ヴァルディス侯爵領の朝は、よく晴れていた。
食品会社の荷受け場では、朝一番に届いた芋や麦の袋が倉庫へ運び込まれている。荷車の車輪が固い地面を鳴らし、開け放たれた扉の奥から、蒸した芋と麹の匂いが流れてきた。
帳面を手に作業を見ていたリュシアは、門を入ってきた真壁に気づいた。
「お帰り、真壁さん」
「今戻った」
「澪から少し聞いたよ。大変だったんだって?」
「予定より長くなった」
真壁は荷の邪魔にならない壁際へ移り、収納へ手を伸ばした。
「土産だ」
薄い靄から木箱が現れた。
「ありがとう」
リュシアが受け取ろうとした横へ、二つ目の箱が置かれる。続いて麻袋。縄で束ねた乾物。蓋を蝋で固めた小樽。その後ろへ、また木箱が積まれた。
干魚の匂いと潮気が、麹の甘い匂いへ混じっていく。
「……土産かい?」
「そうだ」
「うちへの納品じゃなくて?」
「皆で使えばよい」
「やっぱり会社への納品じゃない」
近くにいた従業員たちも、増えていく荷を見て手を止めていた。リュシアは一番上の木箱を開ける。中には塩漬けの魚が隙間なく並んでいた。
別の箱には燻製魚。袋には干した小魚。樽の一つからは、蓋を開ける前から魚醤に似た強い香りが漏れている。
「どこで、こんなに買ったんだい?」
「アルヴェラを出る前に市場へ寄った」
「市場ごと買ってないだろうね?」
「売る分は残してある」
「聞き方を間違えたね」
リュシアは従業員へ荷台を持ってくるよう頼んだ。真壁が最後に出したのは、黒褐色の海藻を板のように乾かした束だった。
「これは?」
「ゲンダイで昆布と呼んでいるものに近い」
リュシアは一枚を持ち上げ、厚みを指で確かめた。乾いて硬く、表面に薄く白い粉が浮いている。
「煮て食べるのかい?」
「食べてもよいが、水につけてみるとよい」
「水に?」
「よい出汁が取れる」
真壁は小魚の入った袋も開いた。指より短い魚が、頭も骨も付いたまま乾いている。
「こちらも煮る。昆布と合わせて、取った出汁へ味噌を入れる」
「それだけかい?」
「それだけだ」
肉を長時間煮るわけでも、高価な香辛料を幾種類も使うわけでもない。リュシアは昆布と小魚を見比べた。
「そんなに違うのかい?」
「試せば分かる」
「今日、作ってみるよ」
「ヴァルト君なら、涙を流すほど喜ぶだろう」
リュシアが顔を上げた。
「味噌汁なら、前にも食べてるんだろ?」
「ああ」
「それで泣くかね?」
「どうかね」
真壁はそれ以上言わず、残った樽を荷台へ載せた。
ガレスが戸を叩くと、しばらくして内側から足音がした。
アルヴェラから一晩歩いた先にある、小さな農村だった。冬枯れの葡萄畑が低い石垣の向こうへ続き、夜露を吸った土が靴へまとわりつく。家々の煙突から上がり始めた煙は、風のない朝の空へ細く伸びていた。
戸は、顔が見えるだけしか開かなかった。
「俺だ。開けろ」
家の男は、ガレスの後ろにいる三人を見た。
「何の用だ」
「一晩泊まる。食い物と、替えの馬も欲しい」
「無理だ」
「金は払う」
「金の話じゃない」
以前なら、銀貨を見せれば納屋を空けた男だった。追われた者を隠し、馬を替え、近くの街道を兵が通れば知らせたこともある。
ガレスは革袋を取り出した。
「倍出す」
「帰ってくれ」
「三倍だ」
男の目が一度だけ革袋へ落ちた。それでも戸は開かなかった。
「昨夜、何人いなくなった」
「何だと?」
「あんたが集めた連中だ。誰も戻ってないんだろ」
ガレスが戸へ手を掛ける前に、男は勢いよく閉めた。閂が落ちる音がした。
「マルコから何を聞いた!」
返事はない。
家畜小屋で山羊が鳴き、隣家の扉が開いた。ガレスは舌打ちを飲み込み、革袋を外套へ戻した。
「行くぞ」
村へ兵が来ている様子はない。だが、ここで戸を壊せば、泊まるどころか朝のうちに顔を知られる。
ガレスたちは、まだ人の少ない道へ戻った。
村を離れても、しばらくは朝餉の匂いが追ってきた。焼いた平たいパンと、豆を煮る匂いだった。昨夜から口にしたのは、歩きながら噛んだ干し肉だけである。
配下の一人が、水袋を振った。
「ほとんど残ってません」
「次の町まで持たせろ」
「馬も休ませないと」
連れてきた二頭は、夜通し歩かせていた。鼻から白い息を吐き、脚には泥が跳ねている。四人全員が乗れば、次の町まで持たない。
ガレスは村の井戸へ戻ることも考えたが、すぐに捨てた。先ほどの男が誰かへ知らせていないとは限らない。村人の視線が集まる場所へ、今さら顔を出す気にもなれなかった。
「南の道を使う。昼までに町へ入るぞ」
「街道へ出ないんですか?」
「巡回が増えてるそうだ」
男の言葉を信じたわけではない。それでも、確かめるために兵の前へ出る必要はなかった。
葡萄畑の間の道は、昨夜の霜が解けてぬかるみ始めている。ガレスは足を速めながら、閉ざされた戸を一度だけ振り返った。
「ガレスから人が来ても通すな」
マルコの声は低かった。
執務机の前に立つ部下が頷く。窓の外では、アルヴェラの店々が鎧戸を上げ始めていた。荷馬車の軋む音と、朝の市場へ向かう呼び声が石壁に反響している。
「金も渡すな。馬車も宿も用意する必要はない。私の名を使わせるな」
「見つけた場合は?」
「何もするな」
「捕らえなくてよろしいので?」
「近づくなと言っている」
マルコは机に広げていた取引予定へ目を戻した。
今週動かすはずだった荷のうち、二つへ線を引く。倉庫を一か所変更し、仲介人へ渡す伝言を短く書き直した。表の商いまで止めれば、かえって目立つ。変えるのは、ガレスの人間が知っている箇所だけでよい。
昨夜消えた者の中に、どこまで知る人間がいたのか分からない。
集合場所だけを知る者。武器の受取先を知る者。金を渡した仲介人の顔を知る者。倉庫を使った者。盗品を運んだ者。
一人なら断片でしかない。数十人なら、その断片がどこまでつながるか分からなかった。
「ガレスが戻ってきたら、どうします」
「戻ってはこない」
マルコは線を引いた予定表を折り畳んだ。
「自分から逃げたのだ。好きにさせろ」
部下が退出すると、マルコは呼び鈴を鳴らした。
次に入ってきたのは、表の仕事を任せている若い書記だった。
「南倉庫へ入る葡萄酒は、予定どおり受け取れ。西から来る織物も止めるな」
「承知しました」
「ただし、港へ回す三番の荷は一日遅らせる。御者には車輪の修理と伝えろ」
書記は理由を尋ねず、帳面へ書き込んだ。
すべてを消すことはできない。急に倉庫を空にし、取引を止めれば、商人も役人も異変に気づく。普段どおり動く荷の中へ、ごく小さな変更を紛れ込ませる。
昨夜までなら、それで足りた。
今は、その小さな変更さえ誰に見られているのか分からなかった。
昼前、ガレスは交易路沿いの町へ着いた。
表通りを避け、染物工房と穀物倉庫の間にある細い道へ入る。裏口の上には、褪せた布商の印が掛かっていた。
この商人なら、荷車の空箱へ人を紛れ込ませる。金さえ出せば検問の少ない道を選び、次の町で別の御者へ渡す手配もできた。
ところが、話を聞いた商人は首を横へ振った。
「今は荷を出せない」
「荷はあるだろう」
倉庫の中には、縄を掛けた木箱が積まれている。中庭には幌を掛けた荷車が二台あった。
「行き先が違う」
「途中まででいい」
「別を当たってくれ」
ガレスが金貨を卓上へ置いても、商人は手を伸ばさなかった。
「足りないなら増やす」
「持って帰れ」
「誰に止められた」
「誰にも」
商人は裏口を開けた。
「今までの分まで忘れてほしいなら、もう来るな」
町を出るまで、ガレスは二度後ろを確かめた。追ってくる者はいない。表通りの兵も、いつもと変わらない人数だった。
それでも、二人続けて断る理由が偶然とは思えなかった。
アルヴェラの裏通りにある酒場では、昼から卓を囲む男たちがいた。
「本当に一人もか」
「侯爵邸へ入る役も、外で待つ役もだ」
「捕まったんじゃないのか」
「牢へ運ばれたって話はない。死体も出てない」
声は酒場の外へ届かないほど低い。
「王家の兵か?」
「だったら町がもっと騒ぐ」
「王国から来た商人が残ってたそうだ」
「商人が数十人をどうする」
「知るか。だから関わりたくないんだ」
正しい話を知る者はいなかった。
だが、ガレスが人を集めたこと。その者たちが夜の侯爵邸へ向かったこと。朝になっても誰一人戻らなかったこと。その三つだけは、裏で仕事を請ける者たちの間へ広がっていた。
寝床を貸す者が戸を閉めた。馬を扱う者が在庫はないと言った。荷車を出す商人は、次の便まで待てと答えた。
誰か一人が命じたわけではない。
ガレスから得られる金より、巻き込まれた時に失うものの方が大きくなっていた。
酒場の隅では、馬を貸す男が黙って杯を空けていた。昨夜、ガレスの配下の一人から、朝までに替え馬を二頭用意してほしいと頼まれている。
これまでも同じ仕事をした。馬は別の村で売ったことにし、受け取った金の一部を厩番へ渡せば済んだ。
男は卓上の水滴を指で拭い、立ち上がった。
「どこへ行く」
「厩へ戻る」
「馬を出すのか?」
「今朝から咳をしてる。人を乗せられん」
昨夜までは元気だった馬である。
誰もそれを指摘しなかった。
ネリオ・サルヴァの店へ来た仲介人は、人目を避けるように裏口を使った。
「四人ほど、荷へ乗せてほしいそうです」
「どこまでだ」
「西へ。行けるところまで」
「誰の人間だ」
仲介人は答える前に、わずかに目を伏せた。
それで十分だった。
「断れ」
「かなり出すと言っています」
「聞こえなかったか」
「いえ」
「馬車も紹介するな。私の店の名を出したなら、その話もなかったことにしろ」
仲介人が去ると、ネリオは店先へ目をやった。
関税をごまかす荷なら扱ってきた。正規の港を通せない品を、別の印へ付け替えたこともある。だが、王女を狙った者を運び、その手勢がまとめて消えた後まで同じ船へ乗る気はなかった。
ネリオは次に届く予定だった荷の札を外し、別の商人へ回すよう部下へ命じた。
「ネリオも駄目だそうです」
報告を受けたガレスは、すぐには答えなかった。
町を離れた道端で、残った者たちに固いパンを分けていた。畑の向こうを荷車が東へ進んでいる。御者は一度こちらを見ただけで、そのまま通り過ぎた。
「マルコだけじゃないのか」
「はい」
最初の農家。町の商人。ネリオ。
互いに同じ場所で動く者ではない。それが、申し合わせたように拒んだ。
ガレスの脳裏に、侯爵邸で見た男の姿が浮かんだ。
王国から来た商人。
何人で襲っても傷一つ負わず、夜のうちに数十人を消した男。
「あの男だ」
配下が顔を上げる。
「俺たちの行き先を知っている」
誰も追ってきてはいない。街道にも、脇道にも、それらしい騎馬はなかった。
だが、次に頼ろうとする相手まで断るのなら、見えないところで先に手を回しているとしか、ガレスには思えなかった。
カルネス侯爵邸の一室で、アレシアは二通の書状へ封をした。
窓の外では、冬の日を受けた中庭の噴水が細い水音を立てている。負傷していた直属護衛の何人かも、すでに持ち場へ戻っていた。
「内容は同じです」
アレシアはルシオへ二通を渡した。
「別の道で王都へ。ネヴィオ・サレス殿のもとへ届くようにしてください」
ネヴィオは、王家直属の調査を担う人物である。
書状には、街道で受けた襲撃だけでなく、アルヴェラへ来てから続いた偽の伝言や毒物、外出経路での不自然な待ち伏せ、そして昨夜も複数の者が動いていたことが記されていた。
首謀者の名はない。確かな証拠もなく、誰かを名指しするつもりはなかった。
「一人は北門から。もう一人は東へ出し、途中で街道を変えます」
「お願いします」
使者が発っても、返事が届くまでには日数がかかる。だが、王家の側で調べ始めなければ、同じ者が次の土地でも待っているかもしれなかった。
ほどなく、二人の使者が中庭へ下りた。
一人は王家直属護衛の装いを隠さず、街道を急ぐための軽い旅装を整えている。もう一人は商家の手代に見える外套を着て、書状を革袋の内側へ縫い込んでいた。
ルシオがそれぞれの馬具を確かめる。
「同時には出るな。北門から出た後も、宿は別にしろ」
「はい」
「道中で異変を感じたなら、速さより書状を守れ」
最初の使者が先に出る。蹄の音が回廊の向こうへ遠ざかり、十分ほど置いて、二人目が裏手の門へ向かった。
アレシアは窓辺に立ち、二人目の背中が見えなくなるまで見送った。
「届くでしょうか」
そばにいたフィオラが小声で尋ねる。
「届くように、二人へ託しました」
返事を待っている間にも巡察は続く。アレシアは机へ戻り、今後の行程を記した紙を開いた。
襲撃前に決めた宿泊地のうち、外部へ伝わっている場所には細い線を引く。次の町へ入る日も、一日ずらすことにした。
「巡察を続けるのですか」
セヴェリオは、机を挟んで姪を見た。
伯父として尋ねていることは、アレシアにも分かった。声には責める響きより、疲れた心配があった。
「行程は変えます。護衛も増やし、宿泊先を知らせる者も絞ります」
「それでも、王都へ戻る方が安全だ」
「私が帰っても、あの街道を使う人たちの危険は残ります」
「殿下が背負わなければならないことではありません」
「王家が知らないままでよいことでもありません」
アレシアは強く言い切ったのではない。街道で壊された荷車や、廃銀山から救い出された人々を思い出すように、いったん視線を伏せた。
「以前と同じ旅を続けるつもりはありません。でも、ここで見たものを、見なかったことにはしたくないのです」
セヴェリオはしばらく黙った。
「せめて、私の兵を連れていってください」
「伯父様」
「人数だけの話ではありません。半島の道と土地を知る者を付けます。宿も、こちらで確かめさせる」
アレシアは小さく息をつき、頷いた。
「ありがとうございます」
セヴェリオの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
その日のうちに、家宰バルディオが増援の候補をまとめた。選ばれたのは、人数だけを揃えた若い兵ではない。街道沿いの村を知る者、半島西部の言葉に慣れた者、馬車の修理ができる者が含まれていた。
セヴェリオは名簿を一人ずつ確かめた。
「ダリオにも見せておけ。護衛の指揮はルシオ殿に従わせる」
「畏まりました」
「宿へ先触れを出す者は、毎回変えろ。行程のすべてを持たせるな」
バルディオが退出した後も、セヴェリオは名簿を手元へ残した。
姪を王都へ帰せば安全になる。その保証すら、本当はなかった。王都から半島へ来る途中で襲われ、伯父の屋敷へ入ってからも狙われている。
それでも、出ていく姪をただ見送るよりは、渡せるものを渡しておきたかった。
ガレスが次に選んだのは、西へ向かう街道ですらなかった。
低い丘の間を抜ける農道から、炭焼きが使う山道へ入る。足跡の残りにくい岩場を選び、休む時も火は使わなかった。
追手は見えない。
それでも荷車の音がすれば身を隠し、高台へ出るたび来た道を見た。
表の商人が使えないなら、昔の繋がりを頼るしかない。傭兵だった頃に仕事をした男が、西の港に近い町の外れにいる。盗品も人も、名を聞かず船へ乗せる者たちと付き合いがあった。
そこまで行けば、海沿いの別の町へ抜けられる。
ガレスはそう考えた。
だが、農家の戸が閉じる音も、卓上の金貨を押し返した商人の手も、頭から離れない。
次の相手も、すでにあの男から何か聞いているのではないか。
先頭を行く配下が道を確かめる間、ガレスは誰もいない後方を見続けていた。
日が西へ傾く頃には、山道の土も硬く凍り始めた。
四人は崩れかけた炭焼き小屋で足を止めた。屋根は半分残っている。外から火が見えないよう、石を積んだ炉の奥で枯れ枝を少しだけ燃やした。
配下が固いパンを炙る。焦げた麦の匂いが狭い小屋へ満ちた。
「港まで何日です」
「この道なら二日だ」
「向こうの連中は、まだ使えますか?」
ガレスはすぐには答えなかった。
昔の傭兵仲間は、金で裏切る男ではない。少なくとも、かつてはそうだった。
「使える」
口に出すと、それは配下へ言ったというより、自分へ言い聞かせた言葉になった。
小屋の外で枝が鳴る。
全員が同時に武器へ手を掛けた。
しばらく待っても、足音は続かない。屋根から落ちた雪の塊が、枯れ枝を折っただけだった。
誰も笑わなかった。
食品会社の厨房には、三つの小鍋が並んでいた。
一つは昆布だけ。もう一つは小魚の干魚だけ。最後は、その二つを合わせたものだった。
弱い火にかけられた鍋から、少しずつ香りが立つ。魚の香りは分かりやすい。昆布の方は穏やかで、湯気だけを嗅いでも何が変わったのか判然としない。
リュシアは三つの汁を小皿へ取り、順に味を見た。
「魚だけでもうまいね」
「そうだろうね」
「昆布だけだと薄いのに、水とは違うね……」
最後に、合わせた出汁を口へ含む。
魚の味が先に来た。その後ろを、昆布の静かな味が支えている。どちらか一方より濃いというより、舌の上に残る時間が長かった。
「合わせた方がうまいね」
「量は料理に合わせればよい」
「真壁さんは決めてくれないのかい?」
「こちらの昆布と小魚だ。リュシア君が決める方がよい」
リュシアはもう一度三つを比べ、小魚を少し減らした。昆布の量も変え、合わせた鍋だけを作り直す。
そこへ、自分たちの会社で仕込んだ味噌を溶いた。
湯気と一緒に、馴染みのある発酵の香りが立つ。いつもの味噌なのに、汁を一口飲むと、その前に感じたことのない旨味が舌へ広がった。
「これなら、具が少なくてもいいね」
「具を入れてもよい」
「最初はこれで飲んでもらうよ。その方が違いも分かりやすい」
リュシアは鍋へ蓋をし、共同商館へ運ぶ支度を始めた。
残った二種類の出汁も捨てなかった。昆布だけのものは野菜の煮込みへ、小魚だけのものは豆と魚を煮る鍋へ使わせる。
「昆布は、何回くらい使えるんだい?」
「試してみなければ分からんな」
「このまま食べてもいいんだろ?」
「ああ」
リュシアは出汁を取った昆布を細く切り、少量を口へ入れた。まだ歯応えがあり、噛むと汁とは違う強い味が残っている。
「これも味を付ければ商品になるね」
「そうかね」
「出汁を取った後まで売れそうなのに、興味ないのかい?」
「興味がないとは言っていない」
真壁の視線が、細く切られた昆布へ移った。
「やっぱり持って帰るつもりだね?」
「味付けを変えて試す必要はあるだろう」
「それは食品会社でやるよ」
リュシアは皿を自分の側へ引き寄せた。
「土産を持ってきた者にも、味を見る権利はあると思うのだがね」
「用途を決めるのは会社の仕事なんだろ?」
真壁は答えず、出来上がった味噌汁の鍋を持ち上げた。
「冷める前に行こう」
「ずるい」
昼時の共同商館は、いくつもの料理の匂いで満ちていた。
焼いた肉。揚げた芋。香辛料を利かせた煮込み。客の声と食器の音が、高い天井の下で重なっている。
フードコートの一角にいたヴァルトは、リュシアが置いた椀を見て鼻を動かした。
「味噌汁ですか」
「今日は出汁を変えたよ」
「澪さんが作るものとは違うのですか?」
「飲めば分かるってさ」
リュシアは少し離れた場所にいる真壁を見た。真壁は別の卓で茶を飲みながら、こちらを見ている。
ヴァルトは椀を持ち、まず一口飲んだ。
すぐには何も言わない。
もう一口飲み、口の中で味を確かめる。
「これは、うまいですね」
「本当に?」
「魚だけではありませんね」
「昆布だって」
「昆布まであったのですか」
ヴァルトは椀を置くと、自分の収納へ手を入れた。
取り出したのは、白米のおにぎりだった。正月に澪から分けてもらった米を炊き、塩を振って握ったものを、非常食として残していたのである。
白いおにぎりを一口かじる。
米を噛み、まだ口に甘みが残っているうちに味噌汁を飲んだ。
昆布と小魚の味が染みた熱い汁を、米のやわらかな甘さが受け止める。味噌の塩気で、次の一口の米がまた欲しくなる。
おにぎりを頬張る。
味噌汁を飲む。
椀を置く前に、またおにぎりへ手が伸びた。
「そんなに違うのかい?」
リュシアが尋ねても、ヴァルトは食べながら頷くだけだった。
おにぎりが半分になる。味噌汁も減る。リュシアが鍋から汁を足すと、ヴァルトは礼を言うより先に椀へ口をつけた。
その目元が、いつの間にか少し濡れていた。
涙が一筋、頬へ流れる。
だが、ヴァルトは手を止めない。残りのおにぎりを食べ、味噌汁を飲み、自分の収納から二つ目を取り出した。
近くの卓の客が、そんなにうまいのかと鍋の方を見る。
リュシアはヴァルトを見た。
次に真壁を見る。
真壁は、何も言わず茶を飲んでいる。
もう一度ヴァルトを見る。目元を濡らしたまま、二つ目のおにぎりを頬張っていた。
「……本当に泣いてる」