押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第293話 ここからは仕事じゃない

 

 空の関所を出ると、街道にはもう昼の荷が動いていた。

 

 麦袋を積んだ荷車が王都へ向かい、空になった荷車が反対側へ戻っていく。豆の袋、酒樽、薪、野菜籠。馬の鼻先から白い息が上がり、車軸のきしむ音に御者の声が重なった。

 

 リュシアの目は、遠くに見え始めた城壁より先に、すれ違う荷車へ向いた。

 

 麦袋を積んだ車が2台続き、その後ろには豆の袋。反対から来た荷車は空だった。

 

「麦も豆も多いね」

 

 真壁は前方へ視線を置いたまま答えた。

 

「聞いていた通りだな」

 

「聞くのと見るのは別だよ」

 

 リュシアは窓の外へ顔を戻した。

 

 真壁から、レヴァニア王都では農産物に余裕があると聞いている。だが、実際に大麦や豆を積んだ車が途切れず走っているのを見ると、言葉だった情報がようやく市場の形になった。

 

 空の関所で降ろされた商品も、荷車へ移されて王都へ向かっている。

 

 600kmを飛んできた鉄や薬が、そこで旅を終えるわけではない。町の商人の手へ届くところまで運んで、ようやく荷物が商売になる。

 

 馬車は王都へ近づくにつれ速度を落とした。

 

 土の路肩が減り、石を敷いた道が増えていく。

 

 軒下には薪が積まれ、穀物袋の表面には白い粉がついている。パンを焼く煙に、どこかから肉を焼く匂いが混じった。

 

 自動馬を珍しそうに見る者はいる。

 

 けれど立ち止まって人だかりになるほどではない。

 

 荷を急ぐ者は荷を急ぎ、店先の者は客へ声をかける。外国の王都でも、商売の時間は普通に流れていた。

 

 アルベルトが窓の外を見てから言った。

 

「我々はここで分かれる」

 

 前方の建物へ目を向ける。

 

 王家への拝謁手続きを進めるため、アルベルトとレオンハルトは別に動く予定だった。

 

「承知した。では、明日の件はアルベルト殿にお任せしよう」

 

「ああ」

 

 真壁はそれだけ言って、馬車を降りる2人を見送った。

 

 リュシアも手を軽く上げる。

 

「こっちはこっちで商売してくるよ」

 

「頼む」

 

 レオンハルトは周囲へ視線を走らせてから、アルベルトと一緒に下りた。

 

 扉が閉まる。

 

 馬車には真壁、リュシア、ナジムが残った。

 

 ナジムが商業地区へ向かう道を示す。

 

「この先です」

 

 ナジムは窓の外へ目もやらず、次の角を指した。

 

 リュシアは逆に、町の音が増えるほど落ち着かなくなった。

 

 金槌の音、木箱を下ろす音、車輪、呼び込み。

 

 市場の近くを通ると、店先の商品札まで目へ入る。

 

「リュシア君」

 

「分かってるよ。まだ降りない」

 

 真壁に言われる前に返した。

 

「何も言っていないが」

 

「言う顔をしてたよ」

 

 真壁は前を向いたまま黙った。

 

 馬車が商業地区へ入ると、リュシアの視線はもう店先から離れなくなっていた。

 

 

 

 ルネスタの商会は、荷物が動く音の絶えない場所だった。

 

 豪華な応接室ではない。

 

 商談用の机があり、秤があり、商品札があり、見本の品が棚へ置かれている。扉が開くたび冷たい空気と街の音が入り、そのたび誰かが荷を持って出入りした。

 

 ルネスタは、すでに買付希望をまとめていた。

 

「鉄なら、まずこちらです。銅は別の商会からも話が来ています」

 

 ルネスタが2枚の紙を机へ置いた。

 

 リュシアは片方を取り、希望量のところで指を止めた。

 

「ずいぶん欲しがってるね」

 

「不足していますから」

 

 最初の買い手が入ってくる。

 

 挨拶の後、鉄の見本が机へ置かれた。

 

 鈍い音がした。

 

 商人は表面へ指を当てると、すぐ使う量の話へ入った。

 

 品そのものを疑っている様子はない。

 

 以前から不足していて、すでに使えることも分かっている。

 

「用意できる分を、まとめて引き取りたい」

 

 リュシアは即答しなかった。

 

「全部は出さないよ」

 

 商人が顔を上げる。

 

「欲しいのはあなただけじゃないからね」

 

「だが、こちらは継続して必要になる」

 

「それなら、なおさら最初から一軒に全部渡すわけにはいかないだろ?」

 

 商人の指が机の上で止まった。

 

 リュシアは希望量と用途を聞くと、残量を書いた札を自分の方へ引いた。

 

「次の人の分も残す。今日はここまでだね」

 

 相手が出した条件に、リュシアが一度首を振る。

 

 短いやり取りのあと、互いに手が止まる場所が決まった。

 

「それでいこう」

 

 最初の売却が成立した。

 

 ナジムが脇で帳面を開く。

 

 品目、数量、売却額。決まった内容だけを淡々と書き込んだ。

 

 次の商人は銅だった。

 

 赤みのある見本を手に取り、すぐに聞く。

 

「次も同じ物が来るのか?」

 

 そこで初めて真壁が口を開いた。

 

「同じ規格での供給は可能だ。量については次便の積載と相談になる」

 

「毎回同じ品質なら助かる」

 

「そこは揃えられる」

 

「では価格ですが――」

 

 買い手がリュシアへ向き直った。

 

「次の話は次の話だよ。今日は今日の分を決めようじゃないか」

 

 銅も一軒で終わらなかった。

 

 別の商人が入り、また希望量を出す。

 

「残りを全部欲しい」

 

「全部は出さないよ」

 

「またですか」

 

「まただよ」

 

 ルネスタの口元がほんの少し動いた。

 

 商談が一件終わると、次の者が扉を開ける。

 

 外では別の木箱が荷車から下ろされていた。

 

 机の上の木札が移動し、ナジムの帳面には行が増えていく。

 

 リュシアは売却済みの札を横へ除け、残った鉄の量を見た。

 

「次は?」

 

 ルネスタはもう次の紙を出していた。

 

 

 

 鉄と銅の商談が片づく頃には、冬の日が少し傾き始めていた。

 

 それでも商業地区の熱は落ちない。

 

 通りの向こうから金属を叩く音が響き、別の店先では荷車が横づけされている。

 

 次に向かったのはガラスを扱う者たちのところだった。

 

 見本を置くと、反応は鉄の時とは違った。

 

「これを、売り物として持ってきたのですか」

 

 透明なペレットを手の上へ出し、光へ透かす。

 

 粒が転がる小さな音がした。

 

 真壁が答える。

 

「商品として用意した」

 

 それだけで、視線がリュシアへ移る。

 

「どのくらいあります?」

 

「欲しい量を先に言っておくれ。持ってきた分には限りがあるからね」

 

 ガラス職人は量より先に粒を指先で転がした。

 

 窓から入る光へ透かし、隣の職人へ何か短く言う。

 

「次も、この大きさで揃いますか?」

 

 真壁が答えた。

 

「揃えられる」

 

「なら話が早い」

 

 リュシアはその食いつき方を見て、売る先を一つに絞らなかった。

 

 複数の希望へ分けて出す。

 

 ナジムの帳面に、また売却内容が増える。

 

 次は錫だった。

 

 こちらは派手ではない。

 

 必要な商会が必要な量を取り、話は早く終わる。

 

 鉛も同じだった。

 

 買う者は迷わないが、誰もが欲しがるわけではない。

 

 ニッケルになると、さらに人が減った。

 

 見本を前にして考え込む者もいる。

 

「こっちは鉄みたいには動かないね」

 

 リュシアが小声で言う。

 

 ルネスタが答えた。

 

「使うところが限られます」

 

「なら、それでいいよ。要らない相手に売りつける物じゃない」

 

 リュシアは残ったニッケルを次の買い手の分へ戻した。

 

 金属商の匂いから離れ、次は薬を扱う側へ回る。

 

 店内へ入ると、乾燥薬草と酒精の匂いが鼻へ入った。

 

 棚には薬瓶が並び、金属の商談とは音まで違う。

 

 セルマの高級ポーションを箱から出す。

 

 透明な瓶へ午後の光が入り、液体の色がわずかに返った。

 

 相手は瓶を持ち上げ、まず内容と用途を確かめる。

 

「用途は決まっている。品質も揃えてある。次便も同じ状態で運べる」

 

「空路なら、また持ってこられるのですか」

 

「供給は可能だ。次便の積載量は他の貨物との兼ね合いになる」

 

 その返答を聞いて、リュシアが商談へ入った。

 

 ここでも価格と数量を詰める。

 

 決まればナジムが帳面へ書く。

 

 ナジムは一度手首を返し、帳面を持ち直した。

 

 次の行にも、品目と数量を書き込んでいく。

 

 店を出ると、通りの影が長くなっていた。

 

 ナジムが頁をめくった。

 

 鉄と銅の行は長い。ガラス用ペレットも複数の買い手が並んでいる。

 

 錫と鉛はそれより短く、ニッケルは1件だけだった。

 

 リュシアはその頁を横から見て、口元を緩めた。

 

「何でも同じようには売れないか」

 

「当然でしょう」

 

「うん。その方が信用できるよ」

 

 リュシアはもう次便を考え始めていた。

 

 

 

 夕方、ルネスタの商会へ戻ると、昼に使っていた机はずいぶん片づいていた。

 

 売れた商品の札が減り、確認を終えた紙もまとめられている。

 

 その分、残った3つが妙に目立った。

 

 味噌、醤油、芋焼酎。

 

 リュシアはそれをしばらく見てから、鼻で息を吐いた。

 

「そりゃ売れないよ」

 

 真壁が振り向く。

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

 味噌の蓋を開ける。

 

 発酵した豆の濃い香りが上がった。

 

「知らない人に、発酵させた豆の調味料ですって言って、欲しくなると思うかい?」

 

「成分を説明すれば」

 

「いらないよ」

 

 真壁の言葉を途中で切る。

 

 醤油の瓶も持ち上げる。

 

「こっちだって、そのまま舐めたら塩辛いだけだ」

 

「製法なら――」

 

「それもいらない」

 

 今度は真壁が黙った。

 

 リュシアは芋焼酎を見る。

 

 芋から作った強い酒。

 

 それだけなら、この国にある酒と何が違うのか伝わらない。

 

「使い方が分からないんだよ」

 

 真壁が少し考える。

 

「なら、使用例を示すか」

 

「そういうこと」

 

 商会の外から夕食時の匂いが入ってきた。

 

 焼いた肉、薪、香辛料。どこかの酒場から流れてくる煙。

 

 リュシアの目が扉の方へ向いた。

 

「食べ物なんだから、食わせた方が早い」

 

「なるほど」

 

「その顔は、また何か説明するつもりだったね?」

 

「少しだけだ」

 

「少しじゃない顔してたよ」

 

 ルネスタが聞いていた。

 

 リュシアは顔を向ける。

 

「商人がよく使う酒場、あるかい? 料理人の腕が悪くないところ」

 

 ルネスタは少し考え、店を一つ挙げた。

 

「商談をするなら、ここでは?」

 

「今夜は商談しないよ」

 

 リュシアはすぐ返した。

 

「味を知ってもらうだけ。買う話は明日」

 

「明日、場所を借りるよ」

 

「分かりました」

 

 ルネスタはそれ以上聞かなかった。

 

 ナジムは今日の帳面を脇へ抱え直す。

 

「私は同行します」

 

「税のためかい?」

 

「売る予定の商品が、何をする物なのかは知っておきたいので」

 

「真面目だねえ」

 

 ナジムは否定もしなかった。

 

 真壁が3品を持てるようにまとめる。

 

 リュシアは味噌と醤油を包み直した。

 

「行こうか。腹が減ってる客のところへ」

 

 

 

 酒場の扉を開けた途端、冷えた外気が背中から押し返された。

 

 中は暖かい。

 

 暖炉と調理火、人の体温、料理の湯気が混ざっている。

 

 焼いた肉の脂、魚、豆、酒、煙と木の匂い。

 

 卓を囲む商人や仕事を終えた職人の声に、皿と杯のぶつかる音が重なった。

 

 リュシアは店主へ事情を話した。

 

「外国から持ってきた調味料があるんだ。今日は売りに来たんじゃない。料理人として味を見てほしい」

 

 出したのは少量の味噌と醤油だった。

 

 店主はまず醤油をほんの少し舐めた。

 

 眉が動く。

 

「濃いな。塩気も強い」

 

 次に味噌。

 

 こちらも指先に少し取って味を見る。

 

 すぐにうまいともまずいとも言わなかった。

 

 香りを嗅ぎ、厨房へ目を向ける。

 

「これは、そのまま食べる物じゃないな」

 

「そういうことだね」

 

 リュシアは笑う。

 

「肉に使ってみな」

 

「どう使う?」

 

「そこは料理人に任せるよ」

 

 店主は焼きかけの肉を見た。

 

 いつもの塩と香辛料を使い、仕上げに醤油を少量落とす。

 

 熱い鍋に触れた瞬間、香りが変わった。

 

 焦げる匂いではない。

 

 塩だけでは出ない濃い香ばしさが立ち上がる。

 

 近くの卓にいた客が振り返った。

 

「何だ、その匂い」

 

 店主も鼻を動かし、焼いた肉を一切れ口へ入れる。

 

 少し考えてから、もう一切れ切った。

 

「使えるな」

 

 次は魚だった。

 

 こちらにも少量。

 

 肉ほど強くせず、香りを残す。

 

 塩だけで焼いた時とは違う匂いが立つ。

 

 味噌は別の鍋へ回った。

 

 肉と豆を煮込んでいた料理へ少し溶かす。

 

 汁の色が濃くなり、湯気の香りも変わった。

 

 店主は味を見てから、もう少しだけ足した。

 

「こっちは入れすぎると強いな」

 

「少しで変わるだろ?」

 

「ああ」

 

 別の皿では、味噌を使った濃いタレを焼いた肉へ合わせる。

 

 厨房だけの試しだったはずが、匂いに釣られて客が気にし始めた。

 

 小皿へ分けて、近くの卓へ回す。

 

 昼間、商会で顔を合わせた商人も混じっていた。

 

「さっきの肉と味が違う」

 

「塩だけじゃないな。匂いが残る」

 

「魚にも使えるのか」

 

 質問が増える。

 

「これは買えるのか?」

 

 商人の一人が聞いた。

 

 リュシアは即答する。

 

「買う話は明日だよ」

 

「今じゃないのか?」

 

「今日は食べてもらいに来ただけさ。明日、ルネスタのところへ来な」

 

 商人が少し不満そうな顔をする。

 

 それでも皿の肉はもう一切れ取った。

 

 別の者も言う。

 

「店で使ってみたい」

 

「それも明日」

 

 リュシアは味噌を使った煮込みを一口食べる。

 

 口元が上がった。

 

 

 

 味噌と醤油の皿が一巡すると、店の空気はもう完全に夕食の側へ戻っていた。

 

 新しい調味料の話をしながら肉を食べる者。

 

 魚にもう一度使ってくれと言う者。

 

 店主は気に入った組み合わせを、自分でまた作り始めている。

 

「最後はこれだね」

 

 リュシアが芋焼酎の瓶を出した。

 

 真壁は事前に用意してきた氷を出す。

 

 店主が用意したグラスへ、大きめの氷が落ちた。

 

 硬い音が鳴る。

 

 そこへ透明な酒を注いだ。

 

 味噌や醤油の時のように、使い方を考える時間は必要なかった。

 

 店主が香りを嗅ぐ。

 

 一口飲む。

 

 目が少し細くなった。

 

「強いな」

 

「酒だからね」

 

 リュシアが返す。

 

 店主はもう一度グラスを見る。

 

 普段の酒とは香りが違う。

 

 強さだけではないらしい。

 

 氷が少し溶けたところで、もう一口飲んだ。

 

 それを見ていた商人たちの反応は、料理より早かった。

 

「こっちも飲ませてくれ」

 

「少しだけだよ」

 

 小さく試す。

 

 一口目で息を吐く者。

 

 香りを確かめてから飲む者。

 

 先ほどの味噌を使った肉を口に入れ、その後でもう一口飲む者。

 

 反応がすぐ返ってくる。

 

「こっちは説明がいらないね」

 

 リュシアが真壁へ言う。

 

「そうだな」

 

 商人がグラスを置く。

 

「これも明日か?」

 

「これも明日」

 

「一本だけでも駄目か?」

 

「駄目だよ。明日来な」

 

「飲ませておいて売らないのか」

 

「だから試飲だって言っただろ?」

 

 周りから笑いが起きた。

 

 ナジムは一口飲むと、すぐ帳面へ目を落とした。

 

 何も書かず、もう一口。

 

 やがて試飲が一巡した。

 

 味噌も醤油も、芋焼酎も、買いたいという声は出た。

 

 昼から頁を埋め続けていた帳面には、酒場へ来てから新しい行が増えていない。

 

 ナジムは帳面を閉じ、仕事用の荷物の脇へ置いた。

 

 真壁がそちらを見る。

 

 ナジムは自分のグラスを取った。

 

「ここからは仕事じゃない」

 

 リュシアが眉を上げる。

 

「切り替えが早いね」

 

「確認は終わりました」

 

 ナジムは芋焼酎を一口飲んだ。

 

 今度は飲んだ直後に帳面を見ない。

 

 肩の力が少し抜け、店主が出した肉の皿へ手を伸ばす。

 

 リュシアが笑った。

 

「なるほど。そっちは仕事の顔じゃないね」

 

「税を取る時は戻ります」

 

「そこは戻るんだ」

 

「当然です」

 

 真壁も静かに杯を持った。

 

 店主は味噌を使った肉をもう一皿作り、別の卓では醤油を使った魚が回っている。

 

 暖炉の火が揺れる。

 

 外の冷気で窓が曇り、店の中には酒と料理の匂いが満ちていた。

 

「明日、買いに行くぞ」

 

「店でも使いたい」

 

「芋の酒も置けるか聞く」

 

 声が飛ぶたび、リュシアは同じ答えを返す。

 

「正式な話は明日、ルネスタのところでね」

 

 ナジムはもう帳面を開かなかった。

 

 暖炉の火の向こうで笑い声が上がる。

 

 レヴァニア王都の夜は、味噌と醤油の香りと芋焼酎を、いつもの酒場の中へ少しずつ混ぜながら更けていった。

 

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