押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

313 / 314
第313話 本当に泣いてる

 

 ヴァルディス侯爵領の朝は、よく晴れていた。

 

 食品会社の荷受け場では、朝一番に届いた芋や麦の袋が倉庫へ運び込まれている。荷車の車輪が固い地面を鳴らし、開け放たれた扉の奥から、蒸した芋と麹の匂いが流れてきた。

 

 帳面を手に作業を見ていたリュシアは、門を入ってきた真壁に気づいた。

 

「お帰り、真壁さん」

 

「今戻った」

 

「澪から少し聞いたよ。大変だったんだって?」

 

「予定より長くなった」

 

 真壁は荷の邪魔にならない壁際へ移り、収納へ手を伸ばした。

 

「土産だ」

 

 薄い靄から木箱が現れた。

 

「ありがとう」

 

 リュシアが受け取ろうとした横へ、二つ目の箱が置かれる。続いて麻袋。縄で束ねた乾物。蓋を蝋で固めた小樽。その後ろへ、また木箱が積まれた。

 

 干魚の匂いと潮気が、麹の甘い匂いへ混じっていく。

 

「……土産かい?」

 

「そうだ」

 

「うちへの納品じゃなくて?」

 

「皆で使えばよい」

 

「やっぱり会社への納品じゃない」

 

 近くにいた従業員たちも、増えていく荷を見て手を止めていた。リュシアは一番上の木箱を開ける。中には塩漬けの魚が隙間なく並んでいた。

 

 別の箱には燻製魚。袋には干した小魚。樽の一つからは、蓋を開ける前から魚醤に似た強い香りが漏れている。

 

「どこで、こんなに買ったんだい?」

 

「アルヴェラを出る前に市場へ寄った」

 

「市場ごと買ってないだろうね?」

 

「売る分は残してある」

 

「聞き方を間違えたね」

 

 リュシアは従業員へ荷台を持ってくるよう頼んだ。真壁が最後に出したのは、黒褐色の海藻を板のように乾かした束だった。

 

「これは?」

 

「ゲンダイで昆布と呼んでいるものに近い」

 

 リュシアは一枚を持ち上げ、厚みを指で確かめた。乾いて硬く、表面に薄く白い粉が浮いている。

 

「煮て食べるのかい?」

 

「食べてもよいが、水につけてみるとよい」

 

「水に?」

 

「よい出汁が取れる」

 

 真壁は小魚の入った袋も開いた。指より短い魚が、頭も骨も付いたまま乾いている。

 

「こちらも煮る。昆布と合わせて、取った出汁へ味噌を入れる」

 

「それだけかい?」

 

「それだけだ」

 

 肉を長時間煮るわけでも、高価な香辛料を幾種類も使うわけでもない。リュシアは昆布と小魚を見比べた。

 

「そんなに違うのかい?」

 

「試せば分かる」

 

「今日、作ってみるよ」

 

「ヴァルト君なら、涙を流すほど喜ぶだろう」

 

 リュシアが顔を上げた。

 

「味噌汁なら、前にも食べてるんだろ?」

 

「ああ」

 

「それで泣くかね?」

 

「どうかね」

 

 真壁はそれ以上言わず、残った樽を荷台へ載せた。

 

 

 

 ガレスが戸を叩くと、しばらくして内側から足音がした。

 

 アルヴェラから一晩歩いた先にある、小さな農村だった。冬枯れの葡萄畑が低い石垣の向こうへ続き、夜露を吸った土が靴へまとわりつく。家々の煙突から上がり始めた煙は、風のない朝の空へ細く伸びていた。

 

 戸は、顔が見えるだけしか開かなかった。

 

「俺だ。開けろ」

 

 家の男は、ガレスの後ろにいる三人を見た。

 

「何の用だ」

 

「一晩泊まる。食い物と、替えの馬も欲しい」

 

「無理だ」

 

「金は払う」

 

「金の話じゃない」

 

 以前なら、銀貨を見せれば納屋を空けた男だった。追われた者を隠し、馬を替え、近くの街道を兵が通れば知らせたこともある。

 

 ガレスは革袋を取り出した。

 

「倍出す」

 

「帰ってくれ」

 

「三倍だ」

 

 男の目が一度だけ革袋へ落ちた。それでも戸は開かなかった。

 

「昨夜、何人いなくなった」

 

「何だと?」

 

「あんたが集めた連中だ。誰も戻ってないんだろ」

 

 ガレスが戸へ手を掛ける前に、男は勢いよく閉めた。閂が落ちる音がした。

 

「マルコから何を聞いた!」

 

 返事はない。

 

 家畜小屋で山羊が鳴き、隣家の扉が開いた。ガレスは舌打ちを飲み込み、革袋を外套へ戻した。

 

「行くぞ」

 

 村へ兵が来ている様子はない。だが、ここで戸を壊せば、泊まるどころか朝のうちに顔を知られる。

 

 ガレスたちは、まだ人の少ない道へ戻った。

 

 村を離れても、しばらくは朝餉の匂いが追ってきた。焼いた平たいパンと、豆を煮る匂いだった。昨夜から口にしたのは、歩きながら噛んだ干し肉だけである。

 

 配下の一人が、水袋を振った。

 

「ほとんど残ってません」

 

「次の町まで持たせろ」

 

「馬も休ませないと」

 

 連れてきた二頭は、夜通し歩かせていた。鼻から白い息を吐き、脚には泥が跳ねている。四人全員が乗れば、次の町まで持たない。

 

 ガレスは村の井戸へ戻ることも考えたが、すぐに捨てた。先ほどの男が誰かへ知らせていないとは限らない。村人の視線が集まる場所へ、今さら顔を出す気にもなれなかった。

 

「南の道を使う。昼までに町へ入るぞ」

 

「街道へ出ないんですか?」

 

「巡回が増えてるそうだ」

 

 男の言葉を信じたわけではない。それでも、確かめるために兵の前へ出る必要はなかった。

 

 葡萄畑の間の道は、昨夜の霜が解けてぬかるみ始めている。ガレスは足を速めながら、閉ざされた戸を一度だけ振り返った。

 

 

 

「ガレスから人が来ても通すな」

 

 マルコの声は低かった。

 

 執務机の前に立つ部下が頷く。窓の外では、アルヴェラの店々が鎧戸を上げ始めていた。荷馬車の軋む音と、朝の市場へ向かう呼び声が石壁に反響している。

 

「金も渡すな。馬車も宿も用意する必要はない。私の名を使わせるな」

 

「見つけた場合は?」

 

「何もするな」

 

「捕らえなくてよろしいので?」

 

「近づくなと言っている」

 

 マルコは机に広げていた取引予定へ目を戻した。

 

 今週動かすはずだった荷のうち、二つへ線を引く。倉庫を一か所変更し、仲介人へ渡す伝言を短く書き直した。表の商いまで止めれば、かえって目立つ。変えるのは、ガレスの人間が知っている箇所だけでよい。

 

 昨夜消えた者の中に、どこまで知る人間がいたのか分からない。

 

 集合場所だけを知る者。武器の受取先を知る者。金を渡した仲介人の顔を知る者。倉庫を使った者。盗品を運んだ者。

 

 一人なら断片でしかない。数十人なら、その断片がどこまでつながるか分からなかった。

 

「ガレスが戻ってきたら、どうします」

 

「戻ってはこない」

 

 マルコは線を引いた予定表を折り畳んだ。

 

「自分から逃げたのだ。好きにさせろ」

 

 部下が退出すると、マルコは呼び鈴を鳴らした。

 

 次に入ってきたのは、表の仕事を任せている若い書記だった。

 

「南倉庫へ入る葡萄酒は、予定どおり受け取れ。西から来る織物も止めるな」

 

「承知しました」

 

「ただし、港へ回す三番の荷は一日遅らせる。御者には車輪の修理と伝えろ」

 

 書記は理由を尋ねず、帳面へ書き込んだ。

 

 すべてを消すことはできない。急に倉庫を空にし、取引を止めれば、商人も役人も異変に気づく。普段どおり動く荷の中へ、ごく小さな変更を紛れ込ませる。

 

 昨夜までなら、それで足りた。

 

 今は、その小さな変更さえ誰に見られているのか分からなかった。

 

 

 

 昼前、ガレスは交易路沿いの町へ着いた。

 

 表通りを避け、染物工房と穀物倉庫の間にある細い道へ入る。裏口の上には、褪せた布商の印が掛かっていた。

 

 この商人なら、荷車の空箱へ人を紛れ込ませる。金さえ出せば検問の少ない道を選び、次の町で別の御者へ渡す手配もできた。

 

 ところが、話を聞いた商人は首を横へ振った。

 

「今は荷を出せない」

 

「荷はあるだろう」

 

 倉庫の中には、縄を掛けた木箱が積まれている。中庭には幌を掛けた荷車が二台あった。

 

「行き先が違う」

 

「途中まででいい」

 

「別を当たってくれ」

 

 ガレスが金貨を卓上へ置いても、商人は手を伸ばさなかった。

 

「足りないなら増やす」

 

「持って帰れ」

 

「誰に止められた」

 

「誰にも」

 

 商人は裏口を開けた。

 

「今までの分まで忘れてほしいなら、もう来るな」

 

 町を出るまで、ガレスは二度後ろを確かめた。追ってくる者はいない。表通りの兵も、いつもと変わらない人数だった。

 

 それでも、二人続けて断る理由が偶然とは思えなかった。

 

 

 

 アルヴェラの裏通りにある酒場では、昼から卓を囲む男たちがいた。

 

「本当に一人もか」

 

「侯爵邸へ入る役も、外で待つ役もだ」

 

「捕まったんじゃないのか」

 

「牢へ運ばれたって話はない。死体も出てない」

 

 声は酒場の外へ届かないほど低い。

 

「王家の兵か?」

 

「だったら町がもっと騒ぐ」

 

「王国から来た商人が残ってたそうだ」

 

「商人が数十人をどうする」

 

「知るか。だから関わりたくないんだ」

 

 正しい話を知る者はいなかった。

 

 だが、ガレスが人を集めたこと。その者たちが夜の侯爵邸へ向かったこと。朝になっても誰一人戻らなかったこと。その三つだけは、裏で仕事を請ける者たちの間へ広がっていた。

 

 寝床を貸す者が戸を閉めた。馬を扱う者が在庫はないと言った。荷車を出す商人は、次の便まで待てと答えた。

 

 誰か一人が命じたわけではない。

 

 ガレスから得られる金より、巻き込まれた時に失うものの方が大きくなっていた。

 

 酒場の隅では、馬を貸す男が黙って杯を空けていた。昨夜、ガレスの配下の一人から、朝までに替え馬を二頭用意してほしいと頼まれている。

 

 これまでも同じ仕事をした。馬は別の村で売ったことにし、受け取った金の一部を厩番へ渡せば済んだ。

 

 男は卓上の水滴を指で拭い、立ち上がった。

 

「どこへ行く」

 

「厩へ戻る」

 

「馬を出すのか?」

 

「今朝から咳をしてる。人を乗せられん」

 

 昨夜までは元気だった馬である。

 

 誰もそれを指摘しなかった。

 

 

 

 ネリオ・サルヴァの店へ来た仲介人は、人目を避けるように裏口を使った。

 

「四人ほど、荷へ乗せてほしいそうです」

 

「どこまでだ」

 

「西へ。行けるところまで」

 

「誰の人間だ」

 

 仲介人は答える前に、わずかに目を伏せた。

 

 それで十分だった。

 

「断れ」

 

「かなり出すと言っています」

 

「聞こえなかったか」

 

「いえ」

 

「馬車も紹介するな。私の店の名を出したなら、その話もなかったことにしろ」

 

 仲介人が去ると、ネリオは店先へ目をやった。

 

 関税をごまかす荷なら扱ってきた。正規の港を通せない品を、別の印へ付け替えたこともある。だが、王女を狙った者を運び、その手勢がまとめて消えた後まで同じ船へ乗る気はなかった。

 

 ネリオは次に届く予定だった荷の札を外し、別の商人へ回すよう部下へ命じた。

 

 

 

「ネリオも駄目だそうです」

 

 報告を受けたガレスは、すぐには答えなかった。

 

 町を離れた道端で、残った者たちに固いパンを分けていた。畑の向こうを荷車が東へ進んでいる。御者は一度こちらを見ただけで、そのまま通り過ぎた。

 

「マルコだけじゃないのか」

 

「はい」

 

 最初の農家。町の商人。ネリオ。

 

 互いに同じ場所で動く者ではない。それが、申し合わせたように拒んだ。

 

 ガレスの脳裏に、侯爵邸で見た男の姿が浮かんだ。

 

 王国から来た商人。

 

 何人で襲っても傷一つ負わず、夜のうちに数十人を消した男。

 

「あの男だ」

 

 配下が顔を上げる。

 

「俺たちの行き先を知っている」

 

 誰も追ってきてはいない。街道にも、脇道にも、それらしい騎馬はなかった。

 

 だが、次に頼ろうとする相手まで断るのなら、見えないところで先に手を回しているとしか、ガレスには思えなかった。

 

 

 

 カルネス侯爵邸の一室で、アレシアは二通の書状へ封をした。

 

 窓の外では、冬の日を受けた中庭の噴水が細い水音を立てている。負傷していた直属護衛の何人かも、すでに持ち場へ戻っていた。

 

「内容は同じです」

 

 アレシアはルシオへ二通を渡した。

 

「別の道で王都へ。ネヴィオ・サレス殿のもとへ届くようにしてください」

 

 ネヴィオは、王家直属の調査を担う人物である。

 

 書状には、街道で受けた襲撃だけでなく、アルヴェラへ来てから続いた偽の伝言や毒物、外出経路での不自然な待ち伏せ、そして昨夜も複数の者が動いていたことが記されていた。

 

 首謀者の名はない。確かな証拠もなく、誰かを名指しするつもりはなかった。

 

「一人は北門から。もう一人は東へ出し、途中で街道を変えます」

 

「お願いします」

 

 使者が発っても、返事が届くまでには日数がかかる。だが、王家の側で調べ始めなければ、同じ者が次の土地でも待っているかもしれなかった。

 

 ほどなく、二人の使者が中庭へ下りた。

 

 一人は王家直属護衛の装いを隠さず、街道を急ぐための軽い旅装を整えている。もう一人は商家の手代に見える外套を着て、書状を革袋の内側へ縫い込んでいた。

 

 ルシオがそれぞれの馬具を確かめる。

 

「同時には出るな。北門から出た後も、宿は別にしろ」

 

「はい」

 

「道中で異変を感じたなら、速さより書状を守れ」

 

 最初の使者が先に出る。蹄の音が回廊の向こうへ遠ざかり、十分ほど置いて、二人目が裏手の門へ向かった。

 

 アレシアは窓辺に立ち、二人目の背中が見えなくなるまで見送った。

 

「届くでしょうか」

 

 そばにいたフィオラが小声で尋ねる。

 

「届くように、二人へ託しました」

 

 返事を待っている間にも巡察は続く。アレシアは机へ戻り、今後の行程を記した紙を開いた。

 

 襲撃前に決めた宿泊地のうち、外部へ伝わっている場所には細い線を引く。次の町へ入る日も、一日ずらすことにした。

 

 

 

「巡察を続けるのですか」

 

 セヴェリオは、机を挟んで姪を見た。

 

 伯父として尋ねていることは、アレシアにも分かった。声には責める響きより、疲れた心配があった。

 

「行程は変えます。護衛も増やし、宿泊先を知らせる者も絞ります」

 

「それでも、王都へ戻る方が安全だ」

 

「私が帰っても、あの街道を使う人たちの危険は残ります」

 

「殿下が背負わなければならないことではありません」

 

「王家が知らないままでよいことでもありません」

 

 アレシアは強く言い切ったのではない。街道で壊された荷車や、廃銀山から救い出された人々を思い出すように、いったん視線を伏せた。

 

「以前と同じ旅を続けるつもりはありません。でも、ここで見たものを、見なかったことにはしたくないのです」

 

 セヴェリオはしばらく黙った。

 

「せめて、私の兵を連れていってください」

 

「伯父様」

 

「人数だけの話ではありません。半島の道と土地を知る者を付けます。宿も、こちらで確かめさせる」

 

 アレシアは小さく息をつき、頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

 セヴェリオの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 その日のうちに、家宰バルディオが増援の候補をまとめた。選ばれたのは、人数だけを揃えた若い兵ではない。街道沿いの村を知る者、半島西部の言葉に慣れた者、馬車の修理ができる者が含まれていた。

 

 セヴェリオは名簿を一人ずつ確かめた。

 

「ダリオにも見せておけ。護衛の指揮はルシオ殿に従わせる」

 

「畏まりました」

 

「宿へ先触れを出す者は、毎回変えろ。行程のすべてを持たせるな」

 

 バルディオが退出した後も、セヴェリオは名簿を手元へ残した。

 

 姪を王都へ帰せば安全になる。その保証すら、本当はなかった。王都から半島へ来る途中で襲われ、伯父の屋敷へ入ってからも狙われている。

 

 それでも、出ていく姪をただ見送るよりは、渡せるものを渡しておきたかった。

 

 

 

 ガレスが次に選んだのは、西へ向かう街道ですらなかった。

 

 低い丘の間を抜ける農道から、炭焼きが使う山道へ入る。足跡の残りにくい岩場を選び、休む時も火は使わなかった。

 

 追手は見えない。

 

 それでも荷車の音がすれば身を隠し、高台へ出るたび来た道を見た。

 

 表の商人が使えないなら、昔の繋がりを頼るしかない。傭兵だった頃に仕事をした男が、西の港に近い町の外れにいる。盗品も人も、名を聞かず船へ乗せる者たちと付き合いがあった。

 

 そこまで行けば、海沿いの別の町へ抜けられる。

 

 ガレスはそう考えた。

 

 だが、農家の戸が閉じる音も、卓上の金貨を押し返した商人の手も、頭から離れない。

 

 次の相手も、すでにあの男から何か聞いているのではないか。

 

 先頭を行く配下が道を確かめる間、ガレスは誰もいない後方を見続けていた。

 

 日が西へ傾く頃には、山道の土も硬く凍り始めた。

 

 四人は崩れかけた炭焼き小屋で足を止めた。屋根は半分残っている。外から火が見えないよう、石を積んだ炉の奥で枯れ枝を少しだけ燃やした。

 

 配下が固いパンを炙る。焦げた麦の匂いが狭い小屋へ満ちた。

 

「港まで何日です」

 

「この道なら二日だ」

 

「向こうの連中は、まだ使えますか?」

 

 ガレスはすぐには答えなかった。

 

 昔の傭兵仲間は、金で裏切る男ではない。少なくとも、かつてはそうだった。

 

「使える」

 

 口に出すと、それは配下へ言ったというより、自分へ言い聞かせた言葉になった。

 

 小屋の外で枝が鳴る。

 

 全員が同時に武器へ手を掛けた。

 

 しばらく待っても、足音は続かない。屋根から落ちた雪の塊が、枯れ枝を折っただけだった。

 

 誰も笑わなかった。

 

 

 

 食品会社の厨房には、三つの小鍋が並んでいた。

 

 一つは昆布だけ。もう一つは小魚の干魚だけ。最後は、その二つを合わせたものだった。

 

 弱い火にかけられた鍋から、少しずつ香りが立つ。魚の香りは分かりやすい。昆布の方は穏やかで、湯気だけを嗅いでも何が変わったのか判然としない。

 

 リュシアは三つの汁を小皿へ取り、順に味を見た。

 

「魚だけでもうまいね」

 

「そうだろうね」

 

「昆布だけだと薄いのに、水とは違うね……」

 

 最後に、合わせた出汁を口へ含む。

 

 魚の味が先に来た。その後ろを、昆布の静かな味が支えている。どちらか一方より濃いというより、舌の上に残る時間が長かった。

 

「合わせた方がうまいね」

 

「量は料理に合わせればよい」

 

「真壁さんは決めてくれないのかい?」

 

「こちらの昆布と小魚だ。リュシア君が決める方がよい」

 

 リュシアはもう一度三つを比べ、小魚を少し減らした。昆布の量も変え、合わせた鍋だけを作り直す。

 

 そこへ、自分たちの会社で仕込んだ味噌を溶いた。

 

 湯気と一緒に、馴染みのある発酵の香りが立つ。いつもの味噌なのに、汁を一口飲むと、その前に感じたことのない旨味が舌へ広がった。

 

「これなら、具が少なくてもいいね」

 

「具を入れてもよい」

 

「最初はこれで飲んでもらうよ。その方が違いも分かりやすい」

 

 リュシアは鍋へ蓋をし、共同商館へ運ぶ支度を始めた。

 

 残った二種類の出汁も捨てなかった。昆布だけのものは野菜の煮込みへ、小魚だけのものは豆と魚を煮る鍋へ使わせる。

 

「昆布は、何回くらい使えるんだい?」

 

「試してみなければ分からんな」

 

「このまま食べてもいいんだろ?」

 

「ああ」

 

 リュシアは出汁を取った昆布を細く切り、少量を口へ入れた。まだ歯応えがあり、噛むと汁とは違う強い味が残っている。

 

「これも味を付ければ商品になるね」

 

「そうかね」

 

「出汁を取った後まで売れそうなのに、興味ないのかい?」

 

「興味がないとは言っていない」

 

 真壁の視線が、細く切られた昆布へ移った。

 

「やっぱり持って帰るつもりだね?」

 

「味付けを変えて試す必要はあるだろう」

 

「それは食品会社でやるよ」

 

 リュシアは皿を自分の側へ引き寄せた。

 

「土産を持ってきた者にも、味を見る権利はあると思うのだがね」

 

「用途を決めるのは会社の仕事なんだろ?」

 

 真壁は答えず、出来上がった味噌汁の鍋を持ち上げた。

 

「冷める前に行こう」

 

「ずるい」

 

 

 

 昼時の共同商館は、いくつもの料理の匂いで満ちていた。

 

 焼いた肉。揚げた芋。香辛料を利かせた煮込み。客の声と食器の音が、高い天井の下で重なっている。

 

 フードコートの一角にいたヴァルトは、リュシアが置いた椀を見て鼻を動かした。

 

「味噌汁ですか」

 

「今日は出汁を変えたよ」

 

「澪さんが作るものとは違うのですか?」

 

「飲めば分かるってさ」

 

 リュシアは少し離れた場所にいる真壁を見た。真壁は別の卓で茶を飲みながら、こちらを見ている。

 

 ヴァルトは椀を持ち、まず一口飲んだ。

 

 すぐには何も言わない。

 

 もう一口飲み、口の中で味を確かめる。

 

「これは、うまいですね」

 

「本当に?」

 

「魚だけではありませんね」

 

「昆布だって」

 

「昆布まであったのですか」

 

 ヴァルトは椀を置くと、自分の収納へ手を入れた。

 

 取り出したのは、白米のおにぎりだった。正月に澪から分けてもらった米を炊き、塩を振って握ったものを、非常食として残していたのである。

 

 白いおにぎりを一口かじる。

 

 米を噛み、まだ口に甘みが残っているうちに味噌汁を飲んだ。

 

 昆布と小魚の味が染みた熱い汁を、米のやわらかな甘さが受け止める。味噌の塩気で、次の一口の米がまた欲しくなる。

 

 おにぎりを頬張る。

 

 味噌汁を飲む。

 

 椀を置く前に、またおにぎりへ手が伸びた。

 

「そんなに違うのかい?」

 

 リュシアが尋ねても、ヴァルトは食べながら頷くだけだった。

 

 おにぎりが半分になる。味噌汁も減る。リュシアが鍋から汁を足すと、ヴァルトは礼を言うより先に椀へ口をつけた。

 

 その目元が、いつの間にか少し濡れていた。

 

 涙が一筋、頬へ流れる。

 

 だが、ヴァルトは手を止めない。残りのおにぎりを食べ、味噌汁を飲み、自分の収納から二つ目を取り出した。

 

 近くの卓の客が、そんなにうまいのかと鍋の方を見る。

 

 リュシアはヴァルトを見た。

 

 次に真壁を見る。

 

 真壁は、何も言わず茶を飲んでいる。

 

 もう一度ヴァルトを見る。目元を濡らしたまま、二つ目のおにぎりを頬張っていた。

 

「……本当に泣いてる」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。