2月下旬の朝。
江古田のアパートの六畳間で、澪はローテーブルに置いたノートPCを見ながら電卓を叩いていた。
まずチタンが1,000kg。単価12,000円だから、1,200万円。
次のタングステンは約500kgで、約600万円。モリブデンは約30kg、単価に幅があるので15万円から18万円ほどになる。
ここまでは、もう見慣れた。
見慣れた、という言葉を1,200万円に使っていいのかは少し悩むけれど、少なくとも東都への納品としてはいつもの数字だ。
澪はその下へカーソルを移した。
比較評価用フローライト150kg。10万円/kgなので、1,500万円。
「……はい」
声に出してみても、数字は小さくならなかった。
さらにSFP向け加工試作品が10,000個。試作単価500円で、500万円。
電卓へ順番に入れていき、最後の数字が出たところで澪は手を止めた。
「3,815万円……モリブデンが上限なら3,818万円」
六畳間の空気には、まったく似合わない金額だった。
目の前にはノートPCと電卓。少し横には大学の教科書。壁際には仕事用の箱と生活用品が一緒に置かれ、そのさらに向こうには、何度見ても普通の襖にしか見えない押し入れがある。
部屋は何も大きくなっていない。
数字だけが勝手に育っている。
「真壁さん」
「何だ」
「これ、2月の納品だけですよね?」
真壁は手元の資料から目を上げた。
「今月精算する分だ。通常納品だけではない」
「ですよね」
澪は少しだけ安心した。
安心してから、自分が何に安心したのか分からなくなる。
3,800万円を超えていること自体は変わっていない。
真壁がローテーブルの紙を指で分けた。
「チタン、タングステン、モリブデンは今月の通常納品。こちらの150kgは比較評価に使った素材。1万個は加工試作分だ」
「最初に渡した少量のサンプルは?」
「こちらから評価を頼むために出した物だ。今さら請求はしない」
「ですよね」
「売った物と、試してもらうために渡した物は分けるべきだ」
真壁は総額より、そちらの方が気になるらしい。
澪は画面へ戻った。
同じフローライトでも、最初の少量試料は無料。比較評価に使った150kgは素材として有償。SFP用に規格加工した10,000個は試作品として有償。そして今後、本採用になった量産品は1個200円。
材料そのものは同じところから始まっているのに、取引の途中で名前も値段も変わっていく。
物だけ見ていれば、たぶん分からない。
「試作品、10,000個で500万円なんですよね」
「そうだ」
「量産品が1個200円に決まったせいで、500円が高く見えます」
「試作と量産を同じ値で売る必要はない。条件を作るところから含んでいる」
「そこは分かってるんですけど……」
分かっている。
分かっていても、机の上に置いてある透明な小さな円柱を1個だけ見ると、それが500円という感覚にまだ追いつかない。
もっと困るのは、10,000個になると500万円になることだった。
澪はもう一度合計を計算した。下限なら3,815万円、モリブデンを上限で入れれば3,818万円になる。
何度やっても同じだった。
数字が間違っているのではなく、自分の感覚が追いついていないだけらしい。
澪は電卓を置き、スマホへ手を伸ばした。
「明石さんに先に言っておきます」
「そうしよう」
「たぶん、後からまとめて言う金額じゃないです」
真壁は否定しなかった。
澪は連絡先を開きながら、もう一度六畳間を見回した。
3,800万円を超える売上の相談をする場所としては、相変わらず狭かった。
明石は、3コール目で出た。
『はい、明石です』
「おはようございます。篠原です。今、大丈夫ですか?」
『内容によりますね』
最初から少し嫌な予感を持たれている気がする。
澪はスマホを耳に当てたまま、電卓の数字を見た。
「2月分の売上なんですけど」
『金額から聞きましょうか』
「……だいたい3,815万円から3,818万円です」
電話の向こうが一拍だけ静かになった。
『2月分だけで?』
「はい。ただ、今月の通常納品だけじゃなくて、これまで評価と試作で渡していた分の精算も入ってます」
『そこは分けて説明してください』
「はい」
やっぱりそうなる。
澪はノートPCを自分の方へ少し引き寄せた。
「いつもの金属が、チタン1,000kgで1,200万円。タングステンが約500kgで600万円。モリブデンが約30kgで15万円から18万円くらいです」
『そこまでは前と同じですね』
「それに、特殊光学材料の比較評価用として渡していた150kgが1,500万円」
『150kgで1,500万円』
「1kg10万円です」
『はい』
明石の声は普通だった。
澪は、10万円/kgくらいではもう驚いてもらえないことに少し寂しさを感じた。
「あと、加工試作品が10,000個あります」
『今度は個数ですか』
「はい。1個500円で、500万円です」
今度は少し間が長かった。
『同じ材料ですか?』
「元になる材料は同じ系統です。ただ、こっちは直径1.25mm、長さ4mmの規格に加工してあります」
『なるほど。それで500円』
「はい」
『量産時も500円ですか?』
「それが、量産は1個200円で基本合意しました」
明石の声が止まった。
『下がるんですね』
「試作品は、加工条件を出したり、治具を合わせたり、測ったり、不良の出方を見たりする分を少ない数量で負担するので高いそうです。量産になると、仕様と工程が固定されて連続で作れるので下げられます」
『分かりました。請求上も、比較評価用の素材と加工試作品は分けてください。同じものを値段だけ変えたように見せない方がいいです』
「分けます」
澪はメモへ線を引いた。
比較評価材と加工試作品。
同じ青い線の中に入れていた2つの項目を、別々の箱へ分ける。
こういう時の明石は、金額に驚くより先に、後から説明できる形にしろと言う。
たぶん、それが税理士の仕事なのだろう。
澪にとっては、数字が怖くなった時に呼ぶ人でもあるけれど。
『それで、量産の予定数量は?』
来た。
澪は真壁を見た。
真壁は何も言わず、手元の紙をこちらへ向ける。
「まだ初回量産数量は決まってません。年間の購入保証もありません」
『はい』
「ただ、本採用後に需要が伸びた場合、うちが供給できる上限として年間0.5tまで、という話になっています」
『500kg』
「全部この規格なら、だいたい3,203万個です」
また電話の向こうが静かになった。
「1個200円なので……最大まで発注が伸びたら、約64億円です」
『……篠原さん』
「はい」
『それ、確定売上じゃないんですよね』
「違います。全然違います。購入保証じゃないです」
澪は早口になった。
「最大供給枠です。最初に何個作るかもまだ決まってません」
『それなら、まずそこを絶対に混ぜないでください』
「はい」
『64億円が確定したみたいな顔で来られたら、私が困ります』
「私も困ります」
『でも、そこまで伸びる可能性がある案件なんですね』
「……そうみたいです」
自分で言うと、また数字が遠くなった。
六畳間の壁の向こうへ、64億円だけが突き抜けていく感じがする。
目の前にあるのは、相変わらず小さな透明円柱なのに。
『では、今回の請求分と、今後の量産条件は別で資料を残してください。初回数量が決まったら、その時点でも連絡を』
「分かりました」
『あと、篠原さん』
「はい」
『売上が増えたからって、使っていいお金が同じだけ増えたと思わないでくださいね』
そこはいつもの明石だった。
「半分は残します」
『半分残して安心しないでください』
「はい……」
電話を切ると、澪はスマホをテーブルへ伏せた。
真壁がこちらを見る。
「どうだった」
「64億円より、最後の一言が一番怖かったです」
真壁は何も言わず、資料へ視線を戻した。
電話を切ってから10分ほどすると、理央がやってきた。
「おはようございます……って、澪さん、疲れてません?」
六畳間へ入った第一声がそれだった。
「ちょっと明石さんと話してただけです」
「その『だけ』で疲れる話だったんですか?」
「2月分が3,800万円を超えました」
「えっ」
理央の動きが止まった。
靴を脱いだところで止まり、そのまま澪を見る。
「3,800万円?」
「超えました」
「今月だけで?」
「今月精算する分です。前に渡してた試作品とかも入ってますけど」
「それでも3,800万円ですよね?」
「はい」
理央がゆっくり座った。
澪は少し安心した。
やっぱり普通はそうなる。
真壁だけがおかしい。
「これですか?」
理央がローテーブルの端に置かれた小さなトレーへ顔を近づける。
中には、直径1.25mm、長さ4mmの透明な円柱が並んでいた。
「見てもいいですか?」
「いいですよ。落とさないようにだけ」
理央はピンセットを持ち、1本だけ摘まみ上げた。
「ちっちゃ……」
「それ、試作品だと1個500円です」
「え?」
理央は反射的に手を止めた。
「これが?」
「これが」
「500円?」
「500円です」
理央は透明な円柱と澪を交互に見た。
「500円玉より小さいですよ」
「値段は500円です」
「そういう問題じゃないです」
もっともだった。
澪も最初は同じ感覚だった。
「しかも10,000個あります」
「……500万円?」
「はい」
「ちょっと待ってください」
理央がピンセットをトレーへ戻した。
今度はさっきより慎重だった。
「でも、量産は200円なんですよね?」
「そうです」
「同じ形ですよね?」
「同じ規格です」
「じゃあ、なんで300円も違うんですか?」
理央の質問に、真壁が資料から目を上げた。
「試作は、品物だけを作っているわけではないからだ」
「品物だけじゃない?」
「どう作れば同じ寸法になるか。どの治具を使うか。どこで欠けるか。どこまで磨くか。どう検査するか。試作では、その条件自体を作っている」
真壁はトレーの横へ指を置いた。
「少ない数で、その手間を負担する。だから高い」
「量産は?」
「条件が決まっている。規格も工程も固定される。後は同じ条件で連続して作れる」
「だから200円まで下げられる……」
「そういうことだ」
理央はもう一度、透明な円柱を見る。
今度は大きさではなく、その周りに見えない工程が付いているような顔だった。
「同じ物なのに、同じ値段じゃないんですね」
「同じ形、だな」
真壁が訂正する。
「試作品と量産品は、取引としては別物だ」
「……あ」
理央は小さく頷いた。
澪にも、その言い方の方が分かりやすかった。
目の前の形だけ見れば同じ。
でも、片方は作り方を決めるための物で、もう片方は決まった作り方で作る物。
値段の中に入っている仕事が違う。
「じゃあ、この500円って、結晶の値段じゃなくて」
「加工条件を作る仕事まで含んだ値段だ」
「なるほど……」
理央は少し考えたあと、また顔を上げた。
「量産で200円なら、すごく安くなる感じしますけど」
「年間最大までいったら、約64億円です」
「えっ?」
澪が言うと、理央の顔が固まった。
「64億?」
「最大です。全部買ってもらえる契約じゃないですよ」
「200円なのに?」
「3,200万個くらいになるので」
理央は黙った。
それから、透明な円柱を見た。
「……小さいから安いって思った私が悪かったです」
「私も前に似たようなこと考えてました」
「澪さんもですか?」
「だいぶ」
理央は少しだけ安心したように笑った。
その顔を見て、澪も同じ気分になる。
数字についていけていないのが自分だけではない。
それだけで、六畳間の3,800万円が少しだけ普通の話に戻った。
午後、澪たちは東都特殊金属試作へ向かった。
受入場所では、いつもの金属材料の確認が先に進んでいた。
チタン1,000kg、タングステン約500kg、モリブデン約30kg。
それぞれ重量と品目を照らし合わせ、受け入れ側の確認が終わっていく。
理央は少し離れたところで、その流れを見ていた。
「……もっと大ごとになるのかと思ってました」
「何がですか?」
「1,200万円とか600万円とかの納品です。なんか、もっとこう……」
理央は言葉を探して手を動かした。
「全員が緊張してる感じになるのかと」
澪も昔ならそう思っていた。
実際には、確認する人は数量を見て、書類を見る。受け入れる場所が決まっていて、品物が決まっていて、手順どおりに進む。
金額だけが大きくても、現場の動きまで大きくなるわけではない。
「慣れると普通に見えるんですよね」
「澪さん、慣れてるんですか?」
「見た目だけなら」
「ですよね」
そこは即答された。
納品の確認が一段落すると、鷺沼が資料を持ってきた。
「通常分はこれで大丈夫です」
「ありがとうございます」
澪が頭を下げる。
真壁は資料を受け取り、次の紙へ目を落とした。
「フローライト関係も、今回分を整理しておきましょう」
「ええ」
鷺沼が項目を指した。
「まず、最初にいただいた少量の評価試料。こちらは無償提供で間違いありませんね」
「こちらから評価をお願いした物です。今になって請求するつもりはありません」
真壁の返事は早かった。
「承知しました」
次の項目へ進む。
「比較評価用の150kg。こちらは10万円/kgで、1,500万円」
「それで結構です」
「加工試作品は10,000個。試作単価500円で500万円」
「はい」
「今後の量産採用品は1個200円。初回数量は別途協議」
「その認識で合っています」
鷺沼はさらに一行下を確認した。
「年間最大0.5tは、押入商会側の供給可能枠。こちらの購入保証ではない」
「そこも、その通りですな」
理央は横で黙って聞いていた。
さっき六畳間で聞いた話と同じなのに、ここでは急に重さが違って見えるらしい。
澪にも少し分かる。
六畳間では、500万円も1,500万円も電卓の数字だった。
今は、鷺沼が読み上げて、真壁が受けて、取引条件として紙の上に残っていく。
研究用に渡したものもあれば、比較のために使った素材もある。加工条件を決めるための試作品と、これから継続して売る量産品もある。
同じフローライトから始まっていても、扱いは全部違う。
「最初のサンプルまでお金取らないんですね」
理央が小声で澪へ訊いた。
「こっちから見てくださいってお願いした物ですから」
「でも、価値あるんですよね?」
「ありますけど」
澪は少し考えた。
「価値がある物を渡したから、必ず請求するって話でもないんだと思います」
言ってから、自分でも少し商人っぽいことを言った気がした。
理央も同じことを思ったのか、目を丸くする。
「今、ちょっと真壁さんっぽかったです」
「それは褒めてます?」
「たぶん」
真壁がこちらを見た。
「聞こえているぞ」
「すみません」
理央がすぐ姿勢を正す。
鷺沼は笑わず、資料の確認を続けた。
「正式な初回数量が決まりましたら、改めて連絡します」
「承知しました」
真壁が紙を閉じる。
澪はその音を聞きながら、ローテーブルで見た3,800万円の数字を思い出した。
朝には部屋の大きさから浮いて見えた金額が、ここではもう納品と精算として処理されている。
数字だったものが、取引になった。
その感覚だけが、帰る前までしばらく残った。
東都から戻ると、理央が座る場所を作るところから始まった。
「これ、どかしていいですか?」
「その箱は大丈夫です。こっちは仕事で使うので、壁側に」
「はい」
理央が箱を持ち上げ、澪がローテーブルの端を少しずらす。
真壁は自分の資料をまとめて座る位置を空けた。
3人が動いただけで、六畳間の狭さが急に目立った。
もともと一人暮らしの部屋だ。
ベッドがあり、棚があり、生活用品がある。そこへ会社用のPCや資料、商品関係の箱、理央の道具まで増えた。神棚には古い燭台があり、シロガネは空いた場所を当然のように歩いている。
そして、壁の一面には押し入れ。
澪は立ったまま部屋を見回した。
最初にここへ来た時は、狭いとは思っても困らなかった。
一人で暮らせればよかった。
それが押し入れを開け、向こうへ行って物を売り、会社を作った。仕事が増えるにつれて人も増えた。
気づけば、2月だけで3,800万円を超える取引をする会社が、同じ六畳間で箱をずらして人の座る場所を作っている。
「……会社、ここでいいんでしょうか」
澪が言うと、理央が顔を上げた。
「今ですか?」
「今、思いました」
「私は前からちょっと思ってました」
「えっ」
「だって、ここ、普通に澪さんの部屋ですよね」
それを言われると弱い。
「法人の仕事もしてます」
「してますけど、ベッドありますよ」
「ありますね」
「お菓子もあります」
「生活してるので」
「会社なのに生活感がすごいです」
理央は悪気なく言っている。
だから余計に効いた。
真壁が資料を閉じた。
「人が増えた以上、作業場所を分けるのは合理的だ」
「真壁さんもそう思います?」
「ここを使い続ける理由が、狭さを我慢することだけならな」
反対されなかった。
その瞬間、澪の中で「事務所を移す」が急に現実の言葉になった。
広い部屋に仕事用の机があり、理央が来ても箱をどかさなくていい。資料を生活用品と一緒に置かなくて済む棚も置ける。
想像すると、かなり魅力的だった。
「事務所、別に借りましょうか」
「いいと思います」
理央の返事は早い。
真壁も頷いた。
「候補を探してみよう。今すぐ決める必要はない」
「そうですね」
澪はスマホを取ろうとして、手を止めた。
視線が、そのまま押し入れへ向く。
襖は閉まっている。
見た目は何も変わらない。
普通の会社なら、机とPCと書類を運べば移転できる。
押入商会は違う。
「……これ、どうするんです?」
理央も澪の視線を追った。
「あ」
短い声が出た。
真壁も押し入れを見る。
会社の名前にまで入っている設備。
会社の一番大事な出入口。
いや、出入口という言い方でいいのかも怪しい。
「事務所だけ移して、押し入れがここに残ったら」
澪は部屋を見回した。
「結局、ここにも来ますよね」
「来ますね」
理央が即答した。
「仕事場が2つになるだけではないか」
真壁も言った。
「ですよね……」
広い事務所を想像した直後なのに、もう六畳間へ引き戻された。
澪は押し入れの襖を見つめた。
今まで何百回も開けてきた。
開ければ向こうへ行けることは考えても、これ自体を別の場所へ移せるかなんて、一度も考えたことがなかった。
「引っ越しって、押し入れも対象なんですね」
理央がぽつりと言った。
「うちだけだと思います」
澪はそう答えてから、神棚の下で丸くなっているシロガネを見た。
不動産サイトを開く前に、先に聞く相手がいる気がした。
澪が見つめていることに気づいたのか、シロガネが顔を上げた。
「シロガネ」
『なんだ』
「この押し入れって、移せるんですか?」
白い耳が一度だけ動いた。
理央も真壁も、押し入れからシロガネへ視線を移す。
『うつせるぞ』
「……移せるんですか?」
澪は思わず聞き返した。
『土地神がゆるせばうつせるぞ』
あまりにも普通に返ってきたので、澪の方が困った。
今までずっと、この押し入れはこの部屋に固定されたものだと思っていた。
襖を外すとか、枠を切り取るとか、そういう物理的な話ではない。異世界へつながっている場所そのものが、この六畳間に縫い付けられているような感覚だった。
それが、移せる。
その一言で、さっき想像した広い事務所が急に輪郭を持った。
「押し入れ本体を運ぶわけじゃないですよね?」
理央が訊く。
『つながりをうつす』
「新しい場所の押し入れに?」
『押し入れでもよい。しまう場所ならよい』
理央が澪を見る。
「そこ、けっこう自由なんですね」
「私も今知りました」
真壁は驚くより先に次を訊いた。
「許可は、今いる土地と移転先の両方に必要なのか」
『いる』
「現在地から外す許可と、新しい場所へつなぐ許可。それぞれ別ということだな」
『そうだ』
真壁が短く頷いた。
澪は押し入れを見た。
移せる。
ただし勝手には移せない。
普通の引っ越しなら、管理会社や大家や不動産屋と話をする。
押入商会の場合、その一覧に土地神が増えるらしい。
「物件を借りる前に神様へ確認する会社って、あるんですかね」
「神棚を置く会社ならあると思いますけど……」
理央が首を傾げた。
「接続許可までは、たぶん」
「ですよね」
真壁はすでに別の方を見ていた。
「まず現在地だ。移転先はまだ決まっていない。今いる土地から外す許可だけ先に取っておけばよい」
「そうですね」
澪もそこで考えを切り替えた。
新しい物件はまだない。
なら、先に今まで世話になった土地へ挨拶をする。
お願いだけしに行くのは違う気がした。
ここで暮らして、押し入れを開けて、何度も異世界と行き来してきた。
それで今まで大きな問題が起きなかった。
もし土地の側に何かしらの許容があったのなら、先に言うべきなのは「移させてください」ではなく「今までありがとうございました」の方だろう。
「この辺りの土地神って、どちらになるんです?」
シロガネが窓の方へ顔を向けた。
『浅間の社だな』
「浅間……」
澪はスマホを取り、江古田の地図を開いた。
見慣れた地名の中に、神社の名前が出る。
「江古田浅間神社」
理央も画面を覗き込んだ。
「近いですね」
「御祭神は……木花開耶姫命」
澪が読み上げる。
神様の名前が分かった途端、さっきまで会社移転だった話に別の重さが乗った。
燭台の神様とシロガネに続いて、今度は江古田の土地を預かる神様まで関わってくる。
仕事場を広くしたいだけなのに、関係者が人間だけで終わらない。
「今日、行きますか」
澪が言うと、真壁はすぐ頷いた。
「先に礼を通しておこう」
「私も行っていいですか?」
理央が訊く。
「もちろんです」
澪は神棚を見上げた。
古い燭台は、いつものようにそこにある。
「燭台の神様も、一緒に行きましょうか」
炎もない燭台が、ほんのわずかに光を返した気がした。
澪はそれを了承だと受け取った。
午後、4人は江古田浅間神社へ向かった。
4人、と数えていいのかは少し迷う。
澪と真壁、理央にシロガネ。
それに、澪のバッグの中には古い燭台が入っている。
会社の事務所移転について相談しに行く一行としては、かなり変だった。
「日本酒は分かります」
歩きながら、理央が小声で言った。
「はい」
「焼酎も、まあ、お酒だから分かります」
「はい」
「日本円も分かります」
「はい」
理央が澪の持っている包みを見る。
「異世界の金貨まで持っていくんですか?」
「向こうで稼いだ分もありますから」
「会社の引っ越しですよね?」
「会社の引っ越しです」
「だんだん分からなくなってきました」
澪も同じだった。
けれど、日本側で得た物だけを持って礼をするより、異世界側で得た物も一緒にしたかった。
この土地で押し入れを開かなければ、向こうの酒も、金貨も、今ここにはない。
鳥居の前まで来ると、澪は一度立ち止まった。
2月の空気は冷たい。
境内の木々は冬の色を残していて、外の道路から聞こえていた音も、参道へ入ると少し遠くなる。
江古田に住み始めた時、この神社へ会社の相談をしに来ることになるとは思わなかった。
そもそも会社を作るとも思っていなかった。
押し入れが異世界へつながるとも思っていなかった。
そう考えると、予想していなかったことばかりだ。
「行きましょう」
澪が言い、鳥居をくぐった。
シロガネはいつもより少しだけおとなしかった。
真壁も理央も余計なことは言わない。
神前まで進み、用意してきた品を奉納する。
ゲンダイの日本酒と、リュシアたちが造った異世界の焼酎。さらにゲンダイで得た日本円と、異世界で得た金貨もそろえた。
古い燭台も、バッグから出してそばに置いた。
並べてみると、それだけで押入商会がどんな会社なのか説明しているように見えた。
片方だけでは成り立たない。
2つの世界を行き来して、両方から物を持ち帰り、両方で商売をしてきた。
澪は神前へ向き直った。
まず、礼をする。
お願いはその後だ。
江古田で暮らし始めてから、押し入れを何度開けただろう。
最初は市場へ行くだけでも怖かった。帰れなくなったらどうする、向こうで襲われたらどうする、何かをこちらへ連れてきたらどうする。そんなことばかり考えていた。
それでも押し入れを開け、戻って、また開けた。
そのうち人が増え、会社になり、今では六畳間に収まりきらないほど仕事が増えた。
その間、この土地で押し入れが突然閉じることも、六畳間へ帰れなくなることもなかった。
当たり前だと思っていた。
でも、土地にも神様がいて、その上で成り立っていたのなら。
何も起きなかったこと自体が、十分な恩だったのかもしれない。
「今まで、この土地で暮らさせていただいて、ありがとうございました」
澪は声に出した。
次に、会社の仕事場を移すことを考えていること。
その時、押し入れの接続も現在地から外したいこと。
勝手に動かさず、許しをいただきたいことを伝える。
返事はなかった。
風が吹いたわけでもない。
何か光ったわけでもない。
境内は参拝する前と同じだった。
澪はそれでよかった。
神社へ来たからといって、毎回分かりやすく神様が答えてくれる方が、たぶん普通ではない。
理央も静かに頭を下げている。
真壁はいつも通りの姿勢で礼を終えた。
燭台をバッグへ戻し、奉納を終える。
帰る前に、澪は授与された浅間神社のお札を両手で持った。
会社を移す許可が出たかどうかは、まだ分からない。
それでも、お願いだけを置いてきた感じはしなかった。
今までの礼を言えた。
まずはそれで十分だと思った。
鳥居を出て少し歩いたところで、澪は足を止めた。
「……出ました」
理央もほぼ同時に立ち止まる。
「私もです」
真壁は何も言わず、視線だけをわずかに落とした。
スマホではない。
鑑定を通して見える、いつもの掲示板。
ただし、そこに並んでいる名前が1つ増えていた。
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【土地神確認】押し入れ移転について【江古田】
001:燭台
移転希望、確認。
002:鎮守
土地神許可、必要。
003:木花開耶姫命
参拝、確認。
004:木花開耶姫命
奉納、受領。
005:木花開耶姫命
事情、理解。
006:木花開耶姫命
現所在地からの移転、許可。
007:木花開耶姫命
移転先土地神の許可、必要。
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澪は006を読んだあと、もう一度003まで戻った。
「木花開耶姫命……」
「本当に出ましたね」
理央の声が少し上ずっている。
真壁はまず結論だけを拾った。
「現在地から外す許可は得た。次は移転先だな」
「はい」
澪は頷いた。
許可が出た。
それだけで、六畳間から会社を移す話が急に現実味を帯びる。
今までは「できたらいいな」だった。
もう、物件を探して、その土地の神様へお願いすれば、本当に次の場所へ移れる可能性がある。
「……でも」
理央が表示を見たまま言った。
「思ったより、普通に許可出ましたね」
「ちゃんと参拝しましたから」
「そうですけど」
「酒も持っていった」
真壁が言う。
「そこなんですか?」
理央が振り向いた。
その直後、表示が一度消えた。
終わったと思ったところで、また同じ題名が浮かぶ。
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【土地神確認】押し入れ移転について【江古田】
008:木花開耶姫命
異界焼酎、確認。
009:木花開耶姫命
興味深い。
010:燭台
好評、確認。
011:木花開耶姫命
余計。
012:鎮守
日本酒も良好。
013:木花開耶姫命
両方、良好。
014:木花開耶姫命
異界貨幣、珍しい。
015:木花開耶姫命
礼、受領。
----------------------------------
理央が黙った。
澪も黙った。
真壁だけが、ほんの少し口元を緩めた。
「……若い感じしますね」
理央が小声で言う。
「神様ですよ」
「分かってます。でも『余計』って」
澪もそこは気になった。
名前から受ける華やかな印象と、短い投稿の軽さが妙に合っている。
神様らしい格がないわけではない。
ただ、燭台の神様の「休め」「盛るな」とはまた違う。
少し柔らかくて、反応が早い。
「焼酎、気に入っていただけたみたいですね」
「日本酒もだ」
真壁が言う。
「どちらも持ってきて正解でした」
澪はそう言ってから、最後の「礼、受領。」をもう一度見る。
お願いだけではなく、今までの礼も届いた。
それが分かったことの方が、移転許可そのものより少し嬉しかった。
表示が消える。
冬の午後の道は、さっきと何も変わっていない。
けれど澪の中では、六畳間の襖に掛かっていた見えない錠が1つ外れたような気がした。
夕方、六畳間へ戻ると、何も変わっていなかった。
押し入れは同じ場所にある。
ローテーブルも、PCも、仕事用の箱もそのまま。
理央が座る場所を作るために動かした物だけが、少し位置を変えている。
会社の移転許可をもらって帰ってきたのに、見た目だけなら朝とほとんど同じだった。
澪は神棚の前に座った。
受けてきた浅間神社のお札を取り出し、古い燭台の隣へ納める。
少し右へ。
いや、近すぎる気がする。
もう一度ずらす。
「その辺でいいんじゃないですか?」
後ろから理央が言った。
「曲がってません?」
「曲がってないです」
「本当に?」
「澪君、何度動かしても札の形は変わらんぞ」
真壁まで言った。
「位置の話です」
「分かっている」
澪はもう一度だけ直して、そこで手を離した。
古い燭台の隣に、江古田浅間神社のお札が並んだ。
神棚の下には、相変わらず仕事と生活が混ざった六畳間がある。
狭い。
人が3人いれば、誰かが立つ時に少し避ける。
箱を増やせば通り道が減る。
会社の仕事をする場所として、もう十分とは言いにくい。
それでも澪は、この部屋が嫌になったわけではなかった。
ここで一人暮らしを始め、押し入れを開けて、向こうの市場へ初めて足を出した。
怖くなって戻ったこともあったし、売れた物を抱えて喜んだこともあった。
金貨をどう換えるか悩み、税金で頭を抱え、会社を作り、人が増えた。
今では2月だけで3,800万円を超える取引をしている。
それでも、始まりはこの六畳間だった。
「次は物件探しですね」
理央が言った。
「そうですね」
「広いところがいいです」
「それは絶対です」
「作業机も欲しいです」
「それも」
真壁が短く付け加える。
「押し入れに相当する収納空間が必要だ」
「あ」
理央が止まった。
「普通の事務所探しじゃないんでした」
「土地神も確認しないとです」
「条件、多くないですか?」
「今気づきました?」
「今、ちょっと忘れてました」
澪は笑った。
新しい事務所がどこになるのかは、まだ分からない。
江古田の近くかもしれないし、もう少し離れるかもしれない。
そもそも、条件に合う場所がすぐ見つかるとも限らない。
この部屋をどうするかも、まだ決めていない。
ただ、移れることは分かった。
今いる土地から外す許可ももらった。
次へ進める。
それでも、今までここにあったものを切り捨てて進むわけではない。
澪は神棚を少し離れたところから見た。
古い燭台の隣に、新しいお札がある。
その下には押し入れがあり、生活用品があり、会社の箱がある。
シロガネが神棚の近くで丸くなった。
外はもう暗くなり始めている。
六畳間の中には、いつもの灯りがついていた。
会社は、まだここにある。
神棚には、古い燭台と江古田浅間神社のお札が並んでいた。