押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第301話 寒いと思うがね

 

 転移を終えると、冬の朝の空気が3人を迎えた。

 

 昨夜、カルディオから帰る前に安全を確かめた街道脇である。人の姿も荷車もない。低い朝日が湿った土を照らし、枯れ草の先についた露だけが光っていた。

 

 理央の吐いた息が、うっすら白くなる。

 

 数分前までいたゲンダイでは、それぞれ朝食を済ませ、いつもの服へ防寒具を重ねていた。玄関から旅行へ出るのではなく、一度江古田へ集まり、真壁の転移で昨日の続きへ戻ってきたのである。

 

 理央は足元の土を踏んだ。昨夜、自分たちが歩いた跡は冷えた地面へ薄く残っている。その横には、夜の間に街道から入り込んだらしい小動物の足跡もあった。

 

「昨日、ここから帰ったんですよね」

 

「そうです」

 

「家で寝て、朝になったらまた同じ場所にいるって、やっぱり変な感じです」

 

 理央は昨夜と同じ街道を見た。

 

 暗くなる前には遠くにカルディオの灯りが見えていた。今は町の輪郭が朝日に浮かび、そこから出てきたらしい荷車の音が、風に乗ってかすかに届いている。

 

「外国旅行なのに、通ってますからね」

 

 澪も自分で言って少し笑った。

 

 昨日、初めて国境を越えた時にあった緊張は薄れている。市場を歩き、料理を食べ、町で暮らす人々を見た。セレヴィアはもう地図の外にある名前だけの国ではなかった。

 

 真壁は2人の会話を聞きながら、地図と周囲を確かめていた。昨夜以降に近くへ人が来た形跡はあるが、今この場所に危険な反応はない。街道の西側にも、通常の旅人や荷車が動いている。

 

「今日は、あちらへ進む」

 

 真壁が西を示す。

 

 街道は緩やかな丘の間を抜け、さらに半島の奥へ続いていた。カルディオの建物は東側。西には低い丘と農地が重なり、その先はまだ見えない。

 

 街道を東へ向かう荷車が、遠くで朝日に照らされた。昨日カルディオで積んだ荷を山の向こうへ運ぶのか、それとも夜明け前から別の村を出てきたのか。荷車は3人のいる場所へ近づかず、そのまま東へ進んでいった。

 

「アルヴェラの方ですね」

 

「そうだ。今日中に着く必要はない。土地と街道を見ながら進もう」

 

 真壁は収納へ意識を向けた。昨日まで使っていた新型エアカーを出すつもりなのだろう。

 

 薄い靄が足元へ広がりかけたところで、理央が西へ伸びる道をもう一度見た。

 

 朝の街道を、騎乗した旅人が2人並んで進んでいる。少し遅れて、荷馬車と護衛らしい者たちも続いていた。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

 理央は街道から目を離さないまま言った。

 

「今日は、別の乗り物にしません?」

 

 

 

「別の乗り物?」

 

 澪が理央を見る。

 

「馬で行きません?」

 

 理央が指した先では、先ほどの騎馬の2人が丘を越えようとしていた。外套が風に揺れ、蹄の音が少しずつ遠ざかっていく。

 

「昨日、街道で馬に乗ってる人を何人も見たじゃないですか。せっかく外国を旅してるんですし、私たちもああいう感じで行ってみたいです」

 

 急ぎの配達も、決まった時刻の商談もない。理央は効率より、街道を旅している実感の方を選んだらしい。

 

 澪は西へ続く道と理央を交互に見た。

 

「あ、それいいですね」

 

「ですよね?」

 

 返事は早かった。

 

 真壁は2人を見る。それから冬の朝の街道を見た。枯れ草は冷たい風に揺れ、街道を歩く者は全員、外套の前をしっかり閉じている。

 

「寒いと思うがね」

 

「大丈夫です。ちゃんと防寒してきました」

 

 澪は自分の外套と手袋を示した。

 

「私もです」

 

 理央も襟元を押さえる。帽子も手袋もあり、昨日より冬の街道を意識した服装だった。

 

「そうか」

 

 真壁は止めなかった。

 

 薄い靄の中から現れたのは、新型エアカーではなく3頭の自動馬だった。

 

 本物の馬に近い輪郭を持つが、呼吸もしなければ、寒さで鼻を鳴らすこともない。騎乗用の鞍と足を置く場所があり、旅人の荷を積むための小さな取り付け部も備えている。

 

「これ、直接乗れるんですね」

 

 理央は一番近い自動馬へ寄った。

 

「騎乗用に調整してある。細かな手綱さばきは必要ない。進む、止まる、速度を変える。基本的な指示だけでよい」

 

「本物の馬に乗ったことがなくても大丈夫ですか?」

 

「急な動きはさせない。周囲の人や馬も避けるようにしてある」

 

 真壁は乗り方と、止める指示を先に確認させた。理央が鞍へ上がると、自動馬は重心の変化へ合わせて姿勢を調整し、その場で待つ。

 

「思ったより高いです」

 

「怖くないですか?」

 

「大丈夫です。ちょっと景色が違います」

 

 理央は足を置く位置を確かめ、鞍の前へ設けられた持ち手を握った。本物の馬のように気分で首を振ったり、突然歩き出したりはしない。それでも地面に立つより高く、細い背へ体を預けている感覚は自動車の座席とはまるで違った。

 

 真壁は、最初から速度を上げないよう念を押した。曲がる時も止まる時も、自動馬が姿勢を補助するが、乗る者が横を向いたままなら揺れは感じる。理央は一度、停止と発進を試し、次にゆっくり向きを変えた。

 

 発進するたびに上体が少し後ろへ残り、止まると今度は前へ傾く。自動馬が姿勢を支えていても、理央自身はまだ動きに合わせきれていない。

 

「これなら私でも乗れそうです」

 

「乗れることと、よそ見をしてよいことは別だ」

 

「まだしてません」

 

「これからしそうなので言われたんですよ」

 

 澪に指摘され、理央は持ち手を握り直した。

 

 理央はすでに楽しそうだった。

 

 澪も隣の自動馬へ乗る。真壁が最後の1頭へ騎乗すると、3頭は街道へ向かってゆっくり歩き始めた。

 

 前を行く本物の馬が驚かないよう、最初は十分に距離を空ける。

 

 エアカーの窓も屋根もない。

 

 朝の風が、そのまま3人の頬へ当たった。

 

 

 

 自動馬は、蹄に似た規則的な音を立てて街道を進んだ。

 

 エアカーより視線が高い。窓枠も車体もなく、道の左右がそのまま見える。石垣の向こうにある畑も、農家の庭へ積まれた薪も、道端の小さな水路も近かった。

 

「すごく旅行してる感じがします」

 

 理央は上機嫌だった。

 

「車だと、どうしても中から見ることになりますからね」

 

 澪も、朝の景色を見回す。

 

 自動馬は本物の馬や歩行者へ近づくと、速度を緩めて距離を取った。追い越せる場所まで待ち、広い区間で静かに前へ出る。理央が細かく操作しなくても、街道の流れに合わせてくれる。

 

 それでも、速度が変わるたびに理央の肩は小さく揺れた。最初は持ち手を強く握っていたが、何度か曲がるうちに、馬体が傾くより先に自分の重心を移せるようになった。

 

 最初のうちは、風も気持ちよかった。

 

 カルディオを離れるにつれ、人家の間隔が広がる。自動馬の速度も少し上がった。

 

 風が強くなった。

 

 外套を通すほどではない。しかし頬へ当たり続け、耳の先から熱を奪っていく。首元へ入り込んだ冷気に、理央が肩をすくめた。

 

 しばらくして、さっきまで続いていた理央の感想が止まった。

 

 澪も話さない。手袋をした手で襟を寄せ、顎の近くまで閉じ直している。

 

 真壁は前を向いたまま、2人の様子を一度だけ見た。

 

「……思ったより寒いですね」

 

 澪が先に認めた。

 

「はい。風がずっと来ます」

 

 理央の鼻先も少し赤くなっていた。

 

「だから言ったのだがね」

 

 真壁の声は平静だった。

 

「でも、馬の方が旅行してる感じがします」

 

「まだ続けますか?」

 

「続けます」

 

 理央は即答し、マフラーを巻き直した。

 

 澪も収納からもう一枚薄い布を出し、首元へ足した。特殊な防寒具ではない。持ってきた物を重ねただけである。

 

 自動馬の速度を少し落とすと、風の当たり方も弱くなった。

 

 エアカーなら暖かな車内で通り過ぎられる。だが、湿った土の匂いも、農家から流れてくる薪の煙も、道端ですれ違った旅人の挨拶も、これほど近くはなかった。

 

 寒さまで含めて、外を旅している。

 

 理央は手袋の中で指を動かしながら、それでも周囲を見るのをやめなかった。

 

 

 

 日が高くなると、朝の刺すような冷気は少しだけ和らいだ。

 

 カルディオ周辺の建物が見えなくなり、街道の左右が開ける。緩やかな斜面へ、葉を落とした低い木が規則正しく並んでいた。

 

「あれ、葡萄ですか?」

 

 理央が速度を落とすよう自動馬へ指示した。

 

 朝のように停止の動きへ逅れることもない。腰と膝で揺れを逃がし、正面を見たまま滑らかに減速した。

 

 隣を走っていた潪が、理央の姿勢を見て瞬きする。鑑定の結果が、つい先ほどまでと変わっていた。

 

 移動加速Lv2。

 

 理央は表示を見ることができない。潪も走行中に紙へ書いて見せるわけにはいかなかったが、理央が馬の動きに慣れ始めた理由には納得した。

 

 鑑定した澪が頷く。

 

「葡萄ですね」

 

 冬の葡萄畑は、理央が想像していた緑の景色とは違った。支柱へ沿って伸びた枝は葉を落とし、黒っぽい線になって斜面へ連なっている。畑の端では数人が枝の状態を見て回り、切った枝をまとめていた。

 

 一人が枝を持ち上げ、別の者が傷んだ部分を切る。束ねた枝は畑の端へ積まれ、細い煙が上がる場所へ運ばれていた。実のない季節でも、葡萄畑の仕事が止まっているわけではない。

 

「昨日のお酒、この辺の葡萄だったりするんですか?」

 

「全部がここの葡萄とは限りませんけど、これだけ畑があるなら、かなり使われていそうですね」

 

 澪は市場で見た酒樽を思い出した。

 

 昨日までは店に並ぶ商品の一つだった。今は、その中身になる葡萄を育てる土地を走っている。

 

 道の反対側には、冬の農地が広がっていた。収穫を終えた畑もあれば、寒さに強い作物が列を作っている場所もある。低い石垣が区画を分け、その向こうでは羊や山羊に似た家畜が乾いた草を食べていた。

 

 風向きが変わると、湿った土と家畜の匂いが混じる。淡い石造りの農家からは薪の煙が上がっていた。

 

 農家の庭には、洗って伏せた木桶が並んでいる。大きな樽を荷車へ載せようとしている家もあった。中身が酒とは限らないが、昨日見た市場の樽と、畑の景色が理央の中で重なる。

 

「お店に並んでた樽も、最初はこういう場所から出るんですね」

 

「作る人、運ぶ人、売る人が別なら、いくつも商売がつながります」

 

 澪は、荷車の縄を締め直している農民を見た。完成した果実酒だけでなく、樽、荷車、縄、保存場所も必要になる。葡萄畑一つからでも、関わる仕事は多い。

 

「海の国でも、ずっと魚を食べてるわけじゃないんですね」

 

「昨日も肉や豆を食べただろう」

 

「そうなんですけど、市場に魚が多かったので」

 

 理央は葡萄畑の先にある牧草地を見た。

 

「こういうところから、あの料理の肉や野菜も来るんですね」

 

 真壁は畑そのものだけでなく、脇道から街道へ出てきた荷車を見ていた。荷台には小さな樽と、布をかぶせた籠が積まれている。農家の生産物が街道へ出て、村や町へ運ばれていく。

 

「海から来た物だけで成り立つ国ではないということだ」

 

 街道脇で枝を束ねていた男が、3頭の自動馬を珍しそうに見た。理央が挨拶すると、強い抑揚のある返事が戻ってくる。意味は問題なく通じるが、カルディオで聞いたのと同じく、王国側とは響きが大きく違った。

 

 自動馬は、農作業をする者や本物の馬の近くで速度を落とす。

 

 急いでいないからこそ、理央は何度も振り返った。

 

 酒樽、料理、葡萄畑、農家、街道を走る荷車。

 

 昨日市場で見た商品が、少しずつ土地と人の暮らしにつながっていった。

 

 

 

 街道の先に、石造りの家が集まって見え始めた。

 

 カルディオのような外壁も、大きな市場もない。畑の間に家が一軒、二軒と増え、やがて道の両側へ並んだ小さな村だった。

 

 共同で使っているらしい水場では、女たちが桶へ水をくんでいる。家の脇には薪が積まれ、柵の中で家畜が動いていた。裸足ではないが軽い靴を履いた子供たちが、道端で石を並べて遊んでいる。

 

 家々は同じ形ではない。街道へ面した家は入口が広く、荷や道具を出し入れしやすそうだった。畑側の家には家畜小屋や小さな作業場が続いている。壁には乾燥させた草や籠が掛かり、軒の下には冬でも使う農具が置かれていた。

 

 3頭の自動馬が近づくと、子供たちが一斉に顔を上げた。

 

「見られてますね」

 

「カルディオでもエアカーを見られていましたから」

 

「乗り物を変えても同じですね」

 

 理央が苦笑する。

 

 真壁は自動馬を歩く速さまで落とした。本物の馬をつないだ家もあり、村の中で速く走る理由はない。

 

 街道沿いには、通り過ぎる旅人を相手にする小さな店があった。焼いたパン、干した果物、簡単な日用品。店先の鍋から温かな果実水の湯気が上がっている。

 

「少し休みますか?」

 

「賛成です」

 

 理央の返事は早かった。

 

 3頭へ待機を指示し、店の邪魔にならない場所へ並ばせる。自動馬は首を動かさず、その場で静かに止まった。本物の馬のように水も飼葉も求めない。

 

 店主が自動馬を見てから、3人を見る。

 

「こいつらは食わないのか?」

 

「必要ない」

 

「便利な馬だな。うちの馬にも教えてやりたい」

 

「教えて覚えるものではないがね」

 

 真壁の返答に店主は笑った。

 

 店主の話し方はカルディオよりさらに抑揚が強かった。言葉の意味は分かるのに、語尾が上がる場所も、息を置く位置も違う。理央は一度聞いただけで理解できていることを不思議に感じながら、返事をする時だけ少しゆっくり話した。

 

「ここから西にも、村はありますか?」

 

「あるよ。次はここより大きい。日が落ちる前なら道に迷うこともない」

 

 店主は街道の分かれ方まで教えた。畑へ入る細い道と、西へ続く大きな道を間違えなければよいという。

 

 3人は温かな果実水を買った。甘い果汁に香草を加えたもので、両手で器を包むと指先が温まる。

 

「朝より暖かくなりましたね」

 

 理央が湯気越しに言った。

 

「日も高くなりましたから」

 

「最初から昼頃に出れば、もう少し楽だったのだがね」

 

「でも、それだと今日進める時間が減るじゃないですか」

 

 理央は自分から馬を提案した手前、寒さだけで失敗にはしたくないらしい。

 

 澪は店先の商品を見た。カルディオの鮮やかな布や海産物は少ない。村で焼いたパンと、近くで採れた果物。農作業に使う縄や籠。旅人向けの商品も、土地の暮らしの延長にある。

 

 道を通る商人がパンを数個買い、歩きながら食べていく。別の旅人は水だけを補い、休まず西へ向かった。

 

 外国の名所ではない。

 

 畑で働き、家畜を飼い、通り過ぎる者へ必要な物を売る。カルディオの外にも、普通の一日が続いていた。

 

 果実水を飲み終える頃には、理央の指先もすっかり戻っていた。

 

「行けます」

 

「無理はしていませんね?」

 

「してません。次は最初からマフラーをちゃんと巻きます」

 

 3人は再び自動馬へ乗り、西へ向かった。

 

 

 

 村を離れると、街道を行く荷馬車の数が増えた。

 

 西へ向かう小さな商隊が、3人の前を進んでいる。荷馬車は3台。その前後を、馬に乗った者たちが固めていた。

 

 理央は最初、荷台に積まれた樽を見ていた。

 

 やがて、その周りにいる人数へ目が移る。

 

 先頭に2人。荷馬車の横にも武装した者が歩き、最後尾には弓を持つ者がいる。荷を運ぶ商人より、護衛の方が目についた。

 

 真壁たちは無理に追い越さず、距離を空けて進んだ。やがて商隊が脇道へ曲がり、街道の先が開く。

 

 今度は東へ向かう隊商とすれ違った。

 

 荷車の前に騎乗者。左右にも槍を持つ護衛がいる。腰へ剣を下げた商人まで、周囲の林へ目を配っていた。

 

 護衛たちは3頭の自動馬にも視線を向けた。珍しい乗り物だから見るというより、近づいてくる3人が商人なのか、武装した一行なのかを確かめているようだった。真壁が道の片側へ寄せると、先頭の護衛もわずかに間隔を空けて通り過ぎた。

 

 理央は通り過ぎた一行を振り返った。

 

 その動きでも姿勢は崩れない。腰を馬の進行方向へ残したまま、上体だけを回していた。出発時なら持ち手へしがみついていたはずだった。

 

「護衛の人、多くないですか?」

 

 澪も次の荷馬車を見る。

 

「多いですね」

 

 さらに先から来た小さな商隊にも、荷馬車と同じくらいの人数がついていた。装備は揃っていないが、弓、槍、剣と、それぞれ武器を持っている。

 

「確かに多い」

 

 真壁も認めた。

 

「やっぱり盗賊が多いからですか?」

 

「この街道は交易量が多い。普段から護衛をつけるのが普通という可能性もある」

 

 真壁は結論を急がなかった。

 

 一組だけなら、価値の高い荷を運んでいるのかもしれない。二組なら、偶然が重なったとも考えられる。だが、すれ違う商隊の多くが似たような備えをしている。

 

 商人自身の装備にも違いがあった。剣を使い慣れているようには見えなくても、短い武器を腰へ差し、荷車から離れない。荷を確認する時も、全員が同時に背を向けることはなかった。

 

 理央は、次に来た荷車の商品ではなく、先頭と後方を見た。

 

 護衛の数。持っている武器。どこへ視線を向けているか。

 

「昨日までは、荷物ばっかり見てました」

 

「今日は同じ高さで人も見えますからね」

 

 エアカーの中からでも護衛は見えただろう。しかし馬上で同じ道を進み、近い距離ですれ違うと、武器を握る手や周囲を警戒する表情まで分かる。

 

 街道そのものは穏やかだった。

 

 畑では人が働き、遠くに村の煙が見える。今のところ、道を塞ぐ者も、逃げてくる旅人もいない。

 

 ただ、商人たちは何かに備えていた。

 

 理央は景色を見る合間に、前方の林や脇道にも目を向けるようになった。

 

 

 

 昼が近づく頃、街道沿いに旅人向けの食堂が見えた。

 

 朝から外気に当たり続けていた3人に、屋根から上がる煙と煮込みの匂いは魅力的だった。

 

「入りません?」

 

「そのつもりです」

 

 理央が言い終える前に、澪は自動馬を店の脇へ向けていた。

 

 待機場所には、本物の馬が何頭もつながれている。3頭の自動馬は少し離れた場所へ並ばせた。珍しそうに見る者はいたが、食事時の客は自分の席を確保する方を優先している。

 

 店は木と石で作られ、中央の火が室内を暖めていた。大鍋から湯気が上がり、旅人、商人、護衛が幾つもの卓を埋めている。カルディオの食堂ほど華やかではないが、外套を脱げるだけでもありがたかった。

 

 壁際には、客が持ち込んだ槍や弓を立てる場所があった。武器を手放さない者もいるが、食事中まで周囲を威圧しているわけではない。店の者は慣れた様子で、その間を通って料理を運んでいた。

 

 入口が開くたびに冷たい風が入り、火に近い席の客が肩をすくめる。新しく入ってきた商人は、まず空席よりも外へ止めた荷車が見える場所を探した。

 

 3人は空いた卓へ座り、豆と肉の煮込み、焼いた肉と野菜、パン、果実水を頼んだ。

 

 理央は運ばれてきた器へ両手を添えた。

 

「温かい……」

 

「馬の旅にしてよかったんですよね?」

 

 澪も同じように煮込みの湯気へ手を近づけている。

 

「澪さんだって賛成したじゃないですか」

 

「だから笑ってませんよ」

 

 真壁は普通にパンをちぎり、煮込みへ浸していた。

 

 豆と肉、根菜を長く煮た料理は味が濃く、冷えた体へよく合った。理央は最初の数口をほとんど話さずに食べ、ようやく肩の力を抜く。

 

「昨日の夕飯より、旅の途中のご飯って感じがします」

 

「豪華ではありませんけど、今はこっちの方が嬉しいですね」

 

 澪はパンを煮汁へ浸した。温度と塩気が、冷えた体へ直接入ってくる。理央も真似をし、柔らかくなったパンを一口で食べた。

 

 周囲の卓では、商人たちが今日の道や荷について話している。

 

 意味は普通に理解できる。ただし発音と抑揚は王国側とは大きく異なり、何人もの声が重なるとカルディオ以上に土地の響きが強くなった。

 

「今度は護衛を増やす」

 

 近くの卓から、その一言が聞こえた。

 

「それでも足りるか分からん。街道を外れた所から出てくるんだ」

 

「小さい隊は、次の村まで一緒に行った方がいい」

 

 別の卓でも、護衛と街道の話をしている。やがて、盗賊という言葉が混じった。

 

 澪と理央が、ほぼ同時に真壁を見る。

 

 真壁はすぐに会話へ割り込まなかった。煮込みを食べ、店主が空いた器を下げに来るのを待つ。

 

「最近、この辺りは物騒なのかね」

 

 真壁が尋ねると、店主は食器を重ねながら顔をしかめた。

 

「昔から盗賊はいる。だが、最近は襲われたって話が増えたな」

 

 近くの商人も、こちらへ顔を向けた。

 

「初めてこの道を通るのか?」

 

「そうだ」

 

「なら、少人数で林の近くを進む時は気をつけた方がいい」

 

 温かな昼食の席で、朝にはなかった種類の話が始まった。

 

 

 

 真壁は、話を一人だけから聞かなかった。

 

「増えたというのは、いつ頃からかな」

 

「正確な日なんて知らんよ。ただ、前ならひと月に一度聞くかどうかだったのが、このところは続いている」

 

 店主はそう答えた。

 

 近くの卓にいた商人は、別の話をした。

 

「俺が通った時は何もなかった。だが、知り合いが荷を取られた。小さな隊だった」

 

「大きな商隊も襲われるのかね」

 

「護衛が多ければ、向こうも寄ってこない。だから皆、増やしてるんだ」

 

 別の護衛は、小規模な商人同士が次の村までまとまって進むことがあると言った。一人では雇える護衛が少なくても、複数の荷馬車が集まれば周囲を守りやすい。

 

「この街道を使わないわけにはいかないんですか?」

 

 理央が尋ねた。

 

 商人は肩をすくめる。

 

「使わなければ、東へも西へも荷が届かん。遠回りして安全になる道があるわけでもない」

 

 怖いから商売をやめるという話ではなかった。

 

 護衛を増やす。出発する時間を合わせる。小さな隊はまとまる。襲われる可能性があっても、荷を待つ町や店がある以上、街道を使い続ける。

 

 現地の商人たちは盗賊へ怒り、費用が増えることを迷惑がっていた。それでも声を潜めて震えているわけではない。明日の荷と、次に雇う護衛の話をしている。

 

「どこに出るか、決まっているのですか?」

 

 澪の質問には、答えが分かれた。

 

「林の多い場所だ」

 

「丘の向こうで出たと聞いた」

 

「同じ連中かどうかも分からん」

 

 被害が増えたという点は共通している。しかし、場所も相手の人数も一定ではない。誰が率いているのか、同じ集団なのかも、ここにいる者には分からなかった。

 

 真壁はそれ以上、原因を決めつけなかった。

 

「盗賊被害が増えているのは、確からしい」

 

 店を出た後、真壁は2人へそう言った。

 

「護衛が多かった理由も、それなんですね」

 

「理由の一つとは考えられる」

 

 澪は街道を見た。昼の日差しの中を、荷馬車が変わらず行き来している。

 

 理央は自動馬へ乗る前に、林のある方向を見た。

 

 旅行を中止するほどの話ではない。

 

 だが、何も知らずに景色だけを見ていた朝とは違っていた。

 

 

 

 食堂を出てからも、街道は穏やかに見えた。

 

 冬の日差しが畑を照らし、遠くの村から煙が上がっている。西へ向かう荷車とすれ違い、徒歩の旅人が3頭の自動馬を振り返る。

 

 しばらく進んだところで、理央が前方を見た。

 

「あの荷車、遅くないですか?」

 

 東へ向かってくる小さな商隊がいた。

 

 荷車は2台。前を歩く馬の足取りが重く、一台の車輪が回るたびに軋んでいる。近づくにつれ、幌が大きく裂けているのが見えた。

 

 木枠には刃物で削られたような傷がある。荷台は半分以上空き、残った箱も片側へ寄せられていた。馬は汗と泥で汚れ、商人たちの外套にも土がついている。

 

 それでも、普通に荷を運んできた隊ではなかった。

 

 商人の一人は片腕へ布を巻いていた。歩けないほどの傷ではないらしく、自分で馬の手綱を引いている。もう一人は何度も幌を見上げ、裂けた部分が風に広がらないよう縄を足していた。

 

 真壁は3頭を街道の端へ寄せ、相手が通れる場所を空けた。先頭の商人が片手を上げる。

 

「助かる」

 

「車輪が傷んでいるようだが、動かせるのか」

 

「村までは持たせる。そこで直す」

 

 商人は自分の荷車を見て、苦い顔をした。

 

「盗賊ですか?」

 

 理央が尋ねると、男は3人を見た。自動馬へ乗った見慣れない旅人だが、隠すようなことでもないと判断したらしい。

 

「そうだ。昨日やられた」

 

「荷は?」

 

「持っていかれた。全部じゃない。命が残っただけ、まだましだ」

 

 荷車の後ろには、縄だけが残った場所があった。そこに何を積んでいたのかは分からない。空いた場所が大きいほど、失った金額も大きいのだろうが、真壁は仕入れ値や品物の種類まで聞かなかった。

 

 護衛が抵抗し、相手も長く留まらなかったという。それ以上の人数や武器について、男は詳しく話さなかった。疲れており、まず村へ着くことを優先している。

 

 真壁も無理に引き止めない。

 

「この先に食堂と村がある。村までは遠くない」

 

「分かっている。何度も通った道だ」

 

 商人は短く礼を言い、荷車を進めた。

 

 真壁たちはその場で金を渡さなかった。奪われた荷を補う約束もしない。相手もそれを求めてはいなかった。

 

 軋む車輪の音が遠ざかる。

 

 荷車を引く馬が一度つまずき、商人たちが声を掛けて立て直した。誰も立ち止まって嘆いてはいない。村へ着き、車輪と幌を直し、残った荷を次へ運ぶことに集中していた。

 

 理央は、裂けた幌が見えなくなるまで振り返っていた。

 

「本当に、襲われた人がいるんですね」

 

「そうですね」

 

 澪の声も、食堂を出た時より低かった。

 

 噂の中にいた盗賊が、傷んだ荷車と減った積み荷へ形を変えた。

 

 真壁は地図で周囲を確かめる。近くに不自然な集団は見当たらない。

 

「今は進もう」

 

 3頭の自動馬は、再び西へ向きを変えた。

 

 

 

 被害を受けた商人と別れた後、3人の会話は少なくなった。

 

 理央は、道端の葡萄畑だけではなく、その奥にある林や脇道を見るようになっていた。何かを見つけたわけではない。それでも、どこから人が出てこられるかを考えている。

 

 真壁が速度を少し落とした。

 

「理央君」

 

「はい」

 

「確認しておこう。もし危険があれば、まず自分を守ることだ」

 

 理央は真壁を見る。

 

「防衛用収納展開を優先し、前へ出ない。射撃を持っていても、相手を探して撃つ必要はない」

 

「分かってます」

 

 理央の返事は早かったが、真壁はそこで終えなかった。

 

「私か澪君の後ろに入る。自分だけで判断して追わない。守る場所から離れない。それでよい」

 

「はい。前には出ません」

 

 理央は改めて答えた。

 

 射撃と防衛用収納展開を取得している。それでも、盗賊と戦うためにこの旅へ来たわけではない。使える技能があることと、戦闘員になることは別だった。

 

「私も前へ突っ込むつもりはありませんよ」

 

 澪が隣から言った。

 

「澪君にも、そうしてもらいたい」

 

「なんで私だけ、少し念を押されるんですか?」

 

「実績があるからだ」

 

「どの実績ですか」

 

「一つではない」

 

 真壁の即答に、理央が少し笑った。

 

「澪さん、前に出そうですもんね」

 

「理央ちゃんまで、そっちに回らないでください」

 

 張りつめかけていた空気が、わずかに緩んだ。

 

 理央は自分の手元を見た。危険が来たら、前へ出て何かを倒すのではない。防壁を出し、2人の後ろへ入る。するべきことが決まると、林を過剰に見続ける必要もなくなった。

 

「その時は、ちゃんと指示してください」

 

「もちろんだ」

 

 真壁は前方へ視線を戻す。

 

 今すぐ戦う相手はいない。

 

 3頭は間隔を少し詰め、同じ速度で街道を進んだ。

 

 

 

 午後の街道にも、朝と同じ葡萄畑が続いていた。

 

 葉を落とした枝。低い石垣。淡い色の農家。畑を横切る細い道。冬の青空と、斜めから差す日差し。

 

 景色そのものは変わっていない。

 

 風は朝より弱く、日なたでは外套の中に少し暖かさが残る。葡萄畑で枝を整える音がして、遠くでは家畜を呼ぶ声が響いた。旅だけを考えれば、朝より歩きやすい時間だった。

 

 理央の目に入るものは変わっていた。

 

 東へ向かう商隊が見えると、まず荷車の数を数える。その前後に何人いるか、武器を持っているかを見る。街道脇の林はきれいな冬景色であると同時に、人が隠れられる場所にも見えた。

 

 澪も、店で売れそうな品だけを考えてはいない。向こうから来る者の歩き方や、荷車の傷へ注意を向けている。

 

 真壁は朝から変わらず、前方と左右を確認していた。違うのは、理央と澪にも、その意味が分かるようになったことだった。

 

「でも、車だったら気づかなかったかもしれませんね」

 

 理央が言った。

 

「護衛の人たちですか?」

 

「それもです。さっきの商人さんも、車ならすれ違って終わってたかもしれません」

 

 傷んだ荷車を見つけたとしても、暖かな車内から短時間で通過すれば、会話をする理由までは生まれなかったかもしれない。

 

 今日は同じ高さで相手を見た。道を譲り、立ち止まり、顔を見て話した。

 

 理央は自動馬の速度を、朝より少しだけ遅くしていた。早く進む必要がなくなったわけではない。相手の荷車や表情を確かめる時間を、自分から作っていた。

 

 荷馬車が近づけば、理央は真壁に言われる前に街道の端へ寄った。輪轍の深い所を避けつつ、相手が通れる幅を残す。止まる時も、体は自動馬の動きと一緒に静かに収まった。

 

 潪が改めて鑑定する。

 

 移動加速Lv3。

 

 1日の街道旅行の間に、2つ上がっていた。

 

「馬で来たことを、後悔してはいないのだな」

 

 真壁が尋ねる。

 

「寒かったですけど、それとは別です」

 

「朝より周りを見るようになりましたね」

 

 澪が言うと、理央は少し考えた。

 

「朝は、外国の景色ばっかり見てました。今は、同じ道を使ってる人も見てます」

 

 その言葉の間にも、小さな荷馬車が3人を追い越していった。御者の隣には弓を持った男が座っている。後ろからもう1人、馬に乗った護衛がついていた。

 

 理央は荷台の品物と、護衛の両方を見る。

 

 旅の楽しさが消えたわけではない。

 

 道の先に新しい村が見えれば、どんな店があるのか気になる。畑へ見慣れない作物があれば、理央は澪へ尋ねた。盗賊の話を知ったからといって、半島の暮らしすべてが危険に塗り替わったわけではない。

 

 葡萄畑も、石造りの村も、土地の人々との挨拶も面白かった。自動馬で外気の中を進んだからこそ、昨日よりこの国へ近づけた気がする。

 

 ただ、外国の街道には、きれいな景色だけがあるわけではなかった。

 

 3頭は朝より近い間隔で、西へ進み続けた。

 

 

 

 日が傾き始めると、冬の空気が再び冷たくなった。

 

 まだ西へ進むことはできる。しかし急ぐ旅ではない。次の町まで無理に距離を延ばせば、暗くなってから安全な場所を探すことになる。

 

 真壁は街道と地図を確認し、人の往来から少し外れた開けた場所で自動馬を止めた。

 

「今日はここまでにしよう」

 

「賛成です」

 

 澪が自動馬から降り、固まった腰を伸ばした。

 

 自動制御で落とされる心配が少なくても、座っているだけで楽なわけではない。同じ姿勢で揺れを受け、朝から冷たい風に当たり続けていた。

 

 理央も地面へ降りると、足の感覚を確かめるように数歩歩いた。

 

 乗り始めた朝より、降りる動きそのもはずっと滑らかだった。最後は自動馬が完全に止まったことを感触で確かめ、足元を見ないまま地面へ降りている。

 

 鞍から離れた直後は、地面に立っているのに体がまだ揺れているように感じる。理央は腰へ手を当て、澪も誰にも見られていないのを確認してから、固まった足を軽く振った。

 

「思ったより疲れました」

 

「自動だから、乗っている人まで疲れないわけではありませんからね」

 

「寒かったですし」

 

「言ったのだがね」

 

 真壁に返され、理央は何も言えなくなった。

 

 3人で周囲を確認する。街道から離れすぎず、人や荷車と重ならない。地図上にも危険な反応はなく、翌日戻ってきても問題のない場所だった。

 

 真壁は3頭の自動馬を収納へ戻した。薄い靄が消えると、朝から乗ってきた馬の姿も、規則的な足音もなくなった。

 

 澪が理央を見る。

 

「明日も馬ですか?」

 

 理央はすぐには答えなかった。

 

 その間に、潪は理央の現在の状態を紙へ短く書き、本人へ見せた。

 

「移動加速、3になってます」

 

「え、2つも上がったんですか?」

 

「朝は馬に運ばれてる感じでしたけど、後半は普通に乗ってましたからね」

 

 理央は紙の「Lv3」を見て、ひとしきり嬉しそうに笑った。寒さと疲れだけではなく、実際に乗り方も身についていた。

 

 冷えた頬。長時間同じ姿勢だった足と腰。昼に見た護衛。裂けた幌と、軋んでいた荷車。

 

 それから、葡萄畑と村の子供たち、温かな果実水、街道ですれ違った人々を思い出す。

 

 エアカーなら暖かく、もっと遠くまで進めた。だが、農民と挨拶を交わし、村の店主から道を聞き、被害を受けた商人と同じ場所で立ち止まったかは分からない。

 

「……馬で」

 

「懲りていないようだな」

 

「寒いのは分かりました。明日はもっと巻いてきます」

 

「そういう対策なんですね」

 

 澪が笑う。

 

 楽しいだけの街道旅行ではなくなった。盗賊被害が増え、実際に荷を奪われた商人もいる。明日は今日より周囲へ注意しなければならない。

 

 それでも、理央は車内へ戻ろうとは言わなかった。

 

 真壁は澪と理央を同行者にして転移した。

 

 次の瞬間、夕日に照らされた街道と畑が消える。

 

 その夜も3人はゲンダイへ戻り、理央は自宅へ帰った。

 

 翌日は、今日登録した場所から再開する。

 

 同じ3頭で、さらに西へ進む予定だった。

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