冬の朝は、飛行船の影だけがまだ青かった。
空はもう明るくなり始めているのに、巨大な船体の下には夜の冷たさが残っている。荷扱い場の戸が開くたび、白い息を吐いた作業員が出入りし、靴底と木箱の音が短く響いた。
カーゴの中で、真壁は一番低い位置に固定された金属貨物へ手を当てた。
動かないことを確かめると、そのまま次の列へ移る。
鉄と銅の箱は低く、重さが片側へ寄らないよう分けてある。ニッケル、錫、鉛も同じだ。その上へ無理に荷を積まず、人が通れる幅も残していた。
「こっちは終わったよ」
少し離れたところで、リュシアがポーションの箱を閉じた。
中には透明なガラス瓶が仕切りごとに収まっている。瓶同士が触れないよう隙間が埋められ、スクリューキャップも閉まっていた。
真壁は箱を持ち上げるのではなく、軽く揺すって中の音を聞いた。
「問題ないな」
「中身より瓶を心配してる顔だね」
「割れれば商品にならん」
「それはそうだけどさ」
リュシアは箱の横に置かれた積荷一覧へ目を落とした。
もう何を持っていくかを決める段階ではない。
鉄も銅も、ガラス用ペレットも、セルマの高級ポーションも、先に聞いている需要に合わせて準備を終えている。
リュシアの頭にあるのは、着いてから誰へ何を先に見せるかだった。
金属は欲しがる相手が分かりやすい。
高級ポーションも医療側の需要がある。
ガラス用ペレットは職人へ回せばいい。
そこで視線が止まった。
別の箱に、味噌と醤油。
隣には芋焼酎。
「……で、本当にこれも売るんだね?」
真壁は荷札を見た。
「事前申告にも入っている」
「それは知ってるよ」
「なら問題ないではないか」
「そういう意味じゃないんだよ」
リュシアは味噌の箱を軽く叩いた。
「金属とポーションの横に味噌が並ぶとは思わなかっただけさ」
「念のためだ」
「だから、その念は何なんだい?」
「売れる可能性はある」
「最初からそう言いな」
真壁は答えず、芋焼酎の箱の固定具を締め直した。
リュシアはその背中を見て、もう突っ込まなかった。
売れるかどうかは、向こうで分かる。
売れなければ持ち帰ればいい。
少なくとも、今朝になって思いつきで積んだ物ではない。
「積載完了です」
乗組員の声が飛んできた。
真壁はカーゴの奥から入口まで一度見渡した。
重い物は低く、割れ物は離す。荷役の時に先へ出す物は通路側に寄せてある。
限界まで積むためではなく、普通に運んで、普通に降ろせるようにする。
その方が今日の目的には合っている。
外へ出ると、朝の冷気が頬へ刺さった。
ちょうどアルベルトたちが到着したところだった。
レオンハルトは飛行船より先に、周囲を動く乗組員と係留位置へ目を向けている。
アルベルトは船体を見上げてから、カーゴへ運び込まれる最後の小箱へ視線を移した。
その横で、エレナだけは完全に上を見ていた。
「朝に見ると、また大きく見えるな」
「エレナ」
「近づいていないぞ」
アルベルトが何も言う前に、エレナが一歩戻った。
「まだ何も言っていない」
「言う顔をしていた」
リュシアが口元を緩める。
真壁はその間に乗員へ搭乗者を引き渡していた。
「アルベルト殿、準備は終わっています」
「ああ。予定どおりだな」
「はい」
誰も、行くかどうかを相談しない。
誰も、何を積むかを話し合わない。
準備された荷があり、予定された人が来て、乗組員がそれぞれの位置へ入っていく。
真壁も搭乗口へ向かった。
外国へ飛ぶ朝なのに、不思議なくらい慌ただしさはなかった。
巨大な飛行船が、少しずつ特別な機械ではなくなっている。
商売に使うための輸送機へ近づいていた。
全員が乗り込むと、外の声が一段遠くなった。
船内へ低い運転音が伝わり、床にかすかな振動が続いている。
窓の向こうでは地上係員が係留具の周囲から離れ始めていた。
レオンハルトが真壁へ向き直る。
「真壁殿。火山東街道を通る時の対応を確認しておきたい」
「今回は魔物の間引きはしません」
返事は即座だった。
リュシアは特に驚かなかったが、エレナが真壁を見る。
これまで飛行船が火山東街道へ向かえば、魔物への対応と結びつくことが多かった。
レオンハルトもそこを聞いている。
「反応を見つけても、ですか」
「危険回避が必要でない限り、そのまま進みます」
真壁は窓の外へ一度目をやった。
地上係員が最後の係留具へ手をかけている。
「仮に商隊が襲われているのを上空から見つけても、今回は降りません」
エレナの眉が動いた。
「助けられるとしてもか?」
「はい、エレナ様」
真壁は航路を示す地図へ指を置いた。
「目的地は約600km先です。途中で見つけた問題へ一つずつ降りれば、到着時間が読めなくなる。それでは商路にはなりません」
「だが、見えてしまったら気にはなるだろう」
「なります」
真壁はそこを否定しなかった。
「しかし、助けられることと、それをこの便の仕事にすることは別です」
エレナは地図を見た。
長い線の途中には、町も街道もある。
その全部に何か起きるたび飛行船が降りるなら、確かに荷物はいつ着くか分からない。
隣からリュシアが言う。
「客は今日届くと思って待つんだよ。途中で何かあるたび遅れるなら、空路にした意味が薄くなる」
「なるほど」
エレナは素直に引いた。
アルベルトが腕を組んだまま口を開く。
「押入商会が出来ることを、すべて押入商会の責任にする必要はない。街道の問題は街道の側で処理するべきだ」
「その通りです、アルベルト殿」
レオンハルトは話を戻した。
「では、こちらの護衛対象は飛行船、乗組員、同行者。道中の討伐は任務外とします」
「お願いいたします、レオンハルト殿」
話が終わるのとほぼ同時に、外で金属音がした。
最後の係留が外れる。
船体がゆっくり浮き始めた。
窓の下で、地上の人々が少しずつ小さくなる。
エレナは反射的に窓際へ寄ったが、今日は魔物を探すためではなかった。
重い金属も、割れやすい薬も、人もまとめて積み、道も橋も峠も通らず南へ運ぶ。
そのための飛行船だった。
真壁は速度が安定するのを待ってから、乗員へ短く告げた。
「経済巡航へ移行する」
機関の音が一定になる。
飛行船は旋回することなく、そのまま南へ向かった。
高度を取ると、領都はすぐに町の形へ戻った。
屋根の一枚一枚は見えなくなり、道が細くなり、畑は色の違う四角へ変わっていく。
「兄上、あの道は領都から南へ出る街道だな」
エレナは窓へ顔を寄せた。
「そうだ。身を乗り出すな」
「乗り出してはいない」
「ならそのままでいろ」
エレナは返事をせず、外を見続けた。
川が光り、森林の切れ目から小さな集落の煙が上がっている。
地上なら、あの道を曲がり、川を渡り、村を抜けていく。
空からは全部が一度に見えた。
アルベルトも窓の外を見ている。
ただし妹ほど景色そのものを楽しんでいるわけではない。
領都から何日もかけて運ぶ荷が、今は何の苦労もなく後方へ流れていく。
橋が狭いかどうかも、道がぬかるんでいるかも関係ない。
同じ景色を見ながら、リュシアは時刻へ目をやった。
「このままなら、本当に朝に出した商品がその日のうちに向こうへ着くね」
「標準状態なら、おおむね150km/hだ」
真壁は航路と船体状態を見ながら答える。
「積載や天候で変わる。毎回同じ時間とは限らん」
「それでも馬車とは比べられないよ」
リュシアの視線はもう帰り荷へ向いている。
レヴァニアには農産物が余っている。
こちらへ持ち帰る物を、向こうで何に替えるか。
売る前から帰りの商売まで考えている。
レオンハルトだけは、窓から見える街道へ何度も目を向けた。
やがて畑が減り、岩肌の色が増えていく。
火山帯だった。
灰色と茶色の斜面が続き、植生の薄い場所では地形の起伏がそのまま見える。
その間を、火山東街道が細い線になって延びていた。
真壁が地図へ目を落とす。
地上には魔物の反応もある。
だが船首は動かなかった。
速度も変わらない。
レオンハルトもそれを見て、何も言わない。
討伐へ来たのではない。
今は予定した荷を、予定した場所へ運ぶ便だ。
火山帯を越える頃、地上の色がまた変わり始めた。
険しい岩場が後ろへ流れ、その先には農地が広がっている。
エレナが窓へ目を凝らした。
「国境はどこだ?」
真壁が地図を見る。
「もうすぐです」
「印でもあるのか?」
「地上には関所がありますが、空に線はありません」
「それは分かっている」
言い切った直後、エレナは少しだけ窓から離れた。
アルベルトは何も言わなかった。
やがて真壁が顔を上げる。
「今、越えました」
エレナが外を見る。
畑も、道も、空も同じだった。街道には荷馬車が走り、レヴァニア国内へ入れば道が普通に使われていることが空からも分かる。
「……本当に何も変わらんな」
「国が変わったからといって、空の色までは変わらん」
アルベルトの言葉に、エレナは口を尖らせる。
「知っている」
その横で真壁は、すでに次の作業へ入っていた。
「ここから先は先方との取り決めどおりに進入します」
飛行船がわずかに進路を変える。
王都へ最短距離で向かうのではない。
外国側が指定した進入経路へ乗る。
エレナはその動きに気づいた。
「真っすぐ行かないのか」
「飛べる場所と、飛んでよい場所は別です」
真壁の返事に、エレナは今度こそ何も言わなかった。
空に国境線はなくても、約束はある。
飛行船はその見えない道へ沿って、王都郊外へ向かった。
王都方面の建物が遠くに見え始めても、飛行船はそちらへ向かわなかった。
指定された進入方向を保ったまま、郊外へ回り込む。
やがてエレナが窓の先を指した。
「あれか?」
平坦な土地の一角に、飛行船1隻を受け入れる設備が見えた。
巨大な空港のようなものではない。
係留設備と、荷を降ろすための平地。積荷を確かめる場所、荷車が寄れる道、役人が待機する小さな建物と警備の人員。
必要な物だけがまとまっている。
「これが真壁殿の言っていたドックか」
アルベルトが窓の外を見た。
「はい。まずは1隻分だけです」
真壁は自分が造ったドックより、その周囲を見ていた。
地上監察の人員は所定の位置にいる。
係留区域にも人が入っていない。
荷車はまだ近づかず、着陸後に動ける位置で待っている。
出発日も、到着予定も、搭乗者も積荷も前もって知らせてある。
だからこそ、飛行中にこちらと話せなくても、地上側は待てる。
リュシアは役人より、その後ろにいる荷車と商人らしい人影を見ていた。
「もう集まってるね」
「予定時刻を出してあるからな」
「着いたら休む暇はなさそうだ」
「そのために来たのではないか」
「分かってるよ」
レオンハルトは会話に加わらず、警備の位置と船へ近づける道を追っている。
エレナは逆にドックの構造そのものへ目を向けていた。
「向こうで待っているのを見ると、本当に外国へ船を入れるんだな」
アルベルトは短く息を吐いた。
自領で試験していた飛行船が、今は外国政府の管理する入口へ入ろうとしている。
速く飛べるかどうかは、もう問題ではない。
相手国が正式な経路として受け入れている。
その方が大きかった。
飛行船が減速する。
高度もゆっくり下がった。
地上では監察担当者が進入方向を見ている。
船体の影が伸び、草と衣服が風に揺れる。
真壁は余計な指示を出さない。
この到着のために決めた手順どおり、乗組員が船を入れていく。
速度を落とし、高度を下げ、ドックへ進入する。
係留具が届く高さまで下がると、地上係員が動き始めた。
金具がつながれ、船体の揺れが収まっていく。
機関の出力が落ちると、今まで遠かった地上の音が戻ってきた。
人の声。
荷車の車輪。
馬が蹄で土を鳴らす音。
「着いたな」
アルベルトが言った。
真壁はまだ窓の外を見ている。
「はい。まずは入港までです」
安全確認が終わり、乗客が降りる。
地面へ足を置いたリュシアは、すぐ貨物扉の方を見た。
ここから先は、飛行船を飛ばす仕事ではない。
積んできた物を、外国の制度の中で売る仕事になる。
その入口で、役人たちの中から1人の男がこちらへ歩いてきた。
男は飛行船を一度見上げた。
近くで見れば、視線が上へ向くのは仕方がない。
だが立ち止まって見物することはなかった。
すぐに真壁たちへ向き直り、手にしていた紙を整える。
「ナジム・アルタンです。今回の関税を担当します」
40代後半ほどに見える。
服装に派手さはなく、動きやすそうな上着もきちんと整っている。片手には事前に提出された積荷一覧、もう片方には帳面を持っていた。
真壁が応じる。
「真壁だ。よろしく頼む」
ナジムはアルベルトたちにも礼を取り、それから貨物区画へ目を向けた。
侯爵代理が乗ってきていても、検査を省く様子はない。
アルベルトも前へ出ようとはしなかった。
ここは外国だ。
自分の身分で相手国の手続きを変えさせる場面ではない。
貨物扉を開く準備が進む間に、リュシアがナジムへ聞いた。
「税は、今日ここで全部決めるのかい?」
「いいえ」
ナジムは一覧の最初の頁を開いた。
「今日は持ち込まれた品目と数量を照合します。王都で売却された際に、何がどれだけ、いくらで売れたかをこちらで追います」
リュシアの目が帳面へ移る。
「売れた分を最後にまとめる?」
「その通りです。滞在の終わりに売却内容を集計し、それを基準に税額を出します。帰国前に納めていただきます」
「売れずに持ち帰る分まで、売った扱いにはしないんだね」
「しません」
「それなら分かった」
税率の話より先に、リュシアの顔から引っ掛かりが消えた。
何を基準に取られるのか。
いつ金額が決まるのか。
そこが分かれば、商談の組み方も変えられる。
「こちらも異存はない」
真壁が短く答えた。
ナジムはそれ以上制度を説明せず、積荷一覧へ指を置く。
「では始めましょう」
貨物扉が開いた。
午後の光がカーゴの中へ入り、木箱の列を照らす。
飛行船そのものは巨大でも、始まる仕事は地道だった。
箱を開け、一覧と数量を照らしていく。
ナジムの横で別の役人が数を追い、帳面へ印を入れていった。
最初は鉄。
重量のある貨物を見て、ナジムは申告された数量と照らす。
次に銅。
ニッケル、錫、鉛。
金属類は淡々と進んだ。
ナジムの手も止まらない。
レオンハルトは積荷より、船の周囲にいる人間へ目を配っている。
エレナは検査の邪魔にならない位置から、開かれていく箱を見ていた。
次に出てきたのはガラス用ペレットだった。
透明な粒が容器の中で光を返す。
存在自体は先に知らされているため、ナジムは驚かない。
ただ、近くにいた関係者の視線が集まった。
粒の揃い方を見ようと、首を伸ばす者もいる。
リュシアはそれを横目で拾った。
売る相手を探すのは、もう始まっている。
次はセルマの高級ポーション。
箱を開けると、透明なガラス瓶が仕切りの中に並んでいた。
ナジムは薬効を調べようとはしない。
申告された高級ポーションとして、まず本数を追う。
その横で別の役人が瓶口に目を留めた。
「この栓は?」
「回して開け、戻して閉める」
真壁が必要なことだけ答える。
役人は1本を手に取り、スクリューキャップを回した。
開いて、閉じる。
もう一度開いた。
「また閉じられるのですね」
「ああ」
興味は出たが、そこで瓶の商談にはならない。
ナジムは本数を照合すると、次の行へ進んだ。
そして一覧の文字と、出された容器を見比べる。
「味噌」
名称はすでに申告書にある。
だから持ち込みそのものに疑問はない。
ただ、蓋を開けたナジムの視線が一瞬止まった。
次は醤油。
こちらも名称を見てから実物を見る。
さらに芋焼酎。
「酒です」
リュシアが言うと、ナジムはそこは素直に理解した。
問題は、どれも書類に書いてあるのに、使い方が見えないことだった。
味噌を何と食べるのか。
醤油を何へ使うのか。
芋焼酎がどんな酒なのか。
検査に立ち会っていた者たちの視線が、品物から真壁とリュシアへ移る。
さっきまで数量を照合するだけだった空気が変わった。
リュシアはその変化を逃さなかった。
外国へ飛行船を入れるところまでは終わった。
ここから先は、飛べるかどうかではない。
これを、どう売るかだった。