翌朝、アルヴェラは白い霧に沈んでいた。
カルネス侯爵邸の客室へ戻った澪たちは、窓の向こうにあるはずの城壁を見ることができなかった。庭木も、向かいの建物も、輪郭が薄く浮かぶだけである。
夜の間に冷えた石畳は濡れ、屋根の縁から水滴が落ちていた。霧は風に流されているというより、町そのものを満たしているように見える。
「今日もすごいですね」
理央が窓を少し開けた。冷たく湿った空気が流れ込み、すぐに肩をすくめる。
「寒っ」
「開けたら寒いですよ」
「どのくらい見えないのか確かめようと思ったんです」
「見えないことは、開けなくても分かったと思いますけど」
澪が窓を閉める横で、真壁は霧の濃さを見ていた。
昨日、井戸水から鉛が見つかった。処理方法は作ったが、処理槽へ入れた水を飲めるのは翌日になる。原因と汚染範囲の調査にも時間が必要だった。
「先に、今日使える水を増やそう」
「別の井戸から運ぶんじゃなくてですか?」
「それも続けてもらう。だが、使える水源は多い方がよい」
真壁はセヴェリオの許可を得ると、3人で城館の外へ出た。
収納から現れたのは、細かな網目を持つ大きな網だった。続いて支柱、ロープ、受水用の樋、陶製の貯水槽が並ぶ。
「……網ですか?」
理央が見上げる。漁網より目は細かいが、魚を捕るには位置がおかしい。
「これ、何を捕るんです?」
「水だ」
「水?」
澪が網の向こうを流れる白い霧を見た。
「霧ですか?」
「ああ。霧は細かな水滴だからな」
城館の周囲には網を張れる空間がある。真壁は風向きを見て支柱を立て、霧が抜ける向きに複数枚の網を張った。
白い霧が網目を通り抜ける。
初めは何も起きていないように見えた。しかし、しばらくすると網の繊維へ細かな水滴が付き始めた。小さな粒が互いに重なり、重くなった雫が下へ滑る。
ぽたり。
ぽたり。
網の下端から樋へ落ちた水が、細い流れになって貯水槽へ入った。
「本当に水になってる」
理央が樋を覗く。
「霧で濡れるんだから、当たり前といえば当たり前なんですけど」
「濡れて終わりにせず、集めるのですね」
澪は貯水槽へたまり始めた水を見た。
真壁は最初に集まった分を採り、鑑定する。
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霧集水
鉛:検出限界未満
その他有害重金属:検出限界未満
飲用上の問題:検出されず
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「飲めるんですか?」
「今集めた水には問題ない。ただし、網や樋が汚れれば話は変わる。使う前に洗浄は必要だ」
「これで東門区の人たち全員の水を作れるんでしょうか」
「そこまでは難しい」
真壁は網の面積と、樋へ流れ込む水量を見た。
「霧が出るのは朝だけだ。集められる量にも限りがある。まず飲み水と料理へ回すのがよいだろう」
「お風呂までは無理ですね」
「それ以前に、原因を調べて水源を確保する方が先だね」
朝霧は町の名物でも、無尽蔵の水ではない。
それでも、昨日までは町を覆うだけだった霧が、今日は貯水槽の底で水音を立てていた。
集水量を確かめに来たセヴェリオの使用人たちは、網と貯水槽を交互に見ていた。井戸のようにくみ上げるわけでも、雨のように空から降ってくるわけでもない。見慣れた朝霧から水が生まれていることが、すぐには信じられないらしい。
「網は、霧が出る前に張るのですか?」
使用人の一人が尋ねた。
「前日のうちでも構いません。ただ、汚れたまま使わないでください。網と樋を洗い、最初に流れた水は捨てた方がよいでしょう」
「貯水槽へ入った後は?」
「蓋をして、飲料用と分かるように分けてください。日をまたいで長く置くのであれば、改めて状態を確認する必要があります」
真壁は難しい管理を増やさなかった。朝に集め、その日の飲み水と料理へ優先して回す。今日必要な分を、今日の霧から得る。それでよい。
澪は網の端から伝い落ちる雫を指先で受けた。
「この町では、毎朝これだけ濡れてたんですね」
「集めなければ、石畳へ落ちて終わりだった」
「もったいなかったんですね」
「用途がなければ、ただの霧だ。必要になったから水源として見るようになっただけだね」
理央は白い町と網を見比べた。
「真壁さん、昨日から霧を水として見てたんですか?」
「昨日の朝には見ていた」
「その時に言ってくださいよ」
「使えるか確かめる前に話しても仕方ないだろう」
理央は口を尖らせたが、網から落ちる水を見ているうちに、また貯水槽の方へ顔を戻した。
日が昇るにつれて、霧は少しずつ薄くなった。
屋根が見え、塔の先が現れ、通りの向こうまで見通せるようになる。網から落ちる雫の間隔も長くなり、朝の集水は終わりに近づいていた。
真壁、澪、理央は詳細地図を見ながら、アルヴェラ市内の主要な井戸を回った。
市場の片隅にある井戸。住宅地で何軒もの家が共用する井戸。石枠が擦り減った古い公共井戸。工房が並ぶ通りの井戸。
どの水も透明だった。
澪と理央が採水し、真壁が鑑定する。結果と場所を詳細地図の上で照らし合わせた。
中央部では、井戸によって差が出た。鉛の濃度が高い場所もあれば、影響の小さい場所もある。
古い公共井戸では、朝から順番を待つ住民がいた。澪たちは水を少量分けてもらい、代わりに桶を引き上げるのを手伝った。
老婆が受け取った水を覗き込み、不思議そうに首を傾げる。
「何か悪い物でも見えるのかい?」
「見た目では分からないんです。だから調べています」
澪が答えると、老婆は透明な水をもう一度見た。
「昨日まで毎日飲んでいた水だからねえ」
責めるような口調ではなかった。ただ、使えるのか使えないのか、早く知りたいという顔だった。
「結果は侯爵から知らせていただけると思います。それまでは、配られている水を使ってください」
「分かったよ」
老婆は重そうな桶を持ち上げた。理央が反射的に片側を持つ。
「家まで運びます」
「いいのかい?」
「すぐそこですよね?」
井戸を一つ調べる間にも、その水で暮らしてきた人がいる。地図の上へ数値を並べるだけの調査ではなかった。
東門区へ移ると、傾向が変わった。
一つ目は高い。
二つ目も高い。
三つ目の井戸から採った水を鑑定した理央が、眉を寄せた。
「また高いです」
「こっちもですね」
澪も別の容器を見せる。
「ああ。東門側は明らかに多い」
昨日見た井戸だけの問題ではない。少なくとも東門区の複数の井戸が、同じ影響を受けていた。
3人は市街を横切り、北門区へ向かった。
霧の消えた町には朝の生活が戻っている。店の戸板が外され、荷車が石畳を鳴らす。水瓶を抱えた住民の姿もあったが、東門区のように遠くから水を運ぶ荷車は目立たない。
北門区で最初に調べた井戸は、鉛の影響がわずかだった。
次も同じ。
さらに離れた井戸でも、結果はほとんど変わらない。
「……少ないですね」
「東門と全然違います」
「明らかに違う」
北門区の井戸では、住民がいつもどおり水をくんでいた。桶からこぼれた水が石枠を濡らし、小さな溝を通って流れていく。東門区で見た、水を運ぶ荷車と空の水瓶の列はない。
「こっちは止めなくてもいいんですか?」
「今確認した範囲では、昨日の井戸と同じ濃度は出ていない。ただし、一度調べただけで今後も安全だとは言い切れん」
「定期的に見るんですね」
「原因が分かるまでは、その方がよいだろう」
真壁は詳細地図へ目を落とした。
「同じ町ですよね?」
理央が北門の向こうと、歩いてきた東門側を見比べる。
「地上ではな」
「地下は違う?」
「地下水は地層や岩盤に沿って流れる。同じ町の下に、別の水の流れがあっても不思議ではない」
理央は足元の石畳を見た。
地上では道も家も続いている。その下で、水だけが別の道を通っている。そう考えると、同じ町の井戸に大きな差があることにも説明がついた。
真壁は詳細地図の北側と東側を見比べた。
「白霧川は北門側へ流れ、ベルド沢は東門側へ流れている」
「井戸の結果と合ってますね」
「ああ」
「じゃあ、ベルド沢を調べればいいんじゃないですか?」
理央が言う。
「まず両方を見る。違いを確かめてからだ」
3人は北門を出て、白霧川へ向かった。
川は冬の日を反して明るく流れている。流れの中央寄りから水を採り、鑑定すると、鉛の影響は極めて小さかった。
次に東側のベルド沢へ移る。
白霧川より細い流れだった。水音は穏やかで、岸には枯れ草と低い木が続いている。見た目には、こちらも澄んだ水だった。
だが、鑑定結果には明確な鉛が出た。
「北門と白霧川」
理央が指を北へ向ける。
「東門とベルド沢」
澪が続けた。
「位置関係は合う」
「じゃあ、ベルド沢ですね」
「沢のどこから入っているかは、まだ分からん」
真壁は上流へ目を向けた。
「上へ行こう」
町並みが背後へ遠ざかるにつれ、道は狭くなった。
ベルド沢に沿って冬枯れの木が続き、岩の間を水が流れている。町に近い場所には畑や小屋もあったが、上流へ進むほど人の気配は薄れた。
3人は一定の距離ごとに水を採った。
下流では鉛が出る。
少し上でも変わらない。
さらに遡ると、細い支流がいくつかベルド沢へ合流していた。
「ここで分ける」
真壁の言葉で、合流した後の水ではなく、合流する前の本流と支流を別々に採る。
一つ目の支流は低い。
二つ目も違った。
三つ目の細流から採った水だけ、鉛の濃度が明らかに高かった。
「こっちです」
理央が細い流れを指す。
「合流する前の沢は低いです。この水が入った後に上がっています」
澪も鑑定結果を確かめた。
「ああ。上流を調べよう」
細流に沿って斜面を上る。
水量は少ないが、途切れてはいない。岩の隙間や湿った土から染み出した水が集まり、細い流れを作っている。
やがて周囲の地形に、人の手が入った跡が現れた。
日が高くなっても、山の北向きの斜面には朝の冷気が残っていた。土は湿り、踏むたび落ち葉の下から黒い泥が覗く。細流の水音だけが途切れず、町で聞いていた荷車や人の声はもう届かない。
理央は枝を避けながら、少し前を行く澪へ続いた。
「水を追うだけで、山まで来ると思いませんでした」
「私もです。町の井戸の話でしたからね」
「井戸の水は、その下で終わっているわけではない」
真壁が足を止めずに言う。
「どこかで地中へ入り、どこかを通って出てくる。その道を逆にたどっているだけだ」
「言われると単純ですけど、地面の下は見えないですよ」
「だから地上の水と地形を比べる」
不自然に削られた岩。斜面へ積み上げられた大量の礫。苔に覆われた石積み。木の根に崩され、森に飲み込まれかけた古い道。
真壁は斜面から染み出す水を採った。
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山中湧出水
鉛:高濃度
────────────────
「ここですね」
「発生源にかなり近い」
「この山から出てるんですか?」
「自然の鉱床なのか、人間が残したものなのか。それを見よう」
古道をさらに進むと、斜面に黒い穴が見えた。
坑口だった。
半ばは土砂に埋まり、入口を支えていた石組みも崩れている。隙間から木が生え、道には厚く落ち葉が積もっていた。
周囲には採掘した後の廃石が山のように残っている。
積まれた石の山は一つではなかった。斜面の形が分からなくなるほど何段にも重なり、崩れた一部が細流の近くまで達している。
古い鉱山道には、荷車の車輪が削ったらしい二本の溝が残っていた。今は根と苔に覆われているが、かつては大量の鉱石がここを下ったのだろう。
真壁がいくつか拾い、鑑定した。
「銀を含んでいる」
「銀山だったんですか?」
「その可能性が高い」
「でも、鉛もあります」
澪が別の石を見た。
「ああ。方鉛鉱も混じっている」
自然の鉱床だけでも、水へ鉛が溶け出すことはある。
しかし、周囲に残るのは掘削の跡だけではなかった。
坑口から少し離れた平地に、崩れた石組みが並んでいる。熱を受けて色の変わった石。炉の形を残す窪み。黒灰色の塊と、大量に積もった灰。
真壁は鉱滓を一つ拾った。
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旧精錬滓
銀成分:微量
鉛成分:多量
酸化鉛を含む残留物:あり
加熱・精錬痕:あり
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鑑定結果を見た瞬間、真壁の目が細くなった。
(灰吹法か)
「何か分かりました?」
「ここでは採掘だけではない。銀の精錬までしていたようだ」
「灰吹法?」
理央が聞き返す。
「それに近い方法だろう。銀を取り出すために鉛を使い、加熱して分ける」
「銀を取った後の鉛が、これですか?」
「鉛を含む灰や鉱滓、廃石が残る。その処理をしないまま積み上げたようだね」
精錬場跡は、水が染み出す場所より上にあった。
雨が降れば灰と鉱滓を濡らす。土へ染み込んだ水は、鉛を含んだまま斜面から湧き、細流へ入る。その先はベルド沢であり、さらに下流には東門区がある。
鉱山が閉じても、土と廃棄物は残る。
何十年、あるいは何百年もの間、水が同じ場所を通り続けてきた可能性があった。
「昔の人は、ここから銀を持っていったんですよね」
理央が灰の積もった地面を見る。
「ああ」
「銀はなくなったのに、鉛だけ残った」
「正確には、取り切れなかった銀も残っている。だが、持ち出した物より、残した物の方が後世へ大きな影響を与えたようだね」
澪は、細流へ続く湿った筋を見た。
「町を豊かにした銀山が、町の水を悪くしたんですね」
「その可能性が高い。まだ、どの場所から最も多く流れているかは分からないがね」
銀を得た時代の人間は、何世代も後まで鉛が流れ続けるとは考えなかったのだろう。坑道が閉じ、炉の火が消えても、水だけは止まらなかった。
真壁は坑道と精錬場の位置を確かめるため、詳細地図へ目を向けた。
その動きが止まる。
「止まれ」
短い声に、澪と理央が足を止めた。
「どうしました?」
「人がいる」
「この鉱山に?」
「ああ」
詳細地図には、複数の人間が表示されていた。
坑口の近く。古い鉱山道。斜面の上。ばらばらに休んでいるのではない。外から近づく者を見られる位置へ人が置かれている。
「見張りですね」
「そのようだ」
3人はそれ以上進まず、木立の陰から遠くを確認した。
細い煙が上がっている。崩れかけていた建物の一部は補修され、そばに馬と荷車があった。武器を持つ男が行き来している。
積まれた荷箱には、同じ印が付いていなかった。複数の商人の印が混じり、壊された荷車から外したらしい車輪や板まで置かれている。
馬の数に対して飼葉が多い。長く居座るつもりなのだろう。坑道の暗がりへ荷を運ぶ者もおり、外から見える人数が全員とは思えなかった。
斜面上の見張りは、街道ではなく古い鉱山道を見ている。近づく者を早く見つけるための配置だった。
真壁は地図の表示範囲を坑道の奥へ移した。
入口近くを動く印とは別に、さらに奥にも人の印がまとまっている。一か所へ押し込められたように密集し、ほとんど位置が変わらない。その区画へ通じる通路には、外側を向いた人間が二人立っていた。
真壁の目が止まる。
「待て。奥にも人がいる」
「盗賊の仲間ですか?」
「配置が違う。一か所へ集められ、出入口を押さえられている」
澪も詳細地図を覗き込んだ。坑道の外を歩く者は互いに間隔を取り、周囲を警戒している。奥の者たちは狭い範囲から動かない。
「閉じ込められているんですか?」
「その可能性が高い」
3人は木立から動かず、しばらく鉱山道を見張った。
やがて補修された建物の扉が開き、武器を持った男が数人を外へ出した。粗末な服を着た男と女だった。両手を前で縛られ、足元を見ながら歩いている。荷車から降ろされた空の水桶を運ばされると、すぐに建物の中へ戻された。
その間も、武器を持つ男が前後についていた。
「あの人たち……」
理央の声が硬くなる。
「街道で攫った者と見てよいだろう」
「どうして、こんなところに?」
真壁は荷車の数と、坑道へ運び込まれた物資を見た。奪った荷を保管するだけなら、縛った人間を何人も生かしておく必要はない。
「売るために集めている可能性が高い」
理央の顔から血の気が引いた。
「……鉱山の人じゃないですね」
「ああ」
「盗賊ですか?」
「その可能性が高い。少なくとも、正規の採掘をしている者たちではない」
真壁は、外にいる者だけを遠くから鑑定した。
何人かには、慢性的な重金属の蓄積がある。頭痛や腹部不調、手指の震えも見られた。
「この人たちにも、鉛が入ってます」
澪が声を落とす。
「ここの水を使っているのだろう」
「それで盗賊に?」
理央の問いに、真壁はすぐ首を振った。
「それは別だ。鉛を取り込んでいることと、人を襲うことは同じ話ではない」
「そうですよね」
「戻る」
理央が詳細地図の奥に固まる印を見た。
「でも、あの人たちを置いていくんですか?」
真壁はすぐには答えず、見張りの位置と坑口、捕らわれた者がいる区画へ通じる道を確かめた。山側へ抜けられる細道にも人がいる。外から見えた人数だけで踏み込めば、坑道の奥に何人いるか分からない。
地図を閉じる。
「領主へ報告する。救出を急ぐ必要がある」
「今すぐ行くより、その方がいいんですか?」
「今ここで踏み込めば、奥にいる者を盾にされる恐れがある。坑道の出口と退路を兵で押さえてから動くべきだ」
「……分かりました」
「ここは我々の国ではない。盗賊の処分も、兵を動かす判断も、カルネス侯爵に任せる。ただし、囚われた者の位置はこちらで示せる」
真壁は人数と配置、馬車、見張り、建物、坑道内の人の印を詳細地図へ残した。外へ出された者たちが再び奥の一団へ合流したことも確かめる。
3人は見つからないよう尾根側へ回り、来た道を引き返した。
午後、カルネス侯爵邸の応接室に詳細地図が広げられた。
朝に設置した網の下では、貯水槽へ集まった霧の水が保管されている。調査へ出ている間も、東門区へ回す飲料水は少しずつ確保されていた。
真壁は席に着くと、廃銀山を先に指した。
「カルネス侯爵。廃銀山は武装した集団の根城になっています。坑道の奥には、攫われたと思われる者が複数おります」
「攫われた者が?」
セヴェリオの表情が変わった。
「はい。手を縛られ、武装した者に監視されていました。売るために集めている可能性があります」
真壁は詳細地図に残した印を示す。鉱山道と斜面の見張り。補修された建物。坑口。さらに、その奥で動かない人の一団。
「この位置です。出入口には見張りが置かれています。外から確認できた者のほかにも、坑道内にいる可能性があります」
「直ちに兵を出します」
セヴェリオは控えていた家臣を呼び、城館の兵を集めるよう命じた。廃銀山までの道を知る者、弓を扱える者、負傷者を運ぶための担架と荷車。命令を受けた家臣は聞き返すことなく部屋を出ていく。
「真壁殿。ご案内をお願いできますか」
「我々も同行しましょう。見張りと坑道、それに囚われた者の位置は把握しています」
「助かります。出立できるようになり次第、お知らせします」
救出の手配が動き出したところで、真壁は市街の地図へ指を移した。
「もう一件、水源についても報告があります。市内の主要な井戸を確認いたしました」
真壁は町の地図を指した。
「東門区では鉛が多く、北門区ではほとんど確認されませんでした。中央部は井戸によって差があります」
「同じ町の中で、そこまで違うのですか」
「地下で水の流れが分かれているようです」
指先を北へ移す。
「白霧川は北門側へ流れ、ベルド沢は東門側へ流れています。白霧川では大きな問題を確認できませんでしたが、ベルド沢からは鉛を検出しました」
「ベルド沢が?」
「はい」
真壁は、沢を遡って採水した地点を順に示した。最後に、鉛濃度の高い細流と、その上にある古い鉱山跡へ指を止める。
「上流に廃銀山があります。坑口の近くには、精錬場の跡と、鉛を多く含む鉱滓や灰が残されていました」
「銀山……」
セヴェリオは地図の一点を見つめた。
真壁が収納から旧精錬滓の一片を出す。
「旧王朝は、水源の上流で灰吹法に近い精錬を行っていたようですな」
「灰吹法?」
「銀を得るために鉛を使う方法です。鉛の害を知らなかったとはいえ、結果だけを見れば自滅行為に近い」
セヴェリオの顔が強張った。前日に口にした旧王朝末期の記録と、机上の鉱滓を見比べる。
旧王朝を富ませた銀と、旧王都の人間を蝕んだ鉛が、同じ場所から出てきた。
「鉱山は、とうに閉じているはずです」
「採掘をやめても、鉛を含む鉱滓と土壌は残ります。雨水や地下水がそこを通れば、鉛は流れ出します」
真壁は廃銀山から細流、ベルド沢、東門区へと指を滑らせた。
「土壌に残った鉛が、今も地下水へ溶け出していると見るべきですな」
昔の失敗ではない。
今日も続いている問題だった。
「何か手立てはありますか」
「あります」
真壁は即答した。
「まず、一番大きな汚染源を突き止めます。坑道から出る水なのか、精錬滓を積んだ場所なのか、廃石なのか。それぞれを切り分ける必要があります」
「その後は?」
「新しく鉛が流れ出す経路を止めます。その上で、すでに汚染された地下水脈の範囲を確認します」
「それで井戸は元に戻りますか」
「すぐには戻りません。原因を止めても、地下へ入った鉛は残ります。当面は北門側の水源、白霧川、霧から集めた水、昨日の浄水設備を併用する必要があります」
セヴェリオは簡単に済む話ではないと理解したようだったが、目を逸らさなかった。
「東門区の住民は、いつまで別の水を使うことになりますか」
「現時点では期限を申し上げられません。流出を止めた後も、井戸の数値が下がるまで確認が必要です」
「数日では済まないと」
「その可能性が高いでしょう」
セヴェリオは短く息を吐いた。
「水を運ぶ人員を増やします。北門側からの運搬路も整えさせましょう」
「それがよいでしょう。ただし、北門側の井戸も継続して確認してください。利用が集中すれば、くみ上げる量も増えます」
「承知しました」
浄水設備を一つ作れば終わる話ではない。安全な水を運ぶ人間、容器、道、貯水場所も必要になる。セヴェリオは領主として、その場で動かせるものを一つずつ考えていた。
「高濃度に汚染された土壌は、収納で取り込み、鉛を分離する方法も考えられます」
澪が地図を見ながら言う。
「できる」
「できるんだ……」
理央が呟いた。
「ただし、先に範囲を確認する必要がある。不用意に地層を崩せば、地下水の流れまで変わる」
「それは分かりますけど……」
澪は、鉱山周辺の地質を見ている真壁の横顔へ目を向けた。
少し間を置く。
「でも真壁さんなら、問題ない土まで嬉々として収納して、あとで用途を考えません?」
「え?」
理央が真壁を見る。
真壁は何も言わなかった。
「砂とか、粘土とか、分離したら出てくる鉱物とか。絶対に調べますよね?」
「……資源として利用できるなら、捨てる理由はない」
「やっぱり」
「否定しなかった」
「話を戻そう」
「今ちょっと、何に使えるか考えてましたよね?」
「澪君」
「はい」
「話を戻そう」
「2回言った」
理央の小声に、澪が笑いをこらえた。
セヴェリオも一瞬だけ表情を緩めたが、廊下を急ぐ足音が聞こえると、地図上の廃銀山へ目を戻した。
「兵の準備には、少し時間が掛かります」
「構いません。急いで配置を崩すより、坑道から逃がさない態勢を作る方がよい」
「囚われた者を先に出せますか」
真壁は坑道の印を指でなぞった。
「正面から入れば、見張りが奥へ知らせるでしょう。外周を押さえた上で、こちらの古い通路から近づくのがよいと思います」
「使える道なのですか」
「途中までは確認できます。崩落の有無は、近づいて確かめる必要があります」
セヴェリオは頷き、真壁の示した通路を書き留めるよう家臣へ命じた。
「盗賊を捕らえることより、囚われた者の安全を優先します」
「それでよいでしょう。逃走路を兵が押さえれば、慌てて追う必要もありません」
地図の上で救出に使う道と、汚染を調べる地点が重なっている。まず人を出す。その後で坑道排水と鉱滓置き場を調べることになる。
報告を終えて城館の外へ出ると、朝には霧に隠れていた城壁が、冬の空の下にはっきり見えていた。
壁の周囲には大型の網が張られている。その下の貯水槽には、朝霧から集めた水が残っていた。
城館の兵舎から、武具を運ぶ音が聞こえてきた。馬を引き出す声も重なる。セヴェリオの命令を受けた兵たちは、すでに廃銀山へ向かう準備を始めていた。
理央は、朝霧から集めた透明な水を見た後、城館の中を振り返った。
「あの人たち、助けられますよね」
「そのために兵を出してもらう」
「私たちも一緒に行くんですよね」
「ああ。地図を見られるのは我々だ。現地まで案内し、囚われている場所を示す」
真壁は詳細地図を開いた。
廃銀山の外では、見張りの印がゆっくり動いている。奥に固まった印は、今も同じ場所にあった。
「動いてはいない」
理央が地図を覗き込み、小さく息を吐く。
「間に合いますか」
「間に合わせる」
真壁は地図を閉じた。
まず、囚われた者を無事に外へ出す。
坑道の水と、鉛を流し続ける場所を調べるのは、その後だった。