六畳間の夜は、だいたい静かだ。
しんとしている、というほど上品な静けさではない。
冷蔵庫が低く唸り、外の廊下では誰かが階段を上がったり下りたりしているし、ときどき隣の生活音らしいものも壁の向こうで小さく鳴る。
だが、その程度の音しかないということが、かえって部屋の狭さと、自分の生活の薄さをよく分からせてきた。
篠原澪は、ちゃぶ台の前で正座し、その真ん中に置かれた金のコインを見ていた。
安い照明の下なのに、妙に立派だった。
異世界から持ち帰った金のコインなのだから、もう少し胡散臭くて、雑で、出来の悪い感じであってくれた方が、こちらとしては気が楽だった。
なのに目の前のそれは、王冠みたいな刻印があり、縁には細かな模様が入り、色つやまできちんと金貨らしい。
腹が立つくらい、ちゃんとしている。
「……見た目だけなら、かなりすごいんだけどな」
誰に言うでもなく呟いて、澪はそのコインをつまみ上げた。
ひやりとしている。
小さいのに、妙に存在感がある。
異世界ではこれが小金貨として普通に通っていた。
リュシアも、ひどく軽い調子で渡してきた。
小金貨だよ、くらいの顔だった。
あちらの金銭感覚はどうなっているのだろうと思うが、よく考えれば、たぶんこちらが貧しいだけである。
澪は財布を開いた。
小銭入れのところへ、金のコインをそっと入れてみる。
入った。
普通に入った。
そのことが、まず腹立たしかった。
「入るなよ……」
思わず出た本音である。
財布に入るなら使えてほしい。
そこまで現実へ寄ってくるなら、せめてコンビニで機能してほしい。
だが、そんな都合のいい話はない。
見た目こそ小銭の群れへ自然に紛れ込んでいるが、実際には江古田のどのレジも受け入れてくれない異世界産の金属片だった。
使えないくせに収まりだけはいい。
最悪である。
澪は財布を閉じた。
閉じて、3秒ほど考えた。
それからまた開けた。
金のコインは、やはりそこにいた。
当然である。
当然なのだが、その当然さが妙に腹立たしい。
まるで「何か問題でも?」みたいな顔で小銭入れの中へ収まっている。
大ありだ、と澪は思う。
問題しかない。
「……あなた、そこで何してるの」
小声で聞いてみる。
金のコインは何も答えなかった。
答えられても困るが、もう少しくらい申し訳なさそうにしてほしい気持ちはある。
見た目だけで人を期待させておいて、実用面ではほぼ役立たずというのは、かなり罪深い。
澪は財布からそれを取り出し、ちゃぶ台の上へ戻した。
それからスマホを手に取り、家計簿アプリを開く。
冷たい光が顔を照らす。
今月の残高、今後の予定、固定費。
家賃、通信費、電気代、食費。
そこへ大学関係の細かい支出まで並ぶ。
数字は感情がない。
感情がないくせに、生活へ刺さる角度だけはやたら正確だった。
澪は、その数字の列の横へ、頭の中で金のコインを置いてみた。
何も起きなかった。
家賃は下がらないし、通信費も消えない。
電気代も食費も、異世界ロマンにまるで興味がない顔でそこにいる。
さっきまで「金貨かもしれない」と少しだけ胸が浮いたのに、家計簿アプリは一瞬でそれを地面へ叩きつけてきた。
現代社会はこういうところが強い。
夢を見かけた人間を、即座に請求で殴ってくる。
澪は金のコインをもう一度見た。
きれいだった。
どう見ても価値がありそうだった。
だが、江古田では、価値がありそうな顔をしているだけの丸い金属でもある。
そのことを丁寧に理解したあと、澪は脳内に近所のコンビニを開いた。
白い照明の下で、店員が「お支払いは?」と聞く。
そこで自分が「これで」と言って金のコインを置く。
脳内の店員さんが止まった。
自分も止まった。
会計は進まなかった。
想像なのに、妙に疲れる。
「異世界では小金貨。江古田では、レジを止める丸い金属」
ぽつりと口にしてから、澪は少し顔をしかめた。
ひどい評価だな、と思う。
思うが、いまのところ事実だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
澪はちゃぶ台へ突っ伏した。
畳の感触が額に少しざらつく。
冷蔵庫の低い唸りがまた聞こえる。
外では誰かがアパートの階段を下りていった。
世界は普通に回っている。
回っているのに、自分のちゃぶ台の上だけが、妙に物語じみたものを一枚乗せて止まっていた。
場違いだな、と澪は思った。
金のコインも、この部屋では場違いだ。
でも、たぶん自分も同じだった。
大学でもそうだ。
講義室の端に座り、雑談が始まる前に帰る。
輪ができる前に距離を取る。
押入れの向こうに市場がつながっても、結局やっていることは六畳間で家計簿とにらみ合いである。
異世界へ足を突っ込んだ人間の第一声が「家賃にはならない」なのだから、夢がないにもほどがあった。
だが、夢がなくても家賃は来る。
そこが現代の強いところであり、嫌なところでもあった。
「……とりあえず、家賃にはならない」
確認するように言う。
言葉にしてしまうと、妙にすっきりした。
そうだ。
いま分かっている事実はそこだけだ。
異世界では価値がある。
だが江古田では、そのままでは家賃にならない。
ならないなら、次はどうやって家賃へ近づけるかを考えるしかない。
問題は、その「どうやって」が、まるで分からないことだった。
家賃にはならない。
その事実をいったん認めてしまうと、次に出てくる発想は意外と普通だった。
換金である。
異世界で通じる小金貨が、江古田の家賃口座へ直接突っ込めないのなら、いったん現代日本で使える形へ変えればいい。
理屈としては、かなりまっとうだった。
異世界の押入れ接続という、だいぶおかしい現象を前にしているのに、思考の方向だけは妙に常識的である。
澪はちゃぶ台から顔を上げ、スマホを持ち直した。
検索欄を開く。
少しだけ迷ってから、指で入力する。
金貨 売る
検索結果が並んだ。
買取店、無料査定、即日現金化、高価買取強化中、金相場上昇中。
文字だけ見ると、とても頼もしい。
異世界から持ち帰った金のコインがあっても、とりあえず検索結果までは出してくれる。
現代日本はそういう入口だけは本当にえらい。
駅前にも店があった。
ガラス張りで、明るくて、時計やバッグやアクセサリーの写真が並んでいる。
外から何度か見たことがある。
感じのいい店員さんがいて、店内は清潔で、たぶん怖くない。
少なくとも、短剣は下げていない。
そこは大きい、と澪は思った。
異世界基準だと、まずそこが大きい。
「よし」
澪は小さく言った。
言っただけで、まだ何もしていない。
だが、人はときどき「よし」と言わないと動けない。
そういう生き物である。
澪はちゃぶ台の上の金のコインを小袋へ入れ、小袋をポーチへ入れ、ポーチをバッグへ入れた。
その動きは思ったより速かった。
怖がってはいる。
だが、行くと決めたあとの手順だけは案外きちんとしているのが澪だった。
バッグを持ち、立ち上がり、玄関へ行く。
途中で一度だけ、ちゃぶ台の方を振り返った。
忘れ物ではない。
たぶん決意の確認とか、そういう類のものだ。
うまく言えないが、人は妙なことを始める前に、自分の部屋を一度見てしまうことがある。
玄関のたたきは少し冷たかった。
スニーカーを履く。
左足、右足。
ここまではよかった。
バッグを肩にかけ、ドアノブへ手を伸ばす。
金属の冷たさが指先に触れた、その瞬間だった。
脳内に、感じのいい店員さんが現れた。
とても感じがいい。
笑顔もやわらかい。
声も丁寧だ。
だが、そういう人ほど質問がきっちりしている。
「こちら、どちらでご購入を?」
澪の手が止まった。
脳内の自分は、買取カウンターの前で固まった。
祖父の遺品。
だめだ。
祖父はまだ元気だ。
勝手に遺品へしないでほしい。
主に祖父が。
海外のお土産。
どこの国ですか、で終わる。
異世界です、と答えた瞬間に買取ではなく別の窓口へ案内される気しかしない。
査定の前に心配されるか、あるいは通報される。
どちらに転んでも換金は遠い。
記念品。
何の記念ですか、で死ぬ。
王都第一市場で虫眼鏡が売れた記念です、などという記念日は日本の一般社会に存在しない。
存在しないものを存在する顔で出すには、澪の社会性はかなり足りなかった。
玄関で、澪はドアノブを握ったまま立ち尽くした。
金属の感触だけが妙に現実的だった。
外へ出れば駅前だ。
駅前へ行けば店がある。
店へ行けば店員さんがいる。
そしてその店員さんは、高確率で感じがよく、感じがいいまま、逃げ場のない質問をする。
最悪だった。
現代日本は親切だ。
親切なのに、説明責任もきっちりしている。
そこが本当に逃げづらい。
「押入れの向こうです」
試しに言ってみる。
脳内の店員さんが黙った。
澪も黙った。
完全な詰みである。
あまりにも詰みすぎて、逆にちょっと面白かった。
面白いが、笑っていい状況ではない。
玄関で立ったまま、換金計画が説明責任の一問で崩れているのである。
しかもまだ家を出てもいない。
早い。
敗北のタイミングが早い。
澪はしばらくそのまま立っていたが、やがてそっとドアノブから手を離した。
その動きは静かだった。
静かだったが、内容としては完全撤退である。
玄関のたたきに立ったまま撤退を決める人間の背中は、たぶんあまり格好よくない。
少なくとも冒険譚の主人公向きではない。
だが、説明のできない金のコインを持って感じのいい店員さんに会いに行く勇気も、澪にはまだなかった。
スニーカーを脱ぐ。
玄関の床へ足裏が戻る。
たったそれだけなのに、妙に疲れた。
歩いてもいないのに疲れている。
体力ではない。
たぶん社会性の方が削られている。
「今日は玄関まで冒険したことにしよう……」
ぽつりと呟く。
言ったあとで、澪は自分で少しだけ顔をしかめた。
かなり苦しい定義だな、と思う。
冒険の範囲が家の中すぎる。
せめて共用廊下くらいまでは出ていてほしい。
だが出ていないので仕方がなかった。
澪はバッグからポーチを出し、小袋を取り出して、金のコインをまたちゃぶ台の上へ戻した。
振り出しである。
ちゃぶ台の上へ戻された金のコインは、さっきより少しだけ偉そうに見えた。
おまえのせいだ、と言いたい。
だが、たぶん全部がこいつのせいでもない。
どちらかといえば、説明の苦手な自分と、説明を要求してくる現代社会の相性が悪い。
そこまで考えて、澪は小さく息を吐いた。
換金という発想自体は間違っていない。
間違っていないのに、正面から行くには材料が足りない。
つまり、別ルートを探さないといけない。
家賃はその厳しさにまったく同情してくれないので、次の手を考えるしかなかった。
玄関まで行って、帰ってきた。
行って帰ってきただけで、こんなにも敗北感が出るものなのかと、澪は少しだけ感心した。
いや、感心している場合ではない。
家から一歩も出ていないのに、気分だけはしっかり撤退戦のあとだった。
バッグをちゃぶ台の脇へ置き、ポーチを出す。
その中から小袋を取り出し、金のコインをまたちゃぶ台の上へ戻した。
戻された金のコインは、さっきより少し偉そうに見えた。
気のせいだとは思う。
思うが、玄関で人を詰ませて帰ってきた側の余裕みたいなものが、あの丸い金属の表面にうっすら浮いている気がするのだ。
見た目だけで人を期待させ、説明責任のところで黙る。
なかなか性格の悪い振る舞いである。
「おまえのせいだ……」
澪は小さく呟きかけて、途中でやめた。
いや、全部こいつのせいでもない。
金のコインはただそこにあるだけだ。
異世界では普通に使われていただけで、江古田の駅前で感じのいい店員さんに説明しろとは、たぶん一度も言っていない。
悪いのは、説明が必要な現代社会と、その説明にめちゃくちゃ弱い自分との相性かもしれない。
かなり嫌な相性だった。
澪は小さく息を吐き、視線を作業机の方へ向けた。
壁に立てかけたギター。
机の上の銀線、真鍮板、ヤスリ、小さな金槌、ピンセット。
そして椅子の背に掛かった、彫金教室用の布袋。
六畳間は狭い。
物も多い。
きれいに暮らしているとはとても言えない。
だが、散らかっているというより、途中なのだと澪は思う。
片付いていないのではなく、止めたままになっている。
ギターも、工具も、銀線も、どれも「あとでまた触る」つもりの位置にある。
そういうものが、この部屋にはいくつかある。
人は少ない。
いや、少ないというか、ほとんどいない。
大学では講義が終わるとすぐ帰るし、雑談の輪ができる前に消える。
人間関係の棚は、かなり品薄だ。
その代わり、手で触るものはそこそこある。
ギターは、下手でも鳴らせば音が返る。
金属は、失敗してもどこが失敗したかが残る。
ヤスリは、かけたぶんだけ削れる。
その分かりやすさに、澪はずいぶん助けられてきたのだと思う。
視線が、椅子の背の布袋に止まった。
その瞬間、頭に浮かんだのは修さんだった。
飯島修一郎。
生徒たちはみんな「修さん」と呼んでいる。
五十代後半くらいで、声が落ち着いていて、無駄に大きくない。
怒鳴らないし、褒めすぎない。
だが、ちゃんと見ている。
手元を見て、力の入り方を見て、詰まっているときは黙り方まで見ている。
それなのに、妙に怖くない。
不思議な人だな、と澪は何度か思ったことがある。
相手が「ちゃんと見てくる人」だと、澪はだいたい身構える。
見られると、何か言わなければならない気がするし、うまく返せないと変な沈黙になる。
その沈黙が嫌で、先に距離を取る。
でも修さんは、見てくるのに、追い詰めてこない。
前に、銀線がうまく曲がらなかったことがあった。
丸くしたいのに微妙に歪み、直そうとするとさらに崩れて、澪がだんだん無言になっていったときだ。
「篠原さん、そこは急がなくていい」
そう言って、修さんは澪の手元を少し覗き込んだ。
「金属は、急がせると曲がり方が荒くなる」
澪はそのとき、思わず言ったのだ。
「人間みたいですね」
言ってから、少し変なことを言ったなと思った。
だが修さんは困った顔もしなかった。
ただ少しだけ笑って、
「人間よりは素直だよ」
と言った。
その返しが妙に好きで、澪は今でも覚えている。
金属は黙っているが、何をされたかはちゃんと残す。
曲げすぎたら曲がりすぎた形になるし、削りすぎたら削りすぎた厚みになる。
失敗の理由が残る。
そこが人間よりずっと楽だった。
人間関係は、理由が残らないことが多い。
沈黙が悪かったのか、返事の温度が悪かったのか、笑うところで笑わなかったのか、あとから考えてもよく分からない。
ただ気まずさだけが残る。
その点、金属は親切だ。
親切という言い方が合っているのかは分からないが、少なくとも沈黙の意味は読みやすい。
澪は布袋を見たまま考えた。
買取店よりは、修さんの方が怖くない。
我ながら、だいぶ情けない比較基準だと思う。
駅前の買取店と彫金教室の講師を天秤にかけて、「怖くない方」を選んでいるのである。
普通はもう少し、専門性とか信頼性とか、そういう大人っぽい尺度が前に出るのではないか。
だが、いまの澪には、その「怖くない」がかなり重要だった。
ちゃんと説明できないものを、感じのいい店員さんへ持っていくのは無理だ。
あの人たちは優しい。
でも、優しいまま逃げ場のない質問をしてくる。
あれは澪にとってかなり強い。
その点、修さんは金属を先に見てくれる。
たぶん。
いや、願望も混じっている。
だが、それでも買取店よりは可能性がある気がした。
澪はちゃぶ台の上の金のコインを見た。
「金属の相談」
口に出してみる。
「金属の相談だから」
もう一度言う。
かなり無理があるな、と澪は思った。
金属ではある。
たしかにそうだ。
だが、その前に異世界の貨幣でもある。
そこを完全に黙って「金属の相談」と言い切るのは、布を一枚ではなく三枚くらい被せている感じがする。
でも、今はそれしかない。
全部を説明できるわけでもないし、押入れの向こうから来ましたと正直に言っても、話が進む未来が見えない。
なら、話せるところから話すしかない。
金属のことなら、金属の分かる人に聞く。
その発想自体は、たぶん間違っていなかった。
澪は金のコインを小袋へ戻した。
それをポーチへ入れて、口を閉じる。
小さな音がした。
その音だけで、さっきまで六畳間の真ん中に置きっぱなしだった異物が、少しだけ「持ち運ぶ予定のもの」へ変わった気がした。
換金の直接ルートは閉じた。
だが、その代わりに、人を選んで相談するという別の道が見えた。
細い道だし、かなり情けない入り方ではある。
それでも、玄関で立ち尽くしたままよりは、少しだけ前へ進んでいた。
次の彫金教室の日、澪はいつもより早く着いた。
余裕があるからではない。
むしろ逆だった。
落ち着かないとき、人はだいたい二種類に分かれる。
ぎりぎりまで先延ばしにして現実から逃げるか、無駄に早く着いて現実を先に見に行くかである。
澪は後者だった。
御徒町寄りの雑居ビルの二階にある小さな彫金教室は、今日も相変わらず、金属と薬品と、少し焦げたような匂いが混ざっていた。
階段を上がったところでその匂いに迎えられると、ああ来たな、という気になる。
大学の教室にはない種類の安心だった。
中には白い作業机が並び、壁にはヤスリやペンチや糸鋸が整然とかかっている。
窓際では小さな換気扇が回り、誰かの手元から時折、軽い金槌の音が響く。
大学の静けさは、たいてい少し気まずい。
だが、ここは違う。
ここでは静かな人間は、だいたいちゃんと作業している人間である。
そういう意味の通る静けさだった。
澪はいつもの端の席に座った。
座って、膝の脇へバッグを置き、その中のポーチの存在を思い出した瞬間、体の右半分が妙に重くなった気がした。
もちろん気のせいだ。
実際には小さな金のコインが一枚、布の小袋に入っているだけである。
なのに、心の中ではなぜか米袋くらいの顔をしている。
ひどい。
重さの単位が感情になると、人は急に雑になる。
今日の課題は銀線で小さなリングを作る練習だった。
澪は銀線を持ち、丸ヤットコを当てる。
ここまでは普通だ。
問題は、その先だった。
曲げる。
少しずれる。
直そうとすると、さらにずれる。
嫌な流れである。
いつもなら、失敗しても「ここで力が入りすぎたな」とか「角度が浅かったな」とか、原因がまだ分かる形で失敗する。
今日は違う。
手元の少し先に、ずっと別件が座っている。
ポーチの中の金のコインである。
銀線を見ているはずなのに、頭の端ではずっとそちらがこちらを見てくる。
かなり迷惑だった。
そのたびに脳内のどこかが、「このあと修さんに見せるのか」「いや見せないのか」と勝手に会議を始める。
会議の司会も書記も議事録係も全部自分である。
効率が悪いにもほどがある。
結果として、銀線への集中が薄くなる。
銀線に失礼な集中力だった。
「篠原さん、今日は手が急いでるね」
頭の上から声が落ちてきて、澪はびくっと肩を揺らした。
修さんだった。
いまもたぶん、銀線の曲がり方だけではなく、その前から何かいろいろ見えていたのだろう。
「え」
澪の口から出たのは、それだけだった。
自分でもどうかと思う。
だが、不意打ちで図星を刺されると、人はだいたい一文字くらいになる。
「曲げる前に、もう失敗した顔をしてる」
そっちから来るのか、と澪は思った。
手元ではなく顔。
そこを先に言われると逃げ場がない。
「そんな顔ですか」
「うん。銀線より先に、顔が曲がってる」
澪は思わず手元の銀線を見た。
たしかに曲がっていた。
それから、自分の内側も見た。
たぶん、そっちも曲がっていた。
銀線と一緒に心までちょっと歪んでいる感じがして、かなり嬉しくない。
「すみません」
反射で謝ると、修さんは少しだけ首を振った。
「謝るところじゃないよ」
その言い方がいつもと同じだったので、澪は少しだけ救われた。
「急いでるときは、一回置く」
そう言って、修さんは澪の手から銀線を受け取り、机の上へそっと置いた。
その動きで初めて、澪は自分が思っていたより強く銀線を握っていたことに気づいた。
指先にうっすら跡が残っている。
「金属は逃げないから」
その一言を聞いた瞬間、澪の内心がほとんど反射で返した。
金貨も逃げません。
逃げたいのは私です。
もちろん口には出さない。
出せるわけがない。
修さんの前で「実は異世界の市場から持ち帰った金のコインがポーチに入っていて、そのせいで銀線より先に人生の方が曲がってます」などと言ったら、たぶん教室の空気が別の意味で静かになる。
「一回、深呼吸してからやろうか」
修さんはそう言った。
澪は小さくうなずく。
「はい」
さっきの「え」よりは、だいぶ人間だった。
修さんはそれ以上は何も言わず、隣の机へ移った。
そこもいつも通りだった。
踏み込みすぎないし、放っておきすぎもしない。
必要な分だけ見て、必要な分だけ言う。
その距離感が、澪にはありがたかった。
澪はもう一度銀線を手に取った。
今度は急がない。
少なくとも、そのつもりで指先を動かす。
さっきよりはましだった。
完璧ではない。
けれど、最初の悲惨な曲がり方よりは、ずっとまともだ。
それでも、ポーチの中の金のコインは消えていなかった。
意識の端にいて、じっと存在感だけを送ってくる。
かなり嫌な置き物である。
置き物ではなく通貨なのだが、いまの澪にとっては、実用性より圧の方が強かった。
教室の中では、ほかの生徒たちが黙々と作業している。
ヤスリの音がして、誰かが小さく息を吐き、金槌が軽く鳴る。
その静けさが、澪は好きだった。
大学の静けさは気まずいことが多い。
だがここでは、黙っていても失敗ではなく、作業の一部としてそこに置かれている。
だからこそ、今日の自分の手元の乱れが余計に目立つのだろう。
課題が終わるころには、心の中のざわつきは少しも減っていなかった。
むしろ逆だった。
教室が終わりに近づくほど、「このあと聞くのか」「本当に見せるのか」という現実味が増してくる。
嫌な寄り方をする現実である。
だが、それでも一つだけ分かったことがあった。
金のコインの問題は、ここまで澪の手元へ食い込んでいる。
銀線の角度まで乱すくらいには、もうちゃんと現実だった。
教室が終わりに近づくと、空気の質が少し変わる。
作業しているときの静けさは、手元へ沈んでいく静けさだ。
だが終わりが見え始めると、その静けさは少しずつ上へ浮いてくる。
道具を拭く布の音、椅子を引く音、「お疲れさまでした」という声。
そういう小さな終業の気配が、机と机のあいだを順番に通っていく。
澪も手を止めた。
銀線を片づけ、ヤットコを戻し、机の上を整える。
ここまではいつも通りだった。
いつも通りなのに、今日は体のどこかがずっと落ち着かない。
原因は分かっている。
ポーチの中の金のコインが、まだそこにいるのだ。
澪はバッグを持って立ち上がり、出口へ向かった。
向かって、3歩ほどで止まる。
本当にこのまま帰るのか。
ここまで持ってきておいて、何も見せずに帰るのか。
それはそれで、一貫した敗北のような気もする。
いや、一貫した敗北に価値はないのだが、それでも人としてどうなのか。
澪はくるりと向きを変えて、席へ戻った。
戻ってきてから、また止まる。
今度は逆に、ここで修さんへ見せるのか、と考え始める。
そのまままた出口へ向かい、途中で止まり、また戻る。
我ながら不審だった。
忘れ物を探している人か、帰りたくない人か、そのどちらかにしか見えない。
実際には“異世界の金のコインを講師に見せる覚悟が決まらない人”なのだが、そんな分類をしてくれる社会はたぶんない。
「篠原さん、忘れ物?」
静かな声が飛んできて、澪はびくっと肩を揺らした。
やっぱり見られていた。
そりゃ見る。
教室の出口付近で行ったり来たりしている生徒は、さすがに目に入る。
「いえ……あの、金属のことで、ちょっと聞きたいことがあって」
出てきたのは、かなり布をかぶせた言い方だった。
「銀線?」
「銀線では、ないです」
「真鍮?」
「それでも、ないです」
「じゃあ、見せて」
軽い。
あまりにも軽い。
こちらは胸の内で相当な前振りをしているのに、相手は3歩くらいで本題へ着地してくる。
会話の歩幅が違う。
澪はポーチを取り出し、そこから小袋を出した。
だが、両手で持ったまま、なかなか口を開けられない。
「怒らないですか」
思わず、そんなことを聞いていた。
何を聞いているのだろうと自分でも思う。
だが、いまの自分にとっては重要だった。
怒られたくないし、困った顔もあまり見たくない。
見せる前からだいぶ後ろ向きである。
修さんは少し目を瞬いて、それからほんの少しだけ口元を緩めた。
「金属を見せられて怒ったことはないよ」
たしかにそうだ、と澪は思う。
彫金教室の講師が金属を見せられて怒る状況というのも、あまり想像がつかない。
「変なものでも?」
念押しすると、修さんは少し笑った。
「変なものほど、見た方が早い」
その一言で、澪の中の何かが少しだけ決まった。
逃げ道がなくなった、と言ってもいい。
だが、いまはそれでよかった。
逃げ道を残したままだと、たぶんまた出口まで行って戻ってを繰り返すだけだ。
澪は息を吸い、小袋の口を開いた。
白い布の上へ、小さな金のコインが落ちる。
からん、と控えめな音がした。
その音だけで、教室の空気が少し変わった気がした。
実際には何も変わっていないのかもしれない。
変わったのは、たぶん澪の心拍の方だ。
修さんの目が、ほんの少しだけ細くなった。
大きく驚いたわけではない。
ただ、見る角度が変わった。
教室で生徒の手元を見る目から、金属そのものを見る目に切り替わった感じがした。
「……これは、面白いね」
最初の一言は、それだった。
面白い。
澪はそこで反射的に口を開いていた。
「面白くないです。私の家賃です」
言ってから、心の中で死んだ。
もっと言い方はあっただろうと思う。
少しくらい丸い言い方もできたはずだ。
なのに出たのは家賃だった。
生活感が直球すぎる。
教室の講師に向かって家賃と言った。
だいぶ夢がない。
しかし、それ以上に切実でもある。
修さんは笑わなかった。
そこがありがたかった。
面白がられているのではなく、ちゃんと受け取られたのだと分かるからだ。
修さんは手袋をつけ、金のコインを白い布の上で静かに裏返した。
ルーペを取り出し、刻印を見る。
縁を見る。
重さを量る。
指先の動きは丁寧で、少しも浮ついていない。
澪はその手元を見ていた。
この人に見せてよかった、と少しだけ思う。
「話せることだけ話せばいいよ」
その言葉が、静かに置かれた。
澪は顔を上げる。
「今は、これは金属として見よう」
その一言で、胸の中に詰まっていたものが少しだけほどけた。
それは見逃してもらう言葉ではなかった。
無理に全部を吐かなくていい代わりに、いま扱える形で前へ進める言葉だった。
逃げ道ではない。
足場だ、と澪は思った。
「……お願いします」
ようやく、それだけ言えた。
その短い言葉を口にしたとき、澪はようやく、玄関で撤退したところから一歩先へ来たのだと実感した。
修さんは、白い布の上の金のコインをもう一度指先で返した。
照明の下で、王冠めいた刻印が小さく光る。
「公式な地金や、よく見る外国金貨ではないね」
澪はそこで少しだけ息を詰めた。
「刻印も見慣れない。工芸品か、記念メダルか、古い海外品か」
候補の並びがまともだった。
王都の市場で流通していた貨幣、みたいな項目は当然ながら入っていない。
「たぶん、海外です」
澪はそう言った。
言った瞬間、自分でも弱いと思った。
たぶん、海外。
どちらも便利だが、便利すぎる言葉はだいたい怪しい。
修さんはルーペを少し下ろし、目だけでこちらを見た。
「たぶん」
短い。
短いのに、妙に刺さる。
「かなり海外です」
言い直して、澪は心の中で頭を抱えた。
悪化した。
情報量はほとんど増えていないのに、怪しさだけが育っている。
修さんは、ほんの少しだけ笑った。
「篠原さんは、本当に嘘が得意じゃないね」
「すみません」
「謝らなくていい」
その一言のあとで、修さんは金のコインをまた布の中央へ戻した。
「ただ、これは教室で扱うものじゃない」
澪の肩が少し上がる。
やっぱり駄目か、と思う。
だが修さんは、そこで話を切らなかった。
「正式に見るなら、会社で分析した方がいい」
「会社」
「飯島貴金属精錬株式会社」
修さんは、当たり前のことを言うみたいにそう言った。
澪は少し目を見開いた。
「飯島貴金属って、銀線とか銀板を売ってる……」
「うん」
うん、で済ませるには情報量が多い。
修さんは名刺入れを出し、一枚を差し出した。
澪はそれを両手で受け取った。
白い紙には、きれいな文字でこうあった。
飯島貴金属精錬株式会社
代表取締役
飯島修一郎
澪は名刺を持ったまま固まった。
「……代表取締役」
「うん」
「社長さんだったんですか」
「一応ね」
軽い。
そこ、そんな軽さでいいのかと思う。
教室で銀線の丸め方を見てくれていた人が、いま急に代表取締役という肩書きを持ってこちらを見ている。
情報の段差が大きい。
「私、修さんって呼んでました」
思わずそう言うと、修さんは少しだけ笑った。
「教室ではみんなそう呼ぶから」
それはそうだろう。
だがこちらとしては、社長に向かって修さんと呼び、銀線30センチの相談をしていた過去が急に立体化してきて、だいぶ恥ずかしい。
「銀線を30センチだけ買ったこともあります」
「覚えてるよ」
「忘れてください」
即答だった。
覚えてるのか、と澪は思う。
しかも覚えてるんだ、と思う。
ひどい。
いや、丁寧に注文したのはこちらなのだが、それでもひどい。
「うちは小さい会社だから、変わった相談は私も見る」
修さんがそう言う。
「これは、かなり変わっている」
「ですよね」
そこは素直に認めるしかない。
社長だった。
自分は社長に、銀線30センチの質問メールを送っていたらしい。
しかも覚えられていた。
恥ずかしい。
とても恥ずかしい。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
修さんは社長らしく偉そうにしない。
教室で銀線の曲げ方を見てくれる修さんのままだった。
そこがありがたかった。
「正式に分析するなら、申込書と身分証明書の確認が必要になる。買取ではなく分析だけでも同じ」
そこで急に現代日本が来た。
申込書と身分証明書。
そのへんの単語が並ぶと、異世界のロマンはだいたい一段静かになる。
だが、その静かさが今回は助かった。
手続きがあるなら、道があるということでもある。
「身分証明書は大丈夫です」
そこは即答できた。
修さんは小さくうなずいてから、金のコインへ目を落とした。
「品名は、金属製メダルでいい」
澪はその言葉をゆっくり聞き返した。
「金属製メダル」
「嘘ではない」
たしかに、と思う。
貨幣だと言い切れない。
来歴も説明しきれない。
だが、金属製のコイン状のものではある。
それは嘘ではない。
「嘘ではない言葉、ありがたいです」
思わずそう言うと、修さんは何も言わず、小さくうなずいた。
そのうえで、金のコインを小袋へ戻す。
動きは相変わらず丁寧だった。
価値があるから、というより、金属だから丁寧に扱う感じがして、その区別が澪には少しうれしかった。
澪は小袋を受け取り、ポーチへしまった。
まだ家賃にはなっていない。
銀行口座にもつながっていない。
それでも、ちゃぶ台の前で正座していたときよりは、たしかに一歩進んだ気がした。
少なくとももう、「押入れの向こうです」で会話が止まるわけではない。
金属製メダルです、と言える。
その差は、かなり大きかった。
数日後、澪は御徒町にいた。
駅を出てしばらく歩くと、通りの空気が少し変わる。
金、銀、プラチナ、地金、加工、研磨。
そういう文字が看板に並び、ガラスの向こうには細いチェーンや工具や金属板が見える。
宝石店のきらきらした光というより、金属を金属として扱う人たちの町だった。
澪はこういう通りが、少し好きだった。
堂々と歩けるほど詳しいわけではない。
だが、見ていて落ち着く。
物が、用途のある顔をして並んでいるからだと思う。
飯島貴金属精錬株式会社は、派手な店ではなかった。
小さなビルの一階に受付があり、ガラスケースには銀板や銀線の見本がきれいに並んでいる。
奥からは、かすかな機械音が聞こえた。
宝石店のようにきらきらしていないことが、むしろ澪にはありがたかった。
もしここが、照明で全部を3割増しに輝かせるタイプの店だったら、入口で帰っていたかもしれない。
澪は予約時間より15分早く着いていた。
余裕があるからではない。
むしろ逆だった。
落ち着かないとき、人はだいたい二種類に分かれる。
澪は、無駄に早く着いて現実を先に見に行く方である。
入口の前で3分ほど行ったり来たりしているうちに、自分がだんだん不審者の動きになってきたことに気づき、そこでようやく覚悟を決めて中へ入った。
受付の人は感じのいい女性だった。
感じがいいことと、緊張しないことは別である。
「成分分析の相談で予約した篠原です」
それだけ言うのに、喉が少し乾いた。
いまのところ、「どちらでご購入を?」は来ていない。
その一点だけでだいぶ助かる。
しばらくすると、奥から修さんが出てきた。
教室の作業着ではなく、地味なスーツ姿だった。
眼鏡をかけ、ファイルを持っている。
会社の人の顔だった。
いや、会社の人なのだから当たり前なのだが、やはり少し処理が追いつかない。
「篠原さん、こんにちは」
声は同じだった。
そこが少し救いだった。
「こ、こんにちは」
やはりまだ社長感に慣れない。
「そんなに固くならなくていいよ」
「無理です」
即答しすぎた、と言ってから思う。
だが本音だった。
「正直だね」
「嘘が下手なので」
「それは知ってる」
知っているらしい。
ありがたいような、ありがたくないような評価だった。
修さんは相談スペースへ案内した。
白い作業台の上には柔らかい布が敷かれ、ルーペと小さな秤が置かれている。
照明は明るいが、見せるためというより、きちんと見るための光だった。
澪はバッグから小袋を出し、机の上へ置いた。
ここで手が少し止まる。
教室で見せたときも緊張した。
だが今日は、場所が完全に「会社」だった。
「大丈夫。今日は見るだけだから」
修さんがそう言った。
その言い方が、教室で「一回置く」と言ってくれたときと同じで、澪は少しだけ呼吸を整えられた。
「はい」
小袋を開け、金のコインを一枚出す。
柔らかい布の上へ置くと、いつもの六畳間とも市場裏とも違う顔をした。
ここでは完全に、分析される物だった。
修さんは手袋をつけ、金のコインを布の中央へ寄せた。
「まず、非破壊で見てみよう」
非破壊。
澪はその言葉に、少しだけ安心した。
いい言葉だ、と思う。
壊さないでくれるのは本当に大事である。
修さんは分析機へ金のコインを置いた。
急に標本みたいになった。
少し待つと、モニターに数字が並んだ。
元素記号、比率、金属名、小数点。
澪にはよく分からない。
よく分からないものが並ぶと、人はとりあえず一番分かりそうな人の顔を見る。
澪は修さんを見た。
修さんは画面を見て、少しだけうなずいた。
「金は含まれている。かなり高い」
澪は息を止めた。
「本当ですか」
間の抜けた返しだとは思った。
だが、それ以外に何を言えばいいのか分からない。
「うん。ただ、純金ではない」
そこで澪は一度まばたきをした。
「金、銀、銅。それから微量の金属がいくつか」
修さんは画面を指で示しながら続けた。
澪は数字の意味までは追えない。
だが、純金ではなく、いくつかの金属が混ざった合金だということだけは分かった。
「金のコインなのに、純金じゃないんですね」
「流通させるなら、硬さが必要だからね。純金は柔らかい」
その説明に、澪は小さくうなずいた。
「王国造幣局……」
ぽろっと漏れた。
修さんが顔を上げる。
「王国?」
澪は固まった。
やった、と思う。
いや、やっていない。
むしろやらかした。
「いえ、言葉のあやです」
自分でもかなり苦しいと思う。
修さんは少しだけ間を置いてから、淡々と言った。
「かなり海外の言葉のあやだね」
澪の顔が熱くなった。
その通りだった。
だが修さんは、それ以上は聞かなかった。
「面白い配合だ。現代の一般的な規格とは少し違う」
澪はそこでようやく息をついた。
助かった、と思う。
現代社会のよいところは、踏み込みすぎない大人がいることだ。
悪いところは、そういう大人ほど核心に近いことを静かに見抜くことだが。
「面白いですか」
「素材としては」
素材としては。
澪の内心がすぐに補足した。
家賃としては切実です。
だが、それはもう口にしないでおいた。
画面の数字はまだ難しかった。
けれど、目の前の金のコインが、異世界の市場で受け取った小金貨であると同時に、現代の分析言語で説明される「金を高く含む合金のコイン」でもあるのだと、ようやく分かった。
名前が変わると、扱い方も変わる。
少しだけ寂しい気もした。
でも、家賃になるのは、たぶんこっちの名前だった。
「同じようなものが何枚かあるなら、まとめて精錬分析と買取に回せる」
修さんは、分析結果の紙を机の上で軽く整えながら、そう言った。
何枚か。
その言葉が、妙に大きく聞こえた。
澪は一瞬だけ黙る。
ここで何と答えるのが一番ましなのか、頭の中で会議が始まる。
「……少し」
出てきたのは、それだった。
便利で、あいまいで、だいたい怪しい言葉である。
修さんは案の定、その一語をそのまま返した。
「少し」
やはり拾われる。
「今は少しです」
言い直して、澪は心の中で頭を抱えた。
悪化した。
今は、が付いただけで、未来に増える予定がある人みたいになっている。
修さんは、それ以上は深く追及しなかった。
「なら、まず少量がいい。素材のばらつきも見たいから」
その言い方は、現実的で、落ち着いていて、ありがたかった。
「5枚くらいでも、大丈夫ですか」
言った瞬間、心臓が少し跳ねた。
5枚。
口にすると大きい。
澪にとっては人生最大級の単位である。
だが修さんは、あっさりうなずいた。
「もちろん」
軽い。
ものすごく軽い。
会社基準ではそうなのだろう。
だがこちらは心臓基準で生きている。
修さんの少量と、自分の少量が、まるで同じ顔をしていない。
「申込書は次でいい。持ち込むときに身分証明書も確認する」
その“次”がある感じに、澪は少しだけ息をついた。
「学生証ならあります」
「それで大丈夫」
大丈夫。
その一言だけで、また少し足場ができた気がした。
「じゃあ……次は5枚で」
「無理のない枚数でいいよ」
その言い方が妙に修さんらしくて、澪は少しだけ笑いそうになった。
無理のない枚数。
異世界の金のコインに対して使う言葉として、かなり生活寄りである。
だが、いまの澪にはその生活寄りの言葉の方がありがたかった。
その夜、六畳間で、澪は金のコインを並べていた。
ちゃぶ台の上に、一枚、二枚、三枚、四枚、五枚。
そこまではいい。
問題は、その横にまだ次があることだった。
6枚目へ手を伸ばしかけて、澪は止まった。
ここで持っていけば、たぶん金額は増える。
理屈としてはそうだ。
だが、いま必要なのは最大化ではなく、生存である。
儲けたい気持ちがないわけではない。
かなりある。
だがそれ以上に、破滅したくない。
そちらの方が、ずっと強かった。
澪は6枚目から手を引いた。
「……5枚まで」
小さく言う。
言い聞かせるというより、決定事項として自分へ通達する感じだった。
会議にすると、欲望がたぶん出席してくる。
出席されると、ろくな議題にならない。
澪は5枚だけを小袋へ戻した。
惜しいと思わないわけではない。
だが、惜しいと破滅したくないを比べたら、今日は後者が勝つ。
それでいい、と澪は思った。
襖を開けると、乾いた空気が先に入ってきた。
六畳間の少し湿った気配とは違う、石と布と人の体温が混ざった市場の空気だ。
向こうではいつものように声が飛び、荷車の音が鳴り、どこかで金属の当たる硬い音までしている。
押入れ一枚でつながっているくせに、相変わらず生活の密度が違いすぎた。
澪はエコバッグを持ち直し、石畳へ足を下ろした。
市場裏の壁際には、リュシアがいた。
赤茶色の布を頭へ巻き、腕を組んで、いかにも「待っていた」と言わんばかりの顔をしている。
「やっと来たかい」
開口一番、それだった。
おかえり、でもなく、無事だったかい、でもない。
商人として筋が通りすぎていて、逆に安心する。
「すみません、ちょっと現代側で色々あって」
そう答えると、リュシアの眉がほんの少し動いた。
「ゲンダイ?」
聞き返し方は軽かったが、耳にはちゃんと引っかかったらしい。
また説明の要る言葉を置いたな、と澪は思う。
「あー……ええと、私のいた方のことです」
苦しい説明だった。
「ゲンダイって、あんたの国かい」
そこで澪は一拍だけ迷った。
国、でいいのか。
よくはない気もする。
だが、ここで細かく分け始めると自分が先に倒れる。
「……まあ、そんな感じです」
かなり雑に着地した。
だが、リュシアはそれ以上細かくは聞かなかった。
「じゃあ、ゲンダイ側で色々あったんだね」
あっさり言って、澪のバッグへ目をやる。
定着した。
早い。
さっきまで説明に詰まっていた単語が、もう相手の口の中で普通名詞みたいに働いている。
こういうところが商人なのだろう。
「顔は少しましだね」
澪はそこで一瞬、昼間の修さんの言葉を思い出した。
今日は手が急いでる。
銀線より先に顔が曲がってる。
そして今は、少しましだね、である。
人は一日に2回、顔の出来について採点されることがあるらしい。
できれば知らずに生きていたかった事実だった。
「前よりは、たぶん」
「たぶん、ね」
やはり拾うのか、と思う。
修さんも拾ったし、リュシアも拾った。
どうやら自分の語尾のあやふやさは、見る人が見ればかなり分かりやすいらしい。
「で、次は何を持ってきたんだい」
早い。
だが、たぶんこれがリュシアの正しい速度だ。
近況報告で温まってから本題へ行くタイプではない。
顔色を見て、死にそうではなければすぐ商売の話へ戻る。
澪はエコバッグを少し持ち上げた。
「鏡と、針と、爪切りです。あと、少しだけ髪留めと糸切りばさみも」
「悪くない」
褒められたのか採点されたのかは微妙だったが、微妙でも前進は前進だった。
「鏡は髪結いが欲しがってる。針は仕立て屋がもう一回見たいって言ってた。虫眼鏡は薬草屋にも話が行ってる」
そこまで一息で言ってから、リュシアは口元を少しだけ上げた。
「いいものは早いの」
澪は、その言い切り方に少しだけ見とれた。
リュシアはエコバッグをあごで示した。
「見せておくれ」
澪はエコバッグを開けた。
鏡を取り出し、その隣へ針を置く。
続けて爪切り、糸切りばさみ、髪留めを順に布の上へ並べていくと、そこはたちまち百円ショップの売り場を無理やり石畳へ移植したような顔になった。
自分で持ってきたものなのに、並べ終えた途端、少したじろぐ。
六畳間では生活雑貨だったものが、市場の空気の中へ出ると急に「商品です」という顔をし始めるのだから不思議だった。
リュシアの視線が、その上を小さく滑っていく。
触る前に見て、見てから手を出す。
その順番に無駄がないあたりが、いかにも商人らしい。
「今日はちゃんと数も揃ってるね」
言われて、澪は少しだけ胸を張りかけて、すぐやめた。
「ええと、前よりは」
「前よりは、で十分さ」
そう言って、リュシアは鏡を光へかざした。
「いい。これも回る」
次に針を見る。
「こっちは仕立て屋に先に見せる」
さらに爪切りへ移る。
「これは、あの髭に見つかる前にこっちで押さえた方が早いね」
髭の人、そんな扱いなんですね、と澪は思う。
だが、リュシアの言い分はもっともでもある。
「売れる客ほど先に押さえるもんだろう」
完全に商人の言い分だった。
リュシアは髪留めを指先でつまみ、少しだけ目を細めた。
「これは娘たちが欲しがるね。安く回しすぎると一気になくなる」
「じゃあ、高めですか」
聞くと、リュシアは澪を見た。
「高め、じゃ雑だね」
軽く刺さる。
その通りだった。
「欲しがる相手と、持ってる金と、なくなったあとの惜しさを見るんだよ。すぐなくなる物は安いと損だ。でも高すぎると広がらない。そこを見ないと」
澪はその言葉を頭の中で繰り返した。
なるほど、と思う。
なるほど、と思うが、その場でできる気はしない。
ここは完全にリュシアの領分だ。
「まあ、あんたは持ってくる方をきっちりやりな」
軽い言い方だった。
だが、その軽さに少し救われる。
全部を一度にできなくてもいい。
「売る方は、私が見る」
その一言は、頼もしいというより、すでに決まっている分担を確認する声だった。
「お願いします」
「うん。任せときな」
石畳の路地の向こうでは、人の声が流れ、荷車の音が遠くで鳴っている。
六畳間では、レシートをなくさないことが武器だった。
石畳では、リュシアの値付けが武器になる。
世界が違うと、頼る道具も違う。
だがその違いが、前より少しだけ怖くなかった。
数日後、飯島貴金属から連絡が来た。
澪はスマホの画面を見て、そのまましばらく動けなかった。
表示されているのは、532,560円という数字だった。
家賃が払える。
電気代も払える。
スマホ代も、食費も、少なくとも当面は「どうしよう」と天井を見上げなくて済む額だった。
数字としてはただそれだけなのに、六畳間の空気が少しだけ変わった気がした。
異世界の市場で受け取った小金貨が、修さんの会社を通って、こんな形で戻ってくるのかと思う。
王冠みたいな刻印も、竜みたいな模様も、銀行アプリの画面には一切出てこない。
出てくるのは無機質な数字だけだ。
けれど、その無機質な数字は、いまの澪にとって金貨そのものよりずっと強かった。
承諾の返信を送り終えたあと、澪は意味もなく部屋の中を見回した。
冷蔵庫は相変わらず低く唸っているし、畳は少し毛羽立っているし、ギターは壁に立てかけたままだ。
六畳間は六畳間のままで、急に広くなったり、家具が増えたり、何かがきらきらし始めたりはしない。
変わったのは、これから口座へ入る数字だけだった。
その翌日、澪は銀行アプリを開いた。
残高が増えていた。
澪は一度、画面を閉じた。
もう一度開くと、やはり増えている。
念のため更新してみても、まだ増えている。
そこでようやく、自分がかなりしつこいことをしていると気づいた。
だが、しつこくもなる。
人は、信じがたい現実を前にすると、確認の作法が急に原始的になるらしい。
最新のスマホアプリを使っているのに、やっていることは「閉じる」「開く」「もう一回見る」だけである。
だいぶ人類の初期に寄っていた。
「入ってる……」
小さくつぶやくと、その声がやけに静かな部屋に落ちた。
押入れの向こうで売れた商品が、小金貨になり、その小金貨が修さんの会社を通って、日本円として口座に届く。
押入れと銀行口座が、ほんの少しつながったのだと、そのとき初めて実感した。
異世界と現代がつながる、という言い方は何となく大きすぎる気もする。
けれど少なくとも、澪の生活にとっては十分すぎるほど大きかった。
勢いのまま、澪は立ち上がった。
財布を持ち、スマホを持ち、スニーカーを履く。
今度は玄関で止まらない。
ちゃんと外へ出て、階段を下り、近所のコンビニへ向かった。
夜の空気は少しぬるく、街灯の下には自転車が何台か並んでいる。
自動ドアが開くと、あの均一な冷気と明るさが顔に当たった。
澪はまっすぐスイーツ棚へ行った。
こういうとき、目的がはっきりしている買い物は少しだけ気持ちがいい。
棚の中には、いつもの安いプリンと、少し高いプリンと、一番高いプリンが並んでいた。
澪はそこで3秒ほど止まった。
一番高いプリンも気にならないわけではない。
むしろかなり気になる。
だが、ここでいきなり一番高いところへ手を伸ばすのは違う気がした。
急にお金が入った人間が、勢いのまま一番高いプリンへ行くと、何か大事な線を越える感じがする。
その線の正体は分からない。
分からないが、たぶんある。
そういう生活の線は、だいたい正体が分からないまま踏み抜くと後でまずい。
結局、澪は少し高いプリンを取った。
そこが、今日の自分の正しい勝ち方だと思った。
急に王になるわけではないし、急に浪費家になるわけでもない。
けれど、昨日までならたぶん選ばなかったものを、今日は選べる。
それで十分だった。
レジへ持っていき、今度はもちろん金のコインなど出さず、普通に現代日本の支払いをした。
その「普通に払える」ということが、今日は少しだけ誇らしかった。
昨日まではただの残高だったものが、今日は自分の選択肢になっている。
その違いは、思っていたよりずっと大きい。
部屋へ戻り、ちゃぶ台の前へ座る。
プリンの蓋を開け、スプーンを入れると、表面がやわらかく沈んだ。
ひと口食べると、ちゃんと甘かった。
当たり前なのに、その当たり前が今日は妙によかった。
コンビニの少し高いプリンの味だ。
だが、その「少し」が、今日の澪にはちょうどよかった。
口の中に残る甘さは、贅沢というより、前進の味に近かった。
生活が、ちょっとだけ前へ動いた気がした。
プリンを半分ほど食べたところで、澪はスプーンを止めた。
甘い。
ちゃんと甘い。
少し高いプリンは、少し高いだけあって、口へ入れたあとに「いつものより上です」ときちんと主張してくる味がした。
上って何だ、と聞かれると困る。
困るが、いまの澪の語彙ではそれが限界だった。
ここまでなら、かなりよかったのである。
押入れの向こうの小金貨が、修さんの会社を通って、ちゃんと銀行口座の数字になった。
残高が増えて、それを見て、少し高いプリンまで買えた。
物語というものには、そろそろ一回いい感じに場面を閉じてほしいタイミングというのがあるが、いまはまさにそこだった。
だが、現代日本はそういうところであまり手加減をしない。
甘いのはいま口の中のプリンだけで、制度の方は容赦がなかった。
澪はスプーンをカップの縁へ置き、スマホを取った。
かなり嫌な予感がしたからである。
銀行口座へ数字が届いた以上、この先に何もないはずがない。
検索欄を開き、少しだけ迷ってから打ち込む。
金地金 税金
打った瞬間、空気が急に現代日本になった気がした。
検索結果には、譲渡所得だの取得費だの確定申告だの、見ただけで肩がこる単語ばかりが並んでいた。
せっかく口の中は甘いのに、目から入ってくる語彙だけがひたすら役所である。
勝利の余韻へ流し込む種類の言葉ではない。
「急に日本だな……」
澪は小さくつぶやいた。
つぶやいてから、自分でも少し変な顔になる。
最初から日本だ。
だが、税務関係の単語が並ぶときだけ、日本は急に本気を出してくる感じがする。
澪は検索結果を開いた。
読む。
よく分からない。
もう一度読む。
少しだけ分かる。
そして、分かった部分から順番に嫌になる。
つまり、入金して終わりではないらしい。
終わらないのか、と思う。
いや、終わるわけがないのだろう。
お金が動いたのだ。
現代日本でお金が動いて、何の記録も責任も説明も要りません、などという世界だったら、もっとみんな晴れやかな顔で生きている。
そうではないから、たぶんこのへんの単語が存在している。
澪はスマホの画面を見つめながら、プリンをもう一口食べた。
甘い。
だが、さっきまでの純粋な甘さではなかった。
口の中はプリンなのに、頭の中では取得費がうろうろしている。
譲渡所得もいる。
確定申告まで来ている。
せっかくのデザートタイムに、だいぶ図々しい客である。
しかも全員、帰る気配がない。
「勝利のあとに来る現実、早くない?」
誰に言うでもなく聞いてみる。
返事はない。
冷蔵庫が低く唸るだけだった。
だが、その通りなのだろう。
異世界の市場で売れた。
換金できた。
口座が増えた。
少し高いプリンを買えた。
そこまでは、かなりよかった。
よかったのに、その直後から、記録はあるか、説明はできるか、取得費はどうするか、という現代社会の列がきっちり並び始める。
容赦がない。
実に容赦がない。
澪は、ちゃぶ台の上に置いていたレシートへ目をやった。
少し高いプリンのレシートである。
白くて細くて、いかにも後でどこかへ紛れそうな顔をしている。
だが、いまは妙に重要そうに見えた。
「これは経費じゃない」
澪は、わりと真剣に言った。
そこは大事だった。
勝利まで経費にしてはいけない気がする。
うれしいことがあったとき、その記念まで帳簿へ押し込め始めると、人は少しずつ変になる。
少なくとも、このプリンは勝利の記念品だ。
そこは譲れなかった。
澪はレシートを指先でつまみ、ちゃぶ台の少し端へ避けた。
経費っぽい紙の群れから、そっと離す。
その動作が妙に慎重になったのは、自分でも少しおかしかった。
だが、いまの澪にはそれくらい大事だったのだ。
スマホへ視線を戻す。
また嫌な単語が並んでいる。
何度見ても、うれしくはならない。
だが、うれしくないからといって消える話でもない。
そこでようやく、澪はひとつはっきり理解した。
入金して終わりではない。
終わりではなく、ここから先に記録がある。
証明がある。
申告がある。
つまり、自分がやっていることは、もうただの「異世界でちょっと売れた」では済まないところへ来ているのだ。
それは少し怖かった。
でも同時に、少しだけ本物だった。
異世界の市場で売って、現代で換金して、さらにその先に税金までついてくる。
そこまで一続きになって初めて、押入れの向こうの出来事が生活の中へ本気で入ってきたのだと分かる。
現代日本で商いをするなら、売っただけでは終われない。
ちゃんと記録しないといけない。
その事実だけが、甘い口の中に、少しずつ現実の形で残っていった。
夜の六畳間で、澪はちゃぶ台の前に座っていた。
少し高いプリンの甘さは、もう口の中からだいぶ消えている。
ちゃぶ台の上には、百円ショップのレシートと、飯島貴金属の明細と、入金額を書き写したメモが並んでいた。
どれも薄い紙なのに、こうして並べると妙に重たい。
異世界の市場で起きたことが、最後にはこういう紙の束になって自分の部屋へ戻ってくるのかと思うと、不思議というよりかなり現代的だった。
澪はまず、プリンのレシートをつまんだ。
そのまま他の紙の横へ置きかけて、手を止める。
「これは違う」
小さく言って、少し高いプリンのレシートだけをちゃぶ台の端へ避けた。
経費ではない。
勝利の記念品である。
そこは譲れなかった。
うれしかったことまで帳簿へ押し込み始めると、人はたぶん少しずつ変になる。
少なくとも澪はそう思った。
税務署がそこまで求めているとも思いたくない。
そう信じたい、という方が正確かもしれないが、とにかくこのプリンは記念品だった。
澪は端へ避けたレシートを見て、小さくうなずいた。
よし、これでいい。
ほかの紙はそうはいかない。
百円ショップのレシートは完全に仕入れだし、飯島貴金属の明細はどう見ても現代社会の本丸だった。
入金メモにいたっては、自分で書いたくせに少し怖い。
532,560円という数字は、昼間に見たときより落ち着いて見えるのに、その落ち着き方が逆に手ごわかった。
興奮が引いたあとに残る数字は、たいてい本気で生活へ入ってくる。
澪は新しいノートを出した。
まだ何も書かれていない表紙は、妙に無防備だった。
こういう白紙を見ると、人は急に名前をつけたくなる。
だが同時に、変な名前をつけた瞬間に取り返しがつかなくなる気もする。
とくに今日は危ない。
異世界だの金貨だの銀行口座だのが一通りつながったあとで、気分だけが少し浮いている。
こういうときに格好をつけると、たぶんろくなことにならない。
澪はボールペンを持ったまま考えた。
商会帳簿。
まじめすぎる。
異世界取引記録。
危ない。
異世界商業台帳。
調子に乗っている。
王都販路管理ノート。
最悪だった。
どれも、あとで自分が見返して恥ずかしくなる未来しか見えない。
こういう名前をつけると、人は中身より先に雰囲気へ酔う。
そのあとに待っているのは、だいたいレシートの束である。
澪はそのへんに関してだけは妙に慎重だった。
結局、表紙にはこう書いた。
押入商会 帳簿
書いてから、3秒ほど眺める。
「……ださいな」
思わず本音が出た。
かなりださい。
しかし、嫌ではなかった。
これくらいのだささの方が、自分には合っている気がする。
格好いい名前にすると、その瞬間に中身の薄さがばれる。
押入れから出入りしているのだから、押入商会でいい。
帳簿まで付け始めたのだから、帳簿でいい。
夢はないが、夢がなくても家賃は払える。
そこは大事だった。
澪はノートを開いた。
最初のページに、項目を書いていく。
仕入れ品、仕入れ額、売上、受取硬貨、精錬枚数、入金額、備考。
並べてみると、急にちゃんとしたものに見えた。
見えるだけで、中身はまだかなり危うい。
それでも、形があるだけで少し安心する。
人は項目を作るだけで安心し、そのあとで自分が埋める側だと気づいて青くなる。
たぶん、そういう生き物だった。
澪は百円ショップのレシートを見ながら、仕入れ品を書いた。
鏡、針、爪切り、糸切りばさみ、髪留め、虫眼鏡。
そこまではよかった。
問題は、その先だった。
売上先の欄で、ペン先が止まる。
リュシアと書くのか。
異世界市場と書くのか。
市場裏と書くのか。
住所不明まで行くと、もう敗北宣言ではないのか。
どれを選んでも、未来の自分か税務署のどちらかに怒られそうだった。
両方に怒られる可能性もある。
現代日本は、書き方ひとつで人を冷や汗まみれにしてくるから本当に油断ならない。
「未来の私が何とかする」
澪は小さく言った。
だいぶ丸投げだった。
だが、今日の自分はもうかなりやっている。
異世界の金貨を現代で換金し、銀行口座の数字を確認し、少し高いプリンを食べ、税金まで検索したのだ。
これ以上、今この場で未来の自分の仕事まで奪う必要はない。
むしろ未来の自分にも働いてもらいたい。
それが分業である。
たぶん違う。
だが、今日はそれでよかった。
澪は入金額の欄に、532,560円と書いた。
改めて数字にすると大きい。
大きいが、無限ではない。
家賃が払える。
生活が少し前へ進む。
その代わり、税金と記録がついてくる。
そういう種類の数字だった。
一通り書き終えたあと、澪はちゃぶ台の上を見渡した。
百円ショップのレシートも、飯島貴金属の明細も、入金メモも、新しい帳簿も、端へ避けられたプリンのレシートも、全部がこの六畳間の上に乗っている。
妙な卓上だった。
異世界も現代も、生活も制度も、だいたい全部このちゃぶ台へ集まっている。
勇者の旅立ちの机としては、だいぶ地味である。
だが、澪にとってはこれでよかった。
剣も杖もないかわりに、ここには金額と記録と証拠がある。
夢は薄いが、現代日本で生きるにはたぶんそっちの方が強い。
澪は帳簿を閉じた。
向こうから、市場のざわめきがかすかに聞こえる。
鐘の音も、荷車の音も、遠くの呼び声も、襖一枚向こうでは今日も普通に続いている。
六畳間の静けさと、石畳の向こうの暮らしが、相変わらず一枚の襖でつながっていた。
澪は立ち上がり、襖の前へ行った。
手をかける前に、小さく息を吐く。
税金は払う。
記録は残す。
修さんにも迷惑をかけない。
そこまでは決めた。
異世界で売れた、で終わるのではない。
換金できた、で終わるのでもない。
帳簿をつけて、記録して、その先まで引き受ける。
そこまで含めて、商いなのだと思う。
そう考えてから、澪は少しだけ笑った。
勇者の剣ではない。
魔法の杖でもない。
押入商会の次の武器は、たぶん今日も、レシートをなくさないことだった。