鍋の底に残った小豆を、澪はお玉で小さな器へ移していた。
さっきまで子どもたちの声で満ちていた地下1階も、今はずいぶん静かになっている。椀を重ねる音、流しで水を使う音、遠ざかっていく足音。その中に、まだ甘い小豆の匂いが残っていた。
肩の上では、シロガネが前足を揃えて座っている。
『なかなかであった』
『お汁粉ですか?』
『うむ』
そこは気に入ったらしい。
異世界へ来た神様が、最初に高く評価したものがお汁粉というのもどうなのだろう。
そんなことを考えながら鍋を片付けていると、通路の向こうから足音が近づいてきた。
澪は顔を上げる。
現れた人物を見て、肩の上のシロガネが耳を動かした。
『あの男も来たか』
『はい。真壁さんです』
六畳間ですでに顔を合わせているので、今さら紹介する必要はない。
真壁も澪の肩を一瞥しただけだった。
「シロガネ殿も来たのか」
「はい。ヴァルトさんのところを見てもらって、そのあと皆さんとお汁粉を食べていました」
「そうか」
それだけだった。
神様の御分霊が白猫の姿で異世界までついてきたというのに、真壁の反応は普段とほとんど変わらない。
澪は手にしていた鍋を見下ろした。
普通の異世界を見ておいてください。
ついさっきシロガネにそう言ったばかりだった気がする。
多分、普通の時間は終わった。
真壁の手には、何枚かの大きな紙が丸めて抱えられていた。
それを見たヴァルトも察したらしい。
「真壁殿。飛行船ですかな」
「うむ。少々相談したい」
「何か問題が?」
「造る方ではない。使う方だ」
ヴァルトの眉がわずかに動いた。
澪も鍋を置く。
どうやら、すぐには帰れそうにない。
片付いた卓を1つ借りると、真壁は紙を広げた。
押さえていた手を離した途端、丸まろうとする紙を澪とヴァルトが両側から押さえる。
描かれていたのは、何度か見せてもらった大型飛行船だった。
ただし以前より書き込みが増えている。
船体の各所から細い線が伸び、重力制御、推進、姿勢制御、結界といった文字が添えられていた。
シロガネが澪の肩から首を伸ばした。
『船か』
『空を飛ぶ船です』
『それは分かる』
『分かるんですか』
『絵を見ればな』
澪は口を閉じた。
神様相手に説明しすぎたらしい。
その間にも、真壁の指は図面の上を動いていた。
「重力制御はここ。主推進は左右。姿勢制御は船体各所。結界その他にも魔石を使う」
指先が順番に場所を示していく。
「個別なら問題ない」
「魔石はありますからな」
ヴァルトが言った。
実際、その通りだった。
今の押入商会に魔石が足りないという話は、澪にはどうにも想像しにくい。それこそ石炭でも焚くように使ったところで、すぐ底が見える量ではなかった。
「そこだ」
真壁の指が止まった。
「我々の在庫を基準にしていた」
ヴァルトが図面から顔を上げる。
澪も真壁を見た。
「我々が使う分には問題ない。だが、これでは他へ渡せん」
「あ……」
澪は図面を見直した。
重力制御に魔石。
推進にも魔石。
船体の姿勢を保つのにも使う。結界や安全のための仕組みまで加えれば、1つ1つは大したことがなくても、一往復では積み重なる。
押入商会なら、倉庫から出せば済む。
けれど、別の商会が同じことをするなら。
市場から魔石を買う。
飛ばす。
また買う。
戻る。
また補充する。
荷物を運んで得る利益より、そのために使う魔石の方が高くなったら意味がない。
「押入商会なら動かせる、では商品にならん」
真壁は鉛筆を取った。
「買った者が一往復させられるところまで落としたい」
澪は少しだけ肩の力を抜いた。
真壁がそこまで考えていたことには安心した。
同時に、そこへ気づくまで押入商会の魔石在庫を基準に設計していたことには、何とも言えない気分になる。
資源がありすぎるのも考えものなのかもしれない。
「性能を落とされるのですか」
ヴァルトが尋ねる。
「いや」
真壁は即答した。
「最大性能は残す」
やはり、そこは譲らないらしい。
澪は口を挟まず、図面へ視線を戻した。
「使わん時に使わなければよい」
真壁が紙の余白へ線を引いた。
出発してから高度を上げるまで。
速度を上げるところ。
その後の巡航。
目的地へ近づいて速度を落とし、着陸あるいは接岸するところ。
文字を書きながら、真壁の手が次々に区切っていく。
「全部を常時最大出力で動かす必要はない」
ヴァルトがしばらくその文字を追った。
「なるほど。魔石を減らすのではなく、魔力を使う時間を減らすわけですな」
「それもある。出力自体も変えたい」
真壁は別の図面を重ねた。
今度は翼だった。
船体の左右から大きく張り出した翼に、それぞれ2つずつ円筒状の構造が描かれている。
「高速移動時には翼を展開する。推進器は片側2基、計4基」
鉛筆の先が1つを叩く。
「最大で1基50t相当。4基で200t欲しい」
澪の目が数字のところで止まった。
50tが4つ。
聞き慣れてきた自分が少し嫌だった。
最初の頃なら、まず「何を飛ばす気ですか」と聞いていたと思う。
今は大型飛行船の図面を見ながら、200tを常時使うのかどうかを先に考えている。
慣れとは恐ろしい。
「常に200tではありませんな」
ヴァルトが先に聞いた。
「無論だ。加速時の余裕だ」
澪は胸の内で、ヴァルトさん、ありがとうございます、と呟いた。
真壁は別の紙を引き寄せる。
「熱核機関エンジンも考えたが、こちらで使うなら風魔法具で組める方がよい」
ヴァルトの指が推進器の断面図をなぞった。
「どのような風をお考えで?」
「前から空気を取り込み、まとめて、後方へ加速する。これを連続して行いたい」
真壁が書き込んでいた数字をヴァルトの側へ向ける。
ヴァルトはしばらく黙ってそれを追った。
「……かなりの量ですな」
「1基50tだからな」
「瞬間的に吹かせるだけなら話は簡単なのですが」
ヴァルトの指が入口部分で止まった。
「取り込むところから術式へ入れた方がよろしいでしょう。ただ後ろへ押すだけでは、周囲の空気を乱しすぎます」
そのまま指が奥へ進む。
「ここで集める。次に流れを揃える。それから後ろへ送る」
真壁の鉛筆が動いた。
ヴァルトの指の先を追うように、断面図へ新しい線が増えていく。
「収束を別系統にするか」
「その方が調整はしやすいでしょうな。推力が不要なら、送り出す方へ流す魔力だけを落とせます」
真壁の手が止まった。
「固定出力にする必要もないな」
「ええ。魔法具だからといって、常に同じだけ流す必要はありません」
ヴァルトは自分で言ってから、もう一度図面を眺めた。
魔術院にいた頃なら、術式が要求された出力を安定して出せれば、それで一つの完成だった。
だがこれは研究用の魔道具ではない。
荷を積み、人を乗せ、何度も同じ道を往復する船だ。
強い術式を作れば終わりではない。
使うたびに懐が軽くなるようでは困る。
「真壁殿。4基とも同じ出力にする必要もありませんな」
「うむ」
「加速時は4基。速度が乗った後は出力を落とす。条件がよければ、動かす数そのものを減らせるかもしれません」
真壁の鉛筆が、4つの推進器のうち2つに丸を付けた。
「2基巡航か」
「可能かどうかは試さねば分かりませんが」
「それでよい」
真壁は迷わず、その横へ試験と書き込んだ。
澪は図面の翼を見る。
「この翼も使うんですよね」
「うむ。速度が乗れば揚力が出る」
「その分、重力制御を弱く出来ますか?」
「可能性はある」
真壁は断定しなかった。
代わりに、重力制御と書かれたところへ矢印を引き、その先へ疑問符を付ける。
「実際にどこまで落とせるか測る」
その答えなら澪にも納得出来た。
翼があるから大丈夫、ではない。
どれだけ助けになるかを確かめ、その分だけ魔石を減らす。
「姿勢制御も同じですな」
ヴァルトが船体後部を指す。
「何も起きていない時まで強く効かせる必要はないでしょう。風を受けた時、旋回する時、姿勢が崩れた時に働けばよい」
「待機時の消費を落とす」
「出来ると思います」
真壁はまた書いた。
紙の余白が急速に埋まっていく。
澪はそれを見ながら、話が始まった時には「魔石を節約したい」だったはずなのに、もう推進器の可変出力と運転基数、重力制御の負荷、姿勢制御の待機消費まで話が進んでいることに気づいた。
シロガネに普通の異世界を見せる時間は、やはり終わっていた。
『澪』
不意に声が頭の中へ響いた。
『はい』
『あの男は何者だ』
澪の指が紙の端で止まった。
顔を上げる。
真壁はヴァルトと、試験時にどこから出力を上げるか話している。
ヴァルトもいる。
澪は肩の上の白猫へ目だけを向けた。
『ここでは聞かないでください』
シロガネの尾が一度だけ揺れた。
『秘することか』
『はい』
しばらく返事がなかった。
澪は真壁へ視線を戻す。
シロガネが何に気づいたのかは分からない。
けれど、ヴァルトを見た時とは明らかに違った。
あの時は、ほとんど迷わなかった。
秋津島の和魂。
シロガネはヴァルトをそう見抜いた。
今は違う。
肩の上から向けられている視線が、図面ではなく真壁本人へ移っている。
やがてシロガネは前足を揃え直した。
『承知した』
それ以上は何も聞かなかった。
澪は息を置き、もう一度図面へ目を落とした。
真壁は気づいているのかいないのか、すでに次の紙を出していた。
低い出力から始める。
魔石の減り方を見る。
推力を上げる。
長く動かす。
重力制御も加える。
ヴァルトと話しながら、試す順番が紙の上で組み替えられていく。
答えが出る前に実験の準備が始まりそうな勢いだった。
いつもの真壁だった。
ヴァルトと別れた後、澪は人のいないところまで移動してから足を止めた。
遠くから作業の音は聞こえるが、近くに人影はない。
真壁も足を止める。
「どうした、澪君」
澪は肩へ目を向けた。
『さっきの話なら、ここで』
シロガネが真壁を見る。
真壁は澪と白猫を交互に見た。
「私の話かね」
「はい。多分」
「多分?」
「私もまだ聞いていませんので」
真壁はそれ以上尋ねず、シロガネへ鑑定を使った。
表示が開く。
【鑑定】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
確認:おぬし……秋津島の魂ではないな。
この異界のものでもない。
一度、死を越えておる。
境界を渡った痕跡もある。
だが、その前が見えぬ。
おぬし、どこから来た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
澪は最後の1行を読み返した。
死を越えていることは知っている。
境界を渡ったことも、以前、古い燭台の神から聞いていた。
だからそこではない。
その前が見えない。
シロガネにも分からない。
建御名方神の御分霊が、ヴァルトを見れば秋津島の魂だと分かるのに、真壁については分からない。
「死んでいたことなら以前聞いた」
真壁の声は普段と変わらなかった。
表示をもう一度眺め、少しだけ間を置く。
「その前か」
澪は何も言わなかった。
真壁自身に記憶がない以上、ここで考えても答えは出ない。
シロガネが知っているかもしれないと思ったが、そのシロガネが尋ねているのだ。
真壁は澪へ顔を向けた。
「それが、今後重要なのかな。澪君」
「いえ、それほど」
「ならばよい」
終わった。
澪は思わず真壁を見直した。
『よいのか?』
シロガネの声が頭へ響く。
もっともだと思う。
自分の魂がどこの世界から来たのか、神様にも分からないと言われた直後である。
普通なら、もう少しくらい気にしてもいい。
「真壁さんですから」
『答えになっておらぬ』
「私もそう思います」
「何を話しているのかね」
「こちらの話です」
「そうか」
また終わった。
澪は額へ手を当てたくなったが、その前にもう一つ思い出した。
『シロガネさん』
『何だ』
『お願いがあります』
白い耳がこちらへ向く。
『真壁さんのことは、他の人には話さないでください』
『魂のことか』
『それもです。それから……真壁さんが時々話す、秋津島では普通ではない技術や言葉についても』
シロガネは真壁を見る。
真壁はもう先ほどの飛行船の紙を開いていた。
魂の出所より、風魔法推進器の方が気になるらしい。
『あれも秘することか』
『はい。かなり』
『承知した』
返事は短かった。
澪は胸の奥に入っていた力を抜いた。
秘密を見抜かれることと、秘密を広められることは別だ。
シロガネがそこを分けてくれるなら助かる。
「ヴァルト君の案なら、最初は低出力でよいな」
真壁が独り言のように言い、紙へ何かを書き足した。
「推力と消費量を取る。次に出力を上げる。連続運転も見る。その後、重力制御と合わせるか」
もう完全に飛行船へ戻っている。
シロガネも、それが分かったらしい。
澪の肩から真壁を眺めている。
秋津島の魂ではない。
この異界の魂でもない。
死を越え、境界を渡り、その前が見えない。
そんなことを神から指摘された本人が、気にしているのは一往復で使う魔石をどう減らすかだった。
『異邦人か』
澪は紙へ鉛筆を走らせている真壁を見た。
自分の魂がどこから来たのかより、一往復で使う魔石をどう減らすかの方が気になるらしい。
澪はふと、さっきの話を思い出した。
『……たぶん、魔王様枠だと思います』
『これがか?』
『ただし、いい魔王様です』
真壁の紙の上では、50tと書かれた数字の横に、新しい矢印が増えていた。