押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第296話 吟遊詩人は駄目です

 

 昼時の共同商館地下1階は、空いた席を探す方が難しかった。

 

 調理場から鍋を振る音が響き、焼いた肉と香辛料の匂いが人の間を抜けてくる。食事を終えた商人が席を立てば、盆を持った職人が入れ替わりに腰を下ろす。そんな普段どおりの騒がしさの中で、理央は自分の皿より、澪が取り出した紙を気にしていた。

 

「もう一度見ますね」

 

 澪は向かいに座る理央へ断ってから鑑定を使った。

 

 理央の名前や現在のジョブ、育ったスキルが澪にだけ見える。以前より増えた項目を追っていくと、その下に並んだ文字が目に入った。

 

「転職できるようになっています」

 

「本当ですか?」

 

 理央が持っていた匙を置いた。隣のヴァルトも食事の手を緩め、真壁は湯気の立つ椀を持ったまま澪を見る。リュシアだけは急かさず、理央がどう反応するかを眺めていた。

 

「候補が多いので、書きます」

 

 理央自身には澪の鑑定結果が見えない。口で一度に読み上げても覚えきれないだろう。澪は紙を卓上へ置き、上から順に書き出した。

 

「前は、こんなにありませんでしたよね?」

 

「はい。少なくとも、まとめて選べる状態ではありませんでした」

 

 澪は一つ書くたび、見間違いがないか表示へ視線を戻した。転職は今日の昼食を決めるのとは違う。似た名前を勝手に補って書くわけにはいかなかった。

 

 理央はその手元を見ながら、冷め始めた料理へ一度だけ匙を入れた。口へ運んではいるが、味わっている様子はない。

 

 商人。

 

 錬金術師。

 

 作家。

 

 吟遊詩人。

 

 聖職者。

 

 漁師。

 

 書記官。

 

 写本職人。

 

 最後の文字を書き終えると、理央は待ちきれなかったように紙を自分の方へ引き寄せた。

 

「8個もあるんですね」

 

「候補が多ければ簡単になる、というわけでもなさそうですね」

 

 ヴァルトの言葉に、理央はまだ気楽な顔で首を傾げた。

 

「選べるなら、多い方が楽しくないですか?」

 

「選ぶ前は、そうでしょうね」

 

「選んだあとに困るような言い方しないでください」

 

 理央は笑っている。澪も、この時点では今日中に決めなくてもよいと思っていた。候補を見て、実際の仕事を知り、本人が納得してから司祭様へ頼めばよい。作家という順当な候補もある以上、慌てる理由はなかった。

 

「色々やりましたからね。どの行動がどの候補につながったかまでは、私にも分かりませんけど」

 

「作家は分かります」

 

 ヴァルトが紙を横から見て言った。

 

「作家見習いとして書いてきたのですから、次に作家が出るのは自然でしょう」

 

「書記官と写本職人は、作家見習いからつながったんでしたよね」

 

「前に候補を見た時も、そう考えましたね」

 

 理央は2つの文字を見比べた。小説を書くことと、文書を整えたり本を書き写したりすることは同じではない。それでも文字を扱ってきたという点では、まったく無関係とも思えなかった。

 

「錬金術師もありますね。商人も」

 

 理央の指が候補を一つずつなぞる。

 

 商人のところでは少しだけ長く止まった。澪はそれに気づいたが、口を挟まなかった。リュシアも同じだった。商人が候補にあるからといって、本人が選びたいとは限らない。

 

 理央の指が、その下の聖職者へ移る。

 

「これは、前職が箱入り娘だったから、純粋無垢って話でしたっけ」

 

「そうです」

 

「それ、澪さんが言ってただけですよね?」

 

「可能性の話です」

 

「今、少し言い方を変えましたね」

 

 理央は以前の会話をきちんと覚えていた。候補が増えた理由を初めて考えるのではなく、一度見たつながりを確かめながら、改めて8つの職名を並べ直している。

 

 ところが、その次に理央の指が止まった時、表情がはっきり変わった。

 

「吟遊詩人」

 

 理央はその4文字をもう一度読んだ。

 

 先ほどまで候補を検討していた目ではない。面白そうな本の題名を見つけた時の目だった。

 

 澪は嫌な予感がした。

 

「これ、格好よくないですか?」

 

 予感は、考える間もなく当たった。

 

 理央は紙から顔を上げた。昼食の途中だったことなど、もう忘れている。

 

「異世界で吟遊詩人って、すごくそれっぽいです」

 

 澪の持っていた匙が、皿の上で止まった。

 

 

 

「吟遊詩人なら、町から町へ旅をしながら物語を語るんですよね」

 

 理央の中では、すでに吟遊詩人の姿が出来上がり始めていた。

 

「昔の出来事を歌にしたり、知らない土地の話を聞かせたり。自分で作った物語も語れるかもしれません」

 

「まあ、そういう者もいるだろうな」

 

 真壁が答えると、理央の想像はさらに先へ進んだ。

 

「旅をして、物語を作って、楽器も弾くんですよ。作家と旅人を一緒にしたみたいで、格好いいじゃないですか」

 

 楽器。

 

 その言葉が聞こえた瞬間、澪の頭の中で、長い間閉めていた扉が勝手に開いた。

 

 ギターを抱えていた自分。人前で弾くために選んだ曲。弾いている間は疑問にも思わなかった仕草と気分。記憶の中の自分は、現在の澪が止める間もなく演奏を続けている。

 

 どうして今まで、あれを平気な顔で思い出せていたのだろう。

 

 いや、平気ではなかったから、思い出さないようにしていたのだ。

 

 澪は向かいにいる理央を見た。

 

 17歳。物語を書くことが好きで、格好いい名前に目を輝かせ、思いついたら自分でも試したくなる。その気質には、身に覚えがありすぎた。

 

 このままではいけない。

 

 吟遊詩人が危険なのではない。理央と楽器と17歳という組み合わせが危険だった。少なくとも澪の中では、すでに看過できない危険になっていた。

 

「駄目です」

 

 理央の想像を、澪は一言で切った。

 

「え?」

 

「吟遊詩人は駄目です」

 

 理央は紙と澪の顔を交互に見た。

 

「なんでですか?」

 

「将来のためです」

 

「理央君の?」

 

 真壁が確認した。

 

「はい」

 

 そこだけは迷わず答えられた。理央の将来を守ろうとしていることに嘘はない。問題は、何から守ろうとしているのかを説明できないことだった。

 

「吟遊詩人には、何か危険な技能があるのかね」

 

「そういう話ではありません」

 

「理央君に向いていない理由があるのか」

 

「向いている可能性があるから、余計に困るんです」

 

 真壁は椀を卓上へ置いた。質問するほど話が分からなくなっている顔だった。

 

「なんで澪さんが、私の将来のことまで分かるんです?」

 

「分かるんです。私には」

 

「吟遊詩人になったことがあるんですか?」

 

「ありません」

 

「じゃあ、歌って旅をしたとか」

 

「それもありません」

 

「楽器は?」

 

 澪は答えなかった。

 

 理央の目が細くなる。候補一覧より、澪の反応の方が気になり始めたらしい。

 

「そういえば、澪さんってギターを弾きますよね?」

 

 逃げ道だと思っていた扉が、今度は外側から開けられた。

 

「……それは関係ありません」

 

「なんかやったんですか?」

 

「やってません」

 

 理央が最後まで聞く前に否定したせいで、卓を囲む全員へ、何かあったと伝わった。

 

 ヴァルトは澪の顔を見た。理央がギターと言った瞬間に固まり、質問が終わる前に否定した。その反応だけで、事情は分からなくても、触れられたくない過去があることまでは察せる。

 

「なるほど」

 

「何も分かっていませんよね?」

 

「今、かなり分かった」

 

「分からなくていいです」

 

 リュシアが声を立てずに笑っていた。澪が睨むほどではないが、気づかないふりもできない絶妙な笑い方だった。

 

「吟遊詩人は悪い仕事じゃないよ」

 

「分かっています」

 

「理央に向いてないとも限らない」

 

「だから困ってるんです」

 

「それじゃ、完全にあんたの都合じゃないか」

 

 澪は反論できなかった。

 

 理央はもう吟遊詩人より、澪がギターで何をしたのかを知りたそうにしている。

 

 進路を守るつもりが、自分の黒歴史を卓上へ出してしまった。

 

 澪は候補を書いた紙を指で押さえた。

 

「ほかの候補も見ましょう」

 

「まだ吟遊詩人の話が終わってません」

 

「終わりました」

 

「澪さんのギターの話は?」

 

「始まってもいません」

 

 真壁は納得していなかったが、ヴァルトとリュシアはもう理由を聞く必要がない顔をしていた。

 

 

 

 澪が紙を卓の中央へ戻すと、理央の指が下へ動いた。

 

 吟遊詩人の次には聖職者があり、そのさらに下に漁師がある。

 

「……これ、あれですよね」

 

 理央が漁師を指した。

 

「たぶん、あれですね」

 

 澪も同時に管理池を思い出した。

 

 吟遊詩人と違い、こちらは理由を問い詰める必要がなかった。理央本人にも、候補へ現れるだけの心当たりがある。

 

「何かしたのかね」

 

 真壁が尋ねると、理央は少しだけ言いにくそうに口を開いた。

 

「管理池で、ビッグバスを駆除しました」

 

「何匹ほどだね」

 

 真壁に聞かれ、理央は澪を見た。数を思い出そうとしたのではない。説明をどこまで短くできるか相談する目だった。

 

「一匹捕って終わり、ではありません」

 

 澪が答える。

 

「管理池にいる対象を繰り返し探して、駆除できるだけ駆除しました」

 

「それなら、なおさら候補へ影響した可能性はあるな」

 

「魚を捕ったのなら、漁師が候補に出ても不思議ではないだろう」

 

「1回だけなら、私もそう思わなかったんですけど」

 

 澪が補う。

 

「地図でいる場所を探して、鑑定で対象か確認して、雷で浮かせたあと、重力を使って回収しやすくしていました。回収して、処理して、収納するところまで何度も繰り返しています」

 

「最初は確認しながらだったんです。でも、同じ作業を続けていたら、次に何をするか分かるようになって」

 

 理央は説明しながら、自分でますます漁師候補を補強していることに気づいた。

 

「今のは忘れてください」

 

「後半には作業の順まで身についた、ということかね」

 

「真壁さん、忘れてくれませんね」

 

「候補が出た理由を考えているのだろう?」

 

「そうですけど、理由を強くしたいわけじゃないです」

 

「少し待ってください」

 

 ヴァルトが匙を置いた。

 

「それは漁なのでしょうか」

 

「駆除です」

 

 理央は即答した。

 

「釣り竿も使ってません。魚と競ったわけでもありません」

 

「魚のいる場所を見つけ、捕らえ、運べる状態へ処理したのだろう」

 

 真壁は理央が選びたくない気持ちとは別に、行動だけを順に見ている。

 

「実績としては、十分に見える」

 

「やっぱりそうですか」

 

 理央は嬉しくなさそうだった。

 

「後半は、かなり手際がよかったですよ」

 

「澪さんまで褒めないでください」

 

「漁師になれとは言ってません」

 

「でも吟遊詩人より、漁師の方が具体的に評価されてます」

 

「吟遊詩人の実績は、何かあるのかい?」

 

 リュシアの問いに、理央は口を閉じた。

 

 旅をしながら物語を語ってみたい。歌や楽器も扱えたら格好いい。それは希望であって、実際にやったことではない。

 

 一方、なりたいと思っていない漁師については、魚を探すところから処理して収納するところまで説明できる。理央自身が、反論の材料を一つずつ実行してしまっていた。

 

「私、作家なんですけど」

 

 困った末に、理央は現在の自分を持ち出した。

 

「作家が魚を捕ってはいけないという決まりもありません」

 

 ヴァルトの返事は正しかった。

 

「そういう話じゃないです」

 

「なら、どういう話なのだ?」

 

「なりたい方は名前が格好いいだけなのに、なりたくない方は実績が揃ってるのが納得できないんです」

 

「それは理央が魚を捕ったからだろう」

 

「分かってます」

 

 理由が分かるからこそ、納得しにくいらしい。

 

「魚を捕る仕事が嫌いというわけではないんですよ」

 

 理央は誤解されないように付け加えた。

 

「池が困ってたなら、駆除したことはよかったと思ってます。ただ、これから毎日やりたいかって聞かれたら違います」

 

「なら、それでよいのではないか」

 

 真壁はあっさり言った。

 

「候補に出たことと、選ばなければならないことは別だ」

 

 その一言で、漁師の文字から感じていた妙な圧が少し弱くなった。実績があるからといって、その続きを職業にする義務まではない。

 

 澪は笑いそうになって、慌てて水を飲んだ。吟遊詩人を私情で止めた直後なので、漁師まで勧める気はない。ただ、候補に出た理由を問われれば、吟遊詩人より何倍も説明しやすかった。

 

「漁師は選びません」

 

 理央は紙へ向かって宣言した。

 

「誰も勧めてないよ」

 

 リュシアに言われ、理央は候補一覧を少し遠ざけた。

 

「それなのに、漁師だけ圧が強いんです」

 

 紙に書かれた文字は、もちろん何もしていない。

 

 

 

「一度、職名から離れて考えた方がよいのではないか」

 

 真壁が言った。

 

 吟遊詩人は格好いい。漁師は実績がありすぎる。その2つに引っ張られ、ほかの候補が紙の上で置き去りになっている。

 

 理央は紙を再び近くへ戻した。

 

 紙の端には、食事の器から飛んだ小さな染みができていた。最初は珍しい職名を眺めるだけの紙だったものが、話すうちに進路を考えるための物へ変わっている。

 

「職名ではなく、これから何をしたいかで考えた方がよい」

 

「でも、作家になるなら作家を選んだ方がいいんじゃないですか?」

 

「商人になれば、文章を書けなくなるのかね」

 

「ならないと思います」

 

「作家を選べば、商売をしてはいけないのかね」

 

「それも、違うと思います」

 

「ならば、どの名を選べば何ができなくなるかではなく、今どの道を伸ばしてみたいかを考えればよい」

 

「錬金術師になった澪君も、彫金をやめてはいない。ジョブの名と、本人が行う仕事の全部が同じである必要はないのだろう」

 

 澪は頷いた。今のジョブだけで自分を説明しようとすれば、普段やっていることの大半がはみ出してしまう。

 

「私も、商人になったから彫金師じゃなくなった、とは思っていません。作りたい物があれば作りますし、必要なら別の仕事もします」

 

 理央は作家の文字を見た。

 

 ヴァルトは、その横顔を急かさずに待ってから口を開いた。

 

「作家見習いから作家へ進むのが、最も分かりやすい選択ではあります」

 

「ヴァルトさんも、そう思います?」

 

「理央さんが書いた物を読んでいますから。作家が候補に出たことには、何の疑問もありません」

 

 理央の表情が少し明るくなった。

 

 漁師の手際ばかり具体的に褒められたあとで、書いた物を知る相手から作家だと認められた。それだけで、紙の中の作家が元の位置へ戻ったように見えた。

 

「ですが、作家以外を選んでも、理央さんの本が消えるわけではありません。ゲンダイでは、これからも書くのでしょう?」

 

「はい。やめるつもりはないです」

 

「なら、こちらでも同じ名を選ぶことだけが正解ではありません」

 

 理央が自分の姪だと知っているのは、まだヴァルトの側だけだった。その事実を理由に近づくことも、進む道へ口を出すこともできる。だからこそ、読者として認められることだけを言い、選択は理央へ返した。

 

 ヴァルトは作家を勧めながら、そこへ縛りつけようとはしなかった。

 

 理央の指が商人へ移る。

 

「商人って、実際はどんな感じですか?」

 

 聞かれたリュシアは、すぐに楽しさを語らなかった。

 

「仕入れた物が売れないこともあるよ」

 

「最初がそれなんですか」

 

「いいところだけ聞いて選んでも仕方ないだろう。買う量を間違えれば在庫が残る。値段を高くしすぎれば客は買わないし、安くしすぎれば売れても損をする」

 

 理央は商人の文字からリュシアへ目を上げた。

 

「相手が約束どおりの品を持ってこないこともある。こっちが約束を守れなければ、次から相手にしてもらえない。目の前の1回で儲けても、信用をなくせばその先の商売が消える」

 

「商人、急に魅力なくなりましたね」

 

「現実を話しただけだよ」

 

「もう少し、面白いところもありません?」

 

「あるさ。どこかで余っている物を、必要としている場所へ持っていける。自分が見つけた物に値段を付けて、買った相手にも喜ばれることがある。思ったとおりに売れた時は面白いよ」

 

「売るだけじゃないんですよね」

 

「もちろん。先に客の顔が浮かぶ品を仕入れた方が、失敗は少ないね」

 

 リュシアは卓の周りを見た。食事を取る商人の中にも、今日売れた話をする者と、残った品をどうするか相談している者がいる。

 

「あっちで余ってる物が、こっちじゃ足りないこともある。そこを見つけるのは面白いよ」

 

「面倒なところを増やしたあとに、面白そうなことを言うんですね」

 

「両方あるから商売なんだ」

 

 リュシアはそこで言葉を切った。

 

「けど、それだけじゃないって話さ。面倒なところまで聞いて、それでもやってみたいなら選べばいい」

 

 勧誘ではなかった。

 

 商人候補を消す話でもない。理央の前へ、見栄えのよい看板ではなく、その奥にある仕事を置いただけだった。

 

 理央は候補一覧を眺め直す。

 

 作家、商人、錬金術師。聖職者、書記官、写本職人。止められた吟遊詩人と、自分から断った漁師。

 

 どの名前が格好いいかではなく、どの仕事をまだ知らないのか。

 

 さっきまでより、紙の文字が少し重く見えた。

 

 

 

 新セルマ工房へ入ると、フードコートの食べ物の匂いは、薬草と素材の匂いへ入れ替わった。

 

 棚には瓶が並び、作業台の上では同じ種類の素材が状態ごとに分けられている。セルマは手元の作業を区切ると、澪から渡された紙へ目を通した。

 

 理央は待つ間にも、作業台の端へ揃えて置かれた道具を見ていた。華やかな色の液体より、洗って伏せられた器や、細かく分けられた素材の方が多い。想像していた錬金術師の仕事場より、ずっと片づいていて実務的だった。

 

「ずいぶん出たね」

 

「私も驚きました」

 

 理央はセルマの向かいから紙をのぞき込む。

 

「それで、錬金術師って実際には何をするんですか?」

 

「何を作るかで違うよ」

 

 セルマは答えながら、作業台に置かれた2つの素材を理央の前へ寄せた。同じ種類に見えるが、片方は色が揃い、もう片方には状態の悪い部分が混じっている。

 

「まず、使う物を見る。同じ名前の素材でも、全部が同じ状態とは限らないからね」

 

 理央が片方へ手を伸ばしかけると、セルマは触る前に見るよう促した。

 

「悪いところが混じったまま使えば、出来上がる物も揃わない。分けて、量を合わせて、同じ手順で作る」

 

「魔力を使って、一気に完成させるんじゃないんですか?」

 

「魔力を使えば、材料の違いが勝手になくなると思っているの?」

 

「思ってはいませんけど……少しくらいは」

 

「少しくらい期待していた顔ね」

 

 セルマは笑わず、別の瓶を持ち上げた。中には完成品ではなく、使えなかった物が分けて入れてある。

 

「失敗することもある。その時に、運が悪かったで捨てていたら、次も同じ失敗をする。素材が悪かったのか、量を間違えたのか、扱い方が違ったのかを見直して、やり直す」

 

「地道ですね」

 

「商品にするならね。たまたま1個できた物じゃ、同じ物を欲しい客に売れないだろう」

 

「成功した物だけ売ればいいんじゃないですか?」

 

「次も成功するか分からない物を、いつ入るか約束して売るのかい?」

 

 理央は首を横へ振った。

 

「一度きりの物なら、それでもいい場合はある。けど、薬や同じ品質を求められる品はそうはいかない。昨日買った物と今日買った物で働きが違えば、使う方が困る」

 

 セルマは状態の悪い素材を一つ取り分けた。

 

「格好よく見えるところより、こういう物を混ぜないことの方が大事な日もあるよ」

 

 理央は工房の中を見回した。瓶や素材が並ぶ様子には、不思議な仕事場らしい魅力がある。けれど、セルマが見ているのは瓶の光や職名の響きではない。次も同じ品質で作れるか、失敗した物を客へ渡さずに済むかという部分だった。

 

「でも、錬金術師も格好いいですよね」

 

 理央が言うと、澪はすぐに反応した。

 

「また名前で選んでません?」

 

「……あ」

 

 理央は自分で気づき、口を閉じた。

 

 セルマが2人を順に見る。

 

「それで決めるなら、やめなさい」

 

「吟遊詩人の時より、言い方が厳しいです」

 

「吟遊詩人の時に何があったかは知らないよ」

 

「何もありません」

 

 澪が早口で言ったため、セルマはわずかに眉を上げた。

 

「何かあったのね」

 

「どうして皆さん、そこだけ察しがいいんですか」

 

「あなたが分かりやすいからよ」

 

 セルマは候補の紙を理央へ返した。

 

「錬金術師にならなくても、ここへ来て覚えることはできるわ。逆に錬金術師を選んでも、名前だけで仕事ができるようにはならない。それでも素材を見て、失敗の理由を探すのが面白いなら、候補には残しておきなさい」

 

「商人になっても、ここで勉強できますか?」

 

 理央が何気なく尋ねると、澪はその言葉を覚えておいた。理央はまだ決めていないはずだが、すでに一つの職を選んだら他を捨てる考え方から離れ始めている。

 

「ジョブの名前を見て追い返したりしないわ。仕事を覚える気があるなら来なさい」

 

「はい」

 

 理央は錬金術師の文字を消さなかった。

 

 ただし、その見方は工房へ来る前と変わっていた。格好いい名前ではなく、同じ物を作るために何度も素材を見直す仕事として、候補の一つに置き直した。

 

 

 

 教会へ入ると、昼の共同商館に満ちていた声は遠くなった。

 

 高い窓から入る光が床へ落ち、理央たちの足音が静かな空間へ小さく返る。司祭様は転職の相談だと聞くと、理央本人の意思を確かめるため、改めて候補を尋ねた。

 

 フードコートで使った紙は何度も指でなぞられ、最初より少し柔らかくなっていた。理央はそれを両手で持ち、司祭様の前では折れないように伸ばす。

 

 澪は持ってきた紙を開き、8つの職名を読み上げた。

 

「多くの道が示されたのですね」

 

 司祭様は驚きより、理央がどう受け止めているかを見るように言った。

 

「この中から選べば、今日、転職できるんですよね?」

 

「儀式を行うことはできます。ただし、選ぶのはあなたです」

 

「選ばずに帰ることもできますか?」

 

「もちろんです。今のジョブを維持することもできます。候補が示された日に、必ず変えなければならないものではありません」

 

 理央は安心したように息をついた。決められないから逃げたいわけではない。自分で決めるために、急かされていないと確かめたかったのだろう。

 

 理央は頷いたが、すぐには答えなかった。

 

 フードコートで笑いながら見ていた時と違い、ここまで来れば本当に一つを選ぶことになる。

 

「私は、作家が一番自然だと思います」

 

 澪は理央へ言った。

 

 吟遊詩人を止めた時の勢いではない。理央が書いてきた物も、書くために悩んでいた時間も知っている。その続きとして作家へ進むことに、無理はなかった。

 

「作家見習いから作家ですし、ゲンダイではもう本も出しています。今までやってきたことを伸ばすなら、これだと思います」

 

「私も、作家が最も自然だという点には同意します」

 

 ヴァルトも続けた。

 

「ただし、先ほども言ったとおりです。自然な道と、本人が選びたい道が同じとは限りません」

 

「分かってます」

 

 理央は作家の文字へ指を置いた。

 

 澪は真面目な話をしたところで、候補の中にもう一つ気になる文字があることを思い出した。

 

「聖職者もいいんじゃないですか」

 

 理央が顔を上げる。

 

「どうしてです?」

 

「純粋無垢な箱入り娘から聖職者です。きれいな進路だと思います」

 

 静かな教会に、澪の言葉だけが場違いなくらいよく響いた。

 

「まだそれ言うんですか」

 

「前職ですから」

 

「前職の名前だけで進路を決めないでください。さっき澪さんが、名前で選ぶなって言ったんですよ」

 

「半分は冗談です」

 

「残り半分は本気なんですか?」

 

 澪は答えず、候補の紙へ視線を戻した。

 

 ヴァルトが小さく息を吐いた。笑いをこらえたらしい。真壁は聖職者と箱入り娘の間に、どのような関係があるのか考えている顔をしていた。

 

「箱に入っていたことが、聖職者の適性になるのかね」

 

「なりません」

 

 理央と澪の返事が重なった。

 

「では、なぜ聖職者が候補にあるのだ?」

 

「それは私にも分かりません。ジョブの条件を決めつけない方がいいと思います」

 

 澪が答えると、理央も頷いた。

 

「少なくとも、箱入り娘だったからじゃないです」

 

「そこだけは強く否定するのだな」

 

「真壁さんも信じないでください」

 

 司祭様は候補の人気を競わせることも、どれかを勧めることもしなかった。皆の言葉が途切れてから、理央へ静かに問いかける。

 

「周りの方の考えは聞けたようですね」

 

「はい」

 

「では、あなたはどの道を選びますか」

 

 答えは澪の紙に書いてある。

 

 けれど、決めるために見るものは、もう職名の並びだけではなかった。

 

 

 

 理央は候補を上から見直した。

 

 吟遊詩人は格好いい。旅をしながら物語を語る自分を想像すると、今でも少し心が動く。

 

 ただ、澪に止められたからではなく、今は名前の格好よさだけで決めるのは違うと思えた。

 

 漁師は、なぜ候補にあるのかよく分かる。あれだけ魚を探し、捕り、処理したのだから、実績を否定する気はない。だからといって、次も魚を捕る仕事を選びたいわけではなかった。

 

 錬金術師の仕事は面白そうだった。素材を見分け、品質を揃え、失敗した理由を探す。セルマの工房には、これからも行きたい。それでも、工房へ行くために錬金術師を選ばなければならないわけではない。

 

 作家は、一番自然だった。

 

 理央はこれからも小説を書く。ゲンダイへ戻れば、考えることも直すことも、読者へ届けるためにやることもある。それはジョブが作家でなくても変わらない。

 

 そして商人。

 

 仕入れた物が売れない。在庫を抱える。値段を間違えれば損をする。約束を守らなければ信用を失う。

 

 リュシアが魅力を減らすように話したのに、候補から消えなかった。

 

 むしろ、楽なことばかりではないと知ったから、仕事として考えられるようになった。格好いい服を着て商品を売る姿ではなく、売れ残った品を前に考え込む時間まで含めて、自分がやったらどうなるのか想像できた。

 

 異世界へ来てから、理央は多くの商品を見た。誰かが作った物を別の誰かが買い、遠い場所から運ばれた物が、必要としている人の手へ渡る。澪が品物を見て、値段を考え、相手の反応を確かめる姿も近くで見てきた。

 

 理央にとっては、まだ知らないことばかりだった。

 

 知らないなら、やってみたい。

 

「決めました」

 

 理央は紙から顔を上げた。

 

 澪は作家という答えを待っていた。ヴァルトも、それが一番可能性の高い選択だと思っているように見える。

 

「商人にします」

 

「……商人?」

 

 澪の反応だけが一拍遅れた。

 

 真壁とヴァルトが、理央ではなく澪を見る。リュシアは驚いた顔をしたが、すぐに理由を聞こうとはしなかった。

 

「商人でよいのですね」

 

 司祭様が確認する。

 

「はい」

 

「作家ではなく?」

 

 澪は自分で勧めておきながら、少しだけ惜しくなった。

 

「作家はこれからもやります」

 

 理央は当然のことのように答えた。

 

「ゲンダイでは書きますし、こっちでも書きたくなったら書きます。でも商人は、まだやったことがないので」

 

「書記官や写本職人も、経験はないでしょう」

 

 ヴァルトが意地悪ではなく、選んだ基準を確かめるように聞いた。

 

「文字を書く仕事は、作家と違っても少し想像できます。商人は近くで見てたのに、実際に自分でやったことはほとんどないんです」

 

 見る側と、値段を決めて責任を持つ側では違う。その境目を越えてみたいのだと、理央は言葉を探しながら説明した。

 

「リュシアさんの話を聞いて、魅力がなくなったのではなかったのかね」

 

 真壁の問いに、理央は少し考えた。

 

「大変そうだとは思いました。でも、知らないことが多い方が、やってみたら面白そうです」

 

 人生を決める宣言にしては、理央の言い方はあっさりしていた。

 

「それに、澪さんと同じですし」

 

 その一言だけが、澪へまっすぐ届いた。

 

「私と?」

 

「はい。近くで見てたから、少しはどんな感じか分かります。たぶん」

 

 大げさな憧れを語られたわけではない。澪のようになりたいと言われたわけでもない。

 

 それでも理央が商人を選ぶ理由の中に、自分がいた。

 

 澪は嬉しいと口にする前に、商人の大変な部分をきちんと教えられるのかという不安を覚えた。自分もまだリュシアから学んでいる途中なのに、同じ道へ理央が入ってくる。

 

「後輩だな」

 

 真壁が言った。

 

「そういうことになりますね」

 

 澪はようやく答えた。

 

 司祭様が理央の意思をもう一度確認し、儀式を始める。

 

 理央は示された場所へ立った。静かな祈りの言葉が教会に流れ、光が理央の体を淡く包む。

 

 劇的な力が突然あふれることも、新しい技が頭へ押し込まれることもなかった。

 

 光が収まると、司祭様は儀式の終わりを告げた。

 

「これで、あなたのジョブは商人となりました」

 

 理央は自分の手を見て、それから澪を見る。

 

「変わった感じ、あまりしないです」

 

「ジョブが変わっただけで、急に別人にはなりませんよ」

 

「よかったです。急に値段が全部分かるようになったら、便利だと思ったんですけど」

 

「それは私も欲しいです」

 

 リュシアが呆れた。

 

「そういうことを覚えるのが、これからなんだよ」

 

 理央は素直に頷いた。

 

 自分で選んだ道は、儀式が終わったところから始まるらしい。

 

 

 

 共同商館地下1階へ戻ると、昼の混雑は少しだけ落ち着いていた。

 

 空いた卓には食器が片づけられた跡が残り、調理場では次の仕込みをする包丁の音が続いている。理央たちは、候補一覧を広げたのと同じ卓へ座った。

 

 少し前まで作家見習いだった理央は、今は商人になっている。

 

 けれど、目の前に商品が現れたわけでも、商売の予定が決まったわけでもない。理央は椅子へ座るなり、最初の疑問を口にした。

 

「それで、商人って最初に何をするんですか?」

 

 澪は反射的にリュシアを見た。

 

「なんで私を見るんだい」

 

「私、リュシアさんに教わったので」

 

「だったら、今度はあんたが教えな」

 

 リュシアはごく当然のように言った。

 

 澪は返事をする前に止まった。

 

 自分が商人として迷えば、今でもリュシアに聞く。仕入れも値付けも、失敗を避ける考え方も、教わっていないことの方が多いと思っていた。

 

 けれど、理央から見れば違う。

 

 商品を見て、誰に売るかを考え、商談の席へ座る澪を、理央はすでに知っている。全部を知っていなくても、最初の一歩を教えることはできる。

 

「私が、ですか」

 

「あんたの後輩なんだろう?」

 

「そうですけど」

 

「私があんたに教えたことを、今度は理央に教えればいい。分からないところが出たら、その時は聞きな」

 

 澪の中で、教わったものが自分のところに溜まっていたのではなく、次へ渡せる形になっていたことへ、ようやく気づいた。

 

 リュシアから澪へ。澪から理央へ。

 

 現在の澪は行商人だが、商人から始め、リュシアに教わってきた。商品を見る時にどこを確かめるのか、仕入れ値と売値の間に何があるのか、売ったあとまでどう責任を持つのか。教わった順番を思い返せば、理央にさせることも少しずつ見えてくる。

 

「まず、商品を見てもらいましょうか」

 

 澪は考えながら言った。

 

「何が売れそうかだけじゃなくて、いくらで仕入れて、いくらなら買ってもらえるかを考えます。買う人が誰かも見ないといけません」

 

「何か売っていいんですか?」

 

「いきなり大量には仕入れません。最初は、扱う物を一緒に決めましょう」

 

「売れ残るかもしれないからですか?」

 

「はい」

 

 理央は教会へ行く前に聞いたリュシアの話を覚えていた。

 

「値段を安くしすぎても駄目で、高くしすぎても売れないんですよね」

 

「そうです。だから、品物だけじゃなくて、お客さんも見ます」

 

 澪が答えるたび、理央の顔には次の質問が浮かぶ。教える側になった実感より先に、これは準備をしておかないと質問に追いつかれないという危機感が出てきた。

 

 真壁は答えを代わりに出さず、2人の話を聞いている。ヴァルトも、作家を選ばなかった理央が、早速商人として何か始めようとしている様子を面白そうに見ていた。

 

「錬金術の勉強も続けていいですよね?」

 

「もちろんです。商人になったから、ほかのことをやめる必要はありません」

 

「小説も?」

 

「それはやめないって、自分で言ったでしょう」

 

「はい」

 

 理央は満足そうに頷いた。

 

 作家をやめず、錬金術も学び、異世界では商人を始める。候補から一つ選んだはずなのに、理央のやりたいことは減っていない。

 

 澪はそれでいいと思った。

 

 ジョブは進む道を一つ示すが、ほかの道へ目を向けることまで禁じない。商人として最初に教えることは、そのあたりからでもよいかもしれない。

 

「澪さん」

 

「はい」

 

「商人でも、ギターは弾けますよね?」

 

 穏やかにまとまりかけていた話へ、閉じたはずの扉がもう一度開いた。

 

「理央ちゃん」

 

「はい」

 

「その話は終わりです」

 

「でも、ジョブと今やっていることは別だって、真壁さんが」

 

「正しいが、今は言わない方がよさそうだな」

 

 真壁は理央への同意を途中で引っ込めた。

 

 ヴァルトは澪から視線を外したが、口元までは隠せていない。リュシアはとうとう声を出して笑った。

 

「教えることが、もう一つ増えたんじゃないかい?」

 

「増えていません」

 

「演奏じゃなくて、何をしたら将来困るかの方だよ」

 

「リュシアさんまで、その話は終わりです」

 

 理央は商人として最初に覚えることより、澪のギターの方がまだ気になっている。

 

 教える側になった澪の最初の仕事は、商売の説明ではなく、自分の黒歴史から後輩の興味をそらすことになりそうだった。

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