ベラクルス侯爵領の空に、飛行船の影が現れた。
宿営地で荷を運んでいた兵士が最初に気づき、手を止めて空を見上げる。近くにいた者もつられて顔を上げた。
飛行船そのものより、目を引いたのはその下だった。
窓が4段並んだ長方形の輸送ユニットが、ギャロップの下についている。
「……あれに乗るのか?」
誰かが呟いた。
答える者はいなかった。
飛行船は宿営地から少し離れた平地へ降りてくる。地面へ近づくほど、4段の窓がはっきり見えた。
着地すると、輸送ユニットの下から車輪が降りる。
そのまま、ゆっくり動き始めた。
「……走るのか、あれ」
今度は何人かが同時にそちらを見た。
4階建ての輸送ユニットは低速で向きを変え、兵団の近くまで寄って止まった。
側面の扉が開く。
中からリュシアが降りてきた。
待っていたレオンハルトを見つけると、そのまま歩いていく。
「レオンハルトさん、お迎えにきましたよ」
「迎え?」
「ええ。アルベルト様からです」
リュシアは預かってきた封書を差し出した。
レオンハルトは受け取り、封を確かめてから中を読む。
その間にも兵士たちの視線は、リュシアの後ろへ向いていた。
窓が4段。
その一番下には車輪。
正面には何やら人の乗れそうな区画まで付いている。
手紙を読み終えたレオンハルトも、そちらを見上げた。
「これは真壁殿が作ったものか」
「そうだよ」
「そうか」
レオンハルトは手紙を畳んだ。
「総員撤収。引き上げるぞ」
宿営地の空気が変わった。
各隊の指揮官が声を上げ、兵士たちが一斉に荷をまとめ始める。
リュシアはその中へ入り込まず、エアバスへ戻った。
「前から入る人はこっちだよ。後ろへ回る人は、そのまま向こうへ行っておくれ」
乗員たちも散っていく。
レオンハルトの指示で分かれた隊が前後の乗降口へ向かい、流れに合わせて扉から中へ入っていった。
「装備はこっちだよ。部隊ごとに分けておくれ」
長い荷を抱えた兵士が、そのまま客席へ向かおうとする。
「それはこっちだよ。席へ持っていったら邪魔じゃないか」
「ああ、すまん」
「そこへ置いておくれ」
兵士は向きを変えた。
前方の階段へ兵が上がっていく。その少し後には、別の隊が後方の階段へ消えていった。
人が途切れず入っているのに、入口では思ったほど列が止まらない。
リュシアは一度前方へ目をやり、すぐ後ろへ向き直った。
「次の隊、入っておくれ」
やがて1階の座席が埋まり、2階、3階、4階へ兵士が分かれていった。
最後の方で入ってきたレオンハルトが、1階の客室を見渡す。
「上も同じか」
「そうだよ。4階まである」
レオンハルトは階段を見上げた。
「最初から4階だったのか」
「真壁さんが途中で増やしたんだよ」
「なるほど」
それだけ言って、空いている席へ向かった。
乗員たちが前後の扉を確認していく。
重力制御が入ると、通路で荷を持っていた兵士の腕が思った以上に上がった。
「おっ、体が軽い」
隣の兵士も立ち上がる。
「本当だ」
足を踏み直し、面白そうに身体を動かす。
別のところでも声が上がった。
リュシアが通路へ出る。
「皆さん、席についておくれ。飛ぶよ」
立っていた兵士たちが止まった。
「飛ぶのか」
「そのために乗ったんだろう?」
「そうだった」
笑いながら席へ戻っていく。
リュシアは通路を見渡し、前方にいた乗員へ頷いた。
しばらくすると、窓の外で地面が遠ざかり始めた。
宿営地が小さくなる。
人影が見分けにくくなり、荷車も点に近づいていく。
窓際の兵士たちは、身体を寄せるようにして下を見ていた。
街道が見えた。
山裾へ沿って大きく曲がり、その先で森の中へ消えている。
飛行船は曲がらない。
街道の方が、窓の下を斜めに流れて後ろへ遠ざかっていった。
高度が上がるにつれて、見える土地が広くなった。
森の向こうに町があり、その先に畑が続いている。
左舷側の窓を見ていた兵士が声を上げた。
「おい、あれは王都じゃないか?」
近くの者が一斉にそちらを見る。
左舷の下方、霞の向こうに大きな市街地が見えていた。
城壁に囲まれた街並みが広がり、その中に周囲より大きな建物がまとまっている。
「本当だ」
「王都だ」
「こんなところから見えるのか」
レオンハルトも席を立ち、左舷の窓へ目を向けた。
地上を歩いていた時とは、まるで形が違って見える。
道も家も城壁も、ひとつの大きな町の中へ収まっていた。
しばらくして、右舷側から別の声が上がる。
「向こうの山、煙が出てるぞ」
遠くの山並みの一角から、薄いものが空へ伸びていた。
「火山か」
そちらは王都よりずっと遠い。
それでも、山の形と、その上へ伸びる煙は分かった。
左右で景色を見ていた兵士たちの声がしばらく続いた。
やがて窓の外へ白いものが流れ始める。
「何だ?」
「雲だよ」
リュシアが近くの席から答えた。
白い筋はすぐに濃くなり、窓の外を覆っていく。
王都も火山も見えなくなった。
外は真っ白になり、光だけがぼんやりと差し込んでくる。
少しして、その白さが急に薄くなった。
窓から強い光が入る。
そして視界が開けた。
下には、一面の雲。
白い雲が陽を受けながら、遠くまで続いている。
その上には青い空しかない。
さっきまで窓際で話していた兵士たちが静かになった。
「……雲は、上から見るとこうなるのか」
誰かが呟いた。
窓の向こうで、白い雲の起伏がゆっくり後ろへ流れていく。
レオンハルトも立ったまま、その景色を見ていた。
しばらくすると、ひとり、またひとりと席へ戻っていった。
背もたれへ身体を預ける者が増え、隣と話していた兵士も、いつの間にか目を閉じている。
装備を別に預けているので、足元には余裕があった。
リュシアは客室を一度回り、前方の階段を上がった。
2階でも何人かが眠っていた。
3階を通り、4階へ上がる。
窓際ではまだ雲を見ている兵士がいる。そのすぐ横では、腕を組んだ男が完全に眠っていた。
反対側からレオンハルトが歩いてくる。
「どうだい?」
「問題ない」
レオンハルトは客室を振り返った。
「皆、休めている」
「それなら良かったよ」
リュシアも眠っている兵士を見た。
「まだ先はあるからね」
レオンハルトは頷き、また階段へ向かった。
雲の上では、地上の景色が変わらない。
それでも飛行船は止まることなく、ヴァルディス侯爵領へ向かって進み続けた。
4時間後。
窓の外へ、また雲が近づいてきた。
エアバスは白い中へ入る。
しばらくして雲の下へ抜けると、森と畑が戻ってきた。
眠っていた兵士も、窓の外の色が変わったことに気づいて目を開ける。
遠くに町が見え始めた。
「領都だ」
誰かが言った。
その声で、さらに何人かが窓へ顔を向けた。
「帰ってきたな」
今度は静かな声だった。
地面が近づくにつれ、道も家も大きくなっていく。
早く立ち上がった兵士へ、リュシアが声を掛けた。
「まだ座っていておくれ。降りてからでいいよ」
兵士は苦笑しながら席へ戻った。
飛行船は領都近くの平地へ降下した。
着地すると、エアバスの車輪が地面へ降りる。
低速で動き出し、用意された場所へ寄っていった。
窓の外に、人影が見えた。
アルベルト。
その隣にセレスティナ。
そしてエレナ。
エレナだけは、エアバスが止まる前から窓を上まで追っていた。
1階。
2階。
3階。
顔がさらに上がり、4階へ届く。
エアバスが止まった。
扉が開き、リュシアが先に降りる。
「アルベルト様、お待たせしました」
「無事に着いたか」
「はい」
その後ろからレオンハルトが降りてきた。
アルベルトの前へ進み、姿勢を正す。
「ただいま戻りました」
「ご苦労だった」
アルベルトはレオンハルトの後ろへ目を向けた。
すでに最初の兵士たちが降り始めている。
「まず皆を休ませろ。話はその後でいい」
「はっ」
レオンハルトはすぐに振り返り、各隊へ指示を出した。
セレスティナも、降りてくる兵士たちへ目を向ける。
「お帰りなさい。皆さん、ご無事で何よりです」
「ご心配をおかけしました」
その横で、エレナがエアバスへ近づこうとした。
「エレナ」
アルベルトが名前を呼ぶ。
「見るだけだ」
「まだ何も言っていないが」
エレナは足を止めた。
セレスティナが口元に笑みを浮かべる。
「まずは皆さんが降りてからにしましょう」
「分かっている」
エレナはその場に残ったものの、視線はエアバスから離れない。
前後の扉から兵士たちが次々と降りてくる。
やがて4階にいた最後の隊も階段を下り始めた。
エレナはその人数を見てから、改めてエアバスを見上げた。
「これに全員乗ってきたのか?」
「そうですよ、エレナ様」
リュシアが答えた。
「およそ1,000人だよ」
「私も乗れるのか?」
「乗るだけでしたら大丈夫ですよ」
「いつ乗れる?」
アルベルトが妹を見る。
「操縦の話ではないな」
「乗るだけだ」
「この前も最初はそういう話だったと思うが」
「今度は本当に乗るだけだ」
リュシアはエレナを見て少し笑った。
「訓練の日ならね。その時は乗客で来ておくれ」
「分かった」
「エレナ」
「乗るだけだと言っているだろう」
エレナはそう答えた。
視線は、エアバス正面のコックピットから動いていなかった。