押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第300話 海はまだ見えない

 

 カルディオへ入る荷馬車の列が、少しずつ前へ進んでいた。

 

 新型エアカーも、その流れに合わせて車輪を回す。門をくぐると、外から見えていた屋根が一気に近くなった。淡い色の石壁に、赤茶色の屋根。窓から張り出した軒には布が渡され、その下で店を開いている。

 

 冬の外套を着ている者が多いのは王国側と同じだった。しかし、その裾や肩、頭へ巻いた布には明るい色が使われている。荷車の覆いにも赤や黄、深い青が混じり、通り全体が少し明るく見えた。

 

 理央は後ろの席で、右を見てから左を見た。

 

「……外国なんですよね」

 

「そうみたいですね」

 

 澪も窓の外を見ながら答えた。

 

 国境を越えた時より、町へ入ってからの方が違いは多い。それでも、道を歩く人が全員珍しい格好をしているわけではなかった。王国側で見慣れた外套を着た商人もいる。こちらから運ばれてきたらしい穀物袋を積んだ荷車も、セレヴィア側の色鮮やかな布を満載した馬車と同じ道を進んでいた。

 

 真壁は建物より先に、道の分かれ方を見ていた。

 

 山から下りてきた街道は、門の内側で幾つかに分かれている。大きな荷馬車は幅の広い道へ進み、小さな荷車や徒歩の客は店の多い通りへ流れていく。空の荷台を引く馬車は、別の道へ次々と曲がっていた。

 

「中心までこれで入るのはやめよう」

 

 真壁が言った直後、通りの子供が立ち止まり、馬のいない車を指差した。隣にいた大人が慌てて手を引く。前を歩く馬も、低い走行音を気にして耳を動かしていた。

 

「もう十分目立ってますしね」

 

「歩いた方が町も見やすいです」

 

 理央が賛成し、澪も頷いた。

 

 真壁は人と荷車の流れを外れ、通行の邪魔にならない場所へ車を寄せた。3人が降り、周囲に人が近づいていないことを確かめる。

 

 薄い靄が車体を包んだ。6人乗りの新型エアカーは、端から輪郭を失い、そのまま収納へ消える。

 

 近くを通りかかった男が二度見した。

 

「やっぱり、収納の方が目立ちません?」

 

「置いていくよりはよいだろう」

 

「それはそうですけど」

 

 理央は車があった地面を見てから、何事もなかったように歩き出した真壁を追った。

 

 徒歩になると、町の音が近くなった。石を踏む靴音。馬の蹄。木の車輪が継ぎ目を越える音。店先で交わされる値段の話。どこかで肉を焼いている匂いに、パンと香辛料の香りが重なる。

 

 澪が通り沿いの店を見ている間に、真壁は近くの商人へ市場の場所を尋ねた。男は手を止め、通りの先と曲がる場所を指で示す。

 

 何を言っているかは、普通に分かった。ただし発音も抑揚も、王国側で聞いてきた話し方とはかなり違う。言葉の区切り方まで独特で、同じ意味の言葉が別の調子で耳へ入ってくる。

 

 男と別れてから、理央が少しだけ声を落とした。

 

「通じるのに、すごく訛って聞こえますね」

 

「ゲンダイで言えば、沖縄と青森くらい離れているのかもしれません」

 

 澪も、耳に残った抑揚を思い返した。神様の恩恵が意味をつないでいても、その土地の話し方まで同じになるわけではないらしい。

 

「あちらだそうだ」

 

 真壁が歩き出す。

 

 理央はその隣へ並びながら、もう一度町を見回した。

 

 今度は車窓越しではない。

 

 初めて訪れた外国の町を、自分の足で歩き始めた。

 

 

 

 市場の場所を尋ねる必要はなかったかもしれない。

 

 教えられた通りへ曲がる前に、匂いが流れてきた。

 

 塩気の強い魚。煙で燻した肉とも違う香り。熱した油と香辛料。乾いた海藻に残る、磯に似た匂い。

 

 理央が鼻を動かした。

 

「魚ですか?」

 

「それも、一軒ではなさそうですね」

 

 澪が前を見る。

 

 通りの先には、軒から魚を吊るした店が並んでいた。腹を開いて乾かしたもの。表面へ白く塩を吹いたもの。色の濃い燻製。樽には塩漬けの魚が重ねられ、その隣には乾燥させた海藻が束になっている。

 

「海、ないですよね?」

 

「まだ見えてませんね」

 

「なのに魚だらけです」

 

 店先で魚を選んでいた女が、理央の言葉を聞いて笑った。

 

「ここまで来れば、海の魚なんて珍しくもないよ」

 

 女は何枚かの干物を選び、店主へ渡す。店主は重さを確かめ、紙ではなく薄い布で包んだ。特別な土産を買うような様子ではない。今日か明日の食事に使う物を、いつもの店で買っているだけに見えた。

 

 真壁は一軒の魚より、その向こうに続く店を見た。

 

 魚を扱う店だけで何軒もある。干物の種類も、塩漬けの樽も一つではない。乾燥海藻の横では、大袋へ入れた塩を量り売りしている。別の店には貝殻を加工した小物まで並んでいた。

 

「海から離れていても、日常的に運べる量があるということだ」

 

「保存して運ぶ方法が、ちゃんと商売になってるんですね」

 

 澪は店先の品だけでなく、買っていく客も見ていた。魚を一枚だけ買う者。樽からまとめて買う食堂らしい者。乾燥海藻を手に取り、状態を比べる者。海産物は飾られているのではなく、次々と町の暮らしへ入っていく。

 

 理央は海藻の束へ顔を近づけた。

 

「これ、どうやって食べるんでしょう」

 

 店主へ尋ねると、汁物へ入れるほか、豆や魚と煮るのだと返ってきた。細かく砕いて塩と混ぜる使い方もあるらしい。

 

「海苔みたいに、ご飯に巻くわけじゃないんですね」

 

「米があるかも、まだ分かりませんよ」

 

「魚がこれだけあるなら、期待してもよくないですか?」

 

 理央はすでに、見たことのない料理を想像していた。

 

 澪は乾燥海藻を少量買い、包みを受け取った。収納へ入れる前に端を折ってみると、よく乾いていて軽い。店主は、湿らせなければ山を越えても長く持つと言った。

 

「海から遠い町ほど、こういう形の方が売りやすいんでしょうね」

 

「生の魚を急いで運ぶより、荷も無駄になりにくい」

 

 真壁は魚を詰めた樽と、空になって積まれた樽を見比べた。海から来た荷は、この町で食べられるだけではない。さらに山を越え、王国側へ向かう分もある。

 

 その横で、理央は干物を一枚買おうとして、同じ魚が大きさごとに分けられていることへ気づいた。

 

「こっちは値段が違うんですか?」

 

 店主が、魚の大きさだけでなく塩の使い方と乾かした期間も違うのだと答える。理央は二枚を見比べ、すぐには決めなかった。

 

「食べるなら、どっちがいいです?」

 

「煮るならこっち、焼き直すならそっちだ」

 

「じゃあ、焼く方にします」

 

 珍しいから買うのではなく、どう食べるかを聞いてから選ぶ。澪は何も言わず、そのやり取りを見ていた。

 

 市場の奥から、今度は魚ではない香りが届いた。

 

 肉の脂。炒めた野菜。香草。そして、幾つもの香辛料が混ざった強い匂い。

 

 理央と澪が同時にそちらを見る。

 

「先に食事にしますか?」

 

「そうしましょう」

 

 真壁が答える前に、2人の足はもう香りの方へ向いていた。

 

 

 

 食事を出す店が集まる一角では、幾つもの鍋から湯気が上がっていた。

 

 豆を煮ている深鍋。串に刺した肉を焼く鉄板。魚を油で焼く浅い鍋。その中でも一番目立つのは、店先へ置かれた大きな浅鍋だった。

 

 鍋の中には、赤や緑の野菜、豆、一口大の肉、白身の魚が並んでいる。その隙間を埋めている穀物へ、澪の目が止まった。

 

「お米ありますよ」

 

「ほんとだ」

 

 理央も鍋を覗き込み、すぐに首を傾けた。

 

「……長い」

 

 米粒は、ゲンダイで普段食べるものより細長かった。粘り合って固まらず、一粒ずつ油と煮汁をまとっている。鍋の中央は具材の色が鮮やかで、縁に近い米は薄く焦げていた。

 

 店の女が木べらで鍋底を起こす。焦げた米と肉、野菜を一緒に皿へ盛ると、香辛料の香りがさらに強くなった。

 

「これは普通に食べる米なんですか?」

 

 澪が尋ねると、女は当然だという顔をした。

 

「パンも食べるし、豆も食べるよ。米だって食べるさ。これは半島の暖かい地域から入ってきた米だね」

 

 珍しい祝い料理ではなく、食事時に鍋を囲んで食べるものだという。

 

 理央は澪を見た。

 

「食べますよね?」

 

「聞くまでもない顔してますよ」

 

「澪さんも同じです」

 

 2人分の視線が真壁へ向く。

 

「私も異論はない」

 

 3人は空いていた卓へ座り、浅鍋の料理を3皿頼んだ。焼いたパンと、豆を煮た小さな皿も添えられる。

 

 近くの卓には、荷運びを終えたらしい男たちがいる。向こうでは家族連れが同じ鍋から料理を取り分けていた。食器も食べ方も違うが、昼時の店が賑やかなのはどこでも同じだった。

 

 運ばれてきた皿の米は、鍋で見た時よりさらに細長く見えた。肉の脂と魚の煮汁を吸い、野菜の色がところどころへ移っている。

 

 理央は匙ですくい、湯気を一度吹いてから口へ入れた。

 

 動きが止まった。

 

「どうです?」

 

 澪が聞く。

 

 理央はすぐに答えず、水を一口飲んだ。

 

「……結構きますね、これ」

 

 辛いだけではない。甘い香りの後から、土に似た深い香りが追いかけ、最後に香草が鼻へ抜ける。初めて口にする組み合わせに、舌と鼻が一度では追いつかない。

 

 それでも理央は、もう一口すくった。

 

「でも、美味しいです」

 

 今度は肉と一緒に食べる。次は魚。肉の脂が強い部分と、魚の旨味が染みた部分では味が違った。粘りの少ない米は油や煮汁を吸っても重くならず、粒が口の中でほどけていく。

 

 澪も最初の一口で目を瞬かせたが、すぐに鍋の縁にあった焦げた米へ手を伸ばした。

 

「日本の炊き込みご飯とは、全然違いますね」

 

「この米なら、こちらの方が合うのだろう」

 

 真壁は匙の中の米と香辛料を見た。

 

「油を先に回しているのか、それとも――」

 

「分析しないで食べてください」

 

 澪が止める。

 

「作り方を知るのも、現地を知ることではないかな」

 

「食べ終わってから聞きましょう」

 

 理央が笑いながら豆の皿を真壁の方へ押した。

 

「真壁さん、こっちもまだありますよ」

 

 香辛料の効いた米を食べ、パンで皿に残った煮汁を拭う。

 

 海を見に来たはずなのに、最初に強く印象へ残ったのは、見たことのない長い米だった。

 

 

 

 食事を終えた3人は、再び市場へ出た。

 

 理央は店を出てすぐ、口の中へ残った香辛料の余韻に息を吐いた。

 

「まだちょっと辛いです」

 

「もう一皿食べられそうな顔でしたけど」

 

「美味しいのと辛いのは両立します」

 

 理央はそう言いながら、店先の鍋を振り返った。

 

 市場の食事があの一皿だけではないことも、歩き出せばすぐに分かった。芋と卵を厚く焼いたものを切り分ける店。肉団子を野菜と一緒に煮込む鍋。魚へ香草を詰め、油を引いた鉄板で焼く店。豆と根菜を柔らかく煮た料理もある。

 

 どの店からも違う匂いがした。

 

「夕飯もここで食べたいです」

 

「今、昼を食べたばかりですよ」

 

「夕飯の予定です」

 

「食べることは決まっているのだな」

 

 真壁に言われ、理央は当然のように頷いた。

 

 澪は笑いながら、食堂へ入っていく客を見た。肉を食べる者、魚を選ぶ者、パンだけを買って急いで戻る者。香辛料の強い大鍋料理は目立つが、それだけがこの町の食事ではない。

 

 真壁も、もう料理を分解して考えるのをやめていた。少なくとも今は、収納内プラントで再現する話を始めない。

 

 代わりに、3人は小さな露店で焼いた芋を一つだけ買った。香草と塩が振られ、表面へ植物油が薄く塗られている。

 

「まだ食べるんですか?」

 

 澪が聞くと、理央は3つに割った一片を差し出した。

 

「味見です」

 

「さっき真壁さんへ言ったことと同じですよ」

 

「分析はしてません」

 

 澪は受け取り、真壁にも一片が渡る。

 

 焼けた芋は中が柔らかく、塩と香草の匂いが強かった。昼食とは違い、単純な味だからこそ素材の甘さが分かる。

 

「これも美味しいです」

 

「夕食まで全部試すつもりではないですよね?」

 

「市場を見に来たんですよ。食べ物も商品です」

 

 理央が少し得意そうに言う。

 

 商人になって覚えた見方としては、間違ってはいない。

 

 ただし、手には次の露店で買った果物まで増えていた。

 

「それは?」

 

「こっちも商品です」

 

 澪は追及をやめた。

 

 午後の市場を歩くには、まだ時間が十分にあった。

 

 

 

 食事を扱う一角を抜けると、市場の色が変わった。

 

 魚や野菜の代わりに、畳んだ布、大小の陶器、酒の樽、油を入れた壺が並ぶ。香辛料を量り売りする店では、赤、黄、茶、黒の粉が浅い器へ盛られ、風が吹くたびに複雑な香りが混ざった。

 

 理央は、細かな模様を焼き付けた器を手に取った。

 

「これ、きれいですね」

 

 最初に見たのは色と形だった。しかし、すぐに隣で布を見ている澪へ目を向ける。

 

 澪は布地を指で確かめた後、店主へ尋ねていた。

 

「これは、どこで作られたものですか?」

 

「もっと西だよ。船で運ばれてきた物を、内陸の町で仕入れた」

 

 店主の話し方にも強い抑揚があったが、意味を取り違えることはない。

 

 理央は手の中の器を見直し、同じように聞いた。

 

「これはどこから来たんですか?」

 

「そっちは半島の中で焼いた物だ。東へ持っていく商人によく売れる」

 

「こっちでは、みんな使わないんですか?」

 

「使うさ。ただ、東の客はその色を珍しがる」

 

 同じ商品でも、売る場所が変われば見られ方が変わる。理央は器を棚へ戻さず、もう一度模様を眺めた。

 

 店主は、東へ向かう商人が選ぶ器は丈夫さを優先することも話した。遠くまで馬車で運ぶ間に割れてしまえば、どれほど美しくても売り物にならない。反対に、カルディオで使う客は一枚ずつ模様を見て選ぶという。

 

「運ぶ人と、自分で使う人では、見るところが違うんですね」

 

「あんたも商人かい?」

 

 理央は一瞬だけ詰まり、それから頷いた。

 

「なったばかりです」

 

「なら、割れない包み方も見ていくといい」

 

 店主は器の間へ乾いた草を挟み、布で動かないよう包んでみせた。華やかな市場の商品にも、馬車の揺れに耐えて次の町へ届くための工夫がある。

 

 理央は器だけでなく、その包み方まで覗き込んだ。

 

 真壁は、店の奥に積まれた別の箱へ目を向けていた。中にある小さな工芸品は、店主によれば海を渡ってさらに遠くから来た物だという。港で幾人もの商人を経て、この店へ届いたらしい。

 

「自分の国で作った物だけを売っているわけではないのですね」

 

「船が来るんだ。売れる物なら、どこの品だって運ばれてくるよ」

 

 その一方で、向かいの店には王国側で見覚えのある厚い毛織りが積まれていた。冬の山を越える者や、さらに寒い土地へ向かう商人が買っていくという。

 

 東から西へ来た品と、西から東へ向かう品。同じ市場の中で、荷物は互いにすれ違っていた。

 

 澪は色の濃い布を一枚買った。理央も先ほどの器を一つ選ぶ。

 

「買うんですね」

 

「どこから来て、誰に売れるかも聞きました」

 

「そういう問題ですか?」

 

「最初に見た時より、ちょっと商品っぽく見えてきたので」

 

 理央自身、説明しながら少しおかしいと思ったらしい。それでも器は収納せず、しばらく手に持っていた。

 

 真壁が買ったのは、海を渡ってきた小さな工芸品ではなく、香辛料を少量ずつだった。

 

「真壁さんは、やっぱりそっちなんですね」

 

「味も確かめておきたい」

 

「分析用じゃないですよね?」

 

「まずは食用だ」

 

 澪は「まずは」という部分を聞き逃さなかったが、その場では何も言わなかった。

 

 3人の収納へ、カルディオで初めて買った商品が少しずつ増えていった。

 

 

 

 市場を歩くうち、理央は澪が商品以外の方向を見ていることに気づいた。

 

 布の店を出た後も、澪の視線は向かいの露店へ向いている。しかし見ているのは、棚へ積まれた品ではなかった。

 

「澪さん、さっきから人も見てません?」

 

「見てますよ」

 

「何を見てるんですか?」

 

「誰が買っているかです」

 

 澪が顎で示した先では、小さな袋へ分けられた香辛料が売られていた。旅装の商人は幾つかをまとめて買い、町の住民らしい女は一袋だけ選ぶ。店主は客によって説明を変え、包み方も変えていた。

 

「商品を見るだけでは、売れているか分かりませんから。どの客が、どのくらい買うのかも見ます」

 

「減ってる商品を見るんじゃ駄目なんですか?」

 

「今減っているのが売れたからなのか、最初から少なかったのかは分からないでしょう?」

 

「ああ……」

 

 理央はもう一度、露店を見た。

 

 今度は色のきれいな香辛料ではなく、客の手がどこへ伸びるかを追う。一番鮮やかな赤い粉より、茶色い粒と乾燥した葉の方がよく動いている。店主は減った器へ、後ろの袋から商品を足した。

 

「目立つ物が、一番売れてるわけじゃないんですね」

 

「誰に売るかにもよります」

 

 真壁が横から続けた。

 

「王国側へ持ち帰れば、また選ばれ方も変わるだろう」

 

 理央は周囲を見回した。

 

 店先の商品。買っていく人。運び込まれる箱。売れた分を補う店主。空いた荷車。通りの奥へ商品を運ぶ者。

 

 全部を同時に見ることはできない。どこかへ目を向ければ、別の何かを見落とす。

 

「商人って、見るもの多くないですか?」

 

「多いですよ」

 

 澪はあっさり認めた。

 

「最初から全部見なくていいです。私もリュシアさんに何度も言われましたから」

 

「澪さんもですか?」

 

「今でもですよ」

 

 少し離れた店で、客が商品を手に取った。理央は反射的にそちらを見る。

 

 その店では、海藻と豆を一緒に袋へ詰めて売っていた。買った客は、隣の魚屋でも塩漬けの魚を選んでいる。

 

「一緒に料理するんでしょうか」

 

「聞いてみます?」

 

「はい」

 

 理央は客が立ち去るのを待ってから、店主へ話しかけた。

 

 商才を取ったことで、急に相場が見えるようになったわけではない。売れる商品が光って見えることもない。

 

 それでも、何を尋ねればいいかは、少しずつ増えていた。

 

 

 

 市場の大きな通りを抜けると、店の間隔が少し広くなった。

 

 工房らしい建物から金属を打つ音が聞こえ、別の店先では荷解きが続いている。働く者、買い物をする者、店を行き来する子供。どこにでもある町の日常に見えた。

 

 理央が、荷車の横で立っている若い男へ目を留めた。

 

 男は店主に短く命じられるたび、箱を持ち上げて店の奥へ運んでいる。仕事そのものは荷運びと変わらない。しかし休もうとした時、別の男に腕をつかまれ、すぐ持ち場へ戻された。

 

 理央は足を緩めた。

 

「あの人……」

 

 店の前を通った客が、荷車の位置を変えるよう店主へ言った。店主は若い男を指し、平然と答える。

 

「奴隷にどかさせる。少し待ってくれ」

 

 言葉の意味は、聞き間違えようがなかった。

 

 理央の表情が変わる。澪も店の方を見た。

 

「リュシアさんが言っていたのは、ああいうことなんですね」

 

「そうみたいです」

 

 周囲の人々は足を止めない。隣の店では客が値段を尋ね、道の中央では荷車がすれ違う。男が奴隷と呼ばれたことに、誰も驚かなかった。

 

「ここでは、普通なんですね」

 

 理央の声は小さかった。

 

 知識として聞くのと、目の前で一人の人間がそう呼ばれるのを見るのとでは違う。男がなぜ奴隷なのか、どのように扱われているのか、外から見ただけでは分からない。

 

 澪は何か言いかけ、やめた。

 

 王国側の常識を、そのまま外国へ持ち込んではいけない。それは出発前にリュシアから言われている。見つけた一人を連れ出せば済む話でもなかった。

 

「今は、何も知りません」

 

 澪は自分にも言い聞かせるように言った。

 

「はい」

 

 理央は頷いたが、すぐには歩き出さなかった。

 

 真壁も急かさない。少し待ってから、通りの先へ視線を向けた。

 

「見ることも、今回の目的だ」

 

 理央は、店主と若い男の姿を忘れないよう、もう一度目に留めた。市場で見た料理や商品と同じ町に、この光景もある。

 

 理央は最後に一度だけ振り返り、2人と一緒に歩き出した。

 

 数軒先から、パンを焼く匂いが流れてくる。子供が笑いながら通りを走り、店主に叱られていた。

 

 明るい色の町にも、理解できない日常が混じっている。

 

 そのことだけが、理央の中へ残った。

 

 

 

 市場を一通り歩き終えた頃、日が西へ傾き始めた。

 

 急ぐ用事はない。3人は大通りを外れ、店と家が混じる道を歩いた。

 

 淡い石壁が夕日を受け、昼よりも暖かな色に変わっている。赤茶色の屋根には長い影が落ち、窓辺に掛けられた布が冷たい風に揺れた。

 

 店を閉め始める者がいる一方で、食堂はこれから客を迎える準備をしていた。炭へ火を入れ、魚へ香草を詰め、焼いたパンを籠へ移している。家々からも、豆を煮る匂いや肉を焼く匂いが流れてきた。

 

 井戸の周りでは、夕食に使う水をくむ者が順番を待っていた。市場で見た魚の包みを抱えている女もいる。昼に商品として並んでいた物が、今は家へ持ち帰られ、その日の食事へ変わろうとしていた。

 

 別の路地では、荷運びを終えた男が子供へ小さなパンを渡している。子供は礼を言うより先にかじり、隣の子にも半分をちぎった。話し方の響きは違っても、その光景まで特別なものではない。

 

 昼間は市場の商品を追うのに忙しかった理央も、今は店ごとに立ち止まらなかった。

 

 帰宅する者とすれ違い、宿へ入っていく隊商を見る。馬を水場へ連れていく少年が、真壁たちへ独特の抑揚で挨拶した。理央が返すと、少年は笑って手を振る。

 

「通じるんですよね」

 

「通じますね」

 

「でも、やっぱり外国っぽいです」

 

 意味は分かるのに、耳に残る響きが違う。その小さな違いが、町を歩くたびに積み重なっていた。

 

 澪も、もう客の買い方ばかり見てはいなかった。路地の先に見える屋根や、窓から漏れる灯りへ目を向ける。

 

 真壁も荷車の流れを追うのをやめ、歩調を2人へ合わせている。

 

「なんか、本当に旅行してる感じがします」

 

 理央が言った。

 

「商人の勉強だけじゃなくて、旅行でもありますから」

 

「朝はゲンダイにいたんですよね」

 

「夜には、また戻りますけどね」

 

 理央は少し笑った。

 

「外国へ来たのに、日帰りなんですね」

 

「帰れるのに、無理に泊まる必要もないだろう」

 

「分かってます。でも、そこだけ急にいつもの感じになります」

 

 通りの先から、鐘に似た音が聞こえた。それを合図にしたわけではないだろうが、店先の灯りが一つ、また一つと増えていく。

 

 昼に見た市場は、人と商品が集まる場所だった。

 

 夕暮れの通りには、その市場で働いた人が帰り、家族が食事を始め、旅人が一日の終わりを過ごす時間があった。

 

 地図の上にある外国ではない。

 

 ここにも、夕暮れを迎える人々の暮らしがあった。

 

 理央の腹が、小さく鳴った。

 

 澪が横を見る。

 

「さっき、焼いた芋も食べましたよね?」

 

「夕食の時間です」

 

 旅情は、そこで一度途切れた。

 

 

 

 夕食を取る店は、昼とは別の場所を選んだ。

 

 通りへ開いた食堂で、奥には大きな炉がある。卓は頑丈な木製で、壁際には酒の樽が並んでいた。仕事を終えた者と旅人が同じ部屋へ集まり、昼の食堂よりも話し声が大きい。

 

 3人は空いた卓へ座り、店の者へ料理を尋ねた。

 

 理央は昼に見かけた料理を覚えていた。芋と玉ねぎに似た野菜を卵で厚く焼いたもの。香草を混ぜた肉団子と野菜の煮込み。白身魚の油焼き。豆と根菜を長く煮た温かい料理。それに焼き野菜とパンを頼む。

 

「頼みすぎではありませんか?」

 

 澪が聞く。

 

「3人で分ければ大丈夫です」

 

「昼にも聞いた言葉だな」

 

「外国の料理、まだ全然食べてないですから」

 

 理央は店員が去った後も、隣の卓へ運ばれていく料理を目で追っていた。

 

 最初に届いたのは卵の厚焼きだった。切ると中から柔らかな芋が現れ、炒めた野菜の甘い匂いがする。肉団子の煮込みは赤みのある汁に香草が散り、豆と根菜の鍋からは湯気が絶えない。

 

 魚は皮を香ばしく焼き、酸味のある果汁と刻んだ香草が添えられていた。焼いた野菜には植物油と塩が回され、昼の大鍋料理ほど香辛料は強くない。

 

「これなら辛くないです」

 

 理央は卵を一口食べ、次に魚へ手を伸ばした。

 

「香辛料が効いている料理しかないわけではないんですね」

 

「同じ町で毎日食べるなら、いろいろある方が普通でしょう」

 

 澪も魚を取り分けた。酸味のある果汁が脂を軽くし、香草の匂いが後へ残る。豆の煮込みは反対に濃く、パンを浸すとそれだけで一品になった。

 

 飲み物も運ばれてくる。

 

 真壁と澪の前には、色の深い果実酒。理央の前には、柑橘に似た果汁と甘い果実、香草を水へ加えた果実水が置かれた。

 

 理央は自分の杯を見た。

 

 次に真壁の杯を見る。

 

 最後に澪の杯を見た。

 

「理央ちゃんは駄目ですよ」

 

「分かってますよ。飲みたいって言ってないです」

 

「では、なぜ見ているのかな」

 

 真壁に聞かれ、理央は果実水を一口飲んだ。甘さと酸味があり、香草の香りも爽やかで、飲み物として不満はない。

 

 それでも、周囲の大人たちは異国の料理を囲み、果実酒の杯を傾けている。

 

「……いいなあ」

 

「やっぱり飲みたいんじゃないですか」

 

「違います。そっちの方が旅行っぽいじゃないですか」

 

 理央は少しむくれ、肉団子を一つ取った。

 

 澪は自分の果実酒を見た。理央へ渡すわけにはいかない。

 

「果実水も現地の飲み物ですよ」

 

「分かってますけど」

 

 理央はもう一度、果実酒の杯を見た。

 

 その視線に、真壁が気づいた。

 

 

 

「なら、こちらも少し変えてみようか」

 

 真壁が理央の果実水を見て言った。

 

「何するんですか?」

 

「炭酸にする」

 

 澪の手が止まった。

 

「ここでですか?」

 

「少量なら問題ない」

 

 真壁が杯へ触れる。果実水は十分に冷やされ、表面へ細かな冷気が漂った。

 

 収納内で、不純物を除いた二酸化炭素をさらに冷却する。取り出したのは、ごく少量の白い固体だった。

 

「それ、ドライアイスですよね?」

 

「そうだ」

 

「果実水を炭酸にするために、ドライアイスを作ったんですか?」

 

「その方が早い」

 

 真壁が少量を果実水へ加えると、白い冷気とともに泡が立った。

 

 近くの卓で話していた客が、そろってこちらを見る。

 

 理央は目を丸くし、杯を覗き込んだ。

 

「すごい泡ですけど、飲んで大丈夫なんですか?」

 

「まだだ」

 

 真壁は杯を渡さなかった。固形物がすべて消え、白い冷気が収まるまで待つ。泡の勢いも落ち着き、果実水の中に細かな気泡だけが残ったところで、状態を確かめる。

 

「もうよいだろう」

 

 理央は慎重に一口飲んだ。

 

 すぐに目が少し大きくなる。

 

「……シュワシュワします」

 

 もう一口。

 

 冷えた果実水に細かな刺激が加わり、果実の酸味が先ほどよりはっきり感じられる。香草の匂いも、泡と一緒に鼻へ抜けた。

 

 理央は肉団子を食べ、その後に炭酸の入った果実水を飲む。

 

「これ、料理に合います」

 

「気に入ったようだ」

 

「はい。こっちはこっちでいいです」

 

 理央は少し得意そうに杯を持った。もう真壁と澪の果実酒を見ていない。

 

「もう羨ましくないみたいですね」

 

「飲めないから代わりにしたんじゃないです。こっちを選んでるんです」

 

「さっきまで果実酒を見ていたのに?」

 

「今は見てません」

 

 理央は澪から果実酒が見えないよう、果実水の杯を少し前へ置いた。

 

 近くの客はまだ、ときどき3人の卓を見ていた。先ほどまで白い冷気を出していた飲み物が、今度は細かな泡を上げている。

 

「真壁さん、また目立ってません?」

 

「果実水に炭酸を加えただけなのだがね」

 

「その『だけ』を、この町の食堂でやる人がいないんですよ」

 

 澪の言葉を聞いていた店員が、おそるおそる卓へ近づいた。

 

「それは、新しい酒か?」

 

「違います。私でも飲める果実水です」

 

 理央が先に答える。

 

 少し誇らしそうな顔だった。

 

 

 

 食堂を出ると、カルディオは夜へ変わり始めていた。

 

 石壁に取り付けられた明かりが通りを照らし、昼とは違う影を作っている。店を閉めた商人が荷を奥へ運び、食堂からはまだ人の声が漏れていた。

 

 3人は町の入口へ向かって歩く。

 

 昼より人通りは減っていたが、宿の前には到着したばかりの荷馬車が並んでいる。馬を引く者、樽を転がす者、遅い夕食を取る場所を探す旅人。交易都市の一日は、全員が同じ時間に終わるわけではなかった。

 

 理央は腹も満ち、歩く速さが少しゆっくりになっていた。

 

「今日は、いろいろ見ましたね」

 

「初日としては十分でしょう」

 

 澪も昼間に買った布や、夕食の料理を思い出す。

 

 魚を見た。塩を見た。乾燥した海藻もあった。海を渡ってきた商品に触れ、長い米を食べた。昼にも夜にも魚が出た。最後には、果実水から泡まで出た。

 

 理央が、ふと足を止めた。

 

「そういえば、結局海は見てませんね」

 

 澪も止まる。

 

「海の物は、いっぱい見ましたけどね」

 

「海の国に来たのに、海なしで一日終わりました」

 

「ここはまだ半島の東側だからだ」

 

 真壁が西の方角を見る。町の建物に遮られ、その先は見えない。

 

「海は、もっと先だ」

 

 理央も西を見た。

 

 そこに水平線はない。帆船も港も見えない。あるのは夜へ沈みかけた町と、さらに西へ続いているはずの道だけだった。

 

 通りの脇を、魚の樽を積んだ荷車が通り過ぎた。海の姿はなくても、そこから運ばれた物は夜になっても町を動いている。昼に見た店も、夕食で食べた魚も、この道をたどってきたのだろう。

 

「海を見てないのに、海から来た物ばっかりでしたね」

 

「それだけ、この町と海がつながっているということです」

 

「港がなくても、海の国なんですね」

 

 理央は納得したように頷き、それでも西から目を離さなかった。

 

「まだ、なんですね」

 

 その声に、落胆はなかった。

 

 海を見られなかったのではなく、これから見るものが残っている。

 

「明日も西へ行くんですよね?」

 

「その予定です」

 

「なら、今日はこれでいいです」

 

 理央はまた歩き始めた。

 

 ただ、海はまだ見えない。

 

 だから明日も、その先へ進む。

 

 

 

 町の入口近くまで戻ると、真壁は人通りの少ない場所を選び、新型エアカーを収納から出した。

 

 薄い靄の中から6人乗りの車体が現れる。昼に収納した場所とは少し離れていたため、驚いて足を止める者はいなかった。

 

 3人は乗り込み、町を出る。

 

 カルディオへ泊まる旅人とは反対に、夜を迎える町から離れていく。門を抜け、街道をしばらく進むと、後ろの灯りが小さくなった。

 

 翌日も安全に戻れること。街道を塞がないこと。人目がなく、転移して現れても危険がないこと。

 

 真壁と澪は周囲を確かめ、カルディオ郊外の開けた場所で車を止めた。理央も地図を見て、町との位置関係を確認する。

 

「ここなら、明日また来られるんですね」

 

「実際に来た場所ですから」

 

 3人が降りると、真壁は新型エアカーを収納へ戻した。薄い靄が消え、街道脇には冬の草地だけが残る。

 

「こういうところだけ、日帰り旅行なんですよね」

 

 理央が言った。

 

「帰れるなら、帰った方が楽ですし」

 

「私の家もありますからね」

 

「ご両親を心配させるわけにはいきません」

 

 澪に言われ、理央は素直に頷いた。

 

「異世界の外国で夕飯を食べて、その日のうちに家へ帰るって、改めて考えると変ですけど」

 

「明日も朝から動けるのだから、悪くないだろう」

 

「宿代もかかりませんね」

 

 理央が商人らしいことを言い、澪が笑った。

 

「そこを見るようになったんですか?」

 

「商人ですから」

 

 理央は少し胸を張る。

 

「今日買った器も、家で見たら印象が変わるかもしれません」

 

「包み方まで習っていましたね」

 

「割ったら最初の仕入れが失敗になるので」

 

「自分用ではなかったのですか?」

 

「自分用ですけど、商品を見る練習にもなります」

 

 言いながら、理央は収納に入れた器が無事なのを確認している。澪はそれを見て、商人になった翌日としては十分だと思った。

 

 朝はゲンダイにいた。

 

 昼には西境の山を越え、初めて外国へ入った。市場を歩き、見たことのない商品を買い、長粒米と香辛料の料理を食べた。知らない制度も見た。夕方には町を歩き、夜には異国の食堂で果実水を飲んだ。

 

 そして今から、いつもの家へ帰る。

 

 真壁は澪と理央を同行者にして転移した。

 

 次の瞬間、冷たい草地も、遠くに見えていたカルディオの明かりも消えた。

 

 ゲンダイへ戻った理央は、その日のうちに自宅へ帰った。

 

 澪も江古田へ戻り、真壁も一日の行動を終える。

 

 新型エアカーは収納の中。カルディオ郊外の安全地点は、明日戻る場所として残っている。

 

 海はまだ見ていない。

 

 3人の外国旅行は、始まったばかりだった。

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