冬の朝の六畳間は、暖房が効いていても窓際だけは冷たかった。
外では通勤と通学の時間が重なっているらしく、車の走る音に混じって、誰かが建物の前を急ぐ足音が聞こえてくる。
ミニテーブルにはジュエリーのテキストと宝石ケース、銀線、彫金工具が昨日の続きのように並んでいた。
その前に座った理央の首元で、アメジストが朝の日を拾っている。
昨日、自分で作ったペンダントだ。
澪はそれを見るたび、ほんの少しだけ嬉しくなる。
売り物の見本にするだけなら、真壁が持っていった1個目で足りる。2個目を理央に使ってもらうことにしたのは、重さや引っ掛かりを確かめてもらうためだった。それでも実際につけて来てくれると、頼んだ側としてはやはり違った。
「理央ちゃん、今日はこの辺まで進めてもらえれば大丈夫です」
澪はテキストを開き、昨日付箋を挟んだ辺りを指した。
「石の方を少し読んで、あとはペンダントの裏側ですね。気になるところがあったら書いておいてください。無理に次を作らなくても大丈夫です」
「分かりました」
理央がアメジストを指でつまみ、ひっくり返した。
「これ、昨日より気になるところ増えてます」
「もうですか?」
「朝、服着てからずっとつけてたんで。ここ、たまに当たります」
「なるほど……」
澪も覗き込む。
作った時には気づかなかった。
やはり使わないと分からない。
隣では、真壁がコートへ腕を通していた。
「では、私は東都特殊金属試作へ行ってくる」
見たところ、真壁はほとんど手ぶらだった。
納品する物はすでに収納へ入っている。こういう時だけ見れば、とても大量の特殊材料を運ぶ人には見えない。
「今日、納品でしたっけ」
「うむ。先方も待っているのでね」
真壁は時計へ一度目をやった。
「澪君もそろそろではないか」
「あ」
澪も時計を見る。
余裕があるつもりだったのに、理央のペンダントを覗き込んでいる間に何分か減っている。
「私も行かないと」
大学用のバッグを肩へ掛けた。
足元では、シロガネが当然のようについてくる。
理央がそれを見て首を傾げた。
「シロガネも行くんですか?」
「行くらしいです」
「大学に?」
「……行くらしいです」
自分で答えながら、そこは説明しづらい。
シロガネは澪を見上げただけだった。
古い燭台と白猫が、宝石と工具の並ぶ六畳間へ馴染みすぎている。その光景にも、理央はもうほとんど疑問を持たなくなっていた。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
澪は玄関へ向かいかけて、足を止めた。
何か忘れている。
バッグ。ある。
スマホ。ある。
大学の資料。ある。
それから、視線が押し入れへ行った。
「あ、理央ちゃん」
「はい?」
「押し入れ、いろいろしまってあるんで、今日は開けないでくださいね」
理央もそちらを見る。
「はい」
「そこは仕事に使わないので、触らないでください」
「分かってますって」
返事が少しだけ早かった。
何度も来ている部屋で、そこだけは触らないように言われている。理央にしてみれば、もう分かりきった注意なのだろう。
真壁も玄関で靴を履きながら振り返った。
「何かあれば、触る前に澪君か私へ連絡を」
「はいはい」
17歳らしい返事に、澪は少しだけ笑った。
「じゃあ本当に行ってきます」
「いってらっしゃい」
玄関の戸が閉まった。
外の足音が一度近づき、すぐ遠ざかる。
理央はしばらく戸の方を見ていたが、やがて肩を回し、ミニテーブルへ戻った。
急に広くなった六畳間には、暖房の低い作動音だけが残った。
理央は、最初の1時間ほど本当に真面目に勉強していた。
昨日調べた石の項目を読み直し、途中でアメジストを持ち上げて、写真と比べる。
文字だけを読んでいるより、手元に本物がある方がずっと頭に入る。
ページをめくる。
ペンダントを裏返す。
銀線の端を爪で軽く触ってみる。
「ここか……」
朝から時々服へ当たっていたのは、石そのものではなく銀線の処理だった。
忘れないうちに書いておこうとペンへ手を伸ばしたところで、理央の指が止まった。
何か聞こえた。
顔を上げる。
暖房の音。
外を走る車。
その向こうで、人の話し声が一度だけ通り過ぎる。
理央は窓を見た。
「……気のせい?」
もう一度テキストへ目を落とす。
「……助けて」
今度は手が完全に止まった。
子供の声だった。
理央は振り返る。
「え?」
窓ではない。
玄関でもない。
六畳しかない部屋なので、どこから聞こえたかを探すのに時間は掛からなかった。
押し入れ。
理央の目がそこで止まる。
「……いやいや」
朝の会話を忘れたわけではない。
むしろ、ついさっき言われたばかりだ。
開けないでくださいね。
触らないでください。
何かあれば連絡を。
全部覚えている。
「お母さん……」
声がまた聞こえた。
「お母さん、いない……」
さっきより近い。
理央は立ち上がりかけ、また座った。
「……誰かいるの?」
一応聞いてみる。
返事があったら困る気もした。
「助けて……」
あった。
理央は両手で顔を覆いたくなった。
怪談なら開けたくない。
仕掛けならもっと開けたくない。
でも、どう聞いても泣いている子供の声だった。
「迷子……?」
押し入れを見たまま、スマホへ手を伸ばす。
澪へ電話した。
呼び出し音が続く。
出ない。
「講義中か……」
一度切って、RightInを開く。
『澪さん』
そこまで打って、何と書けばいいのか迷った。
押し入れから子供の声がします。
文字にすると、急に自分の方がおかしい人みたいに見える。
それでも他に書きようがない。
『押し入れの中から子供の声がするんですけど』
送信。
既読は付かない。
真壁にも連絡しようかと考えたが、納品へ行くと言っていた。まず澪から返事が来るか待った方がいい気がした。
理央はスマホを握ったまま、押し入れを見つめる。
「お母さん……」
また泣いている。
「ちょっと待ってて」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
----------------------------------
【緊急】押し入れについて【理央】
401:燭台
異世界側から幼児の音声を確認。
402:燭台
飯島理央が接近。
403:燭台
開放非推奨。
404:燭台
警告伝達不能。
----------------------------------
理央には、古い燭台がいつも通りそこに置かれているようにしか見えなかった。
返事はまだ来ない。
時計の秒針だけが進む。
子供はまた泣いた。
今度は、理央の足が先に動いた。
押し入れの前に立つと、いつもの六畳間なのにそこだけ妙に遠く感じた。
理央は取っ手へ手を掛ける。
「見るだけ」
自分に言い聞かせる。
「開けるだけだから」
澪に言ったら、たぶん駄目と言われる。
それは分かっている。
でも、本当に中に子供がいるなら放っておけない。
戸を数センチだけ動かした。
光が差した。
「……え?」
理央の手が止まる。
押し入れの中は暗いはずだった。
布団か箱か、何かが詰まっていると思っていた。
なのに細い隙間から入ってきたのは、明らかに外の光だった。
もう少し開く。
冷たい風が頬へ触れた。
暖房の風とは違う。
土と煙と、何かを焼いている匂いが混じっていた。
「……何、これ」
戸をさらに開いた。
目の前に石畳があった。
その向こうには、木と石で出来た建物が並んでいる。
軒先から布の日除けが出て、張り出した看板が風に小さく揺れていた。
荷車が通る。
知らない形の服を着た男が歩いていく。
遠くから市場らしい声が重なって聞こえる。
理央の頭の中で、知っている言葉が一つ浮かんだ。
異世界。
小説なら簡単だった。
主人公が扉を開ける。
そこは異世界だった。
1行で済む。
実際に目の前へ出されると、何ひとつ済まなかった。
風がある。
匂いがある。
人が歩いている。
しかも、少し先で本当に子供が泣いていた。
理央と目が合う。
「お母さんがいないの」
「……本当にいた」
「助けて」
「あ、うん」
考えるより先に返事をしてしまった。
理央はまだ六畳間側へ身体を残したまま、子供へ声を掛ける。
「お母さん、どこにいたの?」
子供が市場の方を指した。
「あっち」
「じゃあ、あっちに……」
子供が歩き出す。
「待って」
理央は反射的に一歩踏み出した。
靴底が畳ではなく石を踏んだ。
身体が全部、向こう側へ出る。
振り返れば六畳間はまだそこにあった。
ミニテーブルの上に、自分のスマホもバッグも見えている。
すぐ戻る。
この子を母親のところまで連れていくだけ。
「勝手に行かないで」
理央は子供を追った。
----------------------------------
【緊急】押し入れについて【越境】
405:燭台
押し入れ開放を確認。
406:燭台
飯島理央、異世界側へ移動。
407:燭台
ゲンダイ側への帰還未確認。
408:燭台
状況継続。
----------------------------------
理央の首元で、アメジストが一度だけ冬の光を弾いた。
「お母さん、どこで最後に見たの?」
理央が尋ねると、子供は市場の方を指した。
「あっち」
「あっちね」
そこまで。
そこまで行って、誰か大人に頼んで、自分は戻る。
理央はそう決めた。
ところが歩き始めると、目が勝手に忙しくなった。
石畳の隙間に泥が詰まっている。
建物の壁は真っ白ではなく、雨の跡や煤で色が違う。
軒下には乾かした草が吊られ、道端の店からは焼いた肉とパンのような匂いが漂ってきた。
荷車の車輪が石へ当たるたび、がたん、と身体へ響く。
書こうとして考えた景色とは違う。
古い町並みという言葉で片づけるには、人が多すぎた。
洗濯物がある。
買い物袋を抱えた人がいる。
店先で値段を言い合っている人がいる。
ここで普通に暮らしている。
そう気づいた途端、さっきまで物語みたいに見えていた景色が急に近くなった。
理央は子供の手を見失わないように歩く。
その時だった。
前から来た若い女性の肩で、透明な容器が揺れていた。
理央の足が止まりかける。
「……え?」
見間違いではない。
ペットボトルだった。
透明なボトルの首に赤い組紐が結ばれ、肩から斜めに掛けられている。
紐には小さな木珠まで通してあった。
「……ペットボトル?」
女性は何事もなく通り過ぎた。
理央は振り返る。
そこへ今度は、革紐でボトルの底まで支えた男が歩いてくる。
「またある……」
さらに店先には、刺繍の入った布紐を選んでいる少女がいた。
その先にぶら下がっているのもペットボトルだ。
理央は子供を追いながら、もう一度見た。
「なんで?」
石畳。
荷車。
木組みの家。
その真ん中を、肩掛けペットボトルが歩いていく。
「いや、そこだけ知ってるんだけど」
思わず声が漏れた。
子供が振り返る。
「なに?」
「何でもない」
理央は首を振った。
「何でもないけど……何でもなくない」
透明なボトルの中には水らしいものもあれば、薄い色の付いた飲み物も入っている。
使い捨てどころか、完全に水筒として馴染んでいた。
しかも飾っている。
「進化してる……」
何がどうしてこうなったのか、まったく分からない。
ただ、一つだけ思い当たる人たちがいた。
澪。
真壁。
押入商会。
理央は首元のアメジストへ触れた。
「まさかね……」
その間にも子供は先へ進む。
「あ、待って」
慌てて追う。
路地を一つ曲がった。
また曲がる。
市場へ近づくほど人が増え、理央は子供を見失わないことばかり考えるようになった。
自分がどちらから来たのかを振り返った時には、似たような石壁がいくつも並んでいた。
市場へ入った途端、今度は別の違和感が始まった。
見られている。
理央は最初、服のせいだと思った。
周りは布や革を重ねた服ばかりなのに、自分だけゲンダイの冬服だ。どう考えても浮いている。
それなら仕方ない。
そう思おうとしたのだが、視線が髪にも集まっている。
野菜を並べていた女性が、隣の店へ顔を寄せた。
「黒髪ね」
「澪さんじゃないわね」
理央の耳がぴくりと動く。
聞き間違いではない。
「じゃあ真壁さんの娘?」
「真壁さん、娘いるの?」
「知らない」
「親戚かしら」
「それも知らない」
「何なら知ってるのよ」
「黒髪ってこと」
理央は歩きながら横目でそちらを見る。
女性たちは目が合った途端、急に野菜を並べ直し始めた。
「……澪さん?」
別の店からも声がした。
「あの娘、押入商会じゃないか?」
「見たことないぞ」
「新しい人か?」
「また増えたのか」
「増えたって、前いつ増えた?」
「……知らん」
「知らんのか」
理央の歩幅が少しずつ小さくなる。
知らない世界で、知っている人の名前だけが先に歩き回っている。
怖いのか安心していいのか分からない。
子供がいなければ、その場でしゃがみ込んで考えたかった。
市場の端には、昼間からやることがなさそうな男たちが数人いた。
一人が理央を見る。
「おい、あの娘」
理央の肩がわずかに強張る。
「黒髪だな」
「服も変だ」
来る。
そう思って、理央は子供を自分の側へ寄せた。
だが男たちは近づいてこなかった。
「……やめとけ」
「まだ何もしてねえよ」
「その状態を維持しろ」
「何だよそれ」
「真壁の関係者だったらどうする」
最初の男が即答した。
「帰る」
「早いな」
「真壁が来るより早い方がいい」
「澪さんの知り合いかもしれんぞ」
「じゃあもっと何もしない」
「結局何もしねえのか」
「今日は善良に生きる」
「毎日そうしろ」
理央は立ち止まった。
男たちは本当に立ち上がらない。
むしろこちらから視線まで外し始めた。
もう少し離れたところでは、別の2人が小声で話している。
「声ぐらい掛けるか?」
「お前が?」
「……やめとく」
「賢くなったな」
理央は子供の手を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
澪の名前では店の人が遠巻きになる。
真壁の名前では、柄の悪そうな人まで善良になる。
どういうことなのか。
「……真壁さん、こっちで何したの?」
今度は完全に口から出た。
子供がまた振り返った。
「だれ?」
「私も知りたい」
理央は本気でそう答えた。
市場の中を歩いていたトルは、妙な人の流れに先に気づいた。
人だかりが出来ているわけではない。
むしろ逆だった。
皆が見ているのに、中心だけ妙に空いている。
何かある。
荷を届ける途中だった足を止め、その先へ目をやった。
黒髪の少女がいる。
一瞬、澪かと思った。
違う。
もっと若い。
服も見慣れない形だったが、それ以上に、本人の方が周囲を見て戸惑っている。
隣には小さな子供。
危害を加えている様子はない。
むしろ子供を庇うように、人の流れから端へ寄せている。
トルは荷を持ち直し、その2人へ近づいた。
「お姉さん」
黒髪の少女が勢いよく振り向いた。
「はい?」
まだ警戒している。
当然だろう。
トルは距離を詰めすぎないように止まった。
「押入商会の人ですか?」
「……え?」
少女の顔が固まった。
「押入商会、知ってるの?」
今度はトルの方が少し驚いた。
「俺、そこで働いてます」
「……ここにもあるんですか?」
聞き方がおかしい。
ここにも、ということは、別の場所の押入商会を知っている。
「澪さん知ってる?」
「知ってますよ」
少女の目が大きくなる。
「真壁さんも?」
「もちろん」
今度は完全に動かなくなった。
「……ほんとに?」
「はい」
トルは少女より先に、隣の子供へ目を向けた。
「この子は?」
「迷子です。お母さんがいなくなったって」
「ああ、それで」
「私、連れてきちゃったんですけど……」
少女の声が急に頼りなくなった。
見知らぬ町まで迷子を連れてきた、という意味ではないらしい。
もっと根本から何かがおかしい。
「まず、この子のお母さんを探しましょう」
「お願いします」
返事は早かった。
トルは市場の店をいくつか見回した。
毎日のように歩いている場所だ。誰に聞けば話が早いかは、もう考えなくても分かる。
近くの店へ声を掛けると、向こうも子供の顔を見てすぐ動いた。
「この子の母親を探してる。見てない?」
「さっき向こうで子供を呼んでた人がいたよ」
「どっち?」
「あっちの通り」
「ありがとう」
トルが戻ると、少女はそのやり取りをじっと見ていた。
「慣れてますね」
「これが仕事なんで」
「迷子探しが?」
「伝える方です」
「……幅広いですね、押入商会」
妙なところで納得された。
トルは少しだけ首を傾げた。
迷子の母親を探す間にも、トルにはもう一つ確かめたいことが出来ていた。
黒髪。
見慣れない服。
押入商会を知っている。
澪と真壁を名前で知っている。
なのに、この町を何も知らない。
昔なら、ここまで揃っても何から確かめればいいか迷ったかもしれない。
今は違う。
最初はほとんど名前しか拾えなかった鑑定も、日々使い続けてLv7まで上がっている。
母親を探してくれている店の者から返事が来るまでの間、トルは少女へ向き直った。
「あの」
「はい?」
「鑑定してもいいですか?」
少女が瞬きをした。
「……あの鑑定?」
「どの鑑定か分かりませんけど、たぶん鑑定です」
「ステータスとか出るやつ?」
「出る時もあります」
少女の顔に、一瞬だけ別の興味が混ざった。
怖がるより先に、知っている概念と現実を比べ始めたらしい。
「……ちょっと見てみたい」
「いいんですか?」
「はい」
了承を得て、トルが鑑定を使う。
視界へ文字が重なった。
最初の1行で、トルの表情が変わった。
----------------------------------
飯島理央
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:作家見習い
レベル:5
前職:箱入り娘 Lv5
状態:異世界迷入中/軽度混乱
疲労度:18%
体力:38
筋力:27
器用:76
知力:84
判断:72
精神:69
集中:91
未使用SP:9
既得スキル:作文:6
既得スキル:彫金:4
未発現スキル:あり
加護:成長促進
加護:見守り
注意:未使用SPあり
備考:アメジストのペンダントを装備中
----------------------------------
「飯島理央……」
「名前まで出るんだ」
理央は表示そのものが見えているわけではないらしく、トルの顔を覗き込んでくる。
「現在ジョブ、作家見習い。Lv5」
理央の口が少し開いた。
「……ラノベ作家は見習い作家か……。」
「ラノベ?」
「小説です。本、出してるんだけどなあ……」
「本を出していても見習いなんですか?」
「私が聞きたいです」
理央は少しだけむっとした顔で首元のアメジストを触った。
トルは続きを見た。
「前職、箱入り娘Lv5」
「待って」
反応が今までで一番早かった。
「なんで箱入り娘にレベルあるの?」
「俺に聞かれても」
「しかもLv5……」
理央は真剣な顔で考え込んだ。
数秒後、ぽつりと言う。
「……ニートだったからかしら」
「箱入り娘って、そういう意味なんですか?」
「知らないけど」
言った本人が一番分かっていなかった。
トルもそれ以上追わないことにした。
「未使用SP、9あります」
「SP?」
「使ってないんですか?」
「存在を今知ったんだけど」
理央が即答した。
トルは表示をもう一度上から見直す。
「作文が6。彫金が4」
「作文……」
そこだけは少し納得した顔になる。
「彫金もあるんだ」
「未発現スキルもあります」
「それ何?」
「俺にはそこまでしか見えません」
「見えないのもあるの?」
「あります」
「鑑定、思ったより不親切」
「俺のレベルの問題かもしれません」
「あ、ごめんなさい」
素直に謝られた。
トルは笑いそうになったが、その下へ並ぶ表示で止まる。
「加護が2つあります」
「加護?」
「成長促進と、見守り」
理央の指が止まった。
「……何それ」
「知らないんですか?」
「今、知らないことしか出てきてないです」
それはそうだった。
トルは最上段へ戻る。
異界渡航者。
そこだけで十分だった。
この少女は、この町へ普通に来た人間ではない。
しかも押入商会を知っている。
「飯島さん」
「理央でいいです」
「理央さん。どこから来ました?」
「江古田です」
聞いたことがない。
「どこの町です?」
「東京」
もっと分からない。
理央の顔から、さっきまでの鑑定への興味が少しずつ消えていった。
母親が見つかったのは、それから間もなくだった。
人混みの向こうから子供を呼ぶ声が聞こえた瞬間、理央の隣にいた小さな身体が跳ねた。
「お母さん!」
駆け出す。
理央は反射的に追いかけようとして、すぐ足を止めた。
母親の方が先に子供を抱き締めたからだ。
しゃがみ込み、何度も何度も顔を確かめている。
その様子を見ているうちに、理央の肩からやっと力が抜けた。
「よかった……」
知らない町へ来たことも、ペットボトルのことも、箱入り娘Lv5のことも、一瞬だけ全部どうでもよくなった。
子供が母親の腕の中からこちらへ手を振る。
理央も小さく振り返した。
これで戻れる。
そう考えて、来た方向へ振り向いた。
「……あれ?」
石造りの建物。
布の日除け。
似たような幅の路地がいくつもある。
右だったか。
左だったか。
市場へ来る途中、子供ばかり見ていた。
「どこから来たんだっけ」
声に出してみても道は戻ってこない。
トルが隣へ来た。
「どこへ戻るんです?」
「江古田」
「エコダ?」
「東京の江古田です」
「トーキョー?」
理央はトルの顔を見る。
本当に通じていない。
「……通じないんだ」
今になって、胸の奥が冷たくなった。
スマホは六畳間だ。
バッグも置いた。
押し入れから出て、子供を連れて、すぐ戻るつもりだった。
財布すら持っていない。
「入口、どこだろ……」
「入口?」
「押し入れ」
「押し入れ?」
「いや、その反応になりますよね」
理央は額へ手を当てた。
どうして自分が澪みたいなことを言っているんだろう。
澪なら、こういう時にもう少し順番に考える気がする。
理央は全然順番にならなかった。
「とりあえず事業所へ来てください」
「事業所?」
「押入商会の」
理央は顔を上げた。
「ほんとにあるんですか」
「さっきも言いましたよ」
「いや、聞いたけど……」
実物を見るまでは、どこかで聞き間違いだと思いたかった。
トルについて市場を出る。
途中でまた、ペットボトルを肩へ下げた人とすれ違った。
今度の物はさらにすごかった。
革がボトルの底まで編まれ、脇には小さな木飾りまで付いている。
「進化してる……」
「何がです?」
「こっちの話です」
もう突っ込む体力が足りない。
やがてトルが、一つの建物を指した。
「ここです」
理央は看板を見上げた。
押入商会。
本当にある。
「……ほんとに押入商会」
「だから言ったじゃないですか」
「ここにもあるんですか」
「ありますよ」
「なんで?」
「なんでって」
「私の知ってる押入商会、江古田の六畳間なんだけど」
トルが黙った。
理央も黙った。
「……今の、変でした?」
「かなり」
「ですよね」
建物へ入ると、中にいた人たちの視線が一斉に集まった。
トルが事情を短く伝える。
ミラ、ピナ、マルテも理央の黒髪を見て、それからトルの顔を見た。
誰も追い返そうとはしなかった。
ミラが温かい飲み物を用意してくれる。
湯気が上がるのを見た途端、理央は自分の指先が冷えていたことに気づいた。
「ありがとうございます」
両手で器を包む。
温かい。
それだけで、少しだけ六畳間を思い出した。
「澪さんに連絡出来ます?」
トルを見る。
「ゲンダイへですか?」
「はい」
トルの返事が遅れた。
「ここからすぐには無理です」
理央の指が器の上で止まった。
「真壁さんにも?」
「ゲンダイにいるなら同じです」
「……スマホ置いてきた」
今さら言っても遅い。
バッグも。
ジュエリーの本も。
工具も。
全部あの六畳間にある。
自分だけがここにいる。
子供を助けた時には考えなかった言葉が、ようやく形になった。
迷子。
「私もじゃん……」
小さく呟く。
誰にも聞かれたくなかったのに、トルには聞こえたらしい。
「ここにいれば大丈夫ですよ」
理央は顔を上げた。
「押入商会なんで」
その言葉だけは、今まで聞いた何より安心出来た。
同時に、安心出来てしまうこと自体が妙だった。
理央は首元のアメジストを握った。
澪がいる六畳間と同じ名前の会社が、知らない世界にもある。
頭の中の疑問は一つも減っていなかった。
午後の講義が終わり、学生たちが一斉に廊下へ流れ出した。
澪もその中に混じり、バッグを肩へ掛け直す。
暖房の効いた教室から出たばかりで、廊下の空気が少し冷たく感じた。
今日は帰ったら理央に、どこまで進んだか聞こう。
ペンダントの裏側も気になる。
朝、もう気になるところが増えたと言っていた。
次に作る前に直した方がいいかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
『澪』
声が硬かった。
足が止まる。
「どうしました?」
周囲を歩く学生に聞こえないよう、小さく返す。
『理央はどこにいる』
「江古田ですけど」
答えてから、嫌な間があった。
『我の加護が感じられぬ』
「……え?」
澪の指がバッグの紐を強く握った。
『見守りだ』
「消えたんですか?」
『違う』
シロガネの返答は早かった。
『理央を感じられぬ』
人の流れが澪の左右を抜けていく。
誰かの笑い声。
教室の戸が閉まる音。
日常の音ばかりが、急に遠くなった。
澪はスマホを取り出した。
講義中は音を切っていた。
画面に不在着信がある。
理央。
その下にRightInの通知。
開く。
『澪さん』
『押し入れの中から子供の声がするんですけど』
息が止まった。
「……!」
すぐ電話を掛ける。
呼び出し。
出ない。
もう一度。
出ない。
朝の六畳間がそのまま頭へ戻ってきた。
押し入れ、開けないでくださいね。
自分でそう言った。
理央は分かってますって答えた。
だから大丈夫だと思った。
でも、子供の声。
理央なら。
そこまで考えて、澪は走り出した。
『澪』
「江古田へ戻ります」
『我も行く』
「はい」
大学の出口へ向かいながら真壁へ電話する。
数回の呼び出しでつながった。
「澪君?」
「真壁さん、理央ちゃんが……」
息を整える暇も惜しかった。
「押し入れから子供の声がするって連絡が来てます。電話に出ません」
一拍。
真壁の声が変わった。
「今どこだね」
「大学です。江古田へ戻ります」
「よかろう。私は納品対応中だが、こちらも切り上げる」
「お願いします」
「澪君」
「はい」
「先に部屋を見給え。分かったことだけ知らせればよい」
焦って全部を考え始めていた頭に、その言葉だけが引っ掛かった。
まず見る。
理央がいるか。
何が残っているか。
押し入れはどうなっているか。
「……分かりました」
通話を切る。
澪はスマホを握ったまま、大学の門を抜けた。
「理央ちゃん!」
六畳間へ入るなり、澪は名前を呼んだ。
返事はなかった。
暖房は朝と同じように動いている。
冬の夕方の光が窓から斜めに入り、ミニテーブルの上を薄く照らしていた。
ジュエリーのテキストが開いたままになっている。
その横にペン。
彫金工具。
銀線。
理央のバッグ。
スマホ。
全部ある。
本人だけがいない。
澪はミニテーブルへ膝をついた。
スマホを手に取る。
自分へ送ったRightInが最後だった。
『押し入れの中から子供の声がするんですけど』
そこから先はない。
「理央ちゃん……」
朝、何を言った。
押し入れは開けないでくださいね。
分かってますって。
軽い返事だった。
でも理央は、忘れるような子ではない。
忘れていないのに開けたのなら、開ける理由があった。
子供。
澪は古い燭台へ顔を向けた。
鑑定を使う。
----------------------------------
【緊急】飯島理央について【越境】
409:澪
理央ちゃんは?
410:燭台
異世界側へ越境。
411:澪
いつですか。
412:燭台
幼児音声確認後。
413:澪
止められなかったんですか。
414:燭台
警告伝達不能。
415:澪
……そうでした。
416:燭台
飯島理央、ゲンダイ側への帰還未確認。
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413まで読んでから、澪は自分で目を伏せた。
聞く前に分かることだった。
燭台は鑑定を持つ相手としか話せない。
理央には届かない。
朝、押し入れを開けないよう言ったのは自分だ。
それ以上を説明出来なかったのも自分だった。
『向こうか』
シロガネの声がした。
澪は顔を上げる。
「……はい」
『ならば合う』
「見守りが感じられないことですか」
『そうだ』
澪は首元にいないアメジストを思い出した。
昨日、理央が自分で作ったペンダント。
見守り。
「加護は?」
『消えたとは限らぬ』
少なくとも、それだけは悪い知らせではなかった。
けれど居場所は分からない。
異世界側へ行った。
それしか分からない。
澪はスマホを握り直し、真壁へ電話を掛けた。
すぐにつながった。
「真壁さん」
「聞こう」
澪は一度、息を吸った。
「理央ちゃん、向こうに行ってます」