食べ終えた器を店へ返しても、理央の帰り道が増えるわけではなかった。
共同商館の地下1階には、まだ昼食の客が残っている。焼いた肉の匂いに煮込みの湯気が混じり、食器の触れ合う音があちこちから聞こえていた。頭上の照明は相変わらず明るく、異世界の地下にいることを忘れさせるには十分すぎる。
理央は卓へ戻ると、首元のアメジストを指で触った。
スマホも財布も持たず、帰り道も分からない。その事実だけは、いくら周りが賑やかでも変わらなかった。
「……まだ帰ってこないんですね」
向かいに座っていたトルが水を飲んでから答える。
「澪さんたちが、こっちにいるとは限りませんから」
「そうですよね」
澪なら何とかしてくれる。
そう考えた直後、そもそも澪が自分の居場所を知っているのかというところへ戻ってしまう。
エレナはそんな理央を見て、さも当然のように言った。
「来ればすぐ分かる」
理央は顔を上げた。
「それ、すごく頼もしいんですけど、根拠が姫様なんですよね」
「何か問題があるか?」
「ないです」
即答した。
実際、今はない。
オスカーが少し離れたところからこちらを見たが、何も言わなかった。
飛行船へ連れていこうとした時とは違い、エレナも共同商館から出ようとはしない。さっきまで不満そうだったのに、理央が待つと決めた途端、自分もここにいることを当然と考えているらしい。
ミラとピナも席を離れることはあっても、どちらかは理央の見えるところにいた。トルも店へ器を返しに行ったかと思えば、すぐ戻ってくる。
誰も「見張っている」という顔をしていない。
そのことが、理央にはありがたかった。
昼の客が一人、また一人と減っていった。
空いた卓を店の人が濡れ布で拭き、鍋から立ち上る湯気も細くなる。さっきまで料理を受け取る人で塞がっていた通路が広くなり、その代わり、店の奥では夕方へ向けた仕込みの音がし始めた。
理央は何度か時間を確かめようとして、そのたびスマホが六畳間にあることを思い出した。手元に時刻を確かめるものはなく、代わりに店の片づけと客の減り方ばかりが目についた。
その間にも時間は進んだ。
店員が昼用の札を片づけ、代わりに別の料理を並べ始める。人の声も一度落ち着き、地下の空気から昼休みの慌ただしさが抜けていった。
理央も、待つしかないことを少しずつ受け入れていた。
帰り道を探しに一人で歩くより、ここにいる方がいい。
今なら、それくらいは分かる。
首元でアメジストが照明を拾った。
紫色の小さな光を指先で転がしていると、階段の方から複数の足音が聞こえてきた。
今までの客とは少し違う。
若い声が重なっている。
理央がそちらを見ると、数人の少年少女が階段を下りてきた。
布袋を肩へ掛けた子。紙の束を抱えた子。木製の杖を持っている子もいる。杖の先を振り回す者はいなかった。身体の横へ寄せ、隣の子へ当たらないよう持っている。
先頭の少年がエレナを見つけた。
「あ、姫様だ」
続いて下りてきた少女もこちらを見る。
「こんにちは」
「こんにちは」
エレナは椅子に座ったまま片手を上げた。
「おお、お前たち。励んでいるようだな」
「今日は術式の続きでした」
「先生にまた直されましたけど」
「直されるうちは直せばよい」
理央はエレナと子供たちを交互に見た。
町を歩いていた時、人々は道を譲り、頭を下げていた。
この子たちは、姫様を見つけて普通に「こんにちは」である。
「知り合いなんですか?」
「うむ」
エレナが答えるより先に、トルが先頭の少年へ手を上げた。
「ラウ、お疲れ」
「トルもいたんだ」
「いたよ」
ミラとピナも顔見知りらしく、短く挨拶を交わしている。
そこで子供たちの視線が理央へ向いた。
黒髪。
見慣れない服。
珍しいことは隠しようがない。
ただし、寄ってきて取り囲むようなことはしなかった。少し距離を置いたまま、誰なのだろうと見ている。
理央の方は、子供たちの持つ杖と、紙の端を埋める見慣れない図形から目を離せなかった。
「この子たちは?」
「ヴァルトの弟子たちだ」
エレナがさらりと言った。
「弟子って……何の?」
「魔術だ」
理央の視線が杖へ戻った。
「魔法?」
「魔術です」
トルが訂正する。
「……やっと異世界っぽい」
口から出た。
エレナが眉を寄せる。
「今までの何が異世界ではなかったのだ」
「電気とフードコートとペットボトルが強すぎたんです」
弟子の一人が首を傾げた。
「ゲンダイの人?」
「そうだ。澪の向こうから来た」
エレナは説明を終えた顔をしている。
理央は思わず横を向いた。
「その説明で通じるんだ……」
「澪さんのところでしょう?」
「通じてる……」
しかも完全に。
もう一度ラウの杖を見たところで、理央の中に別の単語が飛び込んできた。
「魔法学校……ホグ◯ーツ!」
ラウが眉を寄せる。
「……何だ、それ」
「あ、いや、こっちの話。忘れて」
通じるはずがなかった。
理央は咳払いして、杖からラウの顔へ視線を戻した。
「学校じゃないんだ?」
「先生に習ってる」
「ちょっと聞いていい?」
「何を?」
「魔術の勉強って、普段何するの? 最初に何習うとか、何が大変とか」
ラウの目が少し細くなった。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「ネタ集め」
「ネタ?」
「……小説を書く時に使うんです」
トルが横から補足した。
「理央さん、作家なんですよ」
「作家?」
「見習いらしいですけど」
自分で言ってから、理央は少し遠い目をした。
異世界まで来て、鑑定された肩書きを自分から使うとは思わなかった。
ラウは抱えていた紙へ目を落とす。
「今日は術式だった」
「さっき言ってたやつ?」
「ああ。書いたのを先生に見せて、違うところを直す」
理央も紙へ目をやる。
「杖振るより、紙の方が多い日もあるんだ」
「今日はな」
「もっと、こう……大広間で一斉に魔法とか」
「何の話だ?」
「異世界なのに通じない……」
理央は肩を落とした。
ラウの口元がわずかに動いた気がした。
「詳しく知りたいなら、先生に聞いた方がいいぞ」
「先生?」
その時、隣にいた弟子が階段の方へ顔を向けた。
「先生」
理央もつられてそちらを見る。
少し遅れて、一人の男が階段を下りてくる。
細身の身体を包む外套の肩には外の冷気が残っているように見え、髪もきっちり整えているわけではない。疲れたような気だるさがあるのに、歩き方や荷の持ち方には妙な崩れがなかった。
弟子たちへ目を向けた時だけ、目元がわずかに柔らかくなる。
理央の手が止まった。
……え、ちょっと格好いい。
浮かんだ瞬間、自分で驚いた。
何考えてるんだ私。
異世界で迷子になっている最中である。
さっきまで帰れるかどうかを気にしていたはずなのに、男性を見て普通に格好いいと思った。
自分の頭は意外と元気だった。
男は弟子たちを見てから、エレナへ視線を移した。
「これは姫様」
「ヴァルト。お前の弟子たちと話していたところだ」
「そのようですね」
子供たちが自然に場所を空ける。
ヴァルトと呼ばれた男の視線が、最後に理央へ来た。
ほんの一瞬、止まった。
「……ん?」
理央も固まる。
「?」
見られている。
さっき自分が見ていたことは、たぶんばれていない。
そう思いたい。
ヴァルトはすぐ理央へ近づかず、エレナとオスカー、ミラたち、自分の弟子たちへ順に目を配ってから、最後にもう一度理央を見た。
その順番が妙に慎重だった。
黒髪の少女を見た瞬間、ヴァルトの記憶には、妙子と修の隣に17歳の娘が写っていた集合写真が浮かんでいた。
しかし、写真で見た姪が異世界の共同商館地下にいる、という結論へ飛びつくには状況が異常すぎた。
ヴァルトは理央へ近づく前に、周囲を見た。
拘束されてはいない。
怯えて逃げようとしている様子もない。
侯爵令嬢とその護衛がいて、押入商会の子供たちがそばにいる。自分の弟子まで普通に話している。
なら、まず確かめる。
鑑定を使った。
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飯島理央
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:作家見習い
レベル:5
前職:箱入り娘 Lv5
状態:異世界迷入中/軽度混乱
未使用SP:9
既得スキル:作文:6
既得スキル:彫金:4
未発現スキル:共鳴 芽あり
加護:成長促進
加護:見守り
注意:未使用SPあり
備考:アメジストのペンダントを装備中
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表示の一番上に出た名前を見た瞬間、写真の中の少女と目の前の少女が重なった。妙子と修の娘であり、自分から見れば姪にあたる。
ヴァルトは口を閉じた。
ここで名前を呼ぶのは簡単だった。
理央君。
妙子は元気ですか。
そう言えば、相手からいくらでも情報を引き出せる。
だから言わない。
理央本人が何を知っているのか分からない。澪や真壁がどこまで話しているのかも分からない。そもそも、なぜここにいるのかさえ聞いていない。
自分だけが持っている情報を先に渡す理由はなかった。
エレナが少女を手で示した。
「理央だ。澪の向こうから来たそうだ」
「飯島理央です」
本人の口から出た名前も、鑑定結果と一致した。
「ヴァルトです」
ヴァルトはそれだけ返した。
理央は少しだけ肩透かしを食らったような顔をしたあと、まだこちらを見ていることに気づいたらしい。
「何か?」
「いえ」
ヴァルトは鑑定表示を消した。
その時、別のものが引っ掛かった。
鑑定が弾かれたわけではない。
表示に乱れはなく、拒絶もない。
それでも境界の感覚を広げたまま理央を見ていると、彼女の周囲に妙な偏りがあった。
結界とは違う。
人を近づけない壁でもない。
理央と周囲との間にある、ごく薄い境目が時折ずれる。
見落としても不思議ではないほど小さい。
ヴァルトは少し角度を変えた。
理央本人ではない。
衣服でもない。
境界の揺らぎを追うと、胸元の紫色へ集まっていく。
アメジスト。
「……これか」
「え?」
理央が自分の胸元を見る。
「これ、何か変ですか?」
手がペンダントへ伸びる。
ヴァルトは触らなかった。
加護が付いている物を、持ち主の許可もなく弄る理由はない。
「いや。よく出来ていますね」
「……ありがとうございます?」
理央は分からないまま礼を言った。
彫金4。
なるほど、本人が作ったのなら不自然ではない。
鑑定に出た「共鳴 芽あり」も気にはなったが、今は胸元の加護の方が先だった。
「そのペンダントは、どなたから?」
「澪さんと一緒に作ったんです。石は私が選んで、銀線のところも教えてもらって」
「なるほど」
「それが何か?」
「少し気になっただけです」
ヴァルトはそれ以上説明せず、ペンダントから視線を外した。
エレナが横から口を挟んだ。
「理央は押し入れを越えてきたそうだぞ」
ヴァルトの目が動く。
「押し入れを?」
「子供を追いかけてたら、こっちに来ちゃって」
理央が困ったように笑った。
「帰ろうとしたら、戻るところが分からなくなりました」
ヴァルトは返事を急がなかった。
迷子になった少女。
なのに、今は共同商館にいて、エレナや押入商会の者に囲まれている。
胸元には、見守り。
境界の揺らぎは、まだ消えていなかった。
六畳間の玄関が開いた時、澪はミニテーブルの前に膝をついたままだった。
「澪君」
真壁の声に顔を上げる。
外はもう冬の夕方だった。
窓から入る光は薄く、朝から動いたままの暖房だけが部屋をいつも通りの温度に保っている。
理央のスマホも、バッグも、開いたジュエリーの本も、そのままだ。
真壁は上着を脱ぐより先に押し入れへ目を向けた。
「燭台の表示は?」
「異世界側へ越境。帰還未確認です」
「うむ」
それだけ聞くと、真壁はミニテーブルの横へしゃがんだ。
真壁は残された物を一通り見渡した。
「持ち出した物は見当たらないな」
「はい」
「ならば、準備して出たわけではない」
澪の胸がまた詰まる。
「子供の声を追ったんだと思います」
「そうだろう」
真壁は押し入れの襖へ手を掛けた。
「まず事業所へ行こう」
澪は一瞬、押し入れの向こうの市場と、普段使う地図に載った町の道筋を思い浮かべた。どこから探し始めるべきか考えかけたところで、理央の位置を示すものは何もないと気づく。
「事業所ですか?」
「理央君は押入商会を知っている。現地で誰かに拾われれば、そこへつながる可能性が高いではないか」
真壁はもう襖を開けている。
「見つからなければ次へ進めばよい」
「……はい」
考え始めると、澪は全部の可能性を同時に持とうとする。
真壁は一本ずつ潰していく。
今はその方がありがたかった。
シロガネが澪の肩へ乗る。
『行くぞ』
「はい」
押し入れを越えた瞬間、空気が変わった。
暖房の乾いた暖かさが消え、冷たい風と土の匂いが頬へ当たる。煙、料理、人の声。六畳間に置き去りにしてきた静けさとはまるで違う。
澪は無意識に、人混みの中から黒髪とゲンダイの服を探した。理央の姿が目の前にいるはずもない。
「澪君」
真壁が呼ぶ。
「はい」
「事業所だ」
分かっている。
澪は歩き出した。
市場を抜ける間も、人の顔を見てしまう。
理央なら目立つ。
誰かが見ていないか。
何か騒ぎになっていないか。
それでも足は止めなかった。
家具工房の一角にある事業所へ入ると、マルテがすぐ顔を上げた。
「澪さん」
「理央ちゃん、来ませんでしたか?」
挨拶より先に名前が出た。
マルテは驚かなかった。
「来ました」
その一言で、澪の肺に空気が戻った。
「怪我は?」
「こちらへ来た時にはありませんでした。トルが連れてきました」
膝から力が抜けそうになる。
けれど、まだ顔を見ていない。
「今はどこですか?」
「エレナ様たちと共同商館です。ミラ、ピナ、トルも一緒です」
エレナ様。
澪は一瞬だけ別の意味で不安になった。
横で真壁の口元がほんの少し動いた。
「場所が分かった。行こう」
「はい」
マルテへ頭を下げ、すぐ外へ出る。
共同商館までの道は知っている。
真壁も転移を使おうとはしなかった。人の行き交う領都の中で無理に飛ぶより、足で向かう方が確実だった。
澪は歩幅を速める。
シロガネは肩の上で一言も話さない。
ゲンダイ側では届かなかった「見守り」が、同じ世界へ来た今なら何か分かるのではないかと聞きたくなったが、まず理央の顔を見るまでは余計なことを考えないことにした。
そう決めても、共同商館の入口が見えた瞬間には、澪はもう走りかけていた。
地下へ下りる途中で、料理の匂いがした。
夕方へ向けた仕込みが始まっているらしく、昼とは違う香辛料の匂いが階段まで上がってくる。
澪は最後の数段を急いだ。
照明の下に卓が並ぶ。
人影を探す。
エレナ。
オスカー。
ミラ。
ピナ。
トル。
見慣れた顔が次々に目へ入って、その中に黒髪を見つけた。
「理央ちゃん!」
声が思ったより大きく出た。
理央が振り向く。
「澪さん!」
椅子が床を擦った。
立ち上がった理央の顔を見た瞬間、澪は周囲の音が一度遠くなった。
理央はちゃんとそこに立っていて、見える範囲に怪我もない。
澪が近づくと、理央は何か言いかけた。
「すみません、私――」
「それはあとです。怪我してませんか?」
「大丈夫です」
「手は?」
「大丈夫です」
「足も?」
「はい」
理央が両手を見せる。
澪はそれを見てから、袖、顔、髪へ視線を移した。
泥が少し付いている。
でも血はない。
ようやく肩から力が抜けた。
「無事だったか、理央君」
少し遅れて真壁が来る。
「はい……」
理央の返事が急に小さくなった。
それまで平気そうにしていたのに、知っている顔を見た途端、緊張の置き場所がなくなったように見える。
澪はその様子を見て、胸が痛んだ。
何時間、一人で帰れないと思っていたのだろう。
『無事で何よりだ』
肩の上でシロガネが言った。
理央は反応しない。
聞こえていない。
澪はシロガネへ頷こうとして、その身体がわずかに固くなったことに気づいた。
『ある』
「え?」
『見守りだ』
シロガネの視線が理央の胸元へ向いている。
紫のアメジスト。
『残っておる。働いておるな』
澪は息を止めた。
「分かるんですか?」
『ここならな』
消えていたわけではない。
届かなかっただけ。
理央と一緒に、向こうへ渡っていた。
澪はアメジストを見つめた。
その視線の先に、もう一人いた。
ヴァルト。
弟子らしい子供たちの近くに立ち、こちらを見ている。
「ヴァルトさん?」
「澪さん」
いつもの声だった。
けれど、その視線が一度だけ理央へ戻った。
理央の隣に立つヴァルトを見た瞬間、澪の頭には妙子さんと、あの集合写真が浮かんだ。
まさか、ここで会うとは思っていなかった。
澪は口を開きかけて、閉じた。
ヴァルトが何も言っていない。
なら、自分から言うことではない。
真壁もヴァルトを見たが、すぐ理央へ戻った。
「トル君」
「はい」
「理央君を見つけた時のことを聞きたい。最初から話してくれ給え」
トルが背筋を伸ばす。
「市場です。みんなが同じところ見てて、何だろうって思って」
「同じところ?」
「理央さんです。でも、見てるのに近くに誰もいなかったんです」
澪が顔を上げる。
「誰も?」
「周りだけ、ちょっと空いてました。それで黒髪だったから、最初は澪さんかと思って」
「私?」
「違ったんで、声かけました」
トルはそこまで言って、理央を見る。
「子供と一緒にいたんです」
「迷子の子です」
理央が補足した。
「お母さん探してました」
澪は朝のRightInを思い出した。
やっぱり。
あの声を放っておけなかった。
怒る気にはなれなかった。
注意を破ったことと、子供を助けたことは別だ。
帰ってから話せばいい。
今は無事だったことの方が大きい。
「それで、押入商会を知ってるって分かって」
トルが続ける。
「事業所へ連れてきました」
「そこへ私が行った」
エレナが当然のように口を挟む。
「はい」
理央が乾いた声を出した。
「そこから姫様に案内されて、リュシアさんにも会いました」
「リュシアさんにも?」
「お父さんの名前まで知ってました」
理央はまだ信じられないという顔をしている。
澪の視線がヴァルトへ行きそうになり、途中で止めた。
今はそこではない。
シロガネが理央のアメジストをじっと見ていた。
ヴァルトは、少し離れた位置から理央たちを見ていた。
澪が現れた瞬間の理央の反応に加え、鑑定で出た名前と本人の名乗りが重なり、真壁も迷わず「理央君」と呼んだ。もう取り違えを疑う余地はなかった。
姪という言葉だけは、まだ胸の内に置いた。
ヴァルトはトルの話をもう一度頭の中でたどった。
「トル君」
「はい」
「市場で飯島さんを見つけた時、周囲が空いていたと言いましたね」
「はい。みんな見てるのに、そこだけ入りにくいみたいな」
「理央さんが誰かを避けていたわけでは?」
「違います。子供と話してました」
ヴァルトはトルへ礼を言い、澪と真壁へ目配せした。理央たちの卓から数歩離れたところへ移ると、シロガネを肩に乗せた澪と真壁も続く。
理央の姿は見えるが、細かな話をするにはこちらの方がよかった。
ヴァルトはアメジストへ目を移した。
「澪さん」
「はい」
「この加護について、効果まで聞いていましたか」
澪もペンダントを見る。
「見守り、っていう名前だけです。何をするのか聞いても……」
肩の上の白猫へ目を向けた。
「見守る、としか」
「私もそれ以上は聞いていないな」
真壁が言う。
シロガネは当然のように尻尾を動かした。
『見守っておるだけだ』
ヴァルトは一瞬黙った。
「神様にとっての『だけ』は、少々意味が違うようですな」
『何がだ』
真顔で返された。
澪の口元が少しだけ緩む。
ヴァルトは理央へ視線を戻した。
「私が飯島さんを鑑定した時、加護とは別に境界の動きが見えました」
「境界?」
「ええ。鑑定を拒むものではありません。私の術に反応して防いだわけでもない」
真壁が腕を組む。
「では常時作用か」
「少なくとも、今のところはそう見えます」
ヴァルトは言葉を選んだ。
魔術式なら構造を追えばよい。
だが神の加護を、既知の術式と同じものとして断定する気にはなれない。
「飯島さんと周囲の境目が、時々ずれます。壁ではない。誰かを押し退けてもいません」
澪の眉が寄った。
「市場で、理央ちゃんの周りだけ空いていた……」
「ええ。危険になりそうな接触が成立しにくい方向へ、外れているように見えます」
「それだけではないな」
真壁がトルのいる方を見る。
「理央君はその場でトル君に見つけられた」
「その後は事業所でミラちゃんたちに保護されて、エレナ様と会って……リュシアさんまで」
澪が指を折る代わりに、理央たちの卓へ目を向けた。
真壁が続ける。
「エレナ嬢、リュシア君。そして君か」
「ええ」
ヴァルトも理央を見る。
エレナが何か話し、理央が返している。その横ではオスカーが相変わらず周囲へ目を配っていた。
「ただし、誰かの意思を操っているとは考えない方がいいでしょう」
澪が顔を上げる。
「理央ちゃんが子供を助けたのは、理央ちゃん自身です」
「そうです。押し入れを越えたのも本人の判断ですし、トル君が声を掛けたのも、彼が人の流れに気づいて自分で動いたからです」
「私が案内したのも私だぞ」
離れたところからエレナが聞きつけた。
「はい。その通りです」
ヴァルトは否定しなかった。
オスカーが小さく息を吐いたように見えた。
「加護が人を操っているのではなく、本来起こり得る出来事の中で、危険な方とは接触しにくく、助けになる方とはつながりやすくなっているのでしょう」
澪は肩のシロガネへ手を添えた。
「じゃあ、私たちがここへ来たのも?」
「それは違うでしょう」
ヴァルトはすぐに答えた。
「澪さんと真壁殿は、自分で六畳間を調べ、こちらへ渡り、事業所で所在を聞いて共同商館まで来た。加護がここへ引き寄せたわけではありません」
真壁の目が細くなる。
「なるほど。そこまで理央君を安全な側から外さなかった、ということか」
「私はそう見ます」
ヴァルトはアメジストを見る。
紫色の石が照明を受け、理央が動くたび胸元で揺れる。
「危険を遠ざけ、必要な縁を結び、助けの手が届くところまで守る。ただし、本人に代わって選ぶことはしない」
澪はしばらく何も言わなかった。
大学の廊下でシロガネが「感じられぬ」と言った時、どんな顔をしていたのかはヴァルトには分からない。
けれど今、肩へ置いた手から力が抜けていくのは見えた。
「世界を越えたから、シロガネから分からなくなっただけだったんですね」
『そういうことだ』
「加護は理央ちゃんと一緒に行ってた」
『我が付けたものだからな』
「先にそれ言ってください」
『聞かれなかった』
澪が言葉に詰まる。
真壁がごく小さく口元を緩めた。
ヴァルトは境界の感覚をもう一度広げた。
今度は鑑定を使わない。
理央の周囲にある、ごく薄い偏り。
その中心にあるアメジスト。
そして澪の肩にいるシロガネ。
先ほどまで由来の分からなかった感触が、今は同じ性質のものとしてつながる。
理央が笑った。
エレナがまた飛行船の話を始め、オスカーが「今日は行きません」と返したらしい。
写真で見た妙子の娘は、異世界の侯爵令嬢と並んで笑っている。
妙子や修、そして家族について聞きたいことは山ほどあるが、それを口にする時ではなかった。
ヴァルトは理央から胸元の紫色へ視線を落とし、そこからシロガネへ目を移した。
「――なるほど。『見守り』ですか」