王都商業ギルドの大扉が開くたび、冷えた風が石床の上を走った。
ゴットフリート・レンツは外套の前を押さえ、受付へ並ぶ商人たちを避けて壁際へ寄った。扉の向こうでは荷車の鉄輪が石畳を叩き、馬の鼻息に御者の声が重なる。中へ入れば、濡れた革と紙とインクの匂いが混じる、いつもの商業ギルドだった。
人も荷も動いている。それなのに、自分の倉庫へ戻ると、このところ妙に手の空く時がある。
「レンツ」
振り向くと、顔見知りの商人が手を上げていた。
「この前の荷、そっちでも扱ったんだろ」
「ああ」
「どうだった?」
「倉庫屋には、あまりありがたくない荷だったな」
「傷んでたのか?」
「逆だ」
レンツは苦笑した。
袋には品と量が分かるよう札が付き、受け入れるたびに開けて量り直す手間が薄い。次の荷主へ渡すのも早い。
便利だった。
困ったことに、文句をつけにくいくらい便利だった。
「荷主は喜んでたぞ」
「知ってるよ」
「買った奴も」
「それも知ってる」
「じゃあいいじゃないか」
「うちの秤が暇になった」
相手が吹き出した。
「贅沢な文句だな」
「俺もそう思う」
使いにくいなら直せと言える。間違いが多ければ昔のやり方へ戻せとも言えるが、よく出来ている物へ便利になるなとは言えない。
そこへ低い声が割り込んだ。
「同じようなことが増えるらしいぞ」
フリードヘルム・ザイデルだった。
レンツが顔を向ける。
「何か聞いたのか?」
「詳しくは知らん。新しい運送を始めるらしいというところまでだ」
「リュシア商会か」
「押入商会もだ」
ザイデルは受付の奥へ目をやった。
「それだけなら好きにすればいい。商売だからな。だが、人まで探している」
「募集が出たのか?」
「出ていない」
「じゃあ、何で知ってる」
「腕のいい御者を知らないかと聞かれた奴がいる。倉庫仕事に慣れた者を聞かれた奴もいる」
レンツは眉を寄せた。
「誰が聞いた」
「ギルドだ」
少し離れた卓では、王都商業ギルド長のグスタフ・ハーゲンが職員から紙を受け取っていた。グスタフは内容を読み、途中で一度だけ問い返すと、別の職員を呼んで何か伝えた。いつも通りだった。
レンツはその姿を眺めた。
「俺は、あの人が何かやってるとは思ってないぞ」
「俺も、そう言った覚えはない」
「じゃあ何だ」
「妙な順番だと思わんか。募集もしてないのに、人の名前は先に集めてる」
それは確かに引っ掛かった。
レンツの倉庫にも話はない。ザイデルにもない。新しい商売へ自分たちが関われるのかどうか、それすら分からない。
「その話、私にも聞かせてもらえないかな」
背後から声を掛けてきたのはロター・クレーマーだった。
評議員に声を掛けられ、レンツは少し身構えた。
「大げさな話じゃないぞ」
「なら、すぐ終わるだろう。ここでは人の邪魔になる」
ロターが空いている部屋を示した。
断れば、かえって大げさになりそうだった。
部屋へ入ったのはレンツとザイデルだけではなかった。
廊下で声を掛けた者も加わり、卓の周りには倉庫屋、馬商、護衛の手配をする者、地方へ荷を流す者が座った。
「うちは馬だ」
向かいの男が茶へも手をつけずに言った。
「運送が変わるからって馬が消えるとは思っちゃいない。だが長い道を走る荷が減れば、売れる先は減る」
「こっちは護衛だ。荷が動かなきゃ護衛も要らん」
「俺は逆だよ」
レンツが肩をすくめた。
「荷が動きすぎると倉庫が要らん」
何人かが笑った。
笑っている場合ではないのだが、商人同士なら可笑しさも分かる。
「誰も新しい商売をやめろなんて言ってないんだ」
レンツは茶を一口飲んだ。
「俺だって使えるなら使いたい」
「俺のところには何の話も来てないぞ」
「うちもだ。なのに、倉庫仕事の出来る奴を知らないかと聞かれた者はいる」
「妙な順番だな。働く奴の話が先に出て、俺たちは何を始めるのかも知らない」
「参加出来るなら、話くらいは聞きたいんだが」
別の商人も頷いた。
「誰に聞けばいいかも分からん。何をどう運ぶ商売なのかさえ、こっちには来てないからな」
「なのに人の話だけは出てる」
「荷役が出来る奴だの、倉庫仕事に慣れた奴だの、その話は聞いた」
ロターはそれまで、ほとんど口を挟んでいなかった。
「ハーゲン殿へ直接聞いた者は?」
誰も答えない。
「人を探していると知ったのは?」
「知り合いだ」
「俺も」
「荷役を知ってる奴の名を聞かれたって話を聞いた」
「倉庫番もだ」
ロターはゆっくり全員を見渡した。
「皆、別々に聞いたわけだな」
「そうなる」
「なのに、何のためか知っている者はいない」
ザイデルが腕を組み直した。
「先に人だけ選んでるようにも見える」
「見えるだけかもしれんだろ」
レンツはすぐに返した。
そこは分けておきたかった。仕事が減るのは困るが、だからといって、気に入らないこと全部を不正と呼ぶ気はない。
「だったら聞けばいい」
「誰に」
「ハーゲン殿に決まってるだろ。人を探してるのは本当か。何を始めるのか。俺たちが関われるのか。それで済む」
「答えると思うか?」
「答えるだろ」
レンツ以外からも同じ声が出た。
ロターが微笑んだ。
「私もそう思う」
ザイデルが眉を寄せる。
「なら、何のために集めた」
「10人で押しかけて、10通りの文句を言うためじゃない。何を聞きたいか揃えるためだ」
それなら納得出来た。
レンツは自分の倉庫を思い浮かべる。荷を置く日数が短くなるなら、別の稼ぎ方を考える手もある。新しい運送へ倉庫屋の仕事があるなら、先に知っておきたい。
分からないものを嫌うより、まず聞く。商売なら、その方が早い。
「日が決まったら呼んでくれ」
立ち上がると、何人かも続いた。
「俺もだ」
「どういう荷を扱うのか聞きたい」
「俺は人の募集だな。後から、もう決まりましたじゃ困る」
扉が開く。
広間のざわめきが戻り、商人たちは一人ずつ外へ出た。
最後にレンツが出て扉が閉まる。
ザイデルだけは席を立たなかった。
「……あいつら、本当に説明を聞いたら帰るぞ」
「そのために来たんだから当然だろう」
ロターは冷めた茶へ口をつけた。
「お前は違うのか」
「俺のところには馬がいる。御者もいる。護衛を食わせてる奴もいる」
「レンツの倉庫にも人はいる」
「分かってる」
ザイデルは窓へ顔を向けた。
外を荷車が通ったらしい。鉄輪の音が窓硝子をかすかに震わせる。
「ハーゲンを問い詰めても駄目だろうな」
「なぜ?」
「あの男は逃げ道を作ってる」
「違う」
ロターは茶器を置いた。
「逃げ道ではない。本当に線を引いているんだ」
ザイデルが振り返った。
「人を引き抜いたのかと聞けば、候補を聞いただけだと言うだろう。侯爵家の新事業なのかと聞けば、商会の商売だと言う。実際、そうしている」
「……なら終わりじゃないか」
「説明を聞きたい連中にはな」
ザイデルの目が細くなる。
「俺たちは?」
ロターは、皆が帰った卓を見た。
「金でも受け取っていれば簡単なんだが」
「そんな噂は聞いたことがない」
「私もない」
「ないんだな?」
「ああ」
ロターは立ち上がった。
「だから困っている」
夜の王都は、昼より裏通りが広く見えた。
店を閉めた板戸が続き、人声が消えるたび、遠い大通りの車輪だけが浮いて聞こえる。
ザイデルは案内された小部屋で、卓の向こうに座る男を見ていた。
マロは商人にも職人にも見える身なりをしていたが、ザイデルにも何を生業にしている男なのかまでは分からない。
「それで?」
マロが先を促した。
「座ってるだけでも金を取るぞ」
「王都商業ギルド長のことだ」
「ハーゲンか。何を調べる」
「調べるんじゃない」
口に出すと、思ったより喉が乾いた。
まだ帰れる。相談だけだったと言えばいい。そんな言い訳が浮かんだことに、ザイデル自身が腹を立てた。
「押入商会かリュシア商会から、ハーゲンに金が渡ったことにしたい」
マロの目が初めてザイデルの顔へ止まった。
「渡ったのか?」
「いや」
「証文は?」
「ない」
「見た奴は?」
「いない」
「噂くらいは?」
「ない」
マロが片方の眉を上げた。
「何もないじゃないか」
「だから来た」
「なるほど」
男は椅子へ深く座り直した。
「不正を探せって仕事じゃないわけだ」
「そうだ」
「ない取引を、あったことにする」
ザイデルは返事の代わりに顎を引いた。
「俺は作らんよ」
「出来ないのか」
「俺の仕事じゃない。そういう奴を知っているだけだ」
「会わせてくれ」
「話は持っていく」
ザイデルが立ち上がりかけると、マロが卓を指で叩いた。
「まだだ」
「何だ」
「金の話をしてない」
「払う」
「額も聞かずに?」
ザイデルは黙った。
マロが鼻で笑った。
「運送屋ってのは、積む前に運賃を決めないのか」
返す言葉がなかった。
地下から地上へ出たところで、澪は足を止めた。
冷たい風と一緒に、人が右から左から流れてくる。
後ろの人にぶつかりそうになり、慌てて柱の脇へ寄った。
スマホを開くと、青い点は間違いなく渋谷にいるし、目的の本屋も表示されている。そこまではいいのだが、画面から顔を上げると、どちらへ歩けばいいのか急に自信がなくなる。
「こっち……」
数歩進んで止まる。
違う気がする。
また端へ寄る。
大学へ行く時には迷わない。異世界では、行った場所なら地図スキルまである。
よりによってゲンダイの渋谷で、スマホを握って立ち往生している。
もう一度地図を拡大しようとして、少し先に見覚えのある横顔を見つけた。
理央だと気づいて、澪の指が止まった。
声を掛けてもいいだろうか。
忘年会ではかなり話した。嫌な感じではなかった。むしろ話しやすかったが、それと街で一人の時に声を掛けていいかは別だ。
理央がスマホを見る。
看板を見る。
またスマホへ戻る。
同じ看板をもう一度見る。
少なくとも、順調には見えない。
「理央ちゃん?」
考え終わる前に声が出た。
理央が顔を上げる。
「……澪さん?」
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
返事をされてから、澪は自分が先に声を掛けたことに気づいたが、もう掛けてしまったものは仕方がない。
「今日はどうしたんですか?」
「打ち合わせです。終わったところ」
「そうなんですね」
「澪さんは?」
「本を買いに来たんです。会社で使う本もあって」
「本屋?」
理央が店名を言った。
「そこです」
「私もです」
2人のスマホを並べると、同じ店が表示されていた。
「じゃあ、一緒に行きます?」
「はい」
理央が答えたので、澪も画面へ視線を戻した。
少しして、理央が顔を上げる。
「……どっちですか?」
「今、それを調べてます」
「あ」
理央は何も言わず、自分の地図へ戻った。
1人で迷っていた時より気は楽になったが、2人とも同じ画面を見ているので、どちらが案内役なのかは決まらないままだった。
歩き出してしまえば、話すことはあった。
彫金教室のこと。年末のこと。大学のこと。
「大学、始まってます?」
「はい。まだそんなに忙しくないですけど」
「前に言ってた人たちとは?」
「ゼミですか? 会いますよ」
「話せてます?」
澪は理央を見た。
「そこ覚えてたんですか」
「覚えてます」
「……前よりは」
「よかった」
たったそれだけだったのに、澪はマフラーへ顎を少し埋めた。
自分で「前よりは話せる」と言うのと、誰かに「よかった」と言われるのは、どうも別物らしい。
本屋へ入ると、外の冷気が一気に切れた。
理央は歩きながら何度か棚を見ていたが、Web発の小説が並ぶ一角で足を緩めた。
「澪さん、Web小説って読みます?」
「読みますよ」
「結構?」
「……結構」
「毎日?」
「だいたい」
理央の目が少し大きくなった。
「読む人だ」
「理央ちゃんも?」
「読みます」
そこから妙に話が早かった。
「お店始める話、好きですか?」
「好きです」
「途中から仕入れがなくなるの、気になりません?」
「気になります」
澪は思わず理央を見た。
「そこですか」
「そこです」
「私も、商品が増えた時に、どこから持ってきたんだろうって思います」
「店員さん増えたのに、急に給料の話なくなったり」
「分かります」
「倉庫、小さいままだったり」
「分かります」
そこで澪は一度口を閉じた。
こういう細かい話は、相手によっては途中で「そこまで考える?」という顔をされる。自分でも気にしすぎだとは思うし、別に小説の中で棚卸しまで読みたいわけではない。
「あと、売れすぎた次の日、普通に同じ数の商品が並んでると、補充どうしたんだろうって」
「それです」
澪の返事が即座に出た。
理央が笑う。
澪も笑った。
そこからは、さっきまでなら口へ出す前に一度考えていた話まで、そのまま続くようになった。
主人公だけではなく、町の人にも暮らしがある話が好きだとか、便利な力を手に入れても使い道を試す話が好きだとか、店を大きくするなら客だけではなく働く人が増えてほしいとか、更新が止まっていても時々覗きに行くとか。
「何年待てます?」
「……何年でも」
「私もです」
声が揃い、2人で顔を見合わせた。
何年も更新されていない作品を時々開きに行く行為について、説明が要らない相手がいた。
「身近にも、Web小説好きな人がいるんですよ」
「そうなんですか」
「おすすめもされます」
「好み合います?」
「半分くらいは」
古い燭台が頭に浮かんだ。
半分どころか、妙に濃い作品を薦めてくることもある。
「どんな人ですか?」
澪は一瞬止まった。
「……かなり読む人です」
嘘は言っていない。
理央はそれで納得したらしく、棚へ視線を戻した。
友達になれそうな相手へ、初日に「古い燭台の神様です」と説明する勇気は、まだなかった。
理央が棚の間を進み、不意に「あ」と声を出した。
一冊抜き取る。
「探してたの、それですか?」
「はい」
澪は表紙を覗き込んだ。
「好きな作家さん?」
理央が止まった。
「……私です」
「理央ちゃんが好きな?」
「書いたのが」
今度は澪が止まった。
「これ?」
「はい」
「理央ちゃんが?」
「はい」
澪は手渡された本の表紙から理央へ目を移し、もう一度タイトルを確かめた。
「……作家さんなんですか」
「Webで書いてたら、本になりました」
「今日の打ち合わせって」
「出版社です」
「先に言ってくださいよ」
「聞かれなかったので」
理屈としては正しい。
正しいけれど、出版社との打ち合わせまで自力で聞き出す必要があるとは思わなかった。
澪は本を一冊取った。
そのまま棚へ戻しかけた手が止まる。
燭台の神様なら読む。
たぶん、かなり読む。
もう一冊取る。
そこでヴァルトの顔が浮かんだ。
姪が書いた本だと知れば、内容の好み以前に読んでみたいだろう。
3冊目を重ねた。
同じ表紙が3枚並ぶ。
「……澪さん」
「はい」
「同じ本、3冊あります」
「間違えてませんよ」
3人が読むのだから3冊で合っている。……合っているはずだ。
「1冊じゃなくて?」
「1冊は私です。あと2人、渡したい人がいるので」
「まだ読んでないですよね」
「読んでないです」
「それで渡すんですか?」
言われてみれば順番がおかしい。普通なら読んで、面白かったら薦めるものだろう。
それでも、澪は腕の中の3冊を棚へ戻す気にはならなかった。
「理央ちゃんが書いたなら、読んでもらおうかなって」
理央が黙った。
澪は一瞬、早まったかなと思ったが、理央は3冊を見たまま言った。
「……それ、すごく嬉しいです」
「そうなんですか?」
「1冊でも嬉しいです」
「そうなんですね」
「なので」
理央が一度言葉を切った。
「感想、ください」
「はい」
「出来ればちゃんと」
「ちゃんと?」
「長くても大丈夫です」
澪は理央を見る。
理央もこちらを見る。
「かなり欲しいんですね」
「……はい」
そこは否定しなかった。
会計を済ませて本屋を出ても、理央との話はそのまま続いた。入口から離れてもWeb小説の話が切れず、歩きながら次の作品の話まで始まる。
近くに喫茶店が見えたところで、澪は足を緩めた。
「お茶、しませんか」
「行きます」
理央の返事も早かった。
店に入ると、理央はWebへ投稿を続けていたら出版社から声を掛けられ、本になったのだと話した。
「書くようになると、読む時も変わります?」
「ちょっと。前なら見なかったところ気にしたり」
「疲れません?」
「たまに。でも面白いのは普通に面白いです」
「それならいいですね」
「澪さんも書けばいいのに」
「無理です」
そこだけは即答出来た。
「商売の話、細かいですよ」
「仕事だからです」
「その仕事が気になるんですけど」
澪はカップを持ち上げかけて止めた。
「会社って言ってましたよね」
「はい」
「バイト先?」
「私の会社です」
「……私の?」
「合同会社押入商会です」
理央の目が止まる。
「澪さんの会社?」
「代表なので」
今度は理央がカップを持ったまま固まった。
「大学生ですよね」
「はい」
「会社あるんですか」
「あります」
「何売ってるんです?」
澪はすぐに答えられなかった。法人化する前には金貨を売ったし、その後は白金も扱った。異世界から持ち込んだ品も少なくなく、最近では蛍石の話まで大きくなっている。どれも自分にとっては商売なのだが、理央に話せるかとなると途端に難しい。
「……色々です」
「一番気になる答え方です」
「本当に色々なんですよ」
「仕入れもする?」
「します」
「澪さんが?」
「することもあります」
理央が少し前へ出た。
「じゃあ、売れなかったら澪さんが困るんですか」
「それは困りますよ」
「どのくらい?」
「どのくらいって……」
そんな聞かれ方はしたことがない。
「在庫抱えて眠れなくなるとか」
「そこまでは」
「じゃあ平気?」
「平気ではないです」
理央が少し笑った。
「ちゃんと商売なんですね」
「ちゃんとって何ですか」
登記もしたし、税理士にも相談している。自分ではかなり「ちゃんと」の側にいるつもりだった。
「大学生が会社の代表って聞いた時、もっと違う感じを想像してました」
「どんな感じです?」
「ネットで何か売ってるとか」
「それもありますよ」
「それも?」
「だから色々なんです」
理央がまた笑った。
「でも、同じ物をずっと売るなら、次も用意出来るかは考えます。1回だけなら出せても、それを毎月って言われると別なので」
「そこ面白い」
「そうですか?」
「小説だと、売れたら次も同じだけ出てくること多いから」
「まあ、小説ならその方が読みやすいですよ」
「でも実際は違う?」
「違いますね。買う人が何に使うかでも変わりますし、量が多ければ保管もあります。相手が商売で使うなら、途中で止めると困るでしょうし」
そこまで言って、澪はカップへ目を落とした。
聞かれたのは、売れなかったら困るかどうかだったはずだ。いつの間にか供給の話までしている。
理央は黙って聞いていた。
「もうちょっと聞いていいですか?」
「どうぞ」
返事がまた早かった。
「値段も澪さんが決めるんですか?」
「物によります。相手と相談することもあります」
「値切られたら?」
「条件を聞きます」
「断らないんだ」
「断る時もありますよ。でも、数が多いから安くしてほしいのか、単に安くしてほしいのかで違うので」
「そういうの、小説で書いたことないです」
「普通は書かなくてもいいと思いますよ」
「でも聞くと面白い」
「……そうですか」
さっき理央が感想を欲しがっていた時は分かりやすいと思ったのに、自分も人のことを言えない。
澪は冷めかけたカップへ口をつけた。
会社を持っていると驚かれることはあるし、大学生で代表だと言えば、そこへ反応される。
けれど、仕入れや値段の決め方を面白がられると、つい続きを話してしまう。
理央がスマホを取り出した。
「RightIn、交換しません?」
「はい」
互いの画面を操作すると、理央の名前が一覧へ増えた。
「おすすめ、結構送ると思います」
「私も送りますよ」
「用事なくても?」
澪の指が止まった。
「……私からも送っていいなら」
「もちろん」
「じゃあ、大丈夫です」
理央が笑う。
「友達ですね」
あっさり言われて、澪は画面へ目を落とした。
「……はい」
その瞬間、RightInの通知が鳴った。
送信者は、いま目の前にいる理央だった。
作品名と一緒に「これおすすめです」と届いている。
澪は顔を上げた。
「もう送ったんですか?」
「忘れないうちに」
「まだ目の前にいますよ」
「あとで見てください」
「見ますけど」
言いながら、澪はもう作品ページを開いていた。
あとで、とは何分後からを指すのだろう。
理央がそれに気づく。
「今見てる」
「……ちょっとだけです」
「まだ私、目の前にいますよ」
今度は逆に言われた。
澪はスマホを伏せた。
「あとで見ます」
「はい」
理央は満足そうにカップを持った。
喫茶店を出たあとも、理央は澪の買い物についてきた。
文具売場を通った時、澪は革のブックカバーを手に取った。
手触りがいい。
理央の本にも合いそうだった。
値札を見る。
もう一度触ってから戻す。
「買わないんですか?」
「なくても困らないので」
「結構見てましたよね」
「見ただけです」
「欲しいんじゃ」
「欲しいのと買うのは別です」
その少し先で、会社用に探していた専門書を見つけた。
目次を開き、索引を確認して1冊持つ。隣の本も見比べて、そちらも重ねた。
「決めるの早いですね」
「使うところが決まってるので」
「さっきのブックカバーより高くないですか?」
「高いですよ」
「迷わないんですか」
「仕事で使うので」
理央が澪の腕の中の本を見た。
「自分の物はあんなに悩んだのに」
「自分の物だからです」
「会社の物は?」
「使う理由があるので買います」
理央は少し考えてから、澪が抱えた本をもう一度見た。
「代表って、そういう買い方するんですね」
「全部の代表がそうかは知りませんよ」
先ほど買った理央の本3冊と同じく、自分用の買い物は個人で払い、会社で使う分だけは会計を分けた。
「領収書をお願いします」
「お宛名は?」
「合同会社押入商会で」
隣から視線が来た。
会計を終えて売場を離れても、まだ見ている。
「何ですか?」
「……本当に会社だった」
「だからそう言ったじゃないですか」
「聞くのと領収書、違います」
「何が違うんです?」
「急に本物っぽい」
「最初から本物です」
では、理央の中でさっきまでの押入商会は何だったのだろう。
理央が笑う。
澪もつられて笑った。
「澪さん」
「はい」
「今度、商売の話、もっと聞いてもいいですか」
「小説のためですか?」
「はい。商人を書く時」
そういうことなら、仕入れや売り方については実際に経験したことを話せる。合同会社押入商会を作った時のことも、税理士に相談した時のこともある。
「話せることなら、結構ありますよ」
「やった」
理央の声が弾んだ。
口にしてから、仕入れ先まで聞かれた場合だけは困るな、と澪は思った。商売の話を聞いてもらえるのは嬉しいのに、どこから商品を持ってきたのかという、一番分かりやすいところほど説明出来ない。
「どうしました?」
「いえ。どこまで話せるかなって」
「会社の秘密?」
「……まあ、そんな感じです」
世界の秘密です、とは言えなかった。
別れる場所まで来ても、話はなかなか終わらなかった。
「じゃあ、感想」
「読み終わったら送ります」
「長くても」
「分かってます」
「おすすめも送ります」
「私も探しておきます」
理央が手を上げる。
「また」
「はい。また」
また、と返したのはいいが、次がいつなのかは決まっていない。……そこを気にするのは、別れてからにしては早すぎないだろうか。
人の流れに入っていく理央を見送り、澪も反対へ歩き出した。
しばらく歩いてからRightInを開くと、さっき送られてきた作品が目に入った。
自分からも何か送りたい。
候補が3つ浮かんだので、その中から1つを選んだ。送信したあとで別の作品も思い出し、少し迷ってからもう1つ送る。
3つ目まで選びかけたところで、さすがに止めた。
別れてから、まだ駅にも着いていなかった。
採石場の秘密基地へ戻ったあと、澪は作業台の横にいるヴァルトを見つけた。
「ヴァルトさん」
「はい、澪さん」
「今日、理央ちゃんに会いました」
ヴァルトの手が止まった。
「理央君に?」
「渋谷で偶然です。それで一緒に本屋に行って。理央ちゃん、Web小説が好きだったんですよ。私と好みがかなり合って、それで自分でも書いてて、本にもなってて、今日の打ち合わせも出版社だったみたいで」
そこまで一息に言ってから、澪は止まった。
ヴァルトがこちらを見ている。
「……何ですか?」
「いえ」
「何か?」
「澪さんが、ずいぶん楽しそうにお話しになるので」
「普通です」
「そうですか」
納得した顔ではなかった。
澪は収納から本を一冊取り出した。
「それで、ヴァルトさんの分です」
「私に?」
「3冊買ったんです。私と、燭台の神様と、ヴァルトさん」
ヴァルトが本を受け取った。
「理央君が、これを?」
「はい」
表紙を見るヴァルトの指が止まった。
澪はそれを見て、少しだけ息を置いた。
本屋では理央に「読んでもらいたい人」としか言えなかった。その相手が、自分の知らない伯父だとは言えないし、ヴァルトにも理央へ自分のことを伝えてほしいとは言われていない。
近くなったのに、まだつなげられない。
「理央ちゃん、感想欲しいみたいなんです」
「感想を?」
「かなり」
澪は思い出して笑った。
「長くてもいいって言ってました」
「それはまた」
「なので、ヴァルトさんも読んだら感想ください」
ヴァルトが顔を上げる。
「私もですか?」
「はい」
「澪さんが感想を送られるのでは?」
「送りますけど」
言われてから、約束したのは自分だったと気づいた。
けれど感想が2人分、3人分とあった方が、理央はきっと喜ぶ。
「……ヴァルトさんのもあったら、喜ぶかなって」
ヴァルトが本と澪を見比べた。
「承知しました」
妙に優しい返事だった。
「何ですか?」
「何も申しておりませんよ」
「顔が」
「顔まで取り締まられては困りますな」
澪はそれ以上追及しなかった。
「あと、理央ちゃん、普段はそんなに話す方じゃないんですけど、好きな話になると結構しゃべるんですよ」
「ほう」
「私も今日はかなり話しましたけど」
「そのようですな」
「……やっぱり多かったですか?」
「ええ、少々」
澪は口を閉じた。
ヴァルトの口元がほんの少し上がった。
「よいことではありませんか」
「そうですかね」
「澪さんが楽しそうであれば」
返す言葉がすぐに出なかった。
「じゃあ、私、向こう見てきます」
「はい」
澪は少し早足で作業場の奥へ向かった。
澪の足音が遠ざかってからも、ヴァルトはすぐには本を開かなかった。
理央が書いたという本の表紙をもう一度眺める。澪が見せてくれた写真で顔は知っているが、姪がどんな文章を書くのかは知らない。
表紙を開く。
そこにあるのは、理央が自分で書いた文章だった。
読み進めるうち、自分の記憶にはない言葉が時々出てきた。意味が分からないほどではない。それでも、自分が日本を知っていた頃から27年が過ぎたことを、そんなところで思い知らされる。
その間に妙子は家庭を持ち、理央が生まれた。そして今、その姪が本を出し、その1冊を自分は異世界で読んでいる。
ヴァルトは少し頁を戻して、さっき引っ掛かった一文を読み直した。
「……本まで出しましたか」
口元が緩んだ。
読み進めているうち、先ほどの澪の様子も思い出した。
偶然会った理央とそのまま本屋へ行き、Web小説の好みが合ったらしいことを、澪はいつになく続けて話していた。同じ本を3冊買い、そのうち1冊を自分へ持ってきたうえ、読み終えたら感想まで聞かせてほしいと言われた。
ヴァルトは手元の本へ目を落とした。
「ずいぶん気が合ったようですな」
もう一頁めくる。
澪の話によれば、理央は好きな話題になると急に言葉が増えるらしい。その話を聞いているうち、ヴァルトには妙に自分と重なるところがあるように思えてきた。魔術式へ入り込めば時間を忘れたし、前世でも気になったものを調べ始めて夜を越した覚えなど、一度や二度ではない。
姪はWeb小説を読み、自分で書き、とうとう本にした。
ヴァルトは頁をめくりながら、しばらく考えた。
「……オタクですな」
人のことを言えないのが、少々悔しかった。
ゲンダイへ戻ると、六畳間はもう夕方の色になっていた。
澪は押し入れから出て、畳へ座る。
スマホに通信が戻ると、すぐにRightInの通知が入った。
理央だった。
『今日はありがとうございました。3冊はまだちょっと信じられません』
澪は笑った。
返信を打つ。
『こちらこそ。ヴァルトさんにも渡しました』
そこまで書いて、全部消した。
ヴァルトさんが誰なのか説明出来ない。
『こちらこそ。1冊はもう渡しました』
これなら大丈夫だった。
送る。
少しして、また通知が入る。
『感想待ってます』
澪は理央の本を手に取った。
今日はこのあと読むつもりだった。感想も送るし、おすすめもまだ送りたい。
スマホへ指を戻し、文章を足した。
『また会いましょう。今度は迷わないところで』
送信したあと、自分の書いた文章を見直した。
また会いましょう。
自分から書いている。
澪はスマホを伏せたが、数秒してまた表に戻した。
既読が付いている。
返事も来た。
『はい。絶対』
澪はしばらくその画面を見てから、理央の本を開いた。
まだ別れて半日も経っていないのに、次に会った時に話したいことが、もういくつか浮かんでいた。