翌朝、大型製造・大整備ドックへ入った澪は、昨日と同じ場所で足を止めた。
全長約200mの飛行船は、組立治具に預けられたまま横たわっている。
ただし、昨日とは様子が違った。
船体の脇には太い配管が何本も伸び、その先が浮力本体へつながっている。14を超える独立気嚢へヘリウムを送るためのものだった。
地下の冷えた空気に、低い機械音が混じっている。
澪の肩では、シロガネが前脚を揃えたまま飛行船を見上げていた。
『朝からこれか』
『昨日、今日浮かせるって決まりましたから』
『本当に浮かせるのだな』
『真壁さんですから』
それだけで説明になってしまうのが、少し嫌だった。
ギャロップの下から真壁が出てくる。
「来たか」
「おはようございます。もう始めてたんですか?」
「準備だけだ。充填はこれから始める」
ほどなくヴァルトもやってきた。
「真壁殿、気嚢側の準備は?」
「終わっている。今日は一つずつ入れる」
真壁は配管の弁へ手を掛けた。
昨日は漏れを見る程度までしか膨らませていない。今日は実際に浮かせる。
最初の気嚢へヘリウムが送り込まれた。
澪は横の表示を見る。
気嚢内の状態と、支持部、それから組立治具へ掛かっている荷重。
しばらくすると、その最後の数字がわずかに減った。
「あ、軽くなってます」
「次へ行く」
真壁は最初の気嚢をその状態で止め、2番目へ移った。
一つずつ。
中央へ近づくほど気嚢は大きくなり、治具側の数字も大きく変わる。
機体はまだ動かない。
けれど、200mの船体を床へ押し付けていた重さだけが、少しずつ抜けていく。
ヴァルトは反対側の表示を追っていた。
「左右の差も小さいですな」
「最後に合わせる」
全部の気嚢へ入れ終わると、真壁はわずかな差だけを調整した。
それでも飛行船は治具から離れない。
澪は表示を見てから真壁を見る。
「ヘリウムだけだと、ここまでなんですね」
「そのために重力制御を積んである」
真壁はギャロップへ入った。
「ヴァルト君、重力系を頼む。澪君は治具側を見てくれ」
「はい」
「承知しました」
澪は治具の荷重表示の前へ回った。
最初は変わらない。
真壁が重力制御を入れる。
数字が落ちた。
「下がりました」
「まだ余裕がある」
さらに下がる。
澪が表示を追っていると、足元から伝わっていた微かな軋みまで弱くなった。
数字だけではない。
巨大な船体が治具へ預けていた重さそのものが消えている。
「もうほとんど掛かってません」
真壁はそこで止めた。
すぐには浮かせない。
ヴァルトが重力制御の左右を見比べる。
「差はありません。気嚢側も正常です」
「では支持を外す」
澪は治具から一歩離れた。
固定が順に解除されていく。
最後の支持具が抜けた。
何も起きないように見えた。
澪は目を細める。
「……浮いてます」
船体と治具の間に、ほんのわずかな隙間が出来ている。
しゃがんで見る。
間違いない。
200mの飛行船が、どこにも載っていない。
クレーンで吊られているわけでもなければ、推進器を吹かしているわけでもない。
ただ浮いている。
『浮いたか』
『浮きました』
シロガネが澪の肩から首を伸ばした。
真壁は操縦席から声を掛ける。
「10cm上げる」
「もう?」
「浮いたことは分かった。次を見る」
10cm。
30cm。
1m。
船体がゆっくり上がる。
カーゴも真下についてくる。
傾きはない。
ヴァルトの声がギャロップから届いた。
「魔力系統に異常ありません」
「なら外へ出そう」
澪は巨大なドック扉へ目を向けた。
昨日、作ったばかりの船が、ようやく外へ出る。
地上へ出た途端、冷たい風が頬へ当たった。
薄い雲の下、飛行船は採石場跡の上空に浮いている。
まだ高度は数mしかない。
澪はギャロップの操縦席後方へ座り、シロガネを膝へ移した。
最初の飛行でカーゴへ行く気にはならない。
「まず低速で動かす」
真壁が風魔法推進器へ最低限の出力を入れた。
機体が前へ進む。
自動車なら歩行速度に近い。
それでも200mの船体が動くと、景色の方がゆっくり押し退けられていくように見える。
真壁が左へ向ける。
船首が動き、少し遅れて後ろがついてくる。
澪は窓の外と表示を交互に見た。
「反応はやっぱりゆっくりですね」
「長い船だ。当然だろう」
真壁は右。
停止。
後退。
上昇。
下降。
一つずつ入れていく。
ヴァルトは操舵よりも、重力系の動きを追っていた。
「この速度では重力側の負担が大きいですな」
「翼が働いていないからな」
それも想定内らしい。
低速で一通り動かした真壁は、機体を広い空域へ向けた。
「翼を開く」
左右に畳まれていた翼がゆっくり展開する。
昨日は地下ドックで見た。
今日は何もない空の中だ。
広がりきったところで、澪は改めてその幅を見る。
『羽が生えたな』
『元からあります』
『昨日は隠しておった』
『畳んでただけです』
シロガネは納得したのかしていないのか、そのまま窓へ顔を向けた。
真壁が4基の風魔法推進器へ出力を入れる。
速度が上がった。
風切り音が強くなる。
採石場跡が後方へ離れていく。
「ここからは最高性能を見る」
澪は真壁を見る。
「燃費は気にしないんですか?」
「今は構造と機関の余裕を見る。燃費はその後だ」
なるほど、と言いかけてやめた。
その後があるらしい。
「無理はしないでくださいね」
「無理をするつもりはない」
真壁の手はもう推進器出力へ戻っていた。
150km/h。
翼が働き始める。
200km/h。
景色の流れ方が変わった。
飛行船という言葉から想像していた速度ではない。
澪は窓の外より表示を見ることにした。
「外皮は?」
「変化ありません」
ヴァルトが答える。
「気嚢も正常。結合部も問題ありません」
「翼は」
「左右とも正常です」
真壁はさらに出力を上げた。
「まだ上げるんですね」
「最高値を見に来たのだからな」
その言い方は落ち着いているのに、やっていることは落ち着いていない。
220km/h。
230km/h。
風魔法推進器側の消費が目に見えて増えていく。
240km/h。
澪は速度表示と、隣の消費表示を交互に見た。
「245」
ヴァルトが読む。
248。
249。
そして数字が変わった。
「250km/h」
澪が口にした。
真壁は出力をそのまま保った。
数十秒。
速度は落ちない。
船体の姿勢も変わらない。
ヴァルトが系統を一通り追う。
「問題ありません」
そこで真壁は推進器出力を落とした。
250から数字が離れていく。
澪は息を吐いた。
「これで最高性能試験は終わりですか?」
「うむ。出ることは分かった」
それだけだった。
昨日まで250km/hを目標にしていた本人とは思えない。
「では戻ります?」
「いや」
真壁は重力制御と風魔法推進器の表示を並べた。
「次は消費量を見る」
澪は座り直した。
どうやら、こちらの方が長そうだった。
速度が100km/hまで落ちた。
風魔法推進器側の数字は大きく下がる。
その代わり、重力制御側が上がった。
澪は二つを見比べる。
「……安くなってないですね」
「翼がまだ足りん」
真壁は130km/hへ上げた。
しばらく同じ条件で飛ぶ。
ヴァルトが重力側と風側を別々に見ている。
澪はその値を書き留めた。
「合計はさっきより下がってます」
「次」
140km/h。
重力側がさらに落ちる。
風側は上がる。
それでも合計ではまだ小さい。
150km/h。
澪のペンが止まった。
「ここが一番低いです」
ヴァルトも表示を見比べる。
「今のところは、そうですな」
「160を見る」
真壁はそのまま上げた。
160km/h。
重力側は少し下がる。
だが、風魔法推進器側の増え方が大きくなる。
170km/h。
「合計、上がりました」
「戻そう」
150km/h付近まで落とす。
澪は自分の書いた数字を見直した。
「遅いほど安い、ではないんですね」
「重力と風の両方を使っているからな」
ヴァルトが二つの表示へ目をやった。
「低速では重力側へ寄り、高速では風側へ寄る。その間に一番軽いところがあるわけですな」
「そのようだ」
真壁は数字を眺めたあと、操縦系へ手を伸ばした。
「移動加速に任せてみるか」
澪が顔を上げる。
「スキルですか?」
「うむ」
真壁が移動加速を有効にした。
澪は速度計を見た。
しかし、先に動いたのは別の数字だった。
「あれ?」
重力制御が下がる。
その直後、風魔法推進側がわずかに上がった。
今度は風側が少し戻り、重力側が動く。
「真壁殿」
ヴァルトも気づいた。
「両方を触っておりますな」
「そのようだ」
速度表示が動く。
148。
151。
149。
やがて150km/hで落ち着いた。
澪は速度よりも、重力系と風魔法系の数字を見た。
「手で合わせた時より低いです」
「うむ」
真壁はしばらく表示を見た。
「ふむ。ヴァルト君。移動加速に任せると、最適な設定が選べるようだ」
「速度だけではありませんな」
「重力設定も風魔法設定も動かしている」
澪は150km/hの数字を見てから、二つの消費表示へ戻った。
「150km/hにしたかったんじゃなくて、ここが一番効率がよかったから150になったんですね」
「そう考えるのがよかろう」
ヴァルトが何度か値を見比べる。
「速度を上げるためだけの技能ではなかったようですね」
「行商人の技能だからな」
真壁の返しは簡単だった。
澪は少し笑った。
「さすが商人スキルですね」
「うむ」
膝の上のシロガネが顔を上げる。
『商人が船を飛ばすのか』
『そうなってますね』
『商人とは、そこまでするものか』
『たぶん普通はしません』
少なくとも大学で習った商業の範囲にはなかった。
ヴァルトはまだ表示を追っていた。
「真壁殿」
「何かな」
「この調整を魔法具へ落とし込めないでしょうか」
重力制御と風魔法推進の消費を拾い、最も小さくなるところへ自動で寄せる。
ヴァルトならそう考えるだろうと、澪にも分かった。
真壁は少しだけ間を置いた。
「いや。そこまですることもあるまい」
ヴァルトが顔を上げる。
「と申しますと?」
「行商人が一人いれば足りる」
「操縦士を行商人に?」
澪が聞く。
「必ずしも操縦士である必要はない。運航に移動加速を使える者が乗っていればよい」
ヴァルトの目が、機関部の表示へ戻った。
「……確かに。魔法具を一つ増やすより、その方が簡単ですな」
「余計な機構も増えない」
「整備も増えませんね」
「うむ」
真壁は移動加速を一度切り、また入れた。
速度と二つの出力が、再び同じ辺りへ収まっていく。
「使える技能があるなら、まずそれを使えばよい」
ヴァルトは小さく笑った。
「魔術師は、どうも仕組みにしたくなります」
「それも必要な時はある」
真壁は表示から目を離さなかった。
「今回は人で足りる」
澪はその言葉を聞きながら、別のところへ考えが移った。
「ということは、飛行船を運航する側に行商人の需要が出来るんですね」
「そうなるな」
「魔術師だけじゃなくて」
「魔術系の整備には要る。だが、毎便それほどの魔術師を乗せる必要はないだろう」
ヴァルトが少し肩をすくめた。
「その方が、一般の商会には助かります」
飛行船は150km/hを保ったまま進んでいる。
先ほどの250km/hほど速くはない。
けれど、重力制御も風魔法推進器も、必要以上には働いていない。
「これが経済巡航ですか?」
「今の条件ならな」
真壁はすぐに付け加えた。
「積載量やカーゴの形が変われば、別の値になる」
「大型カーゴだと空気抵抗も変わりますもんね」
「うむ。そこは別に取る」
150km/hは、この船の絶対的な経済巡航速度ではない。
今の積載。
今のカーゴ。
今の飛行条件。
その組み合わせで、移動加速が選んだ結果だった。
澪は真壁を見た。
「250km/hの方は、もう気にならないんですか?」
「出ることは分かった」
真壁は低コスト試験の数字へ指を置いた。
「こちらは運航するたびに使う」
ヴァルトがその隣を見る。
「売るなら、こちらの数字ですな」
「そういうことだ」
飛行船はそのまま採石場跡へ向きを変えた。
帰路では最高速度を試さない。
移動加速へ任せたまま、重力と風の消費を取り続ける。
澪はしばらく数字を追ったあと、窓の外へ視線を移した。
下に街道が見えた。
細い道が森の間を縫い、遠くに小さな荷車らしい影がある。
150km/hでも、それを追い越すのに時間は掛からない。
飛行船を造った理由が、ようやく速度計の外へ戻ってきた気がした。
採石場跡へ戻ると、真壁は速度を落とした。
翼の働きが弱くなるにつれ、移動加速が重力側を増やしていく。
推進器側は下がる。
最後に翼を畳んだ。
巨大な船体が地上施設の上で止まる。
「係留する」
高度が下がる。
治具へ位置を合わせ、真壁は重力制御を少しずつ戻していった。
船体の重さが治具へ移る。
最後に完全に預けたところで、機関が止まった。
澪は背もたれへ身体を預けた。
「終わりました?」
「今日の試験はな」
やはり、そこで終わる人ではなかった。
ヴァルトはまだ席に座ったまま、低コスト試験の数字を見ている。
「標準状態では150km/h付近。これだけでもかなり使えそうですね」
「次は積載条件を変える」
「やはりですか」
「当然だろう」
真壁はもう別の紙を出していた。
満載時。
カーゴ形状を変えた時。
同じ移動加速でも、どこへ収まるのかを見るつもりらしい。
澪はシロガネを抱き上げた。
『帰るのか』
『今日は、たぶん』
『たぶん?』
真壁を見る。
すでにカーゴへ載せる重量を考え始めている。
『……今のうちに帰りましょうか』
『それがよい』
澪は真壁が次の試験を始める前に席を立った。