江古田のアパートの六畳間は、暖房を入れているのに指先だけが妙に乾いていた。
澪はマグカップを両手で包み、ぬるくなったコーヒーを一口飲んでからノートPCへ視線を戻した。机の左側には大学の講義資料、右側には押入商会のファイル。真ん中に置いたPCだけが、どちらにも属しているようで属していない。
大学生の机としては会社の書類が多すぎるし、会社の机としては教科書が邪魔だった。
窓の外を車が通り過ぎる。壁の向こうから生活音がして、冷蔵庫が低く唸った。
数日前まで、侯爵家だの王女だの、そんな肩書きを持つ人たちが当たり前のように目の前を歩いていた。戻ってきたら講義の資料は減っていなかったし、会社宛てのメールも律儀に増えていた。
異世界へ行っている間だけ、ゲンダイ側の時間が気を利かせて止まってくれればいいのに。
もちろん、止まらない。
受信箱を上から確認していた澪の指が、トラックパッドの上で止まった。
差出人は東都特殊金属試作。鷺沼佳樹。
「真壁さん。東都から資料が来てます」
六畳間の端で別の資料を読んでいた真壁が顔を上げた。
「見せてくれ」
澪はPCを真壁の方へ向けた。
メール本文は短かった。以前渡したフローライトについて、評価先から具体的な検討資料が出た。供給可能か相談したい。詳細は添付資料にまとめてある。
それだけなら、これまでの評価の続きに見える。
添付されたPDFを開いたところで、澪の目が止まった。
資料には「SFPモジュール」「送信側」「フローライト系材料」と並び、その下には寸法図まで載っている。
「……SFPって何ですか?」
知っているふりをしても、一文字も得をしない。
真壁はすぐには答えず、澪からマウスを受け取って数ページ先まで送った。図を一度戻し、用途欄を読み直してから口を開く。
「光通信の部品らしい。送信側だな」
「らしい、なんですね」
「私は光通信の技術者ではない」
そこは即答だった。
澪は少し安心した。真壁が何でも知っている人ではないという当たり前の事実を、時々こちらが忘れそうになる。知らない分野でも、知らないまま手を動かし始めるので余計にややこしい。
真壁は用途の説明を深追いせず、PDFを下へ送った。
真壁が拾っているのは、材質と寸法、それに数量と希望時期だった。画面のどこを見ているのか、澪にもすぐ分かった。
「直径1.25mm……長さ4mm」
澪は思わず画面へ顔を寄せた。
数字で見ると小さい。寸法図に描かれた円柱も、部品というより細い芯のように見える。
その次の欄を読んで、今度は顔を離した。
「年間最大0.5t?」
単位を見間違えたのかと思った。
もう一度見ても、本採用後の想定使用量として年間最大0.5t級と書かれていた。初回の量産数量は別途協議になっている。
真壁は机の端にあった紙を引き寄せ、シャープペンで数字を書き始める。大学の講義ノートの切れ端に、直径1.25mm、長さ4mm、年間最大0.5tと並んだ。
小さな円柱と0.5tが、澪の頭の中でどうしても同じ商品にならない。
「これ、本採用されたら年間で0.5t分をこの大きさにするって意味ですよね?」
「その可能性は高い。だが、まだ決めない方がいい」
真壁は資料の数量欄へカーソルを戻した。
「加工前の材料量なのか、加工済みの納品量なのか。年間0.5tという数字だけでは曖昧だ」
「あ」
同じ0.5tでも話が違う。
澪はマグカップへ手を伸ばしかけて、やめた。さっきまで大学の課題を片づけるつもりだったのに、机の中央ではもう光通信用の材料供給が始まりかけている。
真壁はPDFの先頭へ戻り、もう一度読み始めた。
珍しい石が欲しいという相談から、もう一段階進んでいる。寸法も量も時期も示されていた。
前に渡したフローライトが、いつの間にか「評価してみたい材料」から「この形で供給できるかを聞かれる材料」へ変わっていた。
澪は教科書を少しだけ左へ押した。
どうやら今日は、大学の机の面積がまた負けるらしい。
真壁はPDFの用途欄へ戻った。
SFPモジュールの送信側。光信号を送り出す側に使う部品らしい。
澪には、その一文だけで十分だった。そこから先を分かったふりで追いかければ、たぶん半日が消える。光通信の勉強を始める日ではない。今は東都が何を欲しがっているのかを外さない方が先だ。
「年間0.5t分の材料があるかどうか見ればいいんじゃないんですか?」
自分で言ってから、たぶん違うなと思った。
真壁が紙へ引いた線の左側に「納品」、右側に「原料」と書いたからだ。
「年間0.5tが加工済みの納品量なら、それだけでは足りない」
「加工で減るからですか」
「そうだ」
真壁は寸法図を見たまま、数字の横に短い書き込みを足していく。
大きな結晶から細い円柱を取れば、全部が部品になるわけではない。切り出せない部分も出る。加工中に欠ける物もある。寸法から外れれば、そのまま納めるわけにはいかない。
そこまでは澪にも分かる。
真壁のペンはそこで止まらなかった。
「欠けを減らすなら、切ったままでは渡せんな」
「東都で仕上げるんですよね?」
「最終仕上げは向こうだ。だが、向こうが触った時点で端から欠ける状態なら、こちらの加工が悪い」
澪は画面の小さな円柱を見直した。
直径1.25mm。
数字だけならただの寸法だったのに、急に扱いにくそうな物に見えてきた。
「端を整えるんですか?」
「エッジは処理した方がいい。端面も加工傷を残さないところまでは持っていく。ただし、光学面の最終研磨まではしない」
「東都が最後に仕上げやすい状態まで?」
「それがいい」
真壁はそこで初めて澪を見た。
「こちらが全部やればよいという話ではない。どこまでこちらで処理すれば、向こうの歩留まりが上がるかだ」
その言い方なら澪にも納得しやすかった。
何でも収納の中で完成品にしてしまえば便利、ではない。東都には東都の工程があり、その先の製造会社にも工程がある。押入商会が勝手にそこまで抱え込めば、責任の境目まで曖昧になる。
真壁は紙を裏返した。
「それと、もう一つ聞く」
「まだあります?」
「向こうで何個壊れるかだ」
澪は眉を寄せた。
「それも、こっちの原料に足すんですか?」
「違う」
返事が早かった。
真壁はさきほど引いた線を指で叩いた。
「こちらが年間0.5tを供給するための損耗と、向こうが年間0.5tで足りるかどうかは別だ」
澪の中でも、やっと数字が二つに分かれた。
押入商会が完成した規格品を年間0.5t供給するなら、加工中に減る分を見越して原料を多めに用意する必要がある。
一方、東都やその先の会社が最終研磨や組み込みで壊す分は、押入商会の加工歩留まりではない。それでも相手が最終的に必要な数を満たすには、年間で何kg注文すべきかに関わってくる。
「じゃあ、年間0.5tって言われても、向こうの予備まで入ってるか分からないんですね」
「その通りだ。交換分まで見込んだ数字かもしれないし、そうでないかもしれない」
真壁はその横に小さく「先方」と書いた。
「ここは鷺沼さんに聞こう」
澪はスマートフォンへ手を伸ばしかけたが、真壁はまだ紙を見ていた。
「今ですか?」
「その前に、こちらの数字を出す」
また嫌な予感がした。
澪の目の前では、問い合わせのPDFを開いてからまだそれほど時間が経っていない。
なのに真壁の紙には、もう相手へ聞くことと、自分たちで試すことが分かれていた。
澪は冷めたコーヒーを飲んだ。
味まで少し仕事寄りになった気がした。
真壁は紙を置くと、今度は収納へ意識を向けた。
薄い靄が机の脇に薄く浮かび、すぐに消える。
「真壁さん、何してるんですか?」
「試している」
澪は椅子から半分立ち上がった。
嫌な予感というのは、たいてい当たるから嫌な予感と呼ばれる。
真壁が引き出した透明なケースには、フローライトの試料がいくつか入っていた。どれも以前、東都へ渡した評価品に近い物だ。真壁は鑑定で純度と微量成分を見比べ、条件の揃う物だけを別に寄せていく。
「ちょっと待ってください」
止めるのが遅かったらしい。
真壁は収納内の加工区画を動かし始めていた。机の端へマウスとキーボードを寄せ、加工機器の画面を切り替える。材料はまだケース一つ分にも満たない。0.5tどころか、少量試作と呼んで差し支えない量ではある。
問題は、そこではなかった。
「まだ発注されてませんよ」
「だからだ」
真壁は画面から目を離さない。
澪の言葉だけが六畳間に置いていかれた。
「……だから?」
「できると返事をしてから、できないでは困る」
ものすごく正しいことを言われた。
正しいのだが、問い合わせ資料を開いてから試作開始までが短すぎる。
澪は座り直した。
「0.5t作ったりしませんよね?」
そこで真壁がようやくこちらを見た。
「正式発注前だ。そこまでは作らん」
「そこは分かってるんですね」
「何を心配している」
澪は答えなかった。
真壁はすでに作業へ戻っている。
最初に選んだ材料から、規格より少し余裕を持たせた細い素材が切り出された。それを円柱へ整え、長さを4mmへ詰める。加工を終えた物がトレーへ移されるたび、澪の目には米粒より頼りなく見えた。
真壁は1本を測定器へ置き、外径を読んでから向きを変えてもう一度測った。続いて長さを確かめ、照明の下で端を見る。
「一本、端が欠けた」
声に落胆はなかった。
真壁は欠けた物を良品のトレーへ戻さず、別に置いた。
「これ、失敗ですか?」
「このままならな」
加工条件を少し変え、次の試料へ進む。
澪は横から見ているうちに、真壁が単に1.25mmと4mmを作ろうとしているのではないことに気づいた。
切った端が鋭いままなら、東都側で扱った時に欠けやすい。そこで縁をわずかに整える。端面も切断痕を残したままにはせず、後工程で最終研磨しやすいところまで表面を整えた。
ただし、鏡のような光学面にはしない。
「ここから先は東都側、ですか」
「そうだ。面精度や平行度までこちらで保証する話ではない」
「コーティングも?」
「しない」
「組み込みも?」
「しない」
返事が続くほど、澪は少し安心した。
真壁にも、やらない工程がちゃんとあった。
もっとも、それはできないからではなく、相手の仕事だからやらないだけなのだろう。そこまで考えて、安心していい部分が少し減った。
次の試料では、端の欠けが目立たなかった。
真壁は加工前の材料と加工後の良品を量り、途中で除いた物も別に置く。測定値を入力しながら、加工条件を一つずつ変えていった。
寸法だけ合えば終わりではない。
外から見える欠け、内部に走る細い割れ、端面の傷。人の目で見落としそうな物は鑑定も併用して弾く。良品、もう一度手を入れれば使える物、使わない物が、収納の分類で別々に収まっていく。
「全数見るんですか?」
「正式に受けるならな」
「0.5t全部?」
「検査工程を組む。人が一個ずつ眺めるわけではない」
それを聞いても、澪の頭には細い円柱が延々と流れていく光景しか浮かばなかった。
真壁は試料を一つつまみ、照明へかざした。
「この状態なら、東都側で最終研磨へ回しやすい」
「同じ状態をずっと作れます?」
「それを今見ている」
今度は澪も止めなかった。
止める理由がなくなったともいう。
加工条件を変えた試料がいくつか並ぶ頃には、最初に欠けた1本だけが、少し離れた場所に残っていた。
真壁はそれを捨てず、画面上の条件と見比べたあと、机の紙へ目を戻した。
「澪君、鷺沼さんへ電話を頼む」
澪はスマートフォンを手に取り、鷺沼の番号を呼び出した。
かける前に、真壁の紙をもう一度読む。
年間0.5tの意味。先方工程の損耗。予備を含むか。それと、初回の量産数量。
さっきまで同じ「減る量」に見えていたものが、今は別の質問に見える。
「これでいいですか?」
「いい。まず年間0.5tの意味を聞いてくれ」
澪が発信すると、数回の呼び出し音のあとで鷺沼が出た。
「はい、東都特殊金属試作 鷺沼です」
「押入商会の篠原です。いつもお世話になっています。資料、確認しました」
「ああ、篠原さん。早速ありがとうございます」
澪は真壁が隣にいることを伝え、スマートフォンをスピーカーへ切り替えた。真壁は口を挟まず、試作品の入った透明ケースとPDFを交互に見ている。
「最初に数量なんですけど、資料の年間最大0.5tって、加工した後の規格品を年間で納める量の想定で合ってますか?」
「はい。本採用になった場合の年間想定です。原料の投入量ではなく、加工済みで納めてもらう重量です。最初から0.5tを一括で、という話ではありません」
澪は紙の「年間0.5t」の横へ丸をつけた。
これで真壁が気にしていた一つ目は決まった。押入商会側で加工中に失う分は、年間0.5tとは別に原料へ乗せなければならない。
「もう一ついいですか。東都さんで最終研磨したり、その先で組み込んだりする時に、どれくらい破損が出るかって分かります?」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「評価時の数字はあります。ただ、量産を想定した数字としてそのまま使っていいかは確認した方がいいですね」
適当な数字が返ってこなかったことに、澪は少しだけ安心した。
「初期不良とか、交換用の予備も年間0.5tの想定に入ってますか?」
「そこも評価先へ確認します。今回の資料は、本採用になった時に年間0.5t級まで供給できるかを見るために作られています。初回の量産数量は別ですし、年間の実発注量も予備分を含めて変わる可能性があります」
澪は真壁を見る。
真壁は頷く代わりに、紙の「先方」の下へ一本線を引いた。
「真壁さん、今のところ大丈夫ですか?」
「十分だ」
声が入ったので、鷺沼が少し間を置いた。
「真壁さんも一緒なんですね」
「はい。さっきから加工の方を……」
澪は言いかけて止まった。
まだ発注されていないのに試作している、と取引先へ自分から説明する必要があるだろうか。
横を見ると、真壁はまったく気にしていない。
「供給できるか回答する前に、少量だけ加工条件を見ています」
結局、普通に言った。
「もう試されてるんですか」
鷺沼の声は驚くというより、少しだけ速度が落ちた。
「少量です。0.5tは作ってません」
澪はなぜかそこを強調した。
真壁がこちらを見たが、何も言わなかった。
「加工後の欠けや端面の状態も見ています。最終光学研磨までこちらでやる予定ではありません」
今度は真壁が補った。
「東都側で仕上げる工程を残した状態で、どこまで整えて渡せるかを見ています」
「それなら助かります。切断直後の状態からこちらで全部持つより、評価もしやすいです」
鷺沼は即決せず、続けた。
「ただ、端面の状態や受入条件は先方とも合わせます。そこは正式条件に入れましょう」
「お願いします」
澪はメモの余白に「端面条件」と書き足した。
電話の向こうで、鷺沼が別の書類をめくる音がした。
「それと篠原さん、ちょうどお伝えしておきたいことがありまして」
「春から、この手の特殊材料を扱う新しい部門を立ち上げる話になっています」
澪はペン先を止めた。
「新しい部門ですか?」
「ええ。まだ正式名称までお話しできる段階ではないんですが、評価案件が増えてきまして。今の体制だと、試作と材料調達の間を行ったり来たりすることが多いんです」
電話の向こうでキーボードを打つ音がする。誰かが遠くで鷺沼を呼び、すぐに別の声へ紛れた。
澪が想像していた「新部門」は、もっと派手なものだった。
新しい看板が出て、大勢の人が集まって、何か大きな発表があるようなもの。
実際に聞こえてくるのは、いつもの事務所らしい音だった。
「鷺沼さんも、そっちへ移るんですか?」
「その予定です」
「じゃあ、昇進ですか?」
一拍あいた。
「そういうことにはなりますね」
自慢する調子はまるでなかった。
むしろ鷺沼の頭の中では、肩書きより先に増える仕事の方を数えているように聞こえる。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。まだ春からですけどね」
真壁もスピーカー越しに声を出した。
「それは良かった」
「ありがとうございます、真壁さん」
短い祝辞で終わったと思ったら、真壁はすぐ仕事へ戻った。
「窓口が変わらないなら助かる」
澪は横目で見た。
この人は本当に、昇進の話を数秒で取引条件へ戻す。
鷺沼は気を悪くした様子もなく笑った。
「私もその方がやりやすいです。今回みたいな材料は、一件終わって終わりというより、評価先が変わるたびに条件も変わりますから」
「国内だけですか?」
澪が聞くと、鷺沼は少し慎重な間を置いた。
「今のところ国内の評価が先です。ただ、今後は海外を含めた問い合わせへ対応する可能性はあります。そこまで行くかは、まず今回みたいな案件をきちんと回せるかでしょう」
「分かりました」
その答えなら、澪にも理解できた。
いきなり世界へ売りに行く話ではない。まず今ある1件を、規格通りに作って、納めて、次も同じ品質で出せるようにする。
以前、真壁が東都そのものも大きくなるかもしれないと言っていた時、澪にはまだ話が先に飛びすぎているように見えていた。
けれど電話の向こうでは、本当に席を増やす準備が始まっているらしい。
澪は机の上を見た。
講義資料の横に、細いフローライトの試作品が数本ある。
会社が新しい部門を作るきっかけの一つが、この小ささなのだと思うと、どうにも釣り合いが取れていない。
「それで、もう一つ確認したいんですが」
鷺沼の声が、また実務の調子へ戻った。
「本採用になった場合、年間0.5tくらいまで増えても対応できますか。それと、最初の量産を2月中に立ち上げられそうでしょうか」
鷺沼の問いに、真壁はすぐ返事をしなかった。
澪は少し意外に思って横を見る。
真壁は机の上の試作品ではなく、PCに残した加工結果を開いていた。最初に欠けた物、条件を変えた後の物、加工前後の重量。それから収納内にある原料へ意識を向ける。
マウスを数回動かし、別の画面を呼び出した。
「真壁さん?」
「待ってくれ」
短い返事だった。
0.5tという数字だけなら、真壁はもっと早く答えられたのだと思う。
けれど今聞かれているのは、フローライトを500kg持っているかではない。さっき試した仕上げを同じ条件で繰り返し、本採用後に年間0.5t級まで供給を伸ばせるかだ。さらに、最初の量産を2月中に始められるかも見られている。
澪は透明ケースへ目を落とした。
中にあるのは、まだ数本の試作品だけだった。
「初回の数量は、まだ決まってないんですよね?」
「はい。そこは評価先と詰めます。いきなり年間分をまとめて、という話ではありません」
真壁の視線が加工結果の欄を一度上から下まで走った。
「できる」
澪は真壁を見たが、今度は聞き返さなかった。
「年間0.5tまで増えても、ですか?」
「資料の規格でよいなら年間0.5tまで対応できます。初回も2月中に立ち上げられます」
電話の向こうが一瞬だけ静かになった。
「加工済みで、ですよね」
「そうです」
答えたのは澪だった。
自分で言っておきながら、机の上の数本と年間0.5tがまだ結びつかない。
真壁はそれを気にせず、条件を続けた。
「ただし、正式発注日と納品日は決めてください。検査基準も必要です。端面をどの状態で受けるか、梱包条件も合わせたい」
「分かりました」
「こちらで保証するのは、納める材料の品質と規格、それに決めたロット条件までです。最終研磨後の光学性能や、モジュールへ組み込んだ後の性能までは持てません」
鷺沼は少し間を置いてから答えた。
「そこは分けましょう。こちらも完成モジュールの性能まで押入商会さんへ持ってもらうつもりはありません」
澪はメモの端に線を引いた。
責任の境目が言葉になっただけで、少し気が楽になる。
異世界なら収納で運べる、鑑定で見られる、真壁なら加工できる。その便利さに押されると、どこまで自分たちが責任を持つのかまで一緒に広がりそうになる。
ゲンダイの会社相手なら、そこは曖昧にしない方がいい。
「梱包も、今の試作品みたいにまとめて入れるわけじゃないですよね」
澪が透明ケースを指すと、真壁はケースを見て首を振った。
「接触させない荷姿にする。数量と先方の受入方法が決まってから詰めよう」
「そこは物流条件にも入れます」
鷺沼もすぐに応じた。
真壁は試作品の一つをケースから出し、指先ではなくピンセットで持ち上げた。
照明の下では、細い円柱が一瞬だけ白く光った。
それ一つなら、机の隙間へ落としたら探すのが嫌になる大きさだ。
本採用なら、それを年間で0.5tまで。
澪は数字の横にある小さな試作品を見て、考えるのを一度やめた。
代わりにメモの下へ「価格」とだけ書き、その文字を四角で囲んだ。
「では、供給可能という前提で、こちらで正式な条件を詰めます」
鷺沼の声は、最初に電話した時より少しだけ仕事が増えた人の声になっていた。
「年間最大0.5tを供給枠の目安にします。初回の数量は先方と詰めますし、年間の実発注量も予備分を含めるかで動くかもしれません。端面の受入状態、検査条件、梱包、それと納期ですね。まとまったら改めて送ります」
「お願いします」
澪は返事をしながら、メモの下へ目を落とした。
価格の欄はまだ空いている。
加工費も、梱包費も、どこまで検査を求められるかで変わる。そこを曖昧にしたまま、以前の材料価格だけで話を進めるつもりはなかった。今使っている部品の調達価格や、今回の材料でどこまで性能と歩留まりが変わったのかも聞いてから決める必要がある。
「あと、発注書が来てから作り始めればいいんですよね?」
一応、聞いた。
「もちろんです」
鷺沼は即答した。
澪はゆっくり真壁を見る。
真壁は試作品の測定結果を見ていた。
「工程は分かった」
「だから、まだ作らないでくださいね」
「分かっている」
返事はいつも通り短い。
澪は数秒待った。
「本当にですよ」
「澪君」
「はい」
「正式発注前だ。作らん」
余計なことは言わなかった。
そのせいで、むしろ澪の方が念を押しすぎたような気分になる。
電話の向こうで鷺沼が小さく咳払いした。聞こえていたらしい。
「では、こちらは条件がまとまり次第ご連絡します」
「はい。よろしくお願いします」
通話が切れた。
急に六畳間へ冷蔵庫と暖房の音が戻ってくる。
澪はスマートフォンを机へ置き、散らばった紙を手元へ寄せた。受信した資料、電話中に書いたメモ、真壁が試した加工条件。最初は「年間0.5t」としか見えていなかった案件が、紙の上ではいくつもの未決定事項に分かれている。
けれど、今埋めるものではない。
東都から正式な条件が届けば、価格を決める。金額と契約内容が見えてから、必要なら明石にも相談する。加工費も梱包も、その時に条件へ入れればいい。
澪はそこで手を止めた。
今の自分は、まだ届いてもいない発注書の後を考えている。
人のことを言えない気がしてきた。
「真壁さん」
「何だ」
「私も先走ってます?」
真壁は加工画面から澪へ視線を移した。
「契約条件を考えるのは澪君の役目だ」
「そういうことにしておきます」
澪は資料を会社側のファイルへまとめ、試作品のケースには手を出さなかった。真壁も量産分の原料を動かすことはなく、試作に使った条件だけを残して加工画面を閉じる。
それを見届けてから、澪は端へ追いやられていた大学の教科書を机の中央へ戻した。
戻せたのは、三分の一くらいだった。
フローライト(蛍石、フッ化カルシウム:CaF₂)は、紫外線から赤外線までの広い波長域の光をよく通し、異常部分分散性や優れた屈折特性を持つため、高性能なカメラレンズ、望遠鏡、半導体露光装置の光学部品(レンズなど)に利用されています。 なるほど。