澪はノートパソコンの画面を少し下へ送った。
昔の販売ページが、そのまま残っている。
画面いっぱいに写っているのは、艶のある木目のサイドテーブルだった。写真の下には寸法や材質、重量が並び、木目には個体差があることや配送条件、返品についての説明、それに輸入仕入れ品であることまで書かれている。
作った時には何度も読み返したはずなのに、今見ると妙に懐かしい。
まだ押入商会が家具を一品ずつネットで売っていた頃のページだった。
理央が喫茶店で商人主人公の話を聞いていた時の顔が浮かぶ。珍しい商品を持ち込むならどうするのか、値段はどう決めるのか。話せる範囲へ質問を変えながら、スマホへ何度も文字を打っていた。
このページなら、もともと一般へ公開していたものだ。
見せて困ることはない。
そこまで考えたところで、澪はスマホを手に取った。
RightInを開き、理央の名前を押してから指が一度止まる。
これまでもおすすめの小説を送り合っているし、向こうから商売の相談も届く。だから連絡すること自体は何でもない。
ただ、今回は自分から押入商会のことを見せようとしている。
ほんの少し前なら、わざわざ送らなかった気がする。
『この前の商人の話なんですけど』
送ると、しばらくして既読が付いた。
『はい』
返事を待っていたわけではないのに、澪はすぐ続きを打った。
『昔、うちで家具をネット販売してた頃のページが残ってました』
『見たいです』
早い。
澪は画面を見たまま、少し笑った。
『一般公開してたものなので、これは見せられます』
『お願いします』
ノートパソコンへ視線を戻す。
販売ページを作り、注文を受け、配送の手配までしていた頃に使っていた場所も、まだそのまま残っている。
『あと』
『はい』
『その頃に使ってた仕事場も、まだあります』
『仕事場?』
『六畳間です』
今度は、すぐには返ってこなかった。
澪は自分の送った文章を読み直す。
何も間違ってはいないのだが、家具販売の仕事場として「六畳間」と書くと、思っていた以上に小さい。
通知が鳴った。
『六畳間から家具を売ってたんですか?』
『はい』
また間が空いた。
『見てみたいです』
澪の指が止まった。
ページだけなら何の問題もない。
六畳間となると話が変わる。
仕事場なのは本当だが、それだけではない。押し入れを開けば異世界へ続いている。
さすがに、そこを自分一人で決める気にはならなかった。
『相談役の人に確認してみます』
『はい』
その下へ、もう一つ届く。
『無理なら大丈夫です』
澪はその一文をしばらく見た。
この前もそうだった。
聞けないところだと分かれば、それ以上来ない。
今回も、自分から逃げ道を作っている。
『聞いてみますね』
送ってからスマホを伏せた。
ノートパソコンには、昔の家具販売ページがまだ表示されている。
六畳間には、見せてもいいものと見せられないものが、どちらも同居している。
澪は椅子から立ち上がった。
まず、その部屋を一番よく知っている人へ相談した方がよさそうだった。
「聞いてきた」
ゴットフリート・レンツがそう言うと、卓を囲んでいた商人たちの手が止まった。
仕事の合間に集まっただけなので、外套を脱いでいない者もいる。戸が開くたび冬の風が入り込み、湯気の立つ茶の表面を揺らした。
「何をだ」
「ハーゲン本人にだ」
今度は全員がレンツを見た。
「会えたのか?」
「普通に会えた」
一人が吹き出した。
「そこからかよ」
「俺たち、何日ああだこうだ言ってたと思ってる」
「だから聞いてきたんだよ」
レンツ自身、口にしてみると少し可笑しかった。
会わせてもらえないと思い込んでいたわけではない。ただ、誰かが聞いた噂について皆で話しているうちに、いつの間にか本人へ尋ねることが最後になっていた。
「それで?」
別の商人が身を乗り出す。
「人を雇ってるのはハーゲンじゃない」
「じゃあ誰だ」
「押入商会とリュシア商会だ。ハーゲンは、知ってる奴がいれば名前を出す。後は商会と本人で話せ、だそうだ」
「ギルドで人を選んでるんじゃないのか?」
「違うと言ってた。採用するかどうかも、条件も、ハーゲンが決める話じゃない」
卓の端から声が飛ぶ。
「侯爵家は?」
「商売の看板にはしてない」
「侯爵領でやるんだろ?」
「領地で商売することと、侯爵家の名で人を集めることは別だって話だった」
レンツは茶を一口飲んだ。
自分もその説明を聞いて初めて、噂の中で混ざっていたものが分かれた。
「じゃあ俺たちの仕事は減らないのか?」
「それは別だ」
レンツは即答した。
期待した顔をしていた男が、露骨に眉を寄せる。
「何だよ」
「新しい運送が増えりゃ、減る仕事はあるかもしれん。そこまでハーゲンが保証する話じゃない」
「じゃあ何も変わってないじゃないか」
「変わってるだろ」
レンツは卓へ肘を置いた。
「新しい商売が俺たちにどう影響するかは、まだ分からない。だが、ハーゲンが裏で人を囲って、特定の商会だけへ流してるって話は違った」
相手が黙る。
「俺の倉庫だって不安は残ってるよ。荷が止まらなくなれば、保管で取ってた分は減るかもしれん」
「だったら」
「だから、その話を聞きに行く」
レンツは相手を見た。
「不正してるかどうかと、こっちの商売がどうなるかは別だろ」
戸が開き、冷えた風と一緒に外の音が入ってきた。
馬の蹄が石畳を打ち、荷を降ろす男の掛け声が続く。
「……俺も聞いてくるかな」
馬商の男が言った。
「馬がどこまで要らなくなるのか、それくらいは聞きたい」
「会ってくれるのか?」
「俺が会えたんだから、お前も申し込めばいいだろ」
「普通に?」
「普通に」
また笑いが起きた。
「じゃあ俺もだ。護衛の仕事がどうなるか聞く」
「俺は荷役だな」
「待て待て、皆でまた押しかけるなよ」
さっきまで一つの塊だった不満が、各々の商売の話へ戻り始める。
レンツには、その方がずっと馴染みがあった。
倉庫屋には倉庫屋の心配があり、馬商には馬商の事情がある。本来、同じ答えになるはずがない。
少し離れた席で、ロター・クレーマーは茶器に手を添えたまま黙っていた。
隣のザイデルも口を挟まない。
今ここでレンツを否定すれば、本人へ聞いてみろと言われる。
それが分かっているのだろう。
戸の外を荷車が通り過ぎた。
ロターの目が、その音を追うように一度だけ動いた。
「澪君、何かな」
六畳間へ入った澪が声を掛けるより先に、真壁が机から顔を上げた。
「ちょっと相談があるんですけど」
「聞こう」
「理央ちゃんのことで」
真壁の手が止まる。
「理央君か。澪君が同じ本を3冊買った作家だね」
「そこから覚えてるんですか」
「印象に残る買い方だったのでね」
自分でも後からそう思ったので、否定しにくい。
澪は真壁の向かいへ座った。
「その理央ちゃんなんですけど、修さんと妙子さんの娘さんです」
真壁の表情が変わった。
「ほう」
ほんの少し間を置き、椅子へ座り直す。
「修さんと妙子さんのご息女か」
「はい」
「では、ヴァルト君の姪御さんではないか」
「そうなります」
「なるほど」
それまで別々だった情報が、真壁の中で一度につながったらしい。
澪が理央と知り合った経緯から、Web小説を書いて商業出版していること、このところ商人を主人公にした話のため取材を受けていることまで話すと、真壁は途中で遮らずに聞いていた。
「それで、前に家具をネットで売ってた時のページを見せる話になって」
「うむ」
「ここでやってたって言ったら、六畳間も見てみたいって」
真壁の視線が押し入れへ動く。
「ここへ招くのか」
「はい。ただ、異世界のことを話すつもりはありません」
「よかろう。見せるのはゲンダイ側の商売だけにし給え」
「いいんですか?」
「元々、一般へ公開していた商売ではないか。押し入れを開けなければ問題あるまい」
言いながら真壁は立ち上がった。
もう部屋の中を見回している。
「理央君がいる間はこちらと向こうの往来を止める。説明のつかぬ物は移しておこう。パソコンも、見せてよいものだけを先に開いておけばよい」
「押し入れは?」
「開かぬようにして、目立たせなければ十分だ」
真壁は既に押し入れ前の動線を見ている。
相談を持ち込んだはずなのに、許可が出たと思った次の瞬間には来客準備へ進んでいた。
こういうところだけは相変わらず早い。
「大げさに変えると、逆に気にしますよ」
「うむ。普通の仕事部屋に見えればそれでよい」
真壁が押し入れ前の家具を見比べている間、澪は本棚へ目を向けた。
古い燭台が置いてある。
「燭台さんは……」
「置いてあるだけなら問題あるまい」
「普通ですかね」
「古い燭台がある家はあるだろう」
中身を知らなければ、そうかもしれない。
その下ではシロガネが前足を舐めていた。
「シロガネもいますけど」
「猫に見えるのだから、なおさら問題ないではないか」
『我は猫ではない』
澪は白猫を見る。
「理央ちゃんの前では猫でいてください」
『姿は猫である』
「そういう意味です」
真壁の口元がわずかに動いた。
異世界への入口は隠すのに、神様が宿った燭台と、別の神様を宿した白猫は堂々と残る。
秘密を守るための準備として、何か順番が逆な気もする。
けれど理央から見れば、押し入れよりそちらの方がずっと普通なのだから仕方がない。
「日時が決まったら知らせ給え。こちらもその時間は向こうへ行かぬようにする」
「分かりました」
澪はスマホを取り出した。
『大丈夫でした。来てもらっていいそうです』
送ると、すぐ既読が付いた。
『本当に?』
『はい』
『ありがとうございます』
その後に候補の日をいくつか送り合う。
予定が決まったところで、澪は六畳間を見回した。
理央が来る。
そう考えると、今まで何度も使ってきた部屋が急に狭く見えた。
家具を売っていた頃から広さは一度も変わっていないので、完全に気のせいだった。
「まだ足りない」
マロが言った。
ザイデルは椅子の背へ体を押しつけた。
「またか」
「まただ」
「ハーゲンへ金が渡った。それでいいだろう」
「何の金だ」
ザイデルの口が止まった。
マロは卓の上へ腕を置く。
「何をしてもらった見返りなんだ」
「それは……」
「そこがなけりゃ、ただ金を受け取ったという話だ。怪しいと言いたいなら、怪しくなる理由が要る」
油灯の火が揺れた。
外はもう薄暗い。表通りを行く荷車の音が、壁越しに低く響いている。
ザイデルは苛立ちを押さえながら考えた。
時間がない。
レンツたちはグスタフ本人へ話を聞き、その内容を周りへ広め始めている。このままでは、ハーゲンが何かしているという空気そのものが消える。
「人だ」
マロが目を上げた。
「何?」
「ハーゲンは人を紹介している」
「誰に」
「押入商会とリュシア商会だ。腕のある奴や、商売に使えそうな奴を知っていれば名前を出してる」
「それは本当か?」
「ああ」
そこだけは本当だった。
だからこそ、最初に不満が出た。
「先に声を掛けられた奴がいる。俺たちには話もなかったのにだ」
「ハーゲン本人は何と言ってる」
「候補を紹介しただけで、採用も条件も商会が決めると言ってるらしい」
マロはしばらく黙った。
「なるほど」
「使えるか?」
「特定の商会へ人を回したことにする」
「ああ」
「その見返りに金を受け取った、と」
ザイデルは頷いた。
口に出されると、今までよりずっと形がある。
実際にグスタフは人を紹介している。
そこへ、存在しない対価を結びつける。
「……それなら話にはなる」
「作れるか」
「筋が決まればな」
マロはそれ以上を説明しなかった。
ザイデルも方法を聞かなかった。
欲しいのは、誰かに技術を習うことではない。
グスタフが特定の商会へ便宜を図り、その対価を受け取ったと疑わせるものさえあればいい。
「急いでくれ」
「急ぐほど金は掛かる」
「分かってる」
「今度は額を聞く顔をしてるな」
「お前に2回も言われれば覚える」
マロが初めて少し笑った。
「それなら運送屋としては一歩前進だ」
ザイデルは笑えなかった。
自分の商売を守るために来ている。
そう考えながら、卓の上へ手を置いた。
訪問当日、澪は理央を六畳間へ案内してから、入口で立ち止まった背中を見た。
「……本当に六畳なんですね」
「言いましたよ」
理央は靴を脱いで上がり、部屋をぐるりと見回した。
「家具を売ってた会社の仕事場って聞いたので、もう少し広いのを想像してました」
「私も広い方がよかったです」
「今も?」
「今もです」
六畳が増えたことはない。
机とノートパソコン、本棚があり、仕事に使う物が収まっているだけで、3人入れば十分に人の気配が濃くなる。
押し入れは事前に整えられ、わざわざ目を向けるような状態ではなくなっていた。理央はそこへ注意を向けず、先に本棚の古い燭台へ目を留めた。
「この燭台、古そうですね」
「古いです」
それ以上は聞かれなかった。
正確には、古いどころではない。
澪がそこを訂正する日は、まだかなり遠い。
今度は畳の上にいるシロガネへ気づく。
「猫いたんですね」
「シロガネです」
理央は近づきすぎず、少し腰を落とした。
「こんにちは」
シロガネは座ったまま、じっと理央を見た。
「……すごく見られてます」
「人を見る猫なんです」
言ってから、澪は内心で訂正した。
猫ではないし、今やっているのはたぶん本当に人物観察である。
説明出来る部分が一つもなかった。
理央が立ち上がったところで、澪は真壁の方を示した。
「それと、こちらが真壁さんです。合同会社押入商会の相談役です」
「初めまして。理央です」
理央が頭を下げる。
真壁も軽く礼を返した。
「真壁だ。澪君から話は聞いている」
「商売のことを色々聞かせてもらってて」
「小説の取材だそうだね」
「はい」
真壁の受け答えは穏やかだった。
ただ、一瞬だけ視線が理央へ止まる。
澪はそれに気づいた。
真壁が人を見る時の目だ。
次の瞬間、その表情がほんのわずかに変わった。
「……これは」
理央が首を傾げる。
「?」
真壁はもう一度、理央へ視線を合わせた。
「ほう」
「何でしょう」
「いや、こちらの話だ。気にしなくてよい」
それだけだった。
理央は分からないまま頷き、澪は真壁を見た。
何かを見つけた。
それは間違いない。
だが、今ここで聞く話ではない。
澪はノートパソコンを開いた。
「これです」
昔の販売ページを表示する。
理央がすぐ画面へ寄った。
「これ、全部押入商会の商品だったんですか?」
「はい。今も扱ってます」
写真を開くと、木目のはっきりした家具が大きく映る。
理央が画面を下へ動かし、寸法を読む。
「結構大きい」
「家具ですからね」
「この重さも載せてたんですか?」
「配送がありますから。買う人も、置く場所によっては気にするので」
さらに下へ進めると、同じ種類でも木目や色合いに違いが出ることや、写真と完全に同一ではないこと、輸入仕入れ品として扱っていたことも書かれている。
「これも?」
「一点ずつ同じにはならないので、先に分かるようにしてました」
「返品のことまである」
「売った後に問題になった方が困りますから」
理央の指が止まる。
「前に言ってた『売った後もお客さん』って、こういうことですか」
「まあ、そうですね」
覚えていた。
本当に細かいところまでよく覚えている。
澪は別の商品ページを開いた。
「今は家具店に卸してますけど、以前はここで注文を受けて、売れた分だけこっちへ持ってきて、一品ずつ発送してたんですよ」
理央が画面から顔を上げた。
六畳間を見る。
「ここから?」
「ここからです」
画面へ戻る。
「このテーブルも?」
「はい」
別の写真を押す。
「キャビネットも?」
「はい」
さらにページを移る。
「ダイニングテーブルも?」
「……はい」
理央はもう一度、六畳間を見る。
「入るんですか?」
「発送する時は入ってました」
答えてから澪も周囲を見る。
写真の中では堂々とした家具なのに、この部屋へ置くと急に大きさの意味が変わる。
理央は畳の端から端まで視線を動かした。
「ここにダイニングテーブルがあったら、仕事出来なくないですか」
「発送するまでです」
「その間は?」
「狭かったです」
「やっぱり」
そこは否定出来なかった。
真壁の口元がわずかに上がった。
理央は再び画面へ向き直る。
「最初から家具店に卸すつもりだったんですか?」
「全然」
「じゃあ、売れたから?」
「売れる量が増えて、こっちだけでは回しにくくなったんです。一品ずつ注文を見て、発送して、何かあれば対応してってやってたので」
「最初は本当にここだけ?」
「ゲンダイ側は、ほぼそうですね」
「ゲンダイ側?」
「あっ……ネット販売の方です。注文を受けたり、お客さんとやり取りしたりする方は、ほぼここでした」
理央が画面の「輸入仕入れ品」という表示へ目を戻した。
「仕入れの方とは別ってこと?」
「そうです」
「あ、じゃあそっちは聞きません」
「……はい」
助かった。
理央が自分から引いてくれることに、最近少し甘えている気がする。
「小さいところから始めて、売れたら卸売に変わったんだ」
「最初からそこまで考えてたわけじゃないですよ」
「そこがいいです」
「いいんですか?」
「小説なら」
理央が顔を上げた。
「最初から全部計画して成功するより、売れたせいで今までのやり方じゃ回らなくなって、次を考える方が面白いです」
「実際にやってる方は、面白いより先に困るんですけど」
「そこも使えそう」
「困ってるところまで使うんですか」
「商人主人公なので」
困っていた最中のことまで小説の材料になるとは思わなかった。
理央はまた販売ページへ戻り、商品写真を一つ開く。
「この家具、作ってる人は――」
そこで止まった。
「あ」
澪を見る。
「そこは聞かないところでしたね」
「はい」
「じゃあやめます」
理央はそのまま別の項目へ移った。
真壁が何も言わず、そのやり取りを見ていた。
「この画面、メモしてもいいですか?」
「公開してたページなので大丈夫ですよ」
「写真も?」
「ページの範囲なら」
「分かりました」
理央は許可を取ったところだけを残し、それ以外へカメラを向けない。
六畳間そのものを面白がっているのに、勝手に撮ろうとはしなかった。
澪の肩から、いつの間にか入っていた力が抜ける。
すぐ近くには封じた押し入れがあり、本棚には古い燭台が置かれ、その下では白猫の姿をしたシロガネが、さっきから理央をかなり見ている。
それでも取材は、ごく普通に進んでいた。
「澪さん」
「はい」
「ここ、主人公の店のモデルにしてもいいですか」
「六畳間を?」
「最初の仕事場」
「もっと広くしてあげた方がいいと思いますよ」
「そこは考えます」
理央は真面目に答えた。
主人公にだけは、少し広い職場が与えられるらしい。
澪はそれでいいと思った。
ザイデルがマロの仲介所へ呼ばれたのは、それから数日後の夜だった。
部屋へ入ると、マロは挨拶もしない。
卓の上を顎で示した。
「見ろ」
一枚の文書が置かれている。
ザイデルは椅子へ座り、手に取った。
最初に目へ入ったのは紙そのものではなく、中身だった。
王都での人材紹介に関する話が書かれ、グスタフ・ハーゲンが特定の商会へ便宜を図り、その対価として金品を受け取ったと読める内容になっている。
ザイデルは文字を追った。
本当にあったのは、人材候補の紹介だけだ。金など渡っていないし、押入商会もリュシア商会も、こんな話には関わっていない。
それを知っているのに、文面だけを追うと別の筋が見えてくる。
「これでいけるか」
マロは椅子の背へ寄りかかった。
「紙だけじゃ駄目だと言っただろう」
「分かってる」
「なら次だ」
ザイデルが顔を上げる。
マロは卓の文書を指先で軽く押さえた。
「誰に最初に見せる」
ザイデルは文書を卓へ戻した。
存在しなかったはずの疑惑は、もう手で触れられる紙になっている。マロの問いに答えるには、次に誰へそれを見せるかを決めなければならなかった。
理央を見送り、玄関の扉が閉まってから、澪は六畳間へ戻った。
さっきまで理央が座っていた場所には、何も残っていない。
ノートパソコンには昔の家具販売ページが開いたままで、本棚には古い燭台があり、シロガネは畳の上に座っている。押し入れも、まだ来客用に隠した状態だった。
真壁はパソコンの横にいた。
「真壁さん」
「何かな」
「さっき、理央ちゃんを見て何か言いましたよね」
「見ていたか」
「『これは』って。その後『ほう』って」
真壁の口元がわずかに上がった。
「よく聞いていたね」
「目の前にいましたから」
「うむ」
「何だったんですか?」
真壁は理央が座っていた場所へ一度目をやった。
「鑑定した」
「やっぱり」
「一つ、見慣れぬ表示があった」
澪の手が止まる。
「何ですか」
「共鳴」
真壁はそこで一度言葉を切った。
「芽ありだ」
「……芽あり?」
Lvが付いているわけでも、すでにスキルを持っているという表示でもない。「芽」という、まだ何にもなっていないような言葉の方が、澪には引っ掛かった。
「使えるってことですか?」
「いや。少なくとも、取得済みのスキルとしては見えていない」
「じゃあ何なんでしょう」
澪が本棚へ目を向けた時、鑑定欄が開いた。
----------------------------------
【確認】理央について【共鳴】
201:燭台
詳細を要求。
202:真壁
共鳴。芽あり。
203:鎮守
ほう。
204:澪
燭台さん、分かります?
205:燭台
未発現。
206:澪
それは分かります。
207:燭台
発現条件、不明。
208:鎮守
珍しいものを持っておるな。
209:真壁
私も初見だ。
210:澪
何が出来るんでしょう。
211:燭台
現時点では判定不能。
212:鎮守
なら、まだ分からぬということだ。
213:燭台
肯定。
214:澪
無理に発現させたりは?
215:燭台
意図的誘発は非推奨。
216:真壁
私も触らぬ方がよいと考える。
217:鎮守
本人も知らぬのであろう。
218:澪
はい。
219:燭台
現状維持を推奨。
----------------------------------
澪は表示を読み終えてから、真壁を見た。
「理央ちゃんには?」
「今知らせても、こちらが説明出来ないではないか」
「そうですよね」
「本人を困らせるだけだ」
その通りだった。
共鳴と言われても何をするものか分からず、どうすれば発現するかも分からない。そもそも理央はスキルの存在自体を知らない。
伝えれば質問される。
その質問に答えようとすれば、今度はこちらが隠しているものまで説明しなければならなくなる。
「じゃあ、今は何もしないんですね」
「うむ。まだ何なのかも分からぬものを、こちらから動かす理由はあるまい。分かる時を待てばよい」
澪は理央が座っていた場所へ目をやった。
数時間前まで、本人はそこで昔の家具販売ページを面白そうに読んでいた。
自分が知らないものを持っているとも知らずに。
「共鳴、ですか」
「そういうことだ」
シロガネが理央のいた場所へ歩いていき、匂いを確かめるように鼻先を近づけた。
『面白い娘だな』
「本を書いてるだけでも十分面白いと思いますけど」
『それとは別だ』
「分かってます」
澪はノートパソコンへ目を移した。
画面には、昔この六畳間で売っていた家具の写真が残っている。
理央には今日、その範囲だけを見せた。
押し入れの向こうも、燭台の正体も、シロガネの中にいるものも、ヴァルトとの関係も知らない。
それなのに今度は、こちらの方が理央本人も知らない「共鳴」という言葉を一つ知ってしまった。
その横に付いていたのは、まだ「芽あり」という表示だけだった。