押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第306話 1日置いてください

 

 翌朝のアルヴェラは、白い霧の中に沈んでいた。

 

 澪たちがカルネス侯爵邸の客室へ戻った時、窓の外には隣の棟さえ霞んでいた。石造りの屋根も庭木も濡れ、枝先にたまった雫が、間を置いて石畳へ落ちている。

 

「昨日より深くないですか?」

 

 理央が窓へ顔を寄せた。ガラスの向こうは白く、庭を歩く使用人も途中から輪郭しか見えない。

 

「霧の都と呼ばれるだけありますね」

 

 澪も窓辺へ寄った。霧そのものは珍しくない。それでも、町全体が毎朝これほどの湿気に包まれるとなると、暮らし方も変わるだろう。

 

 ほどなく朝食の用意ができたと知らされ、3人は食堂へ向かった。

 

 セヴェリオ・カルネス侯爵は、すでに昨日の井戸について報告を受けていた。

 

「井戸は引き続き使わせていません。周辺の者には、別の場所から水を運ばせております」

 

「早い対応をしていただき、ありがとうございます」

 

 澪が頭を下げる。

 

 ひとつの井戸を止めれば、それで終わるわけではない。そこから水を得ていた家々へ、代わりの水を届けなければならない。水を運ぶ人手も樽も必要になる。それを一晩で動かしたのは、領主側の仕事だった。

 

 真壁は食後、姿勢を正してセヴェリオへ向き直った。

 

「カルネス侯爵。昨日の井戸水について、処理方法を試してみたいのですが、よろしいでしょうか」

 

「鉛を取り除けるのですか」

 

「可能性はあります。ただ、実際に町で使える方法かどうかは、試してみなければ分かりません」

 

 真壁自身なら、収納の成分分離で鉛だけを抜ける。だが、それでは真壁が町を離れた時点で終わってしまう。

 

 必要なのは、町の人間が扱え、交換する物も現地で用意できる方法だった。

 

「必要なものがあれば用意させましょう」

 

「まずは井戸を使わせていただければ十分です」

 

「分かりました。現地の者へ伝えさせます」

 

 セヴェリオはすぐに家臣を呼び、使用停止を続けたまま、試験のための取水だけを認めるよう命じた。

 

 霧が少し薄くなるのを待ち、3人は東門区の井戸へ向かった。

 

 濡れた石畳を車輪が通るたび、重い音が建物の間へ響いた。荷車には水を満たした樽が並び、昨日まで井戸を使っていた家々へ運ばれていく。空の桶を持った住民もいたが、井戸の周囲には縄が張られ、立ち入りを止める者が立っていた。

 

 昨日倒れた老人は、侯爵家の手配で治療を受けているという。

 

 澪は井戸を見た。

 

 水は生活の中心にある。止めれば危険な水を飲まずに済むが、代わりを運び続けなければ、今度は水そのものが足りなくなる。

 

 長く止めたままにはできない。

 

 真壁が収納へ手を伸ばす。

 

 薄い靄の中から、大型の陶器製タンクと管、蛇口、接続部品が現れた。

 

「昨日の夜、作ったんですか?」

 

 理央が陶器のタンクを見上げた。

 

「部材は収納内にあった。組み合わせただけだ」

 

「それを普通は作ったって言うと思います」

 

 真壁は答えず、まず陶器を鑑定した。

 

 器本体。内側の釉薬。接続部。水へ鉛や別の有害成分が溶け出す材料が使われていないことを確かめる。

 

 タンクの上部から伸びた取水管を井戸へ下ろし、先端を水面の下へ入れた。下部には水を出す蛇口がある。接続部を締め、空気が漏れない状態へ整える。

 

 作業を見ていた理央が首を傾げた。

 

「これ、ポンプじゃないんですか?」

 

「ポンプは使わない」

 

「じゃあ、どうやって井戸の水を上げるんです?」

 

「空気に押してもらう」

 

「空気?」

 

「大気圧だ」

 

 理央は少し考え、それから「あ」と声を出した。

 

「それは覚えてます」

 

「なら話は早い」

 

 真壁は陶器製タンクを示す。

 

「この中から水が出れば、内部の圧力が下がる。井戸の水面には外から大気圧が掛かっている。圧力の高い側から低い側へ水が動くのだよ」

 

「こっちが吸うんじゃないんですか?」

 

「そう見えるが、外の空気に押してもらうと考えた方が分かりやすい」

 

「それで、減った分だけ井戸から上がってくる?」

 

「ああ」

 

 最初に装置内を水で満たし、管の空気を抜く。真壁が下部の蛇口を開くと、タンク内の水が陶器の受け皿へ流れ始めた。

 

 同時に、透明な取水管の中を井戸水が上ってくる。

 

「本当に上がってる……」

 

 理央が管へ顔を近づけた。

 

 水は途中で止まらず、タンクへ入った。蛇口から出た分を、井戸から上がった水が補っていく。

 

「電気も魔石も使ってませんよね?」

 

「圧力差を使っているだけだ」

 

「これ、どのくらいの高さまで上げられるんです?」

 

「水なら実用上8mほどと見ておけばよい。限界ぎりぎりで使う必要はない」

 

 理央は水の上がる管を見たまま、少し口を尖らせた。

 

「学校でこういうの見せてくれたら、物理、もう少し面白かったかもしれません」

 

「興味を持つのは悪いことではない」

 

「今から勉強し直せって話ですか?」

 

「そこまでは言っていないがね」

 

 澪は2人の会話を聞きながら、蛇口から出る水を見ていた。

 

 冷たく、透明で、変な匂いもしない。昨日まで住民が普通に飲んでいた水と、見た目には何も変わらなかった。

 

 真壁が清潔な容器へ水を取り、鑑定する。

 

────────────────

井戸水 成分分析(1Lあたり)

 

ナトリウム:16mg

カルシウム:13mg

マグネシウム:4mg

カリウム:2mg

鉄:0.08mg

鉛:0.12mg

 

硬度:約49mg/L

pH値:7.2

────────────────

 

「水は上がりましたけど、鉛はそのままですよね」

 

「当然だ」

 

 揚水と浄水は別の問題である。

 

 澪は透明な水と表示を見比べた。

 

「でも、どのくらいの時間で影響を取り除けるんでしょうか?」

 

 真壁が澪を見る。

 

「試してみよう」

 

 答えた時には、もう次の工程へ意識が移っていた。

 

 

 

 真壁の収納内プラントには、同じ量の井戸水を入れた透明な容器が並んだ。

 

 収納の成分分離なら、鉛だけをすぐに取り除ける。蒸留でも除去できる。薬剤を使って沈殿させる方法もある。

 

 だが、真壁の能力へ依存する設備では困る。毎日大量の燃料を使う方法も、薬剤量の管理を誤れば別の問題を生む方法も、住民へ渡すには扱いにくい。

 

 交換材を水へ触れさせ、鉛を吸着し、溶けにくい状態へ固定する。現地で材料を得られるなら、その方が続けやすい。

 

 真壁が白っぽい石を作業台へ置いた。

 

「それがカルサイトですか?」

 

「ああ」

 

 理央は石を見ても、特別な物には見えないらしい。

 

「全部、同じ石ですよね?」

 

「カルサイトだ」

 

 粉砕機が動き、石が大きさごとに分けられていく。

 

 細かな顆粒。指でつまめる大粒。砕かず形を残した固形。

 

「何を変えるんです?」

 

「形状だけだ」

 

「顆粒と、大きい粒と、そのままの塊?」

 

「そうだ」

 

 理央は3つを順に見た。

 

「細かい方が、水に触れるところが増えるんですよね?」

 

「ああ。まずは、その差を見る」

 

「量も同じにするんですか?」

 

 澪が尋ねる。

 

「重量は揃える。水量も温度も同じだ。条件を一度にいくつも変えては比較にならない」

 

 同じ量の水へ、同じ重量のカルサイトを入れる。違うのは形だけである。

 

 さらに各形状について、1日、2日、3日、5日、7日分の試料が用意された。

 

「これ、結果が出るまで1週間待つんですか?」

 

「待つ必要はない」

 

「え?」

 

「収納内の時間を進める」

 

 澪も表示から顔を上げた。

 

「そっちにも使えたんですね」

 

「必要がなかったからね」

 

 収納内の時間を止めれば、食品や薬品の変化を抑えられる。同じ仕組みを逆に使い、試料ごとに必要な時間だけ進めていく。

 

 1日。

 

 2日。

 

 3日。

 

 外ではほとんど時間が過ぎていないのに、試料の中では日数だけが積み上がった。

 

 真壁が順番に水を鑑定する。

 

────────────────

原水

鉛:0.12mg/L

 

顆粒

1日:0.008mg/L

2日:0.006mg/L

3日:0.005mg/L

 

大粒

1日:0.031mg/L

2日:0.016mg/L

3日:0.009mg/L

 

固形

1日:0.073mg/L

3日:0.046mg/L

7日:0.023mg/L

────────────────

 

「顆粒、1日で0.008まで下がってます」

 

 澪が表示を追う。

 

「ああ」

 

「じゃあ、顆粒で決まりですか?」

 

「除去速度だけならね」

 

「まだ何かあるんです?」

 

「細かくしすぎれば、水が通らない。実際の設備では流れも必要だ」

 

 理央は顆粒と、それより細かな粉を想像したらしい。

 

「一番細かければ、一番いいってわけじゃないんですね」

 

「そういうことだ」

 

 真壁は顆粒の1日後の数値を見た。

 

「それと、0.008か。ゲンダイの基準は下回るが、余裕が少ない」

 

「まだ駄目なんですか?」

 

「飲み水だからな。もう少し余裕を取る」

 

 澪は、その判断に安心した。

 

 基準値は、そこまでなら積極的に入れてよいという目標ではない。毎日飲み続ける水なら、下げられる範囲で余裕を取った方がよい。

 

 真壁は顆粒を基準に、粒径、投入量、処理する水量を少しずつ変えた。

 

 一度に変える条件は一つだけ。

 

 時間は24時間に固定する。水が通りにくくならない粒径を残し、カルサイトの量と水量の比率を調整する。

 

 収納内で時間を進め、鑑定する。

 

 条件を変え、また24時間進める。

 

 何度目かの試料で、真壁の手が止まった。

 

────────────────

最終処理条件

 

処理時間:24時間

処理後の鉛濃度:0.005mg/L以下

────────────────

 

「これならよいだろう」

 

「やっと合格ですか?」

 

「ああ。水の通りも問題ない」

 

 理央は顆粒を覗き込んだ。

 

「同じ石なのに、大きさと量でこんなに変わるんですね」

 

「だから条件を決める必要がある」

 

 鉛を減らせることは分かった。

 

 だが、住民が使う設備にするなら、もう一つ決めなければならない。

 

 澪が、使い終えた顆粒を見た。

 

「これ、毎日交換するんですか?」

 

「それでは無駄が多い」

 

「じゃあ、何日使えるかも調べるんですね」

 

 理央の問いに、真壁は頷いた。

 

「ああ」

 

 真壁は実際の設備と同じ比率で、縮小した試験槽を作った。顆粒は交換せず、1日ごとに鉛濃度0.12mg/Lの新しい井戸水へ入れ替える。

 

 収納内で10日、20日と時間を進めても、処理後の鉛濃度は0.005mg/L以下だった。30日目も、まだ0.005mg/L前後に収まっている。

 

 だが35日を越えると数値が上がり始め、40日、45日と進めるほど、性能の低下がはっきりした。

 

「35日でも、まだ使えますよね?」

 

「使える」

 

「じゃあ、どうして30日なんです?」

 

「飲み水だ。限界を探りながら使う必要はない」

 

「でも、まだ使えるのに替えるの、ちょっともったいなくないですか?」

 

「交換が数日遅れることもある。異常が出てから替えるより、余裕を残した方がよい」

 

「30日なら覚えやすいですしね」

 

 澪が言うと、真壁も頷いた。

 

「ああ。今回は30日交換とする」

 

 30日は、この井戸水の鉛濃度、処理量、顆粒の量と大きさを前提にした周期である。カルサイトならどこでも30日使えるという意味ではない。

 

 真壁は使用済みの顆粒を別の容器へ移した。

 

「それ、捨てないんですか?」

 

「水から除いた鉛がこちらへ移っている。普通のごみと一緒にはできない」

 

「水がきれいになった分、こっちへ来たんですね」

 

「大まかにはそう考えてよい」

 

 真壁が残ったカルサイトを収納へ戻そうとすると、理央が手元を見た。

 

「でも、真壁さんのカルサイトがなくなったら、どうするんです?」

 

「そこだ」

 

「かなり持ってますよね?」

 

 澪が尋ねる。

 

「量の問題ではない。私が持ってこなければ動かせない設備では、恒久的な解決にならない」

 

「じゃあ、こっちで同じ石を探すんですか?」

 

「必要なのは名前ではない。カルサイトの主成分は炭酸カルシウムだ」

 

「炭酸カルシウム……貝殻?」

 

「使える可能性はある」

 

 朝には町を覆っていた霧も、日が高くなるにつれて薄くなっていた。白く霞んでいた屋根が現れ、その向こうに鈍く光る川面が見えている。

 

 

 

 

 

 アルヴェラ川の岸へ下りると、流れの緩い浅瀬があった。

 

 水草の間を水がゆっくり流れ、湿った土と枯れた葦の匂いがする。砂泥へ半分埋まるように、黒褐色の大きな二枚貝が口を閉じていた。岸には中身のない殻も落ちている。

 

「生きてるのを採るんですか?」

 

「まず空の殻でよい」

 

 真壁は殻を拾い、鑑定した。

 

────────────────

大型淡水二枚貝の殻

 

主成分:炭酸カルシウム

鉛:検出限界未満

その他有害重金属:検出限界未満

────────────────

 

「カルサイトと同じなんですか?」

 

「主成分は同じだ。だが、同じ物ではない」

 

「使えるかは別?」

 

「ああ。試せば分かる」

 

 3人は空の殻だけを少量集めた。真壁は洗浄し、収納内で乾燥させる。砕いた後はふるいにかけ、カルサイト顆粒と同じ程度の大きさへ揃えた。

 

 井戸水の量、処理材の量、粒径、時間を同じにして、24時間後の水を鑑定する。

 

────────────────

貝殻顆粒処理水

 

処理時間:24時間

鉛:0.005mg/L以下

────────────────

 

「取れてますね」

 

 理央の声が弾んだ。

 

「ああ。処理材として使える」

 

「じゃあ、この貝を集めればいいんですか?」

 

「まだ早い」

 

「えっ、使えるんですよね?」

 

「この殻は使えた。だが採取場所によっては、有害物が殻へ蓄積している可能性もある。先に水質と殻を確かめる必要がある」

 

 真壁は浅瀬の生きた貝へ目を向けた。

 

「処理材のためだけに生きた貝を大量に採るべきでもない。空の殻や、食用後の殻が集められるなら、その方がよいだろう」

 

「捨てる物を使えるなら、その方がいいですね」

 

「安全を確認できればね」

 

 川面の上には、まだ霧が細い帯になって残っていた。その向こうを荷船が進み、櫂が水を押す音が聞こえる。

 

 

 

 

 

 3人は東門区の井戸へ戻った。

 

 真壁が組み始めたのは、実験装置よりずっと単純な設備だった。

 

 井戸から水を取る陶製タンク。その先に切り替え口を設け、同じ大きさの処理槽を2基並べる。一方にはA、もう一方にはBと印を付けた。

 

「原水はこちらだけだ。飲む水は、この2基で処理する」

 

「24時間置くためですね」

 

 澪が処理槽の中を見る。

 

「ああ。処理中の槽へ新しい水を足しては、どの水が24時間たったのか分からなくなる」

 

「今日Aに入れた水は?」

 

「明日飲む。明日はAから使いながら、Bへ新しい水を入れる。次の日はBを使い、Aへ入れる」

 

 理央は2基を交互に指した。

 

「今日入れた水は明日。飲んでる間に、もう片方へ明日の分を入れる」

 

「そういうことだ」

 

「実験はあんなにやったのに、使う方は簡単ですね」

 

「簡単でなければ続かん」

 

 処理材は30日ごとに交換する。使い終えた顆粒は捨てず、決めた容器へ集める。当面は真壁が引き取り、安全に処理することにした。

 

「今日の水は明日。処理材は30日で交換。使い終わったのは捨てない」

 

 理央が指を3本立てる。

 

「覚えるの、それだけですか?」

 

「使う者には、それで十分だ」

 

 

 

 

 

 午後、3人はカルネス侯爵邸へ戻った。

 

 応接室の机には、カルサイト顆粒、粉砕した貝殻、処理前と処理後の水が並んでいる。どちらの水も澄んでおり、見ただけでは区別できない。

 

「試験の結果はいかがでしたか」

 

「カルネス侯爵。昨日の井戸水を使い、処理方法を試験いたしました」

 

 真壁は処理前の水へ手を添えた。

 

「処理材と24時間接触させることで、飲料に使えるところまで鉛を減らせます。最初はカルサイトを使いましたが、この周辺で採れる貝の殻でも、同じ方法が使えることを確認しました」

 

「貝殻を?」

 

「主成分が炭酸カルシウムです。洗浄と粉砕は必要ですが、処理材として利用できます。ただし、採取場所の水質と殻そのものの安全確認は必要です」

 

「承知しました。川で漁をする者たちにも確認させましょう」

 

 真壁は2基の処理槽を交互に使う方法を説明した。

 

 今日入れた水は翌日に使う。片方を使っている間に、もう片方へ翌日分を入れる。処理材は30日で交換し、使用済みの物は指定した場所へ集める。

 

「30日で使えなくなるのですか?」

 

「いいえ。まだ使えます。ですが飲み水です。限界まで使う必要はありません」

 

 セヴェリオは、処理後の水を見て息をついた。

 

「それなら、あの井戸も再び使えるのですね」

 

「水については対処できます」

 

 真壁の返答に、セヴェリオの表情が止まった。

 

「水については?」

 

「すでに身体へ入った鉛は別の問題です」

 

 安堵しかけていた室内の空気が変わった。

 

「昨日までに鑑定した者の中には、身体へ鉛を蓄積している者が複数おりました。水源を切り替えれば、これ以上取り込む量は減らせます。しかし、すでに生じている影響まで直ちに消えるわけではありません」

 

「どのような影響があるのです」

 

 セヴェリオの声から、先ほどまでの余裕が消えていた。

 

「頭痛、腹部の不調、疲労、手指の震え。集中力や記憶力が落ちることもあります。蓄積の程度によっては、判断力や感情の制御にも影響します」

 

「……感情や判断にまで?」

 

「影響する場合があります。以前より怒りやすくなる、気分が不安定になるといった症状もあり得ます。神経系への障害ですから、子どもは特に注意が必要です。成長や発達の途中にありますので」

 

 澪は、机上の透明な水を見た。

 

 濁ってもいない。臭いもしない。これを毎日飲むだけで、大人だけでなく子どもの成長にまで影響する。

 

 セヴェリオは何も言わなかった。

 

 真壁の言葉を一つずつ、頭の中で照らし合わせているようだった。

 

「……お待ちください」

 

 やがて、低い声が落ちた。

 

「昔から、この町には同じ症状を訴える者がいます」

 

「同じ症状ですか?」

 

 澪が聞き返す。

 

「頭の痛み。腹の痛み。身体のだるさ。年を取る前から手が震える者もいる。物忘れがひどくなり、気性まで変わったと言われる者も……」

 

 セヴェリオは、そこで言葉を切った。

 

「この土地の風土病だと考えられてきました」

 

「居住地と、日常的に使っていた水源を確認する必要があります」

 

「風土病ではなく、この水が原因だと?」

 

「まだ断定はできません。ただし、症状と鉛の影響は重なります。患者がどこで暮らし、どの水を使っていたかを照らし合わせれば、関係の有無を確かめられるでしょう」

 

 セヴェリオは椅子の背から身体を離した。

 

 その顔から血の気が引いていく。

 

「……旧王家にもいた」

 

「え?」

 

 今度は理央が声を漏らした。

 

「今、真壁殿がおっしゃった症状です」

 

 セヴェリオは、自分の記憶を確かめるように、ゆっくりと言葉を並べた。

 

「晩年に激しい頭痛を繰り返した王族。腹痛で政務を休むことが増えた官吏。手が震え、自筆の書状を書けなくなった重臣……以前にはなかった判断の誤りを重ねた者や、急に気性が荒くなった貴族もいた」

 

 窓の外には、古い石造りの町が広がっている。

 

 旧王都アルヴェラ。

 

 何代もの王族と貴族が暮らし、同じ土地の水を使ってきた町だった。

 

「当時は、老いだ、酒だ、心を病んだのだと、それぞれ別の理由で説明されてきました」

 

 セヴェリオは机上の水へ目を落とした。

 

「ですが、同じ時代に、同じ町で暮らした者たちです」

 

 透明な水の向こうに、別の時代を見ているようだった。

 

「旧王朝の末期、王統は弱まり、継承を巡って貴族たちは争った。交渉は幾度も決裂し、最後には内乱へ至った」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「島側では、弱体化した半島の王国をヴァレシオ家が救ったと語られます」

 

 セヴェリオの声が硬くなる。

 

「我々の側では違う。弱ったところへ島側が入り込み、婚姻を通じて、最後には王権まで持っていったのだと」

 

 半島と島。

 

 同じ国となった後も、両者が見てきた歴史は同じではなかった。

 

「その始まりに……」

 

 セヴェリオは言葉を失った。

 

「この水があったというのですか」

 

「カルネス侯爵」

 

 真壁は声を荒らげなかった。

 

「そこまでは断定できません」

 

「しかし、症状が一致している」

 

「政治的な対立は実際に存在したのでしょう。王位を巡る利害も、貴族同士の争いもあったはずです。鉛が人の意思を奪って争わせるわけではありません」

 

 真壁は一度区切った。

 

「ただ、判断力や集中力、感情の制御に影響を受けた者が、同じ時期に何人もいたのであれば、すでに存在していた対立を悪化させた可能性までは否定できません」

 

 セヴェリオは黙り込んだ。

 

 彼自身にも、軽度ながら同じ鉛の蓄積がある。そのことを知った時以上に、今の言葉は深く刺さっていた。

 

 カルネス家が受け継いできたのは、半島旧王家の血だけではない。島側への不信も、奪われたという歴史認識も、何代にもわたって受け継いできた。

 

 だが、その歴史を作った時代の判断そのものに、慢性的な鉛曝露が影を落としていたとしたら。

 

「……何年だ」

 

 セヴェリオの唇が震えた。

 

「この町は、何年、この水を飲んできた」

 

 誰に尋ねた言葉でもなかった。

 

「いや……何代だ」

 

 両手を組もうとした指先が、わずかに震えている。

 

「我々は……いったい何を、何代も因縁として抱えてきたのだ」

 

 応接室に答えられる者はいなかった。

 

 真壁が、静かに現実へ話を戻した。

 

「過去については、今ここで答えを出せません」

 

 セヴェリオが顔を上げる。

 

「ですが、現在の問題なら対処できます。子どもには、これ以上取り込ませるべきではありません」

 

 その一言で、セヴェリオの目に領主の色が戻った。

 

「町の井戸を調べます」

 

「はい」

 

「川も、水路も。それから、風土病と呼ばれてきた者たちが、どこに住み、どの水を使ってきたのかも」

 

「まずはそれがよろしいでしょう。安全な水源まで使えなくなれば、別の混乱が起きます。範囲を確認してから、必要な場所へ処理設備を置くべきです」

 

「お願いします、真壁殿」

 

「承知しました」

 

 セヴェリオは使用人を呼び、問題の井戸で試験運用を始めること、他の井戸については順番に水を調べることを指示した。

 

 昔から毒の水を飲んでいたと町中へ触れ回ることはしない。今ある安全な水まで避けられれば、住民の生活が立ち行かなくなる。

 

 領主として指示を出す声は落ち着いていた。

 

 それでも、机上の透明な水を見るたび、その顔には拭いきれない恐れが浮かんだ。

 

 

 

 

 

 侯爵邸を出た後も、理央はしばらく何も言わなかった。

 

 午後の霧は消えている。濡れた石畳を冬の日が照らし、町の向こうから川の音が聞こえていた。

 

「……朝は、水を上げるだけだったのに」

 

「うん」

 

 澪が答える。

 

「貝殻で水をきれいにして、それで終わると思ってました」

 

「終わってはいない」

 

「昔の王様たちまで関係あるんでしょうか」

 

「分からん」

 

 真壁は即答した。

 

「似た症状が記されていた。今分かっているのは、そこまでだ」

 

「でも、可能性はある」

 

「ああ」

 

 澪は旧王都の町並みを見た。

 

 ここで暮らした人。ここで育った子ども。この町を治めた貴族。そして、かつてここにいた王族。

 

 同じ土地で、同じ水を使ってきた。

 

「まず水を調べよう」

 

 真壁は川の方へ目を向けた。

 

「井戸も、川も、水路もだ。過去の因縁を考えるのは、その後でよい」

 

 透明な水の底に、アルヴェラが何代も抱えてきたものが沈んでいる可能性だけは、もう誰も知らなかったことにはできなかった。

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