押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第252話 社長の冬休み1

 

 

 窓の外を流れていく景色から、夏の色がすっかり抜け落ちていた。

 

 刈り終えた田畑は茶色く、葉を落とした木々の向こうに低い冬の日が差している。日陰になった畦には白い霜が残り、遠くの屋根にもところどころ薄く雪が乗っていた。

 

 年末の特急は混んでいた。

 

 荷棚にはキャリーケースや土産物の紙袋が並び、通路を挟んだ席では、小さな子どもが窓へ額を寄せて外を眺めている。

 

 澪はコートを脱いで膝の上に置き、背もたれへ身体を預けた。

 

 暖かい。

 

 そして、軽い。

 

 そのことに気づいて、肩を一度回してみる。

 

 痛くない。重くない。眠くて仕方がないわけでもない。

 

 前にここを通ったのは夏だった。

 

 免許を取ったばかりで、財布を開くたび新しい免許証が目に入った。会社を休むと決めたくせに、スマートフォンが震えるたび真壁から何が届いたのか気になった。

 

 実家へ着いたら、母に顔を見られてすぐ言われた。

 

 疲れてる?

 

 あの時は、少しだけ、と答えた。

 

 今思えば、少しではなかった。

 

 澪は窓へ頬を向けた。

 

「……今回は、元気なんですよね」

 

 誰に言うでもなく、小さく呟く。

 

 仕事が減ったわけではない。

 

 むしろ、どう考えても増えている。

 

 西へ行った。

 

 魔物とも戦った。

 

 土も鉱石も山ほど扱った。

 

 地下には飛行船を入れる巨大なドックを掘った。

 

 その上に町まで造り始めた。

 

 今度は飛行船そのものを造ろうとしている。

 

 並べれば並べるほど、夏より疲れていない理由が仕事量ではないことだけは確かだった。

 

 澪は自分の腕を見た。

 

 疲労耐久強化薬。

 

 飲んだ直後に疲れが消えるような物ではなかった。けれど、こうして何か月も経ってから夏の自分と比べてみると、違いは分かる。

 

「……効いてるんだ」

 

 そこで、視線が足元へ落ちた。

 

 旅行鞄。

 

 服と着替えと土産物。その間へ、割れないよう別々に包んだ小瓶が入っている。

 

 竜命薬。

 

 疲労耐久強化薬。

 

 父と母の分も持ってきた。

 

 澪は数秒、鞄を見つめた。

 

 自分だけ丈夫になってどうする。

 

 父も母も元気ではある。

 

 けれど、自分より先に歳を取っているのは当たり前だった。

 

 元気でいてほしい。

 

 出来れば長く。

 

 そこまで考えたところで、問題が一つあることに気づいた。

 

「……どうやって飲ませよう」

 

 車輪がレールの継ぎ目を規則正しく拾っていく。

 

 澪は鞄を膝へ引き寄せ、周囲から見えないよう少しだけファスナーを開けた。

 

 服の下へ入れた包みは無事だった。

 

 まず竜命薬。

 

 翌日まで様子を見る。

 

 疲労耐久強化薬はその次。

 

 そこまではいい。

 

 問題は説明だった。

 

 火竜の血から作りました。

 

 澪は即座に却下した。

 

 異世界の錬金術師と一緒に研究しました。

 

 もっと駄目だった。

 

 エリクサーに近い物です。

 

 自分から怪しい方向へ全力疾走している。

 

「うちで研究している……健康関係の試作品」

 

 口に出してみる。

 

 怪しい。

 

 ものすごく怪しい。

 

 ただ、これ以上は薄めようがなかった。

 

 澪は包みを戻し、鞄を閉じた。

 

 会社を始めた時より説明が難しい。

 

 会社なら登記簿も税理士もいる。

 

 こちらにはラベルすらない。

 

 澪は窓の外へ視線を戻した。

 

 冬の田畑が、何事もなかったように後ろへ流れていった。

 

 

 

 

 

 玄関を開けた瞬間、家の匂いがした。

 

 洗剤と暖房と、台所から流れてくる煮物の匂い。

 

 夏に帰った時と同じ靴箱。その上に置かれた小物も、廊下の壁に掛けられた家族写真もほとんど変わっていない。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

 母が台所から顔を出した。

 

 澪は靴を脱ぎ、キャリーケースを玄関の段差へ持ち上げる。

 

 母がその顔をしばらく見た。

 

 来た。

 

 澪はなんとなく身構えた。

 

「今回は顔色いいわね」

 

「あれ?」

 

「何、その反応」

 

「いや……」

 

 澪は自分の頬へ手を当てた。

 

「前回、そんなにひどかった?」

 

 母が呆れたように眉を上げる。

 

「自分で分かってなかったの?」

 

「少し疲れてるかな、くらいには」

 

「少しねえ」

 

 その言い方だけで、当時の自分の自己評価がかなり甘かったらしいことが分かった。

 

「でも、今回は本当に元気だから」

 

「それならいいけど。荷物、部屋へ置いてきなさい。お茶入れるから」

 

「はーい」

 

 キャリーケースを引いて廊下を進む。

 

 自分が使っていた部屋の扉を開けると、机も本棚もそのままだった。

 

 会社の事務所でも、大学の教室でも、異世界の地下施設でもない。

 

 昔から使っていた、自分の部屋。

 

 澪は鞄を机の横へ置いた。

 

 薬はまだ出さない。

 

 それだけを確かめて、居間へ戻った。

 

 

 

 

 

 こたつの上には、みかんと湯飲みがあった。

 

 テレビでは年末の特番が流れている。派手な音楽と笑い声がするのに、母はほとんど見ていなかった。

 

「大学はどう?」

 

「普通。ちゃんと行ってるよ」

 

「会社始めたら行かなくなるんじゃないかって、お父さん少し心配してたのよ」

 

「行ってます。単位も取ります」

 

「ならいいけど」

 

 母はみかんの皮を剥いた。

 

「そういえば、おじいちゃんね。今、入院してるのよ」

 

 澪の手が止まった。

 

「え?」

 

「先週から」

 

「聞いてない」

 

「本人が大げさにするなって言うから。急にどうこうって話じゃないのよ」

 

「でも、入院でしょ?」

 

「検査もあるし、しばらく病院にいた方がいいって」

 

 母は剥いたみかんを一房口へ入れた。

 

「おばあちゃん、今一人だから、みんなで交代で様子見に行ってるの」

 

 澪はこたつの中で足を組み直した。

 

 祖父が入院。

 

 祖母が一人。

 

 その二つを聞いただけで、さっきまで鞄の中にあった小瓶の重さが少し変わった気がした。

 

「おばあちゃん、大丈夫なの?」

 

「一人で暮らせないわけじゃないわよ。ただ、ずっとおじいちゃんと二人だったからね。買い物とか、重い物とかは見に行ってる」

 

「明日行く」

 

「そうしてあげて。喜ぶから」

 

 母は次のみかんを手に取った。

 

「それから、斜向かいの家の娘さん、結婚したのよ」

 

「え?」

 

 澪の頭の切り替えが追いつかなかった。

 

「誰?」

 

「ほら、澪が小学生の頃に何度か遊んでもらったでしょう」

 

「あの人?」

 

「そう」

 

「結婚したの?」

 

「澪よりずっと年上なんだから、おかしくないでしょう」

 

「いや、そうだけど……」

 

 自分の記憶の中では、まだ制服姿のままだった。

 

「春には向こうへ引っ越すんだって。それで、その隣の家の息子さんも就職で家を出たし」

 

「え、あそこも?」

 

「そうよ」

 

「いつの間に」

 

「澪がいない間に」

 

 至極もっともだった。

 

 異世界で魔力だまりを片付けている間にも、近所では普通に結婚式の話が進む。

 

 地下ドックを掘っている間にも、誰かが就職して家を出る。

 

 自分の知らないところで、こちらの時間も止まっていない。

 

「年始は叔父さんたち来るの?」

 

「来る人もいるし、仕事で来られない人もいるわよ。今年は病院のこともあるから、いつも通りにはならないかもね」

 

「そっか」

 

 母が湯飲みを持ち上げた。

 

「澪も、たまには家の話くらい聞きなさい」

 

「聞いてるよ」

 

「今、半分くらい初耳だったでしょう」

 

「……はい」

 

 これは反論出来なかった。

 

 

 

 

 

「おばあちゃんに電話していい?」

 

「いいわよ。たぶん家にいるから」

 

 澪はスマートフォンを取り出した。

 

 数回の呼び出し音。

 

『もしもし』

 

「おばあちゃん?」

 

『澪?』

 

「うん。今日帰ってきたよ」

 

『まあ。帰ってきたの? ちゃんと食べてる?』

 

 第一声がそれだった。

 

「食べてるよ。おばあちゃんこそ大丈夫?」

 

『私は大丈夫よ』

 

「おじいちゃん入院したって、今聞いた」

 

『じいちゃんはね、病院で退屈してるだけ』

 

 電話の向こうで祖母が笑った。

 

『テレビがつまらないとか、ご飯が少ないとか、文句ばっかり』

 

「元気じゃん」

 

『元気だから文句が出るのよ』

 

 少し安心した。

 

 けれど、祖父がいない家で祖母が一人電話を取っていることには変わりない。

 

「一人でご飯、大丈夫?」

 

『それがねえ。つい二人分作っちゃうのよ』

 

「食べきれないでしょ」

 

『次の日も食べればいいの』

 

「同じの?」

 

『じいちゃんがいないと文句言う人もいないし』

 

 思わず笑った。

 

「明日、顔見に行くね」

 

『いいの?』

 

「うん。せっかく帰ってきたんだし」

 

『じゃあ待ってる。何もいらないからね』

 

「はいはい」

 

『本当に何もいらないから』

 

「分かったって」

 

 電話を切る。

 

 テレビではまだ大勢が笑っていた。

 

 澪はしばらくスマートフォンを持ったまま、居間の隅に置いた旅行鞄を見た。

 

 薬がある。

 

 でも、祖父母に使うかどうかは別だ。

 

 まず会おう。

 

 顔を見て、話を聞く。

 

 その方が先だ。

 

 澪はスマートフォンを卓へ置いた。

 

「明日、おばあちゃんのところ行ってくる」

 

「そうして。病院は面会出来る時間を見てからね」

 

「うん」

 

 母が台所へ立った。

 

「じゃあ、ご飯作るから」

 

「あ、お母さん」

 

「何?」

 

「私もやる」

 

 

 

 

 

 台所の窓は、鍋から上がる湯気ですぐ白く曇った。

 

 母がまな板の上で野菜を切る。その横で澪は鍋を覗き込んだ。

 

「お母さん」

 

「ん?」

 

「お味噌汁の作り方、ちゃんと教えて」

 

 包丁が止まった。

 

「味噌汁くらい作れるでしょう」

 

「作り方じゃなくて」

 

 澪は少し言葉を選んだ。

 

「お母さんの味を覚えたいの」

 

 母が澪を見る。

 

「急にどうしたの?」

 

「この前、お味噌汁を出したら、すごく喜んだ人がいて」

 

 母の目が少し変わった。

 

「そういう話じゃないから」

 

「まだ何も言ってないわよ」

 

「顔が言ってた」

 

「何を?」

 

「……いいです」

 

 余計な方向へ進みそうなので、澪は鍋へ向き直った。

 

「で、だしはどのくらい?」

 

「それくらい」

 

「それくらいって」

 

「鍋見れば分かるでしょう」

 

「何gとか」

 

「量ったことないわよ」

 

 早くも難易度が上がった。

 

 澪は鉱石を成分別に何百万t扱う方が、条件だけなら明確なのではないかと思い始めた。

 

「じゃあ、この具は何分?」

 

「火が通るまで」

 

「何分くらい?」

 

「切った大きさで変わるでしょう」

 

「……はい」

 

 正論だった。

 

 母は鍋の様子を見て、火を少し落とした。

 

「味噌は煮立てないの」

 

「それは知ってる」

 

「じゃあ溶いて」

 

 澪は味噌を取り、量を聞こうとしてやめた。

 

 母が見ている。

 

「これくらい?」

 

「まずそれで」

 

「まず?」

 

「味見して薄かったら足すの」

 

「最初から決めないの?」

 

「今日の味噌と具とだしで変わるでしょう」

 

 澪はお玉で少しすくって味を見る。

 

 薄い。

 

 味噌を足す。

 

 もう一度。

 

「……これくらい?」

 

「もう少し」

 

 また足す。

 

 三度目。

 

 母が横から味を見る。

 

「うん。今日はこれくらい」

 

「今日は」

 

「毎日同じ味噌汁なんて作らないでしょう」

 

 澪は鍋を見た。

 

 数値化出来ないのではない。

 

 母の中には条件がある。

 

 具の水分。

 

 味噌の塩気。

 

 だしの濃さ。

 

 その日の量。

 

 長年やっているから、数字にしなくても手と舌で分かっているだけだ。

 

「難しい」

 

「味噌汁で?」

 

「はい」

 

「会社の社長さんが?」

 

「社長でも味噌汁は別です」

 

 湯気と一緒に、味噌の匂いが広がった。

 

 その瞬間、別の食卓が頭に浮かんだ。

 

 ヴァルトが椀を持ったまま、目を赤くしていた。

 

 ただの味噌汁だった。

 

 こちらでは。

 

 でもヴァルトにとっては、26年ぶりにつながった前世の味だった。

 

 澪は鍋の火を見ながら、ふと考えた。

 

 ヴァルトさんのお父さんとお母さん。

 

 ご存命なら、今はいくつくらいなのだろう。

 

 2000年。

 

 息子が会社で倒れ、そのまま亡くなったと思っている。

 

 26年。

 

 今日、祖父が入院していると聞いたばかりだからなのか、以前よりその年月が生々しく感じられた。

 

 会わせてあげたい。

 

 そんな気持ちが浮かぶ。

 

 けれど、すぐに手を止めた。

 

 それを決めるのは自分ではない。

 

 ヴァルトが望むなら。

 

 その時は手伝えばいい。

 

「澪?」

 

「はい?」

 

「味噌、持ったまま止まってる」

 

「あ」

 

「入れ過ぎないでよ」

 

「危なかった」

 

「何考えてたの?」

 

「味噌汁のこと」

 

「嘘ね」

 

「半分くらいは本当です」

 

 母は呆れたように笑った。

 

 

 

 

 

「今日の味噌汁、澪が作ったのよ」

 

 夕食の席で母が言った。

 

 父が椀を持ったまま澪を見る。

 

「珍しいな」

 

「何、その反応」

 

「いや、作らないとは言ってない」

 

「今、言ったのと同じでしょう」

 

 父が一口飲んだ。

 

 澪は無意識に反応を待った。

 

「うん。いつもの味だな」

 

「それ、褒めてる?」

 

「家の味になってるってことだろ」

 

 悪くない評価だった。

 

 母が横から、

 

「最後は私が少し直したけどね」

 

と言った。

 

「お母さん」

 

「本当でしょう」

 

「はい」

 

 父が笑いながら箸を取る。

 

 それから夕食は、また家の話になった。

 

「明日、おばあちゃんのところ行くって?」

 

「うん。病院も時間合えば行きたい」

 

「面会時間調べてからにしろよ」

 

「分かってる」

 

「正月は叔父さんたちも来るかもしれないけど、今年はみんな時間ずらすって」

 

「おじいちゃんの病院があるから?」

 

「それもある」

 

 母が副菜を取る。

 

「近所も今年は静かよね。結婚したところは向こうで年越すっていうし」

 

「さっき聞いた。びっくりした」

 

「いつまでも昔のままじゃないってことだな」

 

 父の何気ない一言に、澪の箸が止まりかけた。

 

 いつまでも昔のままではない。

 

 本当にそうだ。

 

 家族も。

 

 近所も。

 

 ヴァルトの家族も。

 

 異世界へ行っている間だけ、ゲンダイの時間が止まってくれるわけではない。

 

「どうした?」

 

「何でもない」

 

 澪は味噌汁をもう一口飲んだ。

 

 今度ヴァルトにも作ってみよう。

 

 母に最後を直されないように、自分だけで。

 

 

 

 

 

 夕食が終わり、母が食器を片付けている間、澪は父と居間に残った。

 

 テレビの音は小さくなっていた。

 

 こたつの上のみかんを一つ取った父が、皮を剥きながら聞く。

 

「それで、会社の方はどうなんだ」

 

「どう、って?」

 

「続いてるのか」

 

「続いてるよ」

 

「大学も?」

 

「ちゃんと行ってます」

 

 父はみかんを一房口へ入れた。

 

「会社が忙しくなって、大学やめるとか言い出すんじゃないかと思ってた」

 

「辞めません」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 澪もみかんへ手を伸ばした。

 

「私、今ちゃんと女社長やってます」

 

 父の眉が少し上がった。

 

「自分で言うか」

 

「だって本当だから」

 

「会社の金と自分の金、分けてるか」

 

「分けてる。税理士さんにも見てもらってる」

 

「税金は?」

 

「そこも見てもらってる」

 

「大学は」

 

「辞めません」

 

「無理してないか」

 

「夏より元気」

 

 父が澪の顔をしばらく見た。

 

 そこへ台所から母の声が飛んでくる。

 

「今回は本当に前より顔色いいわよ」

 

「ほら」

 

「お母さんを証人にするな」

 

「事実だから」

 

 少し笑ってから、澪はみかんを置いた。

 

 ここからは、ちゃんと言っておきたかった。

 

「それで、お父さん」

 

「ん?」

 

「扶養から外してもらって大丈夫です」

 

 父の手が止まった。

 

「仕送りも、もういりません」

 

「……澪」

 

「学費も自分で払えます」

 

 父はすぐには何も言わなかった。

 

 先ほどまでのみかんを剥く気楽な空気が、少しだけ変わる。

 

「会社の収入、一時的なものじゃないんだな?」

 

「うん。そこは大丈夫」

 

「無理して学費を出す必要はないぞ」

 

「無理じゃないよ」

 

 澪は父の顔を見た。

 

「大学も続ける。生活費もちゃんと分ける。税理士さんにも相談する」

 

「そうか」

 

「だから」

 

 少し息を置いた。

 

「今までありがとう」

 

 父は目を逸らした。

 

 みかんを一房取る。

 

「まだ卒業してないだろ」

 

「してないけど」

 

「だったら、全部終わってからでもいい」

 

「そういう話じゃなくて」

 

「分かってる」

 

 返事は短かった。

 

 澪は、それ以上は言わなかった。

 

 台所から水音がする。

 

 母が皿を洗っている。

 

 父も母も、ずっとそこにいるのが当たり前だった。

 

 でも祖父が入院した。

 

 祖母が一人になった。

 

 当たり前は、いつか変わる。

 

「だから、お父さんもお母さんも健康でいてね」

 

 父が眉を寄せた。

 

「急にどうした」

 

「今日、おじいちゃんの話聞いたから」

 

「まだ元気だぞ」

 

「知ってる」

 

 澪の視線が、廊下の先にある自分の部屋へ向いた。

 

 父がそれを見逃さなかった。

 

「何だ」

 

「何が?」

 

「今、何か思い出しただろ」

 

「……ちょっとだけ」

 

「何を」

 

 澪は数秒考えた。

 

 逃げても、どうせこのあと出す。

 

「研究中の製品」

 

 父の顔に、明らかに警戒が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 数分後。

 

 こたつの上に、小瓶が2本並んでいた。

 

 父が見る。

 

 母も見る。

 

 澪も見る。

 

 改めて家の卓へ置くと、特急の中で考えた以上に怪しかった。

 

「これ、うちで研究中の製品なの」

 

 澪は予定通り言った。

 

「何の?」

 

 父も予定通り聞いた。

 

「健康関係です」

 

 母が小瓶を持ち上げた。

 

「ずいぶん広いわね」

 

「今、研究中だから」

 

 父が瓶を手に取る。

 

 回す。

 

 底を見る。

 

 蓋を見る。

 

「ラベルは?」

 

「ない」

 

「成分は?」

 

「……研究中だから」

 

「製造元は?」

 

「うち」

 

「会社名も書いてないぞ」

 

「商品じゃないから」

 

「飲み方は?」

 

「今飲む」

 

「賞味期限は?」

 

「大丈夫」

 

 質問が増えるほど説明が弱くなっていく。

 

 澪は少しずつ自信を失った。

 

 魔物なら鑑定出来る。

 

 鉱石なら分けられる。

 

 父親の質問は収納出来ない。

 

「澪」

 

「はい」

 

「これ、本当に飲んでいい物か?」

 

「大丈夫。私も飲んでるから」

 

「お前が飲んでるから大丈夫、という説明は大丈夫じゃない」

 

「身体に悪い物じゃないのは確認してあります」

 

「どうやって」

 

「それは……会社の研究なので」

 

「急に会社の秘密になったな」

 

「そこは秘密です」

 

 母が瓶を光へ透かした。

 

「色も健康食品っぽくないわね」

 

「見た目で判断しないで」

 

「匂いは?」

 

「あんまり嗅がない方がいいかも」

 

 父が澪を見る。

 

「情報が増えるほど飲みたくなくなるんだが」

 

「大丈夫だから」

 

 澪は立ち上がった。

 

 台所へ行き、急須へお茶を入れる。

 

 湯飲みを2つ用意して戻る。

 

 父がその動きをじっと見ていた。

 

「澪」

 

「はい」

 

「なぜ先にお茶を用意する」

 

 来た。

 

「後味が、まだ課題なの」

 

「今初めて聞いたぞ」

 

「だからお茶で流し込めるように」

 

「健康関係の試作品より、先に言うべき情報じゃないのか」

 

「飲む前だから間に合ってる」

 

「基準がおかしい」

 

 母が笑いながら、自分の小瓶を手に取った。

 

「澪も飲んだのね?」

 

「うん」

 

「今のところ元気?」

 

「見ての通り」

 

「じゃあ飲んでみる」

 

「お母さん」

 

「お父さんは?」

 

 父は瓶と娘を見比べた。

 

「……本当に大丈夫なんだな」

 

「はい」

 

 澪はそこだけは真面目に答えた。

 

 父はしばらく澪の顔を見て、それから蓋を開けた。

 

「じゃあ、飲むぞ」

 

「うん」

 

 父と母が同時に口へ入れた。

 

 数秒。

 

 母の眉が寄った。

 

 父は完全に止まった。

 

「お茶」

 

 澪がすぐ差し出す。

 

 2人とも無言で湯飲みを取った。

 

 父が一気に飲む。

 

 母も半分以上飲む。

 

「もう一杯いる?」

 

「いる」

 

 母の返事が早かった。

 

 澪は急須を取った。

 

「寝て起きたら健康にいいから」

 

「澪」

 

「はい」

 

 父は湯飲みを置いた。

 

「後味が課題なんじゃない」

 

「はい」

 

「味そのものが課題だ」

 

「……そこは、研究します」

 

 母が二杯目のお茶を飲みながら頷いた。

 

「そうした方がいいわね」

 

 異世界で希少な薬も、実家の評価では味からだった。

 

 

 

 

 

 夜が更けてから、澪は自分の部屋へ戻った。

 

 昔から使っている机。

 

 本棚。

 

 見慣れたカーテン。

 

 布団へ入る前に旅行鞄を開く。

 

 竜命薬を包んでいた場所は空になっている。

 

 その隣には、もう一種類の小瓶。

 

 疲労耐久強化薬。

 

 澪はそれを持ち上げた。

 

 今日、父と母には竜命薬を飲んでもらった。

 

 異常がないかは明日の朝まで見る。

 

 こちらはそのあと。

 

「……明日ですね」

 

 小瓶を包み直して鞄へ戻した。

 

 祖母の声も思い出す。

 

 一人分のご飯を作る量へ慣れない、と笑っていた。

 

 明日はまず、顔を見に行こう。

 

 祖父の病院も、面会出来るなら行きたい。

 

 澪は鞄を閉じた。

 

 机の上に置いたスマートフォンが光った。

 

 指を伸ばす。

 

 画面を開きかけて、止めた。

 

 押入商会のことなら、真壁もヴァルトもいる。

 

 飛行船なら、帰ってから聞けばいい。

 

 夏に帰った時は、仕事を見ないためにスマートフォンを鞄へ押し込んだ。

 

 今は、そこまでしなくても閉じられる。

 

 澪は画面を伏せた。

 

 廊下の向こうから、父と母が話す声がかすかに聞こえる。

 

 内容までは分からない。

 

 ただ、2人ともいつも通りの声だった。

 

 澪は布団へ入り、部屋の明かりを消した。

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