押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第311話 帰る前に

 

 朝のアルヴェラは、今日も白い霧に沈んでいた。

 

 カルネス侯爵邸の中庭も、向かいの回廊が淡く霞んでいる。植え込みの葉には細かな水滴が並び、石床へ落ちるたび、静かな音を立てた。

 

 澪は客室で荷物を確かめてから、真壁と理央とともに朝の挨拶へ向かった。

 

 鉛に汚染された旧精錬跡を掘り返し、地下導水路を完成させたのは昨日である。身体にはまだ、土と石を動かし続けた疲れが残っていた。

 

 それでも、澪だけは今日から別の生活へ戻らなければならない。

 

「もうお帰りになるのですか」

 

 セヴェリオは残念そうに澪を見た。

 

「はい。試験休みが終わるので、一度国へ戻ります」

 

「本国では学問を続けておられるのでしたな」

 

「一応、学生ですから」

 

 王女を救い、負傷者を治療し、盗賊の根城を見つけ、囚われていた者を助け、最後には山を掘り返した後では説得力が薄い気もする。それでも、澪の本業が大学生であることは変わらない。

 

「此度は、姪だけでなくアルヴェラの民まで救っていただきました。十分なお礼もできぬままお帰しすることを、心苦しく思います」

 

「そんな。私たちも、必要だと思ってやったことですから」

 

「その必要に気づけなかったのは、我々です」

 

 セヴェリオは静かに頭を下げた。

 

 澪も慌てて頭を下げる。顔を上げたところで、中庭の向こうを流れる朝霧が目に入った。

 

 白い霧。

 

 海から届く湿った風。

 

 そこで、澪の動きが止まった。

 

「……あ」

 

「どうしました?」

 

 理央が隣から覗き込む。

 

「私、海を見てません」

 

「え?」

 

「セレヴィアへ来たのに、一度も海を見てないです」

 

 今回の旅は、半島の市場を見るだけが目的ではなかった。海のないヴェルデン王国から外へ出て、海洋国家セレヴィアの海を見る。それも楽しみにしていたはずである。

 

 ところが実際に見たものは、襲われた王女、血を流す護衛、鉛を含む井戸、廃銀山、人を閉じ込めた坑道、灰吹法の跡、そして地面の下へ埋めた石造水路だった。

 

「理央ちゃん、見ました?」

 

「……見てません」

 

 理央も今になって気づいたらしい。

 

「海の匂いはしたんですけど」

 

「匂いだけでしたね」

 

「魚も食べました」

 

「海そのものは見てません」

 

 2人が顔を見合わせる。

 

 アレシアが口元へ手を添えて笑った。

 

「次にいらした時には、私がご案内します」

 

「今度こそお願いします」

 

 澪が答えると、真壁は特に残念そうな顔もせず言った。

 

「また来ればよい」

 

「真壁さんはそれで済むんでしょうけど、私の試験休みは終わるんですよ」

 

「海は逃げんよ」

 

「海から来た王女様を襲撃からお助けしましたけどね」

 

 理央の言葉に、その場が一瞬静まった。

 

「理央ちゃん」

 

「あ。すみません」

 

 アレシアが先に吹き出した。

 

「海は襲いませんから、安心してください」

 

 澪も笑い、張っていた肩の力を抜いた。

 

 別れの挨拶を終えると、澪は侯爵邸の玄関を出た。

 

 門の外では、朝の町が動き始めている。パンを積んだ荷車が石畳を鳴らし、水桶を担いだ男が東門区の方へ歩いていく。霧の向こうから鐘が聞こえ、店の鎧戸が一枚ずつ開いていた。

 

 澪は外套の襟を整え、アルヴェラの通りを歩いた。

 

 背後から、一人分の足音がついてくる。

 

 地図には、同じ間隔を保って移動する印があった。

 

 澪は振り返らなかった。

 

 市場へ向かう通りを進み、石造りの倉庫が並ぶ区画へ入る。朝が早いため、荷運び人の姿はまだ少ない。角を二つ曲がっても、男は離れずについてきた。

 

 襲うつもりなら、もっと人の少ない場所を選ぶだろう。しかし、今の男は距離を詰めない。ただ澪がどこへ行くのか見ている。

 

 澪は歩調を変えず、細い道へ入った。

 

 片側は高い石壁。反対側には閉じた倉庫の扉が続く。通りの先で荷車が曲がり、人影がなくなった。

 

 地図でも周囲を確かめる。

 

 澪は建物の角を曲がった。

 

 直後、その姿がアルヴェラから消えた。

 

 数秒遅れて、尾行していた男が角を曲がる。

 

 一本道だった。

 

 馬もいない。馬車もない。入れる扉はすべて閉じている。走ったとしても、次の角へ届くには早すぎた。

 

 男は立ち止まり、左右を見た。

 

 倉庫の陰を覗き、閉じた扉へ耳を当てる。元の道へ戻って周囲を探し、もう一度同じ角を曲がった。

 

 それでも、王国から来た女商人は見つからなかった。

 

 澪はすでに、朝の江古田へ帰っていた。

 

 

 

 

 

 侯爵邸の一角には、王女直属護衛のための部屋が用意されていた。

 

 窓が開けられ、薬草と湯の匂いが廊下まで流れている。襲撃当日に比べれば、室内の空気はずいぶん軽くなっていた。

 

 真壁は負傷した護衛を一人ずつ診た。

 

 腕を斬られた男は、包帯を交換するため椅子へ座っている。傷は閉じ始め、熱もない。脚を固定された男はまだ杖を使っているが、腫れは引いていた。

 

 現地の治療師が、真壁へ経過を説明する。

 

「昨日から熱は出ておりません。食事も取れております」

 

「傷口も問題なさそうです。引き続きお願いします」

 

 真壁は鑑定の結果と治療師の話を合わせ、頷いた。

 

 街道で真壁が行ったのは、出血を止め、傷を洗い、移動できる状態へ整えるところまでだった。その後は侯爵家が呼んだ治療師が毎日診ている。

 

 扉の近くに立つルシオが尋ねた。

 

「真壁殿。もう任務へ戻せる者はおりますか」

 

「軽傷だった者はよいでしょう。深い傷を負った者は、まだ無理をさせない方がよいと思います」

 

「承知しました」

 

「固定している者については、治療師の判断を優先してください」

 

 ルシオが一礼した。

 

 廊下へ出ると、中庭では数人の護衛が歩き方を確かめていた。まだ全員が元どおりではない。それでも、街道で倒れていた時とは違う。

 

 王女直属の護衛隊は、すでに自分たちの指揮で動けるところまで戻っている。

 

 真壁が付き添い続ける必要は薄くなっていた。

 

 

 

 

 

 小応接室の窓からは、霧の晴れた中庭が見えた。

 

 冬の弱い日差しが植え込みへ落ち、濡れた葉を光らせている。室内では小さな暖炉に火が入り、低い卓上に茶器が並べられていた。

 

「お茶は、こちらでよろしいでしょうか」

 

 エリサ・カルネス侯爵令嬢は、理央の前へ置かれた茶を確認した。

 

「はい。ありがとうございます」

 

「甘い方がお好きでしたら、蜂蜜もございます」

 

「じゃあ、少しだけ」

 

 エリサが侍女へ目を向ける。それだけで、小さな蜂蜜壺が理央の近くへ移された。

 

 セヴェリオの娘で、アレシアの従姉妹にあたる。年齢は20代の前半。淡い色の髪をまとめ、客の話を聞きながら、茶器や菓子が不足していないか自然に目を配っている。

 

 理央は、ヴァルディス侯爵家のエレナを思い出した。

 

 エレナなら、珍しい物が置かれた瞬間に近寄ってくる。何に使うのかを聞き、できれば自分でも触り、動く物なら試したがる。

 

 エリサは先に客を座らせ、飲み物を選ばせ、話しやすい場所を作る。

 

 どちらも侯爵令嬢だが、ずいぶん違う。

 

「何か気になりますか?」

 

 視線に気づいたエリサが尋ねた。

 

「いえ。知っている侯爵令嬢と、全然違うなって」

 

「理央ちゃん」

 

 フィオラが小さな声でたしなめる。

 

「悪い意味じゃないです。その人は、珍しい物を見るとすぐ触りたがるので」

 

「楽しそうな方ですね」

 

「楽しいです。たまに周りの人が大変そうですけど」

 

 エリサが笑う。

 

「私も珍しい物は好きですよ。ただ、先にお茶をお出ししないと、話を聞けませんから」

 

「そこが違うんだと思います」

 

 アレシアも楽しそうに2人を見ていた。

 

 そこへ護衛の診察を終えた真壁が入ってきた。

 

「お待たせしました」

 

「真壁殿、どうぞこちらへ」

 

 エリサが席を勧める。

 

 真壁は座る前に収納から箱を一つ出した。蓋を開けると、小さなフィナンシェとマドレーヌが整然と並んでいる。

 

「本国の菓子です。皆さんでどうぞ」

 

「まあ」

 

 エリサが身を乗り出す。アレシアも箱の中へ目を向けた。

 

「真壁さん、いつ買ったんですか?」

 

「帰った時だ」

 

「私、知らなかったんですけど」

 

「すべて報告する必要はないだろう」

 

 理央の疑問を短く終わらせ、真壁は箱を侍女へ渡した。

 

 切り分ける必要のない焼き菓子は、そのまま皿へ移された。焦がしバターの匂いが、異国の茶葉の香りへ混ざっていく。

 

 エリサがフィナンシェを一口食べ、目を丸くした。

 

「香りが濃いのですね」

 

「外側は少し固いのに、中は柔らかいです」

 

 アレシアも断面を見ながら言う。

 

 理央はマドレーヌへ手を伸ばした。その時、真壁が卓上を見ていることに気づいた。

 

 茶の入ったポット。

 

 侯爵家が用意した果物。

 

 ミルクの小瓶。

 

 焼き菓子の皿。

 

 視線は一つの物に長く止まらない。けれど、アレシアの前へ置かれる物だけは、すべて一度確認していた。

 

「真壁さん?」

 

「何かね」

 

「いえ」

 

 理央は首を振った。

 

 真壁は何も説明せず、自分の茶へ口をつけた。

 

 

 

 

 

「今回の巡察では、どこまで回られる予定だったのですか?」

 

 菓子の皿が半分ほど空いた頃、理央が尋ねた。

 

「当初は、半島東部の街道をアルヴェラまで見た後、さらに幾つかの町を回る予定でした」

 

「市場を見るためですか?」

 

「市場だけではありません」

 

 アレシアは茶器を置いた。

 

「国境から続く街道では、交易が以前より減っています。盗賊も増え、人を攫って売る者がいるという話も届いていました」

 

「あの鉱山にいた人たちみたいな……」

 

「ええ」

 

 救出された者の中には、街道や小さな村から攫われた者がいた。荷物を奪うだけでなく、人そのものを商品として扱う盗賊がいる。

 

「密輸や、決められたものとは別に通行料を取る者がいるとも聞いております。王都へ届く話だけでは、どこまで事実か分かりません」

 

「それで自分で来たんですか?」

 

「はい。王家が半島の民を守るのであれば、まず何が起きているのか知らなければなりません」

 

 声は穏やかだったが、迷いはなかった。

 

「半島には、長く土地を治めてきた方々がおります。その方々の働きをすべて王都へ移すつもりはありません。ですが、王都から遠いという理由で、人攫いや違法な取引まで見なかったことにはできません」

 

「必要なら、王家の役人もこちらへ入れるつもりですか」

 

 真壁が尋ねた。

 

「その必要がある場所には。ただし、半島を知らない者を送り込み、命令するだけでは反発を招くでしょう。現地の領主や商人と話し、街道を使う者の声も聞いた上で決めたいと思っています」

 

「なるほど」

 

 真壁はそれ以上口を挟まなかった。

 

 理央は、アレシアがただ国の名所を見て回っていたのではないと、今になって理解した。

 

「でも、王女様がそこまでやるんですね」

 

「王女だから、でしょうか」

 

「そう言われると、そうなのかな……」

 

 理央は首を傾げた。

 

 王女というものが実際に何をするのか、理央は知らない。物語の中なら舞踏会へ出たり、政略結婚を迫られたり、城から逃げ出したりする。だが目の前の第一王女は、街道の関税や人攫いの実態を調べに来ていた。

 

「アレシアさんって、第一王女ですよね」

 

「はい」

 

「じゃあ、次の王様になるんですか?」

 

 フィオラが少しだけ姿勢を正した。

 

 エリサは口を挟まず、アレシアを見る。

 

「まだ決まっておりません」

 

「弟がおります。第一王子のアルディオです」

 

「弟さんも候補なんですね」

 

「ええ。弟を支持する方も大勢おります」

 

 アレシアの表情に、対抗相手を語る硬さはなかった。

 

「アルディオは船が好きで、幼い頃から港へ通っていました。海軍の船へ乗せてもらうため、父へ何度も願い出ていたそうです」

 

「王子様が船に乗るんですか?」

 

「今では船員たちと一緒に帆を扱うこともあります。海軍の方々からは、私よりずっと親しまれていますよ」

 

 真壁の視線がわずかに上がった。

 

 理央はすぐに気づいた。

 

「船に反応しました?」

 

「話を聞いただけだ」

 

「どんな船か気になってますよね」

 

「海洋国家の軍船だ。商人として関心を持つのは当然だろう」

 

「やっぱり気になってる」

 

 エリサが小さく笑った。

 

 アレシアも弟の話を続ける。

 

「アルディオは海軍や大島側の海洋貴族、それに船主たちから支持されています。私を支持してくださる方々とは、少し立場が違います」

 

「姉弟で争ってるんですか?」

 

「いいえ。少なくとも、私と弟は争っておりません」

 

 答えは早かった。

 

「弟が王となるなら、私は支えるつもりです。アルディオも、私を敵としては見ていません」

 

「でも、周りは違う?」

 

「そうですね」

 

 第一王女を支持する者。第一王子を推す者。王家の傍系に連なる者を望む者。

 

 本人たちが争う気を持たなくても、周囲は次代の王が誰になるかで動いている。

 

「父は、国が二つに割れることを恐れております。そのため、まだ後継者を決めておりません」

 

 理央は菓子へ伸ばしかけた手を止めた。

 

「決めないと、余計に周りが争いません?」

 

「そうなることもあります」

 

「難しいですね……」

 

「ええ。難しいのです」

 

 アレシアが苦笑した。

 

 真壁はしばらく黙っていたが、やがて尋ねた。

 

「殿下ご自身は、王位を望んでおられるのですか」

 

 理央の問いとは違う。

 

 アレシアはすぐには答えなかった。

 

 中庭では霧がほとんど消え、冬の日差しが石床へ落ちている。風が木の枝を揺らし、残った水滴を降らせた。

 

「王になるために、半島へ来たわけではありません」

 

 アレシアは真壁を正面から見た。

 

「弟を退け、王位を奪いたいとも思っておりません」

 

 一度言葉を切る。

 

「ですが、父から国を託されたなら、逃げるつもりもありません」

 

「その時には、今回お話しになったことを進めると」

 

「はい」

 

「街道の治安を正し、人の売買と密輸を調べ、勝手に徴収されている金の流れも確認する」

 

「必要であれば」

 

「半島へ王家の役人も入れる」

 

「それも必要ならば」

 

 真壁が頷いた。

 

 アレシアが第一王女だから狙われた。それだけではなかった。

 

 この王女が次の王になれば困る者がいる。

 

 盗賊を使う者。密輸で利益を得る者。違法に人を売る者。王家へ納めない金を独自に集めている者。

 

 アレシアが王位へ近づくほど、彼らにとって巡察は単なる視察ではなくなる。

 

「真壁さん、どうしたんです?」

 

 理央が尋ねた。

 

「今回の襲撃について考えていた」

 

「王様になるかもしれないからですか?」

 

「それもあるだろう。しかし、殿下が何をなさろうとしているかを嫌う者もいる」

 

 アレシアが静かに真壁を見る。

 

「王女であることより、調べられることを恐れている者がいるということですか」

 

「可能性はあります」

 

 真壁はそれ以上断定しなかった。

 

 誰が困るのかは見えてきた。

 

 誰が襲わせたのかは、まだ別の問題だった。

 

 

 

 

 

「でも、最初の襲撃からは何もありませんでしたよね」

 

 理央がそう言うと、真壁が茶器を置いた。

 

「何もなかったわけではない」

 

「え?」

 

「王都からの使者を名乗り、殿下を屋敷の外へ呼び出そうとした者がいた」

 

 アレシアが目を伏せる。知っていたらしい。

 

「王都へ確認しましたが、そのような使者は出ておりませんでした」

 

 フィオラが補った。

 

「それだけではない。外から届いた見舞いの品にも毒が入っていた」

 

 理央は反射的に、卓上の茶と菓子を見た。

 

 真壁が先ほど確認していたもの。

 

「だから見てたんですか」

 

「念のためだ」

 

「言ってくださいよ」

 

「問題のない物まで怖がらせる必要はない」

 

 アレシアの外出予定が、直前に変わった日もあった。

 

 通るはずだった道の先に、不自然に人が集まっていたからである。夜には侯爵邸の周囲を探る者もいた。

 

「待ってください。そんなにあったんですか?」

 

「あった」

 

「私、全然知りませんでした」

 

「殿下まで届いていないからな」

 

「届かなかったら、なかったことになるんですか?」

 

「危険を届かせないために見ていた」

 

 真壁にとっては、王女へ刃が届かず、毒が口へ入らず、誘い出されもしなければよかった。誰がどこで企てたのかを一件ずつ追うより、危険を王女から遠ざけることを優先していた。

 

「じゃあ、屋敷の周りにいた人も捕まえたんですか?」

 

「見ているだけの者には何もしていない」

 

「見てるだけなら?」

 

「ああ。近づき、危害を加えようとした時だけ止めた」

 

 理央はしばらく真壁を見た。

 

「真壁さん、この数日、いつ寝てたんです?」

 

「必要なだけは寝ている」

 

「それ、答えになってません」

 

 真壁は返事をせず、残っていた茶を飲んだ。

 

 

 

 

 

 午後になり、茶会を終える前に真壁はアレシアへ向き直った。

 

「殿下。護衛の方々も、かなり回復されました」

 

「真壁殿には、何度お礼を申し上げても足りません」

 

「現地の治療師がよく診ておられます。私どもも、そろそろ暇をいただこうと思います」

 

 アレシアは少し寂しそうな顔をしたが、引き止めなかった。

 

「本来なら、もっと早く旅へ戻っていただくべきでした。私たちのために、随分長く足を止めさせてしまいましたね」

 

「必要があって残ったことです」

 

「真壁殿も、明日には?」

 

「そのつもりです。今夜まではこちらへ残ります」

 

「では、今夜はもう一度、伯父の客としてお休みください」

 

「ありがとうございます」

 

「王女様は、これからどうするんですか?」

 

 理央が尋ねた。

 

「巡察は続けます。ただ、当初の予定どおりにはいきません。経路と日程を見直し、護衛も整えてから出ることになります」

 

「王都へ帰らないんですね」

 

「襲われたからといって、何も見ずに帰るわけにはいきませんから」

 

 出発前には経路も護衛も整え直す。それでも、襲撃だけで巡察を取りやめるつもりはなかった。

 

 真壁はその答えを聞き、静かに頷いた。

 

 理央も帰る時間になった。

 

 侯爵邸から離れた場所まで真壁と歩き、人目のない登録地点へ向かう。

 

「真壁さん、本当に一人で残るんですか?」

 

「一晩だけだ」

 

「また何か来ると思ってません?」

 

「考えすぎだ」

 

「真壁さんが言うと、全然安心できないです」

 

 理央は不満そうにしたが、残るとは言わなかった。

 

 家族には、澪の手伝いで遅くなると連絡してある。それでも、17歳の理央が何日も自由に家を空け続けることはできない。

 

「帰ったら、ちゃんと休め」

 

「分かってます。昨日、石を動かしすぎて腕が重いです」

 

「重力で動かしたのではないのかね」

 

「澪さん、それ朝も言ってました」

 

 真壁が転移の準備をする。

 

「では、帰ろう」

 

「真壁さんも明日は帰ってきてくださいね」

 

「ああ」

 

 短い返事を聞き、理央はゲンダイへ戻った。

 

 アルヴェラに残る押入商会の人間は、真壁一人になった。

 

 

 

 

 

 朝、澪を尾行した男は、夕方前に報告へ戻った。

 

「消えた?」

 

 ガレスが眉を寄せる。

 

「はい。角を曲がったところまでは見ていました。すぐ後を追ったのですが、どこにも」

 

「見失っただけだろう」

 

「一本道でした」

 

「女一人も追えん奴が、言い訳をするな」

 

 男は口を閉じた。

 

 少し離れた椅子に座るマルコだけは、すぐに切り捨てなかった。

 

「建物へ入った可能性は」

 

「扉はすべて閉じていました。屋根へ上がった跡もありません」

 

「馬車は」

 

「ありません」

 

 マルコは指先で卓を一度叩いた。

 

「もうよい。下がれ」

 

 男が部屋を出る。

 

「本当に消えるわけがない」

 

 ガレスは吐き捨てた。

 

「消えたかどうかは問題ではない。あの者たちには、我々の知らない移動手段があるのかもしれん」

 

「だから何だ」

 

「手を出すなということだ」

 

 そこへ別の男が入ってきた。

 

 侯爵邸に滞在していた王国の商人たちが、帰るらしい。

 

 女商人はすでに姿を消した。若い娘も夕方にはいなくなり、年長の男も明日にはアルヴェラを出るという。

 

 報告を聞いたマルコは、すぐに結論を出した。

 

「帰るなら、それでいい」

 

 ガレスが顔を上げる。

 

「ここまで邪魔をされて、それで終わらせるのか」

 

「終わらせる。今さら動けば、こちらとの繋がりを残すだけだ」

 

「王女は巡察を続けるぞ」

 

「今は手を出す時ではない」

 

 マルコの声が低くなる。

 

「ガレス。何もするな」

 

「……分かった」

 

 ガレスは答えた。

 

 だが、その目はマルコを見ていなかった。

 

 

 

 

 

 夜のカルネス侯爵邸は静かだった。

 

 廊下の灯りは減らされ、窓の外には薄い霧が戻り始めている。巡回する兵の靴音が、決まった間隔で石床へ響いていた。

 

 王女直属護衛も、通常の交代で見張りについている。

 

 真壁は用意された客室にいた。

 

 灯りを落とし、窓辺の椅子へ座って地図を見る。

 

 屋敷の外周。

 

 裏手の街路。

 

 隣接する建物。

 

 少し離れた路地。

 

 人の動きはある。夜番、遅く帰る住民、荷を運ぶ者。しばらく立ち止まり、また動き出す印もあった。

 

 真壁は何もせず待った。

 

 深夜を過ぎ、町の灯りがさらに減る。

 

 その頃、ガレスは別の場所で男たちを送り出していた。

 

「女二人はいない。男も明日には帰る」

 

 集まった者は数十人。

 

 短剣や剣を隠し持つ者。縄を担ぐ者。裏道を知る者。逃走用の馬を用意する者。侯爵邸へ入らず、外で待つ役もいる。

 

「今夜を逃せば、護衛は元に戻る。巡察が再開されれば、もう近づけん」

 

 一人が尋ねた。

 

「王女は生かして連れ出すのか」

 

「できるならな。無理なら殺せ」

 

 ガレス自身は行かない。

 

 最後の一人が出ていくのを見届け、扉を閉めた。

 

 マルコの命令は、すでに頭から消えていた。

 

 

 

 

 

 真壁の見ている地図で、夜の町に散っていた印が動き始めた。

 

 一つの方向からではない。

 

 東の路地から数人。

 

 南の倉庫街から十人ほど。

 

 侯爵邸の裏手へ回る者。

 

 少し離れた通りで止まり、待つ者。

 

 普段の通行人とは違い、それぞれが同じ場所を目指している。

 

 真壁は椅子から立った。

 

 外套を羽織り、音を立てずに客室を出る。

 

 ルシオへ知らせることはしなかった。侯爵家の兵も起こさない。

 

 屋敷の外へ出ると、夜気には川と石壁の湿った匂いが混ざっていた。霧が街灯の光をぼかし、少し先の路地を白く隠している。

 

 最初の一団は、裏手の塀へ近づいていた。

 

 男たちは声を潜め、見張りの交代を待っている。

 

 風が路地を抜けた。

 

 一人が壁へ手をつき、ゆっくり座り込む。

 

「おい」

 

 隣の男が振り返る。

 

 その男も、最後まで言葉を続けられなかった。

 

 剣を抜く音はしない。

 

 悲鳴も上がらない。

 

 数人が、深夜の路地へ折り重なるように倒れた。

 

 真壁は眠っていることを確かめ、人数を数えた。

 

 次の一団へ向かう。

 

 南から来た者たちは、二手に分かれようとしていた。

 

 先頭の男が足を止める。

 

 後ろから来た者がぶつかり、低く悪態をついた。だが、その声もすぐに途切れた。

 

 一人。

 

 また一人。

 

 霧の中で膝をつき、そのまま眠る。

 

 侯爵邸の見張りは、異変に気づかない。離れた通りを巡回する兵の灯りも、いつもどおり進んでいた。

 

 屋敷の正面へ回ろうとした者。

 

 裏口を見張る者。

 

 屋根へ上る道具を持っていた者。

 

 逃走用の馬とともに待っていた者。

 

 地図上の動きが、一か所ずつ止まっていく。

 

 誰一人、王女のいる建物へ届かなかった。

 

 最後に残ったのは、侯爵邸から少し離れた交差路の男だった。

 

 異変を感じたのか、男は仲間を待たずに背を向けた。

 

 数歩走ったところで足がもつれる。

 

 石畳へ倒れる前に、真壁が身体を支えた。

 

「これで全員か」

 

 返事をする者はいない。

 

 真壁は地図を広げた。

 

 屋敷周辺。

 

 逃走路。

 

 集合場所へ戻る道。

 

 敵対する動きは残っていなかった。

 

 夜のアルヴェラに、剣戟の跡はない。

 

 血も流れていない。

 

 真壁は眠った男たちを一人ずつ確認した。

 

 やがて、路地から人影が消えた。

 

 裏手の塀際からも。

 

 南の倉庫街からも。

 

 逃走用の馬が待っていた場所からも。

 

 残ったのは、夜露に濡れた石畳だけだった。

 

 真壁はもう一度周囲を確かめ、侯爵邸へ戻った。

 

 眠っている町は、最後まで騒ぎに気づかなかった。

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 アルヴェラを白い霧が覆った。

 

 侯爵邸では厨房の火が入り、使用人が廊下の灯りを片付けている。王女直属護衛は交代を終え、ルシオが朝の配置を確認していた。

 

 アレシアは無事だった。

 

 塀に傷はない。

 

 門が破られた跡もない。

 

 捕虜が運び込まれた牢もない。

 

 真壁は客室の窓から霧を見た後、何事もなかったように朝食の席へ向かった。

 

 同じ朝。

 

 ガレスは、戻ってくるはずの男たちを待っていた。

 

 最初は気にしていなかった。

 

 王女を連れ出すまでに時間がかかったのかもしれない。屋敷へ入れず、潜伏しているのかもしれない。逃走経路を変えた可能性もある。

 

 だが、朝の鐘が鳴っても、一人も現れなかった。

 

「南から入った連中は」

 

「戻っておりません」

 

「裏手へ回った者は」

 

「連絡がありません」

 

「外で待っていた奴らはどうした」

 

「それも……」

 

 ガレスの顔から苛立ちが消えた。

 

「侯爵家の兵に捕まったのか」

 

「そのような話は出ておりません」

 

「死体は」

 

「見つかっていません」

 

「牢へ運ばれた者は」

 

「おりません。侯爵邸で戦いがあったという話もありません」

 

 町はいつもの朝を迎えている。

 

 大勢の兵が動いた様子もない。怪我人を運んだ者も、夜中に悲鳴を聞いた者もいなかった。

 

 ガレスは、昨日の朝に戻ってきた尾行役を思い出した。

 

 角を曲がったら女が消えた。

 

 あの時は、役に立たない男の言い訳だと思った。

 

 だが、今度は一人ではない。

 

「昨夜出したのは、何人だ」

 

 部下が答える。

 

 ガレスはもう一度尋ねた。

 

「そのうち、何人戻った」

 

 部下はすぐに答えられなかった。

 

「何人だ」

 

「……一人も」

 

 死体はない。

 

 捕らえられたという話もない。

 

 逃げ帰った者もいない。

 

 昨夜、アレシアを襲うために送り出した者たちは、一人残らず行方不明になっていた。

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