地下ドックに入ると、冬の冷気は入口の辺りで途切れた。
岩盤の奥へ掘り込まれた巨大な空間には風がほとんどなく、作業灯の白い光が、飛行船の腹と床に長い影を落としている。
リュシアはカーゴ脇に立ち、訓練中の乗員たちを眺めていた。
以前なら、何かするたびに真壁の方を見る者が多かった。
今は違う。
接続部を覗き込んでいた男が手を上げると、別の者が反対側へ回る。伝声管から声が来れば、近くにいた者が返し、必要な者へ内容を渡す。
まだ手際の悪いところはある。
それでも、人が自分で次の仕事を探し始めている。
リュシアにとっては、その方が船そのものより大事だった。
「リュシア殿」
聞き慣れた声に振り返る。
アルベルトがこちらへ歩いてくる。
その隣にはエレナがいた。
リュシアは一瞬、飛行船からアルベルトへ視線を戻した。
侯爵家の責任者が来るなら、何か仕事だろう。
エレナまで一緒となると、それだけではなさそうだった。
「アルベルト様。エレナ様」
「ああ」
アルベルトは短く返した。
エレナは返事より先に飛行船を見上げている。
カーゴから浮力本体、その先のギャロップへと、視線が止まらない。
「これか」
「はい」
「クララから聞いた」
やっぱり。
リュシアは胸の内で納得した。
「空を飛んだそうだな」
「ええ。前の訓練で一緒に乗りました」
「火山の方まで行ったとも聞いた」
「そこまで聞かれましたか」
「魔物もいたそうだ」
リュシアは少しだけ目を細めた。
クララは、ずいぶん楽しそうに話したらしい。
「今はまだ訓練ですよ。真壁さんたちにも手伝ってもらいながら、火山帯の魔物を間引くのも兼ねて飛ばしています」
その言葉で興味が薄れるかと思った。
エレナの目は、逆に明るくなった。
「私も乗りたい」
「見学でしたら、訓練の予定を――」
「操縦もしたい」
リュシアは一度口を閉じた。
隣を見る。
アルベルトは驚いていなかった。
「兄上、なぜそんな顔をしている」
「予想していた」
「何をだ」
「そこまで言うだろうと思っていた」
エレナが眉を寄せた。
「私はまだ何もしていない」
「そうだな」
アルベルトの返事は短かった。
それがかえって、普段から妹をよく見ていることを物語っている。
リュシアは飛行船へ顔を戻した。
見学と操縦では話が違う。
「エレナ様。今の飛行船は、誰でも操縦できるようにはしていません」
「なぜだ」
「うちでは、行商人で、それも移動加速を持っている人でないと操縦は任せていないんです」
「行商人?」
「商人の上位ジョブです。今の船は移動加速を使って、重力と風の具合を合わせながら飛ばしていますから」
エレナは飛行船を見た。
次にリュシアを見る。
ほんの短い間だった。
「では、商人から始める」
「エレナ」
アルベルトの声がすぐ飛んだ。
「何だ、兄上」
「何だ、ではない」
「条件を満たせばいいのだろう?」
リュシアは返答に困った。
言っていることだけなら間違っていない。
身分で断ったわけでもない。
侯爵令嬢だから特別扱いして乗せる気もなかった。
けれど、操縦できない理由を聞いて、その場でジョブから変えようとするとは思っていなかった。
「ジョブを変えるなら司祭様のところで説明を受けて、儀式も必要になりますよ」
「なら――」
「行かないぞ」
今度はアルベルトが最後まで言わせなかった。
エレナが兄を見上げる。
「まだ何も言っていない」
「司祭のところへ行くと言うところだっただろう」
「なぜ分かった」
「兄だからだ」
リュシアは口元が動きそうになるのをこらえた。
そのままギャロップへ近づこうとしたエレナへ、アルベルトがもう一度声を掛ける。
「エレナ」
「触らない」
足は止まった。
しかし視線は操縦席のある方へ向いたままだ。
「操作くらい、今なら力加減も分かる」
「扇子」
アルベルトが一言だけ返した。
エレナの顔が兄へ向いた。
「……それは昔の話だ」
「瓶のフタもありましたね」
リュシアが付け加える。
今度はエレナがこちらを見た。
「リュシア殿まで言うのか」
「操縦したいと言われましたので」
リュシアは真面目に答えた。
昔、市場で商品を試していた頃とは、扱う物の大きさが違いすぎる。
あの時は扇子だった。
今度は全長200mほどの飛行船である。
同じ調子で試してもらうわけにはいかない。
アルベルトが飛行船からリュシアへ向き直った。
「エレナの話は後にしよう」
「後なのか?」
「後だ」
妹を一言で戻してから、アルベルトの表情が仕事のものへ変わる。
「今日は、それだけで来たわけではない」
リュシアも姿勢を直した。
「何でしょう」
「レオンハルトたちを、そろそろ戻したい」
「西方…ベラクルスからですか」
「ああ」
その一言で、リュシアの頭から操縦したがる侯爵令嬢が一度消えた。
レオンハルトが連れていった兵は、およそ1,000人。
兵だけではない。
向こうへ持っていった荷もある。
飛行船が飛ぶことと、1,000人を連れて帰ることは同じではない。
「空から運ぶのに、手を貸してもらえないだろうか」
リュシアはすぐには返事をしなかった。
少し前まで、カーゴへ乗せていたのは乗員候補とその家族だ。
火山帯へ出て、飛び、戻った。
それだけでもずいぶん先へ進んだと思っていた。
今度は侯爵家の兵を、目的地まで迎えに行き、まとめて帰す。
遊びではない。
「アルベルト様」
「ああ」
「まだ訓練中なんですが」
同じ言葉を、今日2回目に使った。
エレナにはまったく効かなかった。
アルベルトは飛行船を一度見上げた。
「承知している。だから、できるかどうかを聞きに来た」
こちらにも効かなかった。
リュシアは小さく息を吐いた。
「今のカーゴではギュウギュウにつめてもいけるかどうかもあります。私だけでは決められません。澪と、それから真壁さんにも相談させてください」
「分かった」
アルベルトはあっさり引いた。
無理に飛ばせと言っているわけではない。
そこが分かれば、リュシアも考えやすい。
「返事は急がない。できるなら、こちらも撤収の段取りを進める」
「はい」
「では、その便に――」
「エレナ」
アルベルトが横を向かないまま言った。
エレナが口を閉じた。
「まだ何も言っていない」
「後だ」
「……分かった」
リュシアは今度こそ笑いそうになった。
兄というのも、大変らしい。
澪が大型製造ドックへ入ると、真壁は作業台の前にいた。
金属材と複合材の部材が並び、その向こうには飛行船のカーゴが見える。
真壁は手元を止めずに顔だけ上げた。
「澪君、どうした」
「リュシアさんから相談です」
「聞こう」
澪は作業台の横へ回った。
「アルベルトさんが来たそうです。ベラクルスにいるレオンハルトさんたちを、そろそろ撤収させたいと」
「人数は?」
「およそ1,000人です」
真壁の手が一度止まった。
澪は、その続きを待つ。
「よいのではないか」
「……いいんですか?」
「何か問題があるか」
「まだ荷物の量も聞いてませんけど」
「それは現地で詰めればよい。兵が約1,000名というところは分かった」
真壁は作業台に置いてあった紙を1枚引き寄せた。
澪には、嫌な予感というほどではないが、見覚えのある流れだった。
真壁が紙を引き寄せる時は、だいたい話が先へ進む。
「訓練にもなる」
「1,000人の撤収輸送がですか?」
「実際に人を運ばず、何を訓練する」
言われてしまうと、その通りだった。
空運部門なのだから、人を運ぶ。
火山帯を飛んで帰ってくるだけが訓練ではない。
行き先があり、迎える人がいて、荷があり、帰る。
むしろ今までより仕事に近い。
「ただ、今の物流用カーゴをそのまま使う理由はないな」
真壁が紙へ線を引いた。
澪は覗き込む。
「今のじゃ駄目なんですか?」
「貨物用だ。人を運ぶなら、人用にしよう」
「作るんですか?」
「カーゴだけだ」
澪は飛行船の下に収まっている輸送ユニットを見た。
真壁にとっては「だけ」なのだろう。
澪には十分大きな建物に見える。
ギャロップも、浮力本体もそのまま。
カーゴだけ別の用途に合わせられる。
最初から分けて作った理由が、ようやく実際の仕事で姿を見せ始めた。
「約1,000名なら、1,000席でよい」
真壁の鉛筆が動く。
「1層に並べると長いな。2層にする」
「2階建てですか?」
「500ずつだ」
また線が増えた。
「幅は今の規格で収まる。横10席」
小さな四角が並ぶ。
3つ。
通路。
4つ。
通路。
3つ。
「3、4、3で50列。これを上下に置けば1,000だ」
澪は紙と真壁を交互に見た。
「ジャンボジェットと同じですね。もうそこまで決めたんですか?」
「今決めた」
真壁は何でもないことのように答えた。
紙の上では、数分前まで存在しなかった2階建てのカーゴが、もう形になり始めている。
「全長は65mほどで収まる。幅は10m程度。乗降に使うところは前後に取る」
「1,000人と装備を乗せたら、かなり重くなりますよね」
「重力制御を強める」
そこは澪も予想していた。
「魔石は?」
「食うな」
真壁は即答した。
澪はなぜか少し安心した。
魔法で軽くできます。
以上。
ではなかった。
「そこは増えるんですね」
「当然だ。常用する仕様ではない。大人数を一度に運ぶ時に使えばいい」
真壁の鉛筆がまた動いた。
今度は床の下へ何かを書き込んでいる。
重量を減らせるから、何でも無料で飛ばせるわけではない。
魔石を使う。
大量に運ぶ時は、その分だけ高くつく。
その代わり、1,000人を地上で何日も掛けて移動させずに済む。
澪の頭にも、ようやくこのカーゴの使い道が形になってきた。
「荷物は実際の量を聞いてからだな」
「はい。それはリュシアさんに確認してもらいます」
「それでよいだろうね」
真壁は紙を作業台へ置いた。
「では真壁さんも行くんですか?」
「いや」
澪は顔を上げた。
「私はしばらく動けん」
「え」
ここまで全部決めた人が、乗らない。
澪の中では完全に真壁が先頭にいる絵になっていた。
「じゃあ、延期します?」
「なぜかな」
「真壁さんが行けないなら」
「そのために訓練している。元々は私やヴァルト君というスキルに頼った属人性を排除するための試みだった」
真壁は淡々と言った。
澪は口を閉じた。
火山帯で、ハインツたちは真壁の声を待たずに動き始めていた。
誰がどこを見るか。
誰が声をまとめるか。
人が足りなければ、どう入れ替えるか。
帰ってきた後も、自分たちで船の周りを歩き、次の配置を考えていた。
あれを見ていたのに、澪の頭の中ではまだ、真壁が乗っていることが前提だったらしい。
「リュシア君に頼もう」
「リュシアさんが?」
「彼女の商会の空運部門だろう」
それもその通りだった。
いつまでも真壁が全部飛ばしていたら、名前だけリュシア商会になってしまう。
「旅客用カーゴはこちらで用意する」
真壁は紙を持ち上げた。
「しばし待ってもらおう」
「どのくらいです?」
「出来るまでだ」
澪は聞いたことを少し後悔した。
期間についての情報が一つも増えていない。
真壁はもう別の材料を引き寄せている。
「澪君、この床材を出してくれ」
「今からですか?」
「待たせるのだろう?」
「はい」
「なら早い方がいい」
間違ってはいない。
澪は収納を開いた。
赤い霧の向こうから指定された部材を取り出す。
しばし待て。
その言葉を伝える前から、待たせる時間を短くする作業が始まっていた。
リュシアが話を聞き終えるまで、アルベルトたちはまだ空運部門にいた。
エレナは相変わらず飛行船の周りを見ている。
ただし、最初に注意されたからか、勝手に触ってはいない。
それだけでも昔よりは進歩している。
「真壁さんは、引き受けていいと言ってました」
澪が告げると、リュシアの肩から少し力が抜けた。
「そう。ならアルベルト様にも返事ができるわね」
「ただ、すぐには出られません」
「やっぱり準備はいるね」
「人員輸送用のカーゴを作るそうです」
リュシアが澪を見た。
「カーゴを?」
「はい。2階建てで、1,000人乗れるものを」
その数字には驚かなかった。
レオンハルトたちの人数は分かっている。
リュシアが引っ掛かったのは別のところだった。
「今のを使うんじゃなくて?」
「人を運ぶなら人用にするって」
リュシアは一度飛行船を見上げた。
真壁なら言う。
むしろ、もう作り始めている気がする。
「それで、真壁さんも一緒に?」
澪は首を横に振った。
「しばらく動けないそうです」
リュシアの顔から、ほんの少しだけ笑みが消えた。
「……そう」
火山帯では真壁がいた。
ヴァルトもいた。
澪もいた。
何か起きれば、すぐその3人の方を見ればよかった。
けれど、それを続けるために人を集めたわけではない。
自分たちで飛ばすために集めた。
自分たちで運ぶために覚えている。
リュシアは訓練中の者たちへ目を向けた。
接続部から戻ってきた者が、別の者と何か話している。
前に真壁が立っていなくても、手は止まっていない。
「真壁さんが、リュシアに頼むって」
澪が続けた。
リュシアはしばらく乗員たちを見てから、澪へ戻った。
「分かったわ。やりましょう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫にするために訓練してるんでしょう?」
自分で言って、少し可笑しくなった。
今日だけで何度「訓練」と言っただろう。
訓練だからエレナをすぐ操縦させられない。
訓練だからアルベルトの依頼に即答できなかった。
その結果、訓練として1,000人の兵を迎えに行くことになった。
どうにも「訓練」という言葉の範囲が広がっている気がする。
リュシアはアルベルトへ向き直った。
「アルベルト様。お引き受けできます」
「そうか」
「ただ、人員輸送用のカーゴを用意してからになります。真壁さんは今回、同行できません」
アルベルトの眉がわずかに動いた。
「お前たちだけで飛ばすのか」
「はい」
口にしてみると、思ったより重かった。
けれど、言い直す気にはならなかった。
「そのための訓練ですから」
アルベルトはリュシアを見た。
やがて一度頷く。
「分かった。レオンハルト側には、こちらから話を進める」
「お願いします。荷の量も分かれば教えてください」
「ああ」
話がまとまったところで、横からエレナが入った。
「それで、私の訓練はいつからだ?」
リュシアは目を瞬いた。
まだ覚えていた。
アルベルトが妹を見る。
「エレナ」
「待つのだろう?」
「何をだ」
「新しいカーゴができるまでだ。その間に商人を始めればいい」
「始めない」
今度は間もなかった。
エレナが眉を寄せる。
「なぜだ」
「飛行船の待ち時間で職を変えるな」
「だが条件を満たさなければ操縦できない」
「だからといって今日決める話ではない」
兄妹の話がまた元へ戻っている。
リュシアは澪を見る。
澪もこちらを見た。
何となく、2人とも同じことを考えている気がした。
飛行船より、こちらの方が時間が掛かるかもしれない。
「そういえば」
リュシアは澪へ顔を向けた。
「真壁さんは、どのくらい待てって?」
「しばし、と」
「しばし?」
「私も聞きました」
「それで?」
「出来るまで、だそうです」
リュシアは黙った。
答えになっていない。
だが、真壁のことだから、本当に何もしていないとは思えない。
その時、ドックの奥から大きな金属音が響いた。
一度。
続いてもう一度。
作業していた者たちがそちらを見る。
澪だけは、何の音か分かっている顔をした。
「まさか」
リュシアが言う。
澪は少し困ったように笑った。
「もう始めてます」
新しい床材が、奥の治具へ運ばれていく。
まだアルベルトへの返事を終えたばかりなのに、2階建ての人員輸送カーゴは、もう最初の形を取り始めていた。
リュシアはそれを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「待つのは、こっちなのね」