けて、渡した相手の印ももらって、戻って報告する」

 

「それで、その最後が今一つ抜けてたんだね」

 

 リュシアが帳面を指す。

 

「今直した!」

 

「なら次は最初から書きな」

 

「分かってるって」

 

 口ではそう返しながら、トトは嬉しそうだった。

 

「これで飛行船に近づいたよな?」

 

「近づいたんじゃないですか」

 

 澪が答える前に、真壁が顔を上げた。

 

「トト君」

 

「何?」

 

「荷役と商務、双方の訓練へ入ってもらう」

 

 トトの目が丸くなった。

 

「両方?」

 

「荷を積む者が、何を誰から預かり、どこへ渡す荷か知らんでは困る。逆も同じだ」

 

「じゃあ、乗れる?」

 

「そのための訓練だ」

 

「よし!」

 

「まだ何も終わっちゃいないよ」

 

 リュシアがすぐ横から刺す。

 

「今日の帳面も一か所抜けてたろ」

 

「次は忘れない!」

 

「その次もだよ」

 

「だから分かってるって!」

 

 トトは帳面を抱えたまま、それでも真壁の訓練表を覗き込んでいる。

 

 以前なら、飛行船へ乗りたいと言っているだけだった。

 

 今は、そこへ行くための仕事を一つずつ覚え始めている。

 

「人を育てる話なら」

 

 セルマが水を一口飲んだ。

 

「私も報告があるわ」

 

 澪はそちらを向いた。

 

「ベラクルスの件ですか?」

 

「そう」

 

 セルマは疲れたように額へ手を当てた。

 

「西方のベラクルスまで行って、帰ってきたわ」

 

「どうでした?」

 

「8人連れて帰った」

 

「8人?」

 

 澪が聞き返す。

 

「全員、親を失った子どもよ」

 

 セルマはそこで声を落とした。

 

「弟子になれそうな子を見るつもりではいたけど、実際に会ってみたら、8人とも置いて帰る気にはならなかったの。だから連れてきた」

 

 ヴァルトがセルマを見る。

 

「8人全員ですか」

 

「そうよ」

 

「一度に?」

 

「一度に」

 

「大変ですね」

 

「大変よ」

 

 セルマは即答した。

 

「今日は食事をさせて、身体を洗わせて、服を替えさせて、寝床を決めるだけで半日よ。細い子もいるし、古い傷が残ってる子もいる。でも急いで薬を使わなきゃいけない子はいない。それだけは助かったわ」

 

「工房へは?」

 

 澪が聞く。

 

「まだ勝手に入れない。火も薬品も硝子もあるのよ。最初に教えるのは錬金術じゃなくて、入っていいところと駄目なところ。知らない瓶を開けない。知らない草を口に入れない。手を洗う。そこから」

 

「8人とも弟子にするのかい?」

 

 リュシアが尋ねる。

 

「見るわよ」

 

 セルマは迷わなかった。

 

「錬金術師になるかは本人たちが育ってから決めればいい。でも私のところに来たんだから、読み書きも、薬草も、手の使い方も教える。8人ともね」

 

 澪の頭に、ふと建物の数字が浮かんだ。

 

「セルマさん」

 

「何?」

 

「居室、10室でしたよね」

 

「そうよ」

 

「サラさんとニナさんがいて、今回8人」

 

 セルマが黙った。

 

 リュシアも数えた。

 

「10だね」

 

「10ですね」

 

 ヴァルトも答えた。

 

 全員の視線が真壁へ向いた。

 

 真壁は訓練表を書いていた。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「10室、全部使います」

 

「結構」

 

 セルマの目が細くなった。

 

「何であなたが満足そうなのよ」

 

「空室が無駄にならずに済む」

 

「最初から10室造ったのはあなたでしょう」

 

「必要になると考えた」

 

「私は多いって言ったわよね」

 

「聞いた」

 

「今、全部埋まったの」

 

「結構ではないか」

 

「そこが腹立つのよ」

 

 セルマは机へ手を置きかけ、自分の袖に薬草の粉が残っていることへ気づいて引っ込めた。

 

 リュシアが笑う。

 

「弟子を育てる工房が、本当に10人になったね」

 

「まだ全員、正式な弟子だとは言ってないわ」

 

「でも追い出す気もないんだろ?」

 

「ないわよ」

 

「じゃあ似たようなものじゃないかい」

 

「その辺は本人たちと決めるわ」

 

 セルマはそう言ってから、ヴァルトへ視線を向けた。

 

「そういえば、あなたのところはどうなの?」

 

「私ですか」

 

「子どもたちよ」

 

「ああ」

 

 ヴァルトは少し姿勢を直した。

 

「授業は順調です。王都から来た20人と、リオさん、メルさんで22人。読み書きと計算は互いに教え合えるようになってきました。魔力制御も、急がせなければ――」

 

「22人か」

 

 セルマが言う。

 

「多いわね」

 

「ええ。ただ、正式に弟子として教える者については、そろそろ適性を見て――」

 

 真壁の鉛筆が止まった。

 

「ヴァルト君」

 

「はい」

 

「君はまだ、あの22人を弟子候補だと思っているのかね」

 

 ヴァルトが真壁を見る。

 

「そのつもりですが」

 

「そうか」

 

 真壁は鉛筆を置いた。

 

「では聞くが、君のところを出ていくつもりの者は何人いる」

 

「出ていく?」

 

「弟子にならないから、もう教室へ来ないと言いそうな者だ」

 

 ヴァルトの眉が寄る。

 

「それは……」

 

 言葉が止まった。

 

 澪は何となく分かってしまった。

 

 真壁が何に気づいたのか。

 

 ヴァルトはずっと、22人を教えている。

 

 読み書きも計算も、魔術も。

 

 後から来たリオとメルへも、後から来たから下になるわけではないと自分で言った。

 

 毎日同じ教室へ来て、授業が終われば一緒に食事へ行く。

 

 その22人の中から、自分だけ明日から来ませんと言う子がいるだろうか。

 

「……いませんね」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「ならば、彼らは自分たちを何だと思っている」

 

「生徒でしょう」

 

 真壁が首を傾ける。

 

「誰の」

 

「私のです」

 

「その先生の弟子になるために、皆で町へ来たのではなかったかね」

 

 ヴァルトが黙った。

 

 リュシアが口元を押さえている。

 

 セルマは遠慮なく言った。

 

「まさか、あなた本人だけまだ候補だと思ってたの?」

 

「専門的な意味での弟子と、基礎を学ぶ生徒は別だと考えていました」

 

「それ、22人に言ったの?」

 

「……言っていません」

 

「じゃあ向こうは知らないじゃない」

 

 ヴァルトが眉間へ指を当てた。

 

 澪も笑いを堪えながら言う。

 

「たぶんですけど、全員もうヴァルトさんの弟子だと思っていますよ」

 

「澪さんまで」

 

「だって、先生って呼ばれてますよね」

 

「呼ばれています」

 

「毎日教えてますよね」

 

「教えています」

 

「出ていく人はいないんですよね」

 

「……いません」

 

 セルマが頷いた。

 

「22人ね」

 

「なぜセルマさんまで決定するのですか」

 

「私は今日、8人連れて帰ってきたばかりだからよ。人数の話には敏感なの」

 

「それとこれは別でしょう」

 

「でも私は自分の10人を候補だからって外へ出す気はないわ」

 

 ヴァルトが止まった。

 

 真壁が短く言う。

 

「ヴァルト君」

 

「はい」

 

「22人だ」

 

「何度も数えなくても分かっています」

 

「人数の話ではない」

 

「分かっています」

 

 返事だけが少し早かった。

 

 トトが不思議そうにヴァルトを見る。

 

「先生、22人も弟子いるのか」

 

「トト君まで先生と呼ばないでください。私は君を教えていません」

 

「でも先生なんだろ?」

 

「そうですが」

 

「じゃあ先生じゃん」

 

 ヴァルトが黙った。

 

 リュシアがとうとう声を出して笑った。

 

 

 

 

 

 夜になると、地下1階のフードコートはさらに賑やかになった。

 

 年越しを前に酒や料理を持ち帰る客が増え、厨房では焼いた肉の匂いと煮込みの湯気が絶えない。壁際には長卓が何本も並べられ、店員が椅子の数を確かめながら往復している。

 

 昼間の話を引きずったまま、澪たちは夕食の卓を囲んでいた。

 

 ヴァルトだけは、時々遠い目をしている。

 

 弟子22人。

 

 どうやら数字そのものは前から分かっていたのに、意味だけが今日になって変わったらしい。

 

「まだ考えてるの?」

 

 セルマが聞いた。

 

「考えていません」

 

「その返事は考えてる人の返事よ」

 

「セルマさんは、ご自分の10人を心配してください」

 

「してるわよ。だからここへ食べに来たの。今日はもう工房で火を使いたくないもの」

 

「それは賢明です」

 

「そこだけ急に先生みたいに言わないで」

 

 そんな話をしているところへ、護衛を伴った少女が入ってきた。

 

 周囲の何人かが気づいて道を空ける。

 

 リュシアが先に立った。

 

「姫様」

 

 澪たちも続く。

 

「姫様」

 

「うむ。座ってよいか?」

 

「もちろんです」

 

 澪が椅子を引いた。

 

 姫様は護衛を少し離れた場所へ残し、卓へ座る。

 

「父上から、皆へ話してよいと言われたので来た」

 

「何か決まったんですか?」

 

「クララのことだ」

 

 澪の手が止まる。

 

 姫様の表情は、知らせを持ってきた侯爵令嬢というより、嬉しいことを早く言いたくて仕方がない少女の方に近かった。

 

「養女の話が正式に決まった」

 

「本当ですか」

 

「ああ」

 

 姫様は大きく頷く。

 

「王家にも教会にも話を通した。ローゼンベルク家のことも調べた。クララ本人にも父上と兄上が話をして、本人が受けると言った」

 

 そこで口元が緩む。

 

「だから、クララは我が家の家族になる」

 

「おめでとうございます、姫様」

 

 澪が言うと、リュシアも頭を下げた。

 

「おめでとうございます」

 

「ありがとうございます、姫様。クララさんも安心されたでしょう」

 

 ヴァルトも続ける。

 

「うむ。ただし、クララは孤児院を出ないそうだ」

 

「侯爵邸へ移らないんですか?」

 

「今やっていることを途中でやめたくないと言っている。父上も、それで構わないと」

 

 姫様は料理を一つ取った。

 

「養女にするのは、あいつを屋敷へ閉じ込めるためではないからな」

 

 澪は、その言葉に胸の奥が緩むのを感じた。

 

 誰かに守られるため、また別の場所へ移されるのではない。

 

 家族が出来ても、クララは自分で選んだ場所にいられる。

 

「それと、卵も元気だぞ」

 

 姫様が続けた。

 

「竜の卵ですか?」

 

「そうだ」

 

 姫様の目が急に輝いた。

 

「触ってはいない」

 

「まだ何も聞いてません」

 

「先に言っておいた方がよいと思った」

 

 少し離れたところに立っていた護衛が、ほんのわずかに目を伏せた。

 

 澪には、その一言がこれまで何度必要になったのか分かる気がした。

 

「クララは今も毎日見ている。温度も魔力も、自分がどれくらい疲れたかも書いているそうだ。浄化も治療も前よりずっと上手くなったと司祭様が言っていた」

 

「魔力供給は続けているのですか?」

 

 ヴァルトが尋ねる。

 

「ああ。一度に無理をしないようになった。決めたところで止めている」

 

「それならよいでしょう」

 

「ただな」

 

 姫様が声を落とした。

 

「卵が動くようになった」

 

 澪は目を瞬いた。

 

「転がるんですか?」

 

「転がらない」

 

 即答された。

 

「中から押すのだ。クララが魔力を渡す頃になると、殻の内側から動く。置いた向きが少し変わっていたこともある」

 

 セルマの目つきが変わった。

 

「熱は?」

 

「上がることはあるが、前みたいに荒くはないそうだ」

 

「クララがいない時は?」

 

「反応は弱い。近くへ来ると動くことがある」

 

「孵化が近い可能性はありますね」

 

 ヴァルトが言う。

 

 姫様の顔がさらに明るくなった。

 

「やはりそう思うか?」

 

「可能性です。まだ断定は出来ません」

 

「分かっている。勝手に割ったりはしない」

 

「それもまだ誰も言ってません」

 

 澪が返すと、姫様が少し不満そうな顔をした。

 

「私はそこまでしないぞ」

 

 護衛が視線を上げた。

 

「姫様」

 

「何だ」

 

「何も申し上げておりません」

 

「その顔は何か言っている」

 

 リュシアが横を向いた。

 

 セルマも水を飲むふりをしている。

 

 ここで笑ってはいけないのだろうが、澪も耐えるのが難しかった。

 

「それでも」

 

 姫様は気を取り直した。

 

「クララが近づくと反応するからといって、クララの竜だとは決めない。父上にも言われている。まだ卵だ」

 

「はい。それがいいと思います」

 

 澪は頷いた。

 

 クララが毎日世話をしてきたことと、竜を所有することは別だ。

 

 孵ってから何が起きるかも分からない。

 

 けれど、あの火山から運び出した時には不安定だった命が、今は内側から殻を押している。

 

 それだけで十分だった。

 

 姫様は報告を終えると、本来の目的を果たした顔で料理へ手を伸ばした。

 

「ところで、これは何だ?」

 

「姫様、それは辛いですよ」

 

「どれくらいだ?」

 

「姫様」

 

 護衛の声が早かった。

 

「私はまだ食べるとは言っていない」

 

「存じております」

 

「ではなぜ止めた」

 

「次に何をなさるか分かりましたので」

 

 澪はとうとう俯いた。

 

 年越し前のフードコートには、笑い声が一つ増えた。

 

 

 

 

 

 食事を終えて地下通路へ出る頃には、人の数もだいぶ減っていた。

 

 店では最後の片付けが始まり、壁際には年越し用の長卓がきれいに並んでいる。

 

 姫様は先に侯爵邸へ戻った。

 

 トトもリュシアから帳面を返され、明日直して持ってくると言って店へ帰っている。

 

 残ったのは澪、真壁、ヴァルト、リュシア、セルマだった。

 

「じゃあ、私は工房へ戻るわ」

 

 セルマが外套を整える。

 

「8人が夜中に起きないとも限らないし」

 

「お疲れさまです」

 

「澪は実家へ帰るんでしょう?」

 

「はい」

 

「ちゃんと休んできなさいよ」

 

「セルマさんに言われると重いです」

 

「何でよ」

 

「今日8人連れて帰ってきた人なので」

 

「それと休むのは別よ」

 

 セルマは当然のように返した。

 

 リュシアも求人の紙を鞄へ収める。

 

「私も明日はまた人に会うよ。年が変わる前に話だけ聞いておきたいって職人がいるんだ」

 

「年末まで大変ですね」

 

「商売なんてそんなものさ」

 

 澪は通路の先を見た。

 

 自分は数日後、実家へ帰る。

 

 こちらではリュシアが飛行船のための人を集め、トトが商人として仕事を覚える。

 

 セルマの工房には10人。

 

 ヴァルトには22人。

 

 クララは侯爵家の家族になり、それでも孤児院へ残る。

 

 ほんの1年前なら、誰一人として自分の周りにいなかった人たちだった。

 

 ずいぶん増えたものだ。

 

 その横で、真壁が足を止めた。

 

「ヴァルト君」

 

「はい」

 

「境界で超広範囲の魔物を一か所に集めて殲滅したいのだが」

 

 ヴァルトは一度だけ瞬いた。

 

「ああ、東街道の。」

 

 場所まで聞いていないのに通じた。

 

 澪は思わず2人を見比べる。

 

 真壁は当然のように続けた。

 

「飛行船の乗組員の教育兼レベルアップも兼ねたい。方法を考えておいてくれ」

 

「承知しました。誘導する範囲と、集積させる位置を考えておきます」

 

「待っておくれ」

 

 リュシアが鞄を抱えたまま止まった。

 

「さっきまで、私が人を集めてる話だったよね」

 

「承知している」

 

 真壁が頷く。

 

「人はリュシア君が集める」

 

「私は子どもを集めたんじゃないわよ」

 

 セルマがすぐに言った。

 

「連れて帰ったの」

 

「結果として10人だ」

 

「結果だけ見るのやめてくれる?」

 

 真壁は最後にヴァルトを見る。

 

 ヴァルトが嫌そうに眉を寄せた。

 

「その流れで私を見るのは、やめていただけませんか」

 

「魔物はヴァルト君が集める」

 

「やはり私ですか」

 

「適材適所だ」

 

「私の適所だけ、ずいぶん物騒ですね」

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