年が明けた採石場跡の新町では、朝の冷気の中に、いくつもの炊事の煙が立ち上っていた。
飛行船の試験にかかりきりになっている間にも、乗員候補者の募集と身元調査、家族の移住手続きは進んでいたのだ。
石造りの集合住宅には、まだ切り出した石と新しい木材の匂いが残っている。通りを歩くと、軒下に大人の外套と並んで、小さな靴下が干されていた。共同炊事場からは鍋の蓋が鳴る音が聞こえ、井戸の前では、侯爵家の担当者が移住してきた女たちへ水汲みの順番を説明している。
澪は足を緩めた。
募集を始めたと聞いた時には、まだ名簿の上にしかいなかった人たちが、もうここで朝食を作り、洗濯物を干している。飛行船へ乗る者だけを集めたのではない。家族ごと暮らしを移してきたのだと、小さな靴下を見てようやく実感が追いついた。
集会所の前では、真壁がマルテから名簿を受け取っていた。
氏名、年齢、以前のジョブと職歴、家族構成。侯爵家が行った身元調査の結果も、各項目の脇へ書き添えられている。
真壁は数枚めくり、家族欄で手を止めた。
「マルテ君。乗員候補者の家族も、全員集めたまえ」
マルテが抱えていた筆記板を持ち直した。
「家族も、全員ですか」
「そうだ。幼い子どもは親と一緒でよい。病人や歩くことが難しい者には、こちらから出向く」
返事を待つ間にも、真壁の指は名簿の家族欄を追っていた。人数を数え、余白へ面談順を書き込み始める。乗員候補者だけなら午前中で終わる予定だったはずだが、家族まで含めれば、とても収まりそうにない。
澪は集会所の扉へ目を向けた。中に用意されている長椅子では足りない。子どもを何時間も座らせるなら、飲み物や待っていられる場所も要る。
「真壁さん。飛行船へ乗る方だけでは駄目なんですか」
「駄目だ」
真壁は名簿から顔を上げた。
「飛行船には、他国が欲しがる技術が集まっている。本人に問題がなくとも、家族を通して情報が漏れれば同じではないか」
家族まで疑うのかと、澪は言いかけた。
だが、飛行船は大きな荷物を運ぶだけの船ではない。重力制御、推進機構、結界、通信に代わる連絡手段まで、これまで王国になかった技術を積んでいる。乗員だけへ秘密を守れと言い、同じ家で暮らす者について何も確かめない方が不自然だった。
それでも、全員を一室へ並べて鑑定する光景には抵抗がある。
「鑑定の結果を、皆の前で読み上げるわけではありませんよね」
「一家族ずつ別室で行う。結果を見る者も、我々と侯爵家の担当者に限る」
澪が尋ねる前から決めていたらしい。
隣で名簿へ目を通していたヴァルトが、家族欄の端を指で押さえた。
「真壁殿。鑑定で分かるのは、氏名、ジョブ、技能、身体の状態などです。偽装や身分を隠す技能が表示されることはあるでしょう。しかし、所属や本人の考えまで、すべて読み取れるわけではありません」
「承知している。侯爵家の調査、本人の申告、家族の話を見比べる。鑑定だけで決めるつもりはない」
「それならばよいでしょう。ただ、本人が申告していない技能が見つかった時は、すぐに虚偽と決めず、理由を聞くべきです」
真壁は、すでに書いた面談順の脇へ短い一文を加えた。
「取得時期と使用目的を聞く。これでよいか」
「はい」
ヴァルトは答えながら、真壁の筆先へ目を留めた。話を止めるために制約を挙げたつもりはない。それでも真壁は、制約を聞いた時には、すでに作業手順の一部へ組み込んでいる。
魔術院で同じ提案をすれば、鑑定の信頼性を論じる会議が開かれ、その会議の日取りを決める相談が始まっただろう。目の前では、長椅子が足りないという現実まで含めて、面談が始まろうとしている。
マルテが集会所へ入ろうとすると、真壁が名簿を閉じた。
「疑わしい者を探すためではない。調べたうえで、残っている疑いを消す。そのように伝えてくれ」
「分かりました。家族ごとに時間を分けます」
「待ってください」
澪がマルテを呼び止めた。
「何を見るのか、結果を誰が扱うのかも、先に説明した方がいいと思います。知らないまま呼ばれたら、子どもだけでなく大人も怖いですから」
マルテは筆記板を開き直した。
「鑑定の目的と、結果を見られる者、それから秘密にすることですね」
「技能が見つかっても、望まない仕事を強制しないこともお願いします」
「無論だ」
真壁が先に答えた。
「技能を持つことと、それを仕事に使うことは別だ。本人の希望を聞く」
澪は真壁の顔を見直した。
全員を鑑定すると言い出した時には、人員を効率よく並べ替えるところまで一気に進むのではないかと身構えた。しかし、真壁は技能だけで人を扱うつもりではないらしい。
もっとも、油断すると名簿が町全体の人員表へ変わる可能性は残っている。
「私は待合を見ます。子どもたちを長く待たせることになりそうですから」
「頼もう。リュシア殿には、技能を今後の仕事へ生かしたい者の希望を聞く際に同席してもらう。ヴァルト殿は偽装技能と魔術系技能を」
「承知しました」
ヴァルトは、集会所へ追加で運び込まれていく長椅子を見送った。
「乗員を選ぶだけでは済みそうにありませんね」
「家族全員を迎えたのだ。乗員だけ見れば済む話ではない」
真壁はそう言うと、名簿を開いたまま集会所へ入っていった。
澪も後を追いながら、通りの小さな靴下をもう一度振り返った。
真壁がどこまでを一つの仕事として見ているのか、まだ確かめる必要がありそうだった。
集会所の待合には、石壁の冷たさを和らげるため、火鉢がいくつも置かれていた。
濡れた外套から立つ湿った匂いに、薪の煙と温かい麦茶の香りが混じっている。長椅子へ座った子どもたちは、最初こそ声を潜めていたが、澪が木片と紐を入れた籠を置くと、少しずつ手を伸ばし始めた。
「ここで遊んでいて大丈夫です。ただし、走るのは外でお願いします」
澪が告げると、年長の子が小さな子へ同じ言葉を伝えた。すぐに木片を積み始める者もいれば、親の袖を離さない者もいる。
奥の小部屋では、侯爵家の担当文官が最初の家族と向かい合っていた。
飛行船事業には侯爵家も責任を負うこと。申告と異なる点が見つかっても、それだけで処罰や不採用にはしないこと。事情を聞き、すでに集めた資料と照らし合わせて扱いを決めること。
鑑定結果を本人の許可なく公表せず、技能を理由に仕事を強制しないことも、文官は一つずつ説明した。
「質問があれば、鑑定を始める前に伺います」
向かいに座った男が、帽子を膝の上で回した。
「子どもに何か見つかった場合も、船で働かせるのですか」
「いいえ」
文官が答えるより早く、澪の口から声が出た。
「子どもは対象にしません。身体の状態や技能が分かっても、今の暮らしや、将来学ぶことを考えるための情報です。飛行船の人手へ数えることはありません」
男の手が止まった。
隣に座る妻も、膝へ寄せていた子どもの肩から力を抜いた。澪は、危険な技能や病気が見つかった場合の扱いを付け加えようとしたが、今ここで可能性を並べれば、かえって不安を増やす。
「身体について治療が必要なことが分かった時は、本人とご家族へ伝え、診療所へつなぎます。それ以外の方へ話すことはありません」
必要なところまで言葉を足すと、文官が説明書の余白へ書き留めた。
面談は、一家族ずつ進んだ。
真壁が本人の許可を得て鑑定を使い、マルテが申告書を読む。文官は侯爵家が集めた資料を開き、ヴァルトは魔術や技能に見過ごせない点が出た時だけ口を挟んだ。
氏名、ジョブ、以前の仕事、家族関係。家族全員について申告と調査結果を見比べ、食い違いがなければ、技能と今後望む暮らしを聞く。
長く船着き場で荷を扱っていた男には、荷役に結びつく技能があった。街道の護衛をしていた者には、警戒や夜目がある。家族の技能も、縫製、料理、計算、家畜の世話など、これまで手を動かしてきた仕事から外れるものではなかった。
何家族目かで、ヴァルトの指が申告書の端に止まった。
向かいに座る男は、使い込んだ革袋を膝へ載せ、両手を固く組んでいる。申告書には、商隊の護衛をしていたと書かれていた。
「姿と気配を薄くする技能をお持ちですね」
男の肩が強張った。
隣の妻が夫の横顔を見つめ、マルテの筆も止まる。
「申し訳ありません。隠すつもりでは……」
「技能を持っていること自体を問題にしているのではありません」
ヴァルトは男の手元を見た。逃げ出す様子はなく、革袋の口も閉じたままだ。視線が扉へ走ったのは、逃げ道を探したというより、外で待つ家族を気にしたように見えた。
「いつ身につけ、何に使ってきたのかを教えてください」
男は乾いた唇を舐めた。
「夜営中の見張りです。街道の先を見る時や、盗賊から商隊を逃がす時にも使いました。先に進んで、道に待ち伏せがないか調べる役を任されていました」
文官が別の紙を引き寄せる。以前所属していた商隊から得た証言にも、男が夜間の偵察を担当していたと記されていた。
「募集の際に申告しなかった理由は何だ」
真壁に問われ、男は膝の革袋へ目を落とした。
「隠れる技能があると言えば、それだけで盗人だと思われることがあります。前に住んでいた町でも、仕事を失ったあとに倉庫荒らしを疑われました」
「その件は、侯爵家でも調べています」
文官が証言書をめくった。
「盗難が起きた日、あなたは別の商隊に同行して町を離れていた。疑いは解かれています」
「ですが、一度疑われたことは残ります」
男の妻が口を開いた。声は抑えていたが、夫の革袋へ重ねた指に力が入っている。
澪は、申告書の端に置かれた男の手を見つめた。節の太い指には、古い切り傷が何本も重なっている。
技能の名前だけなら、船内へ忍び込む者にも使える。しかし、夜の街道で荷と人を守るためにも使える。便利か危険かは、技能だけでは決まらない。
真壁は証言書を読み終えると、申告書へ訂正の印を付けた。
「申告しなかった点は改めてもらう。取得の経緯と使用歴は、調査結果と矛盾しない。乗員候補から外す理由にはならない」
男の組んだ指が、ようやくほどけた。
「ただし、飛行船内でその技能を使う時は、責任者の許可を受けたまえ。事故の際、乗員の所在が分からなければ救助できぬ」
「はい。必ず守ります」
「夜間の見張りと偵察の経験は、技能とは分けて訓練担当へ伝える。船内で何を任せるかは、訓練を受けてから決める」
真壁は技能名の隣へ、使用条件だけを書き加えた。
男の妻と子どもについても同じように確かめ、話との食い違いがないと分かってから、その家族の面談は終わった。
廊下へ出ると、男は外套の留め具を直しながら、妻へ小声で何かを告げた。妻が一度だけ夫の腕を叩き、待合にいた子どもを呼ぶ。家族が並んで集会所を出ていくまで、澪は扉のそばに立っていた。
疑いをすべてなくせたわけではない。だが、技能名だけで排除せず、使ってきた事情と資料を照らし合わせ、船内での扱いまで決めた。
真壁の言った「残っている疑いを消す」とは、こういう作業なのだろう。
昼を過ぎる頃には、集会所の窓から差し込む光が薄くなっていた。
待合にいた子どもたちは緊張を失い、木片へ紐を結んで荷車の真似をしている。積み上げた木片を別の子が崩し、言い争いになりかけたところへ、年長の子が平らな板を運んできた。
「こっちを倉庫にすればいい」
床に置いた板の上へ木片が並べ直される。澪は麦茶を足しながら、荷物を置く場所がもう決まっていることに気づいた。親たちが新町で話している仕事を、子どもなりに聞いているのかもしれない。
奥の面談も家族単位で続いた。
重大な身元の偽りや、調査結果と食い違う経歴は見つからなかった。申告から漏れていた技能はいくつかあったが、事情を聞けば、以前の仕事や暮らしの中で身につけたものだった。
ある家族では、乗員候補の弟が木工に関わる技能を持っていた。
「家具職人ではありません」
本人は鑑定結果を聞くなり、先に否定した。
「村で壊れた荷車や扉を直していただけです。きちんと親方についたこともありません」
真壁が男の手を見る。爪の脇には木屑が入り、親指の付け根には刃物を握り続けた硬い皮膚ができていた。
「新しい物を作るより、壊れた物を直す方が多かったのか」
「はい。板が割れれば当て木をして、蝶番が外れれば穴を埋めて付け直します。使える木を捨てる余裕はありませんでしたから」
真壁が工房の欄へ印を付けようとしたため、澪はその手元へ目を落とした。
「働きたい場所は、まだ聞いていません」
筆先が止まる。
「そうだったな」
男は真壁と澪を交互に見た。技能が判明した瞬間に職場を決められると思っていたらしい。
「こちらで働くことを望みますか」
「家族の暮らしが落ち着いたら、仕事はしたいです。ただ、工房で職人を名乗れるほどではありません」
「名乗る必要はない」
真壁は付けかけた印を消し、別の余白へ書き直した。
「修繕の経験あり。工房を見学したうえで、本人が望むなら補助作業から始める。親方の判断は親方へ任せる」
澪は息を置いた。
真壁の中ではすでに、扉や荷箱の修繕に使える人員として数えていたはずだ。それでも、職人として使えるかどうかを自分で決めず、現場の親方へ渡した。
男も、すぐに働けと言われなかったことで、かえって工房の方角を気にし始めた。
「見学だけでも、よいのですか」
「明日、希望者に職場を見てもらう。その場で決める必要もない」
真壁が答えると、男は家族の顔を見た。妻が先に頷き、ようやく本人も「お願いします」と返した。
面談を終えた家族が出ていったあと、真壁は消した印の上へ指を置いた。
「先に決めた方が早いのだが」
「暮らすのは名簿ではなく、その人です」
「承知している。ゆえに消した」
返答に不満はない。ただ、次の申告書を開く手がまったく遅くならない。
澪は小さく息を吐き、次の家族を呼びに待合へ向かった。
珍しい技能が続いたわけではない。荷役、警戒、計算、修繕、縫製、調理。見つかるのは、それまでの生活に結びついたものが中心だった。
その中で、乗員候補の妻の一人に収納が見つかった。
女は鑑定結果を聞いた途端、息を呑んで隣の夫を見た。
「小さなものしか入りません。市場で働いていた時も、誰にも話しませんでした」
「なぜだ」
真壁に問われ、女は繕い跡のある袖口を握った。
「知られれば、何でも運べと言われます。断ると、持っている意味がないと言われました。壊れ物も、腐りかけた肉も、何が入っているか分からない包みもです」
便利な技能を持っているからといって、他人に便利に使われたいわけではない。
澪は、自分の収納へ入れてきた物を思い返した。使い方を知り、危険を分けられる者が近くにいたから、断ることも試すこともできた。女には、それを選ぶ余地がなかったのだ。
「収納があることと、何を引き受けるかは別です」
澪が言うと、女は確かめるように顔を向けた。
「ここでは、本人の許可なく荷を入れさせることはありません。中身を知らせずに渡すことも認めません。危険な物を扱う場合は、先に説明し、保管する場所も分けます。嫌なら断って構いません」
女の視線が真壁へ移る。
「無論だ。収納を持つことを理由に、仕事は強制しない」
真壁は技能欄ではなく、以前の職歴へ目を移した。
「市場では、どのような作業をしていたのだ」
「穀物袋や木箱を、荷車から倉庫へ運んでいました。濡らせない品は上へ置いて、割れ物は荷車の外側を避けます。先に売る物を手前へ寄せ、戻ってきた箱は数を合わせて倉庫へ返していました」
女が話すにつれ、握っていた袖口から指が離れていく。
説明しているのは収納ではない。毎日の仕事で覚えた荷物の扱い方だった。真壁も技能欄へは何も足さず、職歴の脇へ短く書き留めている。
「今後も、荷を扱う仕事を望むかね」
「できるなら。店先で売るより、倉庫の方が慣れています」
「ならば、地上の貨物置場で荷の扱いを学ぶ道がある。収納を使うかどうかも含め、実際の作業を見てから決めるとよい。飛行船へ乗る必要はない」
女はすぐには答えず、夫の顔を見た。
「船へ乗らなければ、ここへ来た意味がないのでしょうか」
「あなたは乗員候補者の家族として移住したのであって、予備の乗員として連れてこられたのではありません」
侯爵家の文官が答えた。
「住居や学校、診療所については、夫君が乗員にならなかった場合も含め、侯爵家から改めて説明します。働くかどうかは別の話です」
夫が妻へ身体を向けた。
「倉庫なら、お前が前からやっていたことだ。収納を使わずに働いて、それから決めてもいいんじゃないか」
「見てから決めてもよいのですか」
「そのための訓練期間だ」
真壁の言葉を聞き、女はようやく頷いた。
澪は、申告書へ「収納あり」と書かれるのを見守った。その隣に置かれたのは配属先ではなく、「貨物置場見学希望」の文字だった。
その後も、ごく少数ながら鑑定や地図を持つ者が見つかったが、その場で使い道は決めなかった。真壁は名前と技能、本人の経験、希望する働き方を別々に書き留めていく。
乗員候補者の名簿だった紙には、貨物、検査、地上連絡という小さな印が増えていた。
技能を集めているのではない。誰が何をしてきて、これから何を望むのかを、飛行船の内と外へ分け始めている。
ただし、紙面の端には診療所や学校という文字まで現れかけていた。
澪は、それを見なかったことにはしなかった。
最後の家族が小部屋へ入る頃には、窓の外で整備灯がともっていた。
乗員候補の男は、妻と2人の子どもを連れて椅子へ座った。本人と家族の照合を終え、技能にも申告との食い違いはなかったが、仕事の希望を尋ねると、妻が先に口を開いた。
「飛行船へ乗れば、何日も帰らないことがあるのでしょうか」
男が妻へ顔を向ける。募集の説明は受けていたらしいが、家族の前で具体的に話すのは初めてのようだった。
「航路と天候による」
真壁は机の下から、試験飛行後に作っていた資料を取り出した。
「最初から長い航路へは出さない。地上訓練の後、短い航路で船内作業を覚えてもらう。帰着予定が変わった時の連絡方法は、現在詰めている」
「連絡できないこともあるのですか」
「ある」
真壁は曖昧に濁さなかった。
「遠方では、その日のうちに知らせられぬ場合がある。天候次第では予定地へ降りず、別の場所で待機することも考えられる」
妻の指が、子どもの肩へ置かれた。
幼い方の子は話を理解していないのか、机の木目を指でなぞっている。年長の子は、父親と真壁を交互に見ていた。
「危険はありますか」
「ないとは言わぬ。火災、荷崩れ、機関の停止、悪天候がある。ゆえに危険区域を分け、退避方法を覚えてから乗せる。訓練を終えられなければ、乗員にはしない」
男が背筋を伸ばした。
「私は訓練を受けます」
「あなたが決める前に、奥方の話を聞きたまえ」
真壁の一言で、男の口が閉じた。
妻は驚いたように真壁を見てから、夫へ向き直った。
「乗るなと言いたいのではありません。戻らない日があるなら、薪や水をどうするか、子どもが病気になった時に誰へ頼るか、先に決めておきたいのです」
「近くの家へ頼めば……」
「近くの家も、乗員の家族でしょう。同じ日に夫がいないかもしれません」
澪は、今朝見た井戸を思い出した。
水汲みの順番を教わっていた女たちのうち、何人の夫が同じ船へ乗るのだろう。乗員だけで勤務を組めても、家に残る者の暮らしが同時に崩れれば続かない。
「乗員の勤務説明と、家族の生活についての説明は分けた方がいいですね」
澪は文官へ顔を向けた。
「住居、学校、診療所、それから乗員が不在の時に相談できる町の担当者については、侯爵家から説明していただけますか。押入商会だけでは決められません」
「承りました。町の担当者と相談し、家族向けの説明日を設けます」
「乗員の帰着予定も、家族へ知らせる仕組みが要る」
真壁は訓練資料の表紙を裏返し、新しい欄を引いた。
「船ごとに予定表を出す。遅延時の連絡先は地上側へ一本化する。マルテ君、乗員の家を一軒ずつ回らせるのではなく、集会所と貨物置場の双方へ掲示できる形にしたまえ」
「文字を読めない方もいます」
「家族ごとに担当を決め、口頭でも伝える」
「町の人員が要りますね」
「侯爵家の担当者と相談する。押入商会の者だけで抱えぬ」
真壁の筆は止まらない。家族から出た不安が、その場で地上連絡の仕組みへ変わっていく。
妻は、紙の上へ新しい欄が作られるのを見つめていた。
「決まっていなかったのですか」
「決まっていなかった」
真壁が答える。
「今、あなたの話を聞いて加えた」
隠さず認められたことで、妻の表情から別の緊張が抜けた。
「それなら、お願いします。夫が何日戻らないのかだけでも、分かるようにしてください」
「必ず伝える」
面談を終えた家族が部屋を出ると、待合で遊んでいた子どもたちが父親へ駆け寄った。年長の子は、床へ作った木片の倉庫を見せながら、飛行船にも同じような荷物置場があるのかと尋ねている。
男はすぐに答えられず、訓練を受けてから教えると約束した。
澪はその背を見送り、真壁が作った新しい欄へ目を戻した。
飛行船の安全だけを説明しても足りない。船に乗る者が危険を理解し、家に残る者が不在の日を暮らせるところまで考えなければ、家族単位で迎えた意味がなかった。
面談を終えた頃には、集会所の外はすっかり暗くなっていた。
途中から席へ加わったリュシアが、人員表を机いっぱいに広げている。名前の横に付いた印を指で追ううち、その眉が少しずつ寄っていった。
「真壁さん。商人と行商人の印が多すぎない?」
「現在のジョブと技能、実務経験が明らかに噛み合っていない者には、別の適職を提示する。それ以外で空運や物流に携わる者は、商人か行商人がよいだろう」
「ジョブを変えただけで、荷の受け渡しも在庫の確認もできるようにはならないわ」
リュシアは貨物担当の欄を指先で叩いた。
「荷を受け取って、数を合わせて、傷みを見つけて、渡す相手を間違えない。濡らしてはいけない物と、近くへ置いてはいけない物も覚えさせるの。飛行船に乗せるのは、その後よ」
「では、希望する者はリュシア殿の倉庫で訓練を」
「何人いると思っているの」
リュシアが人員表を持ち上げた。紙の下から、さらに同じ印を付けた頁が現れる。
真壁は人数を数え直す代わりに、別の紙を引き寄せた。
「商会倉庫と地上の貨物置場へ分ける。最初は少人数ずつ交代で回し、同じ荷を受け取らせて差を見る」
「私の倉庫を勝手に試験場へしないで」
「リュシア殿の許可があればよい」
「だから、今、人数と日程を相談しているの」
リュシアは呆れたように息を吐いたが、紙を返しはしなかった。商会倉庫で教えられる人数を書き込み、残りを貨物置場へ回す。真壁が出した案を止めるのではなく、現場で扱える大きさまで切り分けている。
ヴァルトが人員表を読み、ジョブ欄へ指を置いた。
「ジョブ変更は、真壁殿の判断だけでは行えません。本人の意思を確かめ、司祭から説明を受けたうえで儀式へ進む必要があります。現在のジョブを維持する選択肢も示すべきでしょう」
「無論だ。マルテ君、司祭殿の予定を」
マルテはすでに日程表を開いていた。
「明日は教会で務めがあります。こちらへ来られるのは、早くても明後日です」
「では、明日は本人と家族へ作業内容を説明し、希望者には訓練先を見てもらう。明後日、司祭殿から候補となるジョブについて説明を受け、変更を望む者だけ儀式へ進める」
真壁は人員表の日付を書き換えた。
司祭が明日来られないと分かっても、無理に予定を早めようとはしない。その代わり、仕事を見ないままジョブを選ばせないよう、職場見学を先へ入れた。
澪は家族欄に並ぶ印を指した。
「家族の方まで、全員ジョブ変更の対象にするわけではありませんよね」
「新町で働くことを望む者にだけ選択肢を示す。現在のジョブと技能や実務経験が明らかに噛み合っていない者には、別の適職を勧める。それ以外で物流に携わりたい者には、商人か行商人を候補として示す」
「今のジョブを残したい場合は」
「変えない」
そこには迷いがなかった。
リュシアは人員表の商人候補へ目を戻した。
「行商人は、荷を持って歩けばよいというジョブではないわ。道と客を見て、売れなかった理由も覚えなければならない。地上の貨物係なら、全員を行商人にする必要はないでしょう」
「飛行船へ乗る者には、到着地で荷の受け渡しを任せる可能性がある」
「なら、同じ荷を地上で扱わせてから決めるの。商人の方が向く者もいるし、今のジョブを残した方がよい者もいるわ」
真壁は行商人の印を一つずつ消した。代わりに、職場見学後に本人と司祭へ相談するという印を付けていく。
澪は、紙面から同じ印が減っていくのを見て肩の力を抜いた。
技能があるからこの仕事、飛行船に関わるからこのジョブと、一列に並べてしまえば早い。しかし、早く決めた配置ほど、本人の暮らしと噛み合わなかった時に崩れやすい。
真壁は新しい紙をマルテへ渡した。
「明日、乗員訓練を受けるか、地上勤務を望むか、家族も新町で働くことを希望するか、司祭の説明を受けるかを尋ねる」
マルテは言われた順には書かず、紙の中央へ線を引いた。
「本人向けと家族向けに分けます。乗員候補者には危険も改めて伝えます。長く町を離れる場合があること、天候によって帰着が遅れること、船内では指示系統に従うことも必要ですね」
「加えてくれ。勤務日と帰着予定は家族にも知らせる」
「家族には、住居と学校、診療所、乗員が不在の時の相談先も説明します。こちらは侯爵家の担当者へ回します」
マルテの筆が、真壁の項目を押入商会と侯爵家へ分けていく。
町の運営まで押入商会で抱えるのではない。住居、学校、診療所、住民への公式な案内は侯爵家と町の担当者が受け持つ。商人候補の訓練はリュシアが見る。魔術系技能はヴァルトが扱い、収納や鑑定の初歩は、本人が希望した場合に澪が補助する。
最初は一つの塊に見えた仕事が、それぞれ責任を持てる相手へ渡されていった。
その中央で、真壁は別の紙を広げた。
「真壁さん。乗員候補の面談は終わりましたよね」
「終わった」
「では、その紙は何ですか」
「家族の中にいた技能持ちの育成案だ」
澪が紙面へ目を落とす。
貨物置場、倉庫、検査、地上連絡だけではない。診療所、学校、警備、工房という文字まで並んでいた。
「飛行船から離れていませんか」
ヴァルトも覗き込み、眉間へ指を当てた。
「真壁殿。これは、ほとんど新町の人員表です」
「飛行船の乗員が家族と暮らす町だ。無関係ではあるまい」
間違っているとは言い切れない。
家族ごと移住させておきながら、乗員に選ばれた者にしか仕事がなければ、暮らしはいずれ行き詰まる。学校も診療所も工房も、人が働かなければ建物のままだ。
しかし、だからといって真壁がすべて決めてよい話でもない。
「学校と診療所は侯爵家へ渡してください。技能がある方を見つけても、採用を決めるのはそれぞれの責任者です」
「警備も領主家の権限ですね」
ヴァルトが警備の文字を指す。
「工房も、親方が実際の腕を見て決めるべきでしょう。面談だけで職人として配置はできません」
「承知した」
真壁は紙を4つに分けた。
押入商会で扱う欄、リュシア商会へ相談する欄、侯爵家へ渡す欄、各工房の親方へ見てもらう欄。線を引き終えると、それぞれの紙を迷わず該当する者の前へ置く。
リュシアは自分の前へ来た紙を取り上げた。
「これは私とマルテで見ます。真壁さんは乗員訓練の準備を進めなさい」
「商人候補も頼もう」
「分かったから、全部終わったような顔をしないで。明日の説明内容も、こちらで見直すわよ」
「すでに用意してある」
真壁は机の下から厚い紙束を取り出した。
試験飛行を終えたあとから作っていたらしい。船内の危険区域、退避合図、荷の固定、火災時の行動が、それぞれ別の束へ分けられている。話しながら即興で書いたものではなく、頁の端には試験中に直した跡がいくつも残っていた。
リュシアは紙束を見たまま、しばらく口を開かなかった。
「……順番に見ます」
澪も半分を受け取り、最初の頁を開いた。
説明の文字が細かい。子どもどころか、字を読むことに慣れていない大人にも難しそうだった。
「これは乗員用ですね。家族向けは別に作りましょう」
「何を省く」
「省く前に、家族が知りたいことを聞きます。今日出たのは、何日帰らないのか、遅れた時に誰へ聞くのか、病気や水汲みで困った時にどうするかです」
「飛行船の構造は」
「家族向けには要りません」
真壁の指が紙の上で止まった。
リュシアが顔を伏せたまま、口元だけを緩める。
「澪の言うとおりよ。船の構造を説明されても、残された家族の薪は増えないわ」
「では、構造説明は乗員用に残す」
真壁は別の紙を出し、家族向けの表紙を書き始めた。
話は止まらない。ただし、全員へ同じ説明を配る予定は、その場で2つへ分かれた。
集会所を出ると、冷えた夜気が頬へ触れた。
住宅の窓には灯りが並び、どこかの家から肉と根菜を煮込む匂いが流れてくる。今日ここへ集められた家族たちも、あの明かりの下で、見つかった技能や明日の職場見学について話しているのだろう。
通りの先には、山を掘り抜いた地下ドックの入口が見えた。
その奥で、飛行船の大きな船体が整備灯を受けている。
候補者の家族らしい一団が、入口の手前で足を止めていた。父親の手を握った子どもが、銀色の光に照らされた船腹を見上げ、空へ浮かぶところを想像するように首を反らしている。
父親が何かを説明すると、子どもは今度は地上の貨物置場へ目を向けた。昼間、集会所の床へ作っていた木片の倉庫と比べているのかもしれない。
まだ、誰も正式な乗員ではない。
ドックの奥では、明日から使う訓練区画の扉が開き、整備員たちが床へ新しい誘導線を引き始めていた。