押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

260 / 262
第260話 速さと値段

 

 

 翌朝、大型製造・大整備ドックへ入った澪は、昨日と同じ場所で足を止めた。

 

 全長約200mの飛行船は、組立治具に預けられたまま横たわっている。

 

 ただし、昨日とは様子が違った。

 

 船体の脇には太い配管が何本も伸び、その先が浮力本体へつながっている。14を超える独立気嚢へヘリウムを送るためのものだった。

 

 地下の冷えた空気に、低い機械音が混じっている。

 

 澪の肩では、シロガネが前脚を揃えたまま飛行船を見上げていた。

 

『朝からこれか』

 

『昨日、今日浮かせるって決まりましたから』

 

『本当に浮かせるのだな』

 

『真壁さんですから』

 

 それだけで説明になってしまうのが、少し嫌だった。

 

 ギャロップの下から真壁が出てくる。

 

「来たか」

 

「おはようございます。もう始めてたんですか?」

 

「準備だけだ。充填はこれから始める」

 

 ほどなくヴァルトもやってきた。

 

「真壁殿、気嚢側の準備は?」

 

「終わっている。今日は一つずつ入れる」

 

 真壁は配管の弁へ手を掛けた。

 

 昨日は漏れを見る程度までしか膨らませていない。今日は実際に浮かせる。

 

 最初の気嚢へヘリウムが送り込まれた。

 

 澪は横の表示を見る。

 

 気嚢内の状態と、支持部、それから組立治具へ掛かっている荷重。

 

 しばらくすると、その最後の数字がわずかに減った。

 

「あ、軽くなってます」

 

「次へ行く」

 

 真壁は最初の気嚢をその状態で止め、2番目へ移った。

 

 一つずつ。

 

 中央へ近づくほど気嚢は大きくなり、治具側の数字も大きく変わる。

 

 機体はまだ動かない。

 

 けれど、200mの船体を床へ押し付けていた重さだけが、少しずつ抜けていく。

 

 ヴァルトは反対側の表示を追っていた。

 

「左右の差も小さいですな」

 

「最後に合わせる」

 

 全部の気嚢へ入れ終わると、真壁はわずかな差だけを調整した。

 

 それでも飛行船は治具から離れない。

 

 澪は表示を見てから真壁を見る。

 

「ヘリウムだけだと、ここまでなんですね」

 

「そのために重力制御を積んである」

 

 真壁はギャロップへ入った。

 

「ヴァルト君、重力系を頼む。澪君は治具側を見てくれ」

 

「はい」

 

「承知しました」

 

 澪は治具の荷重表示の前へ回った。

 

 最初は変わらない。

 

 真壁が重力制御を入れる。

 

 数字が落ちた。

 

「下がりました」

 

「まだ余裕がある」

 

 さらに下がる。

 

 澪が表示を追っていると、足元から伝わっていた微かな軋みまで弱くなった。

 

 数字だけではない。

 

 巨大な船体が治具へ預けていた重さそのものが消えている。

 

「もうほとんど掛かってません」

 

 真壁はそこで止めた。

 

 すぐには浮かせない。

 

 ヴァルトが重力制御の左右を見比べる。

 

「差はありません。気嚢側も正常です」

 

「では支持を外す」

 

 澪は治具から一歩離れた。

 

 固定が順に解除されていく。

 

 最後の支持具が抜けた。

 

 何も起きないように見えた。

 

 澪は目を細める。

 

「……浮いてます」

 

 船体と治具の間に、ほんのわずかな隙間が出来ている。

 

 しゃがんで見る。

 

 間違いない。

 

 200mの飛行船が、どこにも載っていない。

 

 クレーンで吊られているわけでもなければ、推進器を吹かしているわけでもない。

 

 ただ浮いている。

 

『浮いたか』

 

『浮きました』

 

 シロガネが澪の肩から首を伸ばした。

 

 真壁は操縦席から声を掛ける。

 

「10cm上げる」

 

「もう?」

 

「浮いたことは分かった。次を見る」

 

 10cm。

 

 30cm。

 

 1m。

 

 船体がゆっくり上がる。

 

 カーゴも真下についてくる。

 

 傾きはない。

 

 ヴァルトの声がギャロップから届いた。

 

「魔力系統に異常ありません」

 

「なら外へ出そう」

 

 澪は巨大なドック扉へ目を向けた。

 

 昨日、作ったばかりの船が、ようやく外へ出る。

 

 

 

 地上へ出た途端、冷たい風が頬へ当たった。

 

 薄い雲の下、飛行船は採石場跡の上空に浮いている。

 

 まだ高度は数mしかない。

 

 澪はギャロップの操縦席後方へ座り、シロガネを膝へ移した。

 

 最初の飛行でカーゴへ行く気にはならない。

 

「まず低速で動かす」

 

 真壁が風魔法推進器へ最低限の出力を入れた。

 

 機体が前へ進む。

 

 自動車なら歩行速度に近い。

 

 それでも200mの船体が動くと、景色の方がゆっくり押し退けられていくように見える。

 

 真壁が左へ向ける。

 

 船首が動き、少し遅れて後ろがついてくる。

 

 澪は窓の外と表示を交互に見た。

 

「反応はやっぱりゆっくりですね」

 

「長い船だ。当然だろう」

 

 真壁は右。

 

 停止。

 

 後退。

 

 上昇。

 

 下降。

 

 一つずつ入れていく。

 

 ヴァルトは操舵よりも、重力系の動きを追っていた。

 

「この速度では重力側の負担が大きいですな」

 

「翼が働いていないからな」

 

 それも想定内らしい。

 

 低速で一通り動かした真壁は、機体を広い空域へ向けた。

 

「翼を開く」

 

 左右に畳まれていた翼がゆっくり展開する。

 

 昨日は地下ドックで見た。

 

 今日は何もない空の中だ。

 

 広がりきったところで、澪は改めてその幅を見る。

 

『羽が生えたな』

 

『元からあります』

 

『昨日は隠しておった』

 

『畳んでただけです』

 

 シロガネは納得したのかしていないのか、そのまま窓へ顔を向けた。

 

 真壁が4基の風魔法推進器へ出力を入れる。

 

 速度が上がった。

 

 風切り音が強くなる。

 

 採石場跡が後方へ離れていく。

 

「ここからは最高性能を見る」

 

 澪は真壁を見る。

 

「燃費は気にしないんですか?」

 

「今は構造と機関の余裕を見る。燃費はその後だ」

 

 なるほど、と言いかけてやめた。

 

 その後があるらしい。

 

「無理はしないでくださいね」

 

「無理をするつもりはない」

 

 真壁の手はもう推進器出力へ戻っていた。

 

 150km/h。

 

 翼が働き始める。

 

 200km/h。

 

 景色の流れ方が変わった。

 

 飛行船という言葉から想像していた速度ではない。

 

 澪は窓の外より表示を見ることにした。

 

「外皮は?」

 

「変化ありません」

 

 ヴァルトが答える。

 

「気嚢も正常。結合部も問題ありません」

 

「翼は」

 

「左右とも正常です」

 

 真壁はさらに出力を上げた。

 

「まだ上げるんですね」

 

「最高値を見に来たのだからな」

 

 その言い方は落ち着いているのに、やっていることは落ち着いていない。

 

 220km/h。

 

 230km/h。

 

 風魔法推進器側の消費が目に見えて増えていく。

 

 240km/h。

 

 澪は速度表示と、隣の消費表示を交互に見た。

 

「245」

 

 ヴァルトが読む。

 

 248。

 

 249。

 

 そして数字が変わった。

 

「250km/h」

 

 澪が口にした。

 

 真壁は出力をそのまま保った。

 

 数十秒。

 

 速度は落ちない。

 

 船体の姿勢も変わらない。

 

 ヴァルトが系統を一通り追う。

 

「問題ありません」

 

 そこで真壁は推進器出力を落とした。

 

 250から数字が離れていく。

 

 澪は息を吐いた。

 

「これで最高性能試験は終わりですか?」

 

「うむ。出ることは分かった」

 

 それだけだった。

 

 昨日まで250km/hを目標にしていた本人とは思えない。

 

「では戻ります?」

 

「いや」

 

 真壁は重力制御と風魔法推進器の表示を並べた。

 

「次は消費量を見る」

 

 澪は座り直した。

 

 どうやら、こちらの方が長そうだった。

 

 

 

 速度が100km/hまで落ちた。

 

 風魔法推進器側の数字は大きく下がる。

 

 その代わり、重力制御側が上がった。

 

 澪は二つを見比べる。

 

「……安くなってないですね」

 

「翼がまだ足りん」

 

 真壁は130km/hへ上げた。

 

 しばらく同じ条件で飛ぶ。

 

 ヴァルトが重力側と風側を別々に見ている。

 

 澪はその値を書き留めた。

 

「合計はさっきより下がってます」

 

「次」

 

 140km/h。

 

 重力側がさらに落ちる。

 

 風側は上がる。

 

 それでも合計ではまだ小さい。

 

 150km/h。

 

 澪のペンが止まった。

 

「ここが一番低いです」

 

 ヴァルトも表示を見比べる。

 

「今のところは、そうですな」

 

「160を見る」

 

 真壁はそのまま上げた。

 

 160km/h。

 

 重力側は少し下がる。

 

 だが、風魔法推進器側の増え方が大きくなる。

 

 170km/h。

 

「合計、上がりました」

 

「戻そう」

 

 150km/h付近まで落とす。

 

 澪は自分の書いた数字を見直した。

 

「遅いほど安い、ではないんですね」

 

「重力と風の両方を使っているからな」

 

 ヴァルトが二つの表示へ目をやった。

 

「低速では重力側へ寄り、高速では風側へ寄る。その間に一番軽いところがあるわけですな」

 

「そのようだ」

 

 真壁は数字を眺めたあと、操縦系へ手を伸ばした。

 

「移動加速に任せてみるか」

 

 澪が顔を上げる。

 

「スキルですか?」

 

「うむ」

 

 真壁が移動加速を有効にした。

 

 澪は速度計を見た。

 

 しかし、先に動いたのは別の数字だった。

 

「あれ?」

 

 重力制御が下がる。

 

 その直後、風魔法推進側がわずかに上がった。

 

 今度は風側が少し戻り、重力側が動く。

 

「真壁殿」

 

 ヴァルトも気づいた。

 

「両方を触っておりますな」

 

「そのようだ」

 

 速度表示が動く。

 

 148。

 

 151。

 

 149。

 

 やがて150km/hで落ち着いた。

 

 澪は速度よりも、重力系と風魔法系の数字を見た。

 

「手で合わせた時より低いです」

 

「うむ」

 

 真壁はしばらく表示を見た。

 

「ふむ。ヴァルト君。移動加速に任せると、最適な設定が選べるようだ」

 

「速度だけではありませんな」

 

「重力設定も風魔法設定も動かしている」

 

 澪は150km/hの数字を見てから、二つの消費表示へ戻った。

 

「150km/hにしたかったんじゃなくて、ここが一番効率がよかったから150になったんですね」

 

「そう考えるのがよかろう」

 

 ヴァルトが何度か値を見比べる。

 

「速度を上げるためだけの技能ではなかったようですね」

 

「行商人の技能だからな」

 

 真壁の返しは簡単だった。

 

 澪は少し笑った。

 

「さすが商人スキルですね」

 

「うむ」

 

 膝の上のシロガネが顔を上げる。

 

『商人が船を飛ばすのか』

 

『そうなってますね』

 

『商人とは、そこまでするものか』

 

『たぶん普通はしません』

 

 少なくとも大学で習った商業の範囲にはなかった。

 

 ヴァルトはまだ表示を追っていた。

 

「真壁殿」

 

「何かな」

 

「この調整を魔法具へ落とし込めないでしょうか」

 

 重力制御と風魔法推進の消費を拾い、最も小さくなるところへ自動で寄せる。

 

 ヴァルトならそう考えるだろうと、澪にも分かった。

 

 真壁は少しだけ間を置いた。

 

「いや。そこまですることもあるまい」

 

 ヴァルトが顔を上げる。

 

「と申しますと?」

 

「行商人が一人いれば足りる」

 

「操縦士を行商人に?」

 

 澪が聞く。

 

「必ずしも操縦士である必要はない。運航に移動加速を使える者が乗っていればよい」

 

 ヴァルトの目が、機関部の表示へ戻った。

 

「……確かに。魔法具を一つ増やすより、その方が簡単ですな」

 

「余計な機構も増えない」

 

「整備も増えませんね」

 

「うむ」

 

 真壁は移動加速を一度切り、また入れた。

 

 速度と二つの出力が、再び同じ辺りへ収まっていく。

 

「使える技能があるなら、まずそれを使えばよい」

 

 ヴァルトは小さく笑った。

 

「魔術師は、どうも仕組みにしたくなります」

 

「それも必要な時はある」

 

 真壁は表示から目を離さなかった。

 

「今回は人で足りる」

 

 澪はその言葉を聞きながら、別のところへ考えが移った。

 

「ということは、飛行船を運航する側に行商人の需要が出来るんですね」

 

「そうなるな」

 

「魔術師だけじゃなくて」

 

「魔術系の整備には要る。だが、毎便それほどの魔術師を乗せる必要はないだろう」

 

 ヴァルトが少し肩をすくめた。

 

「その方が、一般の商会には助かります」

 

 飛行船は150km/hを保ったまま進んでいる。

 

 先ほどの250km/hほど速くはない。

 

 けれど、重力制御も風魔法推進器も、必要以上には働いていない。

 

「これが経済巡航ですか?」

 

「今の条件ならな」

 

 真壁はすぐに付け加えた。

 

「積載量やカーゴの形が変われば、別の値になる」

 

「大型カーゴだと空気抵抗も変わりますもんね」

 

「うむ。そこは別に取る」

 

 150km/hは、この船の絶対的な経済巡航速度ではない。

 

 今の積載。

 

 今のカーゴ。

 

 今の飛行条件。

 

 その組み合わせで、移動加速が選んだ結果だった。

 

 澪は真壁を見た。

 

「250km/hの方は、もう気にならないんですか?」

 

「出ることは分かった」

 

 真壁は低コスト試験の数字へ指を置いた。

 

「こちらは運航するたびに使う」

 

 ヴァルトがその隣を見る。

 

「売るなら、こちらの数字ですな」

 

「そういうことだ」

 

 飛行船はそのまま採石場跡へ向きを変えた。

 

 帰路では最高速度を試さない。

 

 移動加速へ任せたまま、重力と風の消費を取り続ける。

 

 澪はしばらく数字を追ったあと、窓の外へ視線を移した。

 

 下に街道が見えた。

 

 細い道が森の間を縫い、遠くに小さな荷車らしい影がある。

 

 150km/hでも、それを追い越すのに時間は掛からない。

 

 飛行船を造った理由が、ようやく速度計の外へ戻ってきた気がした。

 

 

 

 採石場跡へ戻ると、真壁は速度を落とした。

 

 翼の働きが弱くなるにつれ、移動加速が重力側を増やしていく。

 

 推進器側は下がる。

 

 最後に翼を畳んだ。

 

 巨大な船体が地上施設の上で止まる。

 

「係留する」

 

 高度が下がる。

 

 治具へ位置を合わせ、真壁は重力制御を少しずつ戻していった。

 

 船体の重さが治具へ移る。

 

 最後に完全に預けたところで、機関が止まった。

 

 澪は背もたれへ身体を預けた。

 

「終わりました?」

 

「今日の試験はな」

 

 やはり、そこで終わる人ではなかった。

 

 ヴァルトはまだ席に座ったまま、低コスト試験の数字を見ている。

 

「標準状態では150km/h付近。これだけでもかなり使えそうですね」

 

「次は積載条件を変える」

 

「やはりですか」

 

「当然だろう」

 

 真壁はもう別の紙を出していた。

 

 満載時。

 

 カーゴ形状を変えた時。

 

 同じ移動加速でも、どこへ収まるのかを見るつもりらしい。

 

 澪はシロガネを抱き上げた。

 

『帰るのか』

 

『今日は、たぶん』

 

『たぶん?』

 

 真壁を見る。

 

 すでにカーゴへ載せる重量を考え始めている。

 

『……今のうちに帰りましょうか』

 

『それがよい』

 

 澪は真壁が次の試験を始める前に席を立った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。