湯気の向こうで、鉋の音がしていた。
薄く長い木屑が作業台の脇へ落ち、別の場所では板を置く乾いた音が響く。外は冬の空気で冷えているはずなのに、工房の中には人の動く熱気と、削ったばかりの木の匂いがこもっていた。
理央は両手で器を包んだまま、何度目かも分からないほど部屋の中へ視線を巡らせた。
看板にも、確かに押入商会と書いてあった。
江古田の六畳間で聞いた名前が、どうして知らない世界の家具工房にあるのか。
しかも、さっき自分を連れてきたトルだけではない。ミラもピナも、澪と真壁を当たり前のように知っている。
温かい飲み物で指先の感覚は戻ってきたのに、頭の方はまだ追いついていなかった。
「……あの」
机の上の紙を揃えていたミラが顔を上げる。
「はい」
「澪さんって、こっちでは何してるんですか?」
少し離れたところで荷物を受け取っていたトルが、真っ先に振り向いた。
「いろいろです」
「一番困る答え来た」
思わず返してから、理央は器へ口をつけた。
本当に困る。
異世界で「いろいろ」と言われても、範囲が広すぎる。
ミラは笑わず、揃えた紙の端を指で合わせた。
「私たちは、ここで仕事を覚えました」
「仕事?」
「はい。最初は、注文の紙を間違えないようにするだけでも大変でした」
そう言いながら、ミラは机の端に置かれた紙を一枚取り、木箱へ移した。
文字の並びを一度見て、隣の札と照らし合わせてから置く。動きに迷いがない。
その横ではピナが家具の小さな部材を布で包んでいた。
角を合わせ、包みを返し、紐を掛ける。急いでいるようには見えないのに、手は止まらなかった。
「私は梱包です」
理央が見ていることに気づいたらしい。
「前は、角が合わないと何度もやり直してました」
「今は?」
「今も合わなかったらやり直します」
「そこは変わらないんだ」
「でも、前より早いです」
ピナは少しだけ胸を張った。
トルがすぐ横から口を挟む。
「俺は伝達です。今はちゃんと出来ます」
ミラがトルを見る。
「前は走る方が先だったけどね」
「今は違うって」
「何を伝えるか聞いてから走るようになりました」
「最初から聞いてたよ」
「半分くらい」
「聞いてたって」
理央は器を持ったまま、2人を見比べた。
「そこから練習したんだ……」
「大事ですよ」
トルが真顔で言う。
「行って、戻って、違うこと言ったら怒られますから」
「それは怒られる」
妙に納得してしまった。
ミラが作業を続けながら言う。
「澪さんが、何が得意か見てくれました。それから真壁さんや、リュシアさんたちにも教わって」
「教会でもいろいろ教えてもらいました」
ピナが包みを棚へ置く。
「マルテさんも、間違えた時にどこを見直せばいいか教えてくれます」
少し離れた机で仕事をしていたマルテが、名前を呼ばれて顔だけ上げた。
「今も間違えたら見直してもらいますけど」
「それでいいんです」
またすぐ手元へ戻る。
理央は3人を見た。
教えてくれた人の名前はいくつも出てくるのに、3人とも最初に口にするのは澪だった。
「……みんな、澪さんのことすごく好きですよね」
3人とも止まらなかった。
否定もしなかった。
ミラは紙を揃え、ピナは次の包みへ手を伸ばし、トルは当然だと言いたそうな顔をしている。
理央は器を置いた。
「崇拝じゃないですか」
「スーハイ?」
トルが聞き返した。
「今のなしで」
説明すると、もっと面倒な方向へ行きそうだった。
理央は額へ手を当てる。
「私の知ってる澪さん、大学生なんですけど」
今度は3人ともこちらを見た。
「ダイガク?」
「そこからか……」
理央は器を持ったまま、3人を見比べた。
知らない言葉を聞き返して、どうしてそうなるの、と考える。
六畳間では、こんな顔をしていたのはいつも澪の方だった気がする。
そう思ったところで、工房の奥から木を削る音がもう一度響いた。
話を聞きながらも、理央の視線は何度も工房側へ引かれていた。
最初は単純に珍しかった。
作業台へ置かれた濃い色の木材。職人が片手で材を押さえ、もう片方の手で鉋を滑らせる。削られた面へ光が走るたび、木目が少しずつはっきりしていく。
別の職人は引き出しを何度も差し込み、わずかな引っ掛かりを確かめていた。
金具を合わせている者もいる。
どこかで見た。
理央は首を傾げた。
職人の顔を覚えているわけではない。それよりも、手元の木材や作業台、壁に掛かった工具の並びに見覚えがあった。
理央の指が、首元のアメジストの上で止まる。
「……ここ」
トルが荷を持ったまま振り返った。
「はい?」
「私、見たことあります」
ミラが不思議そうにする。
「こっちへ来たことあるんですか?」
「ないです。今日が初めて」
言ってから、理央は自分でも変なことを言っていると思った。今日初めて異世界へ来たのに、工房を知っている。
六畳間で澪から昔の販売ページを見せてもらったあと、自分でも公開されている古いページを見直した。その中に家具の製作風景を映した映像があった。
木を削る手や寸法を測る道具、作りかけの家具。その背景に映っていた壁まで、記憶の中の動画と重なった。
理央は立ち上がった。
「ここ、あの動画の工房ですよね」
「動画ですか?」
トルは言葉の意味が分からない顔ではなかった。
「家具の動画です。澪さんが撮った」
「ああ」
トルの顔が明るくなる。
「澪さんなら、ここでも撮ってました」
「……動画、分かるんだ」
「授業で見ました」
理央はトルの顔を見て、それから工房を見直した。
「……動画、普通に通じるんですね」
工房へ目を戻す。
親方格らしい職人が木材へ当てているのはノギスで、少し離れたところには差し金もあった。
理央はまた止まった。
西洋風の家具工房の中に、ホームセンターで見覚えのある道具が普通に混ざっている。
「それも澪さん?」
「最初に持ってきたのは澪さんですね」
「また澪さん……」
とうとう声に出た。
先ほどノギスを使っていた親方格の職人へ、理央はもう一度目を向けた。
「……この人も映ってた」
職人の一人がこちらに気づき、手を止めた。
「その黒髪の娘、澪さんの知り合いか?」
「あ、はい」
理央は反射的に頭を下げた。
「飯島理央です」
「そうか」
それだけ言って、職人はまた木材へ向き直る。
理央はしばらく動けなかった。
「……画面の中の人に話しかけられた」
「ガメン?」
「今はいいです」
理央はそれ以上聞かれる前に、工房へ顔を戻した。
「澪はおるか〜」
工房の入口から響いた声に、理央だけが大きく振り向いた。
職人たちは手を止めない。
ミラもピナも、声の主を知っているらしい。
「今日は来てません」
トルが答える。
「そうか」
入ってきた少女を見た瞬間、今度は考えるまでもなく分かった。
赤い髪。
整った顔立ち。
工房の作業着や商人の服とは明らかに違う、質のよさそうな衣装。
理央の中で、見覚えのある映像と目の前の少女が一気につながった。
「……動画の人」
少女がこちらを見る。
「動画?」
一瞬考えてから、自分を指した。
「……あの家具の時のか?」
「そうです!」
理央は思わず立ち上がった。
「家具の横にいた……」
「家具の動画ではなかったのか?」
「家具の動画だったんですけど」
言いかけて、理央は困った。
本人へどう言えばいいのだろう。
「コメントは、モデルさんの話もかなり多くて……」
「なぜだ?」
少女は本当に分かっていない顔をした。
理央はその顔を改めて見る。
「……見れば分かると思います」
「何がだ?」
「そこ説明させるんですか?」
思わず返してから、はっとした。
初対面の相手である。
しかも服装からして、この世界ではかなり身分がありそうに見える。
「あ、すみません」
「よい。よく分からぬが、褒められたのであろう?」
「たぶん、それでいいです」
少女の半歩後ろには、護衛らしい男が立っていた。
工房へ入ってからも位置を変えず、少女と理央の間だけを一度見ている。
トルが説明した。
「理央さん、ゲンダイから来たみたいです」
「ほう?」
少女の目が理央へ戻った。
「澪さんと真壁さんを知ってて、押し入れの向こうから来たって」
「押し入れ?」
そこで初めて、少女の後ろにいた護衛の眉が動いた。
理央は自分から付け足した。
「帰る場所が分からなくなってます」
言葉にすると、まだ胸がきゅっと縮む。
さっきよりは落ち着いたと思っていたのに、「帰れない」はやはり別だった。
少女はそんな理央をしばらく見ていた。
「そうか。お主は澪の向こうの仲間なのだな」
「仲間っていうか、アルバイトで……」
「同じようなものだ」
「違う気がしますけど」
少女は気にしなかった。
「私はエレナだ」
「飯島理央です」
「では理央、案内してしんぜよう」
「え?」
話が一段飛んだ。
後ろの護衛がすぐ口を開く。
「姫様」
「なんだ、オスカー」
「どちらへ行かれるおつもりですか」
「理央に町を見せる」
「それは分かっています」
オスカーの返事があまりにも早い。
エレナも言い返すまでに迷わなかった。
理央は2人を交互に見た。
「今、止められてません?」
「止められておらぬ」
「行き先を聞かれています」
「同じではないか」
「同じじゃないと思います」
理央が言うと、オスカーがこちらを一度だけ見た。
何も言わず、すぐエレナへ視線を戻した。
結局、理央はエレナに連れられて工房の外へ出ることになった。
トルも当然のようについてくる。
ミラは一度机の上を見てから、残っているマルテへ声を掛けた。
「私も行きます」
「こちらは見ておきます」
マルテは理央へ視線を向け、それから工房の外へ誰かを呼んだ。
「こちらからも知らせる手配は進めます。あまり遠くへ行かないでください」
「はい」
理央は素直に答えた。
その横でエレナが目を逸らした。
オスカーがすぐ見る。
「姫様」
「まだ何も言っておらぬ」
「ですから申し上げました」
「何も言っておらぬのに?」
「今のうちに」
理央は口元を押さえた。
笑っていいところなのか判断がつかない。
ピナも手元の包みを棚へ置き、こちらへ来る。
それぞれが手元を片づけてから、工房の出口へ向かった。
外へ出ると、木の匂いが一気に薄れた。
冬の冷たい空気が頬へ当たる。
石畳には荷車の車輪の跡が残り、店先から煙が細く上がっていた。厚手の布を重ねた人々が行き交い、革靴の音と馬の蹄が混ざる。
理央は自分の服を見下ろした。
やっぱり浮いている。
エレナを先頭に歩き出す。
オスカーは半歩後ろ、少し横。
決まった位置なのだろう。人が近づけば、ごく自然にエレナとの間へ入れる距離だった。
「まず領都を見せる」
エレナが言う。
オスカーが即座に返す。
「まず、ですか」
理央が横を見る。
「今ちょっと引っ掛かりましたよね?」
「いつものことです」
「オスカー、余計なことを言うな」
理央は少しだけ肩の力が抜けた。
知らない世界なのに、こういうやり取りだけは妙に分かる。
通りを歩き始めてすぐ、理央はエレナが単なる動画モデルではないことに気づき始めた。
最初は、有名なのだと思った。ところが店先の人までエレナへ目を向け、通りを歩く者は少し道を空けていく。
動画に出たから、ではない。
そもそも、ここの人たちはあの動画を見ていない。
「姫様」
年配の男が頭を下げた。
理央はエレナを見る。
少し先では商人らしい女性まで、
「エレナ様」
と会釈した。
理央の歩みが遅くなる。
「……今、姫様って言いました?」
「エレナ様のことです」
トルは何を今さらという顔だった。
「え?」
エレナ本人が振り返る。
「侯爵家の者だからな」
「侯爵家?」
「うむ」
理央はエレナの顔を見直した。
あの動画では、家具の横で笑っていた女の子だった。
今は道の両側から「姫様」と声を掛けられている。
「……澪さん、侯爵家の人にモデルやってもらったの?」
「私は家具の横に立っただけだぞ」
「それがモデルなんです」
「そうなのか?」
「しかも侯爵家の人だったんですか?」
「そう言っただろう」
「今初めて聞きました」
理央は両手で額を押さえたくなった。
歩きながら、理央の視線がまた別のものへ吸われた。
目に入ったのは、また透明なペットボトルだった。今日だけでもう何本目か分からない。
今度は肩紐が赤い組紐で、途中に木珠が並んでいる。
「……またある」
ピナが理央の視線を追った。
「何がです?」
「ペットボトル」
「それですか?」
トルが指す。
「なんでそんなに普通なんですか……」
「水を入れるのに便利ですよ」
「便利なのは知ってる」
理央は首を振った。
「そこじゃないの」
別の店では、革紐へ布飾りを縫い付けている。
ペットボトル本体より、紐の方が手が込んでいた。
「それ、売ってるんですか?」
「紐ですか?」
ピナが聞く。
「たぶんもう、どっちでもいいです」
自分でも何を聞きたいのか分からなくなってきた。
馬車が横を通る。
その向こうを、肩掛けのペットボトルを揺らした少女が友人らしい子と笑いながら通り過ぎた。
理央はその背中を見送った。
「私、もうちょっと普通の異世界を想像してました」
理央が呟く。
「普通の異世界?」
エレナが聞いた。
「忘れてください」
説明出来る気がしなかった。
「次はあれだ」
エレナが前方を指した。
理央もそちらを見て、足を止めた。
ここまで歩いてきた町並みは、だいぶ目が慣れてきていた。
石畳を荷車や馬車が行き交い、木と石の建物の前には露店が並ぶ。その中を侯爵令嬢と歩くことにさえ、理央の目は少しずつ慣れてきていた。
その先に建っているものは、収まりが悪かった。
周囲の建物より明らかに高い。
窓が規則的に並び、人が出入りし、横から荷物まで運び込まれている。
理央は上まで視線を持ち上げた。
「……あれ、何ですか」
「セルマの新しい工房だな」
「工房?」
「薬を作る場所だ」
理央はもう一度、建物を上から下まで見る。
「異世界にビルがある……」
「ビル?」
トルが聞く。
「しかも5階くらいある……」
「5階だぞ」
エレナが普通に答えた。
「合ってるんだ……」
理央は口を半開きにしたまま、建物を見上げた。
5階建ての建物が薬を作る工房だと言われた直後、その目の前を馬車が通り過ぎた。
理央はその屋根越しに、もう一度工房を見上げた。
「……馬車の後ろに5階建て」
「何か変か?」
「変じゃないんですか?」
エレナの顔には、本当に疑問しか浮かんでいなかった。
エレナは入口の方まで歩き、建物を見上げた。
「中では薬を作り、学ぶ者もおる」
「学校みたいなこともするんですか?」
「そうだな」
理央の目が入口の奥へ向いた。
見たい。
ものすごく見たい。
でも、そこはさすがにオスカーが一歩前へ出た。
「ここは工房です」
「あ」
理央はすぐ足を止めた。
「ですよね。すみません」
「理央殿へ言ったわけでは」
オスカーの視線はエレナへ向いていた。
「なぜ私を見る」
「念のためです」
「入るとは言っておらぬ」
「今、入口を見ました」
「見るだけだ」
理央は口元を押さえた。
自分も同じことを考えていたので笑いにくい。
エレナが歩き出す。
「次は共同商館だ」
「……まだ大きい建物あるんですか」
「あるぞ」
即答だった。
理央が空を見上げると、そこには何の変哲もない冬の青空があった。それだけは妙に安心出来た。
共同商館も大きかった。
理央はもう驚かないつもりで入口をくぐった。
そして最初に天井を見た。
「……電気」
内部は明るかった。火の揺らぎもなく、窓から差し込む冬の日差しとも違う。
見慣れた種類の明かりが、異世界の建物の天井に点いている。
「はい」
ミラが普通に答えた。
理央は横を見る。
「はい?」
「電気ですよ」
今度はトルまで普通に言った。
「電気まで普通に知ってる……」
「澪さんに教わりました」
ピナも特に不思議そうではない。
「また澪さん……」
理央は小さく息を吐いた。
もう澪の名前を聞くたびに驚くのはやめよう。
そう決めた。
「下へ行くぞ」
エレナが階段へ向かう。
「下?」
「地下だ」
理央は決めたばかりの気持ちを取り消した。
階段を降りても暗くならず、明るさはほとんど変わらなかった。
先に届いたのは、焼いた肉や煮込み、パン、それに何か甘いものの匂いだった。
階段を降り切ると、料理の匂いに皿の触れる音や人の話し声が重なった。
いくつもの店で客が料理を受け取り、その先に並んだ共通の机と椅子では、家族らしい客も働いている途中らしい人も好きな場所へ座って食べている。
理央は階段の最後の一段で止まった。
「……フードコート」
「ふうどこおと?」
エレナが振り返る。
「店で買って、好きな席で食べるんですよね」
「そうだな」
トルも頷く。
「はい」
「フードコートじゃん」
ミラが首を傾げた。
「違うんですか?」
「違わないんですけど……」
理央は天井の明かりを見上げた。
「地下で電気までついてるのが困るんです」
「何が困るんです?」
「私にも分かんない」
理央は天井から店の並びへ視線を戻した。
どう見ても、知っている場所と使い方まで同じだった。
オスカーが理央の視線を追った。
「理央殿のゲンダイにも、似たものがあるのですね」
「似たものっていうか、そのものです」
「では便利なのでしょう」
「そうなんですけど……」
また正論だった。
理央は肩を落とした。
その横でミラ、ピナ、トルはもう店を見ている。
「何食べます?」
トルに聞かれた。
「今の流れでご飯決めるんですか?」
「昼ですから」
「そうだけど」
異世界でも昼は昼らしい。
そこへ、一人の少女が近づいてきた。
「姫様。今日はずいぶん賑やかですね」
声を掛けてきたのは、理央とそれほど年が離れているようには見えない少女だった。
けれど歩き方も、周囲の人との距離の取り方も、ミラたちとは違う。
食品街の店へ一度目をやり、人の流れを邪魔しない位置で止まる。
エレナが嬉しそうに手を上げた。
「ちょうどよいところへ来た」
「その言い方をされると、少し嫌な予感がするね」
少女はそう言いながら、理央を見る。
大騒ぎはしない。
ただ、理央の服と黒髪を順に見た。
エレナが理央を示す。
「理央だ。澪の向こうの仲間だそうだ」
「だから仲間っていうか……」
もう訂正しても無駄な気がしてきた。
「飯島理央です」
「リュシアだよ」
理央の目が少し開く。
「あ」
「何だい?」
「名前、聞いたことあります」
「澪からかい?」
「はい。会社の話で」
「なら話が早いね」
リュシアは理央の顔を見てから、トルへ目を向けた。
「どうしたんだい?」
トルは、理央がゲンダイから来たらしいことから、押し入れの向こうへ出て帰り道を見失い、澪と真壁を知っていることまでを手短に話した。
リュシアは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「そうかい」
それだけ言ってから理央へ戻る。
「災難だったね」
「はい……」
変に大げさに慰められないことが、かえってありがたかった。
理央は知らずに息を吐いた。
リュシアが首元のアメジストへ目を向ける。
「その首飾りは?」
理央もアメジストへ目を落とした。
「あ、これ、澪さんと一緒に作ったんです」
「理央も作るのかい?」
「彫金は少し」
「ゲンダイで習ったの?」
「父に教えてもらってます」
そこまで話してから、理央は銀線を指で触った。
「父も貴金属関係の仕事してるんです。修一郎っていうんですけど。澪さんは修さんって呼んでます」
リュシアの視線が、理央の顔で止まった。
「……修さん?」
理央の方が驚く。
「はい」
「澪が金属の話をする時に、名前を聞いたことがあるよ」
「父のこと知ってるんですか?」
「会ったことはないよ。名前を聞いてるだけだ」
理央はしばらくリュシアを見た。
それから首元のアメジストを見る。
「……お父さんまで出てくるんだ」
「出てくる?」
「こっちの話です」
理央はしばらく言葉が出なかった。
自分が知らないところで、父の名前までこの世界へ来ていた。
「澪さんって、大学生ですよね?」
誰に聞くでもなく呟いてから、理央は自分で首を傾げた。
大学生なのは間違っていない。
間違っていないはずなのに、それだけでは全然足りなくなっていた。
「では次だな」
エレナが言った。
理央は嫌な予感より先に疲労を覚えた。
「まだあるんですか?」
「飛行船だ」
理央が顔を上げた。
「飛行船?」
「うむ」
理央は一歩近づいた。
「本当に飛ぶやつ?」
エレナが眉を寄せる。
「飛ばぬ飛行船があるのか?」
「いや、そうなんだけど」
自分でも変な質問をしたと思う。
でも今日の異世界なら、何が出てもおかしくない。
オスカーがすぐ口を開いた。
「姫様」
「なんだ」
「町の外です」
「定期馬車に乗ればよい」
「そういう意味ではありません」
理央が固まった。
「……定期馬車に乗って、飛行船を見に行くんですか」
「はい」
トルは普通に答えた。
今いるのは電気の点いた地下のフードコートで、地上へ出れば石畳を馬車が走っている。その馬車に乗って町の外へ行けば、今度は飛行船があるという。
「馬車と飛行船が同じ世界にある……」
「何がおかしい」
エレナが本気で聞いてくる。
「そこ説明するの難しいです」
「見れば分かる」
「それは見たい」
即答してから、理央は口を閉じた。オスカーだけでなく、リュシアやミラたちまでこちらを見ている。
「……ちょっと」
声を小さくした。
エレナは満足そうだった。
「そうであろう」
そして本当に階段の方へ向かおうとした。
オスカーが一歩先に回る。
「姫様、理央殿は現在保護中です」
「私と一緒なら安全だ」
「そこではありません」
「ではどこだ」
オスカーが答える前に、リュシアが口を挟んだ。
「姫様、それは澪か真壁さんに話が通ってからにしましょう」
エレナが振り返る。
「オスカーまで同じことを言う」
「護衛ですので」
オスカーは即答した。
「理央は澪の知り合いだぞ」
「だからですよ」
リュシアは理央を見る。
「帰り道も分からないんでしょう?」
「はい」
理央は今度は素直に答えた。
そこを言われると弱い。
「澪にも真壁さんにも、まだちゃんと話が通っていない。領都の中ならともかく、今さらに町の外へ出ることはないよ」
「見るだけだ」
「定期馬車で町の外まで行くのを、見るだけとは言いませんよ」
ミラが頷く。
ピナも頷く。
トルまで頷いた。
エレナが3人を見る。
「お主らまで」
理央も分かっていた。
理央は一度口を閉じた。
スマホもバッグも六畳間に置いたままだ。帰り道だって分からないことは、ちゃんと分かっている。それでも、
「……ちょっと見たいです」
口から出た。
「だって飛行船ですよ」
リュシアが目を細める。
「……澪の知り合いですねえ」
エレナがすぐ胸を張る。
「ほら見ろ」
「姫様、味方が増えたわけではありません」
オスカーの声は変わらなかった。
理央はとうとう吹き出した。
笑ってから、自分でも少し驚いた。
飛行船行きは中止になった。
エレナだけは最後まで納得していない顔をしていたが、オスカーとリュシアに両側から止められ、ミラたちまで動かなかったので諦めたらしい。
結局、一行は食品街の席へ戻った。
「まず食べなよ」
リュシアに言われて、理央はようやく自分が空腹だったことに気づいた。
迷子の子供を追って押し入れを出てから、ずっと頭の方ばかり忙しかった。
温かい料理から湯気が上がる。
周囲では異世界の服を着た人たちが普通に食事をし、その頭上には電気の明かりが点いている。
少し離れた席では、肩掛けペットボトルを椅子の背に引っ掛けている人までいた。
理央は匙を持ったまま、それを眺めた。
「……もう普通に見えてきた」
「何がです?」
ピナが聞く。
「ペットボトル」
「便利ですから」
「うん。そうだね」
理央はもう言い返さなかった。
隣にはミラ、ピナ、トルが座り、エレナもまだ向かいにいる。少し離れたところでは、オスカーが食事より周囲へ目を配っていた。
リュシアは仕事へ戻る前に、ミラたちへ声を掛けた。
「理央を一人にはしないでね」
「はい」
「分かりました」
「任せてください」
3人の返事を聞いて、リュシアは理央へ向いた。
「澪たちへ話がつながれば、また動けるよ」
「はい」
帰れる、ではなく、また動ける。
理央はその言葉を、もう一度胸の中で繰り返した。
料理を口へ運びながら、理央は今日だけで何度「澪さん」という名前を聞いたのか数えようとした。
家具動画で見た工房にも、その中で働いていた職人にもつながっていた。動画で目立っていたエレナは侯爵家の令嬢で、町には5階建ての工房と共同商館があり、その地下にはフードコートと電気まである。
挙げ句に、リュシアは父の名前まで知っていた。
そして、まだ見ていない飛行船まであるらしい。
途中で数えるのをやめた。
「澪さん、本当にこっちで何してるんですか……」
向かいにいたエレナがすぐ答えた。
「まだ飛行船を見せておらぬぞ」
「……まだあるんですよね」
「ありますが、今日は行きません」
オスカーが間を置かずに言う。
「オスカー」
「行きません」
「まだ何も言っておらぬ」
「先ほど言われました」
リュシアも笑う。
「そこはオスカーの言う通りですよ、姫様」
理央は首元のアメジストを指でつまんだ。
帰り道はまだ分からず、スマホも六畳間に置いたままだ。
向かいではエレナがオスカーに文句を言い、隣ではトルが普通に昼飯を食べている。ミラとピナもいる。
理央はアメジストを指先で転がしながら、少しだけ笑った。