2027年1月中旬。
明石さんの事務所へ入った時、外の冷たい空気がコートの表面にまだ残っていた。
窓から差し込む午後の日差しは明るいのに白っぽく、暖房の効いた室内とはまるで温度が違う。奥では誰かが電話で話していて、ときおりコピー機が短く動く。キーボードを叩く音と紙をめくる音が、その隙間を埋めていた。
澪は打ち合わせ卓の前でバッグを膝の横へ置いた。
隣では真壁がコートを椅子の背へ掛け、持ってきた薄い書類ケースを机の端へ置いている。
卓上には、出されたばかりのお茶が3つ。
澪は湯呑みに口をつけた。
熱い。
何事もなかったように戻した。
「では、2026年分の個人側を見ていきましょう」
向かい側で明石さんがノートPCを開いた。
画面はこちらを向いていない。
自分のお金の話なのに、自分には数字が見えない。
それだけで、澪は背筋を伸ばした。
とうとう来た。
いつか来るとは分かっていた。
金貨を初めて換金した時から、ずっと頭のどこかにいたものだ。
確定申告。
ただし、まだ1月である。
「提出直前になってから始めると慌ただしくなります。今のうちに、足りないものを見ておきます」
「はい」
少しだけ息が抜けた。
今日ここですべてが決まるわけではないらしい。
会社側については、明石さんが毎月見ている。今日の中心は澪と真壁の個人側、とくに会社ができる前に澪個人で動かしたお金だった。
明石さんが画面を切り替えた。
「その前に。納税に備えた資金は残していますか」
「あります」
澪はほとんど間を置かず答えた。
ここだけは自信がある。
「どのくらいでしょう」
「半分くらいです」
明石さんが画面から顔を上げた。
「何の半分ですか」
「え」
澪の指が止まった。
何の。
考えたことがなかった。
「大きなお金が入った時は、だいたい半分です。白金を売った時も、その後のお給料も、賞与も」
言いながらスマホを取り出す。
銀行アプリを開けば、残高は見せられる。
その横で、真壁も同時にポケットへ手を入れた。
澪は横を向いた。
真壁の手にもスマホがある。
向こうも澪を見た。
明石さんの視線が、机の上へ並びかけた2台へ動いた。
「残高を見せていただく前に、何のお金を残しているのかを分けましょう」
澪はスマホを持ったまま止まった。
「口座に入っているという点では同じでも、給与と賞与と売却代金と、会社から戻ってきたお金は同じではありません」
「はい」
澪はスマホを机へ置いた。
銀行アプリから見れば、全部ただの入金である。
数字の左側にプラスが付く。
澪はそのプラスを見るたびに、とりあえず半分を触らないものとして考えてきた。
かなり慎重なことをしてきたつもりだった。
「税額を計算した結果、半分になったわけではないんですね」
「違います」
「何か根拠がありますか」
「足りなくなるのが嫌だったので」
答えてから、少し弱い気がした。
でも本当に、それだけだった。
明石さんは何も言わず、今度は真壁を見る。
「真壁さんは?」
「私も概ね半分は残しておりますな」
澪はまた横を向いた。
「真壁さんも?」
「ええ」
「相談してませんよね」
「しておりません」
そこは即答だった。
明石さんが聞く。
「真壁さんの半分にも、計算上の根拠はありませんか」
「ありませんな。予想外の負担が出るなら、余裕は大きい方がよいでしょう」
「安全率ですか」
「そのようなものです」
明石さんは一拍だけ置いた。
「税額は安全率では決まりません」
「承知しました」
真壁は素直に頷いた。
澪には、半分を残すことまでやめる顔には見えなかった。
たぶん自分も同じ顔をしている。
「半分という割合そのものに、税務上の意味はありません。ただ、資金を使わず確保していたことは助かります」
「じゃあ」
澪は身を乗り出しかけた。
「資金面については問題ありません」
肩から力が抜けた。
よかった。
何かあった時のために触らなかったお金は、少なくとも無駄ではなかった。
湯呑みへ手を伸ばす。
今なら飲めそうだった。
「では、何のお金だったのかを見ていきましょう」
湯呑みを持ち上げたところで、肩に力が戻った。
「はい」
お茶は、ちょうど飲める温度になっていた。
明石さんが画面を切り替える。
「真壁さんは8月以降、月80万円。年末の賞与が300万円」
「はい」
「澪さんも月80万円。賞与300万円」
「はい」
澪は湯呑みを置き、少し姿勢を正した。
月80万円。
改めて人から言われると大きい。
大学生になった頃の自分なら、その金額だけでしばらく固まったと思う。
まして賞与300万円。
明石さんが画面へ目を通す。
「こちらは大丈夫です」
マウスが動いた。
次の画面へ移る。
澪は瞬きをした。
「え」
「はい?」
「賞与の300万円も?」
「はい」
「月80万円の方も?」
「毎月見ています」
「……そうでした」
そうだった。
顧問税理士なのだから見ている。
真壁が隣から言った。
「顧問ですからな」
「知ってます」
知っていた。
知っていたのだが、自分の中ではまだ大事件だったのである。
明石さんは特に気にした様子もなく、別の資料を開いた。
「では、法人設立前へ戻ります」
「戻るんですね」
澪は今度こそ湯呑みを置いた。
真壁が椅子へ座り直す。
ここから先は、真壁が押入商会へ入るより前の話だ。
画面の日付が2026年前半へ戻っていく。
飯島貴金属。
その名前が見えた時、澪には数字より先に、当時の空気が戻ってきた。
金貨が、本当に家賃になるのか。
そんなことを本気で考えていた頃だ。
向こうで手に入れた硬貨は、日本のコンビニでもスーパーでも使えない。だから飯島さんのところへ持っていき、金を含む金属として調べてもらった。
当時は、その先に会社を作ることになるなど考えてもいなかった。
「最初はこちらですね」
明石さんが古い買取明細を示した。
「はい」
澪は自然に紙へ身を寄せた。
その近くには、当時の小さな仕入れのレシートもある。
百円ショップ。
安全用品。
日用品。
数千円という数字と、金貨を換えた数十万円という数字。
今となっては小さく見える。
けれど、あの頃の自分には小さくなかった。
家賃になった。
食費になった。
次に向こうへ行くための道具を買える金になった。
「当初はこの程度でしたか」
真壁が明細へ目を落とした。
澪は少しだけ口を尖らせた。
「当時は大金だったんです」
「それはそうでしょうな」
真壁はすぐ認めた。
からかっているわけではないらしい。
そのまま次の資料を見る。
「その後、増えておりますな」
「成長グラフみたいに見ないでください」
「事業の推移としては興味深い」
「私は当時、事業の推移なんて考えてませんでした」
どうやって来月も生活するかを考えていた。
明石さんは2人の会話へは入らず、日付と明細を順に追っている。
澪も思い出しながら答えた。
最初の換金。
その後の追加。
さらに追加。
向こう側で何を売って、何を受け取ったかは話さない。
ここで見るのは日本側へ持ってきた後だけだ。
飯島貴金属へ持ち込んだ。
査定された。
円になった。
口座へ入った。
「この頃から、入ったお金を全部使わないようにしていますね」
明石さんが言った。
「怖かったので」
「助かっています」
澪は少しだけ胸を張った。
昔の自分が褒められた気がした。
「過去の社長がよい仕事をしておりますな」
「その頃、会社ありませんけど」
「では創業者ですな」
「それは今もそうです」
真壁は一度頷き、古い明細から現在の資料へ視線を移した。
「個人での売却を減らし、法人側へ一本化した方が――」
「法人化後は、既にそうしています」
明石さんが言った。
真壁の言葉が止まった。
「そうでしたな」
澪は何も言わなかった。
ただ、お茶を一口飲んだ。
ちょっとだけおいしかった。
あの頃は、何も分かっていなかった。
税金も、会社も、名義も、口座も、ほとんど知らなかった。
でも怖いから調べた。
分からないから明石さんへ相談した。
使ったもののレシートは残した。
大きなお金が入れば、全部は使わなかった。
昔の私、思っていたより頑張ってたかもしれない。
そんな気分になったところで、明石さんが次の資料を開いた。
44,000,000円。
澪の背筋が勝手に伸びた。
「残してあります」
明石さんの手が止まった。
「まだ何も聞いていません」
「でも、これですよね」
「これです」
白金。
法人化前に澪個人で売った分だった。
4,400万円。
今の押入商会は、それより大きな金額を動かすこともある。
それでも、この数字だけは澪の中で別だった。
会社のお金ではない。
自分の口座へ、本当に4,400万円が入った。
銀行アプリを何度見ても、自由に使っていい金だとは思えなかった。
だから触らなかった。
正確には、怖くて触れなかった。
明石さんが先ほどまで見ていた資料と並べる。
数千円のレシート。
数十万円の金貨。
44,000,000円。
紙の大きさはたいして変わらないのに、数字だけがおかしい。
「急に増えましたね」
澪は自分で言った。
「増えましたね」
明石さんも認めた。
真壁が明細を見ながら口を開く。
「最初の売却額から成長率を取ると――」
「そこ計算しなくていいです」
「そうですかな」
「いいです」
真壁は計算するのをやめた。
たぶん今、頭の中では途中まで出ていた。
明石さんは金額に驚いて話を止めることなく、画面を進める。
「売却先はこちら。日付はこちら。入金も一致しています」
「はい」
「この時に直接かかった費用は――」
淡々と続く。
澪は少し拍子抜けした。
4,400万円なのに。
自分の中では、本日の最大の爆弾だった。
「金額は大きいですが、見るところは同じです」
明石さんが言った。
金額が大きいから怖いのではない。
何のお金なのか分からなくなる方が困るらしい。
澪の中で、4,400万円という大きな塊が、売却、入金、費用という別々のものへほどけていく。
明石さんが次の項目へ移ろうとしたところで、真壁が口を開いた。
「仕入れ経路の詳細については、取引上の秘密としております」
澪の指先が止まった。
来た。
そこへ行くのか。
背中に冷たいものが走る。
明石さんは真壁を見た。
「そこを伺っているわけではありません」
「そうでしたか」
「日本側で生じた取引について見ています」
「承知しました」
真壁はあっさり引いた。
澪だけが一瞬緊張して損をした。
異世界とは言わない。
押し入れの向こうとも言わない。
それは最初に明石さんへ相談した頃から変わっていない。
そして今も、言わなくても現代側で起きたことは現代側の言葉で扱える。
澪は小さく息を吐いた。
明石さんがもう一度、資金の話へ戻る。
「この売却分についても、納税資金は十分残っています」
「半分以上あります」
「資金は先ほど確認しました」
「じゃあ大丈夫ですね」
「資金は」
「資金は」
澪は復唱した。
まだ終わっていないらしい。
窓から入る冬の日差しは、いつの間にか机の端まで移っていた。
最初は熱かったお茶も、もう湯気が出ていない。
資料は残り少なくなっている。
明石さんが別の入金を表示した。
3,000,000円。
「これは会社から澪さんへ戻った300万円ですね」
「はい」
「元々、澪さんが会社へ貸していたお金です」
「はい」
これは覚えている。
会社を作ったばかりの頃、会社側へ回したお金だ。
それが戻ってきた。
「これも半分残してあります」
明石さんの手が止まった。
澪も止まった。
今までと反応が違う。
何かある。
「これも?」
「はい」
「税金用に?」
「はい」
「なぜでしょう」
澪は考えた。
なぜ。
口座に大きなお金が入った。
だから使わなかった。
それ以上の理由は――。
「……入ってきたので」
数秒、誰も話さなかった。
遠くでコピー機が動いた。
紙が排出される乾いた音だけが聞こえる。
「元々、澪さんが会社へ貸していた300万円です」
明石さんがもう一度言った。
「はい」
そこまでは分かる。
澪はようやく、自分が何をしたのか理解した。
「じゃあ、残しすぎました?」
「残して困ることはありません」
明石さんはそう答えた。
真壁が横から言う。
「資金が余りましたな」
「余ってません。貯金です」
「同じ金です」
「気分が違います」
「使わない分には問題ありません」
明石さんが話を戻した。
澪は口を閉じた。
でも、貯金と余った金は違う。
少なくとも気分はかなり違う。
明石さんが最後の項目を見ていく間、澪は画面に出てくる入金を頭の中で分けてみた。
給与。
賞与。
売却代金。
会社から返ってきたお金。
全部、銀行アプリでは同じプラス表示になる。
でも同じではない。
最初に金貨を換えた頃は、円になったことだけで精一杯だった。
今は、会社の金と自分の金を分けられる。
何のお金かも考える。
分からなければ明石さんに聞けばいい。
半分を使わないという方法は、かなり大雑把だったらしい。
それでも、使い切ってから困るよりはずっとよかった。
「今後、大きな取引が見えている時は、入金後ではなく事前に相談してください」
明石さんが言った。
真壁がすぐに答える。
「その方が効率がよいですな」
「はい。条件が決まってから直すより、決める前に見た方が早いです」
真壁が頷く。
その横顔を見て、澪は少し安心した。
たぶん次からは、半分を残す前に明石さんへ連絡が行く。
ただし真壁なので、連絡した後も半分くらい残す可能性はある。
自分も人のことは言えない。
明石さんが画面を閉じていく。
「2026年分については、必要なものはほぼ揃いました」
「よかった……」
今度こそ、はっきり息が抜けた。
澪は背もたれへ身体を預ける。
2026年が終わった。
少なくとも税金の準備の上では。
明石さんがノートPCを閉じた。
真壁も書類ケースを閉じる。
澪は机の上のスマホを取り、バッグへしまった。
全員が終わる動きをした。
澪の中でも、金貨、白金、給与、賞与、300万円がようやく過去の側へ並んだ。
「そういえば」
明石さんが言った。
澪の手はまだバッグの中にあった。
「蛍石の件ですが」
止まった。
真壁の手が、閉じたばかりの書類ケースへ戻った。
「今日は資料を出さなくて大丈夫です」
真壁がケースから手を離した。
澪もスマホをバッグへ押し込む。
「1kg10万円前後というお話でしたね」
「まだ評価段階です」
澪はすぐ答えた。
数日前の話が一気に戻ってくる。
蛍石。
光。
光通信。
空間光通信。
地上局。
その先には人工衛星の話まで出た。
確定申告のことを考えている間だけ、意識の外へ追いやっていた。
「どの程度の数量になりそうでしょう」
「まだ少し――」
言いかけて、止まった。
明石さんが澪を見る。
「『少し』ではなく、数量でお願いします」
「……まだ決まってません」
「分かりました」
危なかった。
少し、と言うところだった。
押入商会で少しという言葉は、時々おかしな量になる。
澪にも自覚はある。
主な原因が誰かは、隣を見なくても分かる。
「需要に応じて供給量を決めればよいでしょう」
真壁が普通に言った。
明石さんの視線が真壁へ移る。
「単位からお願いします」
「kgですな」
澪は少し安心した。
tではない。
「年間でどの程度ですか」
「需要次第です」
安心は早かった。
明石さんが一度閉じたノートPCへ手を戻した。
「海外の話もありますか」
澪は真壁を見た。
「可能性はあります」
真壁が答える。
「国内だけではない?」
「評価先次第でしょう」
「宇宙関係も?」
澪は今度は明石さんを見た。
どうしてそこまで。
「……話には出ました」
「人工衛星ですか」
「衛星間通信の用途候補です」
真壁が補足した。
明石さんがノートPCを開いた。
さっきまで暗かった画面に、また光が戻る。
終わったはずの打ち合わせ卓が、元へ戻った。
澪はバッグへしまったスマホを取り出すべきか迷った。
「2026年の話ではありませんから、今日はここまでで大丈夫です」
明石さんが言う。
澪はスマホを出さなかった。
真壁も書類ケースを開かない。
ただし、明石さんのノートPCだけは開いたままだった。
「今年の大型取引については、売ってからではなく、価格と契約条件が見えた段階で連絡してください」
「はい」
澪は今度は迷わず答えた。
金貨1枚が家賃になるのか分からず立ち止まっていた頃とは違う。
分からない時に、何をすればいいかは分かる。
会社で扱う。
数量と価格を決める。
契約する前に専門家へ聞く。
そこまで考えてから、澪はふと気になった。
「半分残すだけじゃ駄目ですか」
明石さんが澪を見る。
隣で真壁が口を開きかけた。
「真壁さんもです」
先に言われた。
「承知しました」
真壁は口を閉じた。
明石さんは開き直したノートPCへ手を置いた。
「今回は、半分残す前に相談してください」