酒場から宿へ戻ると、真壁は外套も脱がずに試験ドックへ転移した。
夜番の灯りに照らされた飛行船は、昼よりも大きく見えた。黒い船腹が頭上を覆い、冬の風を受けた係留金具が、ときおり硬い音を立てている。
「今夜、船に残る必要はない。全員、王都へ戻って休んでくれ」
伝声管からの声に、各区画で返事が重なった。操船席、機関区画、カーゴから乗員が降りてくる。真壁は人数を数え、最後の1人が渡り板を下りるまで船体には触れなかった。
「明朝は、いつもの出航手順でよろしいですか」
係留担当の男が、外した手袋を腰へ挟みながら尋ねた。
「それでよい。船が見当たらなくても探す必要はない」
男の視線が、頭上を覆う船腹へ向いた。約200mの船がなくなると言われて、聞き返さなかったのは訓練の成果なのか、諦めなのか。隣の乗員は一度だけ口を開きかけ、そのまま手袋の紐を締め直した。
「朝には戻しておく」
「承知しました」
返事だけは、きれいに揃った。
人を収納することはできない。だが、人がいなくなった飛行船なら話は別だ。
乗員を王都へ送り届け、再びドックへ戻った真壁が船体へ手を向ける。次の瞬間、約200mの巨体が消えた。
昼間まで船の影に沈んでいた床へ、夜番の灯りが白々と落ちた。係留設備と乗降用の足場だけが、使う相手を失って残っている。
真壁は外周の暗がりを一度見渡し、その場から姿を消した。
深夜を回った頃、資材置場の陰が動いた。
数人の男が柱と壁際を使い、互いに合図を送りながらドックへ入ってくる。先頭の男は、船があったはずの場所まで進んで足を止めた。
「……ない」
「移したのか?」
「この大きさを、どこへ?」
全員が顔を上げたが、見えるのは屋根の梁ばかりだった。
彼らは係留部を撫で、床を調べ、倉庫や整備場所を覗いた。図面も、部品も、操縦装置も残されていない。船が夜間に出航した痕跡さえ見つからなかった。
1人が床へ膝をつき、係留金具の根元へ指を入れた。油は残っている。だが、索を急いで解いた跡も、重い荷を引きずった傷もない。
「足場はそのままだ」
「船だけを運んだというのか」
「だから、どうやってだ」
押し殺した声が、空になったドックでは思いのほか遠くまで響いた。先頭の男が振り返ると、全員が黙る。聞き耳を立てても、返ってくるのは風と金具の音だけだった。
倉庫側へ入った2人も、ほどなく手ぶらで戻った。木箱の蓋には封があり、工具棚には日常の整備具しかない。持ち帰れそうな小さな部品を期待していた男が、油の付いた指を外套で拭った。
「戻ってくるかもしれない」
誰かがそう言った。何も見つけられなかった以上、帰るという言葉を口にできる者はいなかった。
風が構造物の隙間を鳴らす。遠い王都の灯りがひとつずつ消え、冷えた床から靴底へ寒さが上がってきた。
男たちの外套には、乾ききらない泥が残っていた。目の下には濃い影があり、船が到着してからろくに休んでいないことは、離れて見ている真壁にも分かった。
それでも先頭の男は、一定の間隔で外を覗いた。今帰れば、見つけたものは「何もない」だけになる。巨大な船が消えたという話を、証拠もなく持ち帰る方が難しいらしい。
男たちは何度も入口を振り返った。最初の1人が欠伸を噛み殺し、次の1人が柱へ背を預ける。夜明け前には、座り込んだ男の頭が胸へ落ちた。
それを咎めようとした男も、ほどなく膝をついた。
最後まで立っていた1人が周囲を見回したあと、壁際へ腰を下ろす。瞼が閉じるまで、それほど時間はかからなかった。
全員の寝息が揃った頃、真壁は再びドックへ戻った。
倒れた男たちの荷を順に開く。武器にも金にも触れず、連絡に使うと思われる革鞄を選び、封書を1通差し入れた。
ほかの鞄には替えの布、固くなったパン、細い縄が入っていた。真壁は中身の位置まで戻し、結び目の向きも変えない。最後に、誰が指示を受ける立場なのかを示す封書だけを、見落としにくい位置へ収めた。
宛名は、セリム・カラハン。
真壁は鞄の留め具を元どおりに閉じた。眠り込んだ男の肩から外套が落ちかけていたので、それだけを戻す。
夜明け前のドックには、結局、何も起きなかった。
ただし、何も知られなかった者は1人もいなかった。
高窓から差し込む冬の朝日が、レヴァニア王宮の床を細長く照らしていた。
アルベルトはレオンハルトを後方に置き、国王へ正式入国と交易開始の挨拶を述べた。机上には昨日提出した入港資料と航路の概略が広げられている。約200mという数字は記されていても、船を飛ばす仕組みまではどこにもない。
入国時の手順に問題がなかったこと、売買はレヴァニア側の商人を通していること、出国前に所定の税を納めること。アルベルトは順に述べたが、王の手は航路図の端へ置かれたままだった。
列席した重臣の1人が船の積載量を尋ね、別の1人が王都までの所要を確かめる。アルベルトは、今回実際に行った航行についてだけ答えた。気嚢や推進の仕組みに問いが移ると、答えられないのではなく、答える立場にないとして言葉を止めた。
国王は挨拶を受けたあと、資料ではなくアルベルトへ目を向けた。
「あの船を、我が王家へ売ることはできるか」
脇に控えた重臣の指が、航路の上で止まる。
「現物が難しいならば、同じ船を建造してもらいたい。無論、相応の対価は払う」
重臣たちの視線は、資料に引かれた約600kmの航路へ集まっていた。
「王家の荷を優先して運ばせる契約でもよい」
別の重臣が続けた。現物の所有から運航の利用へ、早くも問いの形が変わっている。
アルベルトは静かに答えた。
「私には、その権限がありません」
部屋の空気がわずかに張った。王の傍らにいた重臣が口を挟む。
「ヴァルディス侯爵家の船ではないのか」
「違います。飛行船はリュシア商会の所有物です」
「侯爵家が命じれば済む話では?」
アルベルトは答えを急がなかった。差し込む光の中で、小さな埃が舞っている。
その沈黙を了承と取ったのか、重臣は身を乗り出した。
「商会は、そなたの領内にあるのであろう」
「領内で商う者が、その財産まで侯爵家へ差し出したわけではありません」
声を強めた者はいない。それでも、机を挟んだ距離が先ほどより狭くなったように感じられた。
「侯爵家の資産であれば、私が侯爵家の責任でお答えします。しかし、民間商会の資産を外国へ売れと命じる権限までは持っておりません」
レオンハルトは動かなかった。軍事利用へ話が及んでも、それは所有者を変える理由にはならない。アルベルトが答えられる範囲に、武官の補足は不要だった。
王が初めてレオンハルトへ目を向けた。
「兵を運べる船なのか」
「人を運んだ実績はございます」
レオンハルトが答えたのは、そこまでだった。何人をどう配置するか、武装して運べるかという問いには、用途と契約が決まらなければ答えられないと返す。軍人が可能性を誇るのではなく条件を切ったことで、重臣の眉がわずかに寄った。
王側は、現物の購入から同型船の建造へ、さらに将来の導入へと問い方を変えた。それでも、アルベルトの返答は変わらなかった。
「購入の希望があることは、所有者へ伝えます。価格も、建造の可否も、私から約束はできません」
国王は指先で資料の端を押さえた。
「侯爵家の軍船ではなく、商人の船か」
「はい。荷と人を運び、代金を受け取るための船です」
王はもう一度、航路へ視線を落とした。指先が王都と国境の間をゆっくりとなぞる。
「では、所有者へ伝えよ。王家は正式に話を聞く用意がある、と」
「承りました。返答までをお約束することはできませんが、ご希望はそのまま伝えます」
国王はそれ以上、命令という形では求めなかった。机上の資料を閉じる者はいない。謁見が終わってアルベルトが一礼しても、重臣の1人は約200mと記された箇所へ目を落としたままだった。
昨夜の酒場で芋焼酎の杯を離さなかった男は、朝になると酒の話から入らなかった。
「店で出すなら、最初はこれだけだ」
ルネスタの商会に据えられた机の上で、男の指が本数を示す。料理も酒杯もない。並んでいるのは開封済みの見本と秤、取引用の紙だけだった。
昨夜は杯を空けるたびに声が大きくなった男も、今日は椅子へ浅く腰掛け、瓶の口と栓を見比べている。開けたあと何日もつのか。店の者だけで同じ味に割れるのか。客へ1杯ずつ出した場合、何杯分になるのか。尋ねる内容は、うまいかどうかの先へ進んでいた。
「栓を開けたまま置かないことだね。酒は酒として扱いな。昨日みたいに、杯へ注いだ分まで瓶へ戻すんじゃないよ」
リュシアが言うと、酒場主は顔をしかめた。
「戻してはいない」
「戻そうとして、ルネスタに止められてたじゃないか」
ルネスタは取引用の紙を揃えたまま、否定しなかった。
味噌を欲しがった商人も、昨夜の勢いで樽ごと買おうとはしない。自分の店で何日使えるかを考え、容器の大きさを見ながら数を減らした。
「醤油も欲しい。あれは肉にも使えるか?」
「使えるよ。ただ、昨日の味だけでいきなり抱え込むのは勧めないね」
「煮込みへ入れるなら、どのくらいだ」
「鍋の大きさも肉の量も知らないのに決められるものか。最初は今使っている塩を全部置き換えず、味を見ながら足しな」
商人は答えの代わりに分量を欲しがったらしいが、リュシアは便利な数字を渡さなかった。厨房が違えば同じ使い方にはならない。代わりに、小さい容器を指で叩く。
「それで試してからだよ。客が食べる前に、あんたたちが味を決めな」
リュシアは醤油瓶を持ち上げ、残量を透かして見せた。
「まず店で使って、客の反応を見な。売れたからって、次も同じだけ出せるとは限らない。いくら飛行船でも、持ってこられる量には限りがある。ほかの荷との兼ね合いもあるからね」
昨夜うまいと言った客を前にしても、値を吊り上げる気配はない。反対に、1人で全部買おうとした酒場主の注文はあっさり止めた。
「順番だよ。持ってきた分を全部1人に渡すつもりはないからね」
酒場主は不満そうに口を曲げたが、隣の商人に睨まれ、希望本数を書き直した。
味噌を求めた料理屋は、容器を持ち上げて重さを量り、毎日の汁物へ使った場合を考えている。もう1人は、そのまま客へ売るのではなく、自分の店で料理に使いたいと言った。同じ味噌でも、欲しがる理由が違えば必要な量も違う。
「空になった容器はどうする?」
「今回は捨てずに取っておきな。次に持ってきた物と同じ形なら詰め替えに使えるし、違うならその時に決める」
「返せば安くなるのか?」
「まだ決めてないことを、先に値引きへ入れるんじゃないよ」
問いかけた商人が肩をすくめる。リュシアは笑わず、容器の口に欠けがないかを見せてから机へ戻した。
真壁は机の端に立ち、食品の値決めへ口を挟まなかった。売る相手と継続量を知っているのはリュシアだ。彼が手にしているのは、販売分と試食分を混ぜないための紙だけだった。
ルネスタが買い手ごとに注文を分け、リュシアが出せる量へ直す。数量が固まってから値を示し、支払いと受け渡しの場所を決めた。
提示された額を聞いた酒場主は、すぐには返事をしなかった。昨夜の勢いなら全量を買うと言っただろうが、今日は指を折り、店で出す杯数を数えている。
「この値なら、昨日と同じ量では出せないな」
「薄めて同じ量にするなら、次は売らないよ」
「水を足すとは言っていない」
「言う前に止めただけさ」
隣で聞いていた商人が吹き出し、すぐに咳払いでごまかした。酒場主は希望本数をもう1度減らしたが、注文そのものは消さなかった。
味噌と醤油についても、買い手が持ち帰る分と、倉庫から店へ後で運ぶ分を分ける。ルネスタは受け渡しを一度に重ねず、誰の品か分かるよう紙の位置をずらした。
ナジムは昨夜とは別人のような顔で、品名と数量、金額へ順に目を通していく。
「昨夜飲んだ分は、ここには入らないのだな」
「味を知ってもらうために出した分だよ。あれに後から値をつけたら、試飲じゃなくて押し売りだろう?」
ナジムの口元が一瞬だけ緩んだが、すぐに紙へ戻った。
「では、今朝決まった分だけを売却分へ加える。受け渡しが済んだ数量で最終とする」
「それで頼むよ」
リュシアは即答した。昨夜の客が何杯飲んだかを税の場で揉めるより、試飲と販売を最初から分けた方が早い。ナジムも開封済みの見本には触れず、新しく取り分ける容器だけへ目を向けた。
最後の商人が合意を示すと、ルネスタが紙を揃えて机へ置く。昨夜は何度も上がった「買いたい」という声が、ようやく数量と代金を持った。
リュシアは味噌の容器へ蓋をし、集まった商人たちの顔を見渡した。
「次も欲しければ、ルネスタを通しておくれ」
先ほど注文を減らした商人まで、今度は迷わず頷いた。
大型倉庫の硬い床へ、鉄のインゴットが鈍い音を立てて置かれた。
高い天井の下で、その音が短く反響する。待っていた工房関係者が近づき、表面へ指を滑らせた。土も石も付いていない。形と重さが揃った金属そのものだった。
「今回も鉱石ではないのだな」
前にも受け取った商人が、念を押すように尋ねた。
「石まで運んでどうするんだい」
リュシアが返すと、初めて見る荷役人が鉄と彼女を交互に見た。鉱石を売る側の商人が聞けば怒りそうな言い方だったが、買い手の職人は笑っている。
次に銅のインゴットが並ぶ。赤みのある金属色が、倉庫の入口から射す光を返した。
前にも受け取った職人は、端に付けられた印を見てから、持参した小さな秤へ欠片を載せた。初めての品を疑っているのではない。前回と同じ物が来たかを、自分の手順で見ている。
「前の鉄は、炉へ入れる前の選り分けが要らなかった」
職人が隣の商人へ言うと、荷役人の手が一瞬止まった。鉱石を運ぶ時に混じっていた石も土も、この荷にはない。運賃を払って運ぶ重量が、そのまま使える重量になる。
「混じり物は?」
問いを受けた真壁は、鉄と銅を見比べる職人へ答えた。
「分離してある。必要な配合は、そちらの用途に合わせた方がよい」
職人は鉄の角を小槌で叩き、落ちた欠片を拾った。
「ここから先は、こちらで決めてよいのだな」
「そのための原料だ」
職人は欠片を布へ包み、受け取ったことをルネスタへ告げた。すぐに工房へ持ち帰って試すつもりらしい。真壁は結果を聞こうとはせず、次の錫を置く位置だけを空けた。
鉄、銅に続き、錫と鉛も受け渡される。量の少ないニッケルだけは離して置かれ、買い手が自分で荷札を見直した。
「これは鉄と一緒にするな」
買い手が荷役人へ声をかける。荷役人は同じ台車へ載せかけた手を戻し、ニッケルだけを別の布で包んだ。珍しいから飾るのではない。量が少ない物ほど、使い道を決める前にほかの金属へ紛れれば損になる。
別の一角では、ガラス用ペレットの麻袋が積み上がっていく。どの袋も同じ重さに揃えられているため、受取側は袋数を数え、抜き取った1袋だけを秤へ載せた。
「全部量らなくてよいのか?」
荷役人の問いに、商人は秤の針と積まれた袋を指した。
「揃っているなら数えれば済む。前の分も狂いはなかった」
商人は選んだ袋の口を開き、掌へ数粒落とした。光へ透かし、色と大きさを見てから袋へ戻す。
「重さだけでなく、中身も同じだ」
それを聞いて、別の荷役人が積み上げた袋の列を数え直した。秤の前にできていた人の列が消え、代わりに倉庫の壁際へ同じ高さの山が増えていく。
荷役人は便利そうに頷きかけ、袋を揃える手間が売り手側へ移っただけだと気づいて真壁を見た。真壁はもう次の引き渡し品を出している。
高級ポーションの箱は割れ物として慎重に渡され、味噌、醤油、芋焼酎は朝の商談どおり、買い手ごとに分けられた。ナジムが手元の数量と実物を見比べ、受領した者が順に離れていく。
酒場主は自分の瓶を抱えて帰ろうとしたが、ルネスタに止められた。まだ受け取りの確認が済んでいない。
「金は払ったぞ」
「払ったことと、受け取ったことは別だ」
昨夜と同じ男とは思えないほど真面目な注意に、酒場主は渋々瓶を戻した。ルネスタが品と買い手を見比べてから、今度こそ抱え上げる。
「今夜、客へ出す」
「最初から全部開けるんじゃないよ」
「分かっている」
返事だけが妙に早かった。リュシアはその背中を見送り、残った容器を次の買い手へ回した。
倉庫の床が広く見え始めた頃、リュシアの視線は空いた場所で止まった。
「さて」
彼女は空の荷台を軽く叩いた。
「今度はこっちが買うよ」
穀物商の倉庫には、乾いた麦の匂いが満ちていた。
リュシアは開けられた袋へ手を入れ、小麦をひと掴み取った。掌を傾けると、粒がさらさらと戻っていく。次の大麦は指で押し、底に湿気が溜まっていないかまで調べた。
「値は悪くないね。次も同じくらい出せるのかい?」
「収穫まで同じとは言えないが、今季の在庫ならもう少し出せる」
「なら、今回はこの分だけだ。続けられる方がいい」
リュシアは相手の示した在庫を見て、小麦と大麦の買付量を決めた。残りには手をつけず、豆を扱う商会へ移る。
「もっと持っていけるのだろう?」
穀物商は、まだ積まれている袋へ顎を向けた。
「持っていけることと、買っていいことは別だよ。ここの分を空にして、町の値が上がったら次から入口で追い返される」
「次も来るつもりか」
「来られる商売にするために聞いてるんだ」
穀物商は返事をせず、残した袋の山と、買付分を分けるよう荷役人へ手を振った。最初に示した量より減ったのに、機嫌は悪くない。全部買い切る客より、次も同じ戸を叩く客の方が話しやすいらしい。
豆は木皿へ落とし、硬い音を聞きながら虫食いを除ける。芋は箱の底まで見て、傷んだものが混じっていれば、その分を買付量から外させた。種袋は札だけで決めず、中身を見せてもらう。
最初の豆は粒が揃っていたが、袋の底から細かな粉が多く出た。リュシアは皿を傾け、指先へ付いた粉を商人へ見せる。
「上だけなら買えたんだけどね」
「値を下げる」
「食べる分に混ぜるつもりはないよ。分けて持ってくるなら、その時に見る」
安くなったから買うとは言わず、次の袋へ移る。真壁は口を挟まず、外された豆袋の位置だけを覚えていた。商人が慌てて別の袋を開くと、今度は底まで硬い粒が落ちた。
芋を扱う倉庫では、表面の土が乾いている箱と湿った箱が並んでいた。リュシアは湿った方から1つ取り、柔らかくなった部分を親指で押す。
「これは遠くへ運ぶ荷じゃない。町で先に使いな」
「傷んだところを除けば食える」
「だから、今日使える相手へ売るんだよ。何日も運んだあとで開ける私には向かない」
商品の良し悪しではなく、運ぶ時間で買う物を分ける。倉庫の主人は不満そうに箱を戻したが、乾いた箱の方は値を変えなかった。
砂糖と塩は、今回売れる量と価格が合う商会からだけ買った。どちらも国全体で余っていると決めつけず、店ごとの事情を聞いて回る。
砂糖を扱う商会では、先に大口の予約が入っていると言われた。リュシアは残りを全部押さえず、次に入る予定を聞いてから今回分を減らした。塩は別の商会で、固まりの大きさを見て買う。細かく砕く手間はヴェルデン側へ持ち帰れるが、湿って重くなった物まで運ぶ理由はない。
種を扱う商人は、食用の豆と種を同じような袋へ入れていた。リュシアは札を読み比べたあと、真壁へ振り向く。
「これ、途中で混ざったら分かるかい?」
「鑑定すれば分かる。ただし、受け取る者が毎回私を呼ぶことになる」
「なら、今分けてもらおう。帰ってから真壁さんを探す荷にしたら駄目だね」
商人へ袋を替えさせ、紐の色も食用とは別にする。真壁はすでに呼び寄せた乗員へ、その違いを指で示していた。
「かなり買うのだな」
真壁が、増えていく荷札へ目を向けた。
「帰りに空気を運んでどうするんだい」
「もっともだ」
返事が早すぎて、リュシアは一度だけ真壁を見た。冗談のつもりはなかったらしい。彼はすでに、同行してきた収納持ちの乗員を呼び寄せていた。
「同じ品を1人へ集めない。袋と箱の単位を崩さず、受け取った商会の札も一緒に入れてくれ」
「小麦を2人、大麦を2人でよろしいですか」
「それでよい。片方が遅れても、すべて止まらない分け方にしよう」
乗員は顔を見合わせ、自分たちで残りの豆と芋を割り振った。砂糖と塩を同じ者へ集めかけ、別の乗員が止める。壊れ物ではなくても、誰か1人の不在で同じ品が全部出せなくなるのは困る。
乗員たちは手分けして荷を受け取る。小麦、大麦、豆を別々の収納へ分け、箱入りの芋、種、砂糖、塩も偏らないよう振り分けた。
倉庫からドックまで何十台もの荷馬車を往復させる必要はない。それでも、国境を越えて毎回真壁が運ぶつもりもなかった。王都内の荷役は乗員の収納で縮め、その先の長距離輸送は飛行船へ渡す。
受け取った乗員は、何を入れたかを互いに言い合わせると、次の倉庫へ先回りした。真壁が順番を指示する前に、入口を塞がない位置へ分かれて立つ。前の倉庫で箱が重なったことを覚えていた者が、芋の受取場所を広く取った。
真壁は自分の収納へ荷を集めず、乗員たちの受け取り方を見ていた。乗員は商会名と荷姿を確かめ、受け取る順を自分たちで相談している。
リュシアはその様子を横目に、次の商会へ支払う貨幣を数えた。
「真壁さん」
「何だ」
「何も言わないのも訓練なのかい?」
「問題なく動いている者を止める理由はない」
真壁は答えながら、最後に残った種袋を乗員へ渡した。リュシアは貨幣をしまい、笑う代わりに鼻から短く息を抜いた。
倉庫を出る頃には、乗員たちの収納へ麦も豆も種も収まっていた。
リュシアは次の商会の札を確かめ、先に歩き出した。
昼過ぎの試験ドックで、約200mの飛行船が何の前触れもなく姿を現した。
昨夜からそこにあったかのように、船体の影が床と係留設備を覆う。周囲の兵が息を呑む間にも、乗員は持ち場へ散っていった。
船のなかった床を朝から見張っていた兵が、隣の者へ何か言いかけてやめた。係留金具の位置も、足場の向きも昨夜のままだ。その中央へ、巨大な船だけが戻っている。
「係留索、異常なし」
「カーゴ、受け入れを始めます」
驚いて立ち止まったのはレヴァニア側の兵だけだった。昨夜、船が消えると聞かされていた乗員は、朝の返事どおり自分の持ち場へ向かった。
係留担当が金具を調べ、機関担当が返事を送り、カーゴでは買い付けた荷の置き場が振り分けられる。伝声管から短い報告が行き交うが、誰も真壁の次の指示を待ってはいない。
収納持ちの乗員が小麦を出すと、受け取る側は袋を数え、床へ直に置かず用意された場所へ積む。豆と種は札を見て離され、芋の箱は上に重い荷を置かない位置へ回された。真壁は船体の外から一度眺めただけで、積み方を直しに入らなかった。
巨大な船の下には、小さな机が置かれていた。
ナジムは昨日売却した金属、ガラス用ペレット、高級ポーションに、今朝成立した味噌、醤油、芋焼酎を加え、今回の税額を示した。昨夜の酒場にいた男と同じ人物には見えないほど、声も指先も堅い。
リュシアは金額へ目を通し、正金貨を机へ並べた。
ナジムはすぐに手を伸ばさず、机の上の紙と金貨を交互に見る。昨日の金属類と高級ポーション、今朝引き渡した食品。試食に使った分は除かれ、買い手へ渡った分だけが並んでいる。
「買い付けた穀物へ、こちらで売った時の税はかからないのだな」
リュシアが念を押した。
「出国する荷としての手続きは別に済ませる。ここで受け取るのは、あなた方がこの国で売った分だ」
「分かれてるならいいよ」
「これで終わりかい?」
「今回の売却分については」
「分かったよ」
値切りもせず、決められた税を払う。ナジムが受領を示すと、出国手続きへ紙が回された。
金貨を受け取ったナジムは、酒場主が持ち帰った瓶の本数をもう一度見直した。昨夜、杯を重ねていた時の緩みはどこにもない。リュシアも冗談を挟まず、確認が終わるまで机の前を離れなかった。
その時、ドックの入口からセリム・カラハンが歩いてきた。
手には封書がある。
真壁は宛名を一瞥しただけだった。セリムも、誰の荷から見つかった手紙なのかを口にしない。互いに相手の目を見た短い間へ、昨夜の出来事はすべて収まっていた。
「侯爵領までご一緒しましょう」
真壁が船へ手を向ける。
「もちろん、今日中にこちらの王都へお戻しします」
セリムは飛行船を見上げた。昨夜、部下が中を調べるはずだった船は消え、朝になれば元の位置へ戻っている。そのうえ、気づいていた男が自分を乗せようとしている。
握った封書には、侯爵領へ同行しないかという短い誘いと、帰還は同日中という一文しかない。侵入を責める言葉も、部下の人数も書かれていなかった。それがかえって、どこまで把握されているのかを読みにくくしていた。
「招待と受け取ってよいのだな」
「そのために手紙を差し上げた」
真壁の答えからは、いつ侵入に気づいたのかも、どこまで見ていたのかも読み取れなかった。
王宮から戻ったアルベルトとレオンハルトがドックへ入ってくる。真壁はセリムを示した。
「セリム殿に、侯爵領を見ていただきます。夕刻までにはお戻しします」
アルベルトはセリムへ向き直った。
「レヴァニア王家のご承認は?」
「陛下の許可は得ている」
アルベルトはレオンハルトへ一度目を向けた。レオンハルトが小さく頷く。客として乗せる以上、船内で見せる場所と近づけない場所は、すでに乗員へ伝わっているらしい。
セリムは封書を懐へ収めた。
見ないまま警戒を続けるより、自分の目で確かめた方がいい。
乗降用の渡り板が下ろされる。
乗員の1人が入口で待ち、セリムへ足元を示した。軍務責任者だからと操船席へ案内するわけではない。セリムも要求せず、まず客として渡り板を上った。
飛行船を最も警戒していた男は、自分の足でその船へ乗り込んだ。
レヴァニア王都を離れたばかりの街道には、荷馬車が連なっていた。
畑の間を農民が歩き、村から上る煙が冬の空へ細く伸びている。約150km/hで北上する飛行船の窓から、セリムは地上と船内を交互に見た。
操船席へ送られる声、機関担当の応答、貨物を押さえる金具。兵を乗せれば何人運べるか。武器や食料を載せれば、どれほど早く戦場へ届けられるか。揺れの少ない床に立ちながら、彼の目はまず軍事利用の答えを探していた。
窓の外で王都の外壁が遠ざかる。見張り塔の上にいた兵が顔を上げ、街道の荷馬車が次々と小さくなった。馬で走れば何度も休ませる距離を、船は速度を変えずに進んでいく。
「この速さを、ずっと保つのか」
「今は経済巡航だ。およそ150km/hになる」
真壁の返答に、セリムはもう一度地上を見た。最高速度ではない。人と荷を継続して運ぶ時の速さだという意味を、聞き返さなくても理解した。
王都から離れるにつれ、街道を進む荷馬車が減った。
最初は、次の村までの間隔が広がっただけに見えた。畑の端には収穫後の藁が積まれ、道沿いの井戸では人が動いている。さらに北へ進むと、修理されていない轍へ枯れ草が入り込み、休憩所らしい屋根にも煙がなかった。
荷馬車が1台消え、次の1台までの間が長くなる。やがて、王都へ向かう荷だけでなく、北へ進む荷も見えなくなった。
火山帯が近づくと畑が途切れ、黒い岩肌と枯れた草地が広がる。やがて荷車は1台も見えなくなった。
代わりに、街道脇を動く影がある。
岩場に1群。その先の斜面にも別の群れがいた。道の上を塞ぐ個体までいる。飛行船が進むたび、さらに奥から新しい魔物が現れた。
魔物は飛行船の影へ反応して顔を上げたが、追える距離ではない。街道脇の崩れた石垣には、小型の個体が出入りしている。その少し先では、数頭が道幅いっぱいに広がり、地面の匂いを嗅いでいた。
隊商がいれば、あの群れを避けるだけで道を外れなければならない。車輪が岩へ取られれば、止まった荷車へ別の群れが寄る。上から見える距離の中だけでも、安全に夜を越せそうな場所はなかった。
「……これほどか」
セリムの手が窓枠を掴んだ。
地上へ兵を出すなら、馬と補給、夜営地、負傷者を運ぶ手立てが要る。一度追い払っても、数週間後にはまた増える。
討伐隊を送り、道を開き、その間に隊商を通す。それだけならできる。しかし商路にするなら、次の隊商も、その次も守らなければならない。兵が魔物を倒している間にも、馬は餌を食い、水を飲む。負傷者が出れば帰りの荷車が要る。
セリムの指が窓枠を離れ、腰の剣帯へ触れた。剣で解決できる問題の形をしていながら、必要なのは1度の勝利ではなかった。
「上からなら分かりやすい」
真壁は責める調子もなく言った。
飛行船は高度を変えず、討伐もせずに進む。魔物が道へ集まっても、地上からこちらへ届くことはない。
カーゴでは、王都で買った袋が低く震えている。麦も豆も、地上なら護衛と荷馬車を揃えなければここまで来られない。それが今は、魔物の群れを窓越しに見下ろしながら北へ運ばれていた。
国境を越えると、ヴェルデン側の火山東街道が見えてきた。
こちらにも魔物は戻り始めていた。約1か月前に大規模な間引きを行った跡が残り、レヴァニア側ほど多くはない。それでも荷馬車も隊商も見当たらなかった。
道沿いには戦った跡が残り、魔物の群れも途切れる場所がある。レヴァニア側で何度も見えた密集は減った。それでも、国境を背にして進む商人の姿はなかった。
「こちらは減らしたのか」
「約1か月前に大きく間引いた。戻り始めてはいるが、南側ほどではない」
「それでも、誰も通らない」
真壁は答えず、進行方向へ目を向けた。国境の南が塞がれたままなら、北側だけ安全にしても荷は来ない。その答えは、空の街道そのものが示していた。
片側の道だけを通れるようにしても、国境の先で食われるなら商人は出発しない。
セリムは窓から離れ、カーゴへ積まれた穀物袋を見た。つい数時間前までレヴァニア王都の倉庫にあった荷だ。護衛兵も馬も使わず、魔物の頭上を越えている。
軍が守れなかった道を、この船は取り返してはいない。魔物も減らしていない。ただ、道を使わずに荷だけを通している。
兵器として数えていた積載量が、別の意味を持ち始めた。兵を何人送れるかではなく、止まった市場へ何を、どれだけ途切れず届けられるか。セリムは固定金具に押さえられた袋から、しばらく目を離さなかった。
兵を運べば脅威になる。その警戒は消えない。それでも飛行船は今、途切れた街道の上を、何事もなかったように穀物を運んでいた。
飛行船がヴァルディス侯爵領の新町へ近づくと、セリムはまずドックを探した。
防備、進入路、倉庫、整備施設。軍務を預かる者として当然の順だった。
だが、船が高度を落とすにつれ、その周囲にあるものが目へ入ってくる。
ドックへ向かう道を荷車が進み、その脇を仕事帰りらしい人々が歩いていた。巨大な船が降りてくるのを、立ち止まって見上げる者はいる。それでも逃げ出す者も、作業を投げ出して集まる者もいない。飛行船の到着が、すでに町の一日の中へ入っている。
整えられた道路を人が歩き、住宅の煙突から煙が上がっている。学校と診療所、警備と消防の詰所があり、工房や倉庫の先には市場に使う建物も見えた。水を引く設備と排水路は、飛行船のためではなく、ここで暮らす者のために造られている。
着陸すると、地上の乗員が係留作業を始めた。カーゴでは荷の受け渡しが進み、別の者は次の運航に備えて船体を見て回る。真壁の周囲へ指示を求める列はできなかった。
レヴァニアから運んだ小麦と大麦が、収納持ちの乗員から順に出される。受け取る者は袋の札を読み、食品用の荷と種を別の方向へ運んだ。誰かが声を張り上げなくても、人と荷がぶつからないよう道が空いていく。
セリムは船腹を見上げ、それから荷の行き先を追った。軍用の基地なら、船と倉庫を守るために人が配置される。ここでは、船が町の中へ荷を渡すために置かれていた。
「これも商会が作ったのか?」
セリムの問いに、アルベルトが道路の先へ目を向けた。
「設備と物流には商会の力を借りています。ただし、行政、治安、道路、消防、教育、医療は侯爵家も責任を負っています。商会だけで領地を動かしているわけではありません」
「商会が町を所有しているのではないのか」
「違います。商会が必要とする設備と、住民に必要なものが重なる部分はあります。しかし、領民の暮らしを商会の都合だけで決めることはできません」
アルベルトは学校の方角へ歩く子どもたちへ目を向けた。作業着の大人と同じ道を通り、途中で別の建物へ入っていく。診療所の前では、荷車が入口を塞がない位置へ寄せられていた。
「火事が起きれば、商会の荷より先に人を守ります。治安と裁定も侯爵家の責任です」
「それでいて、飛行船の所有者ではないと言う」
「所有者ではないからこそ、分けて考えます」
王宮でも変わらなかった答えを、アルベルトはここでも崩さなかった。
セリムは停泊作業を終えた乗員が、次の持ち場へ散っていくのを眺めた。
係留を終えた者が機関側へ回り、荷を下ろした者は空いた場所を次の積載へ備えている。真壁は少し離れたところでアルベルトと話していたが、作業は止まらない。
セリムは試すように、近くの乗員へ尋ねた。
「次はいつ飛ぶ」
「整備と荷が揃ってからです」
「真壁の許可を待つのか」
乗員は質問の意味を測るように一度瞬いた。
「運航の条件が揃っているかを担当ごとに確かめます。揃わなければ飛びません」
真壁の名は答えに出なかった。命令する者がいないのではなく、1人の機嫌で飛ぶ船ではないらしい。
船を1隻買えば、この光景まで手に入るわけではない。
短い視察を終えると、真壁が声をかけた。
セリムは市場に使う建物の前で、荷を待つ商人たちへ目を留めた。彼らが待っているのは真壁ではなく、レヴァニアから届いた麦と豆だった。
「では、戻りましょう」
「船は着いたばかりだぞ」
「セリム殿を今日中にお戻しすると約束した」
真壁はセリムとともに、安全な転移地点へ移った。
視界が切り替わる。
数時間かけて離れたはずのレヴァニア王都が、次の瞬間には目の前にあった。朝と同じ石壁、同じ塔。傾いた日差しだけが時間の経過を示している。
セリムは振り返り、そこに飛行船がないことを確かめてから真壁を見た。
「待て。これだけのことができるなら、なぜ飛行船を使う?」
数時間の航路を一息で戻った男へ、問いを重ねる。
「あなたが運べば済むだろう」
「私がいなければ回らない商売など、価値がないからだ」
真壁は間を置かずに答えた。
「船ならば、私が乗らなくても飛ばせる」
「転移を使える者を増やす方が早くはないのか」
「技能を得られる者、登録できる場所、同行人数に左右される。船ならば、乗員を育て、航路とドックを増やせる」
「その乗員が辞めれば?」
「別の者を育てる。だから町が要る」
真壁はそこで初めて、新町が飛行船と同じ答えの中にあることを口にした。長く説明する気はないらしく、再び歩き出す。
それだけ言うと、彼は帰国の手続きへ向かおうとした。
セリムは懐の封書へ手を触れた。
部下の侵入に気づきながら捕らえず、自分を船へ乗せた。飛行船より速く移動できるのに、自分がいなくても飛ぶ船を作った。その船を支える町まで、すでに動き始めている。
機体の構造を調べ、同じ形を作れば追いつけると思っていた。だが、王都で見たのは品物を売り買いする商人であり、街道の上で見たのは地上の護衛を必要としない商路だった。新町では、真壁が黙っていても乗員が次の仕事へ移っていた。
船だけを切り離して持ち帰っても、同じようには動かない。だからといって、見なかったことにもできない。
交易を続ければ、次も船は来る。荷と一緒に、運び方も、人の動かし方も見ることができる。警戒を解く理由はないが、最初から敵として閉め出す方が失うものは大きかった。
真壁が作ったものをひとつ奪っても、それで終わる相手ではない。
「一番厄介なのは、船ではないな」
足を止めた真壁が振り返る。
セリムはそれ以上を口にせず、王都の石壁を見上げた。
夕刻の空には、飛行船の影ひとつなかった。