押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

29 / 43
第29話 余り石のつもりでした

市場の奥でリュシアと帳面を見ていた澪は、背後から聞こえた護衛の声に顔を上げた。

 

「エレナ様、そちらは荷を下ろす場所です」

 

「見ているだけだ」

 

「見ているだけの方は、荷車の横にしゃがみ込みません」

 

 聞き覚えのある押し問答だった。

 

 澪が振り向くと、荷車の陰から、少年服の帽子をかぶったエレナが顔を出していた。赤い髪が帽子の下から少しこぼれている。上着は地味で、市場の子どもに混じる気は十分にあるらしい。けれど、靴だけは上等で、立ち上がった時の背筋もまっすぐだった。

 

「澪、今日は何を持ってきた?」

 

「まだ何も出していません」

 

「では、何を隠している?」

 

「隠している前提ですか」

 

 リュシアが横で小さく笑った。

 

「姫様は、澪が手ぶらで来るとは思ってないんだよ」

 

「手ぶらの日もあります」

 

「今日は違うだろう?」

 

 エレナの視線が、澪の手元ではなく胸元で止まった。

 

 澪は反射的に、首元へ手を当てた。

 

 失敗した。

 

 今日は、修さんの彫金教室で作った夕焼け色のグラデーションストーンのネックレスをつけていた。売り物ではない。見せるつもりもなかった。ただ、自分で作ったものを、自分で一度つけてみたかっただけだった。

 

「澪、それは何だ」

 

「首飾りです」

 

「それは見れば分かる。中の色が変わっている。黄色、桃色、紫。石か。魔石か」

 

「あたしの国の装飾用の石です。グラデーションストーンと言います」

 

「グラデーションストーン」

 

 エレナはその言葉を、少し区切って繰り返した。

 

 それから一歩近づいた。

 

「泡がない」

 

 澪は少し驚いた。

 

「そこに気づくんですね」

 

「屋敷の透明石は、もっと揺れる。泡もある。これは小さいのに、向こうの布目まで見える」

 

 エレナは、当然のように手を伸ばしかけた。

 

 澪は半歩下がった。

 

「触るなら、座ってからです」

 

「壊さない」

 

「扇子」

 

 エレナは一瞬、口を結んだ。

 

「あれは、私が先に開いた」

 

「はい。なので、今回は先に座ってください」

 

 護衛が後ろで小さく息を吐いた。リュシアは笑いをこらえている。

 

 エレナは少しだけ頬をふくらませたが、近くの木箱にきちんと腰を下ろした。

 

「これでいいか」

 

「はい」

 

 澪はネックレスを外し、両手で持ったまま、エレナの目の高さに下げた。

 

 しずく型のグラデーションストーンの中で、黄色から桃色、紫へ色が沈んでいる。銀の細い枠は強く主張せず、透明な石の縁を抱えていた。

 

 エレナは息を止めるように見つめた。

 

「欲しい」

 

「無理です」

 

 澪は即答した。

 

 エレナが目を丸くする。

 

「まだ、侯爵家として値をつけるとは言っていない」

 

「値段の問題ではありません。これは一号機なので」

 

「いちごうき」

 

「最初に作ったものです。売りません。譲りません。壊しません」

 

「壊さない」

 

「扇子」

 

「……今回は座っている」

 

「それは成長です」

 

 エレナは悔しそうに唇を結んだ。

 

 けれど、すぐに立て直した。

 

「では、作ってくれ」

 

「無理です」

 

「また早い」

 

「これ1つ作るのに、測って、銀を切って、曲げて、火を使って、磨いて、最後にグラデーションストーンを留めました。時間がかかります」

 

「楽しそうだ」

 

「大変でした」

 

「楽しそうな大変だ」

 

 澪は言い返せなかった。

 

 そこを突かれると弱い。

 

 リュシアが胸元のネックレスと澪の顔を交互に見た。

 

「澪が全部作るのは無理だね」

 

「はい」

 

「なら、職人に頼むしかない」

 

 エレナがぱっと顔を上げた。

 

「銀細工師なら紹介できる。侯爵家に出入りしている者がいる」

 

「侯爵家案件にする気ですか」

 

「違う。私が欲しいだけだ」

 

「それも、かなり強いです」

 

 澪はネックレスを自分の手元へ戻した。

 

 残りのグラデーションストーンはある。

 

 だが、自分で全部作る時間はない。そもそも、彫金:1である。堂々と量産を名乗れる段階ではない。

 

 リュシアは、すでに商人の顔になっていた。

 

「澪、見本がある。残りの石もある。あんたが全部作れないなら、職人に見せる価値はあるよ」

 

「細く、小さく試すだけですよ」

 

「うん」

 

 リュシアは、あまり信用できない笑顔で頷いた。

 

「最初は、だね」

 

 

 

 

 

 現代側へ戻った澪は、修さんの彫金教室で、いつもより少し遠慮がちに材料の相談をした。

 

 作業机の上には、銀板の端材、覆輪線、銀ろうの小袋、チェーンの見本が並んでいる。修さんは澪の話を聞きながら、メモ用紙に必要なものを書き出していった。

 

「知り合いの職人さんに、少し作ってもらうことになりまして」

 

「うん」

 

「見本はあります。でも、材料もこちらで揃えた方がいいのかなって」

 

「相手に作ってもらうなら、石だけ渡すより、銀材も揃えた方が話が早いよ」

 

「材料もですか」

 

「厚みや幅が違うと、見本と同じにはならない。最初は迷わせない方がいい」

 

 澪は「迷わせない」とノートに書いた。

 

 修さんは覆輪線を指でつまんだ。

 

「この細い帯は、最初から石枠用に使いやすいようになってる。銀板も、バチカン用の線も、チェーンも、同じ品質のものを揃えられるなら揃えた方がいい。相手の腕を見るのは、その後だね」

 

「あと、箱もいりますよね」

 

「売るならね。箱がないと、作品が品物になりにくい」

 

 澪はその言葉に少しだけ刺された。

 

 作品。

 

 品物。

 

 この前、一号機を作った時は、自分の手元に置くものだった。けれど、今回は誰かに渡す。しかも侯爵家の姫様が欲しがっている。

 

 澪はグラデーションストーンの残り分を数え、銀板、覆輪線、銀ろう、バチカン用銀材、SV925の細いチェーン10本、磨き布、紙やすり、消耗品、ネックレス箱10個を揃えた。

 

 箱の値段を見た時、澪は少しだけ固まった。

 

「箱、思ったより高い……」

 

 修さんは笑わなかった。

 

「綺麗なものは、綺麗に渡すところまで含めて値段になるよ」

 

 澪は箱を両手で持ち、少し重くなった袋を見下ろした。

 

 余り石を少し綺麗にしてもらうだけのはずだった。

 

 なぜか、材料の段階で、もう小さな商売の顔をしていた。

 

 

 

 

 

 銀細工師の工房は、市場の喧騒から少し離れた通りにあった。

 

 扉を開けると、金属を叩いた後の乾いた匂いと、磨き粉の匂いが混ざっていた。壁には細い金属線や小さな槌、火床、石留め用の道具が整然と並んでいる。雑然としているのに、手を伸ばせば必要なものがすぐ届くような置き方だった。

 

 エレナが紹介すると、銀細工師は澪を見た。

 

 子どもの遊びか、令嬢の気まぐれか、そう測るような目だった。澪は少し背筋を伸ばした。

 

 小さな箱を開け、一号機を布の上に置く。

 

 銀細工師はすぐには手を出さなかった。

 

 まず目で見た。

 

 しずく型のグラデーションストーン。黄色から桃色、紫へ沈む色。銀の覆輪枠。裏板。バチカン。細いチェーン。

 

「これは、石か」

 

「あたしの国の装飾用の石です。グラデーションストーンと言います」

 

 銀細工師は指先でネックレスを持ち上げ、窓の光へかざした。

 

「泡がない。歪みも少ない。小さいのに、色が中で変わっている」

 

 澪は思わずエレナを見た。

 

 エレナは少し得意げだった。

 

「私もそこを見た」

 

「ええ、見ていました」

 

 銀細工師は次に銀枠を見た。覆輪の縁、裏板、バチカンの接合部。しずくの先端を強く押さえず、腹の部分で支えているところまで、目が動く。

 

「この枠は誰が作った」

 

「先生に教わりながら、あたしが作りました」

 

 銀細工師は軽く頷いた。

 

「最初に作ったものを売らないのは、分かる」

 

 エレナが不満そうに眉を寄せた。

 

「分かるのか」

 

「分かります」

 

「では、分からない方がよかった」

 

 リュシアが小さく笑った。

 

 澪は一号機を布の上に戻し、少し緊張しながら言った。

 

「こんな風にできませんか」

 

 銀細工師が澪を見る。

 

 澪はすぐ続けた。

 

「同じものを丸写ししてほしいわけではありません。このグラデーションストーンが綺麗に見えて、割れにくくて、首から下げられるものにしたいです。こちらの作りやすい形に直してもらってもいいです」

 

 銀細工師の目が、少し変わった。

 

「見本を真似るのではなく、こちらで使える品にするわけだな」

 

「はい」

 

「この石は、熱に弱いのか」

 

「はい。火に近づけないでください。酸にも入れないでください。磨き粉も噛ませない方がいいです。金属部分を全部作って、最後に留めます」

 

「先端は」

 

「強く押すと欠けます。腹側から軽く固定して、左右を少しずつ倒します」

 

 銀細工師は、しずくの先端を見た。

 

「なるほど。押さえつける石ではない。抱える石だ」

 

 澪はその言葉に、少しだけ嬉しくなった。

 

 修さんも似たようなことを言っていた。

 

 グラデーションストーンを銀で抱える。

 

 それを、この職人も見てくれた。

 

 

 

 

 

「材料も持ってきました」

 

 澪がそう言って収納から包みを出し始めると、銀細工師の顔が少し険しくなった。

 

 最初に出したのは、銀板だった。次に覆輪線。銀ろう。バチカン用銀材。細いチェーン。磨き布。ネックレス箱。そして、残りのグラデーションストーン。

 

 銀細工師は、まず覆輪線を手に取った。

 

「……待て」

 

「はい?」

 

「この銀の帯、幅が揃っている」

 

「覆輪線用です」

 

「全部か」

 

「はい。まとめて買ってきました」

 

 銀細工師は1本をつまみ、別の1本と重ねた。端から端まで見て、親指で厚みを確かめる。

 

「厚みも同じだ」

 

「そうですね」

 

「そうですね、ではない」

 

 澪は固まった。

 

 怒られたのかと思った。

 

 銀細工師は覆輪線を作業台へ置き、今度は銀ろうを見た。

 

「この接合材も揃っているのか」

 

「はい」

 

「最初から、こう使うために作ってあるのか」

 

「はい」

 

 銀細工師は黙った。

 

 その沈黙が、澪には一番怖かった。

 

 リュシアが横で、楽しそうに口元を押さえた。

 

「澪、あんたまた変なところで職人を殴ったね」

 

「殴ってません。材料を出しただけです」

 

「その材料が、こっちの職人には殴打なんだよ」

 

 銀細工師は低く言った。

 

「これは使いやすい」

 

 澪は、褒められているのか怒られているのか、やっぱり分からなかった。

 

「ありがとうございます?」

 

「褒めている。だが腹も立つ。こちらでは、まずこの帯を作るところから仕事だ」

 

 銀細工師は細いチェーンを指で持ち上げた。

 

「これも揃っている」

 

「はい」

 

「箱まである」

 

「はい」

 

 銀細工師は、もう一度黙った。

 

 エレナが小声で言う。

 

「これは、怒っているのか」

 

 リュシアが答えた。

 

「職人が便利すぎる材料を見た時の顔だよ」

 

「便利だと、怒るのか」

 

「たぶん、怒る」

 

 澪は心の中で、修さんに謝った。

 

 材料は、思ったより強かった。

 

 

 

 

 

「残りだけなんです」

 

 澪は、グラデーションストーンの小袋を開きながら言った。

 

「この前、自分で1つ作ったので、余った分を何個かネックレスにできないかなって」

 

 銀細工師は返事をしなかった。

 

 グラデーションストーンを1粒つまみ、窓の光へかざす。黄色から桃色へ移り、先端で紫が深くなる。泡はない。濁りもない。同じ大きさのしずくが、袋の中にまだ残っている。

 

「何個ある」

 

「色違いも合わせて、10個分くらいです」

 

「なら、なおさら雑に作れない」

 

「え」

 

 リュシアが横から言った。

 

「澪、あんた余り物を出したつもりだろ」

 

「はい」

 

「こっちでは、余り物じゃないよ」

 

 銀細工師はグラデーションストーンを布の上に置き、澪を見た。

 

「数が少ないなら、安く売るな。最初の値段で、次の値段が決まる」

 

 澪は、まだその重さをよく分かっていなかった。

 

 ただ、リュシアがその言葉に静かに頷いたのを見て、これはあとで絶対に帳面の前で怒られるやつだと思った。

 

「どのくらいかかりますか」

 

 澪が聞くと、銀細工師は材料と一号機を見比べた。

 

「一から銀を延ばすなら無理だ。だが、この帯を使っていいなら話は違う」

 

「使ってください。そのために持ってきました」

 

「初日は試す。2日目に作る。3日目に留める。10本、仕上げる」

 

「10本も?」

 

「この材料なら、だ。こちらの銀から作るなら、まず帯を揃えるだけで時間が消える」

 

 銀細工師は覆輪線を1本つまみ上げた。

 

「これは使いやすい。腹が立つほどに」

 

 支払いの話になった時、リュシアは澪より先に口を開いた。

 

「3日、工房と弟子の手間、試作料、急ぎ仕上げ込みで小金貨1枚」

 

 澪は喉の奥で息を詰まらせた。

 

 小金貨1枚。

 

 高い。

 

 けれど、リュシアが澪を見る目は、引くなと言っていた。

 

「職人を安く使うと、次がなくなる」

 

 澪は口を閉じ、頷いた。

 

「お願いします」

 

 銀細工師は短く頷いた。

 

「預かった。3日後に来い」

 

 

 

 

 

 3日後、工房の作業台には、布の上に10本のネックレスが並べられていた。

 

 夕焼け色。

 

 青紫。

 

 淡い緑。

 

 薄桃色。

 

 色の違うグラデーションストーンが、それぞれ銀の枠に抱えられている。澪の一号機とは完全に同じではなかった。銀枠は少し太い。裏板はやや厚い。バチカンには小さな葉のような飾りが入っているものもある。

 

 けれど、グラデーションストーンを邪魔していなかった。

 

「……できてる」

 

 澪が呟くと、銀細工師は少しだけ顎を上げた。

 

「3日と言った」

 

「本当に3日で」

 

「材料が揃っていたからだ。石の先端は強く押さえていない。裏板は少し厚くした。落とした時に割れにくい方がいい」

 

 澪は1本を手に取った。

 

 夕焼け色のものだった。自分の一号機より少し落ち着いている。銀枠が少し太い分、日常で身につけるにはこちらの方が安心かもしれない。

 

 エレナがすぐ手を伸ばした。

 

 リュシアがその手を止める。

 

「先に検品だよ、姫様」

 

「見ているだけだ」

 

「その言葉は、荷車の横でも聞いたね」

 

 エレナは不満そうだったが、手を引っ込めた。

 

 銀細工師はその様子を見て、少しだけ笑った。

 

「姫様が壊す前に箱へ戻せ」

 

「壊さない」

 

 エレナは小さく言った。

 

 澪は箱を用意しながら、心の中で「扇子」とだけ呟いた。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、澪はネックレスを机の上に並べた。

 

 一号機は左端に置いた。

 

 売らない。

 

 絶対に売らない。

 

 その横に、外注品10本を並べる。箱も並べる。レシートも並べる。帳面を開いた瞬間、澪はもう逃げられない気持ちになった。

 

 グラデーションストーン残り分:1,200円。

 

 銀板、覆輪線、銀ろう、バチカン用銀材:22,000円。

 

 SV925細チェーン10本:12,000円。

 

 磨き布、紙やすり、消耗品按分:2,000円。

 

 ネックレス箱10個:6,000円。

 

「箱、やっぱり高い……」

 

 澪はレシートを見て、少しだけ顔をしかめた。

 

 だが、箱に入ったネックレスを見ると、箱が必要なことも分かってしまう。手のひらにそのまま載せる品ではない。きちんと入れる場所があるだけで、品物の顔が変わる。

 

 現代側合計:43,200円。

 

 銅貨換算:約508枚。

 

 さらに、異世界側の費用。

 

 銀細工師への3日分支払い:小金貨1枚=銅貨1,000枚。

 

 リュシア紹介料/手数料:銀貨1枚=銅貨100枚。

 

 異世界側合計:銅貨1,100枚。

 

 澪は数字を足した。

 

 銅貨508枚+銅貨1,100枚=銅貨1,608枚。

 

 完成数:10本。

 

 1本あたり原価:約銅貨161枚。

 

 澪はそこで一度、深く息を吐いた。

 

「原価は……思ったより低い。いや、低くない。高い。でも、1本で見ると……」

 

 販売価格の欄に、澪は銀貨3枚と書きかけた。

 

 銀貨3枚=銅貨300枚。

 

 利益は出る。

 

 銅貨161枚で作って、銅貨300枚で売る。帳面の上では赤字ではない。

 

 だが、筆先が紙に触れる直前で止まった。

 

 リュシアの顔が浮かんだ。

 

 安く売るな。

 

 職人の値段を下げるな。

 

 最初の値段が、次の値段になる。

 

 澪は、ネックレス箱を閉じた。

 

「……相談しよう」

 

 

 

 

 

 リュシアは澪の説明を最後まで聞いた後、静かに言った。

 

「澪、今いくらにしようとした」

 

「銀貨3枚くらいで……」

 

「原価で値段を決めるな」

 

 声が低かった。

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

「でも、利益は出ます」

 

「澪の帳面の上では出る。でも市場では別だ」

 

 リュシアは箱に入ったネックレスを指で示した。

 

「これは泡のない透明なグラデーションストーンだ。中で色が変わる。銀細工師が枠を作った。箱に入っている。欲しいと言ったのは侯爵家の姫様だ。代わりがない」

 

「はい」

 

「そういう品を銀貨3枚で出したら、次からそれが値段になる」

 

 澪は黙った。

 

「モノの値段には相場がある。澪が勝手に下へ売り崩したら、あとで戻せない」

 

「売り崩し……」

 

「安く売るのは簡単だ。でも、一度安く見せた品を高く戻すのは難しい」

 

 リュシアはさらに続けた。

 

「それに、あんたの国では金の値段が下がるんだろ」

 

「はい」

 

「なら、なおさら利幅を取る。金貨で受け取る商売なのに、金の値下がりを忘れる商人はいない」

 

 澪は返事ができなかった。

 

 リュシアは、澪の顔を見たまま言った。

 

「正金貨1枚」

 

 澪は固まった。

 

「正金貨……」

 

「小金貨10枚。安くはない。でも、この品を最初に出す値段としてはそこだよ」

 

「高すぎませんか」

 

「高い品なんだよ」

 

 その一言は、澪の胸にまっすぐ入った。

 

 高く売るのではない。

 

 高い品として扱う。

 

 澪は帳面を開き、銀貨3枚の横に小さくバツをつけた。

 

 エレナ用:正金貨1枚。

 

 正金貨1枚=小金貨10枚=銀貨100枚=銅貨10,000枚。

 

 1本あたり原価:約銅貨161枚。

 

 販売価格:銅貨10,000枚。

 

 差し引き:約銅貨9,839枚。

 

 数字が大きすぎて、澪は少し青ざめた。

 

「……余り石のつもりでした」

 

「市場では、余り物が宝物になることもある。ただし、宝物の値段をつけられない商人は、宝物を扱っちゃいけない」

 

 リュシアは、そう言って箱を閉じた。

 

 

 

 

 

 侯爵邸へ向かう道で、澪は何度も箱の包みを確認した。

 

 市場で品物を渡すのとは違う。相手は侯爵家だ。門も大きい。石畳もきれいだ。侍女の服も整っている。澪は自分の靴の先が急に気になった。

 

「リュシアさん、本当に正金貨1枚でいいんでしょうか」

 

「むしろ、ここで銀貨なんか言ったら怒られるよ」

 

「怒られるんですか」

 

「怒られるね。私なら怒る」

 

 澪はまだよく分かっていなかった。

 

 応接室には、エレナが待っていた。市場の少年服ではなく、今日は侯爵家の娘らしい服だった。けれど、目は市場で澪の胸元を見つけた時と同じだった。

 

 澪が箱を開けると、エレナは真っ先に夕焼け色を見つけた。

 

「一号機ではない」

 

「はい。一号機は売りません」

 

「まだ言っていない」

 

「先に言いました」

 

 エレナは少しだけ悔しそうにしたが、箱の中から目を離さなかった。

 

 そこへ、静かな足音が近づいた。

 

 入ってきた女性を見て、エレナが少し背筋を伸ばす。

 

「お母様」

 

 エレナの母だった。

 

 さらに、若い貴婦人が続く。エレナの兄嫁らしい。二人とも、最初は娘がまた市場から何かを持ち込んだのだと思っていたのだろう。けれど、箱の中を見た瞬間、表情が変わった。

 

「エレナ、それを市場で見つけたの?」

 

「澪が作った一号機を見つけました。これは職人に作らせたものです」

 

 母は澪を見た。

 

「一号機は?」

 

 澪は反射的に胸元を押さえた。

 

「売りません」

 

 兄嫁が小さく笑った。

 

「それほど気に入っているものを見本にしたのね」

 

 澪は少し顔が熱くなった。

 

 エレナは夕焼け色を選んだ。

 

 母は青紫を手に取った。

 

 兄嫁は淡い緑を見た。

 

 箱の中の10本は、それぞれ少しずつ違う顔をしていた。グラデーションストーンの色、銀枠の装飾、バチカンの形。けれど、どれも箱に収まると、ちゃんと侯爵家の応接室の空気に耐えていた。

 

 母が言った。

 

「残りは?」

 

「全部で10本です」

 

 澪が答えると、母はすぐに判断した。

 

「全部いただきましょう」

 

 澪が固まった。

 

「全部、ですか」

 

 兄嫁が箱をひとつ閉じた。

 

「この手の品は、家の外へ半端に出すと、誰が先に持ったかで面倒になります。侯爵家でまとめて買った方がよいでしょう」

 

 エレナは少し不満そうにした。

 

「私が見つけたのに」

 

 母は穏やかに返した。

 

「だから、最初に選ばせました」

 

 エレナは、それで少しだけ納得した顔になった。

 

 リュシアが静かに価格を出した。

 

「1本、正金貨1枚です。10本で正金貨10枚になります」

 

 澪は息を止めた。

 

 母は驚かなかった。

 

 兄嫁も驚かなかった。

 

 侍女だけが、ほんの少し目を動かした。

 

「妥当ですね」

 

 母はそう言った。

 

 澪は心の中で叫んだ。

 

 妥当。

 

 正金貨10枚が、妥当。

 

 リュシアは、わずかに目を細めただけだった。

 

 なんとなく分かっていたのだろう。

 

 侯爵家の姫様が市場で見つけた、泡のない透明なグラデーションストーン。しかも箱入りで、銀細工師の仕事。エレナだけで終わるはずがない。

 

 澪は、やっと少しだけ分かった。

 

 リュシアは、最初から1本だけ売るつもりではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 侯爵邸を出た後、正金貨10枚が布に包まれて澪の前に置かれた。

 

 重い。

 

 ただただ、重い。

 

 澪はしばらく言葉が出なかった。

 

 頭の中で、さっきの数字が勝手に動く。

 

 総原価、銅貨1,608枚。

 

 販売価格、正金貨10枚。

 

 正金貨10枚=銅貨100,000枚。

 

 差し引き、銅貨98,392枚。

 

 円換算はしなかった。

 

 したら、座り込む気がした。

 

「……余り石のつもりでした」

 

 澪がようやく言うと、リュシアは軽く頷いた。

 

「市場では、よくあることだよ」

 

 澪はリュシアを見た。

 

「なんとなく分かってましたね」

 

 リュシアは否定しなかった。

 

「姫様が市場で見つけた首飾りを、侯爵家の奥方が見ないわけがないだろ」

 

「教えてください」

 

「教えたら、澪は箱を3つしか持ってこなかっただろ」

 

 澪は反論できなかった。

 

 たぶん、本当に3つしか持ってこなかった。

 

「だから全部持って行かせた。値段も下げさせなかった。売り崩しを防ぐには、最初の客が大事なんだよ」

 

 澪は正金貨の包みを見た。

 

 重い。

 

 これはただの大儲けではない。

 

 次の材料費。

 

 銀細工師への次の支払い。

 

 修さんへの材料代。

 

 税金分。

 

 そして、相場を壊さず続ける責任。

 

「これ、もう余り石じゃないですね」

 

「だから言っただろ」

 

 リュシアは静かに言った。

 

「宝物の値段をつけられない商人は、宝物を扱っちゃいけない」

 

 六畳間に戻った澪は、帳面を開いた。

 

 グラデーションストーンネックレス10本。

 

 正金貨10枚。

 

 その下に、震える字で書く。

 

 余り石ではなかった。

 

 さらに小さく書き足す。

 

 次から、最初にリュシアへ値段を聞く。

 

 書き終えてから、澪は左端に置いていた一号機を見た。

 

 夕焼け色のしずくは、静かに光っていた。

 

 売らなくてよかった。

 

 けれど、見せたせいで大変なことになった。

 

 澪は額に手を当てた。

 

「一号機、あなた、商売を連れてきましたね……」

 

 もちろん、ネックレスは何も答えなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。