押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第310話 報酬はいただきました

 

「……更地、ですか?」

 

 セヴェリオは、真壁と地図を交互に見た。

 

 応接室の机には、アルヴェラからベルド旧鉱山までの地形が広がっている。真壁が指で囲んだのは、東門からおよそ10km離れた山麓だった。

 

 地図の上では指先で隠れるほどの範囲である。

 

 だが、実際には鉛反応の強い場所だけでも、地形に沿って1.5kmを超える。ところによっては3km近くまで反応が散り、地下深くにも汚染が残っていた。

 

「すべてを同じ深さまで掘るわけではありません」

 

 真壁は、先ほど囲んだ範囲の内側を指した。

 

「鉛反応の強い層だけを追います。しかし、旧精錬跡と排水坑の周囲は、地上の形が残らないほど掘り返すことになるでしょう」

 

 炉跡も、崩れた石組みも、鉱滓を積み上げた場所も、その下の土まで汚染されている。形だけを残すために鉛を残せば、何のために掘るのか分からなくなる。

 

 セヴェリオはすぐには答えなかった。

 

 暖炉の中で薪が小さく爆ぜる。窓の外には、夕暮れを迎えた旧王都の屋根が重なっていた。

 

「昔は、あの一帯にも村がありました」

 

 セヴェリオの指が、地図のベルド旧鉱山近くへ触れる。

 

「鉱山が閉じられた後も、すぐに人がいなくなったわけではありません。畑を耕し、家畜を飼い、山から得られる物をアルヴェラへ運んで暮らす者たちがいたのです」

 

 バルディオも黙って地図を見ている。カルネス家に長く仕えてきた家宰なら、消えた村についても知っているのだろう。

 

「私が若い頃には、すでに人が減り始めていました。身体を悪くして働けなくなる者が多く、家族ごと町へ移る者もいた。作物が全く育たないわけではない。魔物が村を滅ぼしたのでもない。一度に広がる疫病でもありませんでした」

 

 理由が分からないまま、一軒、また一軒と家が空いた。

 

 畑を使う者が減り、街道を通る荷車も減った。最後には村そのものがなくなり、古い山道へ領兵や役人が立ち寄る機会も失われた。

 

 無人となった鉱山へ盗賊が入り込んだのは、それより後のことだった。

 

 セヴェリオの目が、旧精錬跡から東門側へ延びる鉛反応を追った。

 

「……それが、鉛だったということですか」

 

「少なくとも、長く飲み続ければ身体へ影響する濃度です」

 

 真壁は、それ以上を断定しなかった。

 

 村を離れた理由は、一人ずつ違ったはずである。けれど、頭痛や腹痛、震え、疲労に苦しむ者が多ければ、畑を維持することも、山の暮らしを次の世代へ渡すことも難しくなる。

 

 井戸で見つかった鉛は、今のアルヴェラだけを蝕んでいたのではない。

 

 セヴェリオにとって、理由の分からないまま失われた土地の話でもあった。

 

「鉛をなくすことができるのですか」

 

「できます」

 

 真壁は短く答えた。

 

 セヴェリオは目を閉じ、しばらく考えた。

 

 元どおりになる保証はない。鉛を取り除いても、消えた村人が帰ってくるわけではなかった。それでも放置すれば、山から流れる水はこの先もアルヴェラへ鉛を運び続ける。

 

 原因らしいものと、それを取り除く手段が、初めて同時に示された。

 

「……分かりました」

 

 セヴェリオは目を開いた。

 

「お任せします」

 

「ありがとうございます」

 

「掘り出した灰や土砂は、どうなさいますか。量によっては、こちらでも捨て場所を用意しなければなりません」

 

「こちらで処理できます」

 

 真壁が答えると、セヴェリオはバルディオを見た。家宰も小さく頷く。

 

「では、土地から掘り出したものについても、すべてそちらで処分してください」

 

「承知しました」

 

 セヴェリオにとっては、鉛を含む大量の灰、鉱滓、廃石、土、泥を領内へ積み直さずに済む話だった。何がどれほど分離できるかは、この場では誰にも分からない。

 

 真壁も、まだ確かめていないことを口にはしなかった。

 

 机の端で地図を見ていた理央が、澪へ顔を寄せる。

 

「本当に更地にするんですね」

 

「許可、出ましたね」

 

「ああ」

 

 真壁は地図を畳んだ。

 

「明日から始めよう」

 

 

 

 翌朝、旧精錬跡には白い霜が降りていた。

 

 夜は侯爵邸の客室からゲンダイへ戻り、暖かい家で休んできた。それでも転移先の木立へ出た瞬間、理央は外套の襟を両手で閉じた。

 

「寒っ」

 

「山ですからね」

 

 澪の白い息も、朝の空気へ長く残る。

 

 3人は人目のない場所で自動馬を出し、前日に結んでいた鉱山道の近くまで進んだ。外見は本物の馬と変わらない。工事中は誰にも近づかれない木立へつなぎ、自分たちで世話をすると侯爵家の兵へ伝えた。

 

 工事区域の外には、カルネス侯爵家の兵が立っていた。盗賊が戻ってこないよう周辺を警戒し、住民が不用意に近づくのを防ぐためである。

 

 兵と馬には区域の外へ下がってもらった。

 

 真壁は地図を開き、人の印を確かめた。澪と理央も別方向を見て回る。崩れた炉の陰、半ば埋もれた排水坑、枯れ草に覆われた斜面。小動物が逃げていくのを待ち、地図から生き物の反応がなくなるまで範囲を狭めて確かめた。

 

「こちらにはいません」

 

「こっちも大丈夫です」

 

 2人が戻ると、真壁は山側の流れへ向かった。

 

 透明な水が岩の隙間から湧き、細い流れとなって旧精錬跡へ下っている。汚染地帯へ入る前の水には、鉛がほとんど含まれていない。

 

「最初に掘らないんですね」

 

 理央が尋ねた。

 

「水が入ったまま掘る理由はない」

 

 真壁は流れの横へ手を向けた。

 

 薄い靄が地面を走る。

 

 表土と浅い土が細長く消え、汚染域の外側へ緩やかな溝ができた。収納内に保管していた岩石が槽の形へ整えられ、継ぎ目を重ねながら溝へ並ぶ。

 

 上流の水を石樋へ切り替える。

 

 水は旧精錬跡へ入らず、斜面の外側を回って下流へ流れ始めた。

 

「もうできた」

 

「これは仮の流れだ。本設は後になる」

 

「でも、朝のうちに水を外せましたね」

 

「ああ。始めよう」

 

 真壁は旧精錬跡へ向き直った。

 

 昨日まで、そこには崩れた炉、灰色の地面、黒い鉱滓、廃石の斜面があった。

 

 今日、それらは地面ごとなくなる。

 

 

 

 最初に消えたのは、雨に削られた灰だった。

 

 真壁が手を向けると、薄い靄が斜面へ広がる。鉛を含む灰と鉱滓が、地表から一層だけ切り取られるように消えた。

 

 隣の区画では澪が、鑑定で鉛反応を確かめながら汚染した表土を収納する。

 

 理央が受け持ったのは、その境界だった。

 

「ここはまだあります」

 

 地図の反応へ沿って、数mほどの範囲を収納する。

 

 もう一度、鑑定。

 

「こっちは抜けました」

 

 隣へ移る。

 

 同じ灰色の土に見えても、鉛反応の強さは違った。汚染された部分だけを小さく区切り、何度も収納する。

 

「理央君は境目を頼む。広く取りすぎる必要はない」

 

「分かりました」

 

 3人が進むたび、地面の形が変わった。

 

 土を掘る音はない。土煙を上げる巨大な機械も、掘り出した土を積む荷車もなかった。

 

 薄い靄が走ったところから、土地そのものが静かに消える。

 

 灰の下から、炉の基礎が現れた。土へ沈んでいた石組み。埋められた古い排水溝。熱を受けて色の変わった岩。さらにその下には、砂と礫の層が続いている。

 

「……遺跡発掘みたいになってきましたね」

 

 理央が、露出した炉の基礎を見た。

 

「発掘っていう量じゃない気がする」

 

 澪はすでに、数十m先まで形の変わった斜面を振り返った。

 

「まだ下だ」

 

「まだ?」

 

 真壁の指した場所では、地表を取り除いても鉛反応が残っている。

 

 浅い場所は、表土とその下の土だけで反応が消えた。そこでは掘削を止める。

 

 別の場所は数m下まで続いた。

 

 深いところを垂直な壁にすると、周囲の土が崩れやすい。真壁は上から一度に底まで取り去らず、幅を狭めながら段状に収納した。

 

 一段下がり、その奥でもう一段下がる。

 

 巨大な箱を地面から抜いたような穴ではなく、山の斜面に幅の広い階段が刻まれていく。

 

 理央は一段目に残された足場から地図を開いた。深い穴へ降りなくても、地中の反応は追える。真壁と澪も上段から手を向け、下へ残る汚染だけを削っていった。

 

「下に残ってます」

 

 理央が地図を見た。

 

「どの程度残る」

 

「あと2mくらいです」

 

「なら、その区画だけ取ろう」

 

 理央は範囲を狭めた。薄い靄が下段の土を包み、砂礫ごと収納へ消える。

 

 露出した層から、水が滲み出した。

 

 透明な筋がいくつも集まり、すぐに灰色の泥を作る。

 

「水が出てきました」

 

「水も取る」

 

 真壁が手を向けると、溜まり始めた汚染水が薄い靄へ消えた。

 

 澪も別の区画で水を収納する。水が引いた後に残った泥を鑑定し、鉛反応があれば泥も取り除く。

 

 砂礫に残っていれば、そこだけを収納する。

 

 次の場所からも水が湧いた。真壁が水を取り、澪が後に残った泥を取る。水面が再び広がる前に理央が下の反応を探し、3人は足を止めずに進んだ。

 

 理央は、地図と鑑定を繰り返した。

 

「8mです。まだあります」

 

 さらに場所を狭める。

 

「こっちは、もう少し下です」

 

 深いところでは10m近くまで反応が続いた。それでも岩盤を見せるために掘るのではない。鉛反応がほとんど消えた層で止める。

 

 理央の額には、寒さに似合わない汗が浮かんでいた。

 

 収納して、鑑定する。地図で境界を探し、また収納する。

 

 見た目の変化は静かでも、扱っている量は少なくない。小さく区切る分だけ回数も増える。

 

「少し休んだ方がいいですよ」

 

 澪が言う。

 

「もう一か所だけ」

 

「その一か所、さっきも聞きました」

 

「……じゃあ、休みます」

 

 理央は素直に地図を閉じた。

 

 温かい飲み物を渡され、段の上へ座る。外気は冷たいのに、手袋の内側は湿っていた。

 

 目の前では真壁と澪の薄い靄が動き続けている。掘削機も、荷車も、残土の山もない。それでも朝にはあった地面が、昼前には別の地形へ変わっていた。

 

 昼食は、工事区域から離れた日当たりのよい岩場で取った。

 

 ゲンダイから持ってきた温かいスープの湯気が、冷たい風にすぐ流される。理央はパンを持ったまま、朝から掘り進めてきた斜面を振り返った。

 

 出発した場所は、もう遠い。段状に削られた土地が山裾を横切り、その先は尾根の陰へ続いていた。鉛反応の強い場所を追っているため、幅は一定ではない。数mで済んだところもあれば、十数mに広がったところもある。

 

「あそこから、ここまでやったんですか」

 

「まだ半分ほどですね」

 

 澪が答えると、理央は手元のパンを見た。

 

「食べたら、また向こうまで?」

 

「そのための昼食だ」

 

「聞かなければよかったです」

 

 そう言いながらも、理央はスープを飲み干した。午後は自動馬で区画の間を移り、地図へ残る反応を一つずつ消していった。

 

 

 

 取り込んだ物は、収納の中で混ぜたままにはしなかった。

 

 地上の掘削と並行して、真壁は収納内プラントを動かしていた。

 

 鉛を含む灰。

 

 黒灰色の精錬滓。

 

 廃石。

 

 砂礫、泥、表土。

 

 鑑定結果に従って分類し、収納分離で成分を分ける。

 

 鉛は埋め戻す物から完全に外した。鉄も資源として別の区画へ移す。建材に使える岩石は、土砂と分けて保管する。

 

 鉛反応を除いた土と砂礫は、もう一度鑑定した。

 

 下層へ戻せる砂礫。

 

 斜面へ戻す土。

 

 最後に地表へ戻す表土。

 

 澪も、自分が収納した土砂を分離していた。鉛が残っていないことを確かめてから、戻す位置ごとに分ける。

 

 理央は休憩を終えると、自分で収納した小区画の処理へ加わった。

 

「これを分離して、もう一回鑑定ですか?」

 

「そうです。戻す物に鉛が残っていたら、掘った意味がないですから」

 

「分かりました」

 

 鑑定し、分離し、また鑑定する。

 

 土の中に混じっている物は、鉛だけではなかった。

 

 最初に増えたのは銀だった。

 

 灰にも、鉱滓にも、砕かれた鉱石にも、昔の精錬では取り切れなかった細かな銀が残っている。目で拾うことのできない粒まで分けられ、収納内の一画へ集まっていった。

 

「銀、多くないですか?」

 

「銀山だからな」

 

 真壁は作業を止めない。

 

 理央が別の反応に気づく。

 

「金もありますよ?」

 

「あるな」

 

「あるな、で終わる量ですか、これ」

 

「まず分けよう」

 

「はい」

 

 銀より少ない。それでも、捨てられた灰や鉱滓の総量が多いため、金も一か所へ集めれば小さな副産物とは呼べなかった。

 

 鉄も出る。大量の鉛も出る。その他の鉱物は用途ごとに分け、土砂へ戻さない物を外していく。

 

 地上から収納した物が、収納の中では金、銀、鉄、鉛、岩石、砂礫、土、表土へ変わっていった。

 

 理央は収納内の分離済みの土を鑑定し、眉を寄せた。

 

「まだ少し残ってます」

 

「泥の方ですか?」

 

「はい。取れたと思ったんですけど」

 

 澪が同じ区画を確かめる。細かな泥へ、弱い鉛反応が残っていた。

 

「戻す前に気づけました。もう一度分けましょう」

 

 理央は頷き、泥をさらに分けた。再び鑑定すると、今度は反応が消えている。

 

「抜けました」

 

「では、埋め戻す方へ移してください」

 

 地上には残土の山ができない。収納した場所で分類と分離を進められるため、3人は選別した物を運び終えるのを待たず、次の区画へ移った。

 

 午後になると、冬の日は早く西へ傾いた。

 

 主な汚染区域の掘削は、ほぼ終わっている。段状に開かれた斜面には、導水路を通すための線が露出していた。

 

 仮の石樋には、山側から来た清浄な水が流れている。

 

 真壁は収納内で、分離した岩石を確かめた。鉛その他の有害な成分を外し、建材に使える石だけを選ぶ。

 

 旧精錬跡から取り出した岩石と廃石のうち、強度の足りる物が加工されていく。

 

 基礎石。

 

 底と側壁が一体になった、数m単位の槽状石材。

 

 その上へ載せる蓋石。

 

 点検口の部材。

 

 さらに、水路の上部を広く覆う大型の石板。

 

 槽状石材の端には段差と凹凸を作った。一つ目の端へ次の部材が重なり、接合部が一直線に抜けない形である。

 

 大きな部材の端をかみ合わせ、接合部が一直線に抜けない形にする。理央が見ている前で、長い槽状石材が同じ規格へ揃っていった。

 

 理央は収納内へ並んでいく石材を見てから、段状に掘られた斜面を見た。

 

「これで半分ですか?」

 

「掘る方は終わった」

 

「じゃあ、残り半分は?」

 

「明日は組み立てる」

 

 真壁は西の空を見た。

 

 日は山の端へ近づいている。影の中へ入った地面には、早くも冷気が戻り始めていた。

 

「今日はここまでだ」

 

「帰れる……」

 

 理央がその場へ座り込みかけ、澪に腕を取られた。

 

「帰る前に、自動馬のところまで歩きますよ」

 

「分かってます。ちょっと気持ちだけ休みました」

 

 3人は仮水路と工事区域をもう一度確かめた。侯爵家の兵に夜間の立ち入りを止めてもらい、自動馬へ戻る。

 

 その夜も、侯爵邸の客室からゲンダイへ帰った。

 

 翌日据える石材だけを収納内に残し、3人とも休んだ。

 

 

 

 工事2日目の朝。

 

 夜の冷え込みで、仮水路の石の縁には薄い氷が付いていた。だが水は止まっていない。山側の清浄な水は、旧精錬跡を避けて静かに下流へ流れている。

 

 朝日が斜面へ届く前に、3人は本設の導水路へ取り掛かった。

 

 真壁が最初に置いたのは基礎石だった。

 

 地図で上流と下流の高さを確かめ、掘削した地面へ収納から直接出す。上流から下流へ、わずかずつ低くなる位置を選ぶ。

 

 常に水を押す機械は使わない。山の高さを利用し、水自身に流れてもらう。

 

 基礎の上へ、槽状石材が現れた。

 

 昨日掘り出した岩石は、収納内で加工され、そのまま置く場所へ出された。数mある石材が薄い靄から姿を現すたび、区域外に立つ兵たちが作業の手を止めて見た。

 

 大きな石材をおおよその位置へ出しただけでは、接合部の段差まで正確には合わない。

 

「理央君、重力を弱めてくれ」

 

「はい」

 

 理央が両手を向ける。

 

 基礎へ半分載った大型石材が、わずかに軽くなった。石の下に挟んだ細い木片を澪が動かすと、重い槽がゆっくり右へ寄った。

 

「もう少し右だ」

 

 理央が力の向きを変える。

 

 澪が反対側から位置を見る。

 

「少しだけ下げてください」

 

「これくらいですか?」

 

「もう少し……そこです」

 

「そこでよい」

 

 理央が重力を戻す。

 

 重い石材が基礎へ収まり、低い音を響かせた。

 

「入りました」

 

「次へ行こう」

 

 同じ工程を繰り返す。

 

 真壁が収納から槽状石材を出す。理央が重力を弱め、澪と真壁が左右と角度を見る。段付きの接合部を合わせたところで重力を戻す。

 

 最初の数本では、理央は石材を軽くしすぎた。力を加えた瞬間に予定より動き、慌てて止める。

 

「動きすぎました」

 

「次は少し抑えよう」

 

「はい」

 

 回数を重ねるうち、動かすために必要な弱め方と、止める位置が分かってくる。

 

 十数本をつないだところで、真壁が手を上げた。

 

「一度、水を入れる」

 

 仮水路から細い流れを取り、完成した部分だけへ通す。

 

 水は最初の槽を進み、次の接合部を越えた。だが、その先で流れが鈍くなった。石の底に浅い水溜まりができ、次の槽へ届かない。

 

「止まってます」

 

 理央の声から、先ほどまでの勢いが消えた。

 

 澪が地図で高さを見比べる。

 

「ここだけ、少し高いです」

 

「基礎から直そう」

 

 真壁は問題の槽状石材を収納へ戻した。露出した基礎石の上面をわずかに削り、もう一度出す。

 

「理央君、先ほどより弱め方を抑えてくれ」

 

「はい」

 

 3人で位置を合わせ、石材を戻す。

 

 再び水を入れると、今度は溜まらなかった。薄い流れが接合部を越え、その先の槽へ滑っていく。

 

「流れました」

 

「ああ。この高さで続けよう」

 

 最初のやり直しが基準になった。

 

 石材の上には蓋石を載せた。途中には、後から人が入れる点検口を残す。中で立って歩けるほど高くはないが、泥を取り、継ぎ目を見て、傷んだ場所を直すことはできる。

 

 午前のうちに、水路の形が斜面の中へ延びていった。

 

 真壁たちは導水路に沿って場所を移す。槽状石材を据え、次の位置まで歩き、また据える。日が高くなるにつれ、朝には短かった石の列が尾根の向こうへ伸びていった。

 

 古代の石積みが残る山裾に、新しく切り出された石の水路が白く続いている。点検口の立ち上がりだけが一定の間隔で高くなり、その間を蓋石が閉じていく。

 

「昨日言ってた地下水路、本当にできてますね」

 

「石造の導水路だ」

 

「また現実に戻された」

 

 理央は口ではそう言いながら、次の石へ手を向けた。

 

 昼を過ぎ、最後の蓋石が収まった。

 

 山側の取水点から安全な下流まで、石造りの導水路が一本につながっている。埋め戻す前にしか見ることのできない姿だった。

 

 理央は両腕を下ろし、遠くまで続く水路を見た。

 

「……完成したら、頭の中でBGMが流れてきました」

 

「私も」

 

 澪も素直に頷いた。

 

 朝から何度も位置を直し、一度は水を止めてしまった石の道が、今は山裾を横切っている。澪の頭にも、壮大な曲が流れていた。

 

 真壁は最後の接合部まで確かめ、顔を上げた。

 

「よし。埋めるぞ」

 

「もう埋めるんですか?」

 

「地下導水路だからな」

 

「せめて、もう少し眺めません?」

 

「眺めても強度は上がらん」

 

 理央の頭の中で流れていた曲は、そこで止まった。

 

 真壁はすぐに土を戻さなかった。

 

 水路より幅の広い大型石板が、その上へ現れる。

 

「水路の上に、また石を置くんですか?」

 

「上を守るためだ」

 

 厚い石板を並べ、水路本体を広く覆う。

 

 将来、地表を荷車が通るかもしれない。建物が建つことも、木の根が伸びることもある。上から掛かる重さを水路の蓋へ集中させず、周囲へ逃がすための層だった。

 

 理央は再び重力を弱め、大型石板の端を合わせた。

 

 軽くして据える。

 

 重さを戻して、次へ移る。

 

 槽状石材とは幅も重心も違う。理央は何度か角度を戻し、石板が傾かない位置を探した。

 

「右、少し上です」

 

 澪の声に合わせる。

 

「そこです」

 

 重力を戻すと、石板が先に置いた一枚へ重なった。

 

 理央の肩が少し下がる。

 

「石って、置くだけでも疲れるんですね」

 

「普通は置く前に運ぶんですよ」

 

「それを聞くと、まだ楽な気がします」

 

 澪も笑いかけたが、すぐに次の位置へ目を戻した。

 

 昼を過ぎる頃、水路本体と上部の保護層がつながった。

 

 

 

 厚い石板まで据え終えると、土を戻した。

 

 収納内で鉛を除いた土砂を、掘り出した順番とは逆に戻していく。

 

 最初は安定した砂礫だった。

 

 澪が収納から薄い層になるよう排出する。水路の横と保護石板の周囲へ、砂と小さな礫が広がった。

 

 一度に穴を埋めるほどは出さない。

 

「理央ちゃん、今度は強くしてください」

 

「弱くするんじゃなくて?」

 

「土を締めます」

 

 理央は土砂へ向けて重力を強めた。

 

 砂礫が沈み、細かな粒が隙間へ入り込む。表面の高さが目に見えて下がった。

 

 真壁が地図と地面を確かめる。

 

「それでよい。次を戻そう」

 

 また土砂を出す。

 

 重力を掛ける。

 

 沈み方が落ち着けば、次の層へ進む。

 

 下層の砂礫。その上へ処理した土。さらに元の上層土。場所によって土の種類を変え、最後に表土を戻せるよう残しておく。

 

 理央は午前中、石材を軽くするために重力を弱め続けた。午後は反対に、土を締めるため重力を強め続けている。

 

「頭の中が反対になりそうです」

 

「次は強くする方です」

 

「今は分かってます。次に石が来たら自信ないですけど」

 

「もう大きな石は終わった」

 

 真壁の言葉に、理央が目に見えて安心した。

 

 埋め戻しが進むにつれ、朝まで見えていた導水路が土の下へ隠れていく。

 

 段状に掘られた深い部分も、一層ずつ埋まった。締め固めてから次を戻すため、土を一度に流し込んだような緩みは残らない。

 

 真壁と澪が土を戻し、理央が重力を掛ける。

 

 夕方が近づく頃、最後の表土が斜面へ広げられた。

 

 炉跡も、黒い鉱滓の山も消えている。古い精錬施設を形だけ残すのではなく、その下にあった鉛ごと取り除いた結果だった。

 

 土地は元と全く同じ姿ではない。けれど巨大な掘削跡は埋まり、緩やかな山裾へ戻っている。

 

 その地下には、昨日まで存在しなかった石造りの導水路が通っていた。

 

 真壁は上流へ向かった。

 

「水を入れよう」

 

 

 

 仮の石樋には、山から来る水が流れ続けていた。

 

 いきなり全量は切り替えない。

 

 真壁は流れの一部だけを、新しい導水路の取水口へ向けた。

 

 水が槽状石材の中へ入る。

 

 最初の接合部を越え、次の槽へ流れた。

 

 3人は点検口を順に見た。石材の重なる部分から異常に水が漏れていないか。周囲の土が濡れていないか。水が途中で溜まっていないか。

 

 わずかな勾配を受け、水は止まらず下流へ進んでいる。

 

 真壁は地図で流れを追い、澪は点検口ごとに内部を確かめた。理央は出口の前でしゃがみ込み、暗い穴を覗いている。

 

「まだですかね」

 

「距離がありますからね」

 

「石、ずれたりしてないですよね」

 

「途中までは流れています」

 

 澪に言われても、理央は出口から目を離さなかった。

 

 しばらくして、暗がりの奥で水音がした。

 

 最初は石の底を薄く濡らすだけだった水が、出口へ達する。

 

「出た!」

 

 理央が立ち上がった。

 

 石造りの出口から透明な水が流れ、下流の水路へ落ちた。

 

 澪が小瓶へ受ける。理央も自分の小瓶を出した。

 

 2人が鑑定する。

 

────────────────

新設導水路 流出水

 

鉛:ごく微量

飲用上の問題なし

────────────────

 

「大丈夫です」

 

「こっちも同じです」

 

 真壁も結果を確かめた。

 

「本流へ切り替えよう」

 

 仮の石樋から、新設した取水口へ水が移される。

 

 水量が増えても、点検口に異常は出ない。段付きの接合部を越え、汚染されていた地層へ触れずに下流へ流れていく。

 

 役目を終えた仮水路は外された。

 

 これで、上流の清浄な水が旧精錬跡から新しい鉛を拾い続ける経路は断たれた。

 

「これで、新しく入り続けることはない」

 

 真壁の言葉に、澪はもう一度、流出水の表示を見た。

 

 2日前まで、山から来た水は何百年も前の灰と鉱滓へ触れ、鉛を町まで運んでいた。

 

 今は、同じ山の水が石の中を通り、透明なまま下流へ出ている。

 

 工事区域の外で待機していた兵の一人が、アルヴェラへ向けて馬を走らせた。

 

 空が夕方の色へ変わり始めた頃、斜面の下から蹄の音が近づいてきた。

 

 セヴェリオとバルディオが、数騎の兵を連れて上ってくる。

 

 馬を下りたセヴェリオは、しばらく何も言わなかった。

 

 昨日までそこにあった黒灰色の鉱滓も、崩れた炉も、底の見えない掘削跡も消えている。均された斜面には新しい土が広がり、一定の間隔で点検口の石だけが顔を出していた。

 

「……ここに、水路があるのですか」

 

「はい。すでに埋め戻しております」

 

 真壁は下流側の出口を示した。

 

 石造りの吐出口から、山の水が絶えず流れ出している。陽を受けた水面が揺れ、浅い流れの底へ細かな光を散らしていた。

 

 理央が立ち上がる。

 

「埋める前は、あそこからずっと石の道が続いてたんです」

 

「理央ちゃん、道じゃなくて水路です」

 

「分かってます。でも、本当に道みたいだったんですよ」

 

 セヴェリオは2人の言葉を聞きながら、流れのそばへ膝をついた。

 

 片手で水をすくう。冷たい水が指の間からこぼれ、袖口を濡らした。

 

「この水には、もう鉛はないのですな」

 

「飲用上、問題となる量は確認されておりません」

 

 セヴェリオは掌に残った水を見つめた。

 

「これが、あの頃にあれば……」

 

 誰のことを指しているのか、真壁たちにも分かった。

 

 鉛を含む水を飲み続け、重い症状を風土病と思ったまま失われた村。その村を救えなかったことを、セヴェリオは今も背負っている。

 

 握った手から水が落ちた。

 

「失われた者は戻りません。ですが、同じ水で次の者まで失うことは止められる」

 

 セヴェリオは立ち上がり、真壁へ向き直った。

 

「真壁殿。澪殿。理央殿」

 

 深く頭を下げる。

 

「アルヴェラのために、これほどのことをしていただいた。……ありがとうございます」

 

 後ろに立つバルディオも、それに続いた。

 

 理央は慌てて姿勢を正した。澪も黙って頭を下げる。

 

「カルネス侯爵。山側から新たに鉛が流れ込む経路は断ちました。しかし、すでに東門側の地下水へ入った分は残っております」

 

 セヴェリオが顔を上げる。

 

「井戸水の処理と、別の水源からの給水は続けます」

 

「それがよろしいでしょう。水質を確かめながら、使用を戻す範囲を決める必要があります」

 

「承知しました」

 

 セヴェリオはすぐにバルディオを呼び、東門側の給水と井戸の使用停止を継続するよう命じた。水を見つめていた伯父の表情は消え、声には領主の張りが戻っている。

 

 それでも去り際、セヴェリオはもう一度だけ流出水を振り返った。

 

 何百年も鉛を運んできた山の水が、今は石の中を抜け、透明なまま流れている。

 

 その姿を目に焼き付けるようにしばらく見つめてから、セヴェリオは馬へ戻った。

 

 侯爵一行を見送り、理央は水から手を離して、その場へ座った。

 

「終わりました?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「この工事はな」

 

「最後に何か付くと思いました」

 

 理央は疲れた顔のまま笑い、ふと思い出したように自分を鑑定した。

 

 その表情が止まる。

 

「……上がってます」

 

「何が?」

 

 澪が隣へ座る。

 

「収納、10です」

 

 理央はもう一度表示を見る。

 

「鑑定も10」

 

「両方?」

 

「はい。それと……重力も6になってます」

 

────────────────

収納 9 → 10

 

鑑定 9 → 10

 

重力 5 → 6

────────────────

 

「全部ずっと使ってたもんね……」

 

 澪も2日間の作業を振り返った。理央は鉛の境界を探して斜面を歩き、泥と土砂を小分けに収納した。今日は一日中、巨大な石材を動かし、埋め戻した土を重力で締めている。

 

 上がった三つは、どれも理央が休まず使っていた技能だった。

 

「今日、石どれだけ動かしたんだろ……」

 

 理央は表土の戻った斜面を見る。

 

「もう石、見たくないかも」

 

「地下に入ったので、見えませんよ」

 

「そういう意味じゃないです」

 

 それでも、収納と鑑定が10になったことは嬉しいらしい。疲れた顔のまま、口元だけは緩んでいた。

 

 真壁は理央の様子を鑑定する。

 

「疲労はあるが、休めば問題ない」

 

「今日は帰ったら、何もしませんからね」

 

「それがよい」

 

 理央は真壁が止める前から、休むことだけは決めていた。

 

 

 

 地上から見れば、工事前と同じ山裾ではなかった。

 

 崩れた炉も、灰色の土も、鉱滓の山もない。代わりに処理された土が戻され、その下では新しい導水路に水が流れている。

 

 2日前、理央が地図で鉛を追って見つけた場所は、一度掘り開かれ、もう埋め戻されていた。

 

 澪は斜面を見渡しながら、ふと気づいた。

 

「そういえば……今回、工事代ってもらってないですよね」

 

「あ」

 

 理央も顔を上げる。

 

 侯爵から得たのは施工の許可と、掘り出した物を処分する権限だった。これほどの工事を行ったが、金貨何枚という話は一度もしていない。

 

「報酬はいただいている」

 

「え?」

 

 澪が真壁を見る。

 

 真壁は収納内の分離区画を示した。

 

 最も多いのは土と砂礫だった。鉛を外した物は、すでに大半を埋め戻している。

 

 別の区画には、決して地面へ戻さなかった鉛がある。鉄と、建材に使わなかった岩石も分けられていた。

 

 その先に、銀があった。

 

 大量だった。

 

 さらに、銀より少ないが、金もある。

 

 昔の精錬では回収できず、灰、鉱滓、廃石、細かな鉱石の中へ残されていた金属だった。捨てられた物の総量が大きいため、収納分離で一か所へ集めると、どちらも無視できない量になっている。

 

「これ、全部ですか?」

 

「そうだ」

 

「侯爵には?」

 

 澪が尋ねた。

 

「掘り出したものは、すべてこちらで処分するよう任されている」

 

「いや……そうなんですけど」

 

「何が取れたかは言わないんですか?」

 

 理央が聞く。

 

「処分を任された物を分けた。それだけだ」

 

 セヴェリオから任されたのは、掘り出した物すべての処分だった。鉛を除いた後に残る物の用途まで、真壁が約束した覚えはないらしい。

 

 澪は収納内の銀と、足元に隠れた地下導水路を順番に見た。

 

 理央も同じものを見ていた。

 

 前日に自分が口にした言葉を思い出したらしい。

 

 地下の石造水路。

 

 古い銀山。

 

 大量の金と銀。

 

 そのすべてを収納している真壁。

 

 理央は少し考えてから言った。

 

「……なんか最後、銭〇警部が追いかけてきそうですね」

 

「追われる理由はない」

 

 真壁は真顔だった。

 

「そういう話じゃないです」

 

 澪が吹き出した。

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