朝の領都を歩き始めると、理央は首元へマフラーを引き上げた。
建物の中にいた時には忘れていた冬の空気が、頬へ細い針のように当たる。
人々はすでに動き始めていて、石畳を荷車が鳴らし、道端では店先の雪気を箒で払う音がしていた。
理央は周囲を見回した。
「今日は昨日見てないところですか?」
「はい。まだちゃんと見てないところです」
澪は少し先を歩く。
朝、江古田の六畳間で押し入れを開ける前にも、今日は自分から離れないこと、勝手に扉を開けないこと、分からなくなったらその場で聞くことを理央へ伝えてある。
昨夜、真壁へ「まずは私が育てます」と言った以上、自分が先に雑な案内をしては意味がない。
そのせいか、理央は昨日より澪との距離を詰めて歩いていた。
「今日はどこですか?」
「リュシアさんのところです」
「昨日の人ですよね?」
「はい。今日は食品の方です」
理央の足が一瞬だけ遅れた。
「リュシアさん、何個仕事あるんですか?」
「私も全部数えたことはないです」
「そこは数えておいてくださいよ」
もっともだった。
澪は返事の代わりに歩調を少し緩めた。
リュシア食品会社の製造区画へ入ると、外の乾いた冷気が途切れた。
最初に鼻へ入ったのは、蒸した穀物と豆の匂いだった。
奥では大きな仕込み容器の蓋が開けられ、職人が木杓子を両手で動かしている。別の場所では麹を扱っているらしく、湿った甘さを含んだ香りが漂っていた。
理央が足を止める。
「……お味噌?」
「そうだよ」
声は横から飛んできた。
リュシアが袖を肘まで上げた姿で、職人の手元を覗き込んでいる。
澪たちへ気づいても作業を止めさせることはなく、職人へ短く声を掛けてからこちらへ来た。
「朝から連れ回してるのかい?」
「まだ1か所目です」
「それなら夕方まで持つかねぇ」
理央が自分の身体を見る。
「そんなに回るんですか?」
「予定では」
「予定って言い方がちょっと怖いです」
澪は聞かなかったことにして、リュシアへ頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
「見ていいところだけならね。仕込みの邪魔はしないでおくれよ」
「はい」
返事をしたのは澪と理央の2人だった。
味噌の仕込み場を抜けると、今度は大きな熟成槽が並んでいる。
理央は鼻を動かしてから、澪を見た。
「醤油も聞きました」
「昨日、地下で食べましたからね」
「そこまでは分かります」
その言い方が妙だった。
澪が横を見ると、理央はすでに次の設備を見ていた。
蒸留設備から管が伸び、職人が熱と液の状態を見ながら手を動かしている。周囲には酒精を含んだ匂いが薄く漂い、暖かい空気が冬物の上着の内側へ入り込んだ。
「焼酎も作ってるんですか?」
「作ってるよ」
リュシアが先に答える。
「芋焼酎。まだ仕込みもやり方も変わることはあるけどね」
「味噌、醤油、焼酎……」
理央が指を折りかけて、やめた。
「異世界の食品会社ですよね?」
「そうだけど?」
リュシアには質問の意味が分からないらしい。
理央は澪へ助けを求めるように顔を向けたが、澪にも何を助ければいいのか分からなかった。
「次、見るかい?」
リュシアが奥の扉を開ける。
そこは少し温度が低かった。
木の香りがする。
いくつもの樽が壁際に並び、それぞれに札が下がっていた。新しい木肌のものもあれば、色の落ち着いたものもある。
理央が近づきかけ、札を読む距離で止まった。
「これは?」
「ウイスキーです」
澪が答えた。
理央の顔が止まる。
リュシアは樽の一つへ手を置いた。
「まだ育ててる途中だよ。すぐ売れるもんじゃないからね」
「……異世界ですよね?」
「そうですよ」
「なんでウイスキーが樽で育ってるんですか?」
澪は答えようとして、途中で真壁の顔を思い浮かべた。
「それは、ここの焼酎から作ったんじゃないんです」
「じゃあ、どこからウイスキーが出てきたんですか?」
「真壁さんです」
「真壁さん?」
昨日から何度も聞いている名前に、理央の眉が動いた。
「南の国で大麦を買って、その一部を収納の中で原酒にしたんです。それをリュシアさんの商会が買って、ここで樽熟成してます」
理央は樽から澪へ顔を戻した。
「ちょっと待ってください。今、さらっと『収納の中で原酒にした』って言いました?」
「はい」
「収納ですよね?」
「収納です」
横でリュシアが樽の札を確かめた。
「こっちは原酒を買ったんだよ。すぐ売れる品じゃないからね。樽も置き場も要るし、寝かせてる間は金が戻ってこない。それも込みで売り物になるか見てるところさ」
理央はリュシアを見た。
「そこだけ急に普通の商売の話になりましたね」
「酒を寝かせてる間も商売だからね」
「原酒は真壁さんで、ここでは熟成なんですね……」
昨日までより、声が小さかった。
澪はその変化を覚えておくことにした。
見せたいのは、まさにそこだった。
「そうだ、リュシアさん。頼まれてた分です」
「来たかい」
澪は作業動線を塞がない壁際へ寄った。
足元に人がいないことを見てから収納へ意識を向ける。
赤い霧が床の上へ薄く広がり、何もなかった場所へ段ボール箱が1箱現れた。澪は作業の邪魔にならないよう少し間を空け、隣へもう1箱を取り出す。
リュシアがすぐ札を見て、中身ではなく届け先の方から確かめていく。
「こっちは仕込み場。こっちは向こうへ回すよ」
「分かりました」
澪が3箱目を出したところで、理央の声がした。
「……今、どこから出しました?」
澪は手を止めた。
「収納です」
「それが収納?」
「はい」
理央は箱と澪の間へ視線を何度も往復させた。
「鞄みたいなのが出てくるのかと思ってました」
「人によりますね」
「人による?」
「同じ収納でも、かなり違うんです」
澪は最後の箱を出し、数を見てからリュシアへ渡す。
「私は、中で物を分けたり探したりする方にかなり寄ってます。成分を分けることも出来ます」
「収納の中で?」
「はい」
「それ、収納なんですか?」
「私も最初はそう思いました」
後ろからリュシアが口を挟む。
「私は溶かしたり、固め直したりもするよ」
理央が勢いよく振り返った。
「もっと収納から離れてません?」
「でも収納なんだよねぇ」
リュシア自身も、そこだけは説明しにくいらしい。
澪は少し安心した。
自分だけがおかしいと思っていたわけではなかった。
「最初は、本当に入れて出すくらいなんです。でも、使っていくうちに、その人が必要としている方向へ伸びることがあります」
「澪さんは物流?」
「たぶん、それだけじゃないですけど」
収納の中で玄米を分けたことまで思い出し、澪は言葉を濁した。
理央の視線がまた箱へ戻る。
小物が消える魔法ではない。
食品会社で使う荷物が、必要な量だけ、必要なところへまとまって出てくる。
理央の中で収納という言葉の意味が変わったのは、表情を見れば分かった。
「スキルって、育つとそんなに変わるんですか?」
「変わります」
澪は答えてから、今日の後半に説明する予定を思い出した。
「それは、あとでもう少しちゃんと話します」
「まだあるんですね」
「あります」
理央の視線が、並んだ樽から床の段ボール箱へ移り、最後に、何事もなかったように次の仕込みを職人と相談しているリュシアのところで止まった。
「今日は昨日より落ち着いて見られると思ってたんですけど」
「まだ1か所目です」
「それ、さっきリュシアさんにも言ってましたよね」
今度は澪が視線をそらした。
新セルマ工房の玄関を入った理央は、そこでまた止まった。
外で冷えた靴底が、平らに整えられた床へ触れる。
建物の中は暖かすぎず、上着を着たままでも動ける程度の室温に保たれていた。廊下では薬草を入れた籠を抱えた人が行き交い、遠くから瓶の触れ合う乾いた音が聞こえてくる。
理央は壁際へ寄った。
「ここ、昨日来ましたよね?」
「昨日はほとんど外だけでしたから」
「5階建てなのは見ました」
「地下も2階あります」
「増やさなくていいです」
澪としては増やしたわけではない。
昨日も地下2階だった。
その説明をしても話が良くなる気はしなかったので、黙って先へ進んだ。
廊下の先で扉が開く。
理央が足を止めた。
「……エレベーター?」
「ありますよ」
扉の向こうには、見慣れた箱型の空間がある。
異世界らしさを探す方が難しい。
理央は乗り込んでから、壁と操作部を見回した。
「昨日、外から見た時は、こんなのが中にあるって言ってませんでしたよね」
「中までは見ませんでしたから」
「昨日見た異世界に、翌日エレベーターを追加しないでください」
「昨日からありましたよ」
「そういう意味じゃないです」
扉が閉じた。
低い作動音とともに床が動き、理央の顔が少し強張る。
魔法で浮いているわけではない。
だから余計に知っている感覚だった。
目的の階で降りると、今度は廊下の先が緑色に明るかった。
理央が近づくにつれ、棚が見えてくる。
何段にも並んだ栽培棚。
一定の間隔で植えられた薬草。
葉の表面には細かな水滴が残り、根元では水が絶えず流れていた。冬の日差しとは違う人工光が上から降り、外では枯れ草ばかりだった季節を忘れさせる。
「これ……LEDですよね?」
「はい」
理央は天井を見た。
棚を見る。
また天井を見る。
「薬草を?」
「育ててます」
「異世界で?」
「そうです」
「LEDで?」
「はい」
理央は黙った。
今朝のウイスキーより長かった。
澪は棚の端へ寄り、作業中の人の邪魔にならない位置で立ち止まった。
職人が葉を一枚ずつ見て、色の悪い株だけを別へ寄せていく。別の人は水の流れを覗き込み、器具を触ってから次の棚へ移った。
設備があるから勝手に薬草が育つわけではない。
毎日、人が見ている。
「これ、誰が最初にやろうって言ったんですか?」
理央の声が戻った。
澪は一度だけ棚へ目を向けた。
「……私です」
「やっぱり」
早かった。
「どうして『やっぱり』なんですか」
「昨日から見てると、最初の変なところに澪さんがいるので」
「変なところ……」
否定しようとして、止まった。
理央の言うことにも一理ある。
澪は人工光の下に並ぶ薬草へ視線を戻した。
「でも、最初はこんなのじゃなかったんですよ」
「最初は?」
「江古田の六畳間です。小さい水耕栽培の棚に、治癒草を1株入れて、植物育成用のLEDで育つか試しました」
理央は目の前に並ぶ棚を見渡した。
「これの始まりが、1株?」
「はい」
「そこから地下2階付き5階建て?」
「そこは途中がかなりあります」
澪は少し目をそらした。
「最初の棚は、LEDの光が漏れて夜に眠れなくなったので、六畳間では続けられなくて」
「それでやめたんですか?」
「場所を移しました」
理央が一拍置いた。
「……やめてない」
「冬でも育つかは確かめたかったので」
最初から、こんな建物を欲しかったわけではない。地上5階と地下2階の建物も、エレベーターも、冬なのに緑の棚が何列も続く光景も、最初の頃には想像していなかった。
「冬になると、採れる薬草が減るんです」
理央も棚へ向き直る。
「不足すると、ポーションも高くなります。高くなると、お金のない人から買えなくなるんです」
水の流れる音が、会話の間を埋めた。
「病気になっても、怪我をしても、薬が買えない。それで亡くなる人がいました」
澪の目には、整った栽培棚の向こうへ、寒い部屋で足りない薬を待ち、大人より先に体力を失っていく子どもたちの姿が重なった。自分が持ってきた物だけでは一時しのぎにしかならないと分かった時の、嫌な感覚まで戻ってくる。
「子どもまで亡くなるって聞いたら、何とかしたくなるじゃないですか」
理央はすぐには返さなかった。
さっきまで設備へ忙しく動いていた目が、薬草の葉の上で止まっている。
「……それは、分かります」
「だったら、冬でも薬草を作れればいいと思ったんです」
最初はそれだけだった。
季節に左右されない場所で育てられれば、薬草そのものがなくなる時期を減らせる。
ところが棚を増やせば照明に電気が要り、水も流し続けなければならない。天候次第で太陽電池だけでは足りない日が出るため風力発電が加わり、発電した分を蓄える設備も必要になった。さらに育てる量が増えれば、収穫した薬草を加工し、保管する場所まで要る。
澪が一つ困り事を口にするたび、誰かが次の工程を足した。
気がつけば、目の前にこの建物がある。
理央はしばらく薬草を見ていたが、やがて廊下の向こうへ顔を向けた。そこにはエレベーターがあり、その先には製造区画があり、同じ建物が上下へ何階も続いている。
それから、もう一度澪を見る。
「薬草を冬でも育てたいっていうところまでは、分かります」
「はい」
「でも、地下付き5階建てのビルまで持ち込むのは違うと思うの、私だけですか?」
澪はすぐには答えられなかった。
「最初は薬草を育てるだけだったんです」
「最初は?」
理央の声が低くなる。
「その『最初は』のあと、毎回大きくなってません?」
澪も同じことを考えた。
ただ、設備が大きくなったからといって、全部を自分たちで動かしているわけではない。
「今ここを動かしてるのは、セルマさんたちです。薬の作り方も、薬草の扱いも、私は専門家じゃないですから」
「澪さんが社長みたいに全部指示してるわけじゃない?」
「違います。私は必要だったものを相談したり、ゲンダイ側で用意出来るものを持ってきたりしただけです」
理央は作業している人たちへ顔を向けた。薬草の葉を確かめる人の横を瓶を抱えた職人が通り、その向こうでは別の人が棚を流れる水を覗き込んでいる。誰も澪の指示を待ってはいない。
「……勝手に動いてる」
「勝手ではないです」
「そういう意味じゃなくて」
理央が少し笑った。
「澪さんがいなくても、もうここで続いてるんですね」
その言葉は、澪には少し嬉しかった。
自分がいなければ止まる仕組みなら、役に立っているとは言いにくい。
冬が来るたび、江古田から誰かが薬草の世話をしに来なければならないのでは意味がない。
「それが一番です」
澪がそう答えると、理央はもう一度、冬の中で育つ緑を見た。
領都の門を出ると、建物が途切れるにつれて風が強くなった。
畑には冬枯れした茎が残り、低い草の間には薄く霜が残っている。街道を行く荷車の車輪が乾いた土を削り、遠くで馬の嘶きが聞こえた。
理央は街道の先を眺めた。
「ここから定期馬車ですか?」
「いえ」
「違うんですか?」
澪は人通りから少し外れた場所へ歩いた。
周囲に人がいない。
荷車も来ない。
地図でも近くに反応がないことを確かめ、収納へ意識を向ける。
赤い霧が地面の上へ走った。
次の瞬間、4座空陸エアカーが冬の日差しを反射して現れた。
理央が止まった。
「……車?」
「乗ってください」
「車ですよね?」
「はい」
「異世界の外に出てませんよね?」
「出てません」
澪は先にドアを開けた。
理央はまだ車体を見ている。
普通の自動車と言い切るには形が違う。しかし、ドアがあり、窓があり、座席がある以上、17歳の理央にとって分類は車らしい。
助手席へ座ったところで、澪はドアが閉まったことを確かめた。
「シートベルトしてください」
理央がベルトを手に取ったまま、澪を見る。
「異世界に来てシートベルトって言われると思わなかったです」
「飛ぶので、ちゃんとしてください」
金具を差し込む手が止まった。
「今、何て?」
「飛びます」
理央は黙ってベルトを締めた。
判断が早くなっている。
澪も運転席へ座ってベルトを締め、周囲へ目を配った。操縦表示に異常はなく、これから進む方向にも人や障害物は見当たらない。
地上走行を始めると、細かな路面の振動が座席へ伝わった。
理央は最初こそ窓の外を見ていたが、領都が少し離れたところで操縦盤へ目を向け始めた。
「これ、ガソリン車じゃないですよね?」
「違います」
「そうですよね……異世界で給油所あったら嫌です」
澪にもそれは嫌だった。
人の少ない開けた場所まで進み、速度を落とす。
「ここから飛びます」
「ほんとに言ってたんだ……」
澪は飛行機構を作動させた。
車体の横で収納されていた構造が動き、外形が変わる。
理央が窓へ顔を近づけた。
「え?」
機体の下から低い音が立ち上がる。
枯れ草が外へ伏せた。
「え?」
車輪へ伝わっていた地面の感触が消えた。
エアカーがゆっくり浮く。
「澪さん?」
「はい」
「返事じゃなくて!」
地面が窓の下へ離れていった。
高度が安定するまで、理央はほとんど喋らなかった。
澪としては、その方が助かった。
初めて乗せる相手を横に置いて飛ぶ以上、最初の数分は操縦と周囲へ意識を寄せたい。
風の状態を読み、地図の反応と前方の障害物、それに地上の人の動きまで見比べる。飛行に問題のない高度へ上がってから、澪はようやく横を見た。
理央はシートベルトを両手で掴んでいた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
「怖かったら下りますけど」
「下りる前に見ます」
理央は窓へ顔を向けた。
恐怖より好奇心が勝ったらしい。
領都の屋根が下に広がっている。
石壁に囲まれた古い町の中を、人と馬車が動いている。遠くへ伸びる街道には荷車の列があり、その外へ出れば畑と葡萄畑が規則正しく並んでいた。
「昨日歩いたところ、あそこですか?」
「そうです。共同商館はあの辺ですね」
「上からだと普通の異世界なんですけどね……」
「普通の異世界って何ですか」
「お城があって、馬車が走ってて、畑があって」
理央の指が少し先へ動いた。
「……あれは?」
「ワイナリーです」
指が止まる。
「ワイナリー」
「はい」
「異世界で?」
「葡萄があるので」
「理由が強い」
さらに進む。
冬の景色の中に、白い湯気が上がっている。
「温浴施設です」
「聞く前に答えないでください」
「見てたので」
「見ますよ。湯気出てますもん」
理央は座席へ背を預けた。
朝から味噌や醤油だけでなく、焼酎とウイスキーまで見せられ、その後には5階建ての薬工房でLEDに照らされた薬草を見た。今は空を飛ぶ車の窓から、ワイナリーと温浴施設を見下ろしている。
情報が増えるたび、理央が驚いて止まる時間は短くなっていた。
「……未来にいるのかしら」
「異世界ですよ」
理央は返事をせず、前方を見た。
旧採石場が近づくにつれ、理央の顔から表情が消えていった。
最初に目へ入ったのは飛行船ではない。岩山の手前へ新しい石畳が伸び、その両側には住宅が並んでいる。学校や診療所として造られた建物も見え、さらに警備や消防に使う施設、庁舎や駅舎までが道に沿って配置されていた。
「……町?」
「はい」
「昨日見た領都とは別ですよね?」
「別です」
理央が窓へ近づく。
町の背後では採石場の岩壁に巨大な開口部が口を開け、その奥へ続く構造物が見えていた。
「……あれは?」
「地下ドックです」
返事をした直後、そのさらに向こうに巨大な飛行船の船体が現れた。
理央が前へ身を乗り出す。
「……あれ何ですか?」
「飛行船です」
「飛行船」
「はい」
「……22世紀じゃないですよね?」
「2027年です」
「そういう意味じゃないです」
澪は操縦桿を握ったまま、少しだけ首を傾けた。
間違ったことは言っていない。
「これ、全部澪さんが?」
「違います」
そこはすぐに否定した。
「採石場まわりをここまで整備したのは、真壁さんが中心です」
「真壁さん……」
昨日、市場の男たちから聞いた名前と、今朝から何度も設備の話に出てくる名前が、理央の中でつながったらしい。
「最初は採石場を使えるようにするところからだったんですけど」
「けど?」
澪は眼下へ目をやった。秘密基地の設備が広がり、その先には地下ドックがあり、さらに飛行船まで浮かんでいる。
「整備が進みすぎたら、こうなってしまって」
「『整備』って言葉の意味、合ってます?」
澪は答えなかった。
採石場へ最初に来た頃を思い返す。
岩と作業場所があれば十分だった。
収納や鑑定を試せる場所が欲しかっただけの時期もある。
それが、真壁が使うようになってから、作業場所は工程ごとに分かれ、設備が増え、必要な物がその場で作れるようになった。
物を運ぶ量が増えれば移動手段が必要になり、扱う規模が大きくなれば設備も大型化する。人が増えれば安全に使える場所を整えなければならず、遠くへ大量に運ぶ必要が出たところで飛行船まで加わった。
真壁は困り事を一つ渡すと、次に同じことで困らない形まで広げる。
「澪さんが最初に『こうしたい』って言って、真壁さんが大きくする?」
理央が窓の外を見たまま言った。
澪は少し考えた。
「全部ではないですけど、そういうことは多いですね」
「やっぱり澪さんが最初にいるじゃないですか」
「私だけじゃないです」
「分かってます。でも、方向を変えるところにいる」
昨日も似たことを言われた。
全部に澪がいる、と。
その時は、誰が実際の責任者かを説明した。
それは今も変わらない。
けれど今日は、理央の言葉をすぐに否定する気にはならなかった。
薬草を冬でも育てたいと考え、困っている人へ物を届けたいと動いた。その先を、真壁や現地の人たちが大きくしてくれた。
なら、最初に向きを変えた責任まで「私は何もしていない」と言うのも違う。
「……そういうところは、あるかもしれません」
理央が澪を見る。
「認めた」
「全部とは言ってませんからね」
「そこは譲らないんですね」
エアカーが採石場へ近づく。
澪は速度を落とし、着陸位置へ進路を合わせた。
窓の外では飛行船が、朝から理央が見てきた物を全部小さくするほどの大きさで待っていた。
エアカーを降りた理央は、しばらく上を見ていた。
上空から大きいと分かっていた飛行船は、地上へ立つとさらに大きい。
採石場の岩壁を背に、巨大な船体の一部が作業設備の向こうへ伸びている。遠くでは工具の音が反響し、金属同士が触れる硬い音のあとに、人の声が飛んだ。
床には石粉が薄く残る場所もあるが、作業する人の通路には物が出ていない。
澪は理央を安全な通路側へ寄せた。
「黄色い表示より向こうには入らないでください」
「はい」
理央は素直に返事をしてから、もう一度飛行船を見上げた。
「これ、本当に商人から始まる話なんですか?」
「始まりました」
「商人から、これになるんですか?」
「私が飛行船になったわけじゃないですよ」
「分かってます」
少し笑われた。
澪は足元へ視線を落とし、通路から外れないよう歩き始める。
「私も最初は普通の商人だったんです」
「普通の、って付けるんですね」
「最初は普通だったと思います」
そこは自信があった。
百円ショップで買った物を持ち込んで、売れるかどうか試していた頃は、少なくとも飛行船の話などしていなかった。
「最初に伸びたのは鑑定です。それから収納」
「今朝の」
「そうです。収納は最初、物を入れて出すだけでも大変でした」
「今のを見たあとだと信じにくいです」
「私も使い方が分からなくて、かなり困ったんですよ」
澪は通路脇に置かれていた規格部材へ目をやった。
同じ寸法の物が揃って積まれている。
「収納も、使ううちに出来ることが増えます。中で分けたり、必要な物だけ抜き出したり。人によっては溶かしたり、形を変えて固めたりもします」
「今朝のリュシアさんですね」
「はい。伸び方は人によって違います」
「じゃあ、ジョブも?」
「変わります」
理央の方から聞いてきた。
ちょうどいい。
澪は歩く速度を少し落とした。
「私は商人から行商人へ転職しました」
「レベルが上がったら勝手に?」
「そこは違います。ジョブを変える時は、司祭様のところで儀式をします。本人が選ばないと変わりません」
「勝手に戦士とかにならない?」
「なりません」
「よかった……」
理央が本気で安心している。
「私、腕力で候補出たら困ります」
「たぶん、そこは心配しなくていいと思います」
「今ちょっと能力値を想像しました?」
「してません」
少しだけした。
口には出さなかった。
「行商人になってから、地図とか移動加速が使えるようになりました。並行思考は商人の頃から芽が出ていて、そのあとかなり伸ばしました」
「並行思考?」
「同時にいくつか考えたり、作業したりする方です」
「それは作家にも欲しいです」
返事が急に早くなった。
「締切前とか」
「ゲンダイ側で無理に生やそうとしないでくださいね」
「生やせるんですか?」
「分かりません。だから試さないでください」
理央が少し残念そうな顔をした。
作家の反応だった。
「それから転移が使えるようになりました」
「さっき言ってた瞬間移動?」
「そうです。今はLv3です」
「レベルまであるんだ……」
「最近だと、重力とか、大量生産も使うようになりました」
理央の足が止まった。
「待ってください」
「はい?」
「商人ですよね?」
「今は行商人です」
「そこじゃないです」
昨日から何度か聞いた台詞だった。
澪は飛行船の方を見る。
巨大な構造物を前にして、行商人という言葉を理解してもらおうとする方が難しいのかもしれない。
「スキルだけでこれを作ってるわけじゃないですよ」
「そうなんですか?」
「設計する人もいますし、魔術を組む人も、部材を作る人も、整備する人もいます。スキルは、その中で出来ることを増やす道具みたいなものです」
ちょうど作業員が2人で部材を運んでいく。
同じ形の部品が並ぶ台の前で、一度止まり、受け取る側と寸法を見比べてから奥へ持っていった。
「大量生産も、何でも勝手に同じ物が出てくるわけじゃないです。元になる物を間違えたら、同じ間違いを増やすだけなので」
「それは怖いですね」
「なので最初をちゃんと見ます」
理央は規格部材を見たあと、澪の顔へ戻った。
「澪さんっぽい」
「そうですか?」
「そこはすごく」
何がすごいのかは聞かないことにした。
「ジョブを変えたら、前のスキルは消えないんですか?」
「残ります」
「じゃあ、商人で覚えた収納を持ったまま行商人になれる?」
「はい」
理央の顔から、冗談っぽさが少し消えた。
いま自分の話として考え始めたらしい。
「じゃあ、最初に何を選ぶかで全部決まるわけじゃないんですね」
「そうですね。ただ、ジョブによって伸びやすい方向は変わります」
「あとから変えられるけど、何でも同じじゃない」
「そういう感じです」
澪は答えながら、昨夜のことを思い出した。
真壁は理央の育成計画と言った。
自分は止めた。
けれど、何も教えないという意味ではない。
理央が自分で選ぶために必要なところまでは見せる。
選ぶのは、そのあとでいい。
「理央ちゃんにも、ジョブがあります」
「私にも?」
「あります。今日の最後に、ちゃんと見ましょう」
理央は少しだけ口を開けた。
すぐ質問が来ると思ったが、その前に澪は歩き出した。
「まず戻ります」
「車まで?」
「いえ」
理央が止まる。
澪はその顔を見て、次の質問が何になるか分かった。
「車で戻るんじゃないんですか?」
「転移で戻ります」
案の定だった。
秘密基地の端、普段から移動に使う安全な場所で澪は立ち止まった。
周囲に作業員はいない。
地面にも荷物は置かれていない。
理央はさっきまで飛行船を見上げていた顔のまま、澪を見る。
「……今さっき説明してたやつ?」
「はい」
「もう使うんですか?」
「説明したので」
「説明したら使っていいことにはならないですよ」
澪としては、使える移動手段を使うだけだった。
「理央ちゃんは私の近くにいてください」
「どのくらい近く?」
「離れなければ大丈夫です」
「急に雑になった」
「登録してある場所へ戻るだけですから」
「どこでも行けるんじゃないんですか?」
「無理ですよ」
澪は領都側の登録地点を意識しながら答える。
「行ったことのない場所へ勝手に飛べるわけじゃないですし、人が多いところや危ないところには出られません。空中とか水中も駄目です」
「それ聞くと安心するような、瞬間移動の制約の話を普通にしてる時点で安心出来ないような……」
「安全の方が大事です」
「それはそうですけど」
理央は澪の横へ寄った。
さっきより近い。
「これ、気持ち悪くなったりします?」
「私は大丈夫でした」
「私の情報がない」
「初めてなので」
「そうでした」
理央は口を閉じた。
澪は転移先をもう一度頭の中で確かめた。領都の中でも自分が訪れて登録してあり、今は人のいない安全な地点を選ぶ。
「行きます」
「待っ――」
秘密基地の岩壁が消えた。
工具の反響音も、飛行船の巨大な影もない。
代わりに町の建物があり、冬の空気に薪を燃やす匂いが混じっていた。
少し離れたところから、人の話し声が聞こえる。
理央は口を開けたまま固まっている。
「理央ちゃん?」
「…………」
「大丈夫ですか?」
理央がゆっくり澪を見る。
「今、本当に何しました?」
「転移です」
「聞いた直後に実演しないでください!」
声が町の壁へ跳ね返った。
「でも、乗り物を出すより早いので」
「そういう効率の話じゃないです!」
理央は頭を抱えた。
身体は問題なさそうだった。
澪は一応そこを見てから、最後の目的地へ向かって歩き始めた。
「次で最後です」
その一言で、理央の足取りが少しだけ軽くなった。
夕方の孤児院には、煮込み料理の湯気と薪の煙に、洗った布の湿り気や石鹸の匂いが混じっていた。外へ出れば冬の冷えた土の匂いも残っている。
建物の中からは食器の触れ合う音がして、子どもたちの声が廊下と庭を行き来している。
門を入ったところで、シスター・クララが澪たちに気づいた。
「澪さん。今日はお客様ですか?」
「はい。飯島理央ちゃんです」
「こんにちは」
理央が少し緊張しながら頭を下げる。
「昨日から、いろいろ見せてもらってます」
「それはお疲れでしょう」
クララの返事があまりにも自然で、澪は横を見た。
理央も澪を見ていた。
「分かるんですね」
「顔に出てるのかもしれません」
今日は朝から詰め込みすぎたかもしれない。
その反省を始めたところで、奥から子どもの声が飛んだ。
「あっ、澪先生!」
声が飛んだと思った時には、数人の子どもがこちらへ走ってきていた。
「走ると危ないですよ」
澪が声を掛けると、先頭の子だけは途中から早歩きになり、後ろの子たちもつられて速度を落とした。
「先生、今日は理科?」
「何するの?」
「その人だれ?」
「今日は授業じゃないです。こちらは理央ちゃんです」
澪が順に答えている横で、理央がじっとこちらを見ていた。
「……本当に先生だったんですね」
「理科を少し教えてるだけですよ」
「昨日の子どもたちだけじゃなかった……」
「何がですか?」
「いえ」
理央の口元が少し上がる。
昨日、侯爵領事業所で子どもたちの反応を見た時には、「崇拝じゃないですか」と言われた。
ここでも同じことを言われると思ったが、理央はそれ以上続けなかった。
シスター・サリアが奥から来て、子どもたちへ声を掛ける。
「夕食のお手伝いがまだの人は戻ってくださいね」
効果は大きかった。
子どもたちが名残惜しそうに澪から離れ、それぞれ建物へ戻っていく。
「すごい」
理央が小声で言った。
「私より効きます」
「そこはシスターだから?」
「そういうことにしてください」
本館へ入ると、サリアが洗い場の方へ戻っていった。
大きな桶の近くでは年長の子が食器を運び、大人が水と火を扱っている。子どもだけに危ない作業を任せてはいない。
クララは夕食の準備を気にしながらも、理央へ簡単に中を見せてくれた。
澪は前を歩かない。
どこへ入ってよくて、どこが今使われているのかは、ここで暮らしている人の方が分かっている。
理央はそれにも気づいたらしい。
「澪さんが案内するんじゃないんですね」
「ここをやってるのは司祭様とシスターさんたちですから」
「澪さんの施設じゃない?」
「違います」
そこははっきり答えた。
洗い場には石鹸があり、水を扱う場所は以前より使いやすくなっている。
冬の冷気が直接入らないよう直されたところもある。
けれど、誰が何時に食事を作るのか、子どもをどう分けるのか、誰を休ませるのかを決めるのは澪ではない。
「私がやったのは、困った時に出来ることを手伝ったくらいです」
「くらい」
理央がその言葉だけ繰り返した。
澪は聞こえなかったふりをした。
本館の裏へ回ると、少し離れた場所に別の建物がある。
夕方の冷え込みが強くなり、澪は上着の前を押さえた。
理央もマフラーへ顎を埋める。
「こっちは?」
「病人や、弱っている人を休ませるための離れです」
中へ入る前にクララが声を掛け、使っていない側だけを見せてもらう。
中には病人を休ませる寝床があり、洗面に使う場所も分けられていた。食器や薬を置く場所も、本館の生活用品と混ざらないようになっている。
大げさな病院ではない。
けれど、病気の子と元気な子を同じ部屋へ詰め込まずに済む。
それだけで変わることがある。
「これも澪さん?」
「みんなで作ったんです」
理央がこちらを見る。
「それ、昨日も聞きました」
「本当なので」
「じゃあ、誰が欲しいって言ったんですか?」
澪は少し考えた。
「病気の人を分けたいって話があって、どうすれば出来るかを一緒に考えました。建てたり、毎日使ったりするのはここの人たちです」
「澪さんは?」
「足りない物を持ってきたり、ゲンダイで知ってるやり方が使えないか調べたりです」
理央は返事をせず、空いている寝床へ目を向けた。
朝、新セルマ工房で見た緑の薬草。
あの時の会話を思い出したのかもしれない。
理央の視線が、寝床から洗面の場所へ、そこから窓へ動く。
「子どもまで亡くなるって聞いたら、何とかしたくなるじゃないですか」
昼前に澪が言った言葉を、理央がそのまま口にした。
澪は返事をしなかった。
離れの外では、元気な子どもたちが走る足音がしている。
サリアに走るなと言われた直後なのか、途中から急に歩く音へ変わった。
理央がそちらを振り返った。
「……そういうことなんですね」
「何がですか?」
「まだ、うまく言えないです」
理央は首を振った。
「でも、澪さんが異世界を未来にしたかったわけじゃないのは分かりました」
「未来にするつもりはありません」
「でも結果はだいぶ未来です」
そこは否定しにくかった。
「薬が足りないから薬草を育てて、病気が広がるなら部屋を分けて、寒いなら暖かくして……」
理央は指で数え始め、途中でやめた。
「一個ずつは分かるんです」
「はい」
「なんで最後に飛行船が出来るんですか?」
澪は黙った。
そこだけ切り取ると、自分にもよく分からない。
「途中に真壁さんが入るからですか?」
「かなり大きいと思います」
答えると、理央が吹き出した。
澪も少しだけ笑った。
離れを出る頃には、空が橙色から薄い紫へ変わり始めていた。
教会の方へ戻る。
司祭様は本館の一室にいた。
澪が事情を話すと、理央の顔を見てから椅子を勧めてくれる。
「朝から歩いたのでしょう。まず座りなさい」
「はい……」
理央は素直に座った。
澪も向かいへ腰を下ろす。
秘密基地でジョブの話をした時より、理央の反応が少し遅くなっている。
本人は元気そうにしているが、頭の方が疲れているのかもしれない。
「理央ちゃん」
「はい」
「鑑定してもいいですか?」
理央が一度瞬いた。
「私を?」
「はい。今日いろいろ見たので、状態も見ておいた方がいいです」
「お願いします」
澪は理央へ鑑定を向けた。
表示が開く。
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飯島理央
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:作家見習い
レベル:5
前職:箱入り娘 Lv5
状態:異世界再訪/情報過多/軽度疲労
疲労度:38%
身体異常:なし
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基礎能力値
体力:38
筋力:27
器用:76
知力:84
判断:72
精神:69
集中:91
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未使用SP
9
----------------------------------
既得スキル
作文:6
彫金:4
----------------------------------
成長傾向
共鳴:芽あり
----------------------------------
加護
成長促進
見守り
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澪の視線が最初に止まったのは、疲労度だった。
「38%……」
「何がですか?」
理央に聞き返されて、澪は顔を上げた。
そうだった。この表示は自分にしか見えていない。
「ちょっと待ってください。理央ちゃんの分も出します」
澪は表示を追いながら、意識の一部を収納へ向けた。収納内に置いてあるノートへ、名前から状態、能力値、スキルまでを順に写していく。
最後まで入ったところでノートを取り出し、該当するページを開いて理央へ差し出した。
「これを見てください」
理央は受け取ったノートへ目を落とした。
数行読んだところで、文字ではなくノートそのものを見直す。
「えっと……これ、いつ書いたんですか?」
「今です」
「今?」
「収納の中で書きました」
「……収納の中で?」
「はい」
理央はノートを見てから澪の手を見た。
「手で?」
「ペンを収納の中で動かして書いてます」
「そんなことまで出来るんですか?」
「真壁さんなんて、収納の中に置いたマウスを動かしてパソコンを操作してますよ」
理央の目が止まった。
「……収納って、物を入れる能力ですよね?」
「最初はそうでした」
理央が即座に顔を上げる。
「また『最初は』って言いましたよね」
理央は改めてノートへ目を落とした。
「状態、情報過多……軽度疲労。疲労度38%」
「朝から詰め込みすぎました」
「やっぱり詰め込んでたんですね」
声に力はあり、身体異常もない。それでも今日は、ここで終わりにした方がよさそうだった。
「帰ったら休んでくださいね」
「はーい」
返事が少し子どもっぽく伸びた。
疲れている証拠かもしれない。
澪は表示を下へ追った。
作文6。
彫金4。
そして、まだ発現していない共鳴。
「これが私の?」
「はい」
「箱入り娘、まだ残ってる……」
「前職なので」
「消せないんですか?」
「経歴なので無理だと思います」
「そこだけ履歴書みたい」
理央は恥ずかしそうに顔を伏せた。
司祭様が静かに笑う。
「前にどの職であったかは、悪いことではありませんよ」
「名前がちょっと……」
「理央ちゃんらしいとは思います」
「澪さんまで」
理央がむっとしたところで、澪は表示を閉じた。
「秘密基地で話したジョブ変更ですけど、候補を見ることは出来ます」
理央の表情が戻る。
「今ここで?」
「司祭様がいらっしゃるので」
司祭様が澪の言葉を引き取った。
「見るだけなら構いません。職を変えるかどうかは、そのあとです」
「見たら変えないといけないわけじゃない?」
「もちろんです」
理央はそれを聞いてから、ようやく頷いた。
司祭様が祭壇の方へ向かう。
澪たちも移動した。
夕方の光が細く差す礼拝堂には、人の声がほとんどない。石床へ靴音が響き、古い燭台の火がわずかに揺れている。
理央が祭壇の前へ立つ。
司祭様が祈り、本人の意思を確かめた。
「飯島理央さん。選択出来る職を見ますか」
「はい。お願いします」
司祭様は祈りを終えると、理央へ向き直った。
「今、選ぶことが出来る職は4つあります」
理央の背筋が少し伸びる。
「商人、書記官見習い、写本職人。それから、聖職者です」
「……聖職者?」
最後の一つで、理央が司祭様を見直した。
澪はいったんノートを返してもらい、収納へ戻して4つの職名を書き足すと、もう一度理央へ渡した。
「商人」
理央の指が最初の文字のところで止まる。
「澪さんと同じのがありますね」
「ありますね」
「書記官見習いと、写本職人……これは文章だから?」
「たぶん関係はあると思います」
作文6がある。
現代側ではすでに本を出している。
文字を扱う適性が候補に出ても不思議ではない。
理央の目が最後の一つで止まった。
「聖職者?」
司祭様を見る。
「私がですか?」
「候補としては、そう示されていますな」
「なんで?」
理央は自分の服を見る。
どこを見てもシスターらしい要素はない。
「前の職が箱入り娘だからですか?」
司祭様は少し考えてから答えた。
「一つの理由だけで職が現れるものではありません。以前から持つ性質も、これまでの行いも関わるでしょう」
澪は、押し入れの向こうで泣いていた子どもを追った理央を思い出した。
誰かに言われたわけでもない。
何があるかも分からないのに、自分から扉を開けた。
聖職者という候補が、まったく関係ないとも言い切れない。
「教会で働くってことですか?」
「聖職者を選べば、その道に向く成長はするでしょう。ただ、職を得たからといって、必ずこの教会で暮らさなければならないという意味ではありません」
「ゲンダイに帰っても?」
「職はあなたのものです」
理央は少し安心した顔をした。
4つの候補を聞いても、澪はどれがいいとは言わなかった。
商人なら自分にも分かる。書記官見習いと写本職人は作文とのつながりが想像出来るし、聖職者にも理央のこれまでの行動を考えれば理由はありそうだった。
それでも、先ほど収納内のノートへ写した鑑定結果が気に掛かる。
作文6に対して、彫金は4まで伸びている。そして「共鳴」は、まだ芽のままだ。
「司祭様」
「はい」
「今は条件を満たしていなくて、候補に出ていないジョブもあるんですよね?」
理央がノートから顔を上げた。
司祭様は少し考えてから頷く。
「ありますな。必要な技能や経験へ届いていなければ、まだ選択肢として現れないことはあります」
「じゃあ、今見えてる4つが全部とは限らないんですね」
「その通りです」
理央が手元のノートへ目を戻した。
「だったら、今日決めなくてもいいですか?」
「もちろんです」
澪はすぐに答えた。
「私も、急がなくていいと思います」
「商人があるのに?」
「商人があることは、もう分かりましたから」
理央が顔を上げる。
澪はノートの鑑定結果を指した。
「作文が6あって、彫金も4あります。それに共鳴はまだ芽のままです。今見えてないものがあるなら、それも見てからでいいと思います」
「見えてないもの……」
「それに、理央ちゃんが何をしたいかも、まだ聞いてません」
言ってから、澪は孤児院の子どもたちの顔を思い出した。
以前、あの子たちの将来を考えた時にも同じだった。
何になれるかを先に決めるのではなく、本人が何へ興味を持ち、何をしたいと思うのか。その先に選ぶ道がある。
理央は4つの職名より上に書かれた自分の鑑定結果を読み直した。
指が止まったのは、「共鳴:芽あり」の文字だった。
「……これ、育ったら何になるんでしょうね」
「分かりません」
澪にも、そこだけは答えられなかった。
「だから、それを見るところからですね」
理央はノートを閉じず、そのまま両手で持っていた。