空の関所を出ると、街道にはもう昼の荷が動いていた。
麦袋を積んだ荷車が王都へ向かい、空になった荷車が反対側へ戻っていく。豆の袋、酒樽、薪、野菜籠。馬の鼻先から白い息が上がり、車軸のきしむ音に御者の声が重なった。
リュシアの目は、遠くに見え始めた城壁より先に、すれ違う荷車へ向いた。
麦袋を積んだ車が2台続き、その後ろには豆の袋。反対から来た荷車は空だった。
「麦も豆も多いね」
真壁は前方へ視線を置いたまま答えた。
「聞いていた通りだな」
「聞くのと見るのは別だよ」
リュシアは窓の外へ顔を戻した。
真壁から、レヴァニア王都では農産物に余裕があると聞いている。だが、実際に大麦や豆を積んだ車が途切れず走っているのを見ると、言葉だった情報がようやく市場の形になった。
空の関所で降ろされた商品も、荷車へ移されて王都へ向かっている。
600kmを飛んできた鉄や薬が、そこで旅を終えるわけではない。町の商人の手へ届くところまで運んで、ようやく荷物が商売になる。
馬車は王都へ近づくにつれ速度を落とした。
土の路肩が減り、石を敷いた道が増えていく。
軒下には薪が積まれ、穀物袋の表面には白い粉がついている。パンを焼く煙に、どこかから肉を焼く匂いが混じった。
自動馬を珍しそうに見る者はいる。
けれど立ち止まって人だかりになるほどではない。
荷を急ぐ者は荷を急ぎ、店先の者は客へ声をかける。外国の王都でも、商売の時間は普通に流れていた。
アルベルトが窓の外を見てから言った。
「我々はここで分かれる」
前方の建物へ目を向ける。
王家への拝謁手続きを進めるため、アルベルトとレオンハルトは別に動く予定だった。
「承知した。では、明日の件はアルベルト殿にお任せしよう」
「ああ」
真壁はそれだけ言って、馬車を降りる2人を見送った。
リュシアも手を軽く上げる。
「こっちはこっちで商売してくるよ」
「頼む」
レオンハルトは周囲へ視線を走らせてから、アルベルトと一緒に下りた。
扉が閉まる。
馬車には真壁、リュシア、ナジムが残った。
ナジムが商業地区へ向かう道を示す。
「この先です」
ナジムは窓の外へ目もやらず、次の角を指した。
リュシアは逆に、町の音が増えるほど落ち着かなくなった。
金槌の音、木箱を下ろす音、車輪、呼び込み。
市場の近くを通ると、店先の商品札まで目へ入る。
「リュシア君」
「分かってるよ。まだ降りない」
真壁に言われる前に返した。
「何も言っていないが」
「言う顔をしてたよ」
真壁は前を向いたまま黙った。
馬車が商業地区へ入ると、リュシアの視線はもう店先から離れなくなっていた。
ルネスタの商会は、荷物が動く音の絶えない場所だった。
豪華な応接室ではない。
商談用の机があり、秤があり、商品札があり、見本の品が棚へ置かれている。扉が開くたび冷たい空気と街の音が入り、そのたび誰かが荷を持って出入りした。
ルネスタは、すでに買付希望をまとめていた。
「鉄なら、まずこちらです。銅は別の商会からも話が来ています」
ルネスタが2枚の紙を机へ置いた。
リュシアは片方を取り、希望量のところで指を止めた。
「ずいぶん欲しがってるね」
「不足していますから」
最初の買い手が入ってくる。
挨拶の後、鉄の見本が机へ置かれた。
鈍い音がした。
商人は表面へ指を当てると、すぐ使う量の話へ入った。
品そのものを疑っている様子はない。
以前から不足していて、すでに使えることも分かっている。
「用意できる分を、まとめて引き取りたい」
リュシアは即答しなかった。
「全部は出さないよ」
商人が顔を上げる。
「欲しいのはあなただけじゃないからね」
「だが、こちらは継続して必要になる」
「それなら、なおさら最初から一軒に全部渡すわけにはいかないだろ?」
商人の指が机の上で止まった。
リュシアは希望量と用途を聞くと、残量を書いた札を自分の方へ引いた。
「次の人の分も残す。今日はここまでだね」
相手が出した条件に、リュシアが一度首を振る。
短いやり取りのあと、互いに手が止まる場所が決まった。
「それでいこう」
最初の売却が成立した。
ナジムが脇で帳面を開く。
品目、数量、売却額。決まった内容だけを淡々と書き込んだ。
次の商人は銅だった。
赤みのある見本を手に取り、すぐに聞く。
「次も同じ物が来るのか?」
そこで初めて真壁が口を開いた。
「同じ規格での供給は可能だ。量については次便の積載と相談になる」
「毎回同じ品質なら助かる」
「そこは揃えられる」
「では価格ですが――」
買い手がリュシアへ向き直った。
「次の話は次の話だよ。今日は今日の分を決めようじゃないか」
銅も一軒で終わらなかった。
別の商人が入り、また希望量を出す。
「残りを全部欲しい」
「全部は出さないよ」
「またですか」
「まただよ」
ルネスタの口元がほんの少し動いた。
商談が一件終わると、次の者が扉を開ける。
外では別の木箱が荷車から下ろされていた。
机の上の木札が移動し、ナジムの帳面には行が増えていく。
リュシアは売却済みの札を横へ除け、残った鉄の量を見た。
「次は?」
ルネスタはもう次の紙を出していた。
鉄と銅の商談が片づく頃には、冬の日が少し傾き始めていた。
それでも商業地区の熱は落ちない。
通りの向こうから金属を叩く音が響き、別の店先では荷車が横づけされている。
次に向かったのはガラスを扱う者たちのところだった。
見本を置くと、反応は鉄の時とは違った。
「これを、売り物として持ってきたのですか」
透明なペレットを手の上へ出し、光へ透かす。
粒が転がる小さな音がした。
真壁が答える。
「商品として用意した」
それだけで、視線がリュシアへ移る。
「どのくらいあります?」
「欲しい量を先に言っておくれ。持ってきた分には限りがあるからね」
ガラス職人は量より先に粒を指先で転がした。
窓から入る光へ透かし、隣の職人へ何か短く言う。
「次も、この大きさで揃いますか?」
真壁が答えた。
「揃えられる」
「なら話が早い」
リュシアはその食いつき方を見て、売る先を一つに絞らなかった。
複数の希望へ分けて出す。
ナジムの帳面に、また売却内容が増える。
次は錫だった。
こちらは派手ではない。
必要な商会が必要な量を取り、話は早く終わる。
鉛も同じだった。
買う者は迷わないが、誰もが欲しがるわけではない。
ニッケルになると、さらに人が減った。
見本を前にして考え込む者もいる。
「こっちは鉄みたいには動かないね」
リュシアが小声で言う。
ルネスタが答えた。
「使うところが限られます」
「なら、それでいいよ。要らない相手に売りつける物じゃない」
リュシアは残ったニッケルを次の買い手の分へ戻した。
金属商の匂いから離れ、次は薬を扱う側へ回る。
店内へ入ると、乾燥薬草と酒精の匂いが鼻へ入った。
棚には薬瓶が並び、金属の商談とは音まで違う。
セルマの高級ポーションを箱から出す。
透明な瓶へ午後の光が入り、液体の色がわずかに返った。
相手は瓶を持ち上げ、まず内容と用途を確かめる。
「用途は決まっている。品質も揃えてある。次便も同じ状態で運べる」
「空路なら、また持ってこられるのですか」
「供給は可能だ。次便の積載量は他の貨物との兼ね合いになる」
その返答を聞いて、リュシアが商談へ入った。
ここでも価格と数量を詰める。
決まればナジムが帳面へ書く。
ナジムは一度手首を返し、帳面を持ち直した。
次の行にも、品目と数量を書き込んでいく。
店を出ると、通りの影が長くなっていた。
ナジムが頁をめくった。
鉄と銅の行は長い。ガラス用ペレットも複数の買い手が並んでいる。
錫と鉛はそれより短く、ニッケルは1件だけだった。
リュシアはその頁を横から見て、口元を緩めた。
「何でも同じようには売れないか」
「当然でしょう」
「うん。その方が信用できるよ」
リュシアはもう次便を考え始めていた。
夕方、ルネスタの商会へ戻ると、昼に使っていた机はずいぶん片づいていた。
売れた商品の札が減り、確認を終えた紙もまとめられている。
その分、残った3つが妙に目立った。
味噌、醤油、芋焼酎。
リュシアはそれをしばらく見てから、鼻で息を吐いた。
「そりゃ売れないよ」
真壁が振り向く。
「そうか?」
「そうだよ」
味噌の蓋を開ける。
発酵した豆の濃い香りが上がった。
「知らない人に、発酵させた豆の調味料ですって言って、欲しくなると思うかい?」
「成分を説明すれば」
「いらないよ」
真壁の言葉を途中で切る。
醤油の瓶も持ち上げる。
「こっちだって、そのまま舐めたら塩辛いだけだ」
「製法なら――」
「それもいらない」
今度は真壁が黙った。
リュシアは芋焼酎を見る。
芋から作った強い酒。
それだけなら、この国にある酒と何が違うのか伝わらない。
「使い方が分からないんだよ」
真壁が少し考える。
「なら、使用例を示すか」
「そういうこと」
商会の外から夕食時の匂いが入ってきた。
焼いた肉、薪、香辛料。どこかの酒場から流れてくる煙。
リュシアの目が扉の方へ向いた。
「食べ物なんだから、食わせた方が早い」
「なるほど」
「その顔は、また何か説明するつもりだったね?」
「少しだけだ」
「少しじゃない顔してたよ」
ルネスタが聞いていた。
リュシアは顔を向ける。
「商人がよく使う酒場、あるかい? 料理人の腕が悪くないところ」
ルネスタは少し考え、店を一つ挙げた。
「商談をするなら、ここでは?」
「今夜は商談しないよ」
リュシアはすぐ返した。
「味を知ってもらうだけ。買う話は明日」
「明日、場所を借りるよ」
「分かりました」
ルネスタはそれ以上聞かなかった。
ナジムは今日の帳面を脇へ抱え直す。
「私は同行します」
「税のためかい?」
「売る予定の商品が、何をする物なのかは知っておきたいので」
「真面目だねえ」
ナジムは否定もしなかった。
真壁が3品を持てるようにまとめる。
リュシアは味噌と醤油を包み直した。
「行こうか。腹が減ってる客のところへ」
酒場の扉を開けた途端、冷えた外気が背中から押し返された。
中は暖かい。
暖炉と調理火、人の体温、料理の湯気が混ざっている。
焼いた肉の脂、魚、豆、酒、煙と木の匂い。
卓を囲む商人や仕事を終えた職人の声に、皿と杯のぶつかる音が重なった。
リュシアは店主へ事情を話した。
「外国から持ってきた調味料があるんだ。今日は売りに来たんじゃない。料理人として味を見てほしい」
出したのは少量の味噌と醤油だった。
店主はまず醤油をほんの少し舐めた。
眉が動く。
「濃いな。塩気も強い」
次に味噌。
こちらも指先に少し取って味を見る。
すぐにうまいともまずいとも言わなかった。
香りを嗅ぎ、厨房へ目を向ける。
「これは、そのまま食べる物じゃないな」
「そういうことだね」
リュシアは笑う。
「肉に使ってみな」
「どう使う?」
「そこは料理人に任せるよ」
店主は焼きかけの肉を見た。
いつもの塩と香辛料を使い、仕上げに醤油を少量落とす。
熱い鍋に触れた瞬間、香りが変わった。
焦げる匂いではない。
塩だけでは出ない濃い香ばしさが立ち上がる。
近くの卓にいた客が振り返った。
「何だ、その匂い」
店主も鼻を動かし、焼いた肉を一切れ口へ入れる。
少し考えてから、もう一切れ切った。
「使えるな」
次は魚だった。
こちらにも少量。
肉ほど強くせず、香りを残す。
塩だけで焼いた時とは違う匂いが立つ。
味噌は別の鍋へ回った。
肉と豆を煮込んでいた料理へ少し溶かす。
汁の色が濃くなり、湯気の香りも変わった。
店主は味を見てから、もう少しだけ足した。
「こっちは入れすぎると強いな」
「少しで変わるだろ?」
「ああ」
別の皿では、味噌を使った濃いタレを焼いた肉へ合わせる。
厨房だけの試しだったはずが、匂いに釣られて客が気にし始めた。
小皿へ分けて、近くの卓へ回す。
昼間、商会で顔を合わせた商人も混じっていた。
「さっきの肉と味が違う」
「塩だけじゃないな。匂いが残る」
「魚にも使えるのか」
質問が増える。
「これは買えるのか?」
商人の一人が聞いた。
リュシアは即答する。
「買う話は明日だよ」
「今じゃないのか?」
「今日は食べてもらいに来ただけさ。明日、ルネスタのところへ来な」
商人が少し不満そうな顔をする。
それでも皿の肉はもう一切れ取った。
別の者も言う。
「店で使ってみたい」
「それも明日」
リュシアは味噌を使った煮込みを一口食べる。
口元が上がった。
味噌と醤油の皿が一巡すると、店の空気はもう完全に夕食の側へ戻っていた。
新しい調味料の話をしながら肉を食べる者。
魚にもう一度使ってくれと言う者。
店主は気に入った組み合わせを、自分でまた作り始めている。
「最後はこれだね」
リュシアが芋焼酎の瓶を出した。
真壁は事前に用意してきた氷を出す。
店主が用意したグラスへ、大きめの氷が落ちた。
硬い音が鳴る。
そこへ透明な酒を注いだ。
味噌や醤油の時のように、使い方を考える時間は必要なかった。
店主が香りを嗅ぐ。
一口飲む。
目が少し細くなった。
「強いな」
「酒だからね」
リュシアが返す。
店主はもう一度グラスを見る。
普段の酒とは香りが違う。
強さだけではないらしい。
氷が少し溶けたところで、もう一口飲んだ。
それを見ていた商人たちの反応は、料理より早かった。
「こっちも飲ませてくれ」
「少しだけだよ」
小さく試す。
一口目で息を吐く者。
香りを確かめてから飲む者。
先ほどの味噌を使った肉を口に入れ、その後でもう一口飲む者。
反応がすぐ返ってくる。
「こっちは説明がいらないね」
リュシアが真壁へ言う。
「そうだな」
商人がグラスを置く。
「これも明日か?」
「これも明日」
「一本だけでも駄目か?」
「駄目だよ。明日来な」
「飲ませておいて売らないのか」
「だから試飲だって言っただろ?」
周りから笑いが起きた。
ナジムは一口飲むと、すぐ帳面へ目を落とした。
何も書かず、もう一口。
やがて試飲が一巡した。
味噌も醤油も、芋焼酎も、買いたいという声は出た。
昼から頁を埋め続けていた帳面には、酒場へ来てから新しい行が増えていない。
ナジムは帳面を閉じ、仕事用の荷物の脇へ置いた。
真壁がそちらを見る。
ナジムは自分のグラスを取った。
「ここからは仕事じゃない」
リュシアが眉を上げる。
「切り替えが早いね」
「確認は終わりました」
ナジムは芋焼酎を一口飲んだ。
今度は飲んだ直後に帳面を見ない。
肩の力が少し抜け、店主が出した肉の皿へ手を伸ばす。
リュシアが笑った。
「なるほど。そっちは仕事の顔じゃないね」
「税を取る時は戻ります」
「そこは戻るんだ」
「当然です」
真壁も静かに杯を持った。
店主は味噌を使った肉をもう一皿作り、別の卓では醤油を使った魚が回っている。
暖炉の火が揺れる。
外の冷気で窓が曇り、店の中には酒と料理の匂いが満ちていた。
「明日、買いに行くぞ」
「店でも使いたい」
「芋の酒も置けるか聞く」
声が飛ぶたび、リュシアは同じ答えを返す。
「正式な話は明日、ルネスタのところでね」
ナジムはもう帳面を開かなかった。
暖炉の火の向こうで笑い声が上がる。
レヴァニア王都の夜は、味噌と醤油の香りと芋焼酎を、いつもの酒場の中へ少しずつ混ぜながら更けていった。