共同商館地下1階の食品街は、昼の混雑が引いたあとも完全には静かにならなかった。
空いた卓を拭く布の音に混じって、奥の店では夕食用らしい鍋が火に掛けられている。
焼いた肉と煮込みの匂いが暖かな空気に重なり、頭上の電気照明は時間に関係なく同じ明るさで床を照らしていた。
澪は理央の胸元にあるアメジストから目を上げた。
その向こうにヴァルトがいる。
さっきまで「見守り」の働きを説明していた時と同じ、少し力の抜けた穏やかな顔だった。
けれど、理央については何も聞かない。
妙子の名前も出さない。
理央の名を知ったあとも、それ以上踏み込まなかった。
真壁も黙っている。
澪は2人を見比べて、口を開きかけた。
やめた。
聞かなくても、今日はここまでにした方がいい。
理央は朝まで異世界の存在さえ知らなかったのだ。
それが今では、侯爵家の令嬢と町を歩き、5階建ての工房を見上げ、地下の食品街で食事をし、魔術師の弟子たちと話し、飛行船まで見たがっている。
そこへさらに別の話を重ねる必要はない。
「理央ちゃん。今日は戻りましょう」
理央が、ぱちりと目を瞬いた。
「戻るんですか?」
「はい。明日、また来ましょう。今度は私も一緒に案内しますから」
「明日も来ていいんですか?」
驚きのあとに、期待がそのまま顔へ出る。
澪は少しだけ苦笑した。
「ここまで知ってしまいましたから、もう押し入れの前で目隠ししても遅いでしょうし」
「そこまでする予定だったんですか」
「してません」
即答したところへ、エレナが身を乗り出した。
「では、明日は飛行船だな」
「姫様」
半歩後ろのオスカーが、待っていたように声を掛ける。
「今日は行かなかっただけであろう。明日ならよいではないか」
「明日ならよいという話にはなっておりません」
「澪も一緒だぞ」
「澪殿が同行することと、飛行船見学の許可は別です」
理央の視線が澪へ向いた。
分かりやすい。
見たい、と顔に書いてある。
澪は真壁へ助けを求めた。
真壁は食品街の出口側を見ていた。
こちらを見もしない。
「……飛行船は、明日考えます」
「まだ保留なんですか」
「保留です」
エレナが不満そうな顔をする横で、オスカーだけがわずかに息を吐いた。
理央はミラ、ピナ、トルへ礼を言い、エレナとオスカーにも頭を下げる。
それから最後にヴァルトへ向き直った。
「ヴァルトさんも、ありがとうございました」
「いえ」
ヴァルトはそれだけ返した。
理央が澪の方へ戻る。
その時、澪とヴァルトの目が合った。
ほんの一瞬だった。
ヴァルトは何も言わない。
澪も聞かない。
それでよかった。
今は、理央を無事に六畳間へ戻す。
それが先だ。
澪はシロガネを肩に乗せ直し、真壁と理央と一緒に共同商館を出た。
夕方の領都には、昼とは違う忙しさがあった。
店じまいを始めた露店の横では、夕食の材料を求める客がまだ品物を覗き込んでいる。
木箱を積み直す音、荷車の車輪が石畳をこする音、炭を運ぶ男の掛け声が狭い通りへ重なっていた。
冷え始めた風の中に、焼いた肉と薪の煙の匂いが流れてくる。
理央は澪のすぐ隣を歩いていた。
昼間、一人で同じような通りを歩いていた時とは、足元の感覚まで違う。
どこへ行けばいいか分かるだけで、石造りの家並みも人の多さも、さっきほど怖くは見えなかった。
「離れないでくださいね」
澪が横から念を押す。
「今日はもう離れません」
理央は素直に答えた。
澪は一歩進んでから、今の言葉を頭の中で反芻した。
「今日は、って言いました?」
「言ってません」
「言いましたよね」
「気のせいです」
理央が少しだけ歩調を速めた。
追いつこうとしたところで、道の端から低い声がした。
「……おい」
理央が振り向く。
壁際に数人の男がいた。
身なりは商人より雑で、昼間にも見た気がする。
あの時も自分を見ていたのに、誰も近づいてこなかった連中だ。
「あれ、昼間の黒髪じゃねえか」
一人が言い、隣の男が理央を見る。
その視線が澪へ移り、最後に数歩前を歩いていた真壁で止まった。
男の顔が固まった。
「……真壁じゃねえか」
杯を持っていた男の手が止まる。
別の男は理央と真壁をもう一度見比べ、それから胸をなで下ろした。
「やっぱり真壁の一味じゃねーか」
「だから言ったろ。声掛けなくて正解だったんだよ」
「俺、何もしてねえぞ」
「俺もだ」
「今日は善良に生きたからな」
「毎日そうしろよ」
理央の足が止まった。
澪もつられて止まる。
真壁が数歩先から振り返った。
「どうしたね」
「……真壁さん」
「うむ」
理央は男たちへ視線を戻す。
さっきまでこちらを見ていた全員が、急に壁や地面へ興味を持ったような顔をしていた。
「やっぱり何かしてますよね」
「何のことだね」
「何もしてない人を見た反応じゃないですよ」
真壁は男たちを一度だけ見た。
誰も目を合わせない。
「必要なことしかしていないが」
理央はしばらく真壁を見つめ、それから澪へ顔を向けた。
「その答え、怖くないですか」
「……まあ」
「澪さんまで言葉を濁した」
「真壁さんの『必要』は範囲が広いんです」
「それ、全然フォローになってませんよ」
澪は否定出来なかった。
真壁はすでに歩き始めている。
理央も慌ててついていったが、途中で何度か後ろを振り返った。
男たちは最後まで、こちらを見なかった。
押し入れを抜けると、冷えた空気が途切れた。
理央は六畳間へ戻ったところで足元を見て、そのまま固まった。
「あ……」
朝、澪に出してもらった客用のスリッパだった。
そのまま異世界へ入り、石畳や市場を歩き回ってきたのだから、底がどうなっているかは見るまでもない。
理央は片足を上げ、恐る恐る裏を覗いた。
「ごめんなさい。これ、洗います」
澪も足元を見る。
何を謝られたのか分かると、張っていたものが少し緩んだ。
「それはいいです」
「でも、外をずっと歩いちゃって」
「スリッパは洗えば済みますから」
「……いいんですか?」
「そこはいいです」
澪は即答した。
押し入れを開けたことも、異世界へ入ったことも、帰る場所を見失ったことも、あとで話す必要がある。
けれど、借りたスリッパを汚したことまで同じ話にするつもりはなかった。
「むしろ、それを最初に謝るんですね」
「だって、借り物ですよ」
「理央ちゃんらしいというか……」
理央は汚れたスリッパを脱ぎ、あとで洗うつもりなのか、左右をきちんと揃えて端へ寄せた。
それから改めて畳へ足を下ろし、そのまま動かなかった。
暖房の乾いた空気が頬に触れる。
机の上には朝のままのジュエリーの本が開いており、銀線と彫金道具も残っている。
バッグもスマホも、置いていった位置からほとんど動いていなかった。
数時間前まで、ここでアクセサリーの話をしていた。
それなのに、押し入れの襖がもう同じものには見えない。
この向こうに市場がある。
侯爵令嬢がいる。
5階建ての工房があり、地下にはフードコートみたいな食品街があり、魔術師がいて、飛行船まである。
理央はスマホを手に取って、ようやく息を吐いた。
「……帰ってきた」
その声を聞いて、澪の肩からも力が抜けた。
見つかるまで、考えないようにしていたことがいくつもあった。
怪我をしていたら。
誰かに捕まっていたら。
もっと遠くへ行っていたら。
けれど理央には怪我もなく、置いていったスマホもここにあり、こうして六畳間まで戻ってこられた。
頭の中に居座っていた最悪の想像が、ようやく一つずつ形を失っていく。
それだけでいい。
真壁も靴を脱ぎ、いつもの位置へ腰を下ろした。
澪もミニテーブルの前に座る。
理央の手が止まった。
2人を見比べる。
「……まだ終わってない感じですか?」
「はい」
澪が答えると、理央の肩が落ちた。
「水、飲んでからでもいいですか」
「もちろんです」
理央はペットボトルを開けて、一口、二口と飲んだ。
それから諦めたように澪たちの向かいへ座る。
シロガネは澪の肩で前足を揃え、燭台はいつもの場所にいる。
理央はスマホを横に置いた。
その画面に残っている着信履歴とRightInの送信履歴が、これから始まる話の最初の証拠になった。
「最初から聞かせてください」
澪が言うと、理央は小さく頷いた。
朝、澪と真壁が出たあと、一人で六畳間に残っていたこと。
押し入れの向こうから子供の泣き声がしたこと。
最初は無視しようとしたが、何度も助けを求める声が聞こえたこと。
「ちゃんと澪さんに電話したんです」
「履歴は見ました」
「RightInも送りました」
「それも見ました」
「返事、なかったですよね」
「講義中でしたから」
「ですよね」
少しだけ理央の声が強くなる。
そこへ澪は、聞かなければならないことを置いた。
「押し入れを開けないでって言ったの、覚えてました?」
勢いが消えた。
「……覚えてました」
「触らないでとも言いましたよね」
「はい」
「それでも開けた?」
理央は手元のペットボトルへ目を落とした。
「……はい。でも、本当に見るだけのつもりだったんです」
真壁が口を挟んだ。
「そこは分けよう」
理央が顔を上げる。
「開けたことと、境界を越えたことは別だ」
「はい」
「開けたら子供がいた」
「いました」
「子供が向こうへ走った」
「はい」
「追った?」
「……はい」
真壁は責める口調ではない。
ただ、順番を外さない。
「スマホは持ったか」
理央の目が、横に置いたスマホへ動く。
「置いていきました」
「バッグも」
「はい」
「越境した場所を覚えていたか」
「その時は、すぐ戻るつもりだったので……」
「覚えていなかった?」
「……はい」
澪は理央の指先を見る。
ラベルの端を、爪で小さくなぞっている。
理央は約束を忘れていたわけではない。
破ったと分かっている。
そのうえで、泣いている子供を放っておけなかった。
そこまで全部まとめて「駄目だった」と言うのは違う。
「子供を助けようとしたことは責めません」
理央が顔を上げた。
「でも、押し入れを開けたことと、向こうへ入ったことと、戻る場所を確認しないまま離れたことは、それぞれ別です」
真壁も続ける。
「それに、スマホもバッグも六畳間へ置いたままだった。誰にも行き先を伝えられない状態で越境地点から離れたことも問題だ」
「……はい」
「次に似たことが起きても、一人で境界を越えないことだ。やむを得ず動くなら、少なくとも戻る位置を見失わず、事情を知る者と一緒に動く」
「はい」
今度の返事には言い訳がなかった。
澪も息を置いた。
「理央ちゃんが何もしないで、子供を泣かせておけばよかったとは思ってません。ただ、自分まで帰れなくなったら、助けなきゃいけない人が増えるだけですから」
「……すみません」
「分かってくれればいいです」
理央の肩がようやく少し上がる。
真壁もそれ以上は追わなかった。
これで一区切り。
澪が水へ手を伸ばした。
その時、理央が口を開いた。
「……でも、私からも聞いていいですか?」
澪の手が止まった。
「はい?」
理央は手元のペットボトルをテーブルへ置いた。
そして、それを指差す。
「まず、これです」
「これ?」
「ペットボトル」
澪は嫌な予感がした。
「……はい」
「なんで異世界の人が、普通に肩から下げて歩いてるんですか?」
理央の目には、昼間見た町の人たちがまだ残っているらしい。
澪は言葉を選んだ。
「最初に空のペットボトルを持ち込んだのは私です。でも、肩から下げる形まで全部私が考えたわけではなくて、現地で使いやすいように変わっていったんですよ」
「最初は澪さんなんですね」
「……はい」
理央が人差し指を立てる。
「じゃあ次。電気」
「……はい」
「共同商館、普通に電気ついてましたよね」
「ついてましたね」
「ミラちゃんたちも『電気ですよ』って普通に言いました」
「前に教えたことがありますから」
理央の眉が動いた。
「澪さんが?」
「……はい」
指が2本になった。
澪はそこで気づいた。
これは説明を求められているのではない。
数えられている。
真壁は横で何も言わない。
「電気そのものを全部私が作ったわけじゃないですよ。設備は別の人たちも――」
「でも、教えたのは澪さん」
「そこは、はい」
「ペットボトルも澪さん」
「最初だけです」
「最初は澪さん」
「……そうですね」
理央の声に、さっきまでの小ささはもうなかった。
澪は水を飲むのを諦めた。
「じゃあ、あのビルみたいな工房」
理央の指が3本目へ移った。
「新しいセルマさんの工房ですね」
「5階くらいありましたよね」
「地上は5階です」
「異世界ですよね?」
「異世界です」
「澪さん、関係あります?」
澪は一瞬、真壁を見た。
「あれは真壁さんとセルマさんが中心ですよ。工房を実際に使うのもセルマさんたちですし」
「関係あります?」
「……あります」
「ありますよね」
理央が4本目の指を立てる。
「共同商館」
「それも私一人ではありません」
「関わってます?」
「……はい」
「地下のフードコート」
「食品街です」
「名前の話してないです」
「……関わってます」
5本目。
澪は自分の手ではないのに、指が増えるたびに追い詰められていく気がした。
「あと飛行船」
その単語が出た瞬間、澪は反射的に真壁を見た。
「飛行船は真壁さんとヴァルトさんが――」
「澪君も最初から関わっている」
真壁が淡々と言った。
澪はゆっくり顔を向けた。
「真壁さん?」
理央がすぐに追う。
「ほら」
「真壁さんとヴァルトさんの技術比重が大きいんです。私は全部作ったわけじゃありません」
「全部作ったかどうか聞いてないです」
「……はい」
「関わってますよね?」
「関わってます」
理央は片手の指が足りなくなり、反対の手へ移った。
「家具の動画も澪さんでしたよね」
「撮ったのは私ですけど、家具を作ったのは職人さんです」
「エレナ様をモデルにしたのは?」
「……私です」
「また澪さん」
「動画を撮っただけですよ」
「でも澪さん」
同じ言葉が返ってくる。
澪にとっては、どれも最初から大きな何かを作ろうとして始めたことではなかった。
家具を売るために見せ方を考え、水筒が足りなければ手元にある物を持ち込み、知らない電気のことを聞かれれば教えた。
工房が手狭になればセルマや真壁が動き、商人が集まれば共同で使える場所が必要になる。
その延長に飛行船まで混じっているのは、かなり真壁のせいだと思う。
「本当に、私一人でやったことじゃないんです」
澪が言うと、理央も素直に頷いた。
「それは分かりました」
助かった。
そう思った直後だった。
「でも、全部に澪さんいますよね」
澪は黙った。
真壁へ視線を送る。
真壁は一拍考えた。
「それは、そうだな」
「真壁さん……」
味方がいない。
「あと、ミラちゃんたち」
理央が言った。
澪は嫌な予感をさらに強くした。
「事業所の?」
「はい。あの子たち、澪さんのことすごく好きですよね」
「それは……ありがたいですけど」
「好きっていうか」
理央が少し考え、ぴたりと澪を見た。
「崇拝じゃないですか」
「違います!」
今日一番速く声が出た。
理央が目を丸くする。
澪自身も、少し声が大きかったと気づいた。
「でも、澪さんがいないところでも、最初に澪さんの名前が出るんですよ」
「私だけじゃないです。真壁さんも、リュシアさんも、マルテさんも、教会の方も関わってます」
「正確には澪君一人の仕事ではない」
真壁が助け舟を出した。
澪は勢いよく頷く。
「そうです」
「まあ、澪君は孤児院でも――」
真壁の言葉が止まった。
澪は何も言わず、ゆっくりと顔を向けた。
六畳間の空気が重くなる。
ゴゴゴゴゴ……。
実際には何の音もしていない。
それでも真壁は視線を外した。
「真壁さん?」
「……いや」
「孤児院?」
理央が即座に拾った。
「拾わなくていいです」
「今、孤児院って言いましたよね」
「真壁さんが余計なことを言っただけです」
「事実ではあるが」
ゴゴゴゴゴ……。
澪はもう一度真壁を見る。
「真壁さん?」
真壁が黙った。
理央は完全に興味を持っている。
「澪さん、孤児院でも何したんですか?」
「何もしてません」
真壁が口を開きかけた。
澪が見る。
閉じた。
「いや、絶対何かしてますよね」
「本当に、孤児院を運営しているのは司祭様とシスターです。私は運営してません」
「孤児院はあるんですね」
「あります」
「関わってないんですか?」
澪の頭には、もやしを育てた時のことから、水や冬支度のこと、衛生設備を整えた時のことまで、孤児院で子供たちが手を動かしていた光景が次々と浮かんできた。
ここで全部を口にしたら、自分から理央へ材料を渡すことになる。
「……関わってはいます」
「ほら!」
理央が両手を広げた。
「事業所だけじゃないじゃないですか」
「必要な時に手伝っただけです」
「またそれ」
「本当にそれだけです」
「真壁さん」
理央が真壁を見る。
澪も見る。
真壁は数秒考えたあと、何も言わなかった。
「そこで黙るんですか」
「今は黙った方がよさそうだ」
「正解です」
澪は即答した。
理央は両手を見下ろした。
もう指だけでは足りないらしい。
「ちょっと待ってくださいね」
「まだ数えるんですか」
「ペットボトル」
理央が1つ目を折る。
「電気」
2つ目。
「5階建ての工房」
3つ目。
「共同商館」
4つ目。
「地下のフードコート」
「食品街です」
「そこはもういいです」
5つ目。
「飛行船」
反対の手へ移る。
「家具の動画」
さらに1つ。
「事業所の子たち」
もう1つ。
「孤児院」
理央の指が止まった。
それから、ゆっくり澪を見る。
「澪さん」
「はい」
「この世界で何してるんですか?」
澪は答えようとして、言葉が出なかった。
一つ一つなら説明出来る。
家具を形にするのは職人で、セルマの工房を使うのはセルマたちだ。
共同商館にも多くの商人や職人がいて、孤児院を担っているのは司祭様とシスター、領都のことを決めるのは侯爵家になる。
飛行船だって真壁とヴァルトの技術がなければ存在しないのだから、自分が全部を動かしているわけではない。
それは確かなはずなのに、理央が並べたものから自分だけを抜こうとすると、ほとんど何も残らなかった。
「……私一人じゃないんです」
「それはもう分かりました」
理央がすぐ返す。
「でも、全部に澪さんいるじゃないですか」
澪は真壁を見る。
今度こそ、何か上手い説明をしてほしい。
真壁は考えた。
「否定は出来ないな」
「真壁さん……」
理央は納得したように頷いた。
「やっぱり」
「やっぱり、じゃないです」
「でも事実ですよね」
「関わったことは事実ですけど、それぞれ担当してる人が別にいるんです。そこは分けてください」
「分けても、澪さん全部にいますよ」
逃げられない。
澪は一度目を閉じた。
その時、さっきまで自分が理央へしていた話を思い出した。
問題は分ける。
善意と安全判断は別。
なら、これも別だ。
澪は目を開けた。
「でも、それと押し入れを勝手に開けたことは別です」
理央の表情が止まった。
「……戻った」
「戻します」
真壁も頷く。
「そこは分けて考えよう」
理央が真壁を見る。
「さっき余計なこと言った人まで」
「それとこれとは別だ」
「その台詞、便利すぎません?」
「便利ではなく、事実だ」
澪は思わず笑いそうになり、口元を押さえた。
ようやく少しだけ、こちらへ主導権が戻った。
ひと通り話し終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
理央は朝から開きっぱなしだったジュエリーの本を閉じ、スマホをその上へ置いた。
胸元にはアメジスト。
その隣には押し入れ。
朝にはただの襖だったものが、今では理央にとってまるで別の意味を持っている。
澪も同じ襖を見た。
今日のようなことを、もう一度起こすわけにはいかない。
だからといって、ここまで知った理央へ「もう来ないでください」と言うのも違う気がした。
「明日は、私も一緒に行きます」
理央が顔を上げる。
「ほんとですか?」
「今度はちゃんと案内します。勝手に一人で動かないこと。戻る場所を覚えること。それから、スマホも置いたままにしないでください」
「はい」
返事が速い。
真壁が横から付け加えた。
「何かあれば、先に同行者へ言う」
「はい」
「子供が泣いていても?」
理央は一瞬だけ考えた。
「……助けます」
澪は思わず理央を見る。
「でも、今度は先に澪さん呼びます」
「それならいいです」
完全に止められる子ではないのだろう。
なら、止めるより先に、戻れるようにしておくしかない。
理央の顔に、少しずつ今日の疲れとは別の色が戻ってくる。
「じゃあ」
「はい?」
「飛行船も?」
澪の口が止まった。
真壁も黙った。
数秒、六畳間には暖房の音だけが残る。
「……それは明日考えましょう」
「まだ保留なんですか」
「保留です」
理央は不満そうにしながらも、胸元のアメジストへ指を触れた。
澪はその手元から、押し入れへ視線を移す。
明日になれば、また向こうへ行く。
今度は迷い込むのではなく、自分の足で。
そしてたぶん、今日より質問が増える。
澪は閉じた襖を見たまま、先に説明する順番くらいは考えておいた方がいいかもしれない、と早くも考え始めていた。