押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第30話 侯爵家公認ですか

 

 リュシアの屋台裏で帳面を見ていた澪は、市場の人混みの向こうから近づいてくる赤毛に気づいて顔を上げた。少年服の帽子をかぶったエレナが、護衛を従えて歩いてくる。帽子の下へ押し込めた髪が、こめかみのあたりから少しこぼれていた。今日は護衛だけではない。隣に、落ち着いた色のドレスを着た若い貴婦人がいる。市場の土埃を避けるように裾を少し持ち上げているが、その視線は屋台や荷車や人の動きをきちんと見ていた。見慣れない場所に怯えているのではなく、何がどこにあり、誰が何を運び、どの品が売れているのかを確かめている目だった。

 

「澪、来た」

 

「エレナ様、お久しぶりです」

 

 

 エレナは少しだけ胸を張った。その胸元で、夕焼け色のグラデーションストーンが揺れていた。銀に抱えられた小さなしずくが、市場の日差しを受けて、黄色から桃色、紫へ沈む。使ってくれている。澪は、それだけで少し嬉しくなった。正金貨の重さや帳面の数字とは別のところで、自分の手元から出たものが、ちゃんと誰かの首元にあることが嬉しかった。

 

 隣の貴婦人が、澪へ向かって穏やかに頭を下げた。

 

「改めまして、セレスティナ・ヴァルディスです。エレナの義姉にあたります」

 

「篠原澪です。いつもエレナ様には……ええと、お世話に」

 

「こちらこそ、妹がいつも市場でお騒がせしております」

 

「私は騒がせていない」

 

 エレナがすぐ抗議した。リュシアが帳面を閉じながら笑う。

 

「姫様、それは市場の人に聞いてから言う台詞ですね」

 

 セレスティナは柔らかく笑ったが、そのままリュシアにも視線を向けた。

 

「リュシアさんですね」

 

「はい。先日はありがとうございました。」

 

 リュシアの笑顔が、少しだけ薄くなった。澪にも分かった。これは、エレナがただ欲しいものを買いに来た時の空気ではない。リュシアも、たぶん同じことを思った顔をしていた。

 

 

 

 

 

 屋台裏の奥に簡単な席を作ると、セレスティナは腰を下ろした。姿勢は柔らかいのに、座った瞬間に場の中心が少し移る。エレナが荷台に腰かけようとして、護衛に椅子へ案内され、少し不満そうな顔をした。

 

 澪は水を出そうとして、いつもの手つきでペットボトルを取りかけ、慌てて止めた。相手は侯爵家の若奥様である。屋台裏の再利用ペットボトルをそのまま出す勇気は、まだ澪にはなかった。リュシアが陶器の杯を用意してくれたので、澪はそれに水を注ぎ、胸の中で少しだけ息を吐いた。

 

 セレスティナは、陶器の杯を自然に受け取った。

 

「このグラデーションストーンの首飾りですが、貴族の間でたいへん評判になっております」

 

 澪は、その一言だけで喉が渇いた。

 

「貴族の間」

 

 繰り返した声が、自分でも少し乾いていた。

 

 エレナは胸元の首飾りを指で軽く押さえた。

 

「見せびらかしてはいない。聞かれたから見せただけだ」

 

「それを普通は見せびらかすと言います」

 

 リュシアが即座に返す。エレナは少し口を尖らせた。

 

「聞かれたからだ」

 

「聞かれるように胸を張って歩いたんだろうね」

 

「姿勢が良いのは悪いことではない」

 

 セレスティナは妹の言い訳を聞き流し、澪へ向き直った。

 

「近しい家の奥方や令嬢から、どこで求められるのか、次はあるのか、誰が扱っているのかと尋ねられております。ただ、市場で普通に売るのはおすすめしません」

 

「普通に、ですか」

 

「はい。誰が先に手に入れるか。誰がどの色を持つか。侯爵家が認めた品なのかどうか。そういうことも、貴族は首にかける前に見ます」

 

 澪は、首飾りというものは首にかける前から大変なのだと知った。リュシアは黙って聞いていたが、目だけが少し細くなっていた。

 

「つまり、侯爵家が販売先を選び、品の価値を守る、ということですね」

 

「その通りです」

 

「もっと市場の言葉にすると、売るなら侯爵家を通せ、侯爵家が高く売ってやる、ですね」

 

 澪は息を止めた。セレスティナは怒らなかった。むしろ、微笑んだ。

 

「握る、という言い方は少し強いですね。整える、と申し上げましょう」

 

「整える」

 

 澪は小さく繰り返した。柔らかい。言い方はとても柔らかい。けれど、言っていることはかなり強い。侯爵家の信用を乗せる代わりに、売り先も、値段も、品の出し方も、侯爵家が見る。勝手に安く売るな。勝手に広げるな。変なものを混ぜるな。澪の背中が、少しだけ硬くなった。

 

 リュシアは落ち着いていた。

 

「悪い話ではありません。市場に並べて騒がれるより、侯爵家が買い手を選んだ方が値が守れます」

 

 セレスティナは頷いた。

 

「ええ。ですので、販売価格も整えます」

 

 澪は嫌な予感がした。

 

「販売価格は、正金貨3枚で」

 

 澪の手が膝の上で止まった。

 

「3枚、ですか」

 

「はい。正金貨1枚は、あくまで最初の見極めに近い価格でした。侯爵家の紋章を入れ、販売先を選び、貴族向けの社交品として扱うなら、正金貨3枚が妥当でしょう」

 

 澪はリュシアを見た。リュシアは驚いていなかった。

 

「侯爵家が看板を出すなら、その値になりますね」

 

「リュシアさん」

 

「何だい」

 

「置いていかないでください」

 

「澪が遅いんだよ」

 

 セレスティナはそのやり取りに少しだけ笑った。

 

「もちろん、職人への扱いも変えます。基本の手間賃はこれまで通りで構いませんが、侯爵家から別に賞与を出します」

 

 澪は少しほっとした。正金貨3枚で売るのに、職人さんへの支払いがそのままでは、どこか落ち着かないと思っていた。

 

「品質を守る職人には、次も同じ目で仕事をしてもらわなければなりません。安く使うつもりはありません」

 

「職人の顔が立つなら、続けやすいです」

 

 リュシアが頷いた。澪は、胸の中で数字ではないものが増えていくのを感じた。高く売る。職人にも回す。侯爵家も利益を取る。リュシアも動く。自分は材料を揃える。ひとつの首飾りだったものが、急に何人もの手に乗ってしまった。

 

 

 

 

 

「それから、職人は先日の方を使ってください。むしろ、他の銀職人へは出さないでください」

 

 セレスティナの声は穏やかだった。

 

 澪は思わず聞き返した。

 

「独占、ということですか」

 

「品質管理です」

 

 また柔らかい言葉だった。リュシアが小さく言う。

 

「上手い言い方だね」

 

 セレスティナは微笑んだ。

 

「グラデーションストーンは熱に弱く、先端も欠けやすいと伺っています。先日の職人は、その扱いをもう知っている。銀材の癖も、澪さんの国の接合材も、首飾り箱も、一度見ています」

 

「他の職人さんに出すと、危ないですか」

 

「腕の問題だけではありません。別の職人が似せて作り、粗い細工で安く出せば、その品だけでなく本物の値も落ちます」

 

 リュシアが頷いた。

 

「模倣品を先に潰すわけですね」

 

「潰す、とは申しません。出させないのです」

 

 澪は、上品な言い方の方が怖いことを学んだ。

 

 エレナは、自分の胸元の首飾りを見下ろしていた。

 

「私のものと、まがい物が並ぶのは嫌だ」

 

「姫様、それが一番正直ですね」

 

 リュシアが言うと、エレナは当然だという顔をした。

 

「私が見つけたのだから」

 

「はいはい」

 

「流された」

 

「流してないよ。少しだけ横へ置いたんだよ」

 

 澪は少し笑いかけたが、次のセレスティナの言葉でまた固まった。

 

「侯爵家公認として出すなら、箱に紋章を入れましょう」

 

「箱に、ですか」

 

 澪の頭に、いくつかの方法が浮かんだ。焼印、箔押し、彫り込み、金属プレート。どれも初期ロットには重い。高い。失敗したら箱が終わる。

 

「まずは、貼る形ならできるかもしれません」

 

「貼る?」

 

「あたしの国には、同じ絵を小さく印刷して、裏に糊をつけたものがあります。箱に貼れます」

 

 セレスティナの目が、少しだけ動いた。

 

「紋章を、同じ形でいくつも?」

 

「できます」

 

 言ってから、澪はまた言ってしまったと思った。リュシアが横で、ああ、という顔をした。

 

「澪、また言ったね」

 

「できるものは、できるので……」

 

「その言い方をすると、だいたい荷物が増えるよ」

 

 

 

 

 

 侯爵家の紋章を撮る作業は、澪が思ったより難しかった。

 

 セレスティナが用意してくれたのは、銀の飾り板だった。侯爵家の紋章が細かく彫られている。澪はスマホを取り出し、なるべく正面から撮ろうとした。

 

 だが、銀が光る。少し斜めにすると歪む。正面から向けると、スマホと澪の指が映り込む。

 

「また、薄い板だ」

 

 エレナが隣から覗き込む。

 

「これは見てはいけない板です」

 

「なぜだ」

 

「いろいろ写るからです」

 

「写る?」

 

「はい。今、エレナ様の鼻先が入りそうです」

 

 エレナは素直に一歩下がった。リュシアが横で笑う。

 

「澪の国の道具は、説明すると余計に怪しくなるね」

 

「自分でもそう思います」

 

 澪は角度を変え、布で余計な反射を避け、何枚も撮った。セレスティナはその様子を黙って見ている。驚いているが、騒がない。どう使われるかを考えている顔だった。

 

「この板で、紋章を同じ形に揃えるのですね」

 

「はい。まずは、見やすく整えます」

 

「見やすく、とは」

 

「小さくすると細かい線が潰れるので、少し整理します」

 

 エレナが眉を寄せた。

 

「侯爵家の紋章を、減らすのか」

 

「減らすというより、小さくしても見えるようにします」

 

「難しい」

 

「はい。侯爵家の威厳も、小さい箱の上では少し工夫がいります」

 

 セレスティナが、そこで初めて小さく笑った。

 

「威厳が箱に負けるのは困りますね」

 

「負けないように頑張ります」

 

 

 

 

 

 六畳間に戻った澪は、机の上に一号機を置いた。

 

 夕焼け色のしずくが、部屋の蛍光灯の下で静かに光っている。

 

 前は、かわいいから買った。今は違う。

 

 スマホで以前買った店を開き、澪は商品一覧を見つめた。グラデーションストーン。しずく型。夕焼け色。青紫。淡い緑。薄桃色。どれも似ている。けれど、よく見ると違う。穴の有無が違う。サイズが違う。先端の形が違う。色の入り方も違う。レビューも見る。写真も拡大する。届いた時に欠けがないとは限らない。色が薄すぎるものは侯爵家公認品には使えない。予備も必要だ。

 

「買い物が、仕入れになってる……」

 

 澪は自分で言って、少しだけ背筋が寒くなった。カートに入れる数が、前より明らかに多い。趣味の材料を買う手つきではない。失敗分、予備分、色の偏りを考えながら、同じ店の商品をいくつも見比べている。

 

「これはもう、かわいいから買う量じゃないですね……」

 

 次は箱だった。

 

 検索すると、安い箱はいくらでも出てくる。だが、画面の写真だけで分かる。薄い。軽い。蓋の角がすぐ潰れそうだ。正金貨3枚の首飾りを入れるには、明らかに負けている。

 

 蓋に紋章シールを貼れる平らな面があること。中にネックレスを固定できる切れ込みがあること。中敷きが安く見えないこと。輸送で潰れにくいこと。色は紋章が見えるもの。大きすぎず、小さすぎず、手に取った時に軽すぎないもの。

 

 条件を増やすたび、値段も増える。

 

「箱まで、品質維持……」

 

 澪は額を押さえた。

 

 修さんの言葉を思い出す。

 

 綺麗なものは、綺麗に渡すところまで含めて値段になる。

 

 本当に、その通りだった。

 

 それから澪は、撮った紋章画像を開いた。ChatGPT先生へ相談する。

 

「侯爵家の紋章写真を、小さなシール印刷用に整えたいです。細かすぎる線を減らし、白黒でも潰れにくく、箱の蓋に貼って見栄えする構成にしてください」

 

 返ってきた案を見て、澪はしばらく画面を見つめた。細かい飾りを全部残すと、小さいシールでは潰れる。簡略化しすぎると、侯爵家の紋章ではなくなる。威厳と印刷サイズが、画面の中で戦っていた。

 

「侯爵家の威厳も、3センチのシールには苦戦するんですね……」

 

 誰に言うでもなく呟き、澪はシール印刷サービスの注文画面を開いた。

 

 サイズ、枚数、紙質、光沢、マット、耐水、角丸、カット線。箱の蓋の寸法を測り、中央に貼った時の余白を計算する。大きすぎると品がない。小さすぎると見えない。

 

 注文を終えた時には、グラデーションストーンを選んだ時より疲れていた。

 

 数日後、届いた封筒を開けると、小さな侯爵家の紋章が整然と並んでいた。どれも同じ大きさで、同じ濃さで、同じ形をしている。

 

 澪はその均一さを見て、逆に少し怖くなった。

 

「これは……向こうに持っていったら、また誰かを殴るやつですね」

 

 

 

 

 

 修さんは、澪が差し出したメモを見て、しばらく黙った。

 

 銀板、覆輪線、銀ろう、バチカン用銀材、SV925の細いチェーン、磨き布、紙やすり、予備材、ネックレス箱。前より明らかに多い。

 

「澪ちゃん」

 

「はい」

 

「これは、教室の課題の量じゃないね」

 

 澪は視線を少し横へ逃がした。

 

「知人経由の小ロット外注が、少し広がりまして」

 

「少し」

 

「少し、です」

 

 修さんはメモをもう一度見た。

 

「この数で、少し」

 

「……あたしの感覚では、少しだったんです」

 

「感覚は、たまに帳面に負けるよ」

 

 痛いところを突かれて、澪は黙った。修さんは覆輪線の欄を指で叩いた。

 

「前と同じ幅、同じ厚みでいい?」

 

「はい。同じものがいいです」

 

「相手の職人さん、使いやすかったんだね」

 

「かなり、そうみたいです」

 

「一度これを使うと、手で銀を延ばすところから戻るのは嫌だろうね」

 

 澪は、銀細工師が覆輪線をつまみ上げ、「これは使いやすい。腹が立つほどに」と言った顔を思い出した。

 

「たぶん、もう戻れません」

 

「それなら、なおさら記録を残そう。幅、厚み、銀の種類、チェーンの長さ、箱の寸法。毎回同じにしたいなら、注文内容も毎回同じにしないといけない」

 

 修さんは新しい紙を出した。

 

「商売にするなら、材料メモじゃなくて発注書だよ」

 

「発注書……」

 

「あと、予備材と失敗分は最初から入れておく。ぴったりだけ買うと、ひとつ欠けた時に全部止まる」

 

 澪はメモの余白に、発注書、予備材、失敗分、箱の予備、チェーンの予備と書き足した。

 

「それから、箱代を忘れない。箱は中身より目立たないけど、安っぽい箱に入れると中身も安く見える」

 

「それ、リュシアさんにも言われました」

 

「いい商人さんだね」

 

「怖い商人さんです」

 

「だいたい、いい商人さんは少し怖いよ」

 

 澪は否定できなかった。

 

 材料の話が一段落したところで、澪はもうひとつ切り出した。

 

「それと、修さん」

 

「うん」

 

「ペットボトルも、またもらっていきます」

 

 修さんは、銀材と箱とチェーンの発注メモを見下ろしたまま、少しだけ黙った。

 

「銀細工の材料を大量に頼みに来て、ついでに空のペットボトルも持っていく人は、なかなか珍しいよ」

 

「用途が別なので」

 

「別なんだ」

 

「別です」

 

 修さんは少し笑い、空のペットボトルを置いている場所を指した。

 

「洗って乾かしてある分なら、持っていっていいよ」

 

「ありがとうございます」

 

「それで、もうひとつ何かありそうな顔をしてる」

 

 澪は、少しだけ肩をすくめた。

 

「細かい作業を見る時のルーペって、前に見せてもらったじゃないですか」

 

「ああ、跳ね上げのやつ?」

 

「あれ、ひとつ買いたいです」

 

「自分用?」

 

「職人さんへの贈り物です」

 

 修さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。

 

「石留めや覆輪の確認には役に立つよ。ただ、見えすぎるから、逃げられなくなる」

 

「見えすぎるから、逃げられない」

 

 澪はまたメモした。

 

 今日の修さんの教室は、彫金教室というより、商売の補習になっていた。

 

 

 

 

 

 銀細工師は、澪が持ち込んだ覆輪線を見るなり、眉を動かした。

 

「また同じ幅の帯か」

 

「はい。同じものです」

 

「同じものを、また揃えたのか」

 

「品質維持のためです」

 

 銀細工師は黙った。

 

 その沈黙は、最初に材料を見た時ほど怖くはなかった。少し満足しているようにも見える。ただ、表情には出しすぎない人なのだと、澪はもう分かってきていた。

 

 グラデーションストーン、銀材、チェーン、箱、紋章シール。

 

 そして、小さな箱を別に差し出す。

 

「これは、修さん……あたしの先生に教わった道具です」

 

「何だ、これは」

 

「細かいところを見るためのルーペです。必要な時だけ目の前に下ろして、使わない時は上へ上げられます」

 

 銀細工師は、警戒するように道具を持った。目元につける形を説明すると、なおさら警戒した。

 

「目につけるのか」

 

「はい」

 

「変な道具だな」

 

「便利です」

 

「便利な道具は、たいてい面倒も連れてくる」

 

 それでも銀細工師は装着した。

 

 跳ね上げルーペを下ろし、グラデーションストーンを1粒つまむ。

 

 次の瞬間、表情が止まった。

 

「……覆輪の縁が、見える」

 

「見えますか」

 

「見える。磨き残しも見える。石の先端の欠けも、見える」

 

 銀細工師は角度を変え、もう一度見た。

 

「これは、使える」

 

 低い声だった。リュシアが横で小さく言った。

 

「澪、また職人を殴ったね」

 

「今度は贈り物です」

 

「贈り物で殴ることもあるんだよ」

 

「品質維持のためです」

 

「なら、なおさら効くね」

 

 銀細工師はその会話を聞いていたのかいないのか、ルーペを上げたり下ろしたりしている。

 

「見えすぎるな」

 

 澪は修さんの言葉を思い出した。

 

「逃げられなくなるそうです」

 

「その通りだ」

 

 銀細工師は短く言った。

 

 

 

 

 

 侯爵家の紋章シールを見せた時、セレスティナはしばらく言葉を発しなかった。

 

 小さなシールの上に、侯爵家の紋章が整然と並んでいる。大きさも、濃さも、線の太さも揃っていた。

 

「これが、すべて同じ?」

 

「はい」

 

「絵師が描いたのではなく?」

 

「印刷です」

 

 セレスティナは1枚を指先で持ち上げた。

 

「これほど小さくしても、紋章だと分かりますね」

 

「細かい線は、少し整理しました。潰れるところがあったので」

 

「潰れる」

 

「小さくすると見えなくなる部分があります」

 

 セレスティナは、その説明を聞いて、納得したように頷いた。

 

 リュシアはシールを見ながら呟いた。

 

「また職人を殴るやつだね」

 

「今回は箱職人さんですか」

 

「いや、たぶん紋章を描く人全部だよ」

 

 エレナは、シールを貼りたそうにしていた。澪は箱を守るように少し引いた。

 

「エレナ様は貼らないでください」

 

「まだ何も言っていない」

 

「目が言っていました」

 

「貼るだけだろう」

 

 銀細工師が横から言った。

 

「貼るだけでも、曲がれば安く見える」

 

 エレナは口を閉じた。

 

 澪も口を閉じた。

 

 銀細工師は箱を手に取り、蓋の中央を測った。

 

「位置を決める型がいるな」

 

「型、ですか」

 

「箱の角から同じ距離に貼るための板だ。毎回目で貼るとずれる」

 

「貼るだけでは」

 

「貼るだけでも仕事だ」

 

 澪は、またひとつ覚えた。貼るだけでも仕事。箱に紋章を貼ることまで、品質維持だった。

 

 

 

 

 

 屋台裏に戻ったあと、リュシアは澪へ向き直った。

 

「澪、これは数を増やす話じゃない。質を落とさずに増やせるかの話だよ」

 

「質を落としたら?」

 

「正金貨3枚の首飾りが、銀貨の飾りになる。値段だけじゃない。侯爵家の顔も落ちる」

 

「怖いです」

 

「怖がっていい。怖がらない商人は、だいたい品を壊す」

 

 澪は、机の上に並んだものを思い出した。同じ規格の銀材、同じ銀細工師、同じ箱、同じ紋章、同じ検品、販売先の管理、安売り禁止。ひとつでも雑にすると、正金貨3枚という値段が軽くなる。

 

 高く売るというのは、値段だけ上げることではなかった。高いままにしておくために、全部を揃え続けることだった。

 

 セレスティナとの相談では、条件がひとつずつ確認された。販売は侯爵家を通し、価格は正金貨3枚を下回らない。職人は同じ銀細工師に任せ、別の銀職人には出さない。材料は澪が同じ規格で用意し、箱には侯爵家の紋章シールを貼る。数量は絞り、売り先は侯爵家が選ぶ。リュシアは実務と相場を見て、澪は材料調達と発注管理を担当する。銀細工師の基本手間賃は従来通りだが、侯爵家から賞与が出る。

 

 澪は最後の項目で少しだけほっとした。職人さんにちゃんと回る。それは大事だった。

 

「押入商会、侯爵家公認品を扱うんですか」

 

 澪が呟くと、リュシアがあっさり返した。

 

「もう扱ってるよ。正金貨10枚で売っただろ」

 

 澪は反論できなかった。

 

 

 

 

 

 六畳間へ戻った澪は、帳面を開いた。

 

 グラデーションストーンネックレス、侯爵家公認。販売価格は正金貨3枚。販売は侯爵家を通す。職人は固定。箱には紋章シール。検品には跳ね上げルーペ。同じ規格の材料を使い、発注書を作り、予備材も忘れない。ペットボトル回収は継続。

 

 最後に、澪は大きめに「品質維持」と書いた。

 

 書けば書くほど、ただのアクセサリーではなくなっていく。

 

 澪はその下に、少し震える字で書き足した。

 

 グラデーションストーン、侯爵家公認品になる。

 

 さらに小さく続ける。

 

 高級品と空ペットボトル、どちらも押入商会の荷物。

 

 澪は机の上を見た。

 

 片側には、侯爵家の紋章シールの試し刷り。

 

 もう片側には、修さんのところからもらってきた空ペットボトルを入れる袋。

 

 正金貨3枚の首飾りと、再利用ペットボトル。

 

 どちらも、押入商会の大事な荷物だった。

 

「押入商会、どこへ行くんですか」

 

 もちろん、帳面は答えなかった。

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