景色が切り替わった直後、真壁はその場から動かなかった。
靴の下には乾いた土があり、冬の風が外套の裾を揺らしている。
以前にも通ったレヴァニア王都近郊だ。
街道から外れたこの辺りは人影が薄く、転移先として使っても周囲を驚かせにくい。
真壁はまず地図へ意識を向けた。
王都へ続く既知の道、人の集まり、近くを動く反応を順に拾う。
転移した地点に重なる人影も、進路を塞ぐ異常もない。
敵対する反応がないことまで見届けてから、ようやく一歩を踏み出した。
空気は王国よりいくらか穏やかだった。
道端には乾いた藁が積まれ、家々の間から炭火の煙が細く上がっている。
王都へ近づくにつれ、静かだった道へ馬の蹄と荷車の車輪が重なり、荷役の掛け声まで混じり始めた。
市場へ入った真壁の視線は、目立つ商品より先に荷の偏りを追った。
麦の袋は多い。
豆も積まれている。
通路脇には次の荷を待つ木箱が並び、食料を扱う商人の手は忙しい。
その一方で、金物を扱う一角だけ棚の向こうがよく見えた。
品物が少ないのだ。
近くでは、外した車輪を横倒しにした職人が、使い込まれた金具を火へ当てていた。
新品へ交換するのではなく、形を直してもう一度使うらしい。
別の荷車にも、何度も叩き直された跡のある金具が残っている。
真壁は足を止めず、その様子だけを目に残した。
以前来た時にも、食料と金属の釣り合いは悪かった。
倉庫を一度空け、鉄や銅を持ち込んでも、道そのものが細ければ流れはまた詰まる。
今日は、その続きを地面の上ではなく空へ持ち上げるために来ている。
市場の奥で、以前取引した商人を訪ねた。
「これは真壁殿」
ルネスタはすぐに真壁へ気づき、手元の仕事を脇へ寄せた。
「今日はお一人ですか。また倉庫を空にするほど買われるので?」
「今回は仕入れではない」
真壁は勧められた椅子へ腰を下ろす前に言った。
「レヴァニアとの空路を開きたい」
ルネスタの手が止まる。
いつもの商談なら、ここで品名か数量を聞くところだった。
それをせず、真壁の顔を見たまま一拍置いた。
「……空路、ですか」
「ああ。飛行船を使う」
「船、というからには荷を運ぶものですね」
「大型船だ。貨物をまとめて運ぶ」
ルネスタは机の上に置いていた筆を完全に離した。
「どのくらいの規模になります?」
真壁が大まかな大きさと用途を伝えると、ルネスタの表情から商人らしい即答の速さが消えた。
困ったのではない。
自分が答えてよい範囲を、そこで切ったのだ。
「真壁殿。これは私が許可できる話ではありません」
「そうだろうな」
「通商の者だけでも決められないでしょう。軍務側にも話が行きます」
「当然だ。無断で飛ばすつもりはない」
返答が早すぎたのか、ルネスタは一度だけ真壁を見直した。
真壁としては、相手国の空へ200m近い船をいきなり浮かべる方が理解できない。
商売は荷を届けて終わりではなく、次も同じ道を通れて初めて続く。
「では、こちらから話を上げます」
「頼む」
ルネスタは人を呼び、短く用件を伝えた。
飛行船という言葉が出たところで、呼ばれた者の目が一瞬だけ真壁へ向いたが、ルネスタは説明を増やさず、そのまま政府側へ使いを走らせた。
「返事には時間がかかると思います」
「構わん」
真壁はそこでようやく椅子へ座った。
市場へ来る途中で見た、麦袋の山と空いた金物棚が頭に残っている。
ルネスタの机だけで決められないなら、次に見るべきは政府側が何を条件にするかだ。
その返事が来るまで、真壁にはまだ拾えるものがあった。
ルネスタの店先では、荷を運び込む音が途切れなかった。
政府側から返事を待つ間、真壁は市場で見たものを順に口へ出した。
「鉄は、まだ薄いな」
「ええ。入っては来ますが、足りません」
ルネスタは棚から帳面を一冊取ったものの、数字を読み上げることはしなかった。
商売相手へ見せられる範囲だけ目を通し、指先で閉じる。
「銅も似たようなものです。値が上がっても、欲しい側が減らない」
「そこは以前と変わらんか」
「むしろ少し厳しいですね。麦や豆は足りています。ところが、火山東街道を越える荷が安定しない。重い品ほど動かしにくいままです」
窓の外を、豆袋を積んだ荷車が通り過ぎた。
袋は十分にあるのに、車軸へ使う金具の方が足りない。
そのちぐはぐさは、以前ここへ来た時と同じだった。
真壁は椅子の背へ寄りかからず、次を聞いた。
「ほかは」
「魔石。それと、高品質のポーションですね」
「ポーションか」
「特に医者が欲しがっています」
真壁の視線がルネスタへ戻った。
「医者が欲しがる?」
冒険者や護衛が傷を負うなら分かる。
薬師が原料として求めるのも不思議ではない。
しかし、ルネスタがわざわざ医者と言い分けたことが引っかかった。
「この国では、深い傷を直接扱う医者がいます。折れた骨を戻したり、傷を縫ったり。薬だけでは済まない時に呼ばれる者です」
真壁の指が机の上で止まった。
「外科まであるのか」
「その言い方は知りませんが、切って中を処置する者もいますよ」
ルネスタは真壁の反応を見て、少し首を傾けた。
「貴国には、あまりいませんか」
「治癒魔法やポーションへ寄る分、こちらほど育ちにくいのだろう」
真壁は短く返した。
レヴァニアでは魔術や魔道具が王国ほど強くない。
その弱さだけを見れば欠けているように見えるが、欠けたまま人は暮らさない。
別の手段が育つ。
「高品質品が必要なのは、治療に使うからか」
「それもありますが、急患を前にして商隊を待てないからでしょうね。質のいいものを置いておきたいそうです」
真壁の目がわずかに細くなった。
薬が作れるかどうかではなく、使う瞬間にそこへあるか。
飛行船で短くなるのは、単なる移動時間ではないらしい。
「その医者に会えるか」
「一人、紹介できます」
ルネスタはすぐに名を出した。
「ハリル・デミル先生。事故や戦傷を長く診ている方です」
「近いのか」
「歩いて行けます。政府からの返事は、まだ来ないでしょう」
真壁はもう立ち上がっていた。
ルネスタがその速さに苦笑し、先に一言付け足す。
「返事が来たら、ハリル先生のところへ人をやります」
「それで頼む」
「飛行船の話をしに来て、待ち時間に医者へ行く方は初めて見ましたよ」
「荷の行き先を見に行くだけだ」
真壁は外套を取った。
ルネスタは何か言い返しかけ、結局やめた。
高品質ポーションを求める医者のところへ、空路を売り込みに来た商人が自分から歩いていく。
言葉だけ聞けば、確かに荷の行き先を見に行くだけだった。
ハリル・デミルの治療院へ入ると、最初に薬草とは違う匂いが鼻へ届いた。
酒精と、湯を通した布の湿った匂いだった。
石と漆喰の壁には大きめの窓があり、冬の白い光が室内の奥まで入っている。
棚には陶器の薬入れが並び、その間に透明なガラス瓶が数本だけ置かれていた。
どれも日用品のようには扱われておらず、割らないよう奥へ寄せてある。
金属の刃物や鉗子に似た器具、針と糸、湯を沸かす容器。
壁には人体を描いた図まであった。
真壁は一つずつ目を移したが、勝手に手を触れなかった。
「どちら様です?」
奥から出てきた男が言った。
「真壁久忠だ。ルネスタから先生を紹介された」
「私がハリル・デミルです。何の用です?」
50代ほどに見える。
華美なところのない服装で、袖も手元へ垂れないよう整えられていた。
指には細かな傷と硬さが残り、飾るより使うことを優先してきた手に見えた。
「高品質のポーションを、医者が特に欲しがっていると聞いた。需要を聞きたい」
ハリルの視線が真壁へ向く。
「それは間違いありません」
「レヴァニアとの空路を開くつもりだ。飛行船で貨物を運ぶ」
「飛行船?」
「空を飛ぶ船だ。陸路より速く運べる」
ハリルはそこで飛行船そのものを詳しく聞こうとはせず、棚の薬瓶へ目を向けた。
「なら、その船の大きさより先に聞きたい。どれくらい早く届く?」
真壁の口元がほんのわずかに動いた。
軍務側なら、まず船体の規模と飛べる場所を聞くだろう。
医者は、荷が届くまでの時間を聞いた。
「陸路より大幅に短くできる。通常運航なら、速度も安定させるつもりだ」
「毎回、同じ程度の品質で?」
「品質を揃えられなければ商売にはならん」
「必要な時に在庫を切らさず置ける?」
「量は供給側と詰める必要がある。そこを見ずに約束はできん」
ハリルはそこで初めて納得したように息を置いた。
「それなら話になります」
棚の一角に視線を向ける。
高価そうな透明瓶の隣には、空いた場所があった。
「急患は商隊を待ってくれません。薬がこの世に存在していても、この棚にないなら、その患者にはないのと同じです」
「常備したいわけだな」
「ええ。特に質のいいものを」
真壁は棚と処置用の器具を見比べた。
「空路が通れば、そこは変えられる」
「なら、私は船よりその瓶が何日早く来るかの方に興味があります」
ハリルの返答には冗談らしい調子がなかった。
それでも、200m近い飛行船を持ち込もうとしている真壁にとっては、船体より薬瓶を優先されるのが妙に新鮮だった。
真壁は壁の人体図へ目を向ける。
「この国では、こういう治療が普通なのか」
「普通、と言えるほど誰にでもできるものではありません。だが、傷を開かなければ助からない者はいます。折れた骨を戻し、傷を縫い、必要なら中を処置する」
「治癒魔法の代わりに、切って治してきたか」
ハリルはその言葉を否定しなかった。
「魔法で届かないなら、手で届かせるしかないこともあります」
真壁の視線が、もう一度ハリルの手へ落ちる。
魔術が弱いから何もできなかった国ではない。
できないものを、そのまま別の技術へ押し出してきた国だ。
薬を運ぶ話だったはずが、荷の向こう側にある使い方まで見え始めていた。
外から車輪のきしむ音がした。
次の瞬間には馬の荒い息と人の叫び声が重なり、治療院の穏やかな空気が一気に崩れた。
「先生!」
入口へ運び込まれたのは、まだ幼さの残る少女だった。
服は泥と血で汚れ、片方の靴が脱げかけている。
呼びかけへの反応は薄く、自分で身体を起こす様子もない。
ハリルは真壁との会話をそこで切った。
「こちらへ」
少女の状態を見る手に迷いがない。
呼吸を見て、外から分かる傷へ目を走らせ、必要なものを短い言葉で求める。
さっきまで飛行船とポーションの話をしていた男は、もう真壁を見ていなかった。
真壁は邪魔にならない位置まで下がった。
ハリルの目は、もう目の前の少女しか追っていない。
その動きを見れば、何を優先しているのかは十分に分かった。
真壁の視線が少女へ戻る。
外傷だけなら、ハリルの方がはるかに多くを見ている。
そこへ口を出す理由はない。
ただし、外から見えないものは別だった。
真壁は少女を鑑定した。
返ってくる状態を追ううち、眉がわずかに寄る。
骨折がある。
内部にも損傷があり、出血は外へ見えている分だけでは終わっていない。
呼吸も浅く、全身の状態が落ち続けている。
「先生」
ハリルが手を止めずに返した。
「何です」
「腹の中でも出血している」
そこで初めて、ハリルが真壁を見た。
「分かるのか?」
「ああ」
真壁は少女から視線を外さない。
「私には状態が見える。治療はできん。必要なら伝えよう」
ハリルの目が細くなる。
外国商人が突然、身体の中が見えると言い出したのだ。
普段なら、それだけで患者から遠ざけても不思議ではない。
だが、少女の顔色を見たハリルは、疑問を長く抱えなかった。
「出血の位置は分かるか」
「分かる」
「骨折は」
「ある。内部損傷も複数だ」
ハリルは一度だけ息を置いた。
「なら残ってくれ。見えたことだけを言ってほしい」
「それでいい」
真壁は一歩だけ位置を変えた。
手術をする気はない。
できもしない。
ハリルの手が届かない情報だけを渡す。
その先は、この治療院の医者の仕事だった。
処置室の扉が開かれる。
煮沸された布の湯気と金属器具の冷たい光が見え、ハリルは少女とともに奥へ入った。
真壁も呼ばれた位置まで進み、再び鑑定へ意識を向けた。
さっきまで商談の先にあった医術が、今は目の前の一人の命をつなぐために動き始めていた。
処置室では、湯気の匂いに血の臭いが混じっていた。
ハリルの手は止まらない。
真壁は少女の身体の内側で悪化している場所を追い、ハリルは目の前の傷と手元の感触から使う器具を選んでいく。
真壁には異常が見えても、どう治すかまでは分からない。
ハリルには身体の中を透かして見る力はなくても、見つけた傷をどう扱うかが分かっていた。
真壁は鑑定を続けた。
ハリルが一つの処置を終えるたび、少女の状態を見直す。
出血が弱まる場所もあれば、変わらないところもある。
外から同じように見えても、内側の反応は同じではなかった。
「そこは止まった」
ハリルの手が次へ移る。
真壁はもう一度、少女へ意識を集中した。
改善している部分がある。
それでも全身の状態は落ち続けていた。
「まだ下がっている。別だ」
「位置は?」
ハリルは顔を上げずに聞いた。
真壁は今処置された場所と、残っている出血の位置を重ねる。
「今処置した場所から3cmほど右だ。血管の下を見たまえ」
ハリルの手が止まったのは一瞬だった。
言われた場所をそのまま処置するのではなく、自分の目で確かめる。
器具を持つ角度が変わり、視線が一点へ集まった。
「……ある」
「ああ」
真壁はそれ以上言わなかった。
そこをどう扱うかはハリルの領分だ。
ハリルは自分で見定め、処置を進める。
しばらくして真壁が再び鑑定すると、先ほどまで続いていた出血が弱まっていた。
「そこも止まり始めた」
「次は」
「待て」
真壁は返事を急がず、状態の変化を追った。
見えるからといって、異常を片端から口にすればいいわけではない。
ハリルの手が何を変えたのかを見てからでなければ、次の情報が古くなる。
数呼吸分の間を置き、真壁は別の位置へ目を向けた。
「さらに奥に残っている。距離は先ほどより近い。だが出血の勢いは弱い」
「分かった」
ハリルは短く返し、処置を選んだ。
真壁は場所と状態だけを渡す。
ハリルが自分の知識で確かめ、治す。
それを繰り返すうち、会話は必要な言葉だけになっていった。
「止まった」
「まだだ」
「位置は」
「左寄り。先ほどより浅い」
説明を足す時間より、相手が何を知れば動けるかを切り分ける方が早い。
ハリルも真壁の言葉を疑って立ち止まることはなくなった。
ただし、治療の判断を真壁へ預けることもしない。
その距離が、むしろ作業を速くした。
やがて大きな出血は一つずつ抑えられていった。
それでも、真壁の表情は緩まない。
少女の内側で悪化する場所は減っているのに、全身の状態が戻ってこない。
ハリルもそれに気づいたらしく、手を止めずに聞いた。
「まだ悪いか」
「ああ。出血だけの問題ではなくなっている」
真壁は少女の浅い呼吸を見た。
治すべき傷が減っても、長く失ったものまで勝手に戻るわけではない。
手術が長引くほど、少女の状態は細くなっていった。
大きな出血源は抑えられつつある。
それでも鑑定で見える全身の悪化は止まらない。
ハリルが少女の口元を見てから、棚へ目をやった。
「飲ませるのは無理だ」
高品質ポーションがあっても、意識の薄い少女へ無理に飲ませることはできない。
真壁は返事をせず、収納へ意識を向けた。
ゲンダイの病院で見たものが頭に浮かぶ。
口から入れられない時、別の経路から身体を支える方法がある。
「点滴だな」
「何だ?」
「今作る」
真壁はもう手を動かしていた。
薄い靄とともに、殺菌済みのガラス瓶が現れる。
続いてゴム管と注射針を出し、収納内の作業設備へ意識を移した。
純水へ塩と糖分を加え、患者へ使うための液体へ整える。
そこへ高品質ポーションを少量だけ加えた。
真壁は目の前の少女に使う分だけを調整し、ガラス瓶へ移した。
ハリルは処置を続けながら、真壁の手元を一度見た。
真壁は瓶と管をつなぎ、最後に針のある側をハリルへ向けた。
「先生、これを使おう」
ハリルの視線が、ガラス瓶から細い管へ落ちる。
「血管へ直接入れるのか」
「そうだ。口から飲ませる必要はない」
真壁は瓶を示した。
「水と塩と糖分、それにポーションを入れてある」
ハリルの眉が寄った。
「初めて見る方法だ」
「分かっている」
真壁は少女を再鑑定した。
返ってくる状態は、さっきよりさらに悪い。
「だが、状態は今も落ちている」
ハリルの視線が少女へ戻る。
未知の方法を患者へ使う。
そのためらいは、医者として当然だった。
真壁は声を荒らげなかった。
「迷いは患者の生存を遠ざける」
短い言葉だけを置く。
今ここで決めなければならないことを、長い説明で薄める気はなかった。
真壁は針をハリルへ渡した。
「針を入れるのは任せる。私はできん」
ハリルは真壁ではなく少女を見た。
呼吸、顔色、これまでの処置。
そのすべてを見たうえで、手を伸ばす。
「使う」
「では始めよう。状態は私が見る」
針を入れる医療行為はハリルが行った。
ガラス瓶が高い位置へ置かれ、管の中を液体がゆっくり進んでいく。
真壁はそこへ手を出さず、鑑定へ集中した。
すぐに元気になることなど期待していない。
一度見直す。
まだ悪い。
もう一度、手術の進行と合わせて状態を追う。
急激だった落ち込みが、少しずつ鈍くなってきた。
「先生」
「どうだ」
「下がり方が変わった。まだ悪いが、先ほどより持っている」
ハリルは余計な言葉を返さず、処置へ戻った。
液体が流れ始めても、傷そのものが消えるわけではなかった。
ハリルの手は止まらず、残った損傷へ一つずつ向かっていく。
変わったのは、少女の身体が落ちていく速さだった。
急落が鈍った分だけ、ハリルが処置を続ける時間が残る。
真壁は状態を見続け、悪化する位置だけを伝えた。
ハリルが治し、また真壁が見る。
最後の処置が終わる頃、少女はまだ重症のままだったが、鑑定で見えていた急激な悪化はようやく遠ざかり始めていた。
処置室から張り詰めた音が減ったのは、午後の光が傾き始めた頃だった。
少女は眠ったまま横になっている。
泥と血に汚れていた服は処置の邪魔にならないよう整えられ、呼吸はまだ弱い。
それでも、運び込まれた時のように状態が崩れ続けてはいなかった。
ハリルは手を洗い終えると、真壁へ振り返った。
「どうだ」
真壁はもう一度鑑定する。
「まだ安心はできん。だが、先ほどよりはいい」
「そうか」
ハリルは少女へ視線を戻しかけ、そこで真壁へ言った。
「あなたが中の位置を教えてくれなければ、探す時間はもっとかかった」
「場所が分かっても、処置はできん」
「それはこちらの仕事だ」
ハリルはそう返してから、今度こそ少女へ向き直った。
助かった、と言い切らない。
真壁も同じだった。
手術が終わっただけで、傷が消えたわけではない。
ここから身体が持ちこたえるかは、まだ見なければならない。
真壁は壁際へ一歩下がり、ふと思い立って自分へ鑑定を向けた。
長い時間、患者の状態を追い続け、ハリルが手を入れる前と後の違いを見てきた。
出血の変化を追い、点滴を用意し、ポーションもいつもとは違う形で使った。
その積み重ねが、自分の中にも何か残していた。
技能欄の末尾に、見慣れない項目が増えていた。
医術:芽あり
「……医術か」
真壁の視線が、処置台の脇へ置かれた器具へ移る。
芽が出たからといって、ハリルがしていたことを自分でできるわけではない。
切る場所も、縫う方法も、傷をどう扱うかも、まだハリルの手の中にある。
真壁は表示を閉じた。
今は新しい技能より、目の前の患者がどうなるかの方が先だった。
処置室には、ガラス瓶から続く細い管と、少女の浅い呼吸音が残っていた。
夕方が近づく頃、治療院の窓から差す光は黄色みを帯びていた。
少女のそばを離れたハリルは、棚に残る薬瓶を見てから真壁へ向き直った。
「今日使ったものと同じ質のポーションを、継続して運べるのか」
「空路が通れば、今より早く運べる」
「量は?」
「量は戻って確認しよう。供給側を見ずに約束はできん」
ハリルはそれ以上押さなかった。
患者の前に薬があることと、それを来月も再来月も置けることは別だ。
医者が聞いているのは一度きりの奇跡ではなく、次の急患にも使えるかどうかだった。
入口の方で足音が止まった。
「真壁殿はいらっしゃいますか」
ルネスタのところから来た使いだった。
政府側から返事が届き、飛行船の件は軍務側の責任者が対応することになったという。
「面会はどうする」
「軍務責任者は急用で庁舎を出られました。こちらへ向かわれたと聞いております」
真壁が眉をわずかに上げたところで、今度は外から別の足音が近づいた。
治療院へ入ってきた男は、周囲を見回すより先に言った。
「アイリンは」
落ち着いた服装をしているが、普段なら崩れなさそうな歩調だけが今は速い。
ハリルがすぐ前へ出る。
「危険域は抜けつつあります。ただ、まだ重症です」
男の肩から、張り詰めていたものがほんの少しだけ落ちた。
「会えるか」
「今は休ませてください」
「分かった」
返事は短かった。
男はそこで初めて真壁へ視線を向けた。
見知らぬ外国人が治療院の奥にいることを不審がるより先に、ハリルが説明する。
「この方が、内部の状態を見てくれました。ポーションを別の方法で入れる手段も持ち込んだ」
男は真壁をしばらく見た。
「あなたが」
「私は状態を見ていただけだ。処置したのは先生だ」
真壁が先に言うと、男の目がわずかに細くなった。
「名乗るのが遅れた。セリム・カラハンだ」
真壁の視線が止まる。
「カラハン……」
「アイリンは私の孫だ」
そこで、ルネスタから来た使いが一歩下がった。
「真壁殿。こちらが、飛行船の件を担当される軍務責任者です」
今度は真壁がセリムを見直した。
数時間前、会う予定すら決まっていなかった相手が、治療院で孫娘の容体を聞いている。
セリムは使いへ一度だけ視線をやり、それから真壁へ向き直った。
「孫を助けていただいたことには礼を言う、真壁殿」
「医者が助けた。私は少し手を貸しただけだ」
「それでもだ」
セリムは深く頭を下げることはしなかった。
ただ、祖父として言うべき礼を、言葉を濁さずに置いた。
真壁もそれを値引き材料のように扱う気はない。
数秒の沈黙のあと、セリムの姿勢が戻った。
孫娘のいる処置室へ向いていた目が、真壁そのものを見る目へ変わる。
「では、その礼はここまでにしよう」
声の温度まで変わったように聞こえた。
「次は軍務責任者として聞く」
真壁は何も言わず、続きを待った。
「あなたがレヴァニアへ持ち込もうとしている飛行船についてだ」