「……一人も戻っていないだと?」
朝の光が差し始めた部屋で、ガレスは聞き返した。
卓上には昨夜送り出した者の名を書いた紙がある。侯爵邸の南へ回した者。裏手の塀から入る者。少し離れた場所で馬を用意する者。失敗した場合に逃走路を確保する者。
どの組にも戻った印は付いていなかった。
「襲撃が長引いたのかもしれません」
残っていた連絡役が、怯えた声で言う。
「夜明けまで隠れている者もいるかと」
「なら、待機させた奴はどうした。屋敷へ入っていない連中まで戻らん理由は何だ」
答えはない。
ガレスは別の連絡場所へ人を走らせた。普段なら失敗した者が使う酒場、倉庫裏の物置、東門へ抜ける前に集まる空き家。
どこにもいなかった。
侯爵邸で夜襲があったという噂もない。
剣戟を聞いた者はいない。塀も門も壊れていない。死体が見つかったという話も、侯爵家の兵が大勢を連行したという話もなかった。牢へ運び込まれた者が増えた様子もない。
行った者だけが、きれいに消えている。
部屋の隅には、昨日、澪を尾行した男が立っていた。
「もう一度話せ」
「何をでしょう」
「女が消えた時のことだ」
男は昨日と同じ説明をした。
女商人は普通に歩いていた。石造りの倉庫が並ぶ道へ入り、人影のない角を曲がった。数秒後に追ったが、そこには誰もいなかった。
「扉へ入ったのではないのだな」
「閉まっていました。馬も馬車もありません。次の角までは走っても間に合いません」
「お前は戻った」
「はい」
「何もされずに」
「見ていただけですので」
ガレスは口を閉じた。
昨日は、尾行に失敗した男の言い訳だと思った。
しかし昨夜は数十人が向かった。別々の道を使い、屋敷の外にも人を残した。その全員が、戻っていない。
強い相手なら理解できる。
戦えば死体が残る。捕らえれば牢へ運ぶ。誰か一人くらい逃げ帰り、何が起きたか話す。
今回は、そのどれもなかった。
ガレスは初めて、王国から来た三人を、強さでは測れない相手として考えた。
「誰が動けと言った」
マルコの声は低かった。
ガレスは向かいの椅子に座っていた。いつものように足を組むことも、卓上の酒へ手を伸ばすこともしていない。
「昨日、私は何もするなと言ったはずだ」
「あの男たちが帰れば、次の機会はなくなる」
「帰らせればよかったのだ!」
マルコの拳が卓を叩いた。
茶器が跳ね、冷めた茶が縁からこぼれる。
「女二人はすでに消え、あの男も出ていくと言っていた。余計な手を出さなければ、それで終わった」
「王女は巡察を続ける」
「だから今すぐ殺す必要があると考えたのか。数十人も動かして」
「成功すれば――」
「一人も戻っていない」
その一言で、ガレスが黙った。
マルコが恐れているのは、王女を仕留められなかったことではない。
昨夜消えた者たちは、同じ情報を持っているわけではなかった。
末端の者は、集合場所と報酬の受取先しか知らない。武器を運んだ者は調達先を知っている。荷車を用意した者は、盗品を置く倉庫にも出入りしていた。何度も仕事をしている者なら、密輸品を動かす道や、奴隷商人へ人を渡す場所まで知っている。
一人一人の持つ情報は小さい。
だが、数十人分をつなげれば、線になる。
「全員、殺されたんだろう」
ガレスが言った。
「なら死体はどこだ」
「運んだのかもしれん」
「誰にも見られずに、数十人をか」
マルコは椅子へ深く座り直した。
「捕らえられたのか、殺されたのか。それすら分からん。生きているなら、誰が口を割った。何を話した。どこまでつながった」
答えられる者はいない。
「お前の名前を知る者は何人いた」
「……何人かは」
「何人だ」
ガレスは答えなかった。
「金を渡した場所を知る者は。武器の置き場は。倉庫は。仲介人は」
問われるたび、ガレスの顔から血の気が引いていく。
「分からんのだ。何も分からんから、すべて知られたものとして動くしかない」
マルコは立ち上がった。
「ガレス。今後、私の名を使うな。こちらから呼ぶまで、誰にも接触するな」
「俺を切るのか」
「お前が勝手に線を引きちぎったのだ」
マルコは扉を開け、部下を呼んだ。
予定していた取引を延期させる。
川沿いの倉庫は当面使わない。
東門外の連絡場所も変える。
仲介人には仕事を止め、決めた場所へ近づかないよう伝える。
命令は一つずつ、表向きには不自然に見えない形で出された。
倉庫を焼くことはしない。帳簿を抱えて逃げることもしない。マルコはカルネス侯爵家の商業担当官である。急に騒げば、自分から疑いを招く。
取引相手の都合。
荷の遅れ。
保管場所の修繕。
表の理由を付け、裏の経路を一つずつ止めていく。
昨日まで役に立っていた人脈が、一夜で自分へ刃を向けかねないものへ変わっていた。
誰が捕まったか分からない。
だから、誰を信じてよいかも分からない。
マルコは部屋を移り、表向きの仕事に使っている机へ座った。
窓の外には、朝のアルヴェラが見える。霧の中を荷車が進み、役所へ向かう書記官たちが外套の裾を揺らしていた。侯爵家の商業担当官として過ごす、いつもの一日の始まりだった。
机の上には、港から届いた商品の一覧と、春へ向けた穀物の見込みが置かれている。その間へ、部下が持ってきた小さな紙片を挟んだ。
川沿いの倉庫を管理する男は、昨夜消えた者の一人と酒を飲む仲だった。
東門外の仲介人は、ガレスへ武器を渡した男の名を知っている。
半島南部から来る密輸品は、今夜使う予定だった荷車と同じ持ち主を通していた。
一つ止めるたび、別の線が浮かび上がる。
「こちらの倉庫へ移す荷は、三日遅れたことにしろ」
「理由はどういたします」
「川霧で船が遅れた。それでよい」
「東門の仲介人から面会の申し入れが来ております」
「体調が優れないと伝えろ」
部下は命令を書き留め、出ていった。
いつまで止めれば安全になるのか、マルコにも分からない。
消えた者が死んでいれば、何も話さない。捕らえられているなら、今この瞬間にも誰かの名を出しているかもしれない。
分からないという一点だけで、長年かけて作った経路のほとんどが使えなくなっていた。
カルネス侯爵邸では、いつもと変わらない朝食が始まっていた。
窓の外には深い霧が残り、中庭の木々は白い幕の向こうに霞んでいる。厨房から焼きたてのパンが運ばれ、温かいスープから湯気が立っていた。
使用人たちは夜中の騒ぎを口にしない。
実際、騒ぎはなかった。
門は壊されず、窓も割れていない。負傷者が運び込まれた様子もない。夜番を終えた兵たちは普段どおり交代し、王女直属護衛も朝の配置についている。
真壁は一人で朝食を取った。
パンを切り、スープを飲む。持ち帰る物を頭の中で確かめ、食後には客室の荷をまとめた。
窓辺で一度地図を開いたが、何を確認したのかは誰にも話さなかった。
朝食を終えた後、アレシアから呼ばれた。
小応接室にはアレシアとルシオ、フィオラがいる。ルシオの姿勢には、護衛隊長としての緊張が戻っていた。
「昨夜のことで、お話があると伺いました」
アレシアが真壁へ席を勧める。
「昨夜も、殿下を狙って動いた者がおりました」
室内の空気が変わった。
「昨夜も?」
「はい。複数の人間が、別々の方向から屋敷へ近づいております」
ルシオがすぐに尋ねた。
「何人ほどです」
「複数です」
「それは承知しています。彼らは今、どこにいるのですか」
「殿下へ危害を加えられる状態にはありません」
ルシオの眉がわずかに動いた。
「捕らえたのですか」
「今は、それ以上お話しできません」
「真壁殿」
低い声に、責める響きが混じった。
「我々は殿下の護衛です。屋敷へ近づいた者がいるなら、所在を確認する必要があります」
「屋敷の周囲には残っておりません。すぐに戻ってくることもないでしょう」
「なぜ、そう言い切れるのです」
真壁は答えなかった。
ルシオも視線を逸らさない。
アレシアが静かに口を開いた。
「ルシオ」
「しかし、殿下」
「真壁殿が、これまで何度も私たちへ危険を届かせなかったことは事実です」
ルシオの表情は納得していない。それでも、問いを重ねることは止めた。
「必要になれば、お話しいただけるのですね」
アレシアが尋ねる。
「必要なことはお伝えします」
その答えにも、昨夜の人間がどこにいるかは含まれていなかった。
アレシアは指先を重ね、しばらく考えた。
「街道で襲われた後も、偽の使者、毒の入った見舞い品、外出先での待ち伏せが続きました。そして昨夜も」
「はい」
「伯父の家へ入れば、少なくとも守りは固くなると思っていました」
セヴェリオを疑っている口調ではない。
「ですが、この領内にも敵の手が入っている。私の居場所を追い、予定を知り、毒や偽の伝言を用意できる者がいるということですね」
「その可能性は高いでしょう」
王都から連れてきた随行者から漏れたのか。
半島へ入ってから接触した商人なのか。
地方貴族の家中にいる者か。
どこから情報が流れているかは分からない。
「伯父の力だけに頼る問題ではなさそうです」
アレシアがルシオを見た。
「王家側でも調べます。ネヴィオ・サレスへ知らせる準備をしてください」
「国王陛下直属の監察官へ、ですか」
「ええ。密輸や海賊だけでなく、貴族と商人の不穏なつながりも調べている方です。今回の巡察で見聞きしたことを、王都へ届けなければなりません」
「承知しました。信用できる者に持たせます」
手紙を書けば、すぐ答えが届くわけではない。アルヴェラから王都リヴェルナまでは、半島の街道と海を越える必要がある。使者を選び、経路を決め、途中で奪われない方法も考えなければならない。
ルシオはフィオラと相談し、王都まで運ぶ者の候補を挙げた。
最初から王女一行に同行していた者の中から、傷を負っておらず、家族や借金を利用される心配の少ない者を選ぶ。侯爵家の使者へそのまま預けるのではなく、王女直属護衛の手で港まで運ぶ。
「一通だけでは危険です」
ルシオが言う。
「同じ内容を二つに分け、別々の道を使わせます」
「そうしてください。どちらかが届かなければ、それ自体も情報になります」
アレシアは机へ向かい、便箋を広げた。
街道での襲撃。捕らえた者。アルヴェラ到着後も続いた偽伝言と毒物。昨夜、侯爵邸へ複数の人間が近づいたこと。
誰が首謀者かは書けない。証拠のない名を挙げれば、監察官の目を誤った方向へ向けることになる。
アレシアは一度筆を止めた。
「伯父にも、この手紙のことは伝えます」
「よろしいのですか」
「伯父の領内で起きていることです。隠して送る理由はありません」
伯父への信頼は揺らいでいなかった。
アレシアが疑っているのは、カルネス侯爵家そのものではない。王都から半島へ続く長い経路のどこかに、自分の動きを売る者がいることだった。
「真壁殿」
アレシアが改めて向き直った。
「それでよいと思われますか」
「王家の問題です。王家の系統で調べるのがよろしいでしょう」
「真壁殿は、調べないのですか」
ルシオの問いに、真壁は短く答えた。
「私は商人です」
「商人が地下水路を造りますか」
「必要でしたので」
フィオラが目を伏せた。笑いを堪えたらしい。
ルシオは笑わなかった。
「昨夜の者について、何か分かっているのではありませんか」
「必要なことはお伝えします」
先ほどと同じ答えだった。
何も知らないから答えないのか。
知っていて話さないのか。
アレシアにもルシオにも判断できなかった。
真壁は侯爵家の者を端から疑うこともしなかった。
廊下で会ったバルディオとは、導水路の点検口について普通に話した。私兵隊長のダリオ・ヴェルネスからは、旧鉱山周辺に残す兵の配置を聞いた。エリサとは昨日渡した焼き菓子について短く言葉を交わした。
バルディオは有能な家宰として屋敷を動かし、ダリオは盗賊討伐で実際に先頭へ立った。エリサもアレシアの帰還を喜んでいる。
侯爵家という一つの名で、その全員を同じものとして扱う理由はなかった。
中庭では、ダリオが十数人の兵を集めていた。
昨夜の動きを受け、屋敷の警備を組み直すらしい。門へ立つ者を増やすだけでなく、同じ者が同じ時刻に同じ道を巡回し続けないよう、交代の時間まで変えている。
「真壁殿」
ダリオが訓練用の木剣を兵へ預け、近づいてきた。
「昨夜の件、ルシオ殿から聞きました。我々の警戒が及ばず、面目もありません」
「相手は屋敷の外で動いております。気づかなかったことを責める必要はないでしょう」
「ですが、次も同じとは限りません」
「そのとおりです」
真壁は、昨夜の者についてそれ以上話さなかった。
「兵を増やしすぎれば、屋敷の出入りが滞ります」
「ええ。ですから門を固めるより、外周を歩く者を増やします。怪しい者をすべて捕らえるつもりもありません」
「見るだけの者まで追えば、こちらの動きを教えることになります」
「承知しております」
ダリオは真壁の短い助言を受け、自分の兵へ戻った。命令を待つだけではなく、屋敷と町の暮らしを止めない範囲で警備を変えようとしている。
回廊では、バルディオが使用人へ指示を出していた。
アレシアへ届けられる荷は、差出人と運んだ者を確かめる。食べ物は厨房へ直接入れず、一度決めた部屋へ集める。ただし、すべての客を犯罪者のように扱わない。
「屋敷が物々しくなりすぎれば、殿下にもおくつろぎいただけませんので」
バルディオはそう言い、真壁へ一礼した。
エリサはその近くで、アレシアの滞在が延びた場合に必要な部屋と侍女の配置を確認している。父の屋敷へ来た従姉妹を、客として迎えるための仕事だった。
真壁は普段どおり彼らと話し、別れの前に必要なことだけを伝えた。
昼前、セヴェリオも交えて別れの挨拶が行われた。
「昨夜も、姪を狙う者がいたと聞きました」
セヴェリオの顔には怒りがあった。
「私の屋敷へまで手を伸ばすとは。領内の警戒を改めます」
「殿下から、王家側へも知らせると伺いました」
「それがよいでしょう。こちらでもダリオに調べさせます」
セヴェリオは昨夜の襲撃を知らなかった。真壁へ向ける感謝も、アレシアを案じる気持ちも変わらない。
「本当に、もうお発ちになるのですな」
「はい。護衛の方々も立て直されました。導水路も通っております」
「まだ、お力を借りたいことは幾らでもあります」
「もう十分でしょう」
真壁は穏やかに答えた。
王女一行を街道で救い、負傷者を診た。井戸水から鉛を見つけ、飲み水を処理する方法を作った。廃銀山を探り、盗賊を排除した兵に同行し、囚われていた者を救出した。汚染された土地を掘り返し、山から来る水を地下導水路へ通した。
その間にも王女を狙う動きを止めている。
ここから先は、王家と領主が進めるべき仕事だった。
「私どもが、セレヴィアの犯罪組織や王位の問題まで抱えることではありません」
「ごもっともです」
セヴェリオは苦い顔で頷いた。
「真壁殿。澪殿と理央殿にも、改めて礼をお伝えください」
「承知しました」
「次にいらした時には、客としてお迎えしたいものです」
「その時は、海を見せていただけると澪君が喜ぶでしょう」
セヴェリオが一瞬目を丸くし、それから笑った。
「そうでした。あれほどの働きをしていただきながら、海をご覧になっていない」
「本人も昨日気づいたようです」
「では、次は必ず」
「お伝えします」
二人は普通に別れの礼を交わした。
真壁がセヴェリオについて何を考えているのかは、表情からは分からなかった。
ネリオ・サルヴァのもとへ話が届いたのは、昼を過ぎた頃だった。
ガレスの配下が大勢消えた。
昨夜、第一王女を狙って動いたらしい。
マルコ側では、予定されていた取引が次々に延期されている。
「王女を?」
ネリオは部下へ聞き返した。
「そう聞いております。戻った者は一人もいないとか」
ネリオは椅子の背へ身体を預けた。
関税を避けた荷を扱ったことはある。正規の港を通さず、夜の川船で品を動かしたこともある。役人へ渡す金を減らすため、倉庫の札を書き換えたことも一度ではない。
だが、人を攫って売ることや、王族を殺すことは別だった。
「うちの者を、ガレスへ近づけるな」
「しかし、次の荷が」
「止めろ」
「違約金を求められます」
「払ってでも止める」
部下の顔が変わった。
ネリオはマルコとつながる取引のうち、自分から止められるものを選んだ。すべてを一度に切れば、かえって目立つ。荷が遅れたもの、利益の薄いもの、別の商人を通せるものから順に外す。
「連絡も減らせ。呼ばれても、すぐには行くな」
「マルコ殿からでもですか」
「特にだ」
ネリオは王家へ駆け込むつもりはなかった。
自分も表へ出せない仕事をしている。密告すれば、マルコより先に自分が捕まるかもしれない。
ただ、離れる。
これ以上、王女暗殺へつながる場所に立たないために。
同じ判断をした者は、ネリオだけではなかった。
裏の荷を扱う商人の間で、マルコの仕事を避ける動きが少しずつ始まった。理由を声高に語る者はいない。表の市場では、いつもと変わらず荷車が行き交い、商人たちが値段を交渉している。
その下でだけ、人の流れが細くなっていった。
王女を狙ったからではない。
そのために動いた数十人が、一晩で一人残らず消えたからだった。
関われば、自分まで同じように消えるかもしれない。
誰が消したのか分からないことが、知っている相手より強く彼らを遠ざけた。
ある商人は、荷車の車軸が壊れたと言って取引を延ばした。
別の男は、家族が病気になったため町を離れられないと伝えた。
川船を扱う仲介人は、今週は水位が悪いと言い、船を出さなかった。
どれも、それだけなら珍しくない断りだった。
しかし、断られた仕事の先には同じ名前がある。
マルコ。
あるいは、その下で動くガレス。
誰も二人を告発しない。理由を尋ねられても、昨夜の消失を口にはしない。噂を広げれば、噂の出どころとして自分が探される。
そのため静かだった。
表の通りでは魚と葡萄酒が売られ、工房の槌音が響いている。川沿いでは朝霧から集めた水を積む者がおり、東門区には別の水源から樽が運ばれていた。
いつもの町の下で、裏の商売だけが音もなく縮んでいく。
マルコが切ろうとしている線を、相手側もまた自分から手放し始めていた。
侯爵邸の客室で、真壁は最後の荷物を収納した。
借りていた部屋には、持ち込んだ物を残していない。外套を着て、机の上を一度確かめる。
窓の外では、朝の霧が嘘のように晴れていた。旧王都の石造りの屋根が午後の日差しを受け、その向こうには城壁が続いている。
今回の旅は、未知の国を見るために始まった。
セレヴィアの海。
港に並ぶ帆船。
島と半島を結ぶ交易。
実際に半島へ入ると、王女が襲われ、鉛に汚染された水と廃銀山へ行き着いた。
澪は結局、海を一度も見ていない。
大島も、王都リヴェルナも、海軍の船も残っている。船好きだという第一王子アルディオにも会っていない。
セレヴィアで見るべきものは、まだ多かった。
真壁は地図を開いた。
しばらく見た後、何も言わずに閉じる。
誰かを追うために屋敷を出ることはなかった。
夕方、ガレスは自分の隠れ家にいた。
窓を閉じ、扉の前に椅子を置いている。外で足音がするたび、剣の柄へ手が伸びた。
マルコに切られた。
手勢の大部分も失った。
だが、それだけならまだ立て直せる。
ガレスを追い詰めているのは、消えた者たちが何を知っていたかだった。
自分の名前を知る者がいる。
金の受け渡し場所を知る者がいる。
この隠れ家を知っている者も、倉庫を知る者もいた。過去に襲った商人、売った人間、武器の調達先。どれか一つでも喋れば、別の場所へつながる。
全員死んだのなら、口は割らない。
全員捕まったのなら、どこかで騒ぎになる。
何も分からない。
だから、どの場所も安全だと言えなかった。
「出るぞ」
ガレスは残っていた数人へ告げた。
「どこへです」
「アルヴェラの外だ」
「マルコ殿からは、動くなと」
「ここにいれば捕まる」
持ち出す物は少ない。
金。
武器。
外套と食料。
人が多ければ目立つため、連れていくのも少数だけだった。
これまで使っていた倉庫には寄らない。いつもの酒場も、東門の連絡場所も使わない。誰にも告げていない道から町を出る。
「場所を変えれば、追えん」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
どこまで知られたのかは分からない。
ならば、自分の所在だけでも知られない場所へ移るしかない。
ガレスたちは日が沈む前に隠れ家を出た。
市場を避け、細い裏道を通る。城壁へ近づく頃には、冬の夕日が屋根の向こうへ沈み始めていた。
店じまいを始めた露店の横を抜ける。焼いた魚と薪煙の匂いが漂い、仕事を終えた者たちが酒場へ入っていく。
ガレスは一人一人の顔を見た。
誰も自分を見ていない。それでも、視線を逸らされたように感じる。
門へ近づくと、侯爵家の兵が旅人の荷を確かめていた。王女襲撃の後で警戒は強まっている。
ガレスは外套の奥にある剣へ触れた。
ここで引き返せば、もう別の門へ回る時間はない。兵が自分の名を知っているのかも分からない。
前の荷車が通される。
次の旅人も通った。
ガレスの番になる。
「どちらへ」
「西の村だ。古い知り合いに会う」
兵は旅装と荷を見た。金は衣服の下へ分け、武器も旅人が持つ範囲に見せてある。
「夜になる。次の宿場までは遠いぞ」
「承知している」
兵は道を空けた。
ガレスは急がず門を抜けた。城壁の影を出てからも歩調を変えない。
背後で呼び止める声はなかった。
普段とは違う門を抜け、畑の間を走る道へ出る。
何度も後ろを振り返った。
追う者はいない。
兵の姿もない。
王国から来た男が現れることもなかった。
同じ頃、真壁は侯爵邸で帰る準備を終えていた。
誰かを捕らえに町へ出ることも、侯爵家へ新しい名を告げることもない。
地図を一度確認し、閉じただけだった。
ガレスはアルヴェラから遠ざかる。
真壁は追わない。
それでもガレスは、背後から視線を向けられているような感覚を捨てられなかった。
昨夜消えた者たちは、どこにいるのか。
生きているのか。
誰かが喋ったのか。
何を知られたのか。
答えは一つもない。
分かっているのは、自分が昨日まで安全だと思っていた場所を、すべて捨てなければならなくなったことだけだった。