東都特殊金属試作の技術確認スペースは、六畳間よりずっと白かった。
天井の照明も、作業台も、測定器の外装も白い。そこへ真壁が黒い専用トレーを置くと、透明な小さな円柱だけが妙に目立った。
「これが資料の規格ですか」
鷺沼が先に身を乗り出した。
「その通りですな。直径1.25mm、長さ4mmです」
真壁はそれだけ答え、トレーを鷺沼ではなく技術担当者の方へ滑らせた。
説明より先に見てもらうつもりらしい。
技術担当者は細いピンセットを取り、中央ではなく端の列から1本抜いた。測定器へ載せる。電子音が短く鳴り、次は反対側から別の1本が取られた。
澪は少し離れた椅子から、その手元を見ていた。
資料で0.5tと読んだ時には、頭の中にあったのは大きな塊だった。
500kg。
人間なら何人分だろう、と考えそうになってやめたくらいの重さで、収納の中に積まれた材料を想像していた。
でも、今は違う。
作業台に並んでいるのは、指で摘まむにも気を遣うほどの小さな透明円柱だった。うっかり床へ落としたら、見つける前に自分で踏みそうだ。
あれが増えて、増えて、増え続けた先が0.5t。
重さで考えるより、その方が怖い。
「年間0.5tまで、この状態で供給できますか」
鷺沼が真壁へ視線を戻した。
「供給枠としては確保できます」
真壁の返事は短かった。
500kgを今ここで作ってある、とは言わない。前に六畳間で見たのも少量の試作だったし、今回持ってきたのも工程確認用のロットだ。
それでも真壁の中では、作れるかどうかの話はもう終わっているらしい。
技術担当者が3本目を測り終え、今度は端面を顕微鏡へ入れた。
「加工は、ここまででいいんですよね」
確認された真壁がサンプルを1本指した。
「こちらで行うのは、材料の選別、ロットを揃えること、円柱加工、切断、寸法確認、欠けと内部割れの排除、エッジ処理、端面の前研磨までです。最終の光学研磨やコーティング、実装は後工程でお願いする」
「全数外観も?」
「こちらで行います。梱包まで含めます」
技術担当者は返事をせず、別のトレーへ手を伸ばした。
澪はその動きを見て、胸の奥で数字の形が少し変わるのを感じた。
0.5t。
さっきまでなら重量だった。
今は、同じ小さな物を気が遠くなるほど並べた数に見える。
しかも真壁は、それを同じ品質で出せると言っている。
測定器がまた短く鳴った。
技術担当者は数値を見て、トレーへ戻す前に透明な円柱を一度だけ照明へかざした。
澪には、何が見えているのか分からない。
ただ、資料を読む時より、その人の指先がずっと慎重になっていることだけは分かった。
技術担当者は、最初のトレーだけでは終わらなかった。
真壁が持ち込んだ別のトレーを開け、今度は四隅から1本ずつ抜いていく。外径と長さを測り、端面とエッジを確かめて戻す。場所を変えて、また1本。
最初のうちは鷺沼と二、三言交わしていたのに、途中からほとんど黙ってしまった。
澪には、その沈黙の方が気になった。
失敗しているなら何か言うだろう。
逆に、あまりに普通なら、ここまで何度も測らない気がする。
目の前には、どれも同じに見える透明な円柱が並んでいる。
同じに見える。
そのこと自体が、だんだん気味の悪いものに思えてきた。
自分がブローチを20個作った時でさえ、全部を完全に同じにはできなかった。石の色を揃え、台座を揃え、寸法を見ながら作っても、最後には品質差が出た。
なのにこちらは、20個ではない。
「年間0.5tまで、この工程で出せるんですか」
技術担当者が顕微鏡から顔を上げた。
「可能です」
真壁は測定表ではなく、並んだトレーを見て答えた。
「全部これなら、何個になります?」
今度は鷺沼が手元の資料を見た。
「概算で3,200万個ほどです」
技術担当者の手が止まった。
一度、数字を聞き間違えた時のような顔をして、それからピンセットの先にある1本を見る。
「3,200万……」
澪も頭の中で同じ数字を繰り返した。
3,200万個。
0.5tより、急に嫌な数字になった。
不良が0.1%出るだけでも、3万個を超える。
1%なら30万個以上。
普段なら1%なんて、ほとんど誤差のように見える。大学の資料で数字だけ眺めていれば、たぶんそう思う。
でも、机の上にある1本を見たあとでは違った。
この小さな物を30万個捨てる。
そう考えると、1%が全然小さくない。
技術担当者はもう一度、別の位置からサンプルを取った。
測定器へ載せ、顕微鏡へ移し、問題がなければ戻して次を取る。
しばらくして、結果を鷺沼の方へ向ける。
「材料もすごいですが……」
そこで一度、言葉を切った。
透明な円柱を指先で示す。
「加工の方がおかしいですよ、これ」
真壁は眉ひとつ動かさなかった。
「どの辺りがですか」
「この大きさのCaF₂を、欠けを抑えて、寸法を揃えて、端部まで処理してる。1個なら分かります。少量なら、やる会社もあるでしょう」
技術担当者は並んだトレーへ目を戻した。
「でも、これを同じ工程で何千万個ですよね。加工だけじゃなく、検査も搬送も梱包も必要になる」
「そのために工程を組んであります」
真壁の返事は、やはり短かった。
技術担当者は少し黙ってから、鷺沼へ測定結果を渡した。
どこを抜いても、今のところ大きく外れていないらしい。
鷺沼は紙より先に、もう一度サンプルを見た。
澪はその視線を横から見ていた。
最初に東都へ持ち込んだのは、珍しい材料だった。
今、机の上にあるのは、それだけではない。
真壁が材料を、同じ形で流せる工業製品へ変えてしまった。
その違いを、東都側もようやく同じ重さで見始めた気がした。
技術確認が終わると、4人は会議室へ戻った。
技術担当者は測定結果だけを鷺沼へ渡し、そのまま席を外した。机の上には、さっきのサンプルトレーと仕様書、それから真壁が持ってきた数枚の資料が残る。
鷺沼は資料を揃え、最後に1枚だけ向きを変えた。
「価格ですが――」
その言葉で、澪の背中が少しだけ伸びた。
ここから先は、作れるかどうかではない。
いくらで売るか。
代表は自分なのに、値段の話になると今でも胃の辺りが少し狭くなる。正金貨ならリュシアが横にいることが多いし、ゲンダイの税金なら明石がいる。
今日は真壁と鷺沼だ。
なので黙っているのが、一番仕事をしている気がする。
鷺沼が真壁の資料へ目を落とした。
「かなり調べられましたね」
「値を付ける以上、知らぬままでは決められませんからな」
澪も横から見る。
資料の見出しにはCaF₂とある。切断状態のブランクなら15ユーロ、別のUV用ブランクで35ユーロ。
そこまでは、まだ材料に近い値段に見えた。
ページをめくると急に桁が変わる。
4.7mm角ほどの研磨済みウインドウが4,400円。10mm角、厚さ0.5mmの単結晶基板が1枚15,000円。10枚買っても1枚12,000円。
さらに、3×2×3.5mmの6面研磨品が27,500円。
澪は机の上の真壁製サンプルと資料の写真を見比べた。どちらも小さいのに、値段だけが全然かわいくない。
海外の5mm径、厚さ1mmの無コート品にも100ドルを超える数字が並んでいた。
「ただ、この辺りは研究用途や少量販売の価格ですね」
鷺沼が言った。
「その通りですな」
真壁はあっさり認めた。
「今回とは数量が違いすぎます」
「ええ。それも承知しています。この価格で3,000万個を売ろうとは考えていません」
澪は、少しだけ安心した。
もし真壁が資料の27,500円を指して、これより安いから2万円で、と言い出したら止める方法が分からなかった。
3,000万個に2万円。
計算しない方がいい。
真壁は別の紙を鷺沼の前へ出した。
「ただ、一つ分かることはあります」
10×10×0.5mmの基板は重量約0.159gで、価格15,000円。その横には、単純に重量へ直した数字が書いてあった。
約9,400万円/kg相当。
「……1kg?」
澪は思わず声を出した。
真壁が次の行を指す。
10枚購入時の12,000円なら、それでも約7,500万円/kg相当。
さらに3×2×3.5mm、約0.0668g、27,500円。
重量換算では約4億1,000万円/kg相当。
「もちろん、原料1kgがこの値段という意味ではありません」
真壁が先に釘を刺した。
「加工、研磨、検査、流通までを、小さな1枚に載せた価格です」
鷺沼が頷く。
「そこは同じ認識です」
「ならば、特殊フローライト10万円/kgと、今回の加工品を同じ重量基準だけで比べることもできない」
真壁は市場資料を閉じた。
澪は閉じられた紙と、透明なサンプルを交互に見た。
特殊フローライトを10万円/kgと評価された時は、かなり高い材料だと思った。
でも今、その数字は急に『材料の入口』にしか見えなくなっている。
同じCaF₂でも、切って寸法を揃え、端面を整え、検査した状態で渡せば、値段の物差しそのものが変わる。
鷺沼が椅子へ座り直した。
高い小売価格を見せて、そのまま押し切る商談ではないと分かったのだろう。
澪もようやく、ここから本当に値段を決めるのだと分かった。
鷺沼は市場資料を脇へ寄せ、今度は年間発注見込みの紙を手前へ置いた。
「本採用になれば、試作と同じ数量ではありません。同一規格で継続する前提なら、量産時は1個120円程度を基準にできませんか」
120円。
さっきまで4,400円だの15,000円だのを見ていたせいで、急にかわいらしい数字に見えた。
澪は危うく、安い、と口にしそうになった。
でも、真壁は何も言わない。
鷺沼も、技術を軽く見て120円と言っているわけではなかった。数量が増え、同じ形と加工条件を繰り返せるうえ、最終の光学工程は後工程側に残る。
値下げする理由を、一つずつ机へ置いている。
「数量が増えれば、段取りの負担は下がる。その点は、その通りですな」
真壁が頷いた。
澪は少しだけ肩の力を抜く。
否定しない。
鷺沼の言っていることが正しければ、そこは先に認める。
以前のチタンの商談でもそうだった。相手の数字を跳ね返してから自分の話をするのではなく、同じ土台に立てるところまで先に立つ。
その方が怖い気もする。
何を認めて、どこから認めないのかが、澪にはまだすぐ見えない。
「ですが、その評価であれば、加工せず材料で納めましょう」
真壁が言った。
鷺沼の表情が止まる。
「材料ですか」
「左様ですな。価格はこれまでどおり10万円/kgで。必要な分を素材としてお渡しする」
澪は一瞬、話が安くなったのかと思った。
でも違う。
真壁は120円を断っていない。
120円という評価なら、その評価に合う商品へ戻しただけだ。
机の上の透明な円柱が、急に境界線のように見えた。こちら側に材料があり、その先に加工済み製品がある。鷺沼が欲しいのは、明らかに後者だ。
「それでは困ります」
鷺沼の返事は早かった。
「そうでしょうな」
真壁は少しも驚かなかった。
サンプルトレーを指先で自分たちの側へ寄せる。
「ならば、この状態まで加工する価値にも値を付けていただきたい」
鷺沼はトレーへ視線を落とした。
澪の目には、さっき技術担当者が何度も測っていた端面やエッジが残っていた。あの形になるまでに、材料を選び、ロットを揃え、削って切って、欠けを除き、最後には1本ずつ外観まで見る。トレーの中で隣同士が触れないように収めるところまで含めて、今の製品だった。
材料だけで渡すなら、その先は全部、買った側の仕事になる。
「加工まで必要なのは、その通りです」
鷺沼が言った。
「評価先も、今の状態で入る前提で工程を見ています」
「では、材料価格とは分けて考えるべきでしょう」
「ええ。そこは分けます」
澪は2人の間にあるトレーを見た。
たった数cmもない距離なのに、さっきから商品の値段がその上を行ったり来たりしている。
120円と10万円/kg。同じフローライトの話なのに、単位まで変わった。
値段を決めるというのは、数字を決める前に、何を売っているのかを決めることらしい。
澪は手元のメモに書きかけた「120円」の横へ、小さく「加工済み」と足した。
「では、加工までお願いする場合、いくらを考えておられますか」
鷺沼が訊いた。
澪は真壁の横顔を見た。
真壁がどこから数字を出すのか、澪にはまだ分からない。
けれど真壁はすぐには値段を言わなかった。
「その前に、こちらも確認しておきたいことがあります」
鷺沼がペンを置く。
「どうぞ」
「現在使っている光学部品の調達価格。そこから先の加工費。加工時の歩留まりと、組み込み時の欠けや破損。今回の材料へ変えたことで、どこがどれほど改善したのか。それから、本採用後の年間発注見込みです」
澪は、質問の数より順番に目が行った。
真壁は自分たちがいくらで作れるかを先に話していない。
相手がいくらなら買えるか、でもない。
今まで何に金が掛かっていて、今回の材料で何が減るのかを先に聞いている。
値段の話をしているのに、値段から離れていく。
その方が、澪には不思議だった。
鷺沼は一拍考えてから、手元の資料を開いた。
「現行品の調達価格そのものは、評価先との関係もあるので、ここで全部は出せません」
「もちろんです」
「ただ、加工済み品として材料価格より上がること自体は、こちらも織り込んでいます」
鷺沼は続ける。
「一方で、こちらには最終研磨以降の工程が残ります。加工費もありますし、実装側のコストも消えません。現行品より材料側が高くなるなら、その分を吸収できる効果が必要です」
「評価結果は?」
「性能差は出ています。評価先も、そこは認めています」
「歩留まりは」
「まだ最終量産条件ではありませんが、欠けについては改善が見えています。少なくとも、材料を変える意味がない、という結果ではありません」
真壁はそこで初めて小さく頷いた。
「年間数量は、先ほどの通り見込み段階です。本採用後は試作より大きくなりますが、500kgを買うと約束できる段階ではありません」
「それで結構」
真壁は資料の端へ指を置いた。
「では、こちらは1個300円で考えています」
鷺沼が一度だけ瞬きをした。
「300円ですか」
間があった。
「高いですね」
「何と比べてですかな」
真壁の声は穏やかだった。
澪の背中だけが固くなる。
300円。
コンビニなら飲み物と何かを買うくらいの数字なのに、今はその一言が会議室の空気を変えた。
鷺沼は市場価格の資料には手を伸ばさなかった。
「今回の量産条件です。数量が大きい。同一規格で、同じ加工条件を繰り返せる。しかも納品時点は最終光学面ではありません。コーティングも実装も後工程に残る」
「その点は理解しています」
「公開されている少量CaF₂部品と比べれば、300円は安いでしょう。ただ、こちらは1個、10個を買う話ではない」
「ええ」
真壁は否定しない。
その代わり、机の上のサンプルを1本だけ指した。
「こちらも、27,500円で売ろうとは考えていません。数が出るからこそ、そこまで下げられる」
「ですが、材料価格の延長として見るなら、まだ高い」
「材料ではありませんからな」
鷺沼がわずかに笑った。
「そこへ戻りますか」
「戻りますとも」
真壁の口元も、ほんのわずかに緩んだ。
澪はそこで、ようやく息を吐いた。
殴り合っているわけではない。
2人とも相手の言葉を聞いているし、正しいところはそのまま認めている。
それでも300円は300円のまま残り、鷺沼は下げる理由を探している。
真壁の頭の中では、材料、加工、不良、設備、検査、トレー、梱包、品質保証がすでに別々の箱へ入っているのだろう。
さらに、その箱の外に東都側の利益まで置いている。
取れるだけ取るなら、相手の事情を聞く必要はない。
でも、1回売って終わる商品でもない。
澪は机の上の透明な円柱を見た。
あれが何千万個になる可能性を持つなら、1個だけ高く売るより、継続して発注される値段の方が怖いほど大きい。
鷺沼が年間発注見込みの資料を引き寄せた。
「では、量産条件の方をもう少し詰めましょう」
真壁は答える代わりに、300円と書いた紙を裏返さなかった。
まだ、その数字を下げる気はある。
ただし、理由なしでは下げない。
澪には、その紙が急に値札ではなく交渉の出発点に見えた。
鷺沼が次に出したのは、価格表ではなく量産条件だった。
「本採用になれば、試作の数量ではありません。初回量産量は別途詰めますが、その後は継続発注を見込んでいます」
「それは値を下げられる材料になりますな」
真壁がすぐ認めた。
「寸法も、現行仕様を基本にします」
「仕様が固定されるなら、こちらも工程を変えずに済む」
澪は2人の間に置かれるものが、段階ごとに変わっていくのを感じた。
さっきまでは120円と300円だった。
今は数量と仕様だ。
金額を下げる代わりに、真壁が作りやすくなる条件を鷺沼が出している。
値引きなのに、安くしてください、とは一度も言っていない。
「需要が伸びた場合、年間最大0.5tまで対応できるという理解でいいですか」
「供給枠としてはそうです。ただし、500kgを買っていただく前提で工程原価を組むつもりはありません」
「そこは承知しています。こちらも全量購入を保証できる段階ではありません」
澪はそのやり取りを聞いて、肩の奥の力が抜けた。
500kgという大きな数字は、まだずっと向こうにある。
今ここで決まっているのは、そこまで需要が伸びても作れるという上限だけだ。
真壁が紙へ数字を書いた。
約3,203万個。
「ただし、数が増えても減らない仕事があります」
「検査ですか」
「検査だけではありませんな」
真壁は3,203万の下へ0.1%と書いた。
その横に約32,000。
次に0.5%で約160,000。
1%で約320,000。
澪は並んだ数字を見て、さっき技術確認で感じた嫌な感覚が戻ってくる。
0.1%。
学校のテストなら、ほとんどゼロと扱いたくなる数字だ。
でも、3万2,000個。
机の上にある透明円柱を3万本以上捨てる景色は、想像したくない。
「これは年間500kgを作る契約という意味ではありません」
真壁は紙を鷺沼の方へ向けた。
「最大規模になった場合、歩留まりの小さな差でも、この数になるという話です」
「ええ」
「同じ規格を長く流せるなら、治具の段取りや設備設定は軽くできる。連続加工もしやすい。そこは量産の利点です」
真壁は別の欄へ線を引いた。
「一方で、全数を見る仕事は消えない。欠けを外し、ロットを分け、トレーへ収め、接触しないよう梱包する。数量が増えれば、その分だけ増える仕事もある」
鷺沼がサンプルへ目をやった。
「小さいから扱いやすい、ではないと」
「小さいから安い、というわけではありませんな。小さいから手間が掛かる仕事もある」
澪はその言葉を聞いて、透明な円柱がまた違って見えた。
小さいから材料は少なくて済む。
でも、小さいから1個ずつの存在が消えるわけではない。
むしろ3,200万個になった瞬間、個数に比例する工程だけが巨大になる。
鷺沼はしばらく数字を見てから、仕様書へ戻った。
「では、価格を下げるなら、こちらからも工程を安定させる条件を出した方がいいですね」
「その方が話は早い」
真壁が言った。
澪は手元のメモに、金額ではなく「仕様固定」と書いた。
値段を決める話なのに、紙の上では価格以外の文字が増えていく。
それが今は、ようやく分かる気がした。
そこからの数字は、少しずつしか動かなかった。
鷺沼が条件を足して下げ、真壁は下げられる理由だけを拾って数字を動かす。
何度か往復したあと、鷺沼側は180円付近、真壁側は220円付近まで近づいた。
あと40円。
澪には、最初の120円と300円に比べれば、もうほとんど同じ場所に見えた。
でも2人とも、そこから簡単には動かなかった。
1個だけなら40円。
そのはずなのに、鷺沼は仕様書をもう一度開き、真壁も椅子へ深く座り直さない。
「条件を整理します」
鷺沼が言った。
「現行規格は、直径1.25mm、長さ4mmを基本とします」
「ええ」
「加工仕様も、今回確認した状態を基準にする。途中で変更が必要になった場合は、改めて見積もり」
「それで結構です」
「最終光学研磨、ARコーティング、SFPへの実装、完成モジュールの評価と保証は後工程側」
「こちらは納品時の寸法、外観、加工状態、ロット品質までですな」
「はい」
鷺沼は次の紙を見る。
「年間の供給能力は最大0.5t。ただし、こちらが500kgを購入保証する契約ではありません。年間発注見込みは提示しますが、初回量産数量は別途協議」
「異論ありません」
澪は黙って聞いていた。
最初は値段の話だった。
今は、どこまで作るか、途中で変えたらどうするか、どこから先の責任を持たないか、何kgまでなら受けられるかを決めている。
200円に近づくほど、金額以外の線が濃くなっていく。
たぶん、その線がはっきりしているから値段を下げられるのだ。
真壁は余計な工程変更を抱えずに済む。
東都側は、必要な加工済み品を同じ仕様で受け取れる。
片方だけが得をする条件ではない。
鷺沼が資料を揃えた。
「その条件で、200円ではいかがでしょう」
会議室が少し静かになった。
真壁はすぐには答えなかった。
仕様書へ視線を落とし、年間発注見込みと初回数量、責任範囲、仕様変更時の再見積もりまで追う。指先が紙の端を一度だけ押さえた。
「大いに結構」
真壁が顔を上げた。
「その条件なら200円でお受けしましょう」
鷺沼が頷いた。
「では、正式見積りはこちらの条件でお願いします。初回量産数量は、評価先と詰めて改めてお伝えします」
「承知しました」
澪はそこで初めて、手元のペンを動かした。
200円。
数字の横へ丸を付ける。
思っていたより、決まった瞬間は静かだった。
もっと、値段が決まった、と分かる音がするのかと思っていた。
実際には紙が1枚動いて、鷺沼が条件を読み上げ、真壁が短く受けただけだ。
でも、その200円の中には、材料だけでなく、加工と検査、仕様を固定する条件、後工程との責任分担、発注数量まで、さっきまで2人が一つずつ確認していたものが全部入っている。
澪は頭の中でそこまで並べて、途中でやめた。
考え方まで会議資料みたいになってきた。
ただ、最初に見た200円と、今ノートに書いた200円が同じ数字には見えなかった。
鷺沼が正式見積り用の資料をまとめ始める。
真壁もサンプルトレーへ手を伸ばした。
価格交渉は終わった。
残っているのは、最初に何個作るのかという、次の現実だった。
鷺沼が正式見積りのための条件をまとめている間、澪はようやくスマートフォンを取り出した。
商談中には出さなかった電卓を開く。
1個、約15.6mg。
年間最大500kg。
全量が同じ規格まで伸びた場合、約3,203万個。
そこへ200円を掛ける。
画面に出た数字を見て、澪の指が止まった。
「……最大までいったら、64億円ですか?」
鷺沼が顔を上げる前に、真壁が答えた。
「上限まで発注が伸びれば、概算ではそうなるな」
澪はもう一度計算した。
変わらない。
さっきまで机の上で200円と言っていた。
200円なら、大学の帰りに何か買って消える金額だ。
それを透明な円柱の数だけ並べると、電卓の画面から急に会社の外まで数字が広がった気がした。
澪はサンプルトレーを見る。
小さい。
本当に小さい。
ピンセットで摘まれていた物が、1個200円。
それが3,000万個を超える可能性を持つ。
「材料だけなら、500kgで5,000万円ですよね」
「そうだ」
澪は電卓を見た。
「5,000万円が64億円……」
「違う」
真壁がすぐ止めた。
澪も顔を上げる。
「5,000万円の材料が64億円になったわけではない」
真壁はサンプルトレーへ視線を落とした。
「3,200万個の製品を作って、そこまで売れれば64億円だ」
澪はさっきの技術担当者の顔を思い出した。
材料もすごい。
でも、加工の方がおかしい。
あの時は、半分くらいしか分かっていなかった。
今なら少し分かる。
500kgの石を右から左へ動かしているわけではない。
数千万個へ加工し、揃え、検査し、壊れない状態で納める。その仕事が200円の中に入っている。
澪はもう一つ計算した。
さっき最後まで残っていた差。
220円と180円。
40円。
約3,203万個を掛ける。
「……40円違うだけで、最大だと12億円以上変わるんですね」
「そういうことだ。だから数十円でも雑には決められん」
その言葉で、澪はようやく2人が最後の40円で動かなかった理由を数字として理解した。
自分なら、1個40円なら折れてしまいそうだ。
たぶん、今までなら。
でも3,000万個の40円は、40円ではない。
単価を見る時に数量を忘れたら駄目だし、総額を見る時に責任を忘れても駄目なのだろう。
年間500kgを全部買ってもらえるわけではない。
初回量産数量も、これから決まる。
それでも、需要が最大まで伸びた時に受けられる仕事の大きさだけは、もう見えてしまった。
「明石さんには、早めに相談しておきます」
「そうしよう」
真壁は短く答え、サンプルトレーの蓋を閉じた。
鷺沼の前では、次に詰める初回量産数量の紙が開かれている。
澪はスマートフォンを伏せた。
それでも、消す直前まで液晶には大きすぎる数字が残っていた。