押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

305 / 323
第305話 伯父なら安心です

 

 休憩場所へ入った時には、冬の日が西の丘へ近づいていた。

 

 負傷者は馬車の中へ寝かされ、捕らえた襲撃者は別の馬車へ乗せられている。護衛たちは周囲を警戒しながら、夜を越す準備を始めた。

 

 真壁が収納へ手を伸ばす。

 

 薄い靄の中から、冬の野外でも使えるテントが現れた。

 

「我々はこちらで休むことにしよう」

 

 理央はテントと真壁を見比べた。

 

「ここで泊まるんですか?」

 

「私はね」

 

「私は?」

 

「澪君。理央君を連れて、いったんゲンダイへ戻りたまえ」

 

 澪も一瞬、真壁を見る。

 

「真壁さんは残るんですか?」

 

「負傷者の経過を見ておきたい。それに、襲撃者の一部は逃げている」

 

 昼間の襲撃で敵の全員を捕らえたわけではない。別の一団が近くにいる可能性も、逃げた者が仲間を連れて戻る可能性も残っていた。

 

「夜襲ですか」

 

「ないに越したことはないが、備えておくべきだろうね」

 

 理央は反論しかけ、負傷者を乗せた馬車を見て口を閉じた。

 

「真壁さん一人で大丈夫なんですか?」

 

「一人の方が動きやすい場合もある。それに、地図がある」

 

「でも――」

 

「理央君」

 

 真壁の声は強くなかった。

 

「君は澪君と戻りたまえ。明日の朝、また来ればよい」

 

 理央はまだ納得しきっていない顔をしていたが、やがて頷いた。

 

「……無茶しないでくださいね」

 

「善処しよう」

 

「そこは、しないって言ってください」

 

 澪と理央は、近くで休むとアレシアへ告げた。3頭の自動馬を連れて街道から離れ、人目が届かなくなった場所で収納する。

 

 翌朝も安全に戻れることを確かめ、澪はその場所を転移先として登録した。

 

「朝になったら戻ります」

 

「ああ。理央君を頼む」

 

「真壁さんも気をつけてください」

 

 澪が転移を使う。

 

 2人の姿が消え、真壁だけが冬の半島へ残った。

 

 日が沈むと、気温は急に下がった。

 

 街道脇では火が焚かれ、護衛たちが交代で夜番に立っている。煮込みと固いパンの簡単な夕食が配られ、真壁も勧められた分を受け取った。

 

 食後は負傷者を順に診た。

 

 呼吸。体温。止血した傷。固定した腕と脚。馬車で休ませている者を起こしすぎないよう、必要な確認だけを済ませる。状態が安定している者には手を出さなかった。

 

 夜が深くなる。

 

 焚き火が小さくなり、聞こえるのは薪の爆ぜる音と、つながれた馬が時折立てる鼻息だけになった。

 

 真壁はテントの中でも地図を開いていた。

 

 休憩場所の周囲には、アレシア一行と護衛を示す光点がある。街道を夜に移動する者は少なく、遠くに見える点もほとんど動かない。

 

 その中で、複数の赤い丸がまとまって現れた。

 

 街道から外れ、こちらへ近づいている。

 

 真壁は立ち上がった。

 

 夜番の護衛が気づく距離には、まだ入っていない。赤い丸は散らず、集団のまま林の陰を進んでいた。

 

「本当に来たか」

 

 武器を構えて待つ必要はなかった。

 

 真壁は収納内で、睡眠作用のある成分を空気へ混ぜた。風向きと赤い丸の位置を地図で確かめ、その空気だけを集団の周囲へ展開する。

 

 赤い丸の動きが鈍った。

 

 一つが止まり、続いて二つ、三つと地図上で動かなくなる。散開する者も、休憩場所まで近づく者もいない。

 

 全員がその場へ倒れ、眠っていることを鑑定で確かめる。

 

 真壁は追わなかった。捕らえにも行かない。今夜の目的は、敵の正体を調べることではなく、負傷者とアレシア一行へ近づけないことだった。

 

 夜番の護衛にも異変はなく、馬車の中の負傷者も眠っている。

 

 真壁はテントへ戻り、地図に残る赤い丸を監視した。

 

 夜明けまで、それらが再び動くことはなかった。

 

 

 

 

 翌朝、東の空が明るくなり始めた頃、澪と理央が戻ってきた。

 

 2人ともゲンダイで眠り、朝食まで済ませている。昨夜より防寒も整っていた。

 

 人目のない場所で、澪が収納から3頭の自動馬を出す。それから2人は、自動馬を連れて休憩場所へ戻ってきた。

 

 夜明けの街道は、昨夕とはまるで違う場所になっていた。

 

 白い霧が地面だけでなく、人の背丈を越える高さまで満ちている。少し離れた馬車は輪郭だけになり、その向こうに立つ護衛の姿は歩くたび白の中へ現れては消えた。

 

 枯れ草には霜とは違う細かな水滴が付き、テントの表面もしっとり濡れていた。冷えた空気を吸うと、鼻と喉の奥へ湿り気が残る。

 

「昨日、こんなに霧が出るって聞いてませんでしたよ」

 

 理央が白く閉ざされた街道を見回した。

 

「この辺りでは珍しいことではありません」

 

 朝の支度を終えたアレシアが答える。

 

「アルヴェラは、霧の都とも呼ばれています。朝は町の塔が見えなくなるほど深くなることもあります」

 

「町が見えなくなるんですか?」

 

「近くの建物まで見えなくなる日もありますよ。日が高くなれば、少しずつ晴れてきます」

 

 真壁も周囲を見たが、霧へ手を伸ばしたり、成分を調べたりはしなかった。

 

 今はただ、これから向かう町では、この白い朝が日常なのだと覚えておく。

 

「真壁さん、何もありませんでした?」

 

 理央が真っ先に尋ねる。

 

「少し客が来たが、眠ってもらったよ」

 

「客?」

 

「夜襲らしい集団が近づいてきたので、睡眠作用のある空気を送った」

 

 理央が地図を見る。休憩場所から離れた林の中に、赤い丸がまとまって止まっていた。

 

「……真壁さん、一人で残って正解でしたね」

 

「だから残ったのだがね」

 

「その人たちはどうするんです?」

 

「何もしない。近づけないことが目的だからね」

 

「捕まえないんですか?」

 

「負傷者を抱えたまま、さらに人数を増やす必要はない。起きる頃には、こちらはアルヴェラへ向かっている」

 

 真壁は夜襲者を追わず、アレシア側にも新たな戦闘を起こさせなかった。接近を止め、眠らせた。それだけである。

 

 真壁はテントを片付け、薄い靄の中へ収納した。

 

 負傷者の状態にも悪化はない。

 

 朝食と出発準備を終えると、一行は再びアルヴェラへ向かった。

 

 負傷者を乗せた馬車に合わせるため、速度は上がらない。霧の中では互いの姿を見失わないよう間隔を詰め、護衛が声を掛け合って進んだ。

 

 昇ったばかりの冬の日は白い円にしか見えなかった。やがて日が高くなるにつれ、馬車の輪郭がはっきりし、街道脇の石垣や葡萄畑が霧の中から少しずつ姿を現した。

 

 完全に晴れた後も、外套や馬の鬣には細かな水滴が残っていた。

 

 昼前、一行は街道沿いの休憩所で足を止めた。

 

 澪たちは豆と刻んだ野菜の温かい汁、平たいパン、焼いた塩漬け魚を食べた。理央は魚を一口食べるたび、果実水へ手を伸ばしている。

 

「これ、パンがないと大変ですね」

 

「保存のためでしょうね」

 

 澪も魚を小さくほぐしてパンへ載せた。

 

 短い休憩の後、一行は再び西へ進んだ。

 

 街道を行き交う人と荷車が増えていく。農地の間に点在していた家々は次第につながり、石材や木箱を積んだ荷馬車が同じ方向へ連なっていた。

 

 風には昨日よりはっきりと湿り気がある。

 

 土と家畜、薪煙の匂いに、塩と干し魚、油を染み込ませた縄の匂いが混ざっていた。

 

「海の匂い、昨日より強くなってません?」

 

 理央が鼻先を風へ向ける。

 

「町へ近づいていますから」

 

 馬車の窓からアレシアが答えた。

 

 昼食を終えてしばらく進んだ頃、その丘陵の切れ目に長い城壁が現れた。

 

「大きい……」

 

 理央が鞍の上で背を伸ばす。

 

 城壁は一度に造られたようには見えなかった。古く色の濃い石と、補修された明るい石が場所によって入り交じっている。壁の向こうには幾つもの塔と屋根が重なり、その外側にも家々や倉庫が広がっていた。

 

 城壁の手前にも町があった。旅人向けの食堂、車輪を直す職人の作業場、馬を休ませる囲い、荷を積み替える倉庫。都市の中へ入らなくても商売が成り立つほど、人と物が集まっている。

 

 石を削る音に、荷車の車軸が軋む音が重なる。呼び込みの声には、カルディオより強い半島側の抑揚があった。意味は分かるが、聞き慣れた王国側の言葉とは音の上がり下がりが大きく違う。

 

 街道の両側には荷を待つ商人や、都市へ入る順番を待つ荷車が並んでいる。何世代にもわたって人と物を受け入れ、そのたびに外へ広がってきた都市だった。

 

「アルヴェラです」

 

 アレシアが言った。

 

「昔の王都なんですよね」

 

「ええ」

 

「カルディオとも違いますね」

 

 澪は城壁の内外へ続く建物を見比べた。国境交易で賑わうカルディオには、人と荷が集まる勢いがあった。アルヴェラには、それとは違う重さがある。

 

「新しく作った町って感じがしません」

 

「長く使われてきた都市なのだろうね」

 

 真壁の視線は城壁だけでなく、その手前にある人と荷車の流れへ向いていた。

 

「伯父様のところは、あの城壁の中です」

 

 アレシアが塔の並ぶ方を示した。

 

「ここまで来れば、もう大丈夫ですか?」

 

 理央が尋ねる。

 

 アレシアは、遠くに見える古い町を見た。襲撃を受けた街道では保っていた緊張が、ほんの少しだけ解けている。

 

「ええ。伯父なら安心です」

 

 それは自分へ言い聞かせる言葉ではなかった。アレシアは当然のこととして答えていた。

 

 やがて理央が、街道の左手を見て声を上げる。

 

「あ、川」

 

 丘の陰から現れた川は、これまで見てきた村の井戸とは比べようもない水量だった。

 

 幅のある流れに小舟が浮かび、河岸では樽や木箱を積み下ろしている。石段を下りた住民が桶へ水をくみ、少し上流では布をすすぐ人の姿も見えた。

 

 水面からは湿った泥と水草の匂いが上がってくる。海から届く塩気とは違う、流れる淡水の匂いだった。船着き場の近くでは、濡れた縄と木材、荷役に使われる家畜の匂いが混ざっている。

 

 本流から分かれた水路が、城壁の下を通って市街へ入っている。

 

 水路の縁は石で固められていたが、岸際には泥が溜まり、流れの緩い場所へ落ち葉や木片が寄っていた。長く使われてきた町の川として、不自然な光景ではない。

 

「昨日までとは全然違いますね」

 

「ああ。ここには水がある」

 

 真壁は川面と、水路へ入っていく流れを見た。

 

「また水見てます?」

 

「見えているからね」

 

「それはそうですけど」

 

 理央は真壁と川を交互に見る。

 

 真壁は水を鑑定しなかった。水を採ることも、近くの住民へ使い方を尋ねることもしない。

 

 アルヴェラへ着いたばかりである。まずは町を見ればよい。

 

 王女一行が城門へ近づくと、門兵たちの動きが変わった。

 

 先触れを受けた者が上役を呼び、通行の列が片側へ寄せられる。傷んだ馬車と負傷した護衛を見た門兵の表情が引き締まった。

 

 真壁は周囲を確認する流れで、門兵を鑑定した。

 

 初めて入る外国の大都市である。武装した者の状態や技能を見ておくこと自体は、いつもの警戒の範囲だった。

 

 その表示の端に、負傷や疲労とは違う項目があった。

 

────────────────

重金属の慢性的な蓄積による症状あり(軽度)

────────────────

 

 真壁の視線が、門兵の手元から顔へ戻る。

 

 男は特に苦しそうではない。門の仕事にも支障は見えなかった。

 

 真壁は何も言わず、その表示を記憶した。

 

 城門を抜けると、石畳の道が幾つにも分かれていた。

 

 最初に目へ入ったのは、建物の古さだった。

 

 石造りの家には何度も補修された跡があり、隣り合う建物でも窓の高さや壁の色が違う。古い狭い道を残したまま、その外側へ新しい大通りが足されている。

 

 小さな神殿の鐘が鳴り、通りでは商人が荷車を止めて品物を下ろしていた。市場へ続く道からは、焼いたパン、香辛料、葡萄酒、魚を揚げた油の匂いが流れてくる。

 

 古い建物の一階には店が入り、その上の窓から洗濯物が下がっている。立派な石造建築の隣に、小さな靴直しの台と野菜籠が並ぶ。昔の王都であっても、町を埋めているのは今を暮らす人々だった。

 

 王女の馬車に気づいた住民が道を空ける。深く頭を下げる者もいれば、何があったのかと傷んだ馬車を見送る者もいた。アレシアは窓越しに何度か会釈を返している。

 

 建物の間には、川から分かれた水路が通っていた。

 

 小さな橋の下を水が流れ、その縁で桶を満たす者がいる。荷を載せた小舟が通れるほど広い場所もあれば、人がまたげそうな細い水路もあった。

 

「こういうところ、古い話がいっぱい残ってそうですね」

 

 理央は左右を見るのに忙しい。

 

「作家の方が出てますよ」

 

「だって気になるじゃないですか。あの細い道とか、絶対何かありますよ」

 

「今も旅の途中だ。見ておくとよい」

 

「はい」

 

 返事をした理央は、さっそく古い塔の上へ顔を向けた。

 

「あれは昔からある塔ですか?」

 

「ええ。町の見張りに使われていたそうです」

 

 アレシアが答える。

 

「今は鐘を鳴らす場所として残っています」

 

「役目が変わっても残ってるんですね」

 

「古い町には、そういう建物が多いですよ。なくしてしまうより、別の使い方を考えるのです」

 

 理央はもう一度塔を見上げた。作家としては、その建物が見てきた時代の方も気になるらしい。

 

 一行は旧市街を抜け、石壁に囲まれた広い敷地へ向かった。

 

 カルネス侯爵邸は、華美さを前へ押し出す建物ではなかった。淡い色の石を積んだ三階建ての館と、左右へ延びる別棟。正面の門や壁には古い意匠が残り、改修を重ねながら使われてきたことが分かる。

 

「大きいですね」

 

 理央が屋敷を見上げる。

 

「侯爵家ですからね」

 

「理央君、あまり上ばかり見ない方がよい」

 

「転びませんよ」

 

 言い返した直後、理央の自動馬が石畳の継ぎ目を避けてわずかに進路を変えた。理央の体も自然に動きへついていく。

 

 門兵がアレシアの姿を確認すると、屋敷の中が一気に慌ただしくなった。

 

 通常の馬を受け取る者。馬車を中庭へ誘導する者。負傷者を運ぶため、担架と人手を集める者。

 

 澪たちの3頭にも厩舎係が近づこうとしたが、澪が手綱を持ったまま一歩前へ出た。

 

「こちらは自分たちで扱います」

 

「しかし、お預かりいたしますが」

 

「少し癖がありますので」

 

 嘘ではない。普通の馬にはない癖ばかりだった。

 

 厩舎係は客人の馬へ無理に触れようとはせず、代わりに使える空き場所を示した。

 

 3人は自動馬を人目から外れた場所へ連れていく。周囲に誰もいないことを地図で確かめ、薄い靄の中へ収納した。

 

 屋敷の正面へ戻った時、館の扉が開いた。

 

 50歳ほどの男が、数人の家臣を伴って出てくる。

 

 落ち着いた色の上着を身に着け、姿勢は真っすぐだった。急いで出てきたはずだが、足取りに乱れはない。

 

 男が最初に見たのは、澪たちではなかった。

 

「アレシア」

 

「伯父様、私は無事です」

 

 アレシアが答える。

 

 セヴェリオ・カルネス侯爵は姪の顔と立ち姿を確かめ、次に外套の汚れ、傷んだ馬車、負傷した護衛へ視線を移した。

 

「怪我はないのだな」

 

「はい。ですが、護衛に負傷者が出ました」

 

 その答えを聞いた途端、セヴェリオは後ろに控えていた者へ振り向いた。

 

「まず負傷者を中へ。動かしてよい者か確認してから運べ。治療のできる者を呼び、湯と清潔な布を用意するのだ」

 

 指示を受けた者たちがすぐ動き始める。

 

「馬と馬車も任せる。軽傷者にも休める部屋と食事を。捕らえた者は別に収容し、武器を持たせるな」

 

 次に必要なことが、迷いなく続いた。

 

「街道の警備にも知らせよ。襲撃場所と逃げた者の数を伝え、近隣の村へ用心するよう回すのだ。ただし、未確認の話を広げるな」

 

「承知しました」

 

 家臣の一人が短く答え、門の方へ走っていく。

 

 セヴェリオは怒鳴らなかった。誰に何をさせるのかを決め、返事を確かめる。その間にも負傷者の搬送は進み、玄関前の混乱が少しずつ役割へ分かれていった。

 

 アレシアが真壁を示す。

 

「こちらの真壁殿が、負傷者へ応急処置をしてくださいました」

 

 セヴェリオの視線が真壁へ向く。

 

「応急処置はいたしましたが、改めてこちらの治療を行える方に診ていただいた方がよろしいでしょう」

 

「承知した。感謝する」

 

 セヴェリオは短く頭を下げると、自分でも負傷者の様子を確かめた。姪との再会を長引かせず、先に必要な手配を終わらせる。

 

 その判断に不自然なところはなかった。

 

 真壁も、運び込まれる護衛を順に鑑定した。

 

 傷の状態。固定した箇所。出血。疲労。

 

 移動中に悪化した者はいない。

 

 そして、王女直属の護衛たちには、先ほど門兵に見つけた重金属の蓄積による症状が見当たらなかった。

 

 真壁はそこで、前日の救護を思い出した。

 

 捕らえた襲撃者を診た際、負傷とは直接関係のない異常が何人かに出ていた。頭痛、腹部の不調、手指の細かな震え、集中力の低下。程度には差があったが、鑑定10が示した内容は同じだった。

 

────────────────

重金属の慢性的な蓄積による症状あり

────────────────

 

 あの場では、金属を扱う仕事をしていたのか、粗悪な器を長く使っていたのか、襲撃者たち固有の生活に原因があるのか判断できなかった。命に関わる傷の処置を優先し、真壁は保留していた。

 

 だが、アルヴェラの門兵にも同じ症状があった。

 

 一例だけでは、まだ何も決められない。

 

 負傷者への対応が一段落した後、澪たちは応接室へ案内された。

 

 厚い石壁の室内には火が入り、長時間外にいた体へ暖かさが戻ってくる。理央は勧められた椅子へ腰を下ろし、ようやく肩の力を抜いた。

 

 アレシアが、街道で起きたことを伯父へ説明する。

 

 襲撃者の数。護衛が押されていたこと。そこへ澪たちが通りかかったこと。

 

 白い光を連射する杖の詳しい話まではしなかった。

 

 セヴェリオは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。捕らえた者の人数、逃げた者がいること、奪われた荷がないことを一つずつ確かめる。

 

「普通の略奪ではなかったように思います」

 

 アレシアが言う。

 

「私の馬車へ攻撃が集まっていました」

 

「分かった。捕らえた者はこちらで預かる。だが、今夜すぐに取り調べを始める必要はない」

 

 セヴェリオは落ち着いた声で答えた。

 

「まず護衛を休ませなさい。何を聞くにしても、その後だ」

 

 アレシアも素直に頷いた。

 

「こちらが篠原澪殿、真壁久忠殿、飯島理央殿です。王国から来た商人で、魔術も扱われます」

 

 セヴェリオは3人へ向き直った。

 

「姪がお世話になりました」

 

「たまたま通りかかっただけです」

 

 澪が答える。

 

「襲われている者を見つけた。それだけのことだ」

 

 真壁も続けた。

 

「それでも、姪を助けていただいたことに変わりはありません。カルネス家を代表して、改めて礼を申し上げます」

 

 セヴェリオは3人を不躾に見回すことも、使った魔術を問い詰めることもしなかった。

 

 第一王女本人と直属の護衛が、3人に命を助けられたと証言している。それで今は十分だと判断したらしい。

 

「皆様も長い移動でお疲れでしょう。今夜は当家でお休みください。部屋を用意させます」

 

「そこまでしていただくわけには……」

 

 澪が一度遠慮すると、セヴェリオは静かに首を振った。

 

「姪の恩人を町の宿へ向かわせては、私の方が礼を欠きます。必要な物があれば、遠慮なくお申し付けください」

 

 ここまで言われて断り続ける方が不自然だった。

 

「では、お言葉に甘えます。ありがとうございます」

 

 澪が頭を下げる。

 

 話の通じる人物だった。

 

 真壁は会話の間に、セヴェリオを鑑定していた。

 

 初対面の有力貴族であり、アレシアが頼る相手でもある。危険の有無を確かめること自体は不自然ではない。

 

 そこで、また同じ表示を見つけた。

 

────────────────

重金属の慢性的な蓄積による症状あり(軽度)

────────────────

 

 襲撃者の一部にあったものと同じである。

 

 セヴェリオは盗賊ではない。粗末な衣服も着ておらず、食事や住環境に困っている様子もない。それでも同じ重金属による症状が出ている。

 

 茶を運んできた使用人にも、程度は低いが同じ表示があった。

 

 負傷者の受け入れについて報告へ来た家臣にもある。

 

 全員ではない。

 

 しかし、門兵、侯爵、使用人、家臣と、身分も仕事も違う者の中に複数見つかった。

 

 真壁は表情を変えなかった。

 

 セヴェリオから使用人へ一度視線を移し、出された茶を一口飲んで話を続ける。今ここで、何か一つを原因と決める材料はなかった。

 

 屋敷中の人間を鑑定して回ることもしなかった。

 

 客として招かれた直後に、使用人を端から調べて歩くのは品のある行動ではない。

 

 まだ日は高かった。

 

 昼過ぎに町へ着いたため、夕食までは時間がある。澪がアルヴェラの町を見ておきたいと申し出ると、セヴェリオは案内役として地元出身の家臣を一人付けた。

 

「長旅の後です。無理はなさらぬよう」

 

「お気遣いありがとうございます。近くを見せていただくだけにいたします」

 

 澪は礼を述べ、3人は侯爵邸を出た。

 

 旧市街の石畳には、午後の光が斜めに落ちていた。

 

 川から分かれた水路の上へ小さな橋が架かり、その脇では住民が桶へ水をくんでいる。少し広い水路では、平底の舟から樽や木箱が下ろされていた。濡れた石と泥、水草、魚、洗濯物に使った石鹸に似た匂いが、細い路地の生活臭と混ざっている。

 

 大きな川がある一方で、川や水路から離れた区画には井戸もあった。

 

 井戸の周囲には、水瓶を抱えた女や、桶を載せた小さな荷車が集まっている。水をくみ上げる音が石壁の間へ響き、順番を待つ者たちは世間話をしながら桶が満ちるのを待っていた。

 

 真壁は水だけでなく、そこへ集まる住民も見ていた。

 

 軽い頭痛。腹部の不調。手指のわずかな震え。

 

 全員ではない。だが、何人かを自然に鑑定すると、門兵や侯爵家の使用人と同じ表示が混じっていた。

 

────────────────

重金属の慢性的な蓄積による症状あり(軽度)

────────────────

 

 身分も仕事も違う。

 

 共通しているのは、この町で暮らしていることだった。

 

「真壁さん」

 

 澪が小さく呼ぶ。

 

「ああ」

 

 澪も、真壁の視線が住民へ向いていることに気づいたらしい。

 

 その時、井戸のそばで桶を持っていた老人が、急に膝をついた。

 

 そばにいた女が慌てて支える。老人は痩せ、顔色が悪かった。立ち上がろうとしても脚に力が入らず、差し出した手の指が細かく震えている。

 

「大丈夫ですか?」

 

 理央が駆け寄りかけ、真壁を見た。

 

 真壁は老人のそばへ膝をつく。

 

「失礼いたします。少し診せていただいてもよろしいでしょうか」

 

 付き添っていた女は、案内役の家臣と真壁を交互に見た。家臣が、王女の護衛を助けた人物だと短く説明すると、女は何度も頷いた。

 

「お願いします。父は、このところずっと具合が悪くて……」

 

 真壁が老人を鑑定する。

 

────────────────

重金属の慢性的な蓄積による症状あり(重度)

────────────────

 

 これまで見た者より明らかに重い。

 

 慢性的な腹部不調。筋力の低下。手指の震え。神経系にも影響が出ている。単に年を取って弱っている状態ではなかった。

 

「普段、飲んでいる水はどちらのものですか?」

 

「この井戸です。家の水は、いつもここから運んでいます」

 

 真壁は井戸を見る。

 

 盗賊、門兵、侯爵、使用人、町の住民。食事も職業も違う者に同じ症状があり、この老人には重く出ている。

 

 毎日、誰もが口へ入れるもの。

 

「井戸水を少し頂いてもよろしいですか」

 

「え、ええ」

 

 真壁は清潔な容器を収納から出し、くみ上げたばかりの水を受けた。

 

 見た目は澄んでいる。濁りも、目立つ匂いもない。

 

 鑑定する。

 

────────────────

井戸水 成分分析(1Lあたり)

 

エネルギー:0 kcal

たんぱく質:0 g

脂質:0 g

炭水化物:0 g

 

ナトリウム:16 mg

(食塩相当量:0.04 g)

カルシウム:13 mg

マグネシウム:4 mg

カリウム:2 mg

鉄:0.08 mg

鉛:0.12 mg

 

硬度:約49 mg/L

pH値:7.2

────────────────

 

 真壁の目が細くなった。

 

 主要なミネラルだけを見れば、極端に偏った水ではない。硬度も高くなく、見た目にも匂いにも異常はなかった。

 

 だが、本来なら飲み水へ入っていてほしくない項目が一つある。

 

「何か入っていたんですか?」

 

 理央が声を落として尋ねる。

 

「鉛だ」

 

「鉛?」

 

「この井戸水に含まれている」

 

 真壁は老人へ視線を戻した。

 

 人体側では重金属による症状までしか分からなかった。だが、日常的に飲んでいる井戸水から鉛が見つかったことで、ようやく両者がつながった。

 

「この方の症状は、この水を長く飲んだことが原因である可能性があります」

 

 付き添いの女の顔色が変わった。

 

「水が、ですか?」

 

「今の段階では、この井戸について分かっただけです。町の井戸がすべて同じとは限りません。ただ、確認が済むまでは、この水を飲まない方がよいでしょう」

 

 真壁は断定の範囲を広げなかった。

 

 案内役の家臣も井戸を見ている。侯爵へ報告すべき内容だと理解したらしい。

 

 老人については、すぐに侯爵家の治療を行える者へ診せるよう手配を頼んだ。真壁もその場でできる範囲の状態確認を行ったが、道端で未知の治療を試すことはしなかった。

 

 3人は予定より早く、侯爵邸へ戻ることになった。

 

 真壁はセヴェリオへ面会を願い、案内役の家臣とともに、井戸で確認したことを報告した。

 

「町の井戸の一つから、鉛が検出されました。あの井戸を常用している方に、重い症状も確認しております」

 

 セヴェリオの表情が引き締まる。

 

「井戸水が原因だとお考えですか」

 

「可能性は高いと思われます。ただし、現時点で確認できたのは一か所だけです。町全体の水が同じ状態だとは申し上げられません」

 

「承知しました。では、まずその井戸の使用を止めます。周辺には別の場所から水を運ばせましょう。他の井戸についても、順に確認させます」

 

 セヴェリオは原因が確定していない範囲を理解し、その場で必要な指示だけを出した。

 

「倒れた者についても、こちらで引き受けます。知らせていただき、感謝いたします」

 

「いえ。まだ分からないことの方が多くございます」

 

「それでも、飲み続ける者を減らすことはできます」

 

 話の通じる領主だった。

 

 夕方、真壁は負傷した護衛の経過をもう一度確認した。

 

 王女直属の護衛たちは大島側の出身だと、移動中の会話で聞いている。

 

 傷と疲労はある。

 

 だが、重金属の慢性的な蓄積による症状はない。

 

 真壁は今度は意識して、アレシアも鑑定した。

 

 アレシアにもない。

 

「真壁さん、どうです?」

 

 澪が尋ねる。

 

「傷の方は問題なさそうだ。重金属による症状も見当たらない」

 

「王女様にも?」

 

 理央が尋ねる。

 

「ああ」

 

「やっぱり、この町で暮らしているかどうかなんでしょうか」

 

「可能性はある。ただ、ここで話すことではないね」

 

 真壁は負傷者や使用人のいる場所では、それ以上続けなかった。

 

 窓の外では、低くなった日が石造りの屋根を橙色に染めていた。城壁の塔が長い影を落とし、水路を渡る風が昼より冷たくなっている。

 

 屋敷の中には夕食の匂いが広がり始めていた。焼いた肉、温めた葡萄酒、香草を入れた汁物。負傷者のいる部屋へは、消化しやすい薄い煮込みと柔らかなパンが運ばれていく。

 

 日が落ちる頃、3人にはそれぞれ客室が用意された。

 

 夕食も勧められたが、澪たちは疲労を理由に早めに部屋へ下がることにした。

 

「今夜はこのまま休ませていただきます」

 

 澪が案内役の使用人へ伝える。

 

「承知いたしました。御用がなければ、朝までお部屋へは近づかぬよう申しつけます」

 

 実際、襲撃、救護、負傷者に合わせた移動と続き、理央も澪も体が重かった。

 

 食事は客室へ運んでもらった。温かい肉と豆の煮込み、焼きたてのパン、薄く切った燻製肉、果実水。理央は最初こそ鉛の話が気になっている顔をしていたが、食べ始めると黙って皿を空にした。

 

「お腹が空いてると、難しいこと考えられないですね」

 

「今日は朝から移動していましたからね」

 

「昼も食べましたけど」

 

「成長期なのだろう」

 

「真壁さん、それ便利な言葉だと思ってません?」

 

 食器が下げられ、廊下から使用人の足音が遠ざかるまで待つ。

 

 ただし、侯爵邸でそのまま眠るつもりはない。

 

 真壁が廊下と周囲を地図で確認する。使用人が下がり、誰も近くにいないことを確かめてから、3人は一つの客室へ集まった。

 

 扉には内側から鍵を掛ける。

 

 この部屋は3人が実際に訪れた場所になった。翌朝、人のいない時間を選べば、ここへ戻ることができる。

 

 窓の外には、夜のアルヴェラが広がっていた。

 

 石造りの建物の間に灯りが点々と続き、遠くから川の流れる音が聞こえる。昼間見た水路は闇へ沈み、橋の近くを通る人の足音だけが石壁へ反響していた。

 

「今日の表示、最初は鉛って出てなかったんですよね?」

 

 澪が声を落として尋ねる。

 

「ああ。人体を鑑定して分かったのは、重金属の慢性的な蓄積による症状があるということまでだ」

 

「鉛だと分かったのは、井戸水を見てから?」

 

「そうだ」

 

 襲撃者。門兵。セヴェリオ。侯爵家の使用人。町の住民。

 

 身分も職業も違う者に、同じ種類の症状が出ていた。

 

「重症だったお年寄りが、毎日あの井戸の水を飲んでいた。そこで水を鑑定して、初めて鉛が見つかった」

 

「じゃあ、あの井戸が原因なんですか?」

 

「少なくとも、あの水を長く飲めば原因になり得る」

 

 真壁は断定する範囲を区切った。

 

「ただし、町のどこまで同じ状態なのかは分からない。別の井戸、川、水路まで鉛を含むとは限らない」

 

「侯爵様にも症状があったんですよね」

 

 理央が尋ねる。

 

「軽度だがね。門兵や使用人にも何人かいた」

 

「でも、王女様と護衛の人たちにはない」

 

「彼らは大島側を普段の生活圏にしている。この町で長く暮らす者との違いとしては大きいだろう」

 

 澪は窓の外へ目を向けた。

 

 暗い町のどこかで、井戸からくんだ水が夕食や明日の飲み水に使われている。

 

「水があることと、安全に飲めることは別なんですね」

 

「ああ」

 

 アルヴェラには大きな川がある。

 

 井戸も水路もある。

 

 周辺の村より水に恵まれて見えた。しかし、量があることは、そのまま安全を意味しなかった。

 

「明日は他の井戸も見るんですか?」

 

「必要だろうね。川と水路も確認した方がよい」

 

「町中を調べることになりません?」

 

「まず範囲を知る必要がある。どこまで同じ水が使われ、どこから違うのか。それが分からなければ対策も決められない」

 

 理央は少し考える。

 

「霧は?」

 

 朝、街道を白く覆っていた深い霧。

 

 真壁はすぐには答えなかった。

 

「今のところ、井戸水から鉛が見つかっただけだ。霧まで同じ問題があるとは限らない」

 

「じゃあ、それも明日?」

 

「必要なら確認する。ただし、今日はもう調べない」

 

「今からじゃないんですね」

 

「私も寝たいのだがね」

 

「そこは普通なんですね」

 

「商人にも休息は必要だ」

 

「今日はそれで押し切れないと思います」

 

 理央に言われても、真壁は気にした様子を見せなかった。

 

 鉛を含む井戸は見つかった。

 

 だが、汚染されている範囲も、鉛が井戸へ入った経路も分からない。

 

 続きは明日でよい。

 

 真壁が転移を使う。

 

 次の瞬間、3人の周囲から侯爵邸の石壁と冬の夜気が消え、江古田の六畳間へ変わった。

 

 暖房の残る空気に、理央が息をつく。

 

「やっぱり、帰って寝られるのは楽ですね」

 

「明日の朝は同じ部屋へ戻る。屋敷の者が入る前にしておこう」

 

「寝坊できませんね」

 

「理央ちゃん、自分の家に帰ってからですよ」

 

「分かってます」

 

 理央は江古田から自宅へ戻る準備を始めた。

 

 用意された客室は、今夜眠るための部屋ではない。

 

 明日の朝、何事もなかったように戻るための場所になった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。