押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第304話 母の故郷なんです

 

 街道に残っていた武器が集められ、拘束された襲撃者たちは馬車の一台へ乗せられた。

 

 負傷した護衛のうち、横になっていた方がよい者は別の馬車へ移されている。歩ける者も、真壁が固定した腕や脚をかばいながら持ち場へ戻ろうとしていた。

 

「無理に元の配置へ戻す必要はない。動ける人数で組み直した方がよい」

 

 真壁はそう言ったが、護衛の並べ方までは指示しなかった。誰をどこへ置くかは、アレシア側の護衛を束ねる男が決めている。

 

 あくまで真壁たちは同行者だった。

 

 理央は、出発の準備が進む馬車を眺めた。

 

「本当に一緒に行くんですね」

 

「同じ方向ですからね」

 

 澪が答える。

 

「昨日まで普通の旅行だったんですけど」

 

「普通だったかなあ」

 

 新型エアカーで山を越え、自動馬で冬の街道を進み、盗賊に襲われた商人と会った。澪に言われて振り返ると、最初からそれほど普通ではなかった気もする。

 

「少なくとも今日は、昨日より静かであってほしいものだね」

 

 3人は、襲撃現場へ入る前に馬を残した場所へ戻ると告げた。

 

 街道の曲がり角を越え、アレシア一行から見えなくなったところで真壁が収納へ手を伸ばす。薄い靄の中から、3頭の自動馬が姿を現した。

 

 自動馬であることは外へ明かさない。見た目だけなら、鞍を付けた馬にしか見えなかった。

 

 理央は昨日まで乗っていた一頭へ近づき、自分で鞍へ上がった。初日に比べれば、足を掛ける位置にも姿勢にも迷いがない。

 

 3人が騎乗して戻ると、アレシアが馬車のそばから迎えた。

 

「馬も連れていらしたのですね」

 

「少し手前で待たせていたんです」

 

 澪の説明は嘘ではない。待たせた場所が収納内だったことを話していないだけである。

 

「騒ぎがあっても逃げないとは、よく訓練された馬なのですね」

 

「ええ、まあ」

 

 澪は曖昧に答えた。理央も余計な説明はせず、黙って頷いた。

 

 やがて馬車が動き出した。

 

 昨日までの3人旅に、第一王女と護衛たちが加わる。

 

 理央は自動馬を進ませながら、少し前を走る馬車を見た。王女を助けたという事実より、その王女とこのまま一緒に旅をすることの方が、まだ現実味がなかった。

 

 

 

 

 襲撃現場を離れた時には、すでに昼を回っていた。

 

 戦闘が始まる前から、誰も昼食を取っていない。だが、傷を負った者を道端へ残したまま食事を始めるわけにもいかず、ここまで後回しになっていた。

 

 一行の速度は上がらなかった。

 

 負傷者を乗せた馬車は、轍を越えるたびにゆっくり揺れる。護衛たちも、車体が大きく傾かない道を選びながら進んでいた。

 

 真壁は時折、自動馬を馬車へ寄せた。窓から中を覗くのではなく、休憩のために馬車が止まった時だけ、処置した者の呼吸や顔色を確かめる。

 

「真壁さん、怪我した人は大丈夫そうですか?」

 

「今のところ問題はない。出血も増えていない」

 

「医術、帰ってからですからね」

 

 理央が澪へ念を押した。

 

「分かってます。今ここで取ったりしませんよ」

 

「それでよい。芽が出たからといって、移動中に試す必要はない」

 

 医術の芽が出た澪と、ほとんど同時に同じ芽が出た理央。共鳴の影響だとは考えられるが、今は確かめる場所でも時間でもない。

 

「帰ってから確認すればよい」

 

 真壁がそう言って話を切った。

 

「帰ったら、何をするんですか?」

 

「それも帰ってから決めよう」

 

「やっぱり何かはするんですね」

 

 理央は少し嫌そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 

 代わりに小さく鳴った自分の腹を押さえる。

 

「次の村で何か食べられるといいですね」

 

「そうですね。朝から動きっぱなしですし」

 

「負傷者を休ませられる場所があれば、そこで遅い昼食にしよう」

 

 真壁が前方の村へ目を向けた。

 

 街道の左右には、葉を落とした葡萄の木が並んでいた。低い石垣の向こうには冬の畑が広がり、その先には家畜を囲う柵が見える。

 

 やがて、小さな村が近づいてきた。

 

 家が集まる場所の中央に、人だかりがある。

 

 売り物を並べた市場ではない。住民たちは桶や水瓶、小さな樽を手にしていた。その中心にあるのは、石で囲まれた井戸だった。

 

 水をくみ上げた女が、桶を両手で持って家へ戻っていく。別の男は荷車へ樽を積み、その口へ布をかぶせていた。

 

 低い冬の日はすでに西へ傾き始めていた。日差しを受けている間は外套の内側にわずかな暖かさが残るが、馬上では正面から来る風が頬を冷やす。

 

 真壁の視線が、一度だけ井戸へ向く。

 

 それだけで、一行は村を通り過ぎた。

 

 

 

 

 次の村でも、水を運ぶ人の姿があった。

 

 こちらには街道沿いに石造りの水槽があり、その奥に井戸がある。水槽から家畜へ水を飲ませる場所と、人が桶へくむ場所は離れていた。

 

 屋根の端から細い樋が伸び、大きな甕へつながっている家もある。今は雨が降っていないため、甕の口には蓋が置かれていた。

 

 畑は広い。だが、王国側の農村で見かけたような水路は、街道から見える範囲には少なかった。

 

 村の中には、景色だけでは分からない暮らしがあった。

 

 煙突から流れる薪煙。家畜小屋の乾いた藁と糞。窓を開けた家からは、焼いたパンと豆を煮る匂いが漂ってくる。井戸の周囲には水を待つ者だけでなく、立ち話をする女たちや、空の桶を抱えた子供もいた。

 

 水場は水を得る設備であると同時に、村人が顔を合わせる場所でもあるらしい。

 

「何見てるんです?」

 

 理央が尋ねる。

 

「水だ」

 

「水?」

 

 理央も井戸の方を見る。住民が水をくんでいるだけで、珍しい騒ぎが起きているわけではない。

 

 馬車が道幅の広い場所で速度を落とした時、真壁は近くまで来たアレシアへ声をかけた。

 

「この辺りは井戸が多いようだね」

 

「ええ。川から離れている村では、井戸を使うところが多いです」

 

「なるほど」

 

 真壁はそれだけで視線を街道へ戻した。

 

 村を抜けてから、理央が不思議そうに聞く。

 

「もう聞かないんですか?」

 

「何のことかね」

 

「井戸のことです。何か気になったんですよね?」

 

「見れば分かることまで聞く必要はない」

 

「そういうものなんですか?」

 

「水を運ぶ距離も、使っている桶も、雨水をためていることも見えている。今はそれで十分だ」

 

 井戸からどれほど離れた家まで水を運んでいるか。桶と樽をどう使い分けているか。雨水を捨てずにためているか。それは質問しなくても、街道を進むだけで見える。

 

「聞かないのも商売なんですね」

 

「相手が話したくないことを無理に聞かないのも、商人には必要なことだ」

 

 理央はもう一度、遠ざかる村を振り返った。

 

 住民の一人が、くみ上げた水をこぼさないよう、ゆっくり家へ運んでいる。

 

 真壁が見ていたのは井戸そのものではなく、水を手に入れてから家へ届くまでの暮らしだった。

 

 村を離れると、パンと薪煙の匂いは後ろへ薄れ、再び土と枯れ草の匂いが戻ってきた。

 

 理央は冷たい風を吸い込んだ。車内から眺めるだけなら、きっと気づかなかった匂いだった。

 

 

 

 

 次の村へ着いた頃には、昼をかなり過ぎていた。

 

 街道沿いには、旅人を相手にする小さな食堂があった。石壁の内側から薪の燃える匂いが流れ、入口脇の大鍋から白い湯気が上がっている。

 

 そこで一行は、ようやく遅い昼食を取ることになった。

 

 負傷者を乗せた馬車が止まり、護衛たちは馬の具合を確かめる。携行していた水が桶へ移されたが、馬が飲み終えた後も余った水を地面へ捨てる者はいなかった。

 

 アレシアも馬車から降りた。

 

 食事は、豆と肉を煮込んだものに平たいパン、焼いた野菜、それに果実水だった。店の主人は海から運ばれてきたという塩漬け魚も焼いている。

 

 炙られた魚の脂が炭へ落ちるたび、塩気を含んだ煙が広がった。煮込みの香草、濡れた外套、馬と藁、人が暖を取る火。店の周囲には、街道で暮らす者たちの匂いが混ざっていた。

 

「まだ海は見えないのに、魚は先に来るんですね」

 

 理央が焼き魚を見て言う。

 

「海から街道を通って運ばれてきますから」

 

 アレシアが答えた。

 

「傷みにくくするため、塩を強く使った物が多いです」

 

「本当にしょっぱいですね」

 

 理央は一口食べ、すぐにパンへ手を伸ばした。

 

 負傷者には、真壁が状態を確かめたうえで、煮汁に浸して柔らかくしたパンが運ばれた。食べさせず休ませる者には、口元を湿らせるだけに留めている。

 

 理央は自動馬のそばに立ちながら、話しかけるかどうか迷っていた。助けた相手とはいえ第一王女である。先ほどまで普通に話していた澪の方が、少しおかしいのかもしれない。

 

 だが、アレシアは一人で立っていた。護衛は近くにいるものの、話し相手になっている様子はない。

 

「王女様って、移動中はずっと馬車なんですか?」

 

 結局、理央はそのまま聞いた。

 

 近くにいた護衛が一瞬だけ理央を見る。

 

「ほとんどはそうですね」

 

「……退屈じゃないですか?」

 

「理央ちゃん」

 

 澪がたしなめる。けれど、アレシアは少し目を丸くした後、笑った。

 

「退屈ですよ」

 

「やっぱり退屈なんだ」

 

「理央ちゃん」

 

「だって、気になったんです」

 

 アレシアは怒った様子もなく、止まっている馬車を振り返った。

 

「景色を見ることはできますが、長い移動では同じ道が続きます。本を持ってくることもあります」

 

「本、読むんですか?」

 

 理央の反応が急に早くなった。

 

「ええ。物語も読みます」

 

「どんな話です?」

 

「昔の騎士や、海を渡った人たちの話が多いですね」

 

「海の話、多いんですか?」

 

「多いですよ。港を出た船が嵐に遭ったり、知らない島へ流れ着いたり。最後には財宝を持ち帰る話もあります」

 

「こっちでも財宝は持ち帰るんですね」

 

「持ち帰らないと、読んだ後に少し寂しいでしょう?」

 

 理央は真面目に考えてから頷いた。

 

「分かります。苦労した分、何かは持って帰ってほしいです」

 

「こっちにもそういう小説があるんだ……」

 

「小説?」

 

「物語を書いた本のことです。私も、そういうのを書いてます」

 

 言ってから、理央は少しだけ照れた。王女に自分の本を売り込むつもりはない。

 

「理央さんは作家なのですか?」

 

「一応、そうです。今は商人にもなりましたけど」

 

「作家で、商人で、雷を使われるのですね」

 

「並べると変ですね」

 

「真壁さんよりは普通ですよ」

 

 澪の言葉に、真壁が少し離れた場所から視線だけを向けた。

 

 アレシアがまた笑う。

 

 大鍋へ薪が足され、乾いた音を立てて火の粉が上がった。護衛たちは食事を急いで済ませたが、アレシアは負傷者の馬車へ煮汁が運ばれるのを確かめてから、自分のパンへ手を伸ばした。

 

 その笑い方を見ていると、理央もようやく肩の力が抜けた。第一王女であることは変わらない。それでも、馬車の中で退屈し、本を読む若い女性でもあった。

 

 

 

 

 休憩を終えると、一行は再び西へ進み始めた。

 

 理央はしばらくアレシアの馬車の近くを走った。自動馬は細かな手綱さばきを必要としないため、速度さえ合わせれば会話を続けられる。

 

「アルヴェラって、カルディオより大きいんですか?」

 

「大きいですよ。昔は王都でしたから」

 

「昔?」

 

 理央が聞き返す。

 

「半島にあった王国の王都です」

 

 澪も少し前から振り返った。

 

「今の王都は島側ですよね」

 

「ええ。リヴェルナです」

 

「じゃあ、昔は別の国だったんですか?」

 

 理央の問いに、アレシアは少し考えてから頷いた。

 

「そういう時代がありました。今は同じセレヴィア王国ですけれど、半島には半島の国があり、アルヴェラがその王都だったのです」

 

「昔の王都が、そのまま大きな町として残ってるんですね」

 

「はい。古い建物も多く残っています」

 

 アレシアは歴史を講義するようには話さなかった。自分が何度も見てきた町について、初めて訪れる相手へ答えているだけだった。

 

 真壁は口を挟まず、会話を聞いている。

 

 街道には、アルヴェラ方面から来た荷馬車も増えていた。荷台には樽や布包み、農具らしい鉄製品が載っている。古い王都は、歴史だけで残っている町ではないらしい。

 

「お城もあるんですか?」

 

「あります。ただ、今の王宮とは違いますよ」

 

「見てみたいです」

 

「理央ちゃん、市場を見る旅じゃなかったですか?」

 

「古いお城も商品が集まる町も、どっちも見ればいいじゃないですか」

 

「商人らしく便利な言い方を覚えましたね」

 

 理央は少し得意そうに笑った。

 

 アレシアは2人の会話を聞きながら、街道の先へ目を向けていた。その表情には、知らない町へ向かう者とは違う親しさがあった。

 

 

 

 

「王女様は、アルヴェラへ何度も行ったことがあるんですか?」

 

 澪が尋ねた。

 

「はい。母が半島の出身なんです」

 

「王妃様が?」

 

「ええ。母の名はマリエラと申します。半島の古い王家につながる家に生まれました」

 

 アレシアの声が、先ほどまでとは少し変わった。

 

 王都や国の歴史ではなく、家族について話す声だった。

 

「じゃあ、お母さんの故郷に行く感じなんですね」

 

 理央が言う。

 

 アレシアはすぐには答えず、街道の左右に続く農地を見た。葉を落とした葡萄の木と、低い石垣。その向こうには淡い色の家が集まっている。

 

「そうですね。そう言われると、その方が近いかもしれません」

 

「小さい頃にも来たことがあるんですか?」

 

「何度か。母と一緒に来た時は、今よりずっと長い旅に感じました」

 

「子供の時って、移動が長く感じますもんね」

 

「馬車の窓から同じ畑が続くのを見て、まだ着かないのかと何度も聞いたそうです」

 

「それ、今の私と似てますね」

 

「理央ちゃんも、海が見えないって朝から言ってましたね」

 

「だって海の国に来たのに、ずっと畑なんですよ」

 

 アレシアは楽しそうに笑った。

 

「もう少し西へ進めば、風が変わります。海が見えるより先に分かりますよ」

 

「匂いですか?」

 

「それもあります。風が少し湿って、塩の匂いが混じります」

 

「王女様にも、こっちの王家の血が入ってるんですか?」

 

「はい。私にも母から受け継いだ血が流れています」

 

「それなら、アルヴェラの人から見ても、まったく知らない王女様じゃないんですね」

 

 理央は自分で口にしてから、不安そうに澪を見た。王家の話へ踏み込みすぎたと思ったらしい。

 

 だが、アレシアは表情を変えなかった。

 

「母を知る者も多いですから、私にも親しく接してくださる方はおります」

 

「よかった。変なこと聞いたかと思いました」

 

「構いません。王都では、もっと遠回しに同じことを聞かれます」

 

「遠回しな方がいいんですか?」

 

「いいえ。分かりにくいだけです」

 

 理央が吹き出した。

 

「王女様でも、そう思うんですね」

 

「思いますよ」

 

 アレシアも笑う。

 

 少し前まで理央は、言葉を口にするたび護衛の顔色を確かめていた。今はアレシア本人の表情を見るようになっている。

 

 第一王女と商人。

 

 身分の差が消えたわけではない。それでも街道を進む間だけは、母の故郷について話す女性と、初めてその土地を見る17歳の会話になっていた。

 

 

 

 

「アルヴェラには、母方の伯父もおります」

 

 話の流れで、アレシアがそう続けた。

 

「王妃様のお兄さんですか?」

 

「ええ。セヴェリオ・カルネス侯爵です」

 

 澪はその名を覚えた。初めて聞く人物である。

 

「伯父さんなら、今回のことも相談できますね」

 

 理央の言葉に、アレシアは迷わず頷いた。

 

「そのつもりです。伯父は半島の事情に詳しく、アルヴェラでも多くの者を動かせます。負傷した護衛を休ませる場所も、すぐに用意してくれるでしょう」

 

「頼りになる方なんですね」

 

「厳しい方ですけれど、頼りになります」

 

 真壁も、その判断を不自然とは思わなかった。

 

 王都から離れた場所で襲撃を受け、護衛には負傷者が出ている。向かう先に母方の有力な伯父がいるなら、まずそこを頼るのは合理的だった。

 

「侯爵には、襲撃についても確認してもらうのかね」

 

「はい。捕らえた者たちも引き渡します。伯父なら、半島で動いている者について心当たりを探せると思います」

 

「それがよいだろう」

 

 真壁は短く答えた。

 

 捕虜をその場で問い詰めるより、管理できる場所へ運ぶ方がよい。負傷者の治療も必要である。

 

 理央は、前を行く馬車を見た。

 

「襲われた後に、頼れる親戚が近くにいるのは安心ですね」

 

「ええ。アルヴェラまで着けば、ひとまず落ち着けます」

 

 アレシアの声には、伯父を疑う様子も警戒する響きもなかった。

 

 澪も理央も、それをそのまま受け取った。

 

 セヴェリオ・カルネス侯爵。

 

 今の3人にとっては、襲撃された姪が頼ろうとしている、半島の事情に詳しい伯父だった。

 

 

 

 

 午後に入ると、街道沿いの畑がさらに広くなった。

 

 葡萄畑のほかに、冬の間は土だけが見える農地や、家畜を放す牧草地が続いている。石造りの村には小さな店があり、農具を積んだ荷車が出入りしていた。

 

 村の中央には、また井戸がある。

 

 別の集落では、石を組んだ水槽へ樋がつながっていた。真壁はそちらへ目を向けたが、今度は何も聞かなかった。

 

 西へ進むにつれ、風にも少しずつ湿り気が混じり始めた。

 

 まだ海は見えない。丘と畑が視界を塞いでいる。それでも、昼過ぎまでの乾いた冷気とは違い、鼻の奥にかすかな塩気が残る。

 

 東へ向かう荷車にも変化があった。樽の隙間から干した魚の尾が覗き、別の荷車には太い縄と網が積まれている。すれ違った時、塩と魚、それに油を含んだ縄の匂いが一息だけ流れてきた。

 

「あ」

 

 理央が急に顔を上げた。

 

「どうしました?」

 

「海の匂い、しません?」

 

 澪も風上へ顔を向ける。強くはない。それでも、ゲンダイの海辺で感じる湿った塩の匂いが確かに混じっていた。

 

「しますね」

 

「まだ見えないのに」

 

「先ほど申し上げたでしょう?」

 

 アレシアが馬車から笑いかける。

 

「本当に匂いから来るんですね」

 

「晴れて風向きがよい日は、この辺りまで届きます」

 

 理央はもう一度、風を吸い込んだ。昼過ぎまで続いていた畑の道が、ようやく海へつながった気がした。

 

「カルディオから、ずっと畑が多いですね」

 

 理央がアレシアへ話しかける。

 

「半島は農地が多いのです。島とはかなり違います」

 

「島はやっぱり船ですか?」

 

「船も港も多いですね。漁をする者、船を造る者、海を渡って品を運ぶ者も大勢おります」

 

「帆船、まだ見てないんですよね」

 

「海へ出れば、嫌でも目に入りますよ」

 

 アレシアには当たり前の景色なのだろう。だが、理央と澪にとっては、空を飛ぶ船より本物の帆船の方が珍しい。

 

「半島は畑と牧場と、陸の道。島は港と船と海の道、みたいな感じですか?」

 

「大まかには。ただ、半島にも港はありますし、島にも畑はあります」

 

「同じ国なのに、結構違うんですね」

 

「同じ国ですけれど、違うところは多いです」

 

 アレシアは穏やかに答えた。

 

 言葉もそうだった。カルディオでは王国側の話し方も多く聞こえたが、西へ進むほど、この国特有の発音と抑揚が増えている。会話は通じても、離れた土地の強い方言同士ほど響きが違う。

 

 暮らしも一つではない。

 

 半島の農地で作られた物が街道を通って港へ向かい、島や海の向こうから来た品が反対方向へ運ばれる。同じ国の中に、陸から物を見る人間と、海から物を見る人間がいる。

 

 街道脇の店先にも、内陸の豆や葡萄酒と並んで、小魚の塩漬けや貝殻を磨いた飾りが置かれ始めていた。海はまだ地平の向こうにある。それでも、海で取れた物と海へ向かう人は、すでに街道の中へ入り込んでいる。

 

 商人になった理央には、その違いが少しずつ面白くなっていた。

 

「島の市場も見てみたいです」

 

「まずアルヴェラでしょう」

 

 澪に言われ、理央は前方へ顔を戻した。

 

「分かってます。でも、次に行きたいところが増えただけです」

 

 

 

 

 街道沿いの村で、一行はもう一度馬を休ませた。

 

 村人は井戸から水をくみ、旅人へ売る小さな樽へ移している。護衛たちも必要な分を買い足した。

 

 水を扱う手つきは丁寧だった。桶からこぼれたわずかな水まで惜しむというほどではない。それでも、余れば捨ててしまう使い方とも違う。

 

 村の端では、洗った野菜が籠へ広げられていた。家々の間から煮炊きの煙が上がり、発酵した葡萄の甘い匂いと、塩漬け魚を炙る匂いが交互に流れてくる。

 

 内陸の村で感じた土と家畜の匂いはまだ残っている。そこへ海から運ばれた物の匂いが重なり始めていた。

 

 真壁は農地の広さと、水を運ぶ人の数を見比べた。

 

 王国側とは、水の使い方が違う。

 

 この土地では、水そのものの価値が高いらしい。

 

 出発してしばらくすると、アレシアがアルヴェラの町について話した。

 

「アルヴェラは半島でも特に大きな町です。町の中には川もありますから、この辺りとは少し違います」

 

 真壁が初めて反応した。

 

「では、水には困らないのかね」

 

「この辺りの村よりは、ずっとよいと思います」

 

「そうか」

 

 それだけで会話は終わった。

 

 理央は少し待ってから、真壁を見る。

 

「それだけなんですか?」

 

「何のことかね」

 

「もっと聞くのかと思いました。川の大きさとか、水をどこから運ぶとか」

 

 真壁は小さく笑った。

 

「これから行く町なのだから、見ればよいだろう」

 

「なるほど」

 

「それに、何でも聞き回るのは品がない」

 

「真壁さんがそれ言うんですね」

 

 澪が反射的に口を挟んだ。

 

「どういう意味かね」

 

「海水を原料として見てた人が、水の話だけ急に上品になったので」

 

「海水は海水だ。人の暮らしを聞き回ることとは違う」

 

「やっぱり海水は取るつもりなんですね」

 

「まだ何もしていないがね」

 

「まだ、なんですね」

 

 理央が真壁の言葉尻を拾い、澪が吹き出した。

 

 真壁はそれ以上、水について質問しなかった。

 

 アルヴェラには川がある。

 

 今は、それだけ覚えておけばよい。町へ着けば、自分の目で見ることができる。

 

 

 

 

 冬の日は西へ大きく傾いていた。

 

 進行方向から差す光が馬車の輪郭を縁取り、騎馬と人の影を街道の後ろへ長く伸ばしている。日差しの中ではわずかに暖かかった空気も、海の湿り気を含んだ風が吹くたび冷たく感じられた。

 

 まだ海は見えない。低い丘が幾重にも重なり、その向こうに海があることだけが匂いで分かった。

 

 負傷者を乗せた馬車に合わせているため、進みは予定より遅い。急げば距離を稼げるが、傷を悪化させてまで今日中に着く必要はなかった。

 

 護衛を束ねる男が一行の前後を確かめ、次に休める場所についてアレシアへ伝える。

 

「まずはアルヴェラですね」

 

 澪が言う。

 

「ええ。伯父のところまで行けば、負傷した者たちも休ませられます」

 

「頼りになる伯父さんなんですね」

 

「厳しい方ですけれど、頼りになります」

 

 アレシアは先ほどと同じ言葉で答えた。

 

 理央が真壁を見る。

 

 澪もつられて真壁を見た。

 

「なぜ私を見るのかね」

 

「ちょっと似てるのかなって」

 

「どの辺りがだね」

 

「厳しくて頼りになる人」

 

 澪が答えると、理央も頷く。

 

「あと、色々できそうなところです」

 

「会ったこともない相手と比べられても困るのだがね」

 

「真壁さんは商人ですもんね」

 

「そうだ」

 

「そこはすぐ認めるんですね」

 

 理央が笑う。

 

 前を行く馬車のそばでは、アレシアも小さく笑っていた。襲撃現場で初めて言葉を交わした時より、表情が分かるようになっている。

 

 第一王女という身分は変わらない。

 

 けれど、母の故郷へ向かい、頼れる伯父を目指している若い女性でもある。

 

 一行は夕方前に、街道から少し外れた休憩場所へ入った。今日はそこで負傷者を休ませることになった。

 

 近くの集落では夕食の支度が始まっていた。薪の爆ぜる音。石臼を回す低い音。子供を家へ呼ぶ声。煮込みの香草と、焼いた魚の匂い。

 

 井戸の周囲には、日が落ちる前に最後の水をくもうとする人が集まっている。満たされた桶はそれぞれの家へ運ばれ、戸口の内側へ消えていった。

 

 真壁たちは、アレシア側が夜を越せる態勢を整えたことを確かめてから、自分たちが翌朝戻れる場所を探す。

 

 道の向こうには、まだアルヴェラの城壁も建物も見えない。

 

 真壁の目に入ったのは、集落へ水桶を運んでいく人の後ろ姿だった。朝から何度も見た光景である。

 

 真壁は何も言わず、街道の先へ目を移した。

 

 理央は外套の襟を押さえながら、もう一度風を吸い込んだ。

 

「明日は海、見えますかね」

 

「アルヴェラへ着けば、今より海に近づきます」

 

 アレシアが答える。

 

「では、明日までのお楽しみですね」

 

 澪の言葉に、理央は素直に頷いた。

 

 古い王都アルヴェラ。

 

 川のある大都市と、そこにいるアレシアの伯父。

 

 まずは、その町まで行けばよい。

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