カルネス侯爵邸の中庭では、すでに馬が引き出されていた。
朝の霧は消えている。雲を透かした午後の光は白く、石敷きの庭を明るくするほど強くはなかった。厩から出された馬の鼻先で白い息が膨らみ、蹄鉄が石を打つ音が屋敷の壁へ返る。
兵たちは剣や槍を確かめ、弓の弦を張り直していた。その後ろでは、使用人が水袋と食料を荷車へ積んでいる。
廃銀山へ兵を出す。
セヴェリオがそう決めてから、侯爵邸の動きは早かった。
兵の準備が進む間、真壁たちは応接室へ呼び戻されていた。開いた窓から、馬の嘶きと荷車へ荷を積む音が入ってくる。暖炉には火が残っていたが、人の出入りが続く室内にも外の冷気が流れ込んでいた。
「ダリオ。現場は任せます」
新たに入ってきた男は、胸へ手を当てて頭を下げた。
「承知しました」
ダリオ・ヴェルネス。
40代ほどに見える、カルネス侯爵家の私兵隊長だった。身体は大きいが、声を張り上げて威圧するような男ではない。机に広げられた詳細地図へ目を落とし、真壁の示した坑口と人の配置を順に確かめている。
「捕らわれている者の救出を最優先に。盗賊を奥へ追い込み、人質に取らせることのないようにしてください」
「入口と逃走路を先に押さえます。坑道へ入る者は分けましょう」
「それでお願いします」
セヴェリオは次に、白髪の混じった年長の男を見た。
「バルディオ。救出した者の受け入れを」
「人数は、どれほどになりそうでしょうか」
バルディオ・レマルはカルネス家に長く仕える家宰だという。尋ねながらも、すでに手元の使用人へ合図を送っている。
「数十人はいると見てよいだろう」
真壁が答えると、バルディオの眉がわずかに動いた。
「数十人……。全員が歩けるとは限りませんな」
「衰弱した者がいる可能性もある。水と食事だけでなく、毛布と担架も必要だ」
「医師を待機させます。休ませる部屋も用意いたしましょう」
バルディオは使用人へ向き直った。
「馬車を増やしてください。荷を下ろして空けられるものがあれば、それも。湯を用意し、すぐ口にできる食事を作らせなさい。衣服も必要になります」
指示を受けた者たちが部屋を出ていく。
廊下では、呼び集められた使用人が毛布を抱えて走っていく。別の者は医師を迎える馬車の用意へ向かった。バルディオの指示を受け、必要な物が屋敷の各所から集まり始めていた。
最後に立っていたのは、細身の男だった。
「マルコ。足りない物があれば、商人から集めてください」
「承知しました」
マルコ・ディネス。侯爵家で商務を任されているらしい。
身なりも態度も整っている。攫われた者が売られる可能性を聞くと、すぐに口を開いた。
「この人数を抱えているなら、盗賊どもだけで売り先を探しているとは考えにくいでしょう。引き取りに来る者がいるのかもしれません」
「そういう例があるのですか?」
澪が尋ねた。
「残念ながら。街道から離れた場所で人を集め、まとまったところで仲介する者へ渡す。表の市場へ出せない者を扱う商売は、なくなりません」
商人と荷の出入りを扱う者なら、表へ出ない取引の例も耳に入るのだろう。真壁はマルコの説明をそのまま聞いた。
セヴェリオが机上の地図を閉じる。
「まず人を助けます。ダリオ、準備が整い次第、出てください」
「はっ」
ダリオが先に部屋を出た。
外では、先ほどより多くの足音が行き交っている。水袋を運ぶ者は荷車へ、武具を抱えた者は兵の集まる前庭へ向かっていた。
澪は窓から中庭を見下ろした。
「貴族のお屋敷っていうより、役所と兵舎と病院が一緒になってるみたいですね」
「領地を治める家だからな」
真壁は手袋をはめ直した。
「我々も出るとしよう」
前庭へ出ると、革具と馬、乾いた土の匂いが混じっていた。
兵の装備は全員まったく同じではない。剣を持つ者、槍を持つ者、弓を背負う者がいる。ただ、盾や外套にはカルネス侯爵家の印が入り、武具もよく手入れされていた。
ダリオが短く指示を出す。
呼ばれた兵だけが前へ出て、残りは馬と荷を確かめる。勝手に持ち場を離れる者はいない。担架を載せた荷車と、救出者を乗せる馬車は後方へまとめられていた。
真壁は人数を数えるより、兵がどう動くかを見ていた。
「真壁殿」
ダリオが近づいてくる。
「出立の前に、もう一度位置を確認したい」
「承知した」
真壁は詳細地図を開いた。
「主要な入口はここだ。見張りは鉱山道と斜面上にいる。裏手へ抜ける道にも人が置かれていた」
指先を坑道の奥へ移す。
「囚われた者は、この辺りに集められている。出入口には盗賊がいるが、奥へ通じる古い通路がもう一本ある」
「使えそうですか」
「近くまで行って確認する必要がある。崩れていなければ、正面を避けられる」
ダリオは地図を見ながら少し考えた。
「正面を塞ぐ隊、裏手へ回る隊、坑道へ入る隊に分けます。捕らわれた者の位置が動いたら、教えていただきたい」
「承知した。人の移動はこちらで見よう」
真壁は地図を閉じた。
理央は整列した兵を見ていたが、やがて澪へ顔を寄せた。
「この人たちの中に、王女様を襲った人はいませんよね?」
声は小さい。
アレシアたちが街道で襲われた時に見たのも、武器を持った男たちだった。揃って動く兵を前にして、理央の肩には少し力が入っていた。
真壁は並んでいる顔を見渡した。
「私が直接見た者の中に、見覚えのある顔はいない」
「じゃあ、違う人たちですか?」
「少なくとも、この場にいる兵と、私が見た襲撃者は一致しない。それ以上はまだ分からん」
「そうですよね」
理央は小さく息を吐いた。
ダリオが片手を上げる。
前庭の門が開き、カルネス侯爵家の兵が動き始めた。
真壁、澪、理央も、自分たちの馬へ乗った。外見は侯爵家の馬と変わらない。3人は手綱を他人へ預けず、騎馬の後ろへ自動馬を並べた。
先頭は騎馬、その後ろに徒歩の兵が続く。担架と毛布を載せた荷車、空にした馬車は最後尾へ回された。
門の脇で見送っていたバルディオは、通り過ぎる荷車を一台ずつ確かめた。水袋が足りないと気づくと、使用人へ声を掛け、予備を追加させる。救出者が数十人なら、山から町へ戻るまでの水だけでも相当な量になる。
「あの人、全部見てますね」
理央が振り返った。
「受け入れる側の責任者だからな」
「私たちが戻る頃には、部屋も食事もできてるんでしょうか」
「そうするために、ここへ残っている」
理央は前を向き直った。
甲冑の鳴る音と荷車の車輪が重なり、討伐隊はアルヴェラの石畳を東へ進んでいった。
大通りでは、店先の者が荷を寄せて道を空けた。何事かと戸口から顔を出す者もいる。朝霧に濡れた石畳へ馬蹄の音が続き、隊列は古い建物の間を抜けて東門へ向かった。
門兵が通行人を脇へ誘導する。侯爵家の印を付けた先頭の騎馬が門をくぐり、徒歩の兵、3頭の馬、救出用の馬車が順に城壁の外へ出ていった。
討伐隊が町を出た頃、侯爵邸の周囲には見物する者が集まっていた。
兵と馬、それに何台もの荷車がまとまって動けば、隠しようがない。どこへ向かうのかまでは分からなくても、何かが起きたことは町中へ伝わる。
討伐隊を見送ったガレス・モルナは、人の流れから離れて路地へ入った。
マルコ・ディネスは、救出者用の物資を扱う商人へ使いを出した後、侯爵邸へ戻る途中でその路地を通った。古い石壁の陰から、ガレスが姿を見せる。
実用一点張りの外套を着た、元傭兵らしい体つきの男だった。
「廃銀山に兵を出すって?」
ガレスは挨拶もせずに聞いた。
「ああ」
「あそこの連中なら、俺たちとは関係ねえぞ」
「分かっている」
「なら、放っておけばいい」
ガレスは面倒そうに肩をすくめた。
「何十人も人を捕まえていたらしい」
「売る前だったか」
その言葉に、マルコの目が細くなる。
「問題はそこではない」
「じゃあ何だ」
「あいつらが、誰に売っていたかだ」
ガレスの顔から軽さが消えた。
廃銀山の盗賊は、ガレスの手下ではない。だが、攫った人間を自分たちだけで最後まで売っていたとも限らなかった。
「売り先が同じだってのか?」
「同じかもしれない。直接つながっていなくても、仲介する者が重なれば、別の線からこちらへ来る」
「なら、喋る前に口を塞ぐか」
「余計なことはするな」
マルコは即座に止めた。
「もう侯爵家の兵が向かっている。今から動けば、自分たちに関係があると知らせるようなものだ」
「俺たちは関係ねえ」
「廃銀山の連中とは、だ。売り先まで調べられれば話は変わる」
ガレスは舌打ちし、通りの先を見た。
冷たい風が路地を抜け、軒先に残っていた霧の雫を落とす。
「あんな古い穴まで、誰が見つけたんだ?」
「……王国から来た商人だ」
「また、あいつらか」
マルコは答えなかった。
先に路地を出たのはガレスだった。マルコも少し間を置いて反対側へ歩き出す。
アルヴェラを離れると、町の音は少しずつ遠ざかった。
ベルド沢に沿った道を進む。初めは畑と小屋が見えていたが、上流へ向かうほど人家は減り、冬枯れの木と岩が増えていった。
湿った土の上へ馬の足跡が続く。日陰には朝の冷気が残り、沢から上がる空気も冷たい。
隊列の前方では、土地を知る兵が道を選んでいた。ダリオは道幅が狭くなるたび隊列を変え、馬車と荷車が通れる場所を確かめている。
日が傾くにはまだ早いが、山の陰へ入ると温度が落ちた。日向で緩んだ土は黒く濡れ、岩のくぼみには薄い氷が残っている。馬が足を取られそうな場所では兵が先に降り、手綱を引いて通した。
沢の水音に混じって、革具の軋む音と人の息遣いが続く。
誰も急かさなかった。先頭だけが早く着いても、出口を塞ぐ兵と救出用の荷が遅れれば意味がない。ダリオは曲がり角ごとに後方を確かめ、隊列が詰まると前を止めた。
真壁も歩調を合わせている。
「真壁さんなら、先に行けますよね」
理央が小声で聞いた。
「行くだけならな」
「行かないんですか?」
「一人で着いて何をする。今日は兵と馬車を運ぶのが先だ」
「あ、そっか」
理央は後ろを見た。担架を積んだ荷車が、兵に押されながら窪みを越えている。
「馬車はここまでだ」
古い鉱山道へ入る手前で、ダリオが止めた。
救出用の馬車と荷車を戦闘場所まで連れていけば、逃げ道を塞ぐ。馬が騒げば、見張りに気づかれることもある。
後方へ残す兵と、担架を運ぶ者が分けられた。
真壁たちも自動馬から降りた。人目のある場所では収納せず、後方に残る兵から離れた木立へ3頭をつなぐ。馬体へ触れられない位置を選び、世話は自分たちですると伝えた。
真壁は詳細地図を開く。
「位置は変わっていますか」
「大きな移動はない。見張りも先ほどとほぼ同じだ」
奥に固まっている人の印も残っている。
理央は地図を横から見た。
「まだ、あそこにいる」
「ああ」
「間に合いましたよね」
「まだ助けてはいない」
真壁の声は穏やかだったが、理央は口を閉じた。
理央は奥に固まる印をもう一度見てから、真壁の後へ続いた。
鉱山道はさらに細くなる。崩れた石積みを越え、枯れ枝を避けながら進む。まとまった兵が長く使われていない道へ入ると、靴が落ち葉を踏む音まで大きく聞こえた。
最初に3人で来た時には、水を追っていただけだった。
今日は武装した兵と、担架を持つ者が同じ道を上っている。
澪は山の奥へ目を向けた。
「見張りまで、あとどのくらいですか?」
「この先の斜面だ。こちらからはまだ見えん」
ダリオは手を上げ、兵を止めた。
「ここから分けます」
真壁の地図で位置を確かめた後、兵は3つに分かれた。
坑口正面へ向かう隊。斜面を回って逃走路を押さえる隊。そして、捕らわれた者のいる奥へ入る隊。
ダリオは最後の隊に加わる。
澪と理央は、指定された位置より前へ出なかった。真壁も地図が見える場所へ残り、動きだけを追う。
岩陰から坑口の一部が見える。理央は剣の柄へ手を置いた兵と、地図の中で動く印を交互に見た。まだ戦いは始まっていないのに、手袋の中で指先が冷たくなっている。
「見張りが一人、斜面を下り始めた」
真壁が言う。
ダリオが近くの兵へ目を向ける。
「右から回れ。声を出させるな」
兵が木立へ消えた。
しばらくして、地図上の印が止まる。
別の見張りは異変に気づかず、坑口近くを往復していた。背後から近づいた兵が取り押さえ、武器を奪う。
大声は上がらなかった。
ダリオは正面の兵を進ませず、裏手へ回った隊が位置につくのを待った。
「逃走路を押さえました」
戻ってきた兵の報告を受け、ダリオが剣を抜く。
「入るぞ。奥へ逃がすな。捕らわれた者へ向かう者を優先して止めろ」
ダリオの命令で兵が動いた。
外の見張りが消えたことに、盗賊側も気づいた。
坑口の前で怒鳴り声が上がる。
理央の肩が跳ねた。
前へ出かけた足を止め、澪の隣へ戻す。今は真壁の近くを離れない。それが自分の役目だと分かっていた。
武器を持った男たちが建物から飛び出した。正面にはすでに盾を構えた兵がいる。横へ逃げようとした者は、斜面から現れた別の隊に塞がれた。
剣と盾がぶつかり、乾いた音が山中へ響く。
盗賊は人数を頼りに押し返そうとしたが、動きが揃わない。前へ出る者と逃げようとする者がぶつかり、狭い鉱山道で互いの邪魔をしている。
対する侯爵家の兵は、ダリオの指示に従って間隔を崩さなかった。
盾を並べた兵が半歩ずつ前へ出る。盗賊の剣が盾の縁を滑り、火花を散らした。後ろから槍を出した兵は、胸ではなく腕と足を狙って動きを止める。
斜面へ逃げた男は、上で待っていた兵を見て立ち止まった。引き返そうとしても、鉱山道はすでに塞がれている。武器を放り出し、両手を上げた。
一方、坑口に近い盗賊は、仲間を押しのけて中へ逃げ込もうとする。
「左へ回る者がいる」
真壁が地図を見て告げる。
ダリオは自分の兵へ指示を飛ばした。
坑口へ戻ろうとした盗賊が取り押さえられる。武器を捨てて膝をつく者もいた。抵抗を続けた者は盾で押し倒され、数人がかりで拘束された。
「奥へ2人動いた」
真壁の声が変わった。
「捕らわれている場所へ向かっている」
ダリオは正面の戦いを部下へ任せた。
「坑道へ入る。続け」
松明を持つ兵が先に立ち、その後へ盾を持つ者が続く。
真壁、澪、理央も入口まで移動した。
坑道の中は暗く、湿った岩と古い木の匂いがした。盗賊が置いた松明の煙が天井へ溜まり、岩の隙間から落ちる水滴が火の届かない奥で音を立てている。
壁際には粗末な寝床と食料袋、水桶が並んでいた。奪ったらしい荷箱も積まれている。
古い採掘跡には藁を敷いた寝床が並び、坑道のくぼみには荷箱が押し込まれていた。煤で黒くなった岩壁に、盗賊が打ち込んだ木の棚が傾いている。
地図上で、奥へ向かった2人が分かれた。
「一人は右の通路。もう一人は、そのまま奥だ」
真壁がダリオへ伝える。
「右は任せます。私は奥へ」
ダリオが兵を分けた。
右へ入った盗賊は、別の出口から逃げようとしたらしい。回り込んでいた兵と鉢合わせし、その場で取り押さえられた。
奥へ向かった男は、捕らわれた者を閉じ込めた区画の前にいた。
扉代わりの太い板を外そうとしている。
「動くな!」
ダリオの声が坑道へ響いた。
男が振り向き、剣を抜く。
狭い通路では大きく振り回せない。盾を前へ出した兵が刃を受け、次の兵が腕を打つ。剣が岩床へ落ち、男はその場へ押さえ込まれた。
「中を確認しろ」
板が外された。
冷たい空気の向こうに、人の気配があった。
松明の光が、坑道奥の一角を照らした。
そこにいたのは、地図の上で重なっていた数十の印だった。
壁際に座り込んだ者。立ち上がろうとして、隣の者に支えられる者。こちらを見てもすぐには動けない者。
淀んだ空気には、湿った藁と人の汗、空になった水桶の臭いがこもっていた。服は汚れ、顔には疲労がにじんでいる。坑道の一角は板と荷箱で塞がれ、手を縛られた者もいる。外から閂を掛け、見張りを置けば、弱った者たちは逃げられなかった。
「カルネス侯爵家の兵だ」
ダリオは剣を鞘へ戻した。
「盗賊は押さえた。もう外へ出られる」
すぐには声が返らなかった。
やがて入口に近い一人が、掠れた声で尋ねる。
「……本当に?」
「ああ。歩ける者から出よう。立てない者はそのままでよい。担架を呼ぶ」
その言葉で、ようやく空気が動いた。
泣き出す者がいた。隣同士で顔を見合わせ、何度も頷く者もいる。
理央は何か言おうとして、やめた。
地図で見ていた時は、同じ場所に集まる印だった。今は一人ずつ違う顔をしている。歩ける者もいれば、足へ力が入らず座り込んだままの者もいた。
盗賊が来たと思ったのか、松明から顔を背けたままの者もいる。兵が縄へ手を伸ばすと身を固くしたが、刃ではなく縄を切るのだと分かり、ようやく腕の力を抜いた。
「外に水と馬車があります」
澪はできるだけゆっくり話した。
「怪我をしている人は、無理に立たなくて大丈夫です」
返事の代わりに、小さく頷く者がいた。
「理央ちゃん、こっちを持って」
「はい」
澪と理央は、兵が持ってきた毛布を受け取った。
澪は肩を震わせている者へ毛布を掛け、理央は縛られた手を解く兵へ布と水を渡す。
毛布を受け取った手首には、縄で擦れた跡が残っている。澪の指が一瞬止まった。人を荷物のように閉じ込めていた盗賊への言葉は飲み込み、毛布の端を相手の胸元まで引き上げる。
「一度に飲ませすぎない方がよい」
真壁は状態の悪い者を鑑定しながら言った。
「まず口を湿らせてくれ。歩かせる必要はない」
ダリオが外へ兵を走らせ、担架を呼んだ。
逃げた盗賊を追う声より、救出者を運ぶ声の方が多くなる。
歩ける者は兵に支えられ、坑口へ向かった。自分で動けない者は担架へ乗せられる。狭い場所では何度も向きを変えなければならず、外へ出るまで時間が掛かった。
担架が一つ通る間、反対から入る兵は壁へ身体を寄せて道を空ける。松明を持つ者は火が毛布へ近づかないよう腕を上げた。足元には古い枕木と浅い水溜まりがあり、担架を傾けないだけでも神経を使う。
理央は水を持って戻ろうとしたが、すれ違える場所がない。
「ここで待て」
真壁に止められ、壁際へ寄る。
目の前を、毛布に包まれた人が運ばれていった。顔色は悪いが、開いた目は入口の光を追っている。
「もう少しです」
理央が声を掛けると、その人の唇がわずかに動いた。
何を言ったのかは聞き取れなかった。それでも理央は、担架が曲がり角の先へ消えるまで見送った。
それでも一人ずつ、暗い坑道から冬の光の下へ出ていった。
外は寒かった。
だが、湿った岩に囲まれた冷気とは違う。毛布があり、水があり、馬車が待っている。
冬の日は山の稜線へ近づき、坑口の前はすでに日陰へ入っていた。吐く息は白く、担架を待つ間にも救出者の肩が震える。兵たちは風を避けられる岩陰へ人を移し、火を入れた小さな炉を近くへ運んだ。
後方に残っていた使用人と医師が動き始めた。傷を確かめ、顔色を見て、歩けない者を馬車へ運ぶ。温めた湯と、薄くした煮汁も用意されていた。
バルディオが揃えさせた物が、次々に使われていく。
比較的元気な者には、名前と元いた場所が尋ねられた。家族へ知らせる先と、帰す場所を確かめるためだった。
答える途中で声が詰まる者には、それ以上聞かない。使用人が毛布を重ね、火を入れた小さな炉の近くへ案内する。
盗賊に奪われた外套が見つかり、自分のものだと抱き締める者もいた。けれど荷物を探すのは後に回された。まず身体を温め、町へ戻る。それが全員に繰り返し伝えられた。
理央は最後の一人が坑口から出るまで、その場を離れなかった。
「これで、全員ですか?」
真壁は地図を見る。
坑道の奥に、動かない印は残っていない。
「ああ。閉じ込められていた者は全員出た」
理央の肩から、ようやく力が抜けた。
「よかった……」
澪も坑口を振り返った。暗がりに人の姿はなく、板と空の水桶だけが残っている。それを確かめてから、強く握っていた毛布の端を放した。
真壁は、救出者のうち特に衰弱している者を何人か鑑定した。
空腹、疲労、治療されていない怪我。それだけではない。
────────────────
慢性的な重金属蓄積による症状あり
頭痛
腹部不調
手指の震え
集中力低下
────────────────
一人だけではなかった。
長くここにいたらしい者の一部に、程度の違う蓄積がある。
真壁は盗賊が使っていた水桶へ目を向けた。中の水を採り、鑑定する。
────────────────
廃銀山生活用水
鉛:高濃度
長期飲用:不適
────────────────
「この人たちも、ここの水を飲んでいたんですね」
澪が救出者を見る。
「その可能性が高い」
「町の井戸だけじゃなかったんだ……」
理央は水桶から流れる透明な水を見た。
捕縛された盗賊にも、同じ重金属の蓄積が見られる者がいた。廃銀山に長くいれば、盗賊か被害者かに関係なく同じ水を口にする。
「この水を飲んだから、あの人たちも具合が悪くなったんですか?」
「長く飲んでいれば、影響は出る」
真壁は拘束された盗賊へ一度目を向けた。
「だが、水の影響と罪は分けて考えるべきだ」
「はい」
真壁は医師を呼び、救出者の一部に慢性的な影響が疑われることを伝えた。すぐに治るものとして扱わず、アルヴェラへ戻ってからも状態を見る必要がある。
医師は頷き、該当する者が乗る馬車を分けた。
盗賊を追い出しても、水はそのままだった。
坑道の岩の間から流れた水は、細い溝へ入り、今もベルド沢の方へ下っている。
外では、捕らえた盗賊が縄でつながれていた。
武器を捨てて降伏した者も、逃げようとして捕まった者もいる。負傷者には最低限の手当てがされているが、拘束は解かれていない。
近くには押収された荷箱と馬、壊された荷車の部品が集められていた。箱には複数の商人の印がある。短い間に一度襲っただけで、これほど違う荷が集まるはずはなかった。
ダリオが盗賊の一人の前へ立つ。
「捕らえていた者を、どこへ売るつもりだった」
男はしばらく黙っていたが、周囲の兵を見て口を開いた。
「俺たちが売るんじゃねえ」
「誰へ渡す」
「知らねえよ。人数が集まったら、向こうから来る」
「どこから来る者だ」
「俺は受け渡しに出たことがねえ。捕まえて、ここへ連れてくるだけだ」
別の盗賊も、似たようなことを言った。
盗賊たちは街道で旅人や商人を襲い、荷と馬を奪っていた。その際、生け捕りにした者は廃銀山へ連れ帰り、ある程度の人数になると別の者へ引き渡していた。
誰が最後に買うのかまでは、末端の者は知らないらしい。
ダリオは一人の話だけを信じず、何人かを別々に聞いた。受け渡しへ立ち会ったことがあるという者も、相手の名は知らないと答えた。決まった日ではなく、人数が揃った後に知らせが届き、夜のうちに連れ出していたという。
「知らせは、どう届く」
「頭しか知らねえ」
「その頭はどこだ」
男は黙り、視線を逸らした。
ダリオは無理に口を割らせようとはしなかった。拘束を確かめ、部下へ引き渡す。アルヴェラへ連れ帰れば、他の盗賊や押収品と照らし合わせて調べられる。
「売り先まで調べますか?」
澪がダリオへ尋ねた。
「調べます。ただ、今は救出した者を町へ戻す方が先です」
ダリオは部下へ目を向けた。
「盗賊と押収品は、こちらで預かります。荷に残る印から、持ち主も探しましょう」
「それがよい」
真壁は短く答えた。
ダリオは盗賊と押収品を分け、それぞれに兵を付けた。商人の印が残る荷箱には布を掛け、その場で誰にも開けさせない。持ち主と売り先は、アルヴェラへ戻ってから調べることになった。
馬車が一台ずつ山を下り始めた。
救出された者を乗せた馬車が先に行き、拘束された盗賊は兵に囲まれて続く。車輪が古い道の石を踏み、低い音を残して遠ざかる。
人の声が減ると、廃銀山には再び水音が戻った。
風が枯れ枝を揺らし、坑口の奥から冷たい空気が流れてくる。盗賊がいなくなっても、黒灰色の鉱滓と廃石の山は残っている。
ダリオは坑道の内外を確認してから、真壁たちのところへ来た。
「捕らわれていた者は全員外へ出しました。坑道内に残る盗賊もいません」
「助かった」
ダリオは遠ざかる担架の列を見た。張り詰めていた口元がわずかに緩んだが、すぐに残る兵と拘束した盗賊の数を確かめる。
「水源を調べられるのでしょう?」
「ああ。まず、坑道から出る水を見る」
真壁は古い精錬場へ目を向けた。
「次に鉱滓、廃石、その下の土だ。どこから最も多く鉛が流れているのかを切り分ける」
「土地を大きく動かす場合は、侯爵へ知らせてください」
「当然だ。調べることと、地形を変えることは別だからな」
ダリオは頷いた。
「ここへ数人残します。何かあれば使ってください」
「助かる」
ダリオも帰還する兵の方へ向かった。
理央は、遠ざかる最後の馬車を見送った後、廃銀山を振り返った。
「これで終わり……じゃないんですよね」
「閉じ込められていた人は、全員出せました」
澪が答える。
「でも、水は流れたままです」
「そういうことだ」
真壁は坑口近くを流れる水を採った。
鑑定には、先ほどと変わらない鉛が表示される。
坑道の奥には水が流れ、崩れた炉の周囲には黒灰色の精錬滓が残っている。斜面へ積み上げられた廃石の下へも、雨水が染み込んでいた。
日はすでに山の端へ掛かっている。残された時間で坑道へ踏み込むべきではなかった。
「今日は位置だけ確かめる。詳しく見るのは明日だ」
真壁の言葉に、澪と理央が頷いた。
何百年も鉛を運び続けてきた水は、盗賊が消えた後も、何事もなかったように細流へ落ち続けていた。