押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第298話 重さは減らしてあります

 足の裏へ戻ってきた感触は、冬の冷気を含んだ硬い土だった。

 

 転移の直前まで聞こえていた共同商館のざわめきは消え、代わりに乾いた風が澪のコートを鳴らした。少し離れた場所を街道が横切り、幌を掛けた荷馬車が東へ進んでいる。車輪が轍の縁を踏むたび、荷台の木枠が低く軋んだ。

 

「ここからなんですね」

 

 理央はマフラーへ顎を埋めたまま、西へ顔を向けた。ここはベラクルス侯爵領都の人通りから外れた場所で、真壁が以前の訪問で登録していた。

 

「ここからだね」

 

 真壁は短く答え、周囲を見渡した。人家から離れた、街道脇の平らな土地である。転移で現れても人目につきにくく、車両を出すだけの広さもあった。

 

 真壁は来たことがあるが、澪と理央にとっては初めての土地である。澪の地図にも、今立っている場所が初めて記録された。

 

 白紙だから、転移では行けない。

 

 話し合っていた時には、それも旅らしくてよいと思っていた。実際に地図の端を目の前にすると、ここから先はすべて自分たちで進むのだと実感できた。

 

 澪はコートのポケットへ手を入れ、ゲンダイ側で見てきた大学の予定を思い返した。試験が終わったからといって、何週間もこちらへ泊まり込めるわけではない。それでも、朝から夕方まで使える日が何日か続くだけで、進める距離は大きく変わる。

 

 理央も今日は原稿道具を持っていない。必要なら収納から出せるのだろうが、今は両手を空け、街道と空を忙しく見比べていた。

 

「全部、転移で飛んでいくわけじゃないんですね」

 

「訪れていないところへは行けません。途中の町へ着いたら、次から使える場所にはできますけど」

 

「今日は進んで、夜は帰って、明日はまたここより先から?」

 

「そうなります」

 

 理央は途切れた地図の先を確かめるように目を細めた。外国へ行くと決めたのに、夜は江古田へ戻る。口にすれば不思議な旅だが、帰る場所があることを理央は誰よりよく知っていた。

 

「着いたところなら、次の日はそこから始められるんですよね」

 

「人の往来から外れた安全な地点を選ぶ必要はあります。町の広場や宿の部屋へ、いきなり出るわけにはいきません」

 

「毎日、帰りやすいところを探しながら進むんだ」

 

 遊びに行くだけなら気にしないことまで、未知の土地では旅の条件になる。理央はそれを面倒そうには受け取らず、むしろ初めて知る決まりとして覚えようとしていた。

 

 真壁は地図へ意識を向けたあと、街道を来る馬車の位置を見た。まだ距離がある。畑の方にも人影はない。

 

「出そう」

 

 地面の上へ薄い靄が広がった。

 

 靄の内側で、黒に近い灰色の面が輪郭を持つ。最初に太いタイヤが土へ触れ、続いて車体が現れた。屋根は人の背より少し高く、前面の窓は広い。形だけなら大きめの自動車に見えるが、側面と屋根には閉じた構造物の継ぎ目が走っている。

 

「これで行くんですか?」

 

 理央が車体と真壁を見比べた。

 

「今回はこちらを使う」

 

 その言い方があまりに普段どおりだったので、澪は返事をせずに車の前へ回った。

 

 以前に見た空陸エアカーと似ている。だが、同じではない。車高はやや高く、タイヤには舗装路だけを走る車より厚みがある。腹の下にも、石や轍をまたげるだけの余裕が取られていた。

 

 外板は冬の日差しを鈍く返し、指で触れても金属の冷たさが直接は来ない。角はできるだけ落とされているが、街乗りの車ほど丸くもない。枝や飛び石を受ける場所は、最初から交換できるよう継ぎ目が分けられていた。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「これ、新型ですよね」

 

「第2世代機だ」

 

 やはり、という言葉を澪は飲み込んだ。

 

 海を見に行こうと決めてから、それほど時間は経っていない。真壁がその間に旅の道具を考えていたことは予想できたが、予想していたのは装備の追加であって、車両の世代交代ではなかった。

 

「いつ作ったんですか?」

 

「未知地域を進むために、旧型から設計を見直した」

 

 真壁はもう運転席側へ歩いている。

 

 澪が理央を見ると、理央も同じところで引っかかったらしい。

 

「車って、旅行を決めてから作るものじゃないですよね」

 

「普通は買う方だと思います」

 

「普通の話をしても仕方がない。乗ってくれ」

 

 真壁がドアを開けた。

 

 知らない西へ向かう旅は、地図の端より先に、見たことのない車から始まることになった。

 

 

 

 澪はすぐには乗り込まず、開いたドアから車内を覗いた。

 

 座席は3列に2つずつ並んでいる。内装は飾り気がなく、手の届く位置に掴める部分が多い。床には泥を落としやすそうな敷物が収まり、窓は外を広く見渡せるように取られていた。

 

 3列目も子ども用の狭い補助席ではない。厚い冬着の大人が座っても膝が前へ当たらず、座席の脇には身体を固定する帯が収まっている。天井には小さな灯りと送風口が並び、後ろまで同じ空気が届くようになっていた。

 

「6人乗れるんですね」

 

「未知地域では、帰りに人数が増えることもある。余裕は持たせてある」

 

 真壁はそれだけ言って運転席へ座った。

 

 今日乗る3人だけに合わせた車ではないらしい。澪は2列目へ入り、理央が隣へ腰を下ろすのを待ってドアを閉めた。荷物を積むために後ろを潰す必要はない。3人とも、旅に必要な物は収納へ入れている。

 

「案内してくれる人が見つかったら、乗ってもらえるんですね」

 

「徒歩や馬車でしか進めない事情があるなら、そちらへ合わせる。いつでも乗せればよいわけではない」

 

「この車を見せられない相手もいますよね」

 

 澪が言うと、真壁は頷いた。便利だから誰にでも公開する、という品ではない。どこへ停め、誰を近づけるかまで含めて運用する必要がある。

 

 シートベルトを引くと、理央も真似をした。金具が留まる音が車内で続く。

 

「見た目は車ですよね」

 

 理央は前席の間から表示部を覗いた。

 

「地上では車として走る。人や馬車がいる街道で、最初から飛ぶ必要はない」

 

「でも、飛ぶんですよね?」

 

「必要なら」

 

 澪は窓越しに屋根の継ぎ目を見た。翼は外へ張り出していない。地上を走る間は車体へ沿う形で格納され、道幅を余計に使わないようになっている。

 

「旧型より大きくなってませんか?」

 

「2席増えたからね。ただし、外形だけを広げたわけではない」

 

 真壁が起動操作をすると、目の前の表示に車体の周囲が浮かんだ。街道、畑の縁、遠ざかっていく荷馬車。人の姿は色を変えて示され、近くの低木や地面の起伏まで輪郭になっている。

 

 理央が窓の外と表示を交互に見た。

 

「後ろも見えてる」

 

「車体の各部から見ている。前だけでは足りない」

 

「カメラですか?」

 

「カメラだけではない。光を使って距離を測るものと、天候に左右されにくいものも組み合わせてある」

 

 説明に合わせるように、表示上の低木へ距離が添えられた。枝の一本一本まで描くのではなく、車体が接触する高さと幅が分かる形でまとめられている。

 

 真壁がドアを一度開くと、その部分だけ周囲表示に空いた範囲が示された。すぐそばに人や木があれば、扉をぶつける前に分かる仕組みらしい。閉じると輪郭は車体へ戻った。

 

「走る時だけじゃないんですね」

 

「停止中の事故もある。特に現地の者が車へ近づいた時は、運転席から見えない位置の方が危ない」

 

 理央は反射的に後ろの席を見た。6人乗りにした理由が、人数だけではないことが少しずつ分かってきた。

 

「通信はどうするんです?」

 

 澪が尋ねた。ゲンダイの自動車なら、通信や衛星から位置情報を受け取ることが前提になりやすい。ここには携帯電話の基地局も、道路情報を配る仕組みもない。

 

「必要としない構成にした。外から地図を受け取れないなら、走りながら車載側で作ればよい」

 

 真壁が進行方向を入力すると、街道の見えている範囲に細い案内が重なった。ただし、その線は地平の先まで勝手に続かなかった。車体の機器が捉えたところで途切れている。

 

「知らない道の答えが最初から出るわけではないんですね」

 

「見えていないところまでは分からない。進路は地図スキルと現地の道を見て決める。これは障害物を避け、通った地形を組み立てるための補助だ」

 

 機械が作る地形と、澪たちの地図スキルは別のものだった。車で通っただけで地図スキルへ遠方の町が加わるわけではないし、山の向こうが透けて見えるわけでもない。

 

 澪はそこで肩の力を抜いた。

 

「全部自動で外国まで連れていかれたら、何を見に行くのか分からなくなりますから」

 

「自動で行けたとしても、見るのは本人だよ」

 

「そこまで作る予定はあるんですか?」

 

「今はない」

 

 今は、という返答だった。

 

 理央が小さく笑い、澪は聞き返すのをやめた。目の前の機能だけでも、以前の車両とは考え方が違う。舗装路のない未知地域を走り、戻るための情報を自分で持ち帰る機械になっていた。

 

「旅行の車というより、探検する車ですね」

 

「そのために作った」

 

 真壁の手が次の表示へ移った。

 

 まだ発進していないのに、澪には説明が終わったようには見えなかった。

 

 

 

 表示の一部へ、区切られた細長い図が現れた。

 

 同じ形が複数並び、それぞれに残量と温度が示されている。澪が見覚えのない表示へ目を留めると、真壁は操作を続けたまま口を開いた。

 

「電源も変更してある」

 

「やっぱり、まだありましたね」

 

「全固体電池を採用した」

 

 理央が前席の背へ手を添えた。

 

「それって、新しい電池なんですか?」

 

「従来の電池は、内部で電気を運ぶ部分に液体を使うものが多い。こちらは固体で構成し、安全性と蓄えられる量の向上を狙っている」

 

「液体が入ってないから、揺れても平気?」

 

「揺れだけで単純に決まる話ではないが、探索車両には向いている」

 

 真壁は画面上の一つを選び、残りから切り離してみせた。他の区画は動いたままで、車内の表示も消えない。

 

「一つ壊れても全部止まらないよう、区画を分けてある。走行用と飛行用も、一か所の異常で同時に失わないようにした」

 

 切り離された区画だけが暗くなり、残りの表示が負担を引き受けるように変わった。真壁が戻すと、すぐに同じ状態へ復帰するのではなく、温度や電圧を見直す短い時間が置かれる。

 

「壊れてないのに、すぐ戻さないんですか?」

 

「今は操作で外しただけだが、異常で切れた場合は原因が残っているかもしれない。勝手に復帰させて同じことを繰り返す方が危険だ」

 

 理央はそこで、表示を面白い画面としてではなく、車の状態を伝えるものとして見直した。

 

「そこは安心です」

 

 澪が答えると、理央も素直に頷いた。知らない土地で動かなくなる車は、便利な乗り物から大きな荷物へ一瞬で変わる。収納へ入れて撤収する手段はあるが、それを前提に壊れてよいわけではない。

 

「飛ぶと、電気をたくさん使いますよね?」

 

 理央の問いに、真壁は別の表示を開いた。車輪の上に掛かっている荷重が、4か所に分かれて示されている。

 

「離着陸は特に使う。飛行船で使った重力スキルの制御も組み込んだ。重さは減らしてあります」

 

 澪は真壁の横顔を見た。

 

「どのくらいですか?」

 

「状況に合わせて変える」

 

「固定ですらないんですね」

 

 真壁の指が調整部分を動かした。

 

 耳に聞こえる音はなかった。けれど、表示された4輪の荷重が揃って下がり、車体がほんの少しだけ伸び上がった。沈んでいたサスペンションが戻ったのだと気づき、理央が窓越しにタイヤを見る。

 

「車が軽くなった?」

 

「質量そのものを消したわけではない。車体へ掛かる重力を弱めている」

 

「持ち上げたら軽いけど、ぶつかった時まで小さい車になるわけじゃない?」

 

「その理解でよい。軽くしたから雑に扱ってよいわけではない」

 

 真壁は重力を戻した。車体が沈み、4本のタイヤへ荷重が戻る。

 

 澪は窓枠へ手を置いた。軽量化していた間も、車内の座席や自分の身体が浮く感覚はない。対象は車体側へ絞られている。

 

「乗っている人まで軽くしているわけではないんですね」

 

「今は機体へ掛けている。人まで一緒に変えると、身体の動かし方も変わる。通常走行で使う理由はない」

 

「車だけ軽くて、中の人はそのまま……」

 

 理央が座席へ背を押しつけ、想像するように足を踏ん張った。

 

「急に曲がったり止まったりしたら、普通に危ないですよね」

 

「だから軽量化率に合わせて加減速も制限する」

 

 重力を弱めれば何でも楽になるわけではない。減った負荷に合わせ、別の危険が増えないよう車両側も動きを変える。それが表示の端にある制御範囲として示されていた。

 

「地上で軽くしすぎると、タイヤが路面をつかめなくなる。走る時は沈み込みを抑える程度に留める」

 

「飛ぶ時は?」

 

「軽量化を強める。必要な推力が下がれば、離陸で使う電力も減る」

 

 理央は表示を見ながら、指先で空中へ上がる線を描いた。

 

「重力だけで浮かせるんじゃないんですね」

 

「上昇には分散させた電動推進器を使う。前進すれば翼で揚力を得られる。どれか一つへ任せきるより、使えるものを組み合わせた方がよい」

 

 ゲンダイの電池と電動機、異世界で得た重力の力。飛行船で確かめた制御を小さな車体に合わせ、互いの苦手な部分を減らすように組まれている。

 

 理央はしばらく画面を眺めてから、澪へ顔を向けた。

 

「澪さんたち、いつもこうやって作ってるんですか?」

 

「最初からこうだったわけではないですよ」

 

「最初は?」

 

「普通の車を収納へ入れていました」

 

「そこも普通じゃないです」

 

 すぐに返され、澪は口を閉じた。

 

 真壁は2人の会話を待たず、周囲の安全表示をもう一度見ていた。街道を通り過ぎた馬車は離れ、進入できる間隔が開いている。

 

「そろそろ出よう」

 

 車体が軽く震え、4輪へ駆動が伝わった。

 

 説明の途中から真壁の手は、すでに出発の操作へ移っていた。

 

 

 

 新型エアカーは土の上をゆっくり進み、街道へ入った。

 

 最初の速度は、前方を行く荷馬車と大きく変わらない。異質な車体に気づいた御者が何度も振り返ったが、真壁は距離を詰めず、馬が落ち着いて歩ける間を保った。

 

 車輪の下では、乾いた土と小石が続いている。轍の深いところへ片輪が入るたび、澪は身構えた。しかし座席へ伝わる揺れは、窓の外から想像するよりずっと小さい。

 

「今、かなりへこんでましたよね」

 

 理央も同じ轍を見ていた。

 

「前方の凹凸を読んで、車輪ごとに足回りを変えている」

 

 真壁が答えた直後、道の中央に大きな石が見えた。表示上でも障害物として色が変わり、進路がわずかに右へ寄る。対向する馬車の位置まで含め、避けられる幅が確保されてから車体が動いた。

 

「勝手に避けたんですか?」

 

「候補を出しただけだ。決めたのはこちらだよ」

 

 理央は運転席の手元を見て、もう一度外へ目を戻した。

 

 街道の両側には冬枯れした草が伏せ、畑の土は黒く固まっている。集落へ近づくと、薪を抱えた者や水桶を提げた者が道端へ現れた。真壁はさらに速度を落とし、道を譲った子どもたちから十分に離れて通る。

 

 子どもは車を見送ったあと、我慢できなくなったように追いかけてきた。だが家の前から呼ぶ声が飛び、すぐに引き返していく。

 

「飛ばなくても目立ちますね」

 

「そこは旧型も同じです」

 

 澪は窓の外へ小さく手を振った。

 

 人のいる場所では、車体が道を占める幅も気になった。荷車同士なら御者が声を掛け、馬の様子を見ながらすれ違う。新型エアカーは馬ほど気配を伝えず、音も小さい。真壁は相手がこちらへ気づいたことを確かめてから進み、必要なら完全に止まった。

 

「速く走れるのに、時間かかりますね」

 

 理央の言葉に不満はなかった。外の交通に合わせていることへ気づいた声だった。

 

「この道はこちらだけのものではありませんから」

 

 澪が答える。性能が上がっても、道にいる者を押しのければ旅は続かない。外国へ着く前に悪評だけを先へ運ぶことにもなる。

 

 集落を離れると道幅が広がった。真壁は前方の荷馬車を追い越さず、別の道が合流するところまで同じ速度で進んだ。

 

 領都から離れるほど、澪の地図には初めて通る西方街道が伸びていく。

 

「ここから国境までは?」

 

「領都からおよそ200kmだ」

 

 理央は西へ続く道を見た。数字だけなら新型エアカーにとって大きくはない。それでも、人も馬車も使う街道を、速さだけで走り抜けるわけにはいかなかった。

 

 合流地点からは、西へ向かう荷より、東へ入ってくる隊商の方が多く見える。

 

 荷馬車の幌から、鮮やかな青と黄の布が覗いていた。こちらの冬服より薄手の外套を重ねた男が御者台に座り、隣の者と聞き慣れない言葉を交わしている。

 

「今の、こっちの言葉じゃないですよね」

 

「セレヴィア語でしょうか」

 

 澪にも意味は分からなかった。話す速さも言葉の区切りも、いつも市場や共同商館で聞くものとは違っていた。

 

 国境はまだ先にある。それでも、人は線の手前で止まらない。商品を積んで山を越え、言葉や服装まで一緒に運んでくる。

 

 次にすれ違った荷車には、魚を描いた小さな板が吊られていた。荷台そのものは閉じられているが、風向きが変わると塩と乾物の匂いが車内へ入り込む。別の馬車には細長い樽が積まれ、縄の結び方まで東でよく見る荷と違っていた。

 

 理央は窓へ顔を近づけたが、鑑定を片端から使おうとはしなかった。まず自分の目で形を追い、分からないものだけを残している。

 

「商品だけ先に外国っぽくなってきました」

 

「国境へ近づいている証拠ですね」

 

 理央は隊商が見えなくなるまで振り返っていた。

 

「外国の人、もういるんですね」

 

「商人は国境で暮らしを切り替えるわけではありませんから。売れる物があれば、こちらまで来ます」

 

 澪が答えながら、道沿いの荷へ目を向ける。樽、細長い木箱、縄で締めた包み。中身はまだ分からないが、内陸で見慣れた穀物袋ばかりではない。

 

 道の端にぬかるみが現れた。

 

 前の荷車は深い轍を避けて外側へ寄ったが、新型エアカーには同じ逃げ幅がない。対向する馬車も近づいている。

 

「このまま通る」

 

 真壁の操作で車輪へ掛かる荷重が下がった。完全に浮くほどではない。タイヤが土をつかむ分は残したまま、沈み込もうとする力だけが弱まる。

 

 4輪が別々に回り、ぬかるみの中で空転しかけた車輪へ駆動が寄せ直された。泥を派手に跳ね上げることもなく、車体は轍の底を抜けた。

 

 理央が足元を見下ろす。

 

「車の重さを減らすって、飛ぶ時だけじゃないんだ」

 

「悪路ではこちらの方が使う機会が多いかもしれませんね」

 

 澪は背中を座席へ戻した。揺れが少ないことは、単なる快適さではない。何日も道を進むなら、乗っている者の疲れ方が変わる。負傷者を運ぶことになった時にも、この足回りは役に立つだろう。

 

 視線を上げると、街道脇の建物が少しずつ増えていた。立ち止まる荷馬車、積み替えを待つ樽、道端へ張られた布屋根。

 

 ただの休憩場所にしては、人と荷が多い。

 

「寄っていこう」

 

 真壁も同じものを見ていた。

 

 新型エアカーは速度を落とし、街道沿いにできた小さな交易の集まりへ向かった。

 

 

 

 車を停めた場所からでも、潮とは違う強い塩気が鼻に届いた。

 

 海そのものの匂いではない。開いた木箱に並ぶ魚と、その表面へ残った塩の匂いだった。

 

「海の魚ですか?」

 

 理央は店先まで行き、黒褐色に乾いた魚を覗き込んだ。銀色の皮を残すものもあれば、開かれて平たくなったものもある。隣の樽には塩漬けらしい切り身が重なり、蓋の上へ小さな札が置かれていた。

 

 店の男は理央の言葉を聞き取ると、少し癖のある発音で答えた。

 

「海。西から、山越えて来た」

 

「本当に海から来たんだ」

 

 理央の声が明るくなる。

 

 まだ海は見えていない。それでも、海で獲れた魚は先に山を越えていた。

 

 男は魚を一つ持ち上げ、腹側と背側を順に見せた。身の厚さが違えば値も変わるらしい。理央がすぐ値段を聞かずに見ていると、今度は塩の残り方を指でなぞり、保存しやすいことを身振りも交えて伝えてきた。

 

 共通する言葉が少なくても、売りたいところは分かる。理央も魚の端を指し、硬さを尋ねた。男は短く笑い、煮る時の仕草をしてみせた。

 

 澪は理央の横から、魚だけでなく客の手元を見た。旅人らしい男が干物を裏返し、厚みを確かめている。別の客は値段を聞いたあと、塩の小袋と見比べて魚を戻した。珍しいから誰もが買うのではない。保存の利く食料として、値段と量を考えて選ばれている。

 

 理央も澪の視線を追い、札と客を交互に見始めた。

 

「売れてますけど、みんな魚ばかり買うわけじゃないんですね」

 

「内陸まで運んだ分、安い食べ物ではないのでしょうね。塩だけ買う人もいます」

 

「見るって、商品を見るだけじゃないんだ」

 

「誰が買って、何を戻すかも見た方がいいですよ」

 

 澪は以前リュシアから教えられたことを、そのまま理央へ渡していた。口にしてから、自分が教える側へ回ったことをまた思い出す。理央はもう次の客へ目を向けており、澪の小さな間には気づかなかった。

 

 市場というほど整った場所ではない。街道沿いの空地へ荷馬車を停め、布を張り、箱や樽をそのまま売り台にしている。それでも、並ぶ品には東の市場と明らかな違いがあった。

 

 足元には藁と砕けた木片が散り、荷車の間を人が縫うたび乾いた土埃が上がる。葡萄酒を試した客の息には甘酸っぱい香りが混じり、魚の店から離れると今度は植物油らしい青い匂いがした。品物だけでなく、空地全体の匂いが普段の市場とは違っている。

 

 葡萄酒の樽。陽の光を吸うような赤や青の布。乾燥させた果実。見慣れない形の瓶。塩の粒は粗いものと細かなものに分かれ、別々の袋へ詰められている。

 

 聞こえる言葉も一つではなかった。客へは王国側の言葉で応じていた商人が、仲間へ振り返ると急に速いセレヴィア語へ戻る。離れた荷車から同じ言葉で呼ばれ、片手を上げて答えていた。

 

「話せる人、多いですね」

 

「ここまで売りに来る商人だからでしょう。国の人が全員話せるとは限りません」

 

 澪の答えに、理央は納得して頷いた。

 

 真壁は塩を売る男と短く言葉を交わしていた。値切る様子はなく、山の向こうから来たのか、どこで荷を積み替えたのかを尋ねている。

 

「海から直接ここまで運んだんですか?」

 

 理央が近づくと、真壁は荷車の奥にある箱を示した。

 

「この商人が扱っている品のすべてが、セレヴィアで作られたものではない。海の向こうから港へ入り、陸路でここまで来た物もあるそうだ」

 

「別の国の商品まで?」

 

「船は自国の物だけを運ぶわけではないからね」

 

 箱の中には、細かな模様を織り込んだ布が畳まれていた。先ほど見た色鮮やかな布とも違い、商人は産地を説明する時だけ、さらに別の響きの地名を口にした。澪には聞き取れなかったが、海の向こうにもう一つ市場があることだけは伝わった。

 

 真壁の興味が海水だけに向いていないことへ、澪はひとまず安心した。

 

「何か買います?」

 

「少しだけにしましょう。今日は仕入れに来たわけではありませんから」

 

 理央は干した魚を一つ選んだ。同じ種類の中から、最初に目についた最大のものではなく、他の客が手に取っていた厚みのものを選んでいる。

 

「これ、お願いします」

 

 商人が値を告げる。理央は一度澪を見たが、代わりに払ってもらおうとはせず、自分の持つ硬貨から条件に合うものを出した。

 

「こちらの硬貨でいいんですね」

 

「ここはまだ王国内だからね」

 

 澪は西を見た。国境の向こうへ入る前に、セレヴィア側で使える通貨へ替える必要がある。交換率も手数料も分からない以上、両替の場所と条件は国境で確かめるしかない。

 

 受け取った魚をすぐ収納せず、包みの結び方や塩の落ち方まで眺める。

 

 

 売れていた厚みと自分が選んだ物をもう一度見比べてから、包みを収納した。

 

「商人らしくなったね」

 

 戻ってきた真壁に言われ、理央は首を傾げた。

 

「魚を買っただけですよ」

 

「買わなかった者も見ていただろう」

 

「澪さんが見てたので」

 

 理央は素直に答えた。

 

 澪は少し照れ、次の店へ視線を逃がした。そこでは薄手の外套を着た女商人が、こちらの厚い冬着を肩へ当てていた。海の国の商品が東へ運ばれる一方で、こちらの商品も山を越えていく。

 

 国境はまだ見えない。

 

 けれど理央の手には、山の向こうから届いた魚がもう残っていた。

 

 

 

 交易の集まりを離れると、道は緩やかに上り始めた。

 

 畑の間隔が広がり、代わりに低い林と岩の露出が増えていく。午後の日差しはまだ残っていたが、斜面の影へ入るたび窓の外が青く冷えた。

 

 理央は買った干物を収納したあとも、時々後ろを振り返っていた。

 

「まだ王国内なのに、外国の人も商品も来てるんですね」

 

「線を越えた瞬間に全部変わるわけではありませんから」

 

 澪は地図を開いた。領都から今日通った分だけ、西方街道が新しい線になっている。機械側の地形表示にも、通過した分岐や起伏が残っていた。ただし両者は重ならない。車載側は路面と障害物を細かく持ち、地図スキルは澪が実際に通った土地として周囲を捉えている。

 

 しばらく進むと、街道から人影が減った。真壁は周囲を見渡せる高みに車を寄せ、道を外れない範囲で停止した。

 

「ここなら飛行形態を試せる」

 

「試すんですか?」

 

「山岳部へ入る前に、実際の負荷を見ておく」

 

 澪は前方を見た。街道は丘の向こうへ消え、その先の空に灰青色の山並みが重なっている。昼前には地平の霞に紛れていたものが、今は西側を塞ぐ壁のように見えた。高い峰には白い雪が残り、斜めから差す光を冷たく返している。

 

「海へ行くんですよね?」

 

 理央が山を見上げた。

 

「行きますよ」

 

「海の前に、あれを越えるんですか」

 

「あの向こうだね」

 

 真壁は山脈を指したあと、周囲の表示へ目を戻した。街道を来る人も馬車もいない。近くの畑や人家からも離れている。

 

「飛行機構を展開する」

 

 車体の側面で継ぎ目が動いた。

 

 格納されていた翼が左右へ伸び、短かった外形が一気に幅を持つ。複数の推進器が向きを揃え、車体の周囲で低い回転音が重なり始めた。

 

 理央は窓へ寄りかけ、シートベルトに止められた。

 

「動いた」

 

「座っていてください」

 

「座ってます」

 

 澪も言いながら、自分の手が座席の端を握っていることに気づいた。旧型で飛んだ経験はある。だが、新しく組み直した機体の初飛行に乗っていると思えば、同じようには構えていられない。

 

 真壁が、飛行船で使った制御を車体に合わせ、重力軽量化を上げた。車輪へ掛かる荷重が下がり、推進器の音が一段変わる。

 

 複数の推進器は、まったく同じ音ではなかった。車体の傾きを抑えるため、風を受ける側だけ回転が細かく変わっている。数字を追わなくても、真壁が操縦へ手を添えたまま周辺表示を見ている理由が分かった。

 

 車体は跳ねなかった。

 

 土との間に指1本分の隙間ができ、それがゆっくり広がっていく。4輪が地面を離れても傾かず、車はそのまま数mの高さで止まった。

 

「浮いてる……」

 

 理央の声が小さくなる。

 

 推進器の向きが変わり、車体が前へ動き出した。速度が乗るにつれ、表示上で翼の受け持つ力が増え、上昇用の出力が下がっていく。重力だけで吊り続けるのでも、推進器だけで持ち上げ続けるのでもない。

 

「さっき説明された通りになってます」

 

「説明どおりでなければ困ります」

 

「真壁さんの新型なので、澪さんも心配してたのかと」

 

「心配していないとは言ってません」

 

 真壁は2人の会話に加わらず、前方の地形へ視線を置いていた。車載機器が丘の向こうを捉え、岩場と樹木の高さを表示へ足していく。見える範囲は地上より広がったが、山脈の向こうまで答えが出るわけではない。

 

 新型エアカーは高く上がらず、街道と周辺の地形を見渡せるところで緩く旋回した。

 

 地上では丘に隠れていた道が、その先へ何度も曲がりながら続いている。小さな荷馬車が点のように動き、林の向こうでは細い煙が上がっていた。人が暮らし、商品が行き交う道の延長に国境がある。白紙だった西側が、目の前の風景から少しずつ形を持ち始めた。

 

 西境山脈が、窓いっぱいに広がった。

 

 尾根は南北へ連なり、その一部だけが低く落ち込んでいる。街道は丘を抜けたあと、その切れ目へ向かって細く続いていた。山の手前にある建物も、関所も、ここからはまだ見えない。

 

「あの道を行くんですね」

 

 理央はもう海の話をしなかった。

 

 澪も地図の端と、実際の山を見比べた。向こう側は外国である。共同商館で国名を聞いた時より、帆船を想像した時より、その事実が重くなっていた。

 

「このまま越えます?」

 

 理央が尋ねる。

 

「いや」

 

 真壁はすぐに否定した。

 

「国境を空から越えるわけにはいかない。山岳部の手前で地上へ戻り、関所を通る」

 

「そこは普通なんですね」

 

「外国へ無断で入らないのは普通だよ」

 

「飛べるから、ちょっと心配になりました」

 

 真壁は答えず、街道から外れた安全な平地へ機体を回した。今日のうちに国境へ入るつもりはない。飛行時の表示を一通り見たあと、推進器の向きが変わり、車体は街道から離れた平地へゆっくり降りていく。

 

 降下中、表示の一つが横風を拾った。車体が流される前に左右の推進器が出力を変え、着地点の印が元へ戻る。最後は翼の受け持つ力が減り、垂直方向の推進へ順に引き渡された。

 

 タイヤが土へ触れる。重力軽量化が地上用へ戻り、翼が車体へ沿って畳まれた。

 

 窓の向こうでは、西境山脈が夕方前の光を受けている。

 

 理央はその山を見たまま、収納へ入れた干物を思い出していた。海から来た商品は越えてきた。次は自分たちが、あの道を反対へ進む番だった。

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