理央が帰った後に動かした物は、翌日にはほとんど元の位置へ戻っていた。
来客中だけ目立たないようにしていた押し入れも、今はいつもの襖に戻っている。暖房の風が畳の上をゆるく流れ、窓から差し込んだ冬の日差しが、ミニテーブルの脚と、その向こうの畳を細長く照らしていた。
澪はノートパソコンに残っていた昔の家具販売ページを閉じる。
昨日、理央はこの小さな画面と六畳間を何度も見比べていた。仕入れの話へ近づきかけた時には自分から引き、部屋の物にも勝手に手を出さなかった。こちらが気にしていたほど、危ないことは何も起こらなかった。
「澪君」
「はい?」
声に振り向くと、真壁は押し入れの前へ戻した荷物の位置を見ていた。
「理央君を雇おう」
澪の手が、閉じたばかりのパソコンの上で止まった。
「……理央ちゃんを?」
昨日まで友達として向かいに座っていた理央が、今度はここで会社の仕事をする。その光景だけが、まだ少し先のことのように思えた。
RightInで小説の話をして、喫茶店で取材を受けて、とうとうこの六畳間へ招いた。そこまでは澪の中でも自然につながっているのに、そこからいきなり「雇う」まで進むと、間を何段か飛ばされたような気がした。
「うむ」
「何の仕事で?」
今度は真壁が止まった。
澪は返事を待った。
本棚の下ではシロガネが丸まり、古い燭台は朝の日を受けて鈍く光っている。見慣れた六畳間の中で、真壁だけが何かを一段先まで考えている時の間だった。
「そこだな」
「そこからなんですか」
思わず出た言葉のあとで、澪はミニテーブルの前へ座った。
真壁が理央を人として見ていることは分かる。昨日も勝手に物へ手を出さず、聞かない方がいいことは自分で止めた。あの「共鳴 芽あり」も、真壁の頭には残っているはずだ。
けれど、それだけを理由に人を雇うのは違う。
「理央ちゃんを雇うために、後から仕事を作るのは違いますよ」
声に出してみると、理央のいないミニテーブルが余計に広く見えた。
人を呼ぶなら、そこへ座ってもらう理由が先に要る。仲がいいとか、信用出来そうだとか、それだけでは会社の仕事にはならない。
「その通りだ」
真壁はあっさり認めた。
「なら順を変えよう。理央君に頼める仕事が本当にあるか、先に見てみようではないか」
「それなら分かります」
澪は少し肩の力を抜いた。
真壁は腰を下ろすより先に、閉じたばかりのパソコンへ手を伸ばした。
「家具の個別販売を戻す手は?」
「今の卸し方を変えてまで戻す理由はないと思います」
家具を一品ずつ送り出していた頃の段ボールと伝票が、頭の中に浮かんだ。売れるたびに六畳間が狭くなり、発送が終わると急に広くなる。
懐かしくはあるが、もう一度そこへ戻る理由にはならない。
「うむ。発送だけでも足りんな」
「商品ページも、毎日ある仕事じゃないです」
澪が言うと、真壁は一度ミニテーブルから離れた。
候補を一つ出すたび、それを続けた時の量まで頭の中で見ているらしい。
「理央君は、書く以外に何が出来る?」
「他にですか……」
澪は窓際へ視線をやった。
白い冬の光を見ているうち、青い石が思い浮かんだ。
忘年会で理央が自分のジルコンを見た時、色だけを褒めて終わらなかった。石座の裏へ顔を寄せ、爪の位置と光の入り方を見ていた。
「彫金」
口にした瞬間、修の工房の匂いまで蘇った。磨いた金属と、削った粉と、工具の油が少し混じった匂いだ。
「理央ちゃんも修さんに習ってます」
「澪君もだな」
「はい。道具もあります」
言いながら、自分の収納に入っている一式を思い出した。
買ったまま眠っている道具ではない。修に選んでもらい、自分でも使ってきた物だ。
真壁の視線が動いた。
「石は?」
澪も同じところへ行き着いた。
「材料なら、ありますね」
今まで資源や試料として見ていた物が、急に別の顔を持った。
「見よう」
真壁はもうミニテーブルの上を空け始めていた。
「今からですか」
「仕事になるかを見るのだろう?」
「そうですけど」
返しながら、澪も立ち上がった。
真壁は考えを紙の上だけで転がさない。物があるなら出す。並べれば、使えるかどうかが見える。
その速さについていくと、六畳間では相談がいつの間にか作業になる。
ミニテーブルへ白い布を敷き、最初に出したのは小さなケースだった。
蓋を開けると、紫のアメジストが冬の日を拾った。
澪はその隣へ赤のガーネットを置き、もう一つの箱から淡い青のアクアマリンを出した。3つ並んだだけで、いつもの仕事場が急に違う場所へ見える。
「これだけでも、普通に見せられそうですね」
澪が言うと、自分でも少し意外だった。
今までは量や純度、加工出来るかという目で見ることが多かった。白い布の上に一石ずつ置くと、初めて客の目に近いところから見えてくる。
「まだあるだろう」
「ありますけど、全部出すのはやめましょう」
真壁が次のケースへ手を掛ける前に止める。
収納量を基準にされると、六畳間のミニテーブルでは足りない。
「では見本になる程度でよい」
真壁は素直に手を止め、代わりに銀線を一巻き置いた。
均一な太さの銀が、宝石とは違う冷たい光を返す。
「それもありますね」
「うむ」
「かなり」
「あるなら使えばよい」
悪くはない。
ただ、真壁の「ある」は一般的な在庫感覚と少し違う。
澪はそれ以上数を聞かず、収納から彫金道具のケースを出した。
蓋を開くと、見慣れた工具の柄が並ぶ。
ペンチもヤスリも、修に勧めてもらった物を中心に、自分の手に馴染んだものばかりだった。
真壁は石、銀線、工具へ順に目を移した。
「これなら出来るではないか」
「アクセサリーですか?」
澪はアメジストをつまみ上げた。
小さな石一つなら自分でも加工出来る。理央も彫金を習っている。
ここまで揃っていて、今まで商品として考えていなかった方が不思議なくらいだった。
「石だけで売るのもよい。加工した物も見せよう」
「最初から商品にします?」
そう聞いた途端、澪の中では別の心配が先に立った。
売るなら仕上がりを揃えなければならない。誰がどこまで作るのか、失敗した物をどうするのか、継続して同じ品質を出せるのか。理央が来る前に決めることが増える。
「いや。まず見本だ」
真壁は澪の手からアメジストを受け取り、白い布へ戻した。
「先に欲しい物を聞けばよい。作るのはそれからだ」
「相手に先に見せるんですね」
澪は並んだ3石を見比べた。
アメジストが欲しいと言われても、同じ紫でいいとは限らない。濃い方がいい人もいるし、淡い方がいい人もいる。
「ピアスなら、2個揃えてほしいって言われそうです」
「色も大きさもな」
「石だけ欲しいところもありますよね」
「当然あるだろう」
真壁は銀線を指で押さえた。
「完成品を欲しがる相手もいる。先に聞けば、こちらが余計な物を作らずに済む」
澪は頷きかけて、止まった。
相手が何を欲しがるか分かれば、自分には別の手もある。
「条件を聞いたら、近い石を用意出来ます」
口にすると、少しだけ背中が固くなった。
出来る。
色も、大きさも、ある程度なら合わせられる。
出来るからこそ、それを外へどこまで見せるかは別だった。
真壁もすぐそこへ気づいた。
「その場で全部答える必要はあるまい」
「ですよね」
澪は息を吐いた。
六畳間の白い布の上では、宝石がただ綺麗に光っている。けれど一歩外へ持ち出せば、どこから来たのか、次も揃うのか、どれだけあるのかという話になる。
「海外との取引で調達出来る、くらいでいいですか」
「それでよかろう。条件は持ち帰り給え」
「出来ることを、全部出来るって言わない」
「うむ」
真壁の短い返事に、澪は並んだ石をもう一度見た。
作れることと、商売として約束することは違う。
そこを混ぜなければいい。
「じゃあ、宝石・アクセサリー部門ってことになります?」
「名前はそれでよい。まず見本からだ」
「理央ちゃんがやりたいって言ってくれれば、ですけど」
「なら、理央君に聞いてみればよい。決めるのは本人だ」
真壁はもうケースを閉じ始めた。
澪はスマホへ手を伸ばしかけ、もう一度ミニテーブルを見た。
白い布の上にはアメジストが一石残り、その横に銀線と、修に選んでもらった工具が並んでいる。
理央が昨日座っていた場所は、ミニテーブルの向こう側に空いたままだった。
澪はRightInを開いた。
王都の夕暮れは早かった。
表通りにまだ人の声が残っている時間でも、一本裏へ入れば建物の影が石畳を暗くしている。
ザイデルが部屋へ入ると、マロは卓の上へ例の紙を置いていた。
「これを配るのか」
「配らん」
マロは紙に触れもしなかった。
「では、何のために作った」
「同じ紙が一度に広がれば、誰かが撒いたと教えるだけだ」
ザイデルは言い返しかけてやめた。
最近はレンツたちがグスタフ本人へ話を聞き、その内容を周囲へ伝え始めている。
待っている時間そのものが、ザイデルには長い。
「誰へ見せる」
「ハーゲンを嫌っている奴ではない」
「なぜだ」
マロはそこで初めて紙を手に取った。
「嫌っている奴が騒いでも、周りはまた始まったと思う」
それだけ言って、文書を折らずに封へ入れる。
「商売の先を心配している奴へ回す」
「信じていない奴に?」
「疑う理由がなかった奴が気にした方がいい」
マロは封を卓から外した。
「本物だとは言わん。こんな物が出ている、とだけ見せる」
ザイデルはその手元を見た。
誰に渡すかは聞かなかった。
ここまで来て、自分が焦って動かした方が壊れる気がした。
マロは立ち上がり、封を持ったまま奥の扉へ消えた。
卓の上には、もう何も残っていなかった。
『理央ちゃん』
夜になってRightInを送ると、少しして既読が付いた。
『はい』
『アルバイトって興味あります?』
送った後で、澪は自分の文章を読み返した。
突然すぎる。
昨日まで会社取材をしていた相手へ、今度は働かないかと聞いている。
案の定、返事まで少し時間があった。
『アルバイト?』
『押入商会で』
『何するんですか?』
当然だった。
『アクセサリー作りです』
今度は返事が早かった。
『詳しく聞きたいです』
承諾ではなく、まず話を聞きたいという返事だった。
澪はスマホを持つ手から少し力を抜いた。
その方がよかった。
友達だから、という勢いだけで来られるより、仕事として聞いてから決めてもらいたい。
数日後、理央は再び六畳間へ来た。
前回と同じミニテーブル、同じ本棚、同じ古い燭台。シロガネまで同じ場所で座っている。
違うのは、パソコンの代わりにミニテーブルへ白い布が敷かれ、彫金道具と銀線が置かれていることだった。
理央は腰を下ろす前に工具へ目を向けた。
「これ……父が勧めそう」
「修さんに選んでもらいました」
澪が答えると、工房で修が一つずつ道具を手に取っていた姿を思い出した。
高い物を勧めるのではなく、手にどう収まるか、交換しやすいか、長く使えるかを見ていた。
「やっぱり」
「そんなに分かります?」
「持ち手とか、選びそうです」
理央は工具には触れず、並びを眺めるだけにした。
真壁が小さなケースを一つ、白い布の中央へ置く。
「押入商会で、宝石を使ったアクセサリーをやってみようと思ってるんです」
澪はそう言ってから、理央の顔を見た。
自分から誘った以上、面白そうでしょう、と押しつけるのは違う。
理央の視線は澪ではなく、まだ閉じたケースへ向いていた。
「急ですね」
「私もそう思いました」
ほんの数日前まで、この仕事自体なかった。
今はそのことを隠す必要もない気がした。
「理央ちゃんが来た次の日に決まったので」
「そんなに最近なんだ」
「はい」
理央が真壁を見る。
真壁は何も気まずそうにせず、ケースの蓋を開けた。
「急に始めるように見えるだろうが、材料なら以前からある」
紫のアメジストが現れる。
理央の目がすぐ石へ落ちた。
「これを使うんですか」
「最初はサンプルを作ろうと思ってます」
澪はアメジストを一石、白い布へ出した。
「石だけ見せるより、実際にアクセサリーにした時の感じもあった方がいいので。まず何個か作って、相手が何を欲しいか聞きます」
話しているうち、澪自身にも作業の順番が見えてきた。
売り物を急いで作るのではない。
理央と一緒に手を動かし、その出来を見てから外へ持っていく。
「私も作る?」
「理央ちゃんがやりたければ」
澪は急いで続きを言わなかった。
理央は銀線を見て、工具を見て、また石へ戻った。
黙っている時ほど、頭の中では何かを組み立てているのが分かる。
「こういうの、やってみたいです」
「こういうの?」
聞き返すと、理央は銀線へ指先を伸ばした。
触れる直前で止める。
「ここに来て、誰かと一緒に作るの」
少し考えてから続ける。
「原稿って、基本一人だから」
「そうですよね」
澪の頭に、夜の自分の部屋が浮かんだ。
一人で帳簿を見ていた頃や、大学の課題を広げていた頃と似ているのかもしれない。
仕事ではあっても、ずっと一人で向き合う時間が長い。
「彫金も、習って作るだけだったし。売るための物を作るのはやったことないです」
「最初から売り物にはしませんよ」
澪が言うと、理央が顔を上げた。
「まず一緒にサンプルを作ります。失敗したら、その時に考えます」
言いながら、自分の緊張も少しほどけた。
理央に完成品を任せるのではない。
自分も隣へ座る。
「学校も今あまり行ってないし……こういう時間、あんまりなかったので」
最後だけ、理央の声が少し小さくなった。
澪は何か言いかけ、ミニテーブルの上のアメジストへ目を落とした。
今ここにあるのは、学校の話ではなく、理央が自分からやってみたいと言った仕事だ。
「じゃあ、やってみます?」
問いかけたあと、窓の外を車が一台通る音がした。
返事を急がせないために黙っていると、理央は石を見たまま頷いた。
「はい。やってみたいです」
胸の奥で、小さく固まっていたものがほどけた。
友達へ頼むことと、人を雇うことが、ようやく同じ場所へ収まった気がした。
「じゃあ、修さんと妙子さんにも私から話しますね」
「え」
理央の顔に、今日一番分かりやすい表情が出た。
「私から言いますよ」
「理央ちゃんからも言ってください。私も話します」
口にしてから、澪はスマホへ手を伸ばした。
代表としては当然だと思う。
思うのだが、理央の顔を見ると、少しやりすぎなのかという気もしてくる。
「そこまでします?」
「私がお願いする側なので」
澪が答えると、理央は真壁へ目を向けた。
「真壁さん」
「何かな」
「アルバイトって、ここまでします?」
真壁は理央ではなく澪を見た。
「澪君が必要だと判断したのだ。そこは任せよう」
「味方がいない」
理央が小さく言った。
澪は少しだけ笑った。
「修さん、突然すみません。篠原です」
『澪ちゃん?』
電話の向こうから、いつもの落ち着いた声が返ってくる。
「理央ちゃんのことで」
言った途端、澪は向かいに座る理央の顔を見た。
こう切り出せば、何かあったと思われる。
『理央がどうかした?』
「いえ、何もしてないです」
急いで答えると、理央が口元を押さえた。
「うちで、アルバイトをお願い出来ないかと思いまして」
『理央が?』
「私がやりたいって言ったの」
理央が横から声を出す。
『そこにいるんだね』
「います」
『本人もその気なんだね』
「はい」
修の声が少し緩んだ。
澪はミニテーブルへ並んだ道具を見ながら、押入商会で宝石を使ったアクセサリーを扱い始めることや、まずは商談へ持っていくサンプルを理央と一緒に作るつもりだと説明した。
修は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
『道具は?』
「前に修さんに選んでいただいた一式があります」
答えた瞬間、澪の目が工具へ向いた。
ここへ来てから何度使ったか分からない。最初の頃より柄の一部が少し馴染み、金属の部分には細かな使用跡がある。
『あれ、まだ使ってるんだね』
「使ってますよ」
「やっぱりお父さんのおすすめだったんだ」
理央が道具を見る。
『理央も使ったことあるのが多いと思うよ』
「分かる」
『人の道具だからって、変に力を入れないようにね』
「しないよ」
理央の返事が少し早い。
澪には、そのやり取りが工房で何度も繰り返されてきたように聞こえた。
『澪ちゃん』
「はい」
『分からないところは、そこで止めさせてね。無理に先へ進めなくていいから』
「分かりました」
その言葉に、澪は素直に頷いた。
売るためのサンプルだからこそ、形だけ完成させるより、途中で止められる方がいい。
妙子へ代わってもらう。
『理央、アルバイトするの?』
「する」
『自分で決めたの?』
「うん」
『じゃあ、いいんじゃない』
理央の肩が少し下がった。
『でも締切前まで無理して行かないこと』
「分かってる」
『帰る時間は連絡してね』
「うん」
『澪ちゃんも、この子が無理してるなと思ったら帰してあげて』
「はい」
返事をしながら、澪は理央の横顔を見た。
黙って集中している時は、疲れていても分かりにくそうだ。
自分も人のことは言えない。
「そこは気をつけます」
『お願いします』
「お母さん、本人の前で全部言う?」
『いる時に言った方がいいでしょ』
理央が言葉を失った。
電話を切ったあと、澪はスマホをミニテーブルへ置いた。
「これでお願い出来ます」
そう言うと、さっきまで友達の親へ電話していた緊張が、ようやく指先から抜けた。
「澪さん、すっきりしてますよね」
「私が雇うので」
口にすると、自分の声が少しだけ固く聞こえた。
次に理央がここへ来る時は、遊びでも取材でもない。
押入商会の仕事をしに来る。
その責任まで一緒に引き受けるのだと、そこでようやく実感した。
数日後、王都の中堅商人のところへ一枚の紙が回ってきた。
渡した男は長居をしなかった。
「こんな物が出ている」
それだけ言って去った。
商人は最初、まともに取り合うつもりがなかった。
ところが途中まで読むと、グスタフ・ハーゲンが人材候補を押入商会とリュシア商会へ紹介した、とある。
そこだけなら聞いたことがある。
紙を捨てずにいたのは、そのせいだった。
翌日、彼はレンツの仕事場へ持ち込んだ。
「お前、ハーゲン本人に聞いたんだよな」
レンツは荷を運ぶ男たちの邪魔にならない場所へ移り、紙を受け取った。
「何だ、これ」
「私も見せられただけだ。人の話が書いてあるから、お前なら分かるかと思って」
倉庫の戸は開いており、冬の風と一緒に馬の匂いが入ってくる。
レンツは紙を読んだ。
人材紹介のところで指が止まる。
「人を紹介したのは本当だ」
商人が顔を上げた。
「じゃあ――」
「待て」
レンツはその先へ目を移した。
特定の商会へ人を回した見返りに、グスタフが金品を受け取ったと書かれている。
「金の話は聞いてない」
「聞かなかっただけじゃないのか」
「かもしれない」
レンツは紙へ目を落とした。
人を紹介したくだりは、自分がグスタフ本人から聞いた話と同じだった。その続きに金の話が書かれていたからこそ、この場で丸めて捨てる気にはならない。
「だから聞く」
「本人に?」
「他に誰へ聞くんだ」
レンツは外套を取った。
「どこまでが本当か、本人に見せればいい」
「今から行くのか」
「紙を囲んでいても増えるのは話だけだ」
レンツは文書を借り、そのまま商業ギルドへ向かった。
理央のアルバイト初日、六畳間にはいつもと違う音が増えた。
工具をミニテーブルへ置く乾いた音と、銀線を切る小さな音。
暖房が低く鳴る中、澪は白い布を敷き、理央と並んで座った。
「シロガネ、今日はこっち駄目」
理央が先に白猫を止めた。
ミニテーブルへ近づこうとしていたシロガネが、前足を止める。
『なぜだ』
「危ないからですよ」
「ですよね。切った銀線とか落ちたら危ないし」
「はい」
シロガネはしばらく理央を見た後、本棚の下へ移動した。
澪は何も言わず、宝石ケースの蓋を開けた。
「今日はどれにします?」
理央がすぐ身を乗り出す。
「決めてません。見て選びましょう」
澪が答えると、石を前にした理央の目が少し速く動き始めた。
前に本を話していた時と同じだ。
興味があるものを前にすると、口より先に目が動く。
アメジストを一つ手に取り、光へ傾ける。隣のガーネットと見比べ、青いアクアマリンは白い布へ出した。
別の箱を開けると、今度はトルマリンの色違いへ目を止める。
「こんなに色あるんですね」
「ありますね」
澪も横から覗いた。
自分には在庫の一部でも、理央にとっては初めてまとめて見る石だ。
その反応を見ていると、商談相手へ見せた時のことも少し想像出来る。
理央はエメラルドを戻し、ムーンストーンを傾けて白い光を追った。ラブラドライトでは青い光が浮かぶ角度を何度か探す。
ルビーとサファイアの箱を開けた時だけ、澪を見た。
「これも使っていいんですか」
「最初からそこへ行きます?」
澪が聞くと、大きな石を失敗した時の自分を想像して、少し背中が寒くなった。
「私も怖いです」
理央はすぐ蓋を閉じた。
最後にジルコンを見てから、最初のアメジストへ戻る。
「これがいいです」
「私も、それがやりやすいと思います」
澪はアメジストを白い布の中央へ置いた。
最初の一個にするには、色も見やすい。失敗しても、何が悪かったか分かりやすそうだった。
真壁が銀線を何種類かミニテーブルの端へ置く。
理央は一本を持ち、指先で軽くしならせた。
「これ、すごく揃ってますね」
「何がです?」
澪が聞く。
理央は線を目の高さへ上げた。
「太さ。途中で急に感じが変わらない」
指をずらしながら確かめる。
「長いのに同じ」
澪は真壁を見た。
真壁は何でもない顔をしている。
「これも仕入れてるんですか?」
「銀線も、こちらで用意出来ます」
澪は言葉を選んだ。
石と同じ説明をする必要はない。けれど、誰がどう作ったかまで話す必要もない。
「石は海外との取引で調達出来るんです」
「同じ大きさも?」
「あります」
理央の質問が少しずつ早くなる。
「同じ色は?」
「だいたいなら」
澪は答えながら、真壁と話したことを思い出していた。
何でも出来るとは言わない。
今ここで理央に説明する範囲も同じだ。
「ピアス用に2個揃えるとかも?」
「出来ます」
理央が手を止めた。
「……すごい取引先ですね」
「そうなんです」
澪は笑ってごまかした。
視界の端では、銀線を作った本人が、何も言わずその残りを整えていた。
「じゃあ、同じの欲しいって言われても大丈夫なんだ」
「言われてから考えます」
「出来るのに?」
「出来るからって、その場で何でも出来ますって言わない方がいいので」
澪はアメジストを指で転がした。
出来ると言った瞬間、それは約束になる。
自分だけで済む話ではなくなる。
「その方がよい」
真壁が短く言った。
「真壁さんにも言われました」
「納得」
理央が素直に頷く。
澪は少しだけ口を尖らせたくなった。
自分が言うより説得力があるらしい。
「最初はペンダントにしましょう」
澪は石を理央の前へ戻した。
「リングじゃなくて?」
「指輪だとサイズがありますから。今日は石と銀が一緒になった時の感じが見えればいいです」
そう言いながら、修の工房で初めて指輪を作った時のことを思い出した。
指に着ける物は、見た目だけでは終わらない。高さも当たりも、使う人の手まで考えなければならない。
今日はそこまで広げない。
「分かりました」
理央は工具を取った。
銀線を切る音が、六畳間へ乾いて響く。
そこから会話は減った。
理央は銀線を石へ沿わせ、外しては角度を変える。澪も隣で別の線を持ち、手の動きを見ながら自分の指を動かした。
1本目は、途中で片側が浮いた。
理央は戻そうとして、止まる。
「これ、戻したら跡が残りますよね」
「残りそうですね」
澪は線を受け取った。
指先へ残る硬さが、昔の失敗を思い出させた。無理に戻して、かえって歪みを広げたことがある。
「やり直しましょう」
言葉にすると、惜しさより先に次の手が見えた。
「いいんですか?」
「今日は見本なので。これを直す練習は後でも出来ます」
理央は曲がった銀線を見た。
「もったいない気もする」
「私もそう思います」
澪は笑った。
材料がいくらあっても、捨てることに慣れる必要はない。
ただ、惜しむあまり悪い形を残すのも違う。
真壁が新しい銀線を一本、ミニテーブルへ置いた。
「見本を崩してまで、材料を惜しむ必要はあるまい」
「かなりあるんですか?」
理央が聞く。
「当面困らぬよ」
真壁の返事を聞いて、澪は黙った。
当面の意味は聞かない方がいい。
2本目は、さっきよりゆっくり曲がった。
理央は途中で何度か手を離し、少し遠くから見る。
「父、こういう時よく離して見ろって言うんです」
「修さんらしいですね」
澪が答えると、工房で自分も同じことを言われた記憶が蘇った。
近くで傷ばかり追っていると、全体の形を見失う。
澪も理央に合わせて少し身を引き、石と銀線を一緒に見た。
「近くで見てると、変なところだけ気になるからって」
理央は石を少し遠ざけた。
「……こっちの方がいい」
「私もそう思います」
作業は進んでは戻った。
正面ではよくても、横から見れば少し傾いている。直すと別のところが動く。
「ここ、押さえますね」
澪は理央の手元へ指を添えた。
2人の指が一度ぶつかる。
「すみません」
「私もです」
そんな小さなやり取りを繰り返しているうちに、六畳間の狭さが気にならなくなった。
昨日までは客として向かいに座っていた理央が、今日は同じミニテーブルで工具を持っている。
その違いだけが、時々ふと目に入った。
真壁は離れたところから手元を見ていた。
作り方には口を出さない。
ただ、必要になりそうな銀線だけは、言う前にミニテーブルの端へ増えている。
便利ではある。
彫金教室として考えると、かなり妙だった。
グスタフ・ハーゲンは、レンツが差し出した文書を最後まで黙って読んだ。
ギルド長室の外からは、受付で荷や契約の相談をする声が聞こえている。
レンツは向かいの椅子で待った。
「本物ですか」
「違う」
返事は早かった。
グスタフは文書を机へ置き、人材紹介について書かれた部分へ指を置いた。
「ここは事実じゃ」
「そこは前にも聞きました」
「わしが候補の名を出した。採るかどうかは商会と本人が決める。それも話した通りじゃ」
指が少し下へ動く。
「だが、これはない」
金銭授受について書かれた箇所だった。
「一度も?」
「この件の見返りとして金品を受け取ったことはない」
レンツは紙へ目を落とした。
人を紹介したくだりは、自分がグスタフ本人から聞いた話と同じだった。その続きに金の話があったからこそ、自分もこの紙をその場で捨てられなかったのだ。
「これを見た者は何人いる?」
グスタフの声が低くなった。
「俺へ持ってきた奴と、その場にいた何人かは見てます」
「どこから来た」
「持ってきた本人も、知り合いから見せられたとしか」
グスタフは文書をもう一度手に取った。
「これは預かってよいか」
「そのつもりで持ってきました」
「助かる」
レンツは立ち上がりかけてから、思い出したように止まった。
「皆には何て言えばいいです?」
「お前が聞いたことだけ話せ」
「聞いたこと?」
「人を紹介したことは事実。金を受け取ったという話はわしが否定した。それだけでよい」
「分かりました」
「それと、この紙を見た者が分かるなら後で教えてくれ」
レンツが出ていったあと、グスタフは文書を折らずに机の端へ置いた。
受付から聞こえる声は変わらない。
けれど、今度は商人へ説明するだけでは足りない。
グスタフはもう一度、文書の金銭授受の箇所へ目を落とした。
午後の日差しがミニテーブルの端まで移った頃、理央はようやく工具を置いた。
アメジストの周りを銀が囲み、さっきまで別々だった石と線が、ひとつのペンダントらしい形になっている。
理央はすぐには笑わなかった。
持ち上げて正面から見て、横へ傾ける。
「ここ、まだ違う」
「どこです?」
澪が顔を寄せる。
言われなければ見落としそうなくらいだが、片側だけ銀線が少し高い。
「直したいです」
「じゃあ、そこだけやりましょう」
澪は答えてから、手を出さずに理央の指先を見た。
ほんの少しだけ線を動かし、理央は一度手を離す。
横から見て、今度は工具へ戻らなかった。
「……これ以上は触らない方がいい気がします」
「私もそう思います」
澪は手を出しかけたまま、そのまま引いた。
直せるところではなく、触らない方がいいところまで理央と同じだった。
次から全部横で見張る必要はなさそうだ。
最後に表面を磨く。
柔らかい布が銀を擦る音は、暖房の音に紛れるほど小さい。
理央は角度を変えながら何度も磨き、窓際へ持っていった。
傾いた冬の日がアメジストを通り、白い布へ淡い紫を落とす。
「……売り物には、まだ怖いです」
「今日は売り物じゃないですよ」
澪が言うと、自分の肩も少し軽くなった。
完成させることに集中しているうちに、理央も最初の目的を忘れていたらしい。
「あ」
「サンプルです」
「忘れてた」
真壁が小さなケースを出した。
中には石だけを収めた見本があり、その横に一つ分の空きがある。
「入れよう」
真壁が蓋を開く。
「これ、本当に持っていくんですか?」
「うむ」
理央がペンダントとケースを見比べた。
「私が作ったやつを?」
「うむ。十分、見本になる。持っていこう」
理央はもう一度、自分のペンダントを見た。
澪には、その視線がさっきまでと違って見えた。
歪んでいないかを見る目ではない。
自分の手元から外へ出ていく物を見る目だった。
「理央ちゃんが入れます?」
「私が?」
「作ったんですから」
澪が言うと、理央はペンダントをつまんだ。
ケースへ置く時だけ、作っていた時より慎重だった。
向きを直し、少し離れて見てから手を離す。
真壁が蓋を閉じる。
「次はこれを見てもらおう。何が欲しいかは、相手に聞けばよい」
ケースはそのまま真壁の鞄へ入った。
理央の視線が鞄を追う。
数時間前までミニテーブルの上で何度も曲げ直していた物が、もう押入商会の商談へ出ていく。
そのことを飲み込むように、しばらく何も言わなかった。
「写真」
急に理央が言った。
「撮ってなかった」
「撮ります?」
澪が聞くと、理央はすぐスマホを出した。
「いいですか」
「もちろんです」
真壁がケースをもう一度出す。
理央は蓋を開けた状態を一枚だけ撮った。
撮り終えると、今度はミニテーブルの端に残っていた最初の銀線を手に取る。
途中で曲げ方を失敗した一本目だ。
「これは捨てます?」
「まだ置いておいていいですよ」
澪は答えながら、線に残った曲がり跡を見た。
完成した物より、むしろこちらの方が今日の時間をよく残している気がした。
「次、同じところで曲げすぎないように見たいです」
「じゃあ、取っておきましょう」
理央は失敗した銀線を、修に選んでもらった工具の横へ置いた。
真壁が今度こそサンプルケースを鞄へ戻す。
理央は鞄を見送ったあと、座り直した。
片づけるのかと思った澪の目の前で、理央は隣の宝石ケースへ手を伸ばし、蓋を少しだけ開けた。
「……次、これでもいいですか」
「続きは次にしましょうって言ったばかりですよ」
理央は名残惜しそうにケースを閉じた。
「はい」
ミニテーブルの端には、最初に曲げ損ねた銀線が一本だけ残っていた。