押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第255話 社長の冬休み4

 

 元日の朝、市民病院の正面玄関を出た祖父は、迎えに来た澪と祖母を見るなり、自分で歩き出した。

 

 数歩も行かないうちに祖母が腕を取る。

 

「だから、歩けるって言ってるだろ」

 

「歩けるのと、勝手に歩いていいのは別でしょう」

 

「先生だって退院していいって言ったぞ」

 

「退院していいとは言ったけど、好きに歩き回っていいとは言ってないよ」

 

 病院の外はよく晴れていた。暖房の効いた病棟から出たばかりの頬に、冬の乾いた空気が刺さる。玄関前の日陰には昨夜の冷たさがまだ残っていた。

 

 祖父は祖母に腕を取られたまま、それでも自分の足で歩こうとする。

 

 声はよく通っていた。

 

 澪は祖父の歩幅に合わせ、手にしていた荷物を持ち直す。そのついでに、そっと鑑定を重ねた。

 

 骨折そのものは残っている。

 

 けれど、昨日より状態はいい。

 

 医師が「年齢を考えても驚くほど回復が早い」と首を傾げた、その続きをさらに半歩進んだくらいだ。

 

 澪は鑑定を閉じた。

 

 これなら、もう触らなくていい。

 

「ほら、澪だって何も言わないじゃないか」

 

「言いますよ」

 

 祖父がこちらを見る。

 

「今日はおとなしく迎えられてください」

 

「家までだぞ」

 

「家に着いてからもです」

 

「何でだ」

 

「退院した日だからです」

 

「退院したってことは、もう病人じゃないだろ」

 

 澪は少し考えた。

 

「退院出来るのと、何をしてもいいのは別です」

 

 祖母がすぐ横で頷く。

 

「ほら」

 

「2人とも細かいな」

 

「おじいちゃんが大雑把すぎるんです」

 

 駐車場まで行き、祖父と祖母には後部座席へ乗ってもらった。

 

 澪は運転席へ回る。

 

 車を出してすぐ、昨日気づいた移動加速を意識した。

 

 信号が変わる前から早めにアクセルを戻す。停止する時も、祖父の身体が前へ持っていかれないようにブレーキを使う。カーブへ入る前には速度を落とし、曲がり終えてから静かに加速する。

 

 速く走るためではない。

 

 こういう使い方も出来るらしい。

 

「澪」

 

「何?」

 

「運転、上手くなったな」

 

 後ろから祖父が言った。

 

「ありがとう」

 

「昔はもっとガクンガクンしてただろ」

 

「いつの話?」

 

「免許取った頃だ」

 

「それと比べないで」

 

 祖母が笑った。

 

「昨日も言ったけど、本当に楽だよ」

 

「それならよかった」

 

 澪は前を向いたまま答えた。

 

 

 

 

 

「やっぱり家が一番だな」

 

 祖父は居間のいつもの場所へ腰を下ろすなり、満足そうに息を吐いた。

 

「病院で散々帰りたいって言ってたものね」

 

「飯も家の方がいい」

 

「先生と看護師さんに聞かせたくないねえ」

 

 昨日まで空いていた座布団に本人が座っている。

 

 澪はそれを見て、ようやく肩の力を抜いた。

 

 祖母がお茶を入れようと立ったところで、バッグを開ける。

 

「その前に、2人に飲んでもらいたいものがあります」

 

 祖母の動きが止まった。

 

 澪の手元を見る。

 

「……それ」

 

「はい」

 

「昨日の?」

 

「おじいちゃんのは、昨日おばあちゃんが飲んだのと同じ。おばあちゃんのは別のです」

 

 祖母の顔から警戒が消えない。

 

「別でも苦いんでしょう?」

 

 澪は小瓶を見た。

 

「……苦いです」

 

「ほら」

 

「何がほらなんだ」

 

 祖父はまだ余裕だった。

 

「薬なんて苦いもんだろ。子供じゃあるまいし」

 

 祖母が祖父を見る。

 

「飲んでから言いな」

 

「大袈裟だな」

 

 澪は台所へ行った。

 

 茶と水を用意し、口直しに甘いものも小皿へ載せる。正月の料理が並ぶ食卓に、小瓶だけがどうにも馴染まなかった。

 

「じゃあ、おじいちゃんはこっち」

 

 竜命薬を差し出す。

 

「おばあちゃんはこっちね」

 

 疲労耐久強化薬。

 

「逆にしないでよ」

 

「しません」

 

「見た目同じじゃないか」

 

 祖父が瓶を持ち上げる。

 

「私が分かってるから大丈夫」

 

「何が違うんだ」

 

「効き方が違います」

 

「ふうん」

 

 祖父はそれ以上聞かずに蓋を開けた。

 

 祖母が湯飲みを指す。

 

「お茶、手元に置いときな」

 

「いらん」

 

「置いときなって」

 

「一気に飲めば同じだ」

 

 祖父はそのまま竜命薬を飲んだ。

 

 喉が動く。

 

 そのあと、ぴたりと止まった。

 

 澪は何も言わずに見ている。

 

 祖父の目だけが、ゆっくり湯飲みへ向いた。

 

 手が伸びる。

 

 一口。

 

 もう一口。

 

「……おい」

 

「はい」

 

「これは苦いっていう味じゃないぞ」

 

 祖母が腕を組む。

 

「だから言ったでしょう」

 

「何で先にもっと強く止めないんだ」

 

「止めたよ」

 

「大袈裟だと思うだろ、普通」

 

「だから飲んでから言いなって言ったんだよ」

 

 澪は口元を押さえた。

 

 父も似た顔をした。母もそうだった。祖父まで湯飲みを離さない。

 

 味についてだけは、誰に渡しても評価がぶれない。

 

「澪」

 

「何?」

 

「これを作ってるところは、味の研究はしてないのか」

 

「……そこは課題です」

 

「最優先にした方がいいぞ」

 

「伝えておきます」

 

 誰に、とは言わなかった。

 

 祖母は自分の瓶を見る。

 

「こっちは?」

 

「種類は違うけど、味は期待しない方がいいよ」

 

「分かった」

 

 昨日の経験があるだけに準備がいい。

 

 湯飲みを右手のすぐそばへ置き、薬を飲む。

 

 すぐに茶。

 

「……こっちも苦いじゃない」

 

「すみません」

 

「何でどっちも苦いんだろうねえ」

 

「そこは私も知りたいです」

 

 祖父母が並んで渋い顔をして茶を飲んでいる。

 

 澪は2人の様子を見た。

 

 今のところ、苦い以外に変わった様子はない。

 

 昨日だって、祖母の違いが分かったのは一晩寝てからだった。

 

 残りの瓶へは手を伸ばさず、バッグを閉じる。

 

「それと」

 

 澪は2人を見た。

 

「これ、本当に誰にも話さないでね」

 

 祖父が甘いものを口へ入れながら眉を上げる。

 

「何でだ」

 

 答えるより早く祖母が言った。

 

「秘密なんだって」

 

「何が」

 

「この薬が」

 

「薬くらいで?」

 

「近所も駄目。友達も駄目。病院も駄目」

 

 澪は祖母を見た。

 

「覚えててくれたんだ」

 

「これだけ言われれば覚えるよ」

 

「助かります」

 

 祖父は2人を交互に見た。

 

「そんな大したものなのか」

 

「まだ研究中なの。誰にでも渡せるものじゃないから、変な噂が広がると困るの」

 

「会社で作ってるのか」

 

「健康関係の試作品だと思ってて」

 

「病院の先生に見せたら分かるんじゃないか」

 

 澪の返事が一瞬遅れた。

 

「病院には特に言わないでください」

 

「何で病院が一番駄目なんだ」

 

「話が大きくなるから」

 

 それ以上は言わない。

 

 昨日の点滴と、医師が驚いた回復の速さ。そこへ孫から謎の健康薬をもらった話まで加える理由はなかった。

 

「じいちゃん」

 

 祖母が横から言う。

 

「澪が困るって言ってるんだから、黙っときな」

 

「別に言いふらすつもりはない」

 

「病院には話そうとしてたじゃない」

 

「それは言いふらすのとは違うだろ」

 

「同じ」

 

「違う」

 

「お願いします」

 

 澪が頭を下げる。

 

 祖父はしばらく黙っていたが、やがて湯飲みを置いた。

 

「分かったよ」

 

「ありがとう」

 

 澪もそこでようやく息をついた。

 

 

 

 

 

 薬の話が終わると、祖父はやっと正月らしくお茶を飲み始めた。

 

 テレビでは新年番組が賑やかに流れている。

 

 澪も座布団へ腰を下ろしたところで、祖父が何かを思い出したように立ち上がろうとした。

 

「おじいちゃん」

 

「何だ」

 

「何するの」

 

「ちょっと待ってろ」

 

「取るものなら私が取るよ」

 

「これは俺が取る」

 

 祖母に睨まれながら、祖父は近くの引き出しを開けた。

 

 中から小さな封筒を出す。

 

 そのまま澪の前へ差し出した。

 

「ほら」

 

「……何?」

 

「お年玉」

 

 澪は封筒と祖父の顔を交互に見た。

 

「え?」

 

「正月だろ」

 

「いや、そうだけど」

 

「ほら」

 

「いらないよ」

 

「何でだ」

 

「私、もう自分で稼いでるし」

 

「知るか」

 

「会社の社長なんだけど」

 

「それとこれとは別だ」

 

 即答だった。

 

「でも」

 

「孫にやるんだからもらっとけ」

 

「大学の学費も自分で払えるよ」

 

「だから何だ」

 

 澪は祖母を見た。

 

「もらっときなさい」

 

 助けてはくれなかった。

 

「おばあちゃんまで」

 

「じいちゃん、これ渡すの楽しみにしてたんだから」

 

「余計なこと言うな」

 

「入院してた時も、正月までに帰れなかったらどうするって気にしてたじゃない」

 

「言うなって」

 

 祖父が居心地悪そうに視線を逸らす。

 

 澪は封筒を見た。

 

 このところ会社で動かしている金額とは桁が違う。けれど、そんな話を持ち出したところで、祖父が封筒を引っ込めるとも思えなかった。

 

「……ありがとう」

 

 両手で受け取る。

 

「おう」

 

 祖父の顔がすぐに緩んだ。

 

 澪は封筒をバッグへしまった。

 

 手を離してからも、そこだけ妙に照れくさかった。

 

 

 

 

 

 昼前。

 

 祖父が庭を見ながら言った。

 

「そうだ、澪」

 

「今度は何?」

 

「あそこの小屋、見てくか」

 

 庭の端にある古い小屋を指している。

 

「何で?」

 

「もう使わん物が結構ある。欲しいものがあったら持ってけ」

 

「私が?」

 

「会社やってるなら何か使うだろ」

 

 澪は首を傾げた。

 

「会社って、そういうものなの?」

 

「知らん」

 

「知らないんだ」

 

 後ろから祖母が言った。

 

「片付けさせたいだけでしょう」

 

「違う」

 

 返事が早い。

 

「じゃあ自分で片付ければいいじゃない」

 

「まだ使える物を捨てるのはもったいないだろ」

 

「それで何年置いてるの」

 

「使う人がいなかったからだ」

 

「澪が来た途端、使う人にするんだね」

 

 祖父は聞こえなかったことにして小屋へ向かった。

 

「転ばないでよ」

 

「転ばん」

 

「ゆっくり」

 

「分かってる」

 

 澪も後ろをついていく。

 

 戸を開けると、冷えた空気と一緒に木と鉄と油、それに土埃の匂いが出てきた。

 

 細い窓から差す光の中を、埃がゆっくり漂っている。

 

「うわ」

 

「汚いだろ」

 

「そうじゃなくて」

 

 入口近くに古い木製の道具箱があった。

 

 澪はしゃがんで蓋を開ける。

 

 鉋や鑿、両刃鋸。手回しドリルに曲尺、墨壺、砥石まで入っている。刃には薄く錆の浮いたものもあったが、木の柄には長く使われた艶が残っていた。

 

 鉋を一つ手に取る。

 

 鑑定。

 

 刃を研ぎ直せば、まだ十分使える。

 

「これ、いいの?」

 

「それか? もう使わんぞ」

 

「もらっていい?」

 

「好きなの持ってけって言っただろ」

 

 澪は鉋を返さず、そのまま手の中でひっくり返した。

 

 電源も燃料も要らない。刃を研いで、人が手で動かせば使える。

 

 向こうの職人へ見せるなら、むしろこういう道具の方が話が早い。

 

「そんな古いのがいいのか?」

 

「古いから……」

 

 言いかけて止める。

 

「こういう物の方が参考になることもあるから」

 

「会社って変なもの使うんだな」

 

「うちはちょっと普通じゃないから」

 

「知ってる」

 

「知ってるの?」

 

「社長が正月に小屋の古道具漁ってる会社は普通じゃないだろ」

 

「……それはそうですね」

 

 道具箱の奥から手回しドリルを出す。

 

 ハンドルを回すと、歯車が噛み合って先端が回った。

 

 澪はもう一度回した。

 

 これなら電気がなくても穴を開けられる。

 

「これも?」

 

「持ってけ」

 

 祖父の返事がどんどん軽くなる。

 

 床際には鉄の滑車が転がっていた。

 

 1つだけのものと、複数を組み合わせたものがある。

 

 澪は片方を持ち上げた。

 

「重いな」

 

「昔はそれで色々吊ったんだ」

 

「これ、まだ使える?」

 

「油差せば使えるだろ」

 

 致命的な傷みはない。

 

 近くには太いロープと手動ウインチ、古い車載用ジャッキまであった。

 

 荷を吊る。

 

 材木を上げる。

 

 倉庫で重い物を動かす。

 

 滑車ひとつでも、向こうなら使い道はいくらでもありそうだった。

 

 真壁なら、たぶん一度回しただけで寸法を測り始める。

 

「澪」

 

「はい」

 

「さっきから顔が仕事の顔になってるぞ」

 

「そう?」

 

「正月だぞ」

 

「分かってるんだけど……これ、面白い」

 

 祖父が滑車を見る。

 

「滑車が?」

 

「滑車が」

 

「変わったなあ、お前」

 

 壁際には農具が並んでいた。

 

 鍬に鎌、鉈、剪定鋏。スコップや箕、竹籠もある。奥には古い一輪車まで残っていた。

 

 澪は鎌を手に取り、刃先を見る。

 

 こういう物も、現物を持っていけば話が早い。

 

 そのまま写す必要はない。向こうの土や、使う人の身体に合わせて職人と相談すればいい。

 

「これも使うのか?」

 

「全部じゃないけど、何本か」

 

「全部持ってってもいいぞ」

 

「全部はいいよ」

 

「遠慮するな」

 

「遠慮じゃなくて選んでるの」

 

 棚には古い缶がいくつも並んでいた。

 

 蓋を開ける。

 

 釘。

 

 別の缶にはボルトとナット。蝶番や細かな金具まで雑多に入っている。

 

「これは……」

 

「そんなのまでいるのか?」

 

「こういうの、口で説明するより見せた方が早いから」

 

「釘が?」

 

「釘も」

 

 祖父にはますます分からないらしい。

 

 澪は缶ごと脇へ置いた。

 

 さらに奥へ行く。

 

 木材の端材。

 

 トタンのバケツ。

 

 ホーロー容器。

 

 大きな甕。

 

 そして、布をかぶった大きな丸いもの。

 

「これ何?」

 

 布を外す。

 

「あ」

 

 臼だった。

 

 横には杵も立てかけられている。

 

「まだあったんだ」

 

 祖父が言う。

 

「これもいいの?」

 

「使うなら持ってけ」

 

「臼も?」

 

「重いぞ」

 

「重さは大丈夫」

 

 言ってから澪は止まった。

 

 祖父が眉を上げる。

 

「車に載るか?」

 

「……なんとかします」

 

「一人じゃ持てんぞ」

 

「大丈夫」

 

「何が大丈夫なんだ」

 

「方法があります」

 

「台車か?」

 

「そういう感じ」

 

 澪は臼の縁を撫でた。

 

 昨夜、母と祖母と作ったおせちが収納に入っている。真壁とヴァルトへ持っていく分だ。

 

 餅もある。

 

 ヴァルトなら、臼と杵を見ればすぐ分かるだろう。

 

「これ、もらう」

 

「おう」

 

 祖父は即答した。

 

 

 

 

 

 最初は道具箱1つのつもりだった。

 

 ところが小屋の一角には、いつの間にか澪が選んだ物がかなり集まっていた。

 

 祖父がそれを見て言う。

 

「それだけか?」

 

「十分だよ」

 

「その隣の箱も使わんぞ」

 

「箱ごと?」

 

「持ってけ」

 

「おじいちゃん、さっきから増えてない?」

 

「どうせ使わん」

 

 祖母が小屋の入口まで来て、中を覗いた。

 

「ほらね」

 

「何がだ」

 

「片付けさせてるだけじゃない」

 

「違う。使ってもらうんだ」

 

「昨日まで捨てるなって言ってたでしょう」

 

「捨てるのと使ってもらうのは違う」

 

「物がなくなるのは同じだよ」

 

「違う」

 

「どう違うの」

 

 祖父は少し考えた。

 

「気分が違う」

 

 祖母が澪を見る。

 

「だって」

 

「そこは分かる気がする」

 

「澪まで」

 

 澪は古い道具箱へ目を落とした。

 

 捨てれば、そこで終わる。

 

 向こうへ持っていけば、まだ使える。

 

「大事に使うから」

 

「そうしろ」

 

 祖父はそれで満足したらしい。

 

「昼にするよ。澪も、その辺で一回やめな」

 

「うん」

 

 祖父も家へ戻ろうとする。

 

「臼、手伝うぞ」

 

「大丈夫」

 

「重いって」

 

「大丈夫だから、おじいちゃんは中に入ってて」

 

「でもな」

 

「退院した日に臼持たないで」

 

 祖父が黙った。

 

「じゃあ、無理なら呼べ」

 

「呼ぶから」

 

 祖父母が家へ入る。

 

 戸が閉まった。

 

 澪は庭に残り、家の窓を見た。

 

 誰もこちらを見ていない。

 

「今ですね」

 

 まず大工道具箱を収納した。

 

 次に滑車、ウインチ、ジャッキ。ロープや農具、金具の缶、木材、容器も入れていく。

 

 刃物は刃物。

 

 ロープは別。

 

 金具は缶ごと。

 

 臼と杵は最後にまとめて入れた。

 

 小屋の一角が一気に空く。

 

「やっぱり便利……」

 

「澪ー!」

 

「はい!」

 

 肩が跳ねた。

 

 家の中から祖父の声がする。

 

「臼、重かったら手伝うぞー!」

 

「大丈夫! 来なくていいから!」

 

「一人じゃ無理だろー!」

 

「もう大丈夫だから!」

 

「もう?」

 

 澪の口が止まった。

 

「えっと……なんとかした!」

 

「そうかー?」

 

 玄関が開く気配はない。

 

 澪はそっと息を吐いた。

 

 家へ戻ると、祖父が聞いた。

 

「全部車に載ったのか?」

 

「うん。なんとか」

 

「臼も?」

 

「大丈夫」

 

「今の車、結構載るんだな」

 

「……載せ方がいいので」

 

「そうか」

 

 祖父はそれで納得した。

 

 澪は祖母からお茶を受け取り、何も言わずに口をつけた。

 

 

 

 

 

 午後、祖父母を連れていったん実家へ戻った。

 

 夕方になって父が初詣の話をすると、祖父がすぐに反応した。

 

「俺も行くぞ」

 

「おじいちゃん」

 

「神社くらい行ける」

 

「今日退院したばっかりでしょう」

 

「だから退院したんだ」

 

 祖母が呆れた顔をする。

 

「行くならゆっくり歩きな」

 

「分かってる」

 

 澪も祖父を鑑定した。

 

 短い距離を急がず歩くくらいなら大丈夫そうだ。

 

「疲れたらすぐ言ってね」

 

「疲れん」

 

「疲れたら、です」

 

「はいはい」

 

「返事が軽い」

 

 結局、父、母、祖父、祖母、澪の5人で出ることになった。

 

 元日の夕方はもうかなり冷えていた。

 

 住宅街の玄関にはしめ飾りが並び、同じ方向へ歩く家族連れも多い。遠くから神社のざわめきが聞こえてくる。

 

 澪は祖父の歩幅に合わせて歩いた。

 

 昨日まで病院にいた祖父がいる。

 

 隣には祖母。

 

 少し前を父と母が歩いている。

 

 収納の中には昨夜のおせちと、さっき小屋からもらった古道具が入っている。

 

「ようやく普通のお正月ですね」

 

 口に出すと、母が振り返った。

 

「何が?」

 

「何でもない」

 

 

 

 

 

 神社は、澪が子どもの頃から何度も来ている場所だった。

 

 大きな観光地ではない。正月になれば近所の人が自然に集まってくる、地元の神社だ。

 

 参道へ入ると、甘酒の湯気が白く上がっていた。

 

 焚き火の煙に、屋台から流れてくる焼けた醤油の匂いが混じる。砂利を踏む音の向こうで、ときどき鈴が鳴った。

 

「おや」

 

 祖父が呼び止められた。

 

「もう退院したんですか」

 

 近所の顔見知りらしい。

 

「ああ、大したことなかったからな」

 

 澪と祖母が同時に祖父を見る。

 

「足を折って入院した人が言うことじゃないよ」

 

「もう帰ってきたんだからいいだろ」

 

「無理しちゃ駄目ですよ」

 

 相手が笑った。

 

「相変わらずですね」

 

「ほら」

 

「何がほらなの」

 

 祖父母は何人かと挨拶を交わし、そのたびに澪も頭を下げた。

 

 前を歩く父のコートも、祖母が近所の人へ笑って頭を下げる姿も、屋台から流れてくる匂いも昔から知っている。

 

 王都の人混みとは違う。

 

 ここでは周囲を警戒しながら歩く必要もない。

 

「久しぶりでしょう、ここの初詣」

 

 母が言った。

 

「うん。こういう正月、久しぶりかも」

 

「昔はもっと混んでたぞ」

 

 祖父が言う。

 

「毎年それ言ってるよ」

 

 祖母がすぐ返した。

 

「実際もっと混んでた」

 

「去年も同じこと言ってたよ」

 

 列が少しずつ進む。

 

 澪は時々、祖父の歩き方だけを見た。

 

 特に苦しそうな様子はない。

 

 やがて5人の番が来る。

 

 賽銭を入れる。

 

 鈴を鳴らす。

 

 二礼。

 

 二拍手。

 

 澪は目を閉じた。

 

 家族が元気で。

 

 今年も――

 

 そこで、妙な感覚が割り込んだ。

 

 誰かに見られている。

 

 そう思ったのに、人の視線とは違った。

 

 敵意もない。

 

 地図にも何も出ていない。

 

 それでも、こちらへ向けられた何かがある。

 

 普段、鑑定を使う時はこちらから相手を見る。

 

 今は逆だった。

 

 服でも顔でもない。自分がどこへ行き、何を持ち帰ってきたのかまで覗かれているようで、澪は思わず目を開けた。

 

 隣では母が普通に手を合わせている。

 

 祖母も父も変わらない。

 

 祖父だけは、退院したばかりとは思えないほど長く拝んでいた。

 

 澪は拝殿を見る。

 

 木造の建物。

 

 灯りの向こうにある暗がり。

 

 何もいない。

 

 ――今、何かいました?

 

「澪?」

 

 母が小声で呼んだ。

 

「何?」

 

「終わったよ」

 

「あ、うん」

 

 澪も頭を下げて、家族と一緒に拝殿前を離れた。

 

 数歩歩く。

 

 まだ消えない。

 

 澪は足を止めた。

 

「どうしたの?」

 

「先に行ってて。すぐ行く」

 

 母は首を傾げたが、祖父に歩調を合わせて先へ進んだ。

 

 澪は振り返る。

 

 さっきと同じ拝殿。

 

 気のせいで済ませるには、妙に引っかかった。

 

「……鑑定」

 

-------------------------------

対象:未判定

 

観測されています。

-------------------------------

 

「……え?」

 

 澪は表示を見直した。

 

 鑑定したのはこちらなのに、返ってきたのは対象の説明ではない。

 

「私が?」

 

 その瞬間、文字が変わった。

 

-------------------------------

対象:当地鎮守

 

異界往来者を確認。

他神性の痕跡を確認。

 

……何だ、これは。

-------------------------------

 

 澪はしばらく表示を見た。

 

「何だ、これはって……」

 

 それはこちらの台詞でもある。

 

 子どもの頃から何度も来ている。

 

 去年だって来た。

 

 その時は、こんなものは何も出なかった。

 

-------------------------------

お前。

 

何になった。

-------------------------------

 

 澪は黙った。

 

 ――会社社長です。

 

 一瞬浮かんで、すぐ違うと分かった。

 

 そういう話ではない。

 

 ――それ、私も聞きたいです。

 

 この1年のことを最初から説明したら、どこから始めればいいのかも分からない。

 

 返事をしないままでいると、また表示が変わった。

 

-------------------------------

他神の接触痕跡あり。

 

古い。

非常に古い。

 

……まだいたのか。

-------------------------------

 

 澪の頭に、古い燭台が浮かんだ。

 

 ――知り合いなんですか?

 

 少し間があった。

 

-------------------------------

知り合いではない。

 

知っているだけだ。

-------------------------------

 

「……知ってるだけなんだ」

 

 それはそれで、澪には余計に分からなかった。

 

 何より「まだいた」という言い方が気になる。

 

 聞き返そうとしたところで、先に表示が変わった。

 

-------------------------------

お前。

 

また来い。

-------------------------------

 

 澪は拝殿を見た。

 

 何も見えない。

 

 ――嫌な予感しかしないんですけど。

 

 返事はすぐだった。

 

-------------------------------

嫌ではない。

 

興味がある。

-------------------------------

 

「そっちの方が困ります」

 

「澪ー?」

 

 参道の先から母が呼んだ。

 

「今行く!」

 

 澪はもう一度だけ拝殿を見てから、家族のところへ戻った。

 

「何してたの?」

 

「ちょっと気になることがあって」

 

「何?」

 

「……また今度」

 

「神社で?」

 

「神社で」

 

 母は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 

 帰りの参道にも、さっきと同じ甘酒の匂いが漂っていた。

 

 焚き火の向こうで人が笑い、背後ではまた鈴が鳴る。

 

 澪は途中で一度だけ振り返った。

 

 拝殿は何も変わらない顔で、灯りの向こうに立っていた。

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