金貨というものは、もっとこう、持った瞬間に人生が変わるものだと思っていた。
少なくとも、小説ではそうだった。主人公が革袋いっぱいの金貨を手に入れる。宿屋の親父が目を丸くする。武器屋の主人が急に腰を低くする。仲間の女の子が「これだけあれば旅の支度ができますね」と微笑む。金貨は、物語の中ではたいてい万能だった。腹も満たすし、装備も整うし、宿も取れるし、時には人生の難題まで少しだけ解いてくれる。
では、現代日本の練馬区江古田で、ボッチ女子大生が異世界の金貨を一枚手に入れるとどうなるか。
篠原澪は、六畳間のちゃぶ台の真ん中に小さな金貨を置き、その前で正座していた。
金貨は静かに光っている。王冠のような刻印があり、竜のような模様があり、見たことのない文字が縁に沿って刻まれていた。異世界の市場では、リュシアが何の迷いもなく支払ったものだ。あの赤茶色の布を巻いた商人娘は、可愛い顔で「少額金貨よ」と言った。少額。言い方が軽かった。現代日本で「小銭だよ」と言うくらいの調子だった。
けれど、澪の部屋では違う。
小銭ではない。そもそも財布の小銭入れに入れていいものかも分からない。澪は試しに財布を開き、金貨を小銭入れへ入れてみた。入ったことは入ったが、入ったからどうだというのか。コンビニで出した瞬間、レジの店員さんの目が死ぬ未来しか見えない。
澪は小銭入れを閉じ、しばらくしてまた開けた。金貨はそこにいた。静かに、当たり前のように、財布の小銭入れの中で異物感を放っていた。
「……あなた、そこで何してるの」
金貨は答えなかった。答えられても困る。
澪は財布から金貨を出し、ちゃぶ台へ戻した。それからスマホの家計簿アプリを開く。家賃の予定額、スマホ代、電気代、食費。いつもの項目を画面で確認し、その横に頭の中で異世界金貨一枚を置いてみる。
何も解決しなかった。
金貨という言葉には夢がある。けれど現代日本では、家賃の引き落としを止めてくれない。澪は金貨を指先でつついた。こつん、と硬い音がする。
「異世界では金貨。江古田では、レジを止める丸い金属」
ひどい評価だった。しかし、今のところ、それ以上でもそれ以下でもない。
澪は目を閉じ、近所のコンビニのレジを想像した。白い照明の下で、おにぎりと少し高いプリンを置く。店員さんが「お支払いは?」と聞く。澪が「金貨で」と答える。脳内の店員さんはそこで完全停止し、澪の脳内会計も終了した。分かりきったことを確認するだけで、なぜこんなに精神力を削られるのだろう。
澪はスマホで「金貨 売る」と検索した。検索結果には、買取店や金相場のページが並ぶ。駅前にも買取店はある。ブランドバッグや時計を扱っている店だ。外から何度か見たことがあり、店内は明るく、ガラスケースがあって、店員さんが丁寧に接客している。
澪は立ち上がった。小袋に金貨を入れ、バッグへ入れ、玄関へ向かう。スニーカーを履き、ドアノブに手をかけたところで、脳内に買取店の店員が現れた。
「こちら、どちらでご購入されましたか?」
澪の脳内の自分は、カウンターの前で固まった。
祖父の遺品です、と言いかける。だめだ。祖父はまだ元気だ。勝手に遺品にしたら、あまりにも不孝である。海外のお土産です、と言いかける。どこの国ですか、と聞かれたら終わる。古い記念品です、と言いかける。何の記念ですか、と聞かれたら終わる。
澪はドアノブを握ったまま、小さくつぶやいた。
「押入れの向こうです」
脳内の店員が黙った。澪も黙った。
現実の澪は、玄関でしばらく立ち尽くしたあと、そっとドアノブから手を離した。今日は玄関まで冒険したことにする。自分にそう言い聞かせて、スニーカーを脱ぐ。敗北ではある。だが、早めの撤退は大事だ。昨日、異世界の市場でも学んだ。人が集まる前に帰る。怖くなったら帰る。現代日本でも、無理な買取店突撃からは帰る。
澪は部屋に戻り、金貨をちゃぶ台に置いた。
また振り出しだった。
六畳間には、ギターが立てかけてある。作業机には彫金用のヤスリ、銀線、真鍮板、小さな金槌、ピンセットが散らばっている。椅子の背には、彫金教室へ行くときに使う布袋がかかっていた。その袋を見た瞬間、澪の手が止まる。
修さん。
頭に浮かんだのは、彫金教室の講師の顔だった。飯島修一郎。生徒たちは、みんな「修さん」と呼んでいる。五十代後半くらいの男の人で、いつも落ち着いた声で話す。怒鳴らない。褒めすぎない。だが手元はよく見ている。銀線の曲げ方、ヤスリの当て方、ロウ付けの失敗。そういうことを、淡々と直してくれる人だった。
澪は友達がほとんどいない。大学では、講義が終わるとすぐ帰る。でも、月に何度か通っている小さな彫金教室では、少しだけ人の中にいることができた。全員と仲良く話すわけではない。むしろ、ほとんど話さない。ただ端の席で作業して、修さんの手元を見て、家に帰って復習する。
修さんは、そんな澪を急かさない。
以前、銀線がうまく曲がらずに澪が黙り込んだとき、修さんは「篠原さん、そこは急がなくていい。金属は、急がせると曲がり方が荒くなる」と言った。澪が思わず「人間みたいですね」と返すと、修さんは少し笑って「人間よりは素直だよ」と言った。
その言葉を、澪は妙に覚えていた。
金属は、人間より素直。確かにそうだ。今、ちゃぶ台の上にある金貨も、少なくとも嘘はつかない。問題は、澪の方が説明をできないことだった。
澪は作業机の銀線を指でつまんだ。金属のことなら、修さんに聞けるかもしれない。いや、聞いていいのか。彫金教室に金貨を持ってくる生徒。かなり嫌だ。修さんも困るかもしれない。だが、買取店よりは怖くない。
澪は金貨を小袋に入れ、さらにポーチの奥へしまった。
「金属の相談。金属の相談だから」
自分に言い聞かせた。かなり無理があった。
次の彫金教室の日、澪はいつもより早く着いた。
場所は御徒町寄りの小さな教室だった。細い通りに面したビルの二階で、階段を上がると、金属と薬品と、少し焦げたような匂いが混ざっている。教室の中には白い作業机が並び、壁にはヤスリ、ペンチ、糸鋸、ハンマーが整然とかかっていた。窓際では小さな換気扇が回り、机の上には耐火レンガやピンセットが置かれている。金槌の軽い音が、ときどき響いた。
澪はいつもの端の席に座った。ポーチの奥には金貨がある。そのことを意識するだけで、体の右半分が重い気がした。実際には小さな金貨一枚で、ほとんど重くない。それなのに心の方では、米袋くらいの存在感があった。
今日の課題は、銀線を曲げて小さなリングを作る練習だった。澪は銀線を持ち、丸ヤットコを当てる。曲げようとするが、少しずれる。直そうとして、さらにずれる。いつもなら手元を見ながら少しずつ直せるのに、今日はポーチの中の金貨が意識の端に居座って、手元を邪魔してくる。
修さんが近づいてきた。
「篠原さん、今日は手が急いでるね」
澪は肩を跳ねさせた。
「え」
「曲げる前に、もう失敗した顔をしてる」
「そんな顔ですか」
「うん。銀線より先に、顔が曲がってる」
澪は思わず銀線を見た。確かに曲がっている。顔も、たぶん曲がっている。
「すみません」
「謝るところじゃないよ。急いでるときは、一回置く」
修さんは澪の手から銀線を受け取り、机に置いた。
「金属は逃げないから」
澪の内心が答えた。金貨も逃げません。逃げたいのは私です。言えるわけがなかった。
教室が終わるまで、澪はずっと落ち着かなかった。ほかの生徒たちが片づけを始める。道具を拭く音、椅子を引く音、「お疲れさまでした」という声。ひとり、またひとりと帰っていく。澪も鞄を持ってドアの方へ行きかけたが、ポーチの重さを思い出して戻った。またドアへ向かい、また戻る。端から見れば、忘れ物を探している人か、帰りたくない人か、かなり不審な人だった。
修さんが工具を片づけながら、静かに言った。
「篠原さん、忘れ物?」
「いえ……あの、ちょっと、金属のことで聞きたいことがあって」
「銀線?」
「銀線では、ないです」
「真鍮?」
「それでも、ないです」
「じゃあ、見せて」
軽い。あまりにも軽い言い方だった。澪はポーチから小袋を出したが、両手で持ったまま、なかなか開けられなかった。
「怒らないですか」
修さんは少し目を瞬いた。
「金属を見せられて怒ったことはないよ」
「変なものでも?」
「変なものほど、見た方が早い」
澪は息を吸い、小袋を開けた。白い布の上に、小さな金貨が落ちる。からん、と控えめな音がした。
修さんの目が、ほんの少し細くなった。
「……これは、面白いね」
「面白くないです。私の家賃です」
言ってから、澪は心の中で死んだ。
家賃と言ってしまった。思いきり生活感が出た。金貨と家賃を結びつけていることを、本人の前で漏らした。澪が固まっている間も、修さんは笑わなかった。ただ、手袋をつけ、金貨を白い布の上で静かに裏返した。ルーペを取り出し、刻印を見る。縁を見る。重さを量る。指先の動きは丁寧で、急がない。
澪はその手元を見ていた。この人に見せてよかった、と少しだけ思った。
「公式な地金や、よく見る外国金貨ではないね」
「やっぱりですか」
「刻印も見慣れない。工芸品か、私的な記念メダルか、古い海外品か」
「たぶん、海外です」
「たぶん」
「かなり海外です」
修さんは、ほんの少し笑った。
「篠原さんは、本当に嘘が得意じゃないね」
「すみません」
「謝らなくていい」
修さんは金貨を布の上に戻した。
「話せることだけ話せばいい。今は、これは金属として見よう」
その言葉で、澪の胸の中に詰まっていたものが少しだけほどけた。話せることだけ。今は金属として見る。それは逃げ道ではなかった。でも、足場だった。澪は小さくうなずいた。
「お願いします」
「ただ、これは教室で扱うものじゃない。正式に見るなら会社で分析した方がいい」
「会社」
「飯島貴金属精錬株式会社」
澪は顔を上げた。
「飯島貴金属って、銀線とか銀板を売ってる……」
「うん」
修さんは名刺入れを出し、一枚を澪に渡した。そこには、飯島貴金属精錬株式会社、代表取締役、飯島修一郎、と書かれていた。澪は名刺を両手で持ったまま固まる。
「……代表取締役」
「うん」
「社長さんだったんですか」
「一応ね」
「私、修さんって呼んでました」
「教室ではみんなそう呼ぶから」
「銀線を三十センチだけ買ったこともあります」
「覚えてるよ」
「忘れてください」
「丁寧な注文だった」
「それも含めて忘れてください」
修さんは少しだけ笑った。
「うちは小さい会社だから、変わった相談は私も見る」
「変わった相談」
「これは、かなり変わっている」
「ですよね」
澪は名刺を両手で持ったまま、うつむいた。社長だった。自分は社長に、銀線三十センチの質問メールを送っていたらしい。恥ずかしい。とても恥ずかしい。ただ、不思議と嫌ではなかった。修さんは社長らしく偉そうにしない。教室で銀線の曲げ方を見てくれる修さんのままだった。
「正式に分析するなら、申込書と身分証明書の確認が必要になる。買取ではなく分析だけでも同じ」
「身分証明書は大丈夫です」
「品名は、金属製メダルでいい」
「金属製メダル」
「嘘ではない」
澪は小さく息を吐いた。
「嘘ではない言葉、ありがたいです」
修さんは何も言わず、金貨を小袋へ戻した。
数日後、澪は飯島貴金属精錬株式会社を訪ねた。
御徒町の通りには、貴金属店や工具店、パーツ店が並んでいる。看板には金、銀、プラチナ、地金、加工、研磨といった文字が見えた。澪にとっては、少しだけ憧れのある場所だった。金属を扱う人たちが、金属を金属として見て、切ったり伸ばしたり磨いたり売ったりする場所。そこへ、押入れの向こうから来た金貨を持っていく自分は、かなり場違いな気がした。
飯島貴金属は、派手な店ではなかった。小さなビルの一階に受付があり、ガラスケースには銀板や銀線の見本が並んでいる。奥からは、かすかな機械音が聞こえた。店というより、仕事場だった。金属を扱うための場所。
澪は予約時間より十五分早く着いた。早すぎる。入口の前で三分ほど行ったり来たりしているうちに、だんだん不審者らしくなってきたので、覚悟を決めて中へ入った。
「成分分析の相談で予約した篠原です」
受付でそう言うだけで、喉が少し乾いた。しばらくすると、修さんが出てきた。教室の作業着ではなく、地味なスーツ姿だった。眼鏡をかけ、手にはファイルを持っている。だが、声は同じだった。
「篠原さん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
澪は名刺の文字を思い出して、少し背筋を伸ばした。
「そんなに固くならなくていいよ」
「無理です」
「正直だね」
「嘘が下手なので」
修さんは相談スペースへ案内した。白い作業台の上には柔らかい布が敷かれ、ルーペと小さな秤が置かれている。明るい照明の下で、澪は持ってきた金貨を一枚出した。修さんは手袋をつけ、布の上に置く。
「まず、非破壊で見てみよう」
分析機に置かれた金貨は、急に標本のように見えた。王冠と竜のロマンが、機械の中に入る。少し待つと、モニターに数字が出た。澪にはよく分からない数字だったが、修さんは慣れた様子で画面を見て、少しだけうなずいた。
「金は含まれている。かなり高い」
澪は息を止めた。
「本当ですか」
「うん。ただ、純金ではない。金、銀、銅、それから微量の金属がいくつか」
「金貨なのに、純金じゃないんですね」
「流通させるなら、硬さが必要だからね。純金は柔らかい」
「王国造幣局……」
「王国?」
澪は固まった。
「いえ、言葉のあやです」
「かなり海外の言葉のあやだね」
澪の顔が熱くなった。修さんはそれ以上聞かなかった。
「面白い配合だ。現代の一般的な規格とは少し違う」
「面白いですか」
「素材としては」
素材としては。家賃としては切実です。澪はそう思ったが、口には出さなかった。さっき一度出してしまったので、今日はもう十分だった。
「同じようなものが何枚かあるなら、まとめて精錬分析と買取に回せる」
「何枚か……」
「ある?」
「少し」
「少し」
「今は少しです」
修さんは深く追及しなかった。
「なら、まず少量がいい。素材のばらつきも見たい」
「五枚くらいでも大丈夫ですか」
「もちろん」
修さんは簡単に言った。だが澪にとって、金貨五枚は人生最大級の取引だった。修さんの少量は会社基準で、澪の少量は心臓基準だった。基準が違う。かなり違う。
その夜、澪は押入れの向こうの市場へ行った。
リュシアは、市場裏の木箱に腰かけていた。赤茶色の布を頭に巻き、足をぶらぶらさせている。澪を見つけると、ぱっと顔を明るくした。
「ミオ、来た」
「来ました」
「今日は顔が少しましね」
「前はそんなにひどかったですか」
「金貨を見た人の顔じゃなかったわ。薬草を間違えて食べた人の顔だった」
「そんな顔でしたか」
「そんな顔」
リュシアは可愛く笑った。可愛いが、言うことは遠慮がない。
澪は虫眼鏡と手鏡、針を渡した。リュシアは一つずつ確かめ、満足そうにうなずく。
「これ、仕立て屋が欲しがってたわ。鏡は髪結いが二つ。虫眼鏡は私が一つ、あと薬草屋が見たいって」
「広がるの早くないですか」
「いいものは早いの」
リュシアは硬貨袋を取り出し、中から金貨を数枚出す。澪は前ほど固まらなかった。少しだけ、受け取れるようになっている。それでも、手のひらに乗せると重い。
「ミオ、金貨が嫌いなの?」
「嫌いじゃないです。扱いが重いだけです」
「重いなら袋を変える?」
「そういう重いではなく」
「ミオの国の言葉は、たまに面倒ね」
「はい。かなり面倒です」
澪は金貨をポーチにしまった。この金貨は、日本円になる。その道は見えた。だが、見えたからこそ怖さも増えた。手続き、記録、税金。現代日本の魔物たちが、順番待ちをしている。
部屋に戻った澪は、ちゃぶ台に金貨を並べた。五枚だけを小袋へ分けるつもりだったので、指先で一枚ずつ確かめていく。五枚目を置いたあと、六枚目に手が伸びかけたところで、澪はぴたりと止まった。
「五枚まで」
欲を出すと、小説の主人公はだいたい失敗する。澪は小説好きとして、そのあたりの教訓には妙に詳しかった。
金貨五枚を小袋に分け、申込書を書く。品名は、金属製メダル。修さんに教わった言葉だ。嘘ではない。これほどありがたい言葉もない。封筒に入れた金貨五枚は、急に偉そうに見えた。ただの封筒なのに、中身は澪の人生で一番高いものだった。
「ちゃんと行って、ちゃんと日本円になって」
言ってから、少し考えた。
「いや、帰ってこなくていい。日本円になって」
ややこしい。金貨に話しかけるのは、やめた方がいい。
数日後、飯島貴金属から買取額の連絡が来た。
澪はスマホの画面を見て固まった。家賃が払える。電気代も払える。スマホ代も払える。食費も、少しまともにできる。承諾の返信を送ったあと、澪は部屋の中を一周した。何も変わらない。もう一周しても、やっぱり変わらない。変わったのは、これから口座に入る数字だけだった。
その翌日、銀行アプリを開いた。
残高が増えていた。
澪は画面を見た。閉じた。もう一度開く。数字はやはり増えている。更新しても増えている。念のため公式アプリか確認したら、ちゃんと公式だった。
「入ってる……」
声が小さく出た。
異世界で売った百円ショップの商品が、金貨になり、修さんの会社を通り、日本円として口座に入った。押入れと銀行口座がつながった。ものすごく変なことが、ものすごく普通の画面で起きていた。
澪は立ち上がり、コンビニへ行った。
プリンの棚の前で立ち止まる。いつもの安いプリン、少し高いプリン、かなり高いプリン。棚の中で三つの誘惑が並んでいる。澪はしばらく迷ったあと、少し高いプリンを取った。かなり高い方には手を出さない。急にお金が入った人間が、ここで一番高いプリンへ行くと破滅する気がした。少し高いプリン。それが今日の勝利ラインだった。
部屋に戻り、プリンを食べる。スプーンを入れると、表面がやわらかく沈んだ。口に入れると甘く、カラメルの苦みが少しだけ残る。澪は目を閉じた。
「勝利の味は、カラメルだった」
名言のように言ったが、部屋には誰もいなかった。少しむなしい。でも、プリンはうまかった。
勝利は長く続かなかった。
プリンの容器を片づけたあと、澪はふと「金地金 売却 税金」と検索した。その瞬間、現代日本の魔物が画面に現れた。譲渡所得、確定申告、取得費、売却費用、特別控除、総合課税。澪はスマホを見つめる。プリンの甘さが、口の中からすうっと消えていった。
「……そう来るか」
考えてみれば、当然だった。お金が入った。銀行振込で。飯島貴金属の明細もある。身分証明書も出している。記録は残る。税務署に報告されるかもしれない。いや、報告されると思った方がいい。最初にその考えが浮かんだとき、胃がきゅっと縮んだ。
税務署は、たぶん魔王より怖い。魔王は剣で倒せる可能性がある。税務署は、たぶん剣では倒せない。書類で来る。書類で来る相手には、剣よりレシートが必要だ。
澪はちゃぶ台に百円ショップのレシート、飯島貴金属の明細、銀行アプリの入金画面を見ながら書いたメモを並べた。仕入れ、売却、収入。そこへプリンのレシートも置きかけ、澪は一瞬だけ迷う。経費か。違う。これは勝利の記念品だ。澪はプリンのレシートを横によけた。
「えらい」
自分で自分を褒めた。こういうところから、人は堕落を防ぐのだと思う。たぶん。
澪は新しいノートを出した。表紙に何を書くかで迷う。異世界金貨管理帳は危ない。金貨売却ノートはもっと危ない。異世界商売記録は正直すぎる。仕入れ売上帳は真面目だが、つまらない。
しばらく悩んだあと、澪は表紙に小さく書いた。
押入商会 帳簿。
書いた瞬間、ださいと思った。かなりださい。だが、消さなかった。かっこいい名前をつけると、調子に乗る気がした。押入商会。ださい。だからいい。
澪は一ページ目を開いた。日付を書く欄を作り、仕入れ品、仕入れ額、異世界売上、受取硬貨、精錬枚数、飯島手数料、入金額、備考と、必要そうな項目を少しずつ書き足していく。問題は、売上先の欄だった。リュシア。異世界市場。住所不明。どれも、帳簿として不安しかない。
澪は売上先の欄を空欄にした。
「未来の私が何とかする」
未来の自分へ丸投げした。
その後、澪は帳簿を閉じた。表紙を見る。押入商会 帳簿。何度見てもださい。だが、不思議と嫌ではなかった。
澪は財布とエコバッグを手に取り、襖の前に立つ。向こうから、市場のざわめきがかすかに聞こえる。
税金は払う。記録は残す。修さんにも迷惑をかけない。それでも、次の取引はもう始まっている。
襖を開けると、石畳の路地が見えた。向こう側で、リュシアが手を振っている。
「ミオ、次の商品は?」
澪は小さく息を吐いた。勇者の剣ではない。魔法の杖でもない。押入商会の次の武器は、レシートをなくさないことだった。