押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第297話 海水を淡水にしないでくださいね

 

 転職の儀式を終えて共同商館へ戻ったあとも、理央の昼食はほとんど減っていなかった。

 

 地下1階のフードコートでは、人の話し声と食器の触れる音が重なっている。調理場から漂う焼いた肉の匂いに気づき、理央はようやく匙を動かした。

 

 ヴァルトとリュシアは、それぞれの仕事へ戻っている。卓に残っているのは、澪、理央、真壁の3人だった。

 

「そういえば、残していたSP、まだ使ってませんでした」

 

 理央は匙を置き、自分へ鑑定を使った。

 

 作家見習いから商人へ変わっている。未使用SPは13。その下には、管理池から戻る前に確認した時と同じ9つの成長傾向が並んでいた。

 

 共鳴を取得した時、澪が持つスキルはレベルを伴わない「芽あり(+)」として理央へ複写された。その中から鑑定や収納などはすでに取得している。今残っているのは、あの時に選ばず保留した候補だった。

 

「13も残したままだったんですよね」

 

「あの日は疲労度も高かったですし、続けて使うのはやめましたから」

 

「今日は元気です」

 

 理央はそう言いながら、表示を上から順に追った。

 

 商才:芽あり(+)

 

 薬学:芽あり(+)

 

 防衛用収納展開:芽あり(+)

 

 射撃:芽あり(+)

 

 火:芽あり(+)

 

 収納内時間停止:芽あり(+)

 

 統率個体識別:芽あり(+)

 

 移動加速:芽あり(+)

 

 醸造:芽あり(+)

 

 商人へ転職したから現れた候補ではない。射撃も火も、商才と一緒に以前からそこにあった。どれも共鳴によって澪から受け取った選択肢である。

 

「この9つ、前に残したものですよね」

 

「はい。増えてはいません」

 

「商人になったから、商才が出たわけでもないんだ」

 

「商才も共鳴を取った時からありました」

 

 理央は商才の文字を見つめた。以前は、便利そうな技能を片端から取ればSPがすぐになくなると考え、選ぶのをやめた。だが今は、自分の意思で商人を選んだばかりだった。

 

「未使用SPは13あります。全部を取得する必要はありませんから、欲しいものだけ選べますよ」

 

「13なら、この9個は全部取れるんですよね?」

 

「1つずつ使うなら足ります。でも、あとで別の芽が出る可能性もあります」

 

 澪は取得を急がせなかった。数が足りることと、全部使うことは別である。

 

 理央は最初の文字へ意識を向けた。

 

「商才は取ります。商人になったのに、これを取らないのは変ですよね」

 

「今すぐ相場が全部分かる技能とは限りませんよ」

 

「分かってます。でも、商人として使えるなら欲しいです」

 

 理央が取得する意思を固めると、自分で開いている表示から商才の「+」が消えた。残ったSPも一つ減っている。

 

「取得できました」

 

「変わった感じは……しません」

 

「使い方も、これからでしょうね」

 

 次は薬学だった。

 

「薬学も取ります。セルマさんのところで勉強するなら、あった方がいいですよね」

 

「薬を勝手に作ってよいという意味ではありませんが、学ぶ助けにはなると思います」

 

「そこはセルマさんに怒られないようにします」

 

 理央は薬学も取得した。

 

 防衛用収納展開、射撃、火の3つでは、少し長く表示を見た。

 

「これは、戦うためですか?」

 

「防衛用収納展開は、名前のとおり自分を守る側です。射撃と火も、取ったから使わなければならないわけではありません」

 

「でも、また知らない場所へ行くなら、自分で守れる方がいいですよね」

 

 理央は、管理池で雷を使った時のことだけを考えてはいなかった。異世界へ迷い込み、澪や真壁がすぐそばにいなかった時間も覚えている。

 

「取ります。練習は、ちゃんと教えてもらってからにします」

 

「それがいいです」

 

 3つの「+」が順に消えた。

 

 収納内時間停止は、理央の迷いが短かった。

 

「これは欲しいです。食べ物を入れても傷まないってことですよね」

 

「時間停止が適用される範囲は、実際に確認してからです。名前だけで全部止まると決めないでください」

 

「はい。でも、収納を使うなら取っておきます」

 

 統率個体識別では、理央の指が止まった。

 

「これ、何を識別するんです?」

 

「統率する対象を個体ごとに見分ける技能だと思いますが、今の理央ちゃんに何が対象になるかは分かりません」

 

「分からないんですね」

 

「芽の名前以上は、まだ見えていません」

 

「魚を一匹ずつ見分ける技能だったりしませんよね?」

 

「漁師から離れてください」

 

 理央は澪に言われ、真壁を見た。

 

「複数の者や物を扱う時に役立つ可能性はある。商人として人を動かす時にも無駄にはならんだろう」

 

「じゃあ、取ります」

 

 移動加速も、知らない場所へ行く時に役立つかもしれないという理由で取得した。

 

 表示に残った「+」は、醸造だけになった。

 

「……醸造はいいです」

 

「そこだけ取らないんですね」

 

「お酒、作る予定ないですし」

 

「醸造も発酵に進化すると、収納内プラントで活躍するのだがね」

 

 真壁が口を挟んだ。

 

「発酵?」

 

「酒だけではない。味噌、醤油、酢も発酵を利用する。食品を継続して作るなら、用途は広い」

 

 理央は表示へ視線を戻した。

 

「味噌と醤油は、ちょっと気になります」

 

「発酵まで育てれば、収納内で温度や時間を管理した製造にも使えるだろう」

 

「真壁さん」

 

 澪は、真壁の話が収納内プラントの配置へ進む前に止めた。

 

「理央ちゃんを収納内プラント要員にしないでくださいね」

 

「まだ何も言っていないが」

 

「まだ、なんですね」

 

 理央がすぐ拾った。

 

 真壁は否定し直さなかった。

 

「でも、今はいらないです」

 

 理央は少し迷ったあと、醸造の取得を見送った。

 

 取得したのは8技能。残った未使用SPは5。

 

 成長傾向には、取得しなかった醸造だけが「芽あり(+)」のまま残った。

 

「一気に取りましたけど、すぐ全部の練習をするんですか?」

 

「今日はしません」

 

 澪は即答した。

 

 技能を得た直後に、射撃、火、収納、移動を順番に試せば、それだけで一日が終わる。理央の商人としての最初の経験を、技能試験だけで埋めるつもりはなかった。

 

「商才も取りましたけど、何をすればいいんですか?」

 

 理央は残った食事へ匙を入れながら、改めて尋ねた。

 

 

 

 

「商才を取ったからといって、すぐ商品を持たせる必要はないでしょう」

 

 澪も教える側になったばかりである。最初の商品を選び、仕入れさせ、売らせる。それらしい順番ではあるが、理央が商人になった目的は、急いでレベルを上げることではない。

 

 失敗しても困らない物を適当に売らせれば、売買の形だけは作れる。しかし、それで何を学べるのかと考えると、澪の中ではまだ答えが出ていなかった。

 

「商品を売ることだけが、商人の経験ではない」

 

 真壁が椀を置いた。

 

「仕入れを知らずに売ることはできない。何を欲しがる者がいるのか分からずに仕入れれば、リュシア君が言ったとおり、在庫が残る」

 

「じゃあ、最初は仕入れですか?」

 

「その前でもよい。市場を見るのだ」

 

 理央の匙が止まった。

 

「市場なら、ここにもありますよね」

 

「ここで何が売られているか、すべて知っているかね」

 

「全部は知らないです」

 

「ならば、見るところから始められる。店に何が並び、誰が買い、何が残るのか。食べ物でも衣服でも、町が違えば使われる物も変わるだろう」

 

 真壁は理央へ商売をさせようとはしなかった。売る側へ立つ前に、客として歩いていた時には見なかったものを見ればよいと言っている。

 

 理央はフードコートを見回した。

 

 初めて共同商館へ来た時は、食事を出す店も、異世界の服で行き交う人々も珍しかった。知らない料理の匂いがするだけで目を向け、何に使うか分からない道具が運ばれていけば、行き先を追った。

 

 今もゲンダイとは違う。けれど、どの通路から地上へ上がり、どの店なら自分でも食べやすい物があるのか、もう知っている。

 

 珍しかった場所が、少しずつ知っている場所になっていた。

 

「見るだけで、何が分かるんですか?」

 

「同じ食事を出す店でも、昼に席が埋まる店と、夕方に客が増える店があります。持ち帰る人が多い店もありますし、ここで食べる人ばかりの店もあります」

 

 澪は目についた店を順に示した。

 

「値段だけ見ても足りません。量が多いのか、急いで食べられるのか、そこでしか買えないのか。買った人を見れば、理由が少し分かります」

 

 理央は肉料理を出す店へ目を向けた。並んでいるのは力仕事を終えたらしい者が多い。その隣では、包んだ食事を抱えた店員が地上へ向かっている。

 

「今まで、何がおいしそうかしか見てませんでした」

 

「最初はそれでいいと思います。おいしそうに見えることも、売れる理由ですから」

 

「じゃあ、全部難しく考えなくてもいいんですね」

 

「考えるのは、気になったあとでいいですよ」

 

 澪は答えながら、自分がリュシアに教わった時も、最初から市場全体を理解していたわけではないと思い出した。客が手に取った物、売れ残った物、予定より早くなくなった物を一つずつ見てきただけだ。

 

「見た物を全部覚えろとは言わん」

 

 真壁も言った。

 

「一つでも、なぜ違うのか考える物があればよい」

 

「急に楽になりました」

 

「課題ではないからな」

 

 理央が安心した顔をしたため、澪も最初から一覧や提出物を作らなくてよかったと思った。

 

「知らない土地を見るのも悪くないだろう」

 

「知らない土地……」

 

 理央はその言葉を繰り返した。

 

「私が知っている町へ連れていくのでは、同じ物を見て終わりそうですね」

 

 澪は領都で理央を案内した時のことを思い出した。家具工房、食品会社、新セルマ工房、飛行船。理央は驚いていたが、案内した澪にとっては、すでに何度も見た場所だった。

 

 今度は自分も、理央と同じ側に立てる。

 

「だったら、私たちも行ったことがない町にしません?」

 

「それ、いいです」

 

 理央の返事は早かった。

 

「勉強しに行く感じじゃなくなってません?」

 

「見ることが目的なら、間違ってはいません」

 

「澪さんも行きたいんですよね?」

 

「それもあります」

 

 否定しなかった澪を見て、理央が笑った。

 

 商人になって最初にすることは、商品を売ることではなく、澪も知らない町へ行くことになった。

 

 真壁は止めなかった。2人へ無理に商品を持たせるより、その方が得るものは多いと考えているらしい。

 

「では、どこへ行くかだな」

 

 近隣の町を挙げるには、澪と真壁が歩いた場所が増えすぎていた。

 

 理央は食事を再開するのも忘れ、まだ見たことのない町を探すように卓上へ視線を落とした。

 

 

 

「近くなら、今日のうちにも行けますか?」

 

 理央が尋ねると、澪は頭の中でゲンダイ側の予定を確かめた。

 

 講義のある日なら、翌朝の時間から逆算しなければならない。課題が残っていれば、異世界側で何か始めても、途中で六畳間へ戻ることになる。

 

 試験そのものを恐れていたわけではない。

 

 教科書と講義ノートは収納内に揃っており、必要な箇所は検索できる。鑑定と並行思考も使える今の澪にとって、試験対策は以前よりずっと余裕があった。

 

 それでも、決められた時刻に大学へ行き、教室で試験を受ける必要はある。異世界で飛行船が飛んでも、ゲンダイの試験開始時刻は動かない。

 

 その時間拘束が、ようやく終わった。

 

 澪はスマートフォンを取り出し、念のため大学の予定を開いた。異世界の食事が並ぶ卓上で、ゲンダイの予定表だけが白く光る。

 

 通常の講義はしばらくない。大学へ行く用事がまったくなくなるわけではないが、毎日決まった時間に教室へ座る必要はなかった。

 

「試験、終わったんですね」

 

 理央が画面をのぞき込む。

 

「はい。試験は大丈夫なんですけど、時間だけは空けられなかったので」

 

「異世界にいても、試験の日は大学へ行くんですね」

 

「行きますよ。押入商会の代表でも、大学では学生ですから」

 

「そこは普通なんですね」

 

「そこまで異世界側に変えられたら困ります」

 

 澪はスマートフォンを伏せた。

 

「今なら、近くじゃなくても大丈夫です」

 

「何かあったんですか?」

 

「大学の試験が終わって、試験休みに入ったんです。授業がある時よりは、まとまって動けますよ」

 

 試験を乗り越えた解放感ではない。朝から夕方まで大学へ拘束されない日を、何日か続けて使える。その差が、行ける範囲を広げていた。

 

「何日くらいですか?」

 

「旅に全部使うわけではありませんけど、何日か続けてなら」

 

「泊まりですか?」

 

 理央が尋ねたのは、旅先の宿へ興味があるからだけではない。ゲンダイ側には家族がおり、作家としての仕事もある。外国へ行くから何日も帰らないと言えば、当然説明が必要になる。

 

「夜は戻ればよい」

 

 真壁が簡単に言った。

 

 理央は意味を考え、澪を見た。

 

「どこからです?」

 

「その日に着いた町からだ」

 

「外国まで行って、毎晩家で寝るんですか?」

 

「転移がありますから」

 

 澪が答えると、理央は少しの間、何も言わなかった。

 

 異世界の町を何日もかけて進みながら、夜になれば江古田へ戻る。風呂へ入り、自分の布団で眠り、翌朝また異世界の続きへ出掛ける。

 

「それ、旅行なんですか?」

 

「日中は旅行ですよ」

 

「夜だけ、すごく普通ですね」

 

「宿を探さなくて済むのは助かります」

 

 澪にとっては、寝床よりも充電や着替え、ゲンダイ側の連絡を確認できる方が大きい。長く異世界へ留まるとしても、生活の全部を置いていくわけにはいかなかった。

 

「家には、普通に帰れるんですよね」

 

「はい。理央ちゃんはご家族へ、帰る時間だけ伝えておけばいいと思います。外国へ行くとは説明できませんけど」

 

「異世界の外国に日帰りするって、本当のことを言っても信じてもらえない気がします」

 

「信じられたら、その方が困ります」

 

 作家として届く連絡も、家族との時間も、異世界へ行くたびに切り離す必要はない。理央にとって、その点は旅へ参加できる大きな条件だった。

 

「ただし、行ったことのない町へ直接転移することはできない」

 

 真壁が2人の話へ条件を加えた。

 

「目的地だけ決めて飛ぶことはできないのだ。街道を進み、その日のうちに次の町へ入る。そこまで到着して初めて、翌日の再開地点にできる」

 

「途中の道で時間になったら?」

 

「その場所へ翌朝直接戻ることはできん。戻るなら、改めて街道を進む必要がある」

 

「じゃあ、毎日ちゃんと町まで着かないと、進んだ分が無駄になるんですね」

 

「無理に進んで日が暮れる方が危険だ。届かないと判断したら、早めに引き返すべきだろう」

 

 転移があるからといって、未知の土地を飛ばして進めるわけではない。

 

 朝に既知の町から出発し、街道を通って次の町へ向かう。到着できれば、夜は戻る。翌朝、その町から先へ進む。

 

「新しい町へ着いたら、着いただけで戻る日もありそうですね」

 

「時間が遅ければ、そうなるでしょう」

 

「市場を見るために行くのに、見ないで帰るんですか?」

 

「翌朝、開いてから見ればよい。到着を欲張って暗い道を進む必要はない」

 

 真壁は旅を急ぐことと、未知の町を見ることを分けていた。何日で国境へ着くかを競う旅ではない。

 

 理央は指で卓上に見えない道を描いた。

 

「町を一つずつ増やしていく感じですね」

 

「そうなります」

 

「それなら、途中もちゃんと見られそうです」

 

 便利さを知ったあとで制限を聞いても、理央は残念そうにしなかった。むしろ、知らない道を歩く部分が残っていることを楽しんでいる。

 

 澪も同じだった。

 

 目的地へ一瞬で着くだけなら、港を見て帰る見学になる。町から町へ進むなら、その間にある畑も村も、運ばれている荷も見られる。

 

「近くの町だけじゃなくても、行けそうですね」

 

「どの方角へ向かうかを決めれば、日程は組めるだろう」

 

 真壁はすでに、町と町の間をどう区切るか考え始めていた。

 

 澪の試験休みと転移を組み合わせたことで、行き先の範囲が一気に広がった。

 

 

 

 北、南、東、西。

 

 4つの方角を口に出してみても、澪の中では最初から一つが気になっていた。

 

 南はレヴァニアとの交易が始まっている。東には大森林があり、その先にも別の国がある。北方にも、この国とは違う文化を持つ国があると聞いていた。

 

 どこへ進んでも、知らない土地へは行ける。

 

「西って、海なんですよね」

 

 澪が言うと、真壁は頷いた。

 

「そうだな。この国は海に面していない。西へ出れば海洋国家がある」

 

「海のある国ですか?」

 

 理央もすぐに反応した。

 

「セレヴィア王国だ」

 

 真壁は国名だけを先に答えた。

 

 王国内にも湖はある。しかし湖畔の町と、海を道として使う国では、町の作りも商売も同じではないだろう。

 

「国の形も違うんですか?」

 

「ヴァレシオ王家が治める王国だが、港湾都市や大商会、船主の自治権が強いと聞いている」

 

「王様がいても、港ごとの商人が強いんですね」

 

「船と港を動かす者が、国の富と守りを支えているのだろう。内陸の領地を基盤とするこの国とは、力の集まる場所が違う」

 

 真壁は知っている範囲だけを答えた。実際の港へ入れば、聞いていた話と違う部分もあるはずだ。

 

「商人が強い国なら、商人になった最初に行く場所として合ってません?」

 

 理央が言う。

 

「合いすぎて、最初の場所としては大きすぎる気もします」

 

「でも、澪さんも行きたいんですよね」

 

「行きたいです」

 

 澪がまた即答したため、理央は満足そうに笑った。

 

 澪はゲンダイで海を見たことがないわけではない。だから海そのものが珍しいのではない。

 

 異世界の海を見たことがなかった。

 

 これまで異世界側で見てきた景色は、街道、森、畑、王都、侯爵領。最近では、その空を押入商会の飛行船が行き交うようになった。

 

 その先に港と水平線があり、海の向こうへ商品を運ぶ商人がいる。

 

「どうせ知らないところへ行くなら、今まで見てないものが多い方がよくないですか?」

 

「私も海は見たいです」

 

 理央は賛成したあと、少し考えた。

 

「異世界の海って、ゲンダイと違うんでしょうか」

 

「海水は海水だと思いますけど、港や船は違うでしょうね」

 

「海の魔物もいます?」

 

「いるかもしれません」

 

「今、ちょっと楽しそうに言いませんでした?」

 

「海の魔物に会いたいとは言ってません」

 

「でも、見たくはありますよね」

 

 澪は否定しなかった。

 

 海辺の町には、内陸では見ない魚が並ぶかもしれない。海で使う道具、船へ積むための荷姿、塩気に耐えるための工夫もある。理央に市場を見せるという目的にも合っている。

 

 ただし、セレヴィア王国は外国だった。

 

「真壁さんは、行ったことがあるんですか?」

 

「ない」

 

「知らない場所なんですね」

 

「知識として聞いたことはあるが、実際の町も港も見てはいない。今回の条件には合うだろう」

 

 真壁にとっても未知の土地なら、案内されて終わる旅にはならない。

 

「西にしましょう」

 

 澪が言うと、理央が大きく頷いた。

 

「どうせなら、町じゃなくて国まで行ってみたいです」

 

 知らない町を見るという話が、いつの間にか知らない国を見る話へ変わっていた。

 

 真壁はその広がりを止めず、確認だけを返した。

 

「目的地はセレヴィア王国でよいのだな」

 

「はい」

 

 理央が先に答え、澪も頷く。

 

 近くの町へ半日出掛ける話なら、ここまで気持ちは動かなかったかもしれない。海のある外国へ、町を一つずつたどって進む。行く前から知らないものがいくつも待っている。

 

 行き先は決まった。けれど、3人とも実際に行ったことがない以上、知っている者から話を聞く必要がある。

 

 澪はフードコートの通路へ目を向けた。

 

 食事を終えたリュシアが、空になった盆を返却場所へ運んでいる。これから仕事へ戻るところらしい。

 

「リュシアさん」

 

 澪が呼ぶと、リュシアは足を止めた。

 

「何だい。まだ理央の仕事が決まらないのかい?」

 

「仕事というより、行き先が決まりました」

 

「どこへ行かせる気だい」

 

 リュシアの視線が澪から真壁へ移った。話が大きくなった原因を、最初から半分ほど真壁だと思っている顔だった。

 

「セレヴィア王国です」

 

 澪が答えると、リュシアは盆を持ったまま黙った。

 

「知らない市場を見に行く話じゃなかったのかい?」

 

「どうせなら、知らない国の市場を見ようかと」

 

「話が一つじゃなくて、いくつ先へ行ったんだい」

 

 リュシアは呆れたものの、行くなとは言わなかった。

 

 

 

「リュシアさんは、セレヴィアへ行ったことがありますか?」

 

 理央に尋ねられ、リュシアは空いている椅子へ盆を置いた。

 

「国の中まで長くいたことはないよ。けど、あっちから来る商人とも品物とも付き合いはある」

 

「言葉は通じるんですか?」

 

「商売する者同士なら、通じる相手はいるよ。けど、誰もがこちらの言葉を話すと思わない方がいいね。値段だけ分かったつもりになるのが一番危ない」

 

「数字が同じでもですか?」

 

「何の値段か、どれだけの量か、税や運賃を含むのか。そこが分からなきゃ、数字だけ読めても意味がないよ」

 

 理央は、知らない市場を見るという話が、少しずつ外国の商売へ変わっていくのを感じた。品物を見るだけなら目で足りる。取引しようとすれば、言葉と習慣まで知らなければならない。

 

「どんな国なんです?」

 

「海洋民族の国さ。海辺に住んでるってだけじゃない。海が道で、船が荷車みたいなものだね」

 

 リュシアにとっては、遠くの国の珍しい昔話ではない。海を越えてきた品を買い、その国の商人と値段を話した経験から出る言葉だった。

 

「港ごとに商人や船主の力が強い。大きな商会もあるし、商船を何隻も持つ者もいる。海軍だって、この国とは比べものにならないよ」

 

「船で荷物を運ぶんですよね」

 

「そうさ。帆を張って、風を受けて海を渡る。港から港へ品を積んで運ぶんだよ」

 

「帆船なんですか?」

 

 理央の声が明るくなった。

 

「本物の?」

 

「偽物の帆船で海を渡る商人はいないよ」

 

 リュシアが呆れた。

 

 澪の頭には、高く並ぶ帆柱と、風を受けて膨らむ帆が浮かんだ。港の岸壁に船が着き、見たことのない箱や樽が次々と降ろされる。その荷を待っている商人がいて、逆に内陸から届いた商品が船へ積まれる。

 

 まだ実物を見ていないため、想像の中の港はゲンダイで見た映像と異世界の町が混ざっている。それでも、飛行船の発着場とはまったく違う景色になるはずだった。

 

「船の中で暮らす人もいるんですよね」

 

「航海中は、そうなるね。食べ物も水も、港を出る前に積む。途中で足りなくなったからって、街道の店へ寄るわけにはいかない」

 

「商品だけじゃなくて、自分たちが食べる分も積むんですか」

 

「当然だよ。荷を増やせば売上は増えるかもしれない。でも、人が生きて戻るための物を削ったら、商売どころじゃない」

 

 理央は、港に並ぶ華やかな帆船の裏へ、航海中の食料や水を積み込む人々を加えた。船は風で進んでも、商売が風任せになるわけではない。

 

「ちょっと見たいです」

 

「私もです。大きい帆船って、実際に見たことありません」

 

 澪と理央が続けて言うと、リュシアは2人を見比べた。

 

「あんたたち、飛行船を作っておいて、帆船に食いつくのかい」

 

「飛行船は、もう見慣れてしまったので」

 

「慣れるような物じゃないよ」

 

「でも地下ドックへ行けばありますよね」

 

「あるけどね」

 

 リュシアは自分で認めたあと、何かがおかしいという顔になった。

 

 理央も、初めて飛行船を見た時には、異世界にあることを疑った。それが今では、飛行船より帆船の方を異世界らしいと感じている。

 

「帆だけで進むんですよね」

 

「風がなければ進まないし、風向きが悪ければ思うようには行けない。だから風と海を読む者がいる。船を持つだけじゃ商売にはならないよ」

 

「飛行船より大変そうです」

 

「比べる物じゃないね。あっちには、あっちで積み上げてきたやり方があるんだ」

 

 リュシアは飛行船の方が優れているとも、帆船が古いとも言わなかった。

 

 澪も、帆船を見てすぐ飛行船へ置き換えるつもりはない。海の国が海で積み上げた商売を、空から来た自分たちの基準だけで測れば、見えるものまで見えなくなる。

 

 海で商品を運ぶために、人を集め、風を読み、港と港の間へ商流を作ってきた。理央が見るべきなのは船の形だけではなく、その船で商売している者たちなのだろう。

 

「市場には、海の向こうの物も並びますか?」

 

「並ぶさ。どこから来たのか分からない物まで混じることもある。買うなら、珍しいってだけで手を出すんじゃないよ」

 

「まだ買うとは言ってません」

 

「目を見れば分かるよ」

 

 理央は否定しようとしたが、自分でも港の市場を楽しみにしているため、途中でやめた。

 

 セレヴィアへ行く理由に、海だけでなく帆船と海上交易が加わった。

 

 澪はもう、西へ向かうことを変える気はなかった。

 

 その顔を見たリュシアから、先ほどまでの呆れが消えた。

 

「行くのはいいけどね」

 

 声の調子が少し変わった。

 

 

 

「あそこは外国だ。ここへ来るのと同じつもりで行くんじゃないよ」

 

 理央の顔から、帆船を想像していた明るさが少し引いた。

 

「そんなに危ないんですか?」

 

「王国内の街道だって、どこでも安全とは言えないさ。けど、セレヴィアにはセレヴィアの法と習慣がある。こっちで通る話が、あっちでも通るとは思わない方がいい」

 

 リュシアは座らず、椅子の背へ片手を置いた。長く説教するつもりではない。行くと決めた3人へ、忘れてはいけない部分だけを渡そうとしている。

 

「奴隷もいる」

 

 澪は反応するまでに一瞬遅れた。

 

「制度として、ですか」

 

「そうだよ。ここと同じように人を見ていたら、誰が自由に動ける人間で、誰が所有されているのか分からないこともある」

 

「商人が奴隷を売ることもあるんですか?」

 

「あるだろうね。けど、借金、戦、罪、家族。どういう理由でそこにいるかは、相手によって違う。今ここで私がまとめて話せるものじゃないよ」

 

 リュシアは知らない部分を知ったふりで埋めなかった。奴隷制度があるという事実と、その場で誰がどのように扱われているかは別だった。

 

「見たら、嫌だと思うかもしれません」

 

 理央が言った。

 

「思うのは止めないよ。けど、嫌だからって、その場で連れ出すんじゃないって話さ」

 

 理央は真面目な顔で頷いた。

 

 フードコートでは、食事を終えた子どもが空いた器を重ねている。店の者が礼を言い、子どもは友達を追って通路を走っていった。

 

 澪が異世界で長く見てきたのは、こうした日常だった。

 

 孤児院の子どもたちや、冬を越せない貧しい者たちの生活を知っている。けれど、人が制度として誰かの所有物になる国を、実際に見たことはない。

 

「奴隷を見つけて、その場で何とかしようとは考えないことだね」

 

 リュシアは澪を見て言った。

 

「しません」

 

 澪はすぐ答えたが、リュシアの視線は外れなかった。

 

「少なくとも、事情を知らないまま動きません」

 

「それならいい。相手の国へ入るのは、あんたたちの方だからね」

 

 見たものを無視するつもりはない。しかし、初めて入った国で制度の一部だけを見て、押入商会の力で変えようとするのは違う。まず、どのような国なのかを知らなければならなかった。

 

「ほかにもありますか?」

 

 理央は今度は、楽しそうな話の続きを求める声ではなかった。

 

「海には海賊がいる。陸の街道には盗賊も多いよ」

 

「商船には護衛が乗るんですか?」

 

「乗る船もある。何隻かでまとまることもある。海軍がすべての船を守ってくれるわけじゃないからね」

 

「陸も海も、自分たちで備えるんですね」

 

「商売は、商品が届いて初めて終わるんだ。途中で奪われたら、売る品も代金も残らないよ」

 

 リュシアの説明は、危険を大きく見せるためではなかった。セレヴィアの商人が、なぜ船主や護衛と結びつき、港ごとに強い力を持つのか。危険もまた、商売の形を作っている。

 

「急に異世界っぽくなりましたね」

 

 理央は口にしてから、周囲を見た。

 

 電気の明かりがあり、地下のフードコートに複数の店が並んでいる。上へ行けばエレベーターがあり、外へ出れば食品会社や工房が動き、空には飛行船がある。

 

「あれ?」

 

「どうしました?」

 

「私、今まで見てた異世界が普通だと思いかけてました」

 

 理央は澪を見る。

 

「澪さんたちが関わってるところばかり見てたから、便利なのが当たり前みたいになってたんですね」

 

「全部を私たちが作ったわけではありませんよ」

 

「でも、エレベーターと飛行船がある異世界を見たあとに、帆船と海賊と奴隷です。差が大きすぎません?」

 

 理央の言うとおりだった。

 

 澪にとっても、共同商館や新町の暮らしは、長い時間をかけて当たり前になったものだ。安全な水や食べ物、冬の薬、働く場所を少しずつ増やしてきた。

 

 その範囲から出れば、押入商会のやり方も、侯爵家の保護も届かない。

 

「だから、1人で動くんじゃないよ」

 

 リュシアは理央へ言った。

 

「はい」

 

「澪もだ」

 

「私もですか?」

 

「理央を見てるうちに、自分が離れるかもしれないだろう」

 

 澪には否定できなかった。気になる店を見つければ、理央へ声を掛けたつもりで先に近づく可能性はある。

 

「真壁さんがいます」

 

「それで安心できるところと、余計に心配なところがあるんだよ」

 

 リュシアが真壁を見る。

 

「私も同行する。危険を見落とすつもりはない」

 

「危険じゃない物を見つけた時の方を心配してるのさ」

 

 真壁は意味が分からないという顔をした。

 

 澪には、リュシアが何を心配しているのか少し分かった。

 

 それでも、セレヴィアへ行く気持ちは変わらない。

 

 浮かれて入る国ではない。自分たちは客であり、知らない側だと忘れずに進む。その条件を加えたうえで、澪は西へ向かうことを決めた。

 

 

 

「海辺なら、食べる物もかなり違うんでしょうね」

 

 緊張したまま話を終わらせないように、理央が話題を港へ戻した。

 

「魚は多いよ。貝や海藻も、内陸じゃ見ない物がある。塩を扱う商人もいるね」

 

 リュシアの言葉に、理央の表情が少し戻った。

 

「魚市場、見てみたいです」

 

「匂いは覚悟しな。港へ揚がったばかりなら、ここへ運ばれてくる物とは違うだろうけどね」

 

「塩も見たいですね。作り方が違うかもしれません」

 

 澪も、港の市場を思い浮かべた。

 

 魚が並ぶ台。濡れた床。海藻や貝を売る声。内陸へ運ぶため、塩漬けや乾物へ加工された品もあるだろう。

 

「魚と塩は当然として」

 

 真壁が口を開いた。

 

 澪はその続きを待つ前に、真壁の顔を見た。

 

 魚市場を楽しみにしている顔ではない。

 

「海水か」

 

 低く呟いた真壁の視線は、もう卓上の食事を見ていなかった。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「今、何を考えました?」

 

「海水に含まれる成分だが」

 

 答えが早い。

 

 澪の嫌な予感も早かった。

 

「塩の話ですよね?」

 

「塩だけではない。塩化ナトリウムを中心に、マグネシウム塩やカリウム塩など、多くの成分が溶けている」

 

「何の話になったんですか?」

 

 理央が澪へ尋ねた。

 

「港の市場から、工業原料の話へ移ったんだと思います」

 

「途中がなくないですか?」

 

「真壁さんの中にはあります」

 

 その途中を全部説明されると、話がさらに遠くへ行く。

 

「ただし、現物を見る前に何が分離できるかは断定できん。海水から金属がそのまま出てくるわけでもない」

 

 真壁は可能なことと未確認のことを分けていた。

 

「収納の成分分離が働くなら、まず水分と溶存物を分けられる可能性がある。そこから濃縮された塩水や塩類を、どこまで分けられるかだな」

 

「水を分けた時点で、海水は淡水と濃い塩水になるんですよね」

 

 澪は自分で口にしてから、真壁に余計な整理を与えた気がした。

 

「概念としてはそうなる。だが、実物で試してはいない」

 

 しかし、分からないから興味を失う人物でもなかった。

 

「少量を調べれば、分離可能な成分は確認できるだろう」

 

「少量って、どれくらいですか?」

 

「試すだけなら、量は必要ない」

 

「海の場所によって違いません?」

 

 理央が尋ねた。

 

「河口に近い場所と外海では違うだろう。港の中なら、人の生活や船から入る物もある。採る場所は選ぶ必要があるな」

 

「もう採る前提で場所を選び始めてます」

 

「調べるなら条件を揃えるのは当然だ」

 

 真壁の中では、まだ見ていない海に採取地点の候補まで生まれかけていた。

 

 澪は少し安心しかけた。

 

「利用できると分かれば、その後は必要量を考えればよい」

 

 安心は短かった。

 

「それ、仕入れなんですか?」

 

 理央が尋ねた。

 

「原料を得るのだから、仕入れの一種だろう」

 

「誰から買うんです?」

 

 真壁が黙った。

 

 リュシアが椅子の背に置いていた手を離す。

 

「外国の海から勝手に持っていくんじゃないよ」

 

「当然だ。採取してよい場所か、誰の権利が及ぶかは確かめる」

 

「そこから確かめる仕入れ、初めて聞きました」

 

 理央の中で、商人という仕事の範囲が早くも揺らいでいる。

 

 澪には、真壁の考え方が分かってしまった。

 

 鉱石なら、含まれている金属を見る。

 

 掘削で出た土砂なら、建材や鉱物へ分ける。

 

 廃材も、汚染された物も、魔力だまりの周囲から出た大量の物質も、使える成分が残っていれば資源として扱ってきた。

 

 その真壁の前に、今度は海がある。

 

 普通の者が水平線を見るところで、真壁は溶けている成分と総量を見ている。

 

 澪は、海そのものを収納する姿を想像しかけて、すぐに打ち消した。生き物も船もある海を、そのまま対象にできるはずがない。

 

 ただし、取水した海水だけなら話は別になる。

 

 容器へ入れた分を収納し、成分分離を試す。それで有用なものが得られれば、真壁は必要量と処理工程を考える。そこまでが容易に想像できるから、笑って済ませられなかった。

 

「海は、原料に見えますか?」

 

 澪が確認した。

 

「景色としても価値はある」

 

「先に原料の話をした人の答えじゃないです」

 

「魚も塩も商品になる。それ以外を見ない理由はないだろう」

 

 真壁は悪びれない。

 

 理央は澪と真壁を交互に見てから、リュシアへ顔を向けた。

 

「押入商会では、これが普通なんですか?」

 

「普通にしたら駄目な方だよ」

 

 リュシアの返事に、澪は深く頷いた。

 

 

 

「海水なら、原料量そのものを心配する必要はないな」

 

 真壁は誰に聞かせるでもなく言った。

 

 その言葉だけなら、海の広さを述べただけである。

 

 問題は、真壁が収納Lv10と成分分離を持ち、すでに桁の違う量の土砂や鉱石を扱ってきたことだった。

 

 普通の商人が海を見て、少し塩を仕入れようと考えるなら、澪も止めない。

 

 真壁の場合は、少しの基準が信用できない。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「いくらなんでも、海水を淡水にしないでくださいね」

 

 卓の周りが静かになった。

 

 フードコート全体の音が止まったわけではない。近くの席では商人が値段の話を続け、店員は空いた器を運んでいる。

 

 止まったのは、この卓の4人だけだった。

 

 理央が澪を見る。

 

「澪さん、それはさすがに大げさじゃないですか?」

 

「私も大げさだと思いたいです」

 

 澪は真壁から目を外さなかった。

 

「全部はしないよ」

 

 真壁は落ち着いて答えた。

 

「全部じゃなければいいって話じゃないです!」

 

 澪の声が少し大きくなった。

 

 理央はもう一度真壁を見る。

 

「やる気はあるんですね」

 

「試料を調べることと、海を淡水化することは違う」

 

「今、一部なら分けるって聞こえました」

 

「必要な成分が得られると分かれば、適切な量を扱うだけだ」

 

「適切な量は、誰が決めるんですか?」

 

「用途と権利者との合意による」

 

 答えだけを聞けば、何も間違っていない。

 

 勝手に採取せず、利用できる成分を確かめ、必要量を考え、権利者と合意する。商売としては正しい順番である。

 

 だからこそ、澪は不安だった。

 

「相手国で勝手に工場を始めたりもしませんよね」

 

「現時点では、そのような計画はない」

 

「現時点では?」

 

「利用できる成分も需要も不明なのに、設備の話をする段階ではないという意味だ」

 

「調べたあとなら、話す段階が来るんですね」

 

「価値があるなら検討は必要だろう」

 

 澪は額へ手を当てた。止めるための質問が、真壁の中では事業化までの確認事項へ変わっていく。

 

 冗談として笑って終わらず、実行可能な工程へ並べ直され始めている。

 

「澪、ちゃんと見張っときな」

 

 リュシアが言った。

 

「なんで私なんですか!」

 

「真壁さんが海を見て、最初に顔色が変わったのはあんただろう。何を始めるか分かるのも、あんたが一番早いよ」

 

「分かりたくて分かるようになったんじゃありません」

 

「付き合いが長いってことさ」

 

 理央は3人のやり取りを見ながら、商人になって最初の旅で何を見ることになるのか考え直していた。

 

 市場の商品を見る。

 

 食べ物や道具を見る。

 

 海のある国で帆船交易を見る。

 

 そこまでは分かる。

 

 海水に溶けている成分まで仕入れの対象にするのは、商人の一般的な経験ではない気がした。

 

「澪さん」

 

「はい」

 

「私、普通の商人の勉強もできますよね?」

 

「そのために行くんです」

 

「途中から資源調査になりません?」

 

 澪はすぐに答えられなかった。

 

「市場を先に見る」

 

 真壁が言った。

 

「先に、なんですね」

 

 理央が聞き返す。

 

「市場も港も見ずに、海水だけ採るつもりはない」

 

「奴隷と海賊の話をしたあとで、心配の中心が海水になってるのも変ですよね」

 

 理央が言うと、リュシアが頷いた。

 

「それだけ真壁さんらしいってことだよ」

 

「褒められているようには聞こえんな」

 

「褒めてないからね」

 

 真壁はわずかに眉を動かしたが、反論はしなかった。

 

「安心させる言葉のはずなのに、続きがあるように聞こえます」

 

 理央も、真壁の答え方に慣れ始めていた。

 

 澪は西の海を思い浮かべる。

 

 水平線、港、風を受ける帆船。知らない市場と、知らない商品。この国とは違う制度や治安も含め、実際に見なければ分からない国がある。

 

 理央が商人になって最初に見る未知の土地として、申し分ない。

 

 問題は、その海を真壁が巨大な原料置き場としても見ていることだった。

 

「行き先は変えませんからね」

 

 澪は念を押した。

 

「セレヴィア王国でよいだろう」

 

「海水を取りに行く旅じゃありませんよ」

 

「承知している」

 

 真壁の返事は早かった。

 

 けれど、海水を一滴も調べないとは言わなかった。

 

 未知の海洋国家へ向かう期待に、澪だけ別の心配を一つ増やしたまま、西への旅が決まった。

 

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