元日の朝、市民病院の正面玄関を出た祖父は、迎えに来た澪と祖母を見るなり、自分で歩き出した。
数歩も行かないうちに祖母が腕を取る。
「だから、歩けるって言ってるだろ」
「歩けるのと、勝手に歩いていいのは別でしょう」
「先生だって退院していいって言ったぞ」
「退院していいとは言ったけど、好きに歩き回っていいとは言ってないよ」
病院の外はよく晴れていた。暖房の効いた病棟から出たばかりの頬に、冬の乾いた空気が刺さる。玄関前の日陰には昨夜の冷たさがまだ残っていた。
祖父は祖母に腕を取られたまま、それでも自分の足で歩こうとする。
声はよく通っていた。
澪は祖父の歩幅に合わせ、手にしていた荷物を持ち直す。そのついでに、そっと鑑定を重ねた。
骨折そのものは残っている。
けれど、昨日より状態はいい。
医師が「年齢を考えても驚くほど回復が早い」と首を傾げた、その続きをさらに半歩進んだくらいだ。
澪は鑑定を閉じた。
これなら、もう触らなくていい。
「ほら、澪だって何も言わないじゃないか」
「言いますよ」
祖父がこちらを見る。
「今日はおとなしく迎えられてください」
「家までだぞ」
「家に着いてからもです」
「何でだ」
「退院した日だからです」
「退院したってことは、もう病人じゃないだろ」
澪は少し考えた。
「退院出来るのと、何をしてもいいのは別です」
祖母がすぐ横で頷く。
「ほら」
「2人とも細かいな」
「おじいちゃんが大雑把すぎるんです」
駐車場まで行き、祖父と祖母には後部座席へ乗ってもらった。
澪は運転席へ回る。
車を出してすぐ、昨日気づいた移動加速を意識した。
信号が変わる前から早めにアクセルを戻す。停止する時も、祖父の身体が前へ持っていかれないようにブレーキを使う。カーブへ入る前には速度を落とし、曲がり終えてから静かに加速する。
速く走るためではない。
こういう使い方も出来るらしい。
「澪」
「何?」
「運転、上手くなったな」
後ろから祖父が言った。
「ありがとう」
「昔はもっとガクンガクンしてただろ」
「いつの話?」
「免許取った頃だ」
「それと比べないで」
祖母が笑った。
「昨日も言ったけど、本当に楽だよ」
「それならよかった」
澪は前を向いたまま答えた。
「やっぱり家が一番だな」
祖父は居間のいつもの場所へ腰を下ろすなり、満足そうに息を吐いた。
「病院で散々帰りたいって言ってたものね」
「飯も家の方がいい」
「先生と看護師さんに聞かせたくないねえ」
昨日まで空いていた座布団に本人が座っている。
澪はそれを見て、ようやく肩の力を抜いた。
祖母がお茶を入れようと立ったところで、バッグを開ける。
「その前に、2人に飲んでもらいたいものがあります」
祖母の動きが止まった。
澪の手元を見る。
「……それ」
「はい」
「昨日の?」
「おじいちゃんのは、昨日おばあちゃんが飲んだのと同じ。おばあちゃんのは別のです」
祖母の顔から警戒が消えない。
「別でも苦いんでしょう?」
澪は小瓶を見た。
「……苦いです」
「ほら」
「何がほらなんだ」
祖父はまだ余裕だった。
「薬なんて苦いもんだろ。子供じゃあるまいし」
祖母が祖父を見る。
「飲んでから言いな」
「大袈裟だな」
澪は台所へ行った。
茶と水を用意し、口直しに甘いものも小皿へ載せる。正月の料理が並ぶ食卓に、小瓶だけがどうにも馴染まなかった。
「じゃあ、おじいちゃんはこっち」
竜命薬を差し出す。
「おばあちゃんはこっちね」
疲労耐久強化薬。
「逆にしないでよ」
「しません」
「見た目同じじゃないか」
祖父が瓶を持ち上げる。
「私が分かってるから大丈夫」
「何が違うんだ」
「効き方が違います」
「ふうん」
祖父はそれ以上聞かずに蓋を開けた。
祖母が湯飲みを指す。
「お茶、手元に置いときな」
「いらん」
「置いときなって」
「一気に飲めば同じだ」
祖父はそのまま竜命薬を飲んだ。
喉が動く。
そのあと、ぴたりと止まった。
澪は何も言わずに見ている。
祖父の目だけが、ゆっくり湯飲みへ向いた。
手が伸びる。
一口。
もう一口。
「……おい」
「はい」
「これは苦いっていう味じゃないぞ」
祖母が腕を組む。
「だから言ったでしょう」
「何で先にもっと強く止めないんだ」
「止めたよ」
「大袈裟だと思うだろ、普通」
「だから飲んでから言いなって言ったんだよ」
澪は口元を押さえた。
父も似た顔をした。母もそうだった。祖父まで湯飲みを離さない。
味についてだけは、誰に渡しても評価がぶれない。
「澪」
「何?」
「これを作ってるところは、味の研究はしてないのか」
「……そこは課題です」
「最優先にした方がいいぞ」
「伝えておきます」
誰に、とは言わなかった。
祖母は自分の瓶を見る。
「こっちは?」
「種類は違うけど、味は期待しない方がいいよ」
「分かった」
昨日の経験があるだけに準備がいい。
湯飲みを右手のすぐそばへ置き、薬を飲む。
すぐに茶。
「……こっちも苦いじゃない」
「すみません」
「何でどっちも苦いんだろうねえ」
「そこは私も知りたいです」
祖父母が並んで渋い顔をして茶を飲んでいる。
澪は2人の様子を見た。
今のところ、苦い以外に変わった様子はない。
昨日だって、祖母の違いが分かったのは一晩寝てからだった。
残りの瓶へは手を伸ばさず、バッグを閉じる。
「それと」
澪は2人を見た。
「これ、本当に誰にも話さないでね」
祖父が甘いものを口へ入れながら眉を上げる。
「何でだ」
答えるより早く祖母が言った。
「秘密なんだって」
「何が」
「この薬が」
「薬くらいで?」
「近所も駄目。友達も駄目。病院も駄目」
澪は祖母を見た。
「覚えててくれたんだ」
「これだけ言われれば覚えるよ」
「助かります」
祖父は2人を交互に見た。
「そんな大したものなのか」
「まだ研究中なの。誰にでも渡せるものじゃないから、変な噂が広がると困るの」
「会社で作ってるのか」
「健康関係の試作品だと思ってて」
「病院の先生に見せたら分かるんじゃないか」
澪の返事が一瞬遅れた。
「病院には特に言わないでください」
「何で病院が一番駄目なんだ」
「話が大きくなるから」
それ以上は言わない。
昨日の点滴と、医師が驚いた回復の速さ。そこへ孫から謎の健康薬をもらった話まで加える理由はなかった。
「じいちゃん」
祖母が横から言う。
「澪が困るって言ってるんだから、黙っときな」
「別に言いふらすつもりはない」
「病院には話そうとしてたじゃない」
「それは言いふらすのとは違うだろ」
「同じ」
「違う」
「お願いします」
澪が頭を下げる。
祖父はしばらく黙っていたが、やがて湯飲みを置いた。
「分かったよ」
「ありがとう」
澪もそこでようやく息をついた。
薬の話が終わると、祖父はやっと正月らしくお茶を飲み始めた。
テレビでは新年番組が賑やかに流れている。
澪も座布団へ腰を下ろしたところで、祖父が何かを思い出したように立ち上がろうとした。
「おじいちゃん」
「何だ」
「何するの」
「ちょっと待ってろ」
「取るものなら私が取るよ」
「これは俺が取る」
祖母に睨まれながら、祖父は近くの引き出しを開けた。
中から小さな封筒を出す。
そのまま澪の前へ差し出した。
「ほら」
「……何?」
「お年玉」
澪は封筒と祖父の顔を交互に見た。
「え?」
「正月だろ」
「いや、そうだけど」
「ほら」
「いらないよ」
「何でだ」
「私、もう自分で稼いでるし」
「知るか」
「会社の社長なんだけど」
「それとこれとは別だ」
即答だった。
「でも」
「孫にやるんだからもらっとけ」
「大学の学費も自分で払えるよ」
「だから何だ」
澪は祖母を見た。
「もらっときなさい」
助けてはくれなかった。
「おばあちゃんまで」
「じいちゃん、これ渡すの楽しみにしてたんだから」
「余計なこと言うな」
「入院してた時も、正月までに帰れなかったらどうするって気にしてたじゃない」
「言うなって」
祖父が居心地悪そうに視線を逸らす。
澪は封筒を見た。
このところ会社で動かしている金額とは桁が違う。けれど、そんな話を持ち出したところで、祖父が封筒を引っ込めるとも思えなかった。
「……ありがとう」
両手で受け取る。
「おう」
祖父の顔がすぐに緩んだ。
澪は封筒をバッグへしまった。
手を離してからも、そこだけ妙に照れくさかった。
昼前。
祖父が庭を見ながら言った。
「そうだ、澪」
「今度は何?」
「あそこの小屋、見てくか」
庭の端にある古い小屋を指している。
「何で?」
「もう使わん物が結構ある。欲しいものがあったら持ってけ」
「私が?」
「会社やってるなら何か使うだろ」
澪は首を傾げた。
「会社って、そういうものなの?」
「知らん」
「知らないんだ」
後ろから祖母が言った。
「片付けさせたいだけでしょう」
「違う」
返事が早い。
「じゃあ自分で片付ければいいじゃない」
「まだ使える物を捨てるのはもったいないだろ」
「それで何年置いてるの」
「使う人がいなかったからだ」
「澪が来た途端、使う人にするんだね」
祖父は聞こえなかったことにして小屋へ向かった。
「転ばないでよ」
「転ばん」
「ゆっくり」
「分かってる」
澪も後ろをついていく。
戸を開けると、冷えた空気と一緒に木と鉄と油、それに土埃の匂いが出てきた。
細い窓から差す光の中を、埃がゆっくり漂っている。
「うわ」
「汚いだろ」
「そうじゃなくて」
入口近くに古い木製の道具箱があった。
澪はしゃがんで蓋を開ける。
鉋や鑿、両刃鋸。手回しドリルに曲尺、墨壺、砥石まで入っている。刃には薄く錆の浮いたものもあったが、木の柄には長く使われた艶が残っていた。
鉋を一つ手に取る。
鑑定。
刃を研ぎ直せば、まだ十分使える。
「これ、いいの?」
「それか? もう使わんぞ」
「もらっていい?」
「好きなの持ってけって言っただろ」
澪は鉋を返さず、そのまま手の中でひっくり返した。
電源も燃料も要らない。刃を研いで、人が手で動かせば使える。
向こうの職人へ見せるなら、むしろこういう道具の方が話が早い。
「そんな古いのがいいのか?」
「古いから……」
言いかけて止める。
「こういう物の方が参考になることもあるから」
「会社って変なもの使うんだな」
「うちはちょっと普通じゃないから」
「知ってる」
「知ってるの?」
「社長が正月に小屋の古道具漁ってる会社は普通じゃないだろ」
「……それはそうですね」
道具箱の奥から手回しドリルを出す。
ハンドルを回すと、歯車が噛み合って先端が回った。
澪はもう一度回した。
これなら電気がなくても穴を開けられる。
「これも?」
「持ってけ」
祖父の返事がどんどん軽くなる。
床際には鉄の滑車が転がっていた。
1つだけのものと、複数を組み合わせたものがある。
澪は片方を持ち上げた。
「重いな」
「昔はそれで色々吊ったんだ」
「これ、まだ使える?」
「油差せば使えるだろ」
致命的な傷みはない。
近くには太いロープと手動ウインチ、古い車載用ジャッキまであった。
荷を吊る。
材木を上げる。
倉庫で重い物を動かす。
滑車ひとつでも、向こうなら使い道はいくらでもありそうだった。
真壁なら、たぶん一度回しただけで寸法を測り始める。
「澪」
「はい」
「さっきから顔が仕事の顔になってるぞ」
「そう?」
「正月だぞ」
「分かってるんだけど……これ、面白い」
祖父が滑車を見る。
「滑車が?」
「滑車が」
「変わったなあ、お前」
壁際には農具が並んでいた。
鍬に鎌、鉈、剪定鋏。スコップや箕、竹籠もある。奥には古い一輪車まで残っていた。
澪は鎌を手に取り、刃先を見る。
こういう物も、現物を持っていけば話が早い。
そのまま写す必要はない。向こうの土や、使う人の身体に合わせて職人と相談すればいい。
「これも使うのか?」
「全部じゃないけど、何本か」
「全部持ってってもいいぞ」
「全部はいいよ」
「遠慮するな」
「遠慮じゃなくて選んでるの」
棚には古い缶がいくつも並んでいた。
蓋を開ける。
釘。
別の缶にはボルトとナット。蝶番や細かな金具まで雑多に入っている。
「これは……」
「そんなのまでいるのか?」
「こういうの、口で説明するより見せた方が早いから」
「釘が?」
「釘も」
祖父にはますます分からないらしい。
澪は缶ごと脇へ置いた。
さらに奥へ行く。
木材の端材。
トタンのバケツ。
ホーロー容器。
大きな甕。
そして、布をかぶった大きな丸いもの。
「これ何?」
布を外す。
「あ」
臼だった。
横には杵も立てかけられている。
「まだあったんだ」
祖父が言う。
「これもいいの?」
「使うなら持ってけ」
「臼も?」
「重いぞ」
「重さは大丈夫」
言ってから澪は止まった。
祖父が眉を上げる。
「車に載るか?」
「……なんとかします」
「一人じゃ持てんぞ」
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」
「方法があります」
「台車か?」
「そういう感じ」
澪は臼の縁を撫でた。
昨夜、母と祖母と作ったおせちが収納に入っている。真壁とヴァルトへ持っていく分だ。
餅もある。
ヴァルトなら、臼と杵を見ればすぐ分かるだろう。
「これ、もらう」
「おう」
祖父は即答した。
最初は道具箱1つのつもりだった。
ところが小屋の一角には、いつの間にか澪が選んだ物がかなり集まっていた。
祖父がそれを見て言う。
「それだけか?」
「十分だよ」
「その隣の箱も使わんぞ」
「箱ごと?」
「持ってけ」
「おじいちゃん、さっきから増えてない?」
「どうせ使わん」
祖母が小屋の入口まで来て、中を覗いた。
「ほらね」
「何がだ」
「片付けさせてるだけじゃない」
「違う。使ってもらうんだ」
「昨日まで捨てるなって言ってたでしょう」
「捨てるのと使ってもらうのは違う」
「物がなくなるのは同じだよ」
「違う」
「どう違うの」
祖父は少し考えた。
「気分が違う」
祖母が澪を見る。
「だって」
「そこは分かる気がする」
「澪まで」
澪は古い道具箱へ目を落とした。
捨てれば、そこで終わる。
向こうへ持っていけば、まだ使える。
「大事に使うから」
「そうしろ」
祖父はそれで満足したらしい。
「昼にするよ。澪も、その辺で一回やめな」
「うん」
祖父も家へ戻ろうとする。
「臼、手伝うぞ」
「大丈夫」
「重いって」
「大丈夫だから、おじいちゃんは中に入ってて」
「でもな」
「退院した日に臼持たないで」
祖父が黙った。
「じゃあ、無理なら呼べ」
「呼ぶから」
祖父母が家へ入る。
戸が閉まった。
澪は庭に残り、家の窓を見た。
誰もこちらを見ていない。
「今ですね」
まず大工道具箱を収納した。
次に滑車、ウインチ、ジャッキ。ロープや農具、金具の缶、木材、容器も入れていく。
刃物は刃物。
ロープは別。
金具は缶ごと。
臼と杵は最後にまとめて入れた。
小屋の一角が一気に空く。
「やっぱり便利……」
「澪ー!」
「はい!」
肩が跳ねた。
家の中から祖父の声がする。
「臼、重かったら手伝うぞー!」
「大丈夫! 来なくていいから!」
「一人じゃ無理だろー!」
「もう大丈夫だから!」
「もう?」
澪の口が止まった。
「えっと……なんとかした!」
「そうかー?」
玄関が開く気配はない。
澪はそっと息を吐いた。
家へ戻ると、祖父が聞いた。
「全部車に載ったのか?」
「うん。なんとか」
「臼も?」
「大丈夫」
「今の車、結構載るんだな」
「……載せ方がいいので」
「そうか」
祖父はそれで納得した。
澪は祖母からお茶を受け取り、何も言わずに口をつけた。
午後、祖父母を連れていったん実家へ戻った。
夕方になって父が初詣の話をすると、祖父がすぐに反応した。
「俺も行くぞ」
「おじいちゃん」
「神社くらい行ける」
「今日退院したばっかりでしょう」
「だから退院したんだ」
祖母が呆れた顔をする。
「行くならゆっくり歩きな」
「分かってる」
澪も祖父を鑑定した。
短い距離を急がず歩くくらいなら大丈夫そうだ。
「疲れたらすぐ言ってね」
「疲れん」
「疲れたら、です」
「はいはい」
「返事が軽い」
結局、父、母、祖父、祖母、澪の5人で出ることになった。
元日の夕方はもうかなり冷えていた。
住宅街の玄関にはしめ飾りが並び、同じ方向へ歩く家族連れも多い。遠くから神社のざわめきが聞こえてくる。
澪は祖父の歩幅に合わせて歩いた。
昨日まで病院にいた祖父がいる。
隣には祖母。
少し前を父と母が歩いている。
収納の中には昨夜のおせちと、さっき小屋からもらった古道具が入っている。
「ようやく普通のお正月ですね」
口に出すと、母が振り返った。
「何が?」
「何でもない」
神社は、澪が子どもの頃から何度も来ている場所だった。
大きな観光地ではない。正月になれば近所の人が自然に集まってくる、地元の神社だ。
参道へ入ると、甘酒の湯気が白く上がっていた。
焚き火の煙に、屋台から流れてくる焼けた醤油の匂いが混じる。砂利を踏む音の向こうで、ときどき鈴が鳴った。
「おや」
祖父が呼び止められた。
「もう退院したんですか」
近所の顔見知りらしい。
「ああ、大したことなかったからな」
澪と祖母が同時に祖父を見る。
「足を折って入院した人が言うことじゃないよ」
「もう帰ってきたんだからいいだろ」
「無理しちゃ駄目ですよ」
相手が笑った。
「相変わらずですね」
「ほら」
「何がほらなの」
祖父母は何人かと挨拶を交わし、そのたびに澪も頭を下げた。
前を歩く父のコートも、祖母が近所の人へ笑って頭を下げる姿も、屋台から流れてくる匂いも昔から知っている。
王都の人混みとは違う。
ここでは周囲を警戒しながら歩く必要もない。
「久しぶりでしょう、ここの初詣」
母が言った。
「うん。こういう正月、久しぶりかも」
「昔はもっと混んでたぞ」
祖父が言う。
「毎年それ言ってるよ」
祖母がすぐ返した。
「実際もっと混んでた」
「去年も同じこと言ってたよ」
列が少しずつ進む。
澪は時々、祖父の歩き方だけを見た。
特に苦しそうな様子はない。
やがて5人の番が来る。
賽銭を入れる。
鈴を鳴らす。
二礼。
二拍手。
澪は目を閉じた。
家族が元気で。
今年も――
そこで、妙な感覚が割り込んだ。
誰かに見られている。
そう思ったのに、人の視線とは違った。
敵意もない。
地図にも何も出ていない。
それでも、こちらへ向けられた何かがある。
普段、鑑定を使う時はこちらから相手を見る。
今は逆だった。
服でも顔でもない。自分がどこへ行き、何を持ち帰ってきたのかまで覗かれているようで、澪は思わず目を開けた。
隣では母が普通に手を合わせている。
祖母も父も変わらない。
祖父だけは、退院したばかりとは思えないほど長く拝んでいた。
澪は拝殿を見る。
木造の建物。
灯りの向こうにある暗がり。
何もいない。
――今、何かいました?
「澪?」
母が小声で呼んだ。
「何?」
「終わったよ」
「あ、うん」
澪も頭を下げて、家族と一緒に拝殿前を離れた。
数歩歩く。
まだ消えない。
澪は足を止めた。
「どうしたの?」
「先に行ってて。すぐ行く」
母は首を傾げたが、祖父に歩調を合わせて先へ進んだ。
澪は振り返る。
さっきと同じ拝殿。
気のせいで済ませるには、妙に引っかかった。
「……鑑定」
-------------------------------
対象:未判定
観測されています。
-------------------------------
「……え?」
澪は表示を見直した。
鑑定したのはこちらなのに、返ってきたのは対象の説明ではない。
「私が?」
その瞬間、文字が変わった。
-------------------------------
対象:当地鎮守
異界往来者を確認。
他神性の痕跡を確認。
……何だ、これは。
-------------------------------
澪はしばらく表示を見た。
「何だ、これはって……」
それはこちらの台詞でもある。
子どもの頃から何度も来ている。
去年だって来た。
その時は、こんなものは何も出なかった。
-------------------------------
お前。
何になった。
-------------------------------
澪は黙った。
――会社社長です。
一瞬浮かんで、すぐ違うと分かった。
そういう話ではない。
――それ、私も聞きたいです。
この1年のことを最初から説明したら、どこから始めればいいのかも分からない。
返事をしないままでいると、また表示が変わった。
-------------------------------
他神の接触痕跡あり。
古い。
非常に古い。
……まだいたのか。
-------------------------------
澪の頭に、古い燭台が浮かんだ。
――知り合いなんですか?
少し間があった。
-------------------------------
知り合いではない。
知っているだけだ。
-------------------------------
「……知ってるだけなんだ」
それはそれで、澪には余計に分からなかった。
何より「まだいた」という言い方が気になる。
聞き返そうとしたところで、先に表示が変わった。
-------------------------------
お前。
また来い。
-------------------------------
澪は拝殿を見た。
何も見えない。
――嫌な予感しかしないんですけど。
返事はすぐだった。
-------------------------------
嫌ではない。
興味がある。
-------------------------------
「そっちの方が困ります」
「澪ー?」
参道の先から母が呼んだ。
「今行く!」
澪はもう一度だけ拝殿を見てから、家族のところへ戻った。
「何してたの?」
「ちょっと気になることがあって」
「何?」
「……また今度」
「神社で?」
「神社で」
母は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
帰りの参道にも、さっきと同じ甘酒の匂いが漂っていた。
焚き火の向こうで人が笑い、背後ではまた鈴が鳴る。
澪は途中で一度だけ振り返った。
拝殿は何も変わらない顔で、灯りの向こうに立っていた。