2027年2月20日、土曜日。
江古田のアパートの六畳間には、冬の朝らしい淡い光がカーテンの隙間から差し込んでいた。暖房の風が低く鳴り、テーブルの上ではノートPCの画面とスマートフォンの黒い画面が並んでいる。
そのスマートフォンが短く震えた。
澪はマグカップへ伸ばしかけた手を止め、画面を起こした。
RightInの通知だった。
『お誕生日おめでとうございます!』
送ってきたのは理央だった。
続けて、間を置かずにもう1件届く。
『今日の夜、お父さんとお母さんと真壁さんと一緒にご飯行きませんか?』
さらに店と時間、待ち合わせについてのメッセージまで続いた。最初からそのつもりで準備していたらしい。
澪は画面を見たまま、口元が緩むのを自覚した。
誕生日を隠していたわけではない。ただ、自分から積極的に知らせてもいなかった。大学でも会社でも、わざわざ誕生日を話題にするようなことはしていない。
それなのに覚えていてくれた。
『ありがとうございます。行きます』
そう返したあと、少し考えてから笑顔のスタンプを1つ付けた。普段なら文章だけで済ませるところだったので、送信してから自分でも少し気恥ずかしい。
顔を上げると、六畳間の反対側では真壁が古い映画を見ていた。
画面の中では、色の抜けた映像の中を男たちが歩いている。その台詞に重なるように、ときどきマウスのクリック音がした。
映画だけを見ているわけではない。
真壁は収納内の加工区画で、先日の少量試作を続けていた。正式発注前なので量産はしない。規格どおりに切り出せるか、欠けが出ないかを見る分だけだ。
映画の場面が変わる。
真壁は画面を見たままだった。
数秒後、PCの端に出ていた測定値へ視線だけを移し、マウスを2回動かしてから、また映画へ戻る。
澪はそこを見てしまった。
並行思考は持っていないはずなのだが。
一定数ごとに結果へ目を戻しているだけなのは分かる。
分かるのと、自分にできるのは別だった。
「真壁さん」
「何だ」
「フローライトの方、どうですか?」
真壁の視線が一度だけPCへ移った。
「動いている。問題はない」
「映画も?」
「こちらも問題ない」
そちらは聞いていない。
澪が返事を探している間に、真壁はもう映画へ視線を戻していた。
テーブルの端では、さらに別の時間が流れている。
古い燭台の神様の前に、新しく持ち込んだ小説が開かれていた。ページの横にはシロガネが座り、白い前脚を揃えて本を覗き込んでいる。燭台の淡い光が紙面を照らし、シロガネの耳だけが、ときどき映画の音へ向いた。
神様と白猫が一緒に小説を読んでいる。
見慣れたつもりだったが、改めて考えると意味が分からない。
スマートフォンがまた震えた。
『楽しみにしてます!』
理央からだった。
澪は今度はすぐに返信し、それから真壁へ夜の店と時間を伝えた。
「承知した」
真壁は短く答えると、ちょうど表示が切り替わった加工結果へ目をやった。数値を見て一度手を止め、条件を1か所だけ直す。それが済むと、何事もなかったように映画へ戻った。
暖房の送風音。古い映画の台詞。マウスのクリック音。紙をめくる音。
大学の資料が置かれた机の横で会社の試作品が作られ、その隣では神様と白猫が小説を読んでいる。
朝からいつもどおりだった。
ただ、スマートフォンの画面には、まだ理央の『お誕生日おめでとうございます!』が残っている。
澪はそれをもう一度だけ見てから、スマートフォンを伏せた。
今日は、少しだけいつもと違う土曜日になりそうだった。
夜の待ち合わせまでは、まだずいぶん時間があった。
真壁は映画と少量試作の続きをしている。燭台の神様とシロガネも、さっきから小説の同じページを仲良く覗いていた。
澪だけが手持ち無沙汰になった。
大学の課題を開こうかと思って、やめた。
誕生日の午前中にまでレポートへ向かう必要はないだろう。たぶん。
代わりに、収納から彫金道具を出した。
小さな金槌、ヤットコ、ヤスリ、石留めに使う道具。机の上へ並べると、金属同士が触れる乾いた音がした。使うのは久しぶりでも、手に取った感触はすぐ戻ってくる。
材料にはコランダムを選んだ。
青く発色を整えれば、人工サファイアとして使える。天然石のように色の個体差へ悩まされず、自分で揃えられるのも都合がいい。
まずは1個だけ。
大きすぎず、服につけても邪魔にならない石を選び、台座を合わせた。飾りを増やせば華やかにはなるが、普段使いするなら引っ掛かる部分は少ない方がいい。線を一本減らし、石の周りだけに細い縁を残す。
ヤスリを動かすたび、指先へ細かな振動が返ってくる。
横では映画の台詞が流れ、その向こうでは紙をめくる音がする。
何度か角度を変え、留め具の動きを確かめてから、澪は完成したブローチを掌へ載せた。
照明を受けた青が、思っていたよりきれいだった。
「これなら、もう何個か作ってもいいかな」
独り言のつもりだった。
言ってから、理央の顔が浮かんだ。
夜に会うなら、1個渡してもいい。
その次に妙子が浮かぶ。
そこまで考えたところで、リュシアも似合いそうだと思った。セルマは仕事中につけることは少なそうだが、休みの日なら使うかもしれない。エレナなら、まず石を光へ透かして見そうだ。
澪は指を折り始めた。
「理央ちゃん、妙子さん、リュシアさん……セルマさん、エレナ様」
指が足りなくなった。
セレスティナ。クララ。マルグリット。シスターサリア。
押入商会の事業所にも、渡したい人がいる。
考え始めると、増える方ばかりだった。
最初の1個を作った時には、自分用か誰か1人へ渡す程度のつもりだったはずなのに、気づけば机の上には小さな紙片が置かれ、名前が増えている。
澪はもう一度数えた。
「……20個あれば足りますよね」
映画を見ていた真壁が、画面から目を離さずに答えた。
「余れば困るものでもあるまい」
「余る前提じゃないんですけど」
「なら、なおさら問題はない」
そういう話だろうか。
ただ、19個追加すること自体は嫌ではなかった。
澪は最初のブローチを机の中央へ置き、その寸法を基準に部材を揃え始めた。石は同じ大きさへ。台座も留め具も、最初の1個から外れないように合わせる。
収納は便利だった。
加工前の部材と組み立て待ちを混ぜずに置けるし、同じ寸法の物をまとめて出せる。途中まで進めた部品を机いっぱいに広げなくてもいい。
ただし、彫金そのものを代わってくれるわけではない。
石を留める時には手で力加減を見なければならないし、金属の縁に指を滑らせれば、削り足りないところはすぐ分かる。
最初の数個は、並べると石座の高さや留め具の抵抗に小さな差が出た。そのたびに削り直し、手で触れて揃えていく。数を重ねるうちに、考えるより先に指が次の道具へ伸びるようになった。
同じ物を作っているのに、単純作業にはならない。石を傾けた時の光、金属の縁、留め具の抵抗が1個ずつ違う。
時間が経つにつれ、机の上の青が増えていった。
真壁が映画を1本見終える頃には、完成した物と途中の物がはっきり分かれている。
最後に、贈る時の小箱も作った。
中でブローチが動かないよう寸法を合わせ、開けた時に石が正面を向くように収める。そこまで揃えて初めて、渡せる物になった気がした。
20個目を箱へ入れ、澪は肩を回した。
始める前より机の上は片づいているのに、収納の中には青い小箱が20個並んでいる。
いつの間に、こんなに渡したい人が増えたんだろう。
その疑問は悪いものではなかった。
澪は最後の箱の蓋を閉じた。
20個の小箱を閉じる前に、澪はブローチをもう一度机へ並べた。
青い石も台座も留め具も同じ形で揃えてあり、作った本人でも遠目にはほとんど違いが分からない。
念のため、端から順に鑑定を掛けていく。
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サファイアのブローチ
品質:☆4
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次も☆4。その次も同じだった。
19個目まで来て、澪の目もほとんど流れ作業になりかけていた。
最後の1個へ鑑定を掛ける。
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サファイアのブローチ
品質:☆5
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「……え?」
澪はその1個を摘まみ上げ、隣の☆4と並べ直した。石の色も、金属の仕上がりも、大きく違って見えない。作った順番を思い返しても、特別なことをした覚えはなかった。
もう一度鑑定する。
やはり☆5だった。
「同じように作ったんですけどね……」
横から真壁が一度だけ目を向けた。
「なら、それが一番よく出来たということだろう」
「理由が雑じゃないですか?」
「結果は出ている」
確かに出ている。
澪はしばらく2個を見比べ、それから☆5の方を自分の前へ置いた。
人へ渡すなら☆4でも十分すぎる。むしろ、作った本人が一番出来の良い物を持っていれば、同じ物を渡す時にも説明しやすい。
そう考えて納得しかけたところで、机の端から淡い光が揺れた。
燭台の神様だった。
すぐ横にいたシロガネが本から顔を上げる。燭台の光が小さく揺れ、シロガネが青いブローチを見る。次にシロガネが燭台へ顔を向け、またブローチへ戻した。
何度かそれを繰り返した。
澪は手に持っていた☆5を、そっと自分の側へ引き寄せた。
「2人で付けるのは駄目ですからね」
燭台の光が止まり、シロガネまで同時に動きを止めた。ものすごく分かりやすい。
「前にもやりましたよね」
以前、理央へ渡したアクセサリーに2柱がそれぞれ加護を付けた時のことを、澪は忘れていない。善意しかなかったのは分かっている。分かっているからこそ、今回も同じ勢いで進められると困る。
シロガネが澪を見上げ、その横で燭台の光がゆっくりと1度だけ揺れた。
「どちらか1人です」
しばらく映画の音だけが六畳間に流れたあと、シロガネが一歩下がって前脚を揃えた。どうやら今回は譲ったらしい。
「シロガネ、ありがとう」
白猫は尻尾を一度だけ床へ打ちつけた。
澪は☆5のブローチを燭台の前へ置いた。
淡い光が青い石へ落ち、一瞬だけサファイアの奥に灯りが入ったように見えた。
消えてから、澪はブローチを取り上げ、もう一度鑑定する。
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サファイアのブローチ
品質:☆5
加護:安息5
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「5……」
見覚えのある加護だったが、数字がずいぶん大きい。
澪が「安息5」へ意識を向ける。
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安息5
休息時の回復効率を大きく高める。
睡眠時に最も効果が高い。
短時間の仮眠や休憩でも効果を得られる。
身体疲労、精神疲労、集中力の消耗の回復を促進する。
本人が休息しなければ作用しない。
病気・外傷そのものの治療効果はない。
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「……やっぱりちゃんと休めってことですね」
燭台の光が1度だけ揺れた。澪には、肯定されたように見えた。
働きながら疲れを消してくれる加護ではない。そこだけは、以前の安息と変わっていなかった。
澪はブローチを指先で裏返した。留め具は自分で作った物なのに、さっきまでとは少し違って見える。
自分で作った誕生日のブローチに、神様から誕生日の加護をもらった。
考えてみれば、かなり変な話だった。
でも、嬉しいものは嬉しい。
澪は上着の胸元へ☆5のブローチを留めた。
青い石は冬の朝の光を受け、控えめに光った。
残った19個は小箱へ戻した。誰かへ渡すための青い箱が並ぶ中、胸元の1個だけが自分の物になった。
昼を過ぎたころ、澪は異世界側へ移った。
領都の空気は、江古田より刺すように冷たかった。建物の影には薄く霜が残り、通りでは荷車の車輪と、人の呼び声が重なっている。
胸元には朝の☆5ブローチ。収納には、青い小箱が並んでいた。
最初に向かったのはリュシア商会だった。
店の奥で荷の受け渡しを見ていたリュシアは、澪の胸元へ一度目を留めてから、差し出された小箱へ視線を落とした。
「何だい、これ」
「ブローチ。作ったから、リュシアさんにも」
蓋を開けると、青いサファイアが店内の明かりを返した。
リュシアは石へ目を落とし、それから澪の顔を見直した。
「今日はミオの誕生日じゃないのかい?」
「そうなんだけど、作ったから」
「いや、そうなんだけどじゃなくてね」
呆れたように言いながらも、リュシアは箱を閉じなかった。指先で留め具を確かめ、服の胸元へ当ててみる。
「……まあ、もらうけどさ」
「どうぞ」
「誕生日の本人から品をもらうって、何か順番がおかしくないかい?」
言われてみればそうかもしれない。
でも、作った物を渡したかっただけなのだから、澪の中ではそれほど不思議でもなかった。
リュシアはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、最後には小箱を自分の側へ寄せた。
その動きを見たら、次へ持っていくのが楽しみになった。
新セルマ工房へ入ると、乾いた薬草の匂いと、金属器具の触れ合う音が迎えた。
セルマは作業台の上で瓶を並べていた。澪が小箱を置くと、まず箱ではなく澪の胸元へ目を向けた。
「同じ物?」
「基本は同じです。こっちはセルマさんに」
セルマは蓋を開け、石より先に金具の裏へ目をやった。指で留め具を動かし、引っ掛かりがないことを確かめてから表へ返す。
「あなたが作ったのね」
「はい」
「なら、もらうわ」
返事はそれだけだったが、作りを見てから受け取ってくれたのがセルマらしかった。
押入商会の事業所では、マルテが机の上の紙を揃えていた。
澪が小箱を3つ出すと、マルテは反射的に3つの数を確かめた。
「こちらは、どなたへ渡せばいいですか?」
「マルテさんと、ミラさんと、ピナさんです」
向こうで作業していた2人の手が止まった。
ミラは自分の名前を聞いてから澪を見直し、ピナは小箱を受け取る時まで両手をきちんと空けてから近づいてくる。
「私たちにも、ですか?」
「いつも手伝ってもらってるから」
ミラは蓋を開けたまましばらく青い石を見つめ、ピナは箱の中でブローチが動かないように収まっていることの方へ先に気づいた。
「これ、箱も合わせてあります」
「そこ見るんだ」
澪が笑うと、ピナは困ったように眉を寄せた。
マルテは2人を見てから、自分の箱も開けた。いつもの淡々とした表情が、わずかに緩んだ。
それで十分だった。
孤児院へ近づくと、今度は子どもたちの声が先に聞こえた。
扉の内側は外より暖かく、洗った布の匂いと、食事の支度らしい湯気が混じっている。
シスターサリアとクララを見つけ、澪は小箱を1つずつ差し出した。
「私たちに?」
サリアはすぐには手を出さなかった。
「はい。お2人に」
「でも、これは……」
「人工のサファイアです。私が作った物なので、受け取ってください」
高価かどうかを説明したいわけではなかった。遠慮されると、その方が困る。
クララが箱の中を覗き込み、青い石を眺めたあと澪へ目を戻した。
「本当に、いただいても?」
「そのつもりで持ってきました」
そこでようやく、サリアも箱を受け取った。
「では、大切に使います」
クララも小さく笑って同じように胸元へ箱を抱えた。
背後では子どもたちが何をもらったのか気になって仕方がないらしく、何人かがこちらを覗いている。
澪はその視線に気づき、慌てて箱を閉じた。
今日は全員分を作ってきたわけではない。
最後に侯爵家へ寄るころには、冬の日はだいぶ傾いていた。
商会や工房とは違い、建物の中へ入ると足音まで控えめに響く。
エレナ、セレスティナ、マルグリットへそれぞれ箱を渡すと、真っ先に蓋を開けたのはやはりエレナだった。
「澪、これを作ったのか?」
「はい。自分で作った物です」
エレナは青い石を光へ向けて角度を変えた。予想どおりだった。
セレスティナは石だけでなく台座まで見て、柔らかく笑う。
「普段につけやすそうですね」
「そのつもりで作りました」
マルグリットも丁寧に箱を開け、細工へ目を留めてから礼を返した。
天然の宝石ではないと説明しても、3人ともそこで価値を下げる様子はなかった。むしろ、澪自身が手を動かして揃えたことの方を面白がっている。
侯爵家を出ると、外はもう夕方の色になっていた。
朝、20個も作る必要があるのかと思ったはずなのに、収納の中から小箱が減っていくたび、次の相手へ渡すのが楽しみになっていた。
誕生日なのは自分である。
その事実だけ、午後のあいだ何度か置いていかれた気がした。
侯爵家を出たあと、澪は領都の通りを戻っていた。
冬の日は低く、建物の間へ長い影を落としている。収納にはまだ小箱が残っているものの、朝よりはずいぶん減っていた。
人へ渡すために持ってきた物ばかりだ。
「澪さん」
呼ばれて振り向くと、ヴァルトがいた。
「ヴァルトさん。こんにちは」
「ちょうどよかった」
ヴァルトはいつものように大げさな前置きをせず、持っていた包みを澪へ差し出した。
「お誕生日、おめでとうございます。私からです」
澪は一瞬、差し出された物とヴァルトの顔を見比べた。
「私に?」
「ええ」
今日は朝から、自分が箱を差し出してばかりだった。
逆向きに品物が出てくるだけで、こんなに戸惑うとは思わなかった。
「ありがとうございます」
受け取って包みを開くと、中にはヴァルトが用意した魔道具が収められていた。
澪はそっと手に取り、壊さないよう確かめる。見覚えのある既製品を渡されたのではなく、ヴァルトが自分の専門から選んだ物だということだけは、その作りから伝わってきた。
「使う物を選びました。飾っておくより、その方が澪さんには合うでしょう」
「はい。大事に使います」
値段を聞く言葉は出てこなかった。
いつもなら先に気になりそうなのに、今日はそれより、自分のために用意してくれていたことの方が残った。
ヴァルトは澪の胸元へ目を向けた。
「そのブローチも、今日の品ですか?」
「これは自分で作ったんです。そこに燭台の神様から加護をもらいました」
「なるほど」
ヴァルトはそれ以上、加護の中身を聞かなかった。
その距離の取り方もヴァルトらしい。
澪は魔道具を包み直し、ほかの小箱と混ざらないよう収納へ収めた。
午後のあいだ減り続けていた収納の中身に、初めて自分宛ての物が増えた。
それだけで、胸元の青い石まで少し温かくなったような気がした。
異世界側での用事を終え、澪が江古田の六畳間へ戻った時には、窓の外がもう夕方の色へ変わり始めていた。
上着を脱いで椅子へ腰を下ろす。
朝から彫金をして、午後は領都を歩き回った。それなりに疲れているはずなのに、身体の重さが思ったほど残っていない。
胸元のブローチへ指が触れた。
「これ、効いてるのかな」
少し座っていただけなのに、足の疲れが抜けるのが早い気がする。
詳しく考え始めるとまた休憩ではなくなるので、澪はそこでやめた。
スマートフォンで時間を見て、収納の小箱から3つを分ける。
修さんと妙子さん、それに理央へ渡す3つを選ぶ。どれも同じ青いサファイアで、同じ形に仕上げた物だった。これで6個は残るが、今日会えなかった人には後で渡せばいい。
「真壁さん、そろそろ出ます」
「分かった」
真壁も上着を取り、シロガネを収納へ入れてから一緒に外へ出た。
夜の江古田は冷えていた。息が白くなるほどではないが、昼の暖房に慣れた頬へ風が当たると一気に目が覚める。道路脇の照明がつき始め、店から漏れる暖かな光が歩道へ伸びていた。
約束した店へ入ると、外とは空気がまるで違った。
人の話し声と食器の音。料理の匂い。上着を脱ぐだけで肩が軽くなる。
「澪さん!」
先に来ていた理央が手を上げた。
その隣には修一郎と妙子がいる。
「お誕生日おめでとうございます!」
「朝も言ってくれたよね」
「でも、直接も言いたかったんです」
言い切った理央の顔が、朝のRightInよりずっと嬉しそうだった。
「ありがとう、理央ちゃん」
修一郎も笑う。
「誕生日おめでとう、澪ちゃん」
「おめでとう。今日はちゃんと主役でいてね」
妙子の言葉に、澪は一瞬だけ返事が遅れた。
午後の自分の行動を知られているわけではないのに、妙に刺さる。
「……はい」
席に着き、飲み物が揃ったところで乾杯した。
料理が運ばれてくると、話題は大学のことや理央の仕事、最近の押入商会のことへ自然に移った。真壁も聞かれたことには短く答えるが、必要以上に話を広げない。
誰かと食事をするだけなら、これまでにも何度もあった。
今日は皆が、自分の誕生日だから集まっている。
その事実が、料理の湯気の向こうから遅れて実感になってくる。
「そうだ、澪ちゃん」
食事が少し落ち着いたところで、修一郎が澪へ誕生日プレゼントを差し出した。
「え、私に?」
「今日はそのために来てるんだから」
「ありがとうございます、修さん」
両手で受け取ると、さっきまで自分が小箱を渡して回っていたことを思い出した。
もらう側は、こういう気持ちになるのか。
嬉しいのに、どこへ手を置けばいいのか少し分からない。
理央がその様子を見て笑っている。
「澪さん、なんか照れてません?」
「照れてないよ」
「今ちょっと遅かったです」
17歳の観察は容赦がない。
澪は逃げるように水を一口飲んだ。
それから、ふと思い出したように収納へ意識を向ける。
「そうだ。私からもあるんです」
「え?」
理央がすぐに反応した。
澪は朝から残しておいた3つの小箱を、テーブルの上へ並べた。
テーブルの上へ並べた3つの小箱を見て、理央が目を丸くした。
「え、待ってください。今日、澪さんの誕生日ですよね?」
「そうなんだけど、作ったから」
「その返し、今日ずっと使ってません?」
使っている。
澪は否定せず、修一郎、妙子、理央の前へ1つずつ箱を置いた。
「3人に。おそろいです」
「おそろい?」
理央はすぐに自分の箱を開け、続けて両親の方を覗き込んだ。
「ほんとだ。全部同じじゃないですか」
青いサファイアが、料理の皿の横で同じ光を返す。
理央は自分の物と妙子の物を見比べ、そのあと修一郎の方まで身を乗り出した。
「これ、3人で同じの付けられるんですよね?」
「うん。そのつもりで作ったよ」
「すごい。お母さん、今度一緒に付けよう」
「そうね」
妙子はブローチを手に取り、石より先に台座の高さと留め具を見た。
「これなら服につけても邪魔になりにくそう。澪ちゃん、きれいに作ったわね」
「ありがとうございます」
修一郎も箱から取り出し、指先で角度を変えながら眺める。
「いいね。石だけが目立ちすぎないし、金具もきれいだ」
彫金を教えてもらった相手にそう言われると、午後に何人へ褒められた時とも少し違った。
自分で作った物なのに、急に置き場がなくなったような気がして、澪は両手を膝の上へ置いた。
真壁も理央の前にあるブローチへ目を向ける。
「良い品だ。品がある」
「真壁さんまで……」
「事実を言っただけだ」
逃げ道がなくなった。
澪は胸元の自分のブローチへ指を触れた。同じ形なのに、自分で着けている物まで急に気恥ずかしくなる。
修一郎が青い石を見ながら、ふと口にした。
「『誠実』『慈愛』。サファイアの石言葉だね」
「そうなんですか?」
「うん」
修一郎は石から澪へ視線を移した。
「澪ちゃんにぴったりだ」
真正面から来た。
澪は数秒黙ったあと、反射的に別の話を探した。
「サファイアも人工なので、そんなに高くないんですけど」
「値段の話じゃないよ」
「はい……」
分かっているからこそ、余計に困る。
理央が横で笑いを堪えているのが見えた。
「理央ちゃん」
「何も言ってません」
「顔が言ってるよ」
「だって、澪さん、分かりやすいです」
今度こそ澪は水へ逃げた。
けれど、口元までは隠せなかった。
自分の作った物を、近い人たちが目の前で喜んでいる。その上、自分まで一緒に褒められてしまった。
照れるのと嬉しいのは、どうやら同時に来るらしい。
テーブルの上には3つの青いブローチが並び、澪の胸元にも同じ青があった。
食事が終わるころには、店の外はすっかり夜になっていた。
椅子を戻す音や上着を着る衣擦れが重なり、誕生日会の空気が少しずつ解けていく。
店の前で修一郎、妙子、理央と別れたあと、澪は真壁と江古田のアパートへ戻った。
六畳間へ入って上着を脱ぎかけたところで、真壁が声を掛ける。
「澪君、これを」
「え?」
そういえば、真壁からはまだ何も受け取っていなかった。
真壁が収納から出したのは、飾り気のない薬の箱だった。
澪は最初の箱に触れ、内容を確かめる。
最初の箱には竜血疲労耐久強化薬が100本。その隣には竜命薬が100本、さらにエリクサーが100本収まっていた。合計300本まで数えたところで、澪の手が止まった。
「真壁さん、これ誕生日プレゼントですよね?」
「そうだ」
「全部、薬なんですけど」
「使うだろう」
真壁の返事には迷いがない。昼間に配った青いブローチとも、ヴァルトからもらった魔道具とも、修一郎から受け取ったプレゼントとも、方向がきれいに違っていた。
「量が誕生日プレゼントじゃないんですよ」
「足りないか?」
「多い方です」
「なら問題ない」
問題の置き場所が違う気はしたが、澪は半分呆れながら箱を順に自分の収納へ入れていった。
最後に竜血疲労耐久強化薬の箱へ手を掛けたところで、真壁が付け加える。
「それは味を調整してある」
箱を入れかけた澪の手が止まる。
「味?」
「飲みにくかっただろう。薬効は変えていない」
そこで、ただ在庫を100本ずつ渡されたわけではないと分かった。
自分が実際に使うところまで考え、わざわざ手を入れてある。
300本という物量は相変わらず真壁だったが、その中身まで適当に選んだわけではなかった。
「……ありがとうございます。大事に使います」
真壁は短く頷いただけだった。
朝には理央から祝われ、自分で20個のブローチを作り、午後は人へ配って歩いた。
それなのに、夜になって収納を見れば、自分がもらった物もちゃんと増えている。
澪は胸元の青いブローチへ触れた。
誕生日なのに、たぶん自分が一番たくさん配った。それでも今日一日を思い返すと、照れくささより先に笑みが出た。
「真壁さん」
「何だ」
「今日、楽しかったです」
「それならよかった」
窓の外を車の音が通り過ぎた。
朝と同じ六畳間で、胸元の青い石が室内の灯りを小さく返していた。