大晦日の朝、澪が祖母の家へ着くと、玄関の戸が開くのが昨日より早かった。
「おはよう、澪」
「おはよう、おばあちゃん」
声にも張りがある。
昨日は玄関まで出てくる足取りに年齢以上の重さが混じっていた。今日は違う。サンダルを履き、庭へ一歩出てくる動作にも迷いがない。
澪は軽自動車の鍵をポケットへ入れながら、祖母の顔をじっと見た。
「何だい」
「体調どう?」
「すっかり元気だよ」
祖母は笑って腕を上げた。
「朝起きたら身体が軽くてね。昨日まで何となくだるかったのがないの。よく寝たし、ご飯もちゃんと食べたよ」
「そうなんだ」
澪はほっとしながらも、家へ上がってからこっそり鑑定した。
昨日まで積み重なっていた疲労は、ほとんど抜けている。
年齢そのものが変わったわけではない。
祖母は祖母のままだ。
ただ、長く溜まっていた身体の負担が取り払われ、本来の調子へ戻っている。
「すごいねえ、昨日のあれ」
「……おばあちゃん」
「何?」
澪は少し声を落とした。
「あれのこと、誰にも話さないでね」
「どうして?」
「まだ研究中なの。誰にでも渡せるものじゃないし、変な噂になると困るから」
「近所にも?」
「うん」
「お友達にも?」
「駄目」
「病院にも?」
「もちろん駄目」
祖母は湯飲みを持ったまま、しばらく澪を見た。
「そんなに秘密なの?」
「かなり」
「分かったよ。澪が困るなら誰にも言わない」
「お願いします」
澪が頭を下げると、祖母はお茶を一口飲んだ。
「でもね」
「はい」
「あれは、もう少し美味しくした方がいいよ」
澪は目を伏せた。
「そこだけ全員意見が一致するんですよね……」
父。
母。
祖母。
薬効についての評価は微妙に違うのに、味だけは満場一致だった。
「さて」
祖母が袖をまくった。
「今日は大掃除するよ」
「はい」
「2人なら午前中で終わるでしょう」
祖母の家は、そもそも汚れてはいなかった。
一人になってからも掃除はしているし、物が乱雑に積まれているわけでもない。床には掃除機がかかっているし、棚にも目立つ埃はない。
ただ、大晦日の大掃除となれば話は別だった。
テレビ台の裏。
家具と壁の隙間。
巾木の上。
窓のサッシ。
普段は動かさない物の下。
澪は雑巾を持ったまま、テレビ台と壁のわずかな隙間を覗き込んだ。
「ありますね」
「何が?」
「埃」
「そりゃ少しくらいあるでしょう」
祖母は気にした様子もなく、台所へ雑巾を洗いに行った。
水道の音がする。
澪はもう一度、隙間を覗いた。
埃。
髪の毛。
小さな砂。
紙の切れ端。
それぞれが、収納の把握範囲へ入ってくる。
異世界では岩盤や鉱物を何万t、何十万tと分けてきた。
それが今は、テレビ台の裏の綿埃である。
「……出来ますよね」
澪は対象を絞った。
床は除外。
壁も除外。
コードも除外。
家具も当然除外。
埃、髪の毛、砂粒、細かな紙くずだけ。
収納。
薄灰色だった隙間が、一瞬で元の床色へ戻った。
「……便利」
思わず声が出た。
場所を変える。
棚の裏。
収納。
巾木。
収納。
窓の隅。
収納。
こびりついた汚れは残る。
それは普通に雑巾で拭いた。
なんでも収納で消すのではなく、物として分かれているゴミだけを選ぶ。
部屋の隅に小さな蜘蛛を見つけた時には、澪の対象指定がぴたりと止まった。
「あなたは駄目ですね」
生きている。
その周囲に残った古い蜘蛛の巣だけを外し、蜘蛛そのものはそのままにする。
それから急に、自分が何をしているのか可笑しくなった。
巨人の死骸や魔力だまりを収納していた能力で、蜘蛛の巣を選別している。
「大掃除では反則では……」
「澪?」
「はい!」
台所から祖母の声。
澪は反射的に雑巾を動かした。
「何か言った?」
「何でもないよ!」
祖母が戻ってきた。
澪は何食わぬ顔でサッシを拭いている。
祖母は特に気にせず別の窓へ向かった。
これならいける。
見られなければ。
その条件が追加されたことで、ただの大掃除が急に難しくなった。
和室の押し入れを開けた時、澪はしばらく無言になった。
布団。
季節物の箱。
昔から置いてある小物。
奥を掃除するには、全部出さなければならない。
祖母は台所にいる。
包丁の音が聞こえる。
「……今ですね」
澪は襖の向こうを一度確かめた。
押し入れの中身をまとめて収納する。
布団も箱も消え、板だけが残った。
奥には思った以上に埃が溜まっている。
「埃だけ」
収納。
板面には雑巾をかける。
いつもと同じ場所へ戻せるよう、中身の位置も覚えてある。
掃除を終え、再出力しようとした、その時だった。
「澪~?」
澪の肩が跳ねた。
「は、はい!」
スリッパの音。
廊下へ近づいてくる。
澪は空っぽの押し入れを見た。
まずい。
布団。
戻す。
箱。
戻す。
小物。
戻す。
元の位置。
元の向き。
ここで勝手にきれいに並べ直してはいけない。
祖母が覚えている置き方と変われば、それだけで余計な質問が増える。
最後の箱を戻した直後、祖母が襖の向こうから顔を出した。
「何してるの?」
「押し入れの掃除」
「もう終わったの?」
「……うん」
「さっき始めたばかりじゃなかった?」
「集中したので」
「そういうものかねえ」
「そういうこともあります」
祖母は首を傾げながら、
「お茶入れたから、冷めないうちに飲みなさい」
と言って戻っていった。
「はい」
足音が遠ざかる。
澪は押し入れの前で胸へ手を当てた。
「……危なかった」
魔物なら地図に出る。
祖母も地図で位置を見れば、戻ってくる瞬間まで分かる。
そこまで考えて、澪は止まった。
「おばあちゃんの位置を地図で監視しながら大掃除するのも、何か違いますよね」
結局、その後は祖母のスリッパの音を聞き分けながら掃除することになった。
異世界で身につけた警戒能力の使い道として、正しいのかどうかは分からない。
室内の掃除が予想以上に早く終わった。
祖母は居間で棚を拭いている。
澪は天井へ目を向けた。
古い家だ。
表はきれいでも、中はどうなのだろう。
そんな軽い気持ちで鑑定を使ったのがいけなかった。
「……あ」
「どうしたの?」
「何でもないよ」
天井のさらに上。
屋根裏側の木材。
過去に湿気を受けた跡。
今すぐ危険というほどではない。
しかし、そのまま何年も放置しておきたい状態でもない。
澪は天井を見上げたまま少し考えた。
祖母は気づいていない。
室内側から見ても分からない。
なら、直しても気づかれない。
「おばあちゃん、屋根裏も埃あるか見てくるね」
「屋根裏?」
「うん」
「何年も見てないよ、そんなところ」
「だから」
「落ちないでよ」
「気をつけます」
点検口を開け、身体を上げる。
祖母から見えなくなったところで、澪は息を吐いた。
「ここなら大丈夫ですね」
暗い。
冬の外気に近い冷たさがあり、乾いた木材の匂いがする。
ライトを収納から出す。
光を動かすと、梁や屋根下地、断熱材、古い配線が浮かび上がった。
そして埃。
かなりある。
「まず掃除から」
木材、配線、断熱材は除外。
長年積もった埃。
蜘蛛の巣。
乾いた虫の死骸。
古い木屑。
不要な細かなゴミ。
収納。
光の筋の中を漂っていた埃まで減り、屋根裏の空気が変わった。
「これは……気持ちいいですね」
だが問題はそこではない。
鑑定を進める。
湿気を受けた部分。
木材内部へ余分に残った水分。
梁の端には、表面より内部の方が弱っているところがあった。
澪はそこへ手を当てた。
「見なければよかった、ということはないですよね」
見つけたのだから直す。
袖をさらに上げた。
「ふんすっ」
まず余分な水分だけを収納。
木材そのものを乾かし切るのではなく、状態を見ながら止める。
次に、すでに強度を失って崩れかけている部分だけを取り除く。
小さな欠損なら、収納内で準備した木粉と接着材を使った充填材。
材料の準備も混合も収納内で終わらせる。
現場へ出すのは完成したものだけだ。
奥の空隙へ直接出力。
表面を整える。
再び鑑定。
「ここはこれで大丈夫」
次。
こちらは違った。
梁の一部が内部まで傷んでいる。
充填材を詰めただけでは足りない。
健全な部分と弱った範囲を鑑定で分け、荷重のかかり方を見る。
収納内で補強用の木材を加工する。
既存の木へ合う形。
見える側の姿は変えない。
傷んだところを段階的に除去し、その空間へ補強材を出力する。
隙間を充填。
再鑑定。
澪はライトの角度を変えた。
「……よし」
外からは何も変わっていない。
色も。
古さも。
祖母が見たとしても、昨日との違いは分からない。
ただ、中身だけが丈夫になった。
そこで澪はようやく気づいた。
「大掃除でしたよね、今日」
返事はない。
もちろん屋根裏なので誰もいない。
澪は次の梁へライトを向けた。
上を見てしまった。
なら、下も気になる。
それが間違いだったのかもしれない。
床下点検口を開けた澪は、暗がりを覗き込んだ。
「……ありますね」
祖母には、
「床下も埃あるか見てくる」
としか言っていない。
中へ入る。
地面から冷気が上がり、土と古い木の匂いがした。
ライトを出す。
鑑定。
昔の工事で残った木片。
細かなゴミ。
埃。
湿気の溜まりやすい一角。
そして土台と柱脚の一部。
「やっぱり」
古い家なのだ。
何十年も何も起きない方がおかしい。
祖父母は普通に暮らしている。
だから、表へ出ていないだけ。
明日には祖父も帰ってくる。
澪は袖をまくり直した。
「ふんすっ」
ゴミを収納。
余分な水分を抜く。
弱った木材だけを分ける。
収納内では、必要な形の補強材を並行して加工する。
既存の土台の形を崩さない。
外から見えるところへ変化を出さない。
劣化した内部を除去し、そこへ加工済みの木材を直接出す。
小さな空隙は充填材。
再鑑定。
「ここはもう少し」
もう一つ補強。
状態を見る。
「はい」
次の柱脚へ移る。
気づけば周囲には、収納から出したライトや工具、加工済みの補強材が並んでいた。
床下だけを見れば、もう大掃除ではない。
完全に工事現場だった。
その時。
「澪~?」
澪が止まった。
今度は近い。
頭上から声がする。
「澪~? お昼出来たよ~」
床板越しにスリッパの音。
点検口へ近づいている。
「まずい」
ライト、収納。
工具、収納。
余った補強材、収納。
充填材、収納。
木屑、収納。
作業途中で露出していた部分を一瞬で仕上げ、余計なものをすべて回収する。
「澪? 聞こえてる?」
「聞こえてる! 今出る!」
点検口へ向かう。
澪が顔を出す頃には、床下はただの古い床下へ戻っていた。
祖母が上から覗いている。
「ずいぶん長いこと入ってたねえ」
「埃が多くて」
「そうなの?」
「うん」
祖母が澪の服を上から下まで見た。
「でも、あんまり汚れてないね」
澪の返事が一拍遅れた。
「……汚れないように気をつけたから」
「上手に気をつけるねえ」
「頑張りました」
「ご飯冷めるよ」
「今行く」
祖母が先に居間へ戻る。
澪は点検口を閉めながら、その背中を見送った。
「……危なかった」
魔物相手なら、敵が来れば迎撃すればいい。
祖母は昼食を呼びに来ているだけである。
迎撃出来ない。
追い払うわけにもいかない。
澪は小さく息を吐いた。
「大掃除で、こんなに隠密行動するとは思いませんでした」
昼食の食卓で、祖母は午前中の秘密を何一つ知らなかった。
「そこまで掃除しなくてもよかったのに」
「せっかく来たから」
「押し入れだけじゃなくて、屋根裏も床下も見たんでしょう?」
「埃があったから」
「きれい好きになったねえ」
「……そうかもしれない」
澪は味噌汁を飲んだ。
祖母宅は、朝よりかなり丈夫になっている。
屋根裏の梁も。
床下の土台も。
祖母自身はまったく気づいていない。
戸の見た目も、床の感触も、柱の色も変えていない。
元から見えていなかった問題だけを、見えないまま処理した。
それでいい。
むしろ、それが成功だった。
「食べたら病院行くんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、ゆっくりしてる暇ないね」
「おばあちゃんはゆっくりしてていいよ」
「私の家でしょう」
「今日は私がやる日です」
「朝からずっとやってるじゃない」
祖母は笑った。
澪も笑って箸を動かした。
屋根裏から床下まで補強されたとは、最後まで言わなかった。
午後の市民病院は、昨日と同じ消毒液の匂いがした。
祖父の病室へ入る。
「おお、来たか」
声が昨日よりさらに元気だった。
「元気そうだね」
「だから最初から元気だと言ってる」
祖母が椅子へ座る。
「足折って入院してる人が何言ってるの」
「足だけだ」
「その足が大事なの」
澪は祖父へ鑑定を使った。
目が止まる。
昨日よりかなり回復している。
手術後の骨折という事実は残っている。
突然何もなかった状態へ戻ったわけではない。
けれど、進み方は明らかに早い。
澪は表情を変えないようにしながら、昨日の点滴を思い出した。
効いている。
しかも今のところ、効きすぎて騒ぎになるほどではない。
それなら十分だった。
しばらくして医師から説明があった。
「経過はかなり良好です」
祖父は得意そうな顔をする。
「年齢を考えても、驚くほど回復が早いですね」
その言葉で、澪の背筋がほんの少しだけ伸びた。
「状態も安定していますし、明日退院して構わないでしょう」
「ほら」
祖父が祖母を見る。
「だから大したことはないって言ってんじゃないの」
「先生が治してくれたんでしょう」
「俺の身体が丈夫なんだ」
「手術してもらった人が何言ってるの」
「両方でいいじゃない」
澪が間へ入る。
祖父はまだ何か言いたそうだったが、退院出来ることの方が嬉しいらしい。
「明日迎えに来るからね」
「別に一人で帰れるぞ」
「無理です」
「タクシーで」
「迎えに来ます」
澪が言うと、祖母も横から、
「黙って迎えられなさい」
と重ねた。
祖父は渋々口を閉じた。
澪はもう一度だけ鑑定結果を見る。
追加はしない。
これ以上早める必要はない。
病院の治療の中で、十分に帰れるところまで来た。
それでいい。
病院を出たところで、澪は祖母へ言った。
「今日はうちに泊まっていけば?」
「え?」
「明日また一緒におじいちゃん迎えに来るんでしょう。一回戻るより、その方が楽だよ」
「いいのかい?」
「もちろん」
祖母は少し考えてから笑った。
「じゃあ、そうしようかね」
軽自動車へ乗る。
夕方の道路には正月飾りを付けた家が増えていた。
信号へ近づく前に澪がアクセルを戻す。
必要なだけ減速し、止まる。
祖母が助手席で身体を揺らすこともない。
「澪の運転、ほんと楽だねえ」
「今日はちゃんと意識してます」
「何を?」
澪は少し間を置いた。
「安全運転」
「昨日もしてたでしょう」
「そうなんだけど」
移動加速。
昨日、自分でも気づかないうちに使っていたスキルを、今日は意識している。
速くするためではない。
余計な操作を減らす。
滑らかに目的地へ移動する。
それだけでも運転はずいぶん変わる。
実家へ着くと、母が玄関へ出てきた。
「おかえり。おばあちゃんも一緒?」
「今日泊まってもらうことにしたの。明日一緒に迎えに行くから」
「その方がいいわね」
「じいちゃん、明日帰れるって」
「本当?」
母の顔が明るくなる。
「先生もびっくりするくらい回復が早いって」
「よかった」
祖母が上着を脱いでいる横で、母が台所を振り返った。
「ちょうどいいわ。まだおせち終わってないのよ」
「じゃあ手伝おうか」
祖母がすぐ答えた。
澪も靴を脱ぐ。
「私もやる」
「朝から動きっぱなしでしょう」
「まだ大丈夫」
「じゃあ、あっちの野菜お願い」
「はい」
大晦日の後半戦が、そのまま始まった。
夕方の台所は、3人が立つと少し狭かった。
鍋から湯気が上がり、だしと煮物の匂いが暖かい空気に混じる。
祖母が野菜を見る。
母が鍋を見る。
澪はその間で包丁を持っていた。
「これくらい?」
「もう少し大きくていいよ」
祖母が言う。
母が横から覗く。
「それだと火が通るの遅いから、このくらいでいいわよ」
澪は包丁を止めた。
「基準が2つあります」
「家の料理なんてそんなものよ」
母は何でもないように言った。
「昔はもう少し大きかったんだよ」
「昔でしょう」
「その方が食べ応えあるじゃない」
「今はこっちの方がみんな食べるの」
祖母と母が話している。
澪は切りかけの根菜を見た。
前に味噌汁を習った時も、母は「このくらい」としか言わなかった。
今日は、その母が祖母へ「昔でしょう」と言っている。
母の味にも、その前がある。
祖母から母へ。
そのままではなく、少しずつ変わりながら続いてきた。
「澪、止まってる」
「あ、ごめん」
「また何か考えてたでしょう」
「料理のこと」
「今日は本当?」
「今日はかなり本当です」
黒豆の艶。
なますの赤と白。
甘い栗きんとん。
煮物の鍋。
少しずつ正月らしい色が台所へ増えていく。
澪は味見をしながら、母と祖母の手の動きを見ていた。
「それ、もう少し」
「何を?」
「味」
「何をどのくらい?」
祖母が笑った。
「食べれば分かるよ」
「お母さんと同じこと言う……」
「私が教えたんだから当たり前でしょう」
「そういうことだったんですね」
母が横から、
「全部おばあちゃんの通りにはしてないけどね」
と言った。
「ほら、変えたでしょう」
「時代が変わるんだから味も変わるの」
2人のやり取りを聞きながら、澪はもう一度味見した。
母の味。
祖母の味。
どちらか一つが正解なのではない。
続いてきた結果が、今ここにある。
料理が出来上がり、重箱へ詰め始める。
少し多めに作ったため、入り切らない分も残った。
「これ、明日おじいちゃん帰ってくるなら多いくらいでちょうどいいね」
母が言う。
「うん」
澪は黒豆を見た。
ヴァルトの顔が浮かぶ。
味噌汁を飲んだ時の、あの表情。
2000年から26年。
正月料理も、ずいぶん長い間食べていないのだろうか。
分からない。
でも、持っていけばいい。
食べてみてもらえばいい。
真壁にも。
あの人は放っておくと設計や作業へ入り込んで、食事の方を後回しにする。
2人分くらいなら。
祖母が別の鍋を見に行く。
母も流しへ移る。
今。
澪は出来上がった料理から、ほんの少量ずつ収納した。
黒豆。
なます。
煮しめ。
栗きんとん。
家族用の重箱には手を付けない。
余った分から、収納内の食品用の場所へそれぞれ分けて入れる。
混ざらないように。
形も崩さない。
これで真壁とヴァルトの分。
「澪?」
「はい!」
澪の背筋が伸びた。
母が振り返っている。
「味見した?」
「……しました」
「どう?」
「美味しいです」
「ならいいけど」
母はまた流しへ向いた。
澪は小さく息を吐いた。
祖母宅で2回。
今度は母。
今日は名前を呼ばれるだけで心臓に悪い。
「何してるの?」
今度は祖母が来た。
「何もしてないよ」
「急に姿勢よくなったから」
「台所なので」
「台所で姿勢よくなるの?」
「なることもあります」
祖母はよく分からない顔をしながら、出来上がった料理へ目を戻した。
澪も何食わぬ顔で重箱の続きを詰めた。
夕食の席には、父、母、祖母、澪の4人がそろった。
テレビでは大晦日の番組が流れている。
台所には明日のためのおせちが置かれ、冷蔵庫にも正月用の料理が収まっている。
父が箸を動かしながら聞いた。
「じいちゃん、本当に明日退院なのか」
「そうだよ」
祖母が嬉しそうに答えた。
「先生も、年齢の割には驚くくらい回復が早いって」
「もう?」
母が目を丸くする。
「本人は何て?」
「だから大したことないって言っただろ、だって」
父が吹き出した。
「言いそうだな」
「先生が治してくれたのに、自分が丈夫だからだって」
「明日帰ってきても大人しくしてないだろうな」
「そこはみんなで見張らないと」
祖母が言う。
澪は味噌汁を飲みながら、祖父の鑑定結果を思い出した。
十分に回復していた。
あとは普通に治っていけばいい。
もう何も足さない。
そこで、ふと思い出す。
「そういえば、お父さん、お母さん」
「何?」
「今日、疲れどう?」
母の手が止まった。
「疲れ?」
「昨日の薬」
「ああ」
母は一度肩を回した。
朝から大晦日の準備をしていた。
台所にも立っていた。
掃除もした。
いつもなら、この時間にはもっと腰を下ろしたくなるはずだ。
「……そういえば」
「どう?」
「夕方の疲れが、いつもより来てないね」
母自身がそこで初めて気づいたようだった。
父も背もたれから身体を起こす。
「俺もだな」
「朝は?」
「朝じゃ分からなかった。今くらいの時間になると違う」
「だるくない?」
「普段よりは」
「変に興奮してるとか」
「そんなのはない」
澪は2人の顔を見比べた。
食欲もある。
声も普通。
元気過ぎて落ち着かないということもない。
一日動いた後に、疲れの残り方だけが違う。
疲労耐久強化薬。
こちらも、ちゃんと効いている。
「また何か飲ませたの?」
祖母が聞いた。
「昨日、もう一種類」
「私にもある?」
「今日はなし」
「どうして?」
「おばあちゃんは昨日飲んだばかりだから。次々飲むものじゃないよ」
「元気になるならいいじゃない」
「そういう使い方はしません」
祖母は少し残念そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
「それと」
澪は3人を見た。
「もう一度お願いします。薬のことは、他の人に話さないでね」
「まだ秘密なのか」
父が聞く。
「まだ秘匿事項です」
「商品になるまで?」
母。
「それも決まってないから」
「近所には言わないよ」
祖母が言った。
「お願いします」
「病院にも?」
澪の返事がほんの一瞬止まった。
昨日の点滴。
今日の驚異的な回復。
「……特に病院にはお願いします」
「そんなに?」
「かなり」
祖母は理由を知らない。
父も母も知らない。
知らないままでいい。
澪は湯飲みを持ち上げた。
家族が元気なら、それで十分だった。
夜が深くなると、家の中もようやく落ち着いた。
母は台所仕事を終え、祖母も風呂を済ませた。
父はこたつでテレビを見ている。
澪も隣へ入り、みかんを一つ取った。
外はすっかり暗い。
窓ガラスの向こうで冬の風が木の枝を揺らしている。
昼間までの忙しさが嘘のようだった。
「今年はじいちゃん、病院で年越しになっちゃったねえ」
祖母がテレビを見ながら言った。
「でも明日帰ってくるよ」
澪が答える。
「そうだね。明日だからいいか」
祖母はそう言って笑った。
昨日は一人だった家。
今日は実家で4人。
明日は祖父も戻る。
澪はこたつの中で足を伸ばした。
収納の一角には、夕方こっそり取っておいたおせちがある。
真壁さん。
ヴァルトさん。
ヴァルトは、どんな顔をするだろう。
懐かしいと思う料理があるかもしれない。
ないかもしれない。
それは食べてもらってからでいい。
真壁には、とりあえず作業を止めて食べてもらおう。
「澪、眠い?」
母が聞いた。
「まだ大丈夫」
「朝から動いてたのに」
「全然平気」
「それも薬?」
「たぶん、それもあります」
母が何とも言えない顔をする。
「ほんとに変なもの作ってる会社ね」
「否定しにくいです」
時計が新しい日に近づいていく。
テレビの中も年越しの空気へ変わり、家族の会話も少なくなった。
祖母が時計を見た。
「もうすぐだね」
「眠くない?」
母が聞く。
「ここまで起きてたんだから、年が変わるまでは起きてるよ」
父も時計を見る。
澪はスマートフォンを手元へ置いた。
画面の日付はまだ12月31日。
少しして、テレビの音が一段大きくなる。
0時。
「あけましておめでとう」
誰からともなく言った。
「あけましておめでとうございます」
澪も返す。
母。
父。
祖母。
同じ部屋で新しい年を迎える。
スマートフォンの日付が1月1日へ変わった。
明日は祖父を迎えに行く。
収納の中には、向こうへ持っていく小さな正月料理もある。
けれど、今すぐ何かを始める必要はない。
澪はスマートフォンを伏せ、こたつの中でもう一度足を伸ばした。