押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第319話 向かい、空いてます

 

 数日後。

 

 江古田の六畳間で、澪はノートPCの物件検索画面を開いていた。

 

「まず普通の条件から決めましょう」

 

「普通、大事ですね」

 

 理央がローテーブルの反対側から画面を覗き込む。

 

 その膝のすぐ横には仕事用の箱があり、真壁の資料はテーブルの端まで広がっていた。澪の大学の教科書まで混ざっている。

 

 物件を探す理由が、視線を少し動かすだけで全部見える。

 

「江古田周辺。40から60平方メートルくらい。駅から遠すぎない。家賃は……20万円前後まで」

 

 澪は条件を1つずつ入れていった。

 

「20万円」

 

 理央が小さく繰り返す。

 

「高いですよね」

 

「会社の家賃なら、そうでもないんでしょうけど」

 

「でも毎月ですよ」

 

「そうなんですよ」

 

 2月の売上は3,800万円を超えた。

 

 だから20万円くらい気にしなくていい、とは澪にはならない。

 

 一度払えば終わる金額と、毎月必ず出ていく金額は別だ。

 

 しかも、まだ大学生である。

 

 月20万円という数字には、会社代表より先に個人の感覚が反応する。

 

「理央さんは何かあります?」

 

「自分の作業机が置けるところがいいです」

 

「それは入れましょう」

 

「六畳間だと、彫金始めるたびに何かどかしてますから」

 

「……すみません」

 

「責めてないです」

 

 理央は笑った。

 

 真壁は検索結果より、条件を書いた紙を見ていた。

 

「収納は必要だな」

 

 澪の指が止まる。

 

「もう普通じゃなくなりました」

 

「早かったですね」

 

 理央もすぐ続いた。

 

 真壁は気にしない。

 

「異世界接続先を移すなら、閉じられる収納空間が必要だ。奥行きも見た方がいい」

 

「不動産サイトに『異世界接続可』って検索項目はないですよ」

 

「なら写真と間取りを見るしかない」

 

「真壁さん、そこも普通に処理しますね」

 

「条件の1つだろう」

 

 真壁にとっては本当にその程度らしい。

 

 澪は検索条件のメモへ「収納あり」と加えた。

 

「あと駐車場ですね」

 

「ハイエースを置くなら必要だ」

 

「荷物の搬入もしやすい方がいいです」

 

 理央が言う。

 

「できれば入口から遠すぎないところ」

 

「そうですね」

 

 普通の条件に戻ったと思ったところで、澪はもう1つ思い出した。

 

「……土地神」

 

 理央が黙った。

 

「そうでした」

 

「移転先でも許可が必要です」

 

「それ、検索条件に入れられます?」

 

「無理です」

 

「ですよね」

 

 澪は画面を見た。

 

 駅から近く、50㎡前後で、駐車場と収納があること。そこまでは不動産サイトで探せる。

 

 土地神の許可が取れること。

 

 最後だけ、どう考えても不動産サイトの仕事ではない。

 

「とりあえず、人間側の条件で絞りましょう」

 

「その言い方でもう普通じゃないです」

 

 理央に言われた。

 

 検索結果を1件ずつ見ていく。

 

 30㎡台は、写真を見ただけで狭かった。

 

「これ、広くなっても今とあまり変わらないですね」

 

「3人で使うなら余裕がないな」

 

 真壁も落とす。

 

 次は駐車場がない。

 

 保留。

 

 その次は収納が見当たらない。

 

 落とす。

 

 広さは十分でも家賃が高すぎる物件もあった。

 

「ここまで広くなくてもいいですね」

 

「人数に対して過剰だな」

 

 真壁が言う。

 

 何件か見たあと、1つだけ条件の重なりがいい物件が残った。

 

 2階で約50㎡。家賃は20万円前後で、共益費も大きくない。駐車場があり、間取り図には水回りの近くに小さな収納もある。

 

「これ、よくないですか?」

 

 理央が身を乗り出した。

 

「悪くないですね」

 

 澪も所在地を見る。

 

 江古田。

 

 駅から近い。

 

 住所を読み進めたところで、指が止まった。

 

「……あれ」

 

「どうしました?」

 

「いえ」

 

 澪は地図を開いた。

 

 表示された場所を見て、今度は声が出なかった。

 

 画面のすぐそばに、見覚えのある神社名があった。

 

 

 

 内見の手続きを済ませ、3人で物件へ向かった。

 

 江古田なので、澪にとっては完全に生活圏内だ。

 

 駅からも遠くない。

 

 道を歩きながら、澪は頭の中で条件を並べ直していた。

 

 約50㎡。

 

 家賃20万円前後。

 

 共益費は約6,000円。

 

 駐車場あり。

 

 収納あり。

 

 数字だけなら悪くない。

 

 むしろ、今まで見た中では一番まともだった。

 

「……澪さん」

 

 隣を歩いていた理央が、急に足を止めた。

 

「はい?」

 

 理央は道路の向こうを指さしている。

 

 澪もそちらを見る。

 

 見覚えのある鳥居。

 

 数日前、日本酒と異世界の焼酎、日本円と金貨まで持って参拝した場所。

 

「あそこ、この前行った神社ですよね」

 

「そうですね」

 

 道路の向こうには江古田浅間神社。

 

 そして澪たちがこれから見る空き事務所は、そのほぼ向かいだった。

 

 澪は物件情報の地図をもう一度開いた。

 

 分かっていたはずなのに、画面の地図で見る距離と、実際に道路を挟んで見る距離は全然違う。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

「……向かい、空いてますね」

 

 理央が言った。

 

「空いてますね」

 

「出来すぎじゃないですか?」

 

「私もそう思います」

 

 真壁は神社を見た。

 

 次に建物を見る。

 

 道路を見る。

 

 そのまま少し歩き、駐車場の位置を見る。

 

「近いな」

 

 それで終わった。

 

 理央が振り向く。

 

「真壁さん、それだけですか?」

 

「近いのは悪い条件ではない」

 

「そういう問題ですか?」

 

「土地神への確認が必要なら、近い方が話は早いだろう」

 

 理央が澪を見る。

 

 澪も内心では理央寄りだった。

 

 ここまで条件が重なると、偶然と言うには少し出来すぎている。

 

 ただ、だからやめる理由もない。

 

 むしろ物件探しの一番面倒そうだった条件が、道路1本分の距離にある。

 

「……悪くはないですね」

 

「澪さんまで」

 

「でも、悪い理由あります?」

 

「ないですけど」

 

 理央が負けたような顔をした。

 

 建物は派手ではなかった。

 

 小規模な数階建てで、今回の空室は2階。

 

 会社の事務所として使うなら、むしろこれくらい普通の方がいい。

 

 外から見て押入商会だと分かるような要素は何もない。

 

 それがいい。

 

 3人は建物の前で一度立ち止まり、駐車場から入口までの距離を見る。

 

「ハイエースから荷物を降ろして、ここから運べますね」

 

 澪が言う。

 

「距離は短い。悪くないな」

 

 真壁が答えた。

 

 東都向けの資材や会社用品を運ぶなら、車から遠いより近い方がいい。

 

 理央の作業材料もある。

 

 今まで六畳間へ持ち込んでいた物を、今度はこちらへ集めることになる。

 

 入口から2階へ上がる動線も見る。

 

 特別便利というほどではない。

 

 でも不便でもない。

 

 その「普通」が、澪には少し新鮮だった。

 

 六畳間は、会社にするために選んだ部屋ではない。

 

 住んでいた部屋が、そのまま会社になっただけだ。

 

 今度は違う。

 

 初めて、会社として使うために場所を選んでいる。

 

「行きましょうか」

 

 澪が言う。

 

「はい」

 

 理央が答える。

 

 真壁はもう階段の方を見ていた。

 

 3人で2階へ上がる。

 

 途中、澪は一度だけ振り返った。

 

 道路の向こうに浅間神社が見えた。

 

 ここまで近いと、土地神というより向かいのご近所さんみたいだった。

 

 

 

 2階の扉を開けると、最初に感じたのは広さだった。

 

「広い……」

 

 理央の声が少し響いた。

 

「広いですね」

 

 澪も同じことを言う。

 

 まだ机も棚もない空室だから余計に広く見える。

 

 まとまった主室に昼の光が入り、人のいない床へ足音が返ってくる。

 

 約50㎡。

 

 数字では分かっていた。

 

 でも六畳間から来ると、別の種類の建物に見える。

 

「澪さん」

 

「はい」

 

「比較対象が六畳間になってません?」

 

「……なってますね」

 

 理央に言われて気づいた。

 

 50㎡が広いのではなく、六畳間で会社をやっていた方がおかしかったのかもしれない。

 

 理央はすでに自分の作業机を置く場所を探している。

 

「ここなら、彫金の道具を出しても邪魔にならないですね」

 

「机を置いても、その横を普通に歩けますよ」

 

「それが嬉しいです」

 

「基準が低くないですか?」

 

「六畳間基準なので」

 

 言い返せなかった。

 

 澪も主室を見回す。

 

 自分の机。

 

 真壁の机。

 

 理央の作業机。

 

 書棚。

 

 打ち合わせ用のテーブル。

 

 そこまで置いても、まだ人が歩く場所が残りそうだった。

 

 六畳間では、机を増やすという発想そのものが無理だった。

 

「50㎡あれば、この人数なら十分だ」

 

 真壁は部屋の端から端まで視線を走らせている。

 

 広い、と感想を言うより、どこに何を置けば使いやすいかを見ている顔だった。

 

「入口側は来客用。奥を普段の作業側に分ければいいだろう」

 

「応接室を作ります?」

 

「壁を増やすほどではない。テーブルと棚で十分だ」

 

「豪華にはしないんですね」

 

「必要がない」

 

 真壁らしい。

 

 会社が大きくなったからといって、見栄えのためだけに何かを増やす気はない。

 

 澪もその方が安心した。

 

 内装にお金を掛けるより、毎月の固定費が増える方がまだ気になる。

 

 理央が主室の中央まで歩いて、くるりと振り返った。

 

「ベッドもないですし」

 

「事務所なので」

 

「会社っぽいです」

 

「今までも会社です」

 

 理央が黙った。

 

 澪も黙った。

 

「何ですか、その間は」

 

「いえ」

 

「今、何か考えましたよね」

 

「考えてないです」

 

「絶対考えましたよね」

 

 真壁は2人を放って、壁際を見ていた。

 

「棚はこの辺りだな。作業台は奥でもいい」

 

 理央もすぐそちらへ寄る。

 

「私の机、こっちでもいいですか?」

 

「通路を塞がなければ問題ない」

 

「澪さん、ここなら私の道具箱、毎回片づけなくていいですよ」

 

「それだけで喜ばれると、今まで申し訳なくなります」

 

「だから責めてないですって」

 

 澪は笑いながら、改めて空室を見た。

 

 今まで六畳間でも何とかできていた。

 

 そう思っていた。

 

 でも「何とかできていた」は、「十分だった」と同じではない。

 

 3人が離れて立っても窮屈ではない。

 

 誰かが資料を広げても、別の誰かがその横で作業できる。

 

 来客が来ても、ベッドを見られない。

 

 最後の一点だけで、会社の事務所としてかなり前進している気がする。

 

「この広さなら、何人か増えても大丈夫そうですね」

 

 澪が言う。

 

「机は追加できる」

 

 真壁が頷く。

 

「私の場所、先に確保していいですか?」

 

 理央が聞く。

 

「もう確保してる顔してますよ」

 

「ばれました?」

 

 声が少し響く。

 

 まだ何も置かれていない部屋なのに、澪にはもう、六畳間より仕事場らしく見え始めていた。

 

 

 

 主室を一通り見たあと、3人は水回りの方へ移った。

 

 小さな給湯設備。

 

 トイレ。

 

 その近くに、備え付けの収納がある。

 

 普通なら掃除用品や消耗品を入れる程度の場所だろう。

 

 澪は何となく扉を開けた。

 

「……ここ、いけません?」

 

 声が止まったのは、収納の奥にちゃんと壁が見えたからだった。

 

 浅い物入れではない。

 

 人が中へ入って、奥壁の前に立てるくらいの奥行きがある。

 

 真壁もすぐ横へ来た。

 

「奥行きは十分だな」

 

 収納の中へ視線を入れる。

 

 幅と奥壁、扉の位置を見て、人が入った時の向きや、戻ってきた時に外へ出やすいかまで確かめる。

 

 見る場所が主室の時より細かい。

 

「押し入れですか?」

 

 理央が聞いた。

 

「押し入れ候補です」

 

「クローゼットですよね、これ」

 

「シロガネが、しまう場所ならいいって言ってましたから」

 

「そうでした」

 

 理央も中を覗き込む。

 

 澪は数日前の六畳間を思い出していた。

 

 押し入れでなくてもいい。

 

 接続そのものを移す。

 

 閉じられる収納空間なら使える。

 

 そう聞いた時には、まだ具体的な形が浮かんでいなかった。

 

 今は目の前にある。

 

 この扉を開ける。

 

 中へ入る。

 

 奥壁の接続を抜ける。

 

 それだけで、六畳間に残っていた会社の一番大事な機能をここへ移せる。

 

「さっきの広い部屋より真剣に見てません?」

 

 理央が言った。

 

「一番大事なので」

 

「会社の一番大事な場所が水回りの横なんですか」

 

「そう言われると嫌ですね」

 

 澪は一度、収納から顔を出した。

 

 確かに言い方が悪い。

 

 約50㎡の主室より、水回り横の収納の方が重要。

 

 普通の会社なら逆だと思う。

 

「位置としては悪くない」

 

 真壁が言う。

 

「主室の真ん中ではない。来客の目にも入りにくい」

 

 収納の扉を閉める。

 

 見た目はただの備え付け収納だった。

 

 異世界への入口があるとは、誰も思わない。

 

「扉を閉めれば普通ですね」

 

 理央が言う。

 

「そこがいいです」

 

「中身は全然普通じゃないですけど」

 

「外から普通なら十分です」

 

 理央が少し考えてから、主室側へ戻った。

 

 今度は収納の扉を見る位置を変える。

 

「ここからだと、誰かが開けてても全部は見えないですね」

 

「来客がいる時は使わなければいい」

 

 真壁が答えた。

 

「それでも、主室から少し外れている方がいい」

 

 澪も収納から主室へ戻る動線を歩いてみる。

 

 向こうから帰ってきた時。

 

 荷物を持っている時。

 

 理央とすれ違う時。

 

 今の六畳間より、ずっと余裕がある。

 

「ここ、かなりいいですね」

 

 澪は扉へ手を掛けたまま言った。

 

「物件としても悪くない。接続先にも使える」

 

 真壁が頷く。

 

 理央がまた収納を見た。

 

「約50㎡の事務所を見に来て、最後に小さい収納で決まりそうなの、変じゃないですか?」

 

「押入商会なので」

 

「社名が強いですね」

 

 それは少し分かる。

 

 会社名を付けた時には、ここまで本当に押し入れが重要設備になるとは思っていなかった。

 

 澪はもう一度、収納の奥壁を見る。

 

 まだ白い壁しかない。

 

 でも、ここに接続が移れば、その向こうは異世界になる。

 

 何もない壁が、急に会社の中心候補に見えた。

 

 

 

 収納から入口側へ戻りながら、澪は空室を見回した。

 

「机と棚以外、何を入れます?」

 

「最低限でいい」

 

 真壁はすぐ答えた。

 

「壁を増やしたり、応接室を作ったりは?」

 

 理央が少し期待した顔で聞く。

 

「必要ないな」

 

「秘密基地っぽいのは?」

 

「いらん」

 

「即答ですね」

 

 理央が少し残念そうにする。

 

 澪はむしろ安心した。

 

 会社が大きくなったからといって、内装まで急に豪華にする必要はない。

 

 外から見て普通。

 

 中も普通。

 

 その方がいい。

 

「ただし、セキュリティだけは固めたいな」

 

 真壁が入口を見る。

 

 今は普通の鍵が付いているだけだ。

 

「どうするんですか?」

 

「入口はキーカードがいいだろう」

 

 理央が目を丸くした。

 

「会社のカードですか?」

 

「会社のカードですね」

 

 澪が答える。

 

 少しだけ嬉しそうなのが分かる。

 

 真壁は入口の横へ視線を移した。

 

「カードリーダーと電気錠。来客はインターホンで確認して解錠。入口付近に防犯カメラ。窓には補助錠を追加する」

 

「警備会社も?」

 

「契約しておいた方がいい」

 

 どれもゲンダイの会社なら珍しくない設備だった。

 

 異世界の秘密を守る話なのに、出てくるのは普通の防犯設備ばかりだ。

 

 その方が真壁らしい。

 

「魔術とか使わないんですね」

 

 理央が言った。

 

「ゲンダイで不審者を止めるなら、まず鍵だ」

 

 真壁は当然のように返した。

 

「普通の会社が使っている物で足りるなら、それを使えばいい」

 

「急にまともですね」

 

「いつもまともだが」

 

 理央が澪を見る。

 

 澪は目を逸らした。

 

「収納も同じ方式にする。ただし権限は分ける」

 

 真壁が続ける。

 

「事務所に入れるカードと、収納を開けられるカードを別にするんですか?」

 

「カード自体は同じでもいい。利用者ごとに権限を分ければいい」

 

 澪はそこで意味が分かった。

 

「一般社員は入口だけ」

 

「そうだ」

 

「私たちは入口と収納、両方」

 

「そういう運用ができる」

 

 理央が収納の方を見る。

 

「急に秘密施設っぽくなりました」

 

「中身が秘密なので仕方ないです」

 

「さっきまで普通の会社にしようって話してたのに」

 

「外から普通ならいいんです」

 

 理央がまた少し黙った。

 

「澪さんもだいぶ真壁さん側になってません?」

 

「なってません」

 

「今の即答、似てました」

 

 真壁は2人を気にせず、入口から収納までの動線を見ている。

 

 誰がどこまで入れるか。

 

 来客は主室まで。

 

 一般社員も基本はそこまで。

 

 異世界を知る者だけが収納を開けられる。

 

 物理鍵を人数分増やすより、紛失したカードだけ止められる方が扱いやすい。

 

「生体認証とかは?」

 

 理央が聞く。

 

「そこまではいらん」

 

「顔認証とか」

 

「不要だ」

 

「指紋」

 

「不要」

 

「ちょっとくらい秘密基地っぽくしても」

 

「不要だ」

 

 3回目で理央が諦めた。

 

 澪は笑いながら入口を見る。

 

 まだ何も付いていない。

 

 でも、カードリーダーと電気錠が付き、カメラが付き、机が入る。

 

 空室だった場所へ、少しずつ会社の形が見えてきた。

 

 普通に見えること。

 

 それ自体が、この会社では一番大事な防犯かもしれない。

 

 

 

 入口の話をしているうちに、理央は少し迷うような顔になった。

 

「……私もカードもらえます?」

 

「もちろん」

 

 澪が答えると、理央の顔がぱっと明るくなった。

 

「ほんとに会社っぽい」

 

「会社です」

 

「はい」

 

「今、納得してない返事でしたよね」

 

「してますって」

 

 理央は入口の横を見た。

 

 まだカードリーダーはない。

 

 それでも、そこへカードをかざして自分が入ってくる姿を想像しているらしい。

 

 六畳間へアルバイトに来るのとは少し違う。

 

 自分の机があり、自分の入館権限がある。

 

 17歳の理央にとっては、たぶん金額よりその方が分かりやすく「会社」なのだろう。

 

「理央君は収納権限も付けておこう」

 

 真壁が言った。

 

「収納権限」

 

 理央がその言葉を繰り返す。

 

 少し考える。

 

「カードキーで異世界に入る高校生みたいになってません?」

 

「高校には行ってないですけどね」

 

「そこじゃないです」

 

 すぐ返ってきた。

 

 澪は笑った。

 

「でも、カード自体で異世界に入るわけじゃないですよ」

 

「分かってます。収納の扉を開けるだけですよね」

 

「そうです」

 

「分かってるんですけど、言葉にするとすごいです」

 

 理央は手のひらをカードに見立て、入口の横へかざす真似をした。

 

「ピッ」

 

「まだ付いてませんよ」

 

「分かってます」

 

 次に収納の方を見る。

 

「こっちもピッ」

 

「そこもまだです」

 

「分かってますって」

 

 少し楽しそうだった。

 

 真壁はそんな理央を横目で見ながら、運用の方を考えている。

 

「カードIDは個別にする。紛失したらその1枚だけ止める」

 

「はい」

 

「入口権限と収納権限は別設定。将来、一般社員が増えても同じカード方式で分けられる」

 

「普通の社員さんは、入口だけ?」

 

「そうだ」

 

「私たちは収納も?」

 

「理央君は異世界を知っている。仕事でも使う。外す理由がない」

 

 理央は一度だけ真面目な顔になった。

 

「……はい」

 

 その返事は、さっきまでの「会社っぽい」とは少し違った。

 

 押入商会で働くということ。

 

 それは机をもらうことや、カードをもらうことだけではない。

 

 会社の一番大きな秘密へ入れる側にいる、ということでもある。

 

 澪は理央を見た。

 

 六畳間へ初めて来た頃とは、もう立場が違う。

 

 今では異世界へ行き、商人になり、押入商会の仕事にも参加している。

 

 カード1枚に特別な力はない。

 

 でも、そのカードにどこまで開ける権限を付けるかは、理央が今どこにいるのかを分かりやすく示していた。

 

「澪さんも同じカードですか?」

 

「たぶん同じ見た目でしょうね」

 

「社長カードとかないんですか?」

 

「いりませんよ」

 

「黒いやつとか」

 

「いりません」

 

「真壁さん」

 

「不要だ」

 

「聞く前に断られました」

 

 理央が笑う。

 

 澪もつられて笑った。

 

 真壁だけは、入口から収納までの距離を見ている。

 

 その温度差まで含めて、少しずつ新しい事務所らしくなっていく。

 

「カード、楽しみです」

 

 理央が言った。

 

「まだ物件、契約してませんからね」

 

「あ」

 

「順番があります」

 

「忘れてました」

 

 そこだけは、まだ六畳間の会社だった。

 

 

 

 室内を見終え、最後に駐車場へ下りた。

 

 建物の近くに1台分。

 

 ハイエースを置くには十分だった。

 

「駐車場も借りておこう」

 

 真壁が言う。

 

「ハイエース、こっちに置きます?」

 

「その方がいい。会社で使う車だからな」

 

 今までは江古田の六畳間を中心に考えていたから、車もその周辺にあるのが自然だった。

 

 でも事務所を移すなら、会社の車も会社の拠点へ置いた方がいい。

 

 東都へ持っていく資材。

 

 会社用品。

 

 理央の作業材料。

 

 車から降ろして、そのまま事務所へ運べる。

 

 澪はスマホで物件条件をもう一度見た。

 

 家賃は20万円前後。

 

 共益費が約6,000円。

 

 駐車場を入れると、全部で月23万円前後になる。

 

「……毎月23万円」

 

 声にすると重い。

 

 払えない金額ではない。

 

 今の押入商会なら十分払える。

 

 それでも、大学生の自分から見ると、毎月固定で消えていく23万円は大きい。

 

「気になるか」

 

 真壁が訊いた。

 

「気にはなります」

 

「当然だな」

 

「でも」

 

 澪は建物を見上げた。

 

 2階の空室。

 

 約50㎡。

 

 自分たちの机を置ける。

 

 理央の作業場所を作れる。

 

 来客を入れても生活用品を見られない。

 

 収納には異世界接続を移せる可能性がある。

 

 ハイエースもここへ置ける。

 

 六畳間で箱を動かしながら仕事を続けることと比べると、何に払う23万円なのかは分かりやすかった。

 

「会社の場所と、理央さんの作業場所と、押し入れと、車までまとめられるなら……高いだけではないですね」

 

「そういうことだ」

 

 真壁が頷く。

 

 理央は駐車スペースから建物を見上げていた。

 

「事務所があって、カードがあって、駐車場があって、会社の車も置いて」

 

 少し満足そうに言う。

 

「本当に会社っぽくなりますね」

 

「だから前から会社です」

 

 理央が黙った。

 

「またその間ですか」

 

「何も言ってないです」

 

「顔が言ってます」

 

 真壁は道路の向こうへ視線を移した。

 

 浅間神社が見える。

 

「立地も悪くない」

 

「真壁さん、神社の向かいを最後まで立地で処理するんですね」

 

「立地だろう」

 

「そうですけど」

 

 理央が澪を見る。

 

 澪は今回は真壁側だった。

 

「近いのは便利です」

 

「澪さんまで」

 

「土地神への確認もありますし」

 

「どんどん普通の不動産条件みたいに言いますね」

 

 澪は笑いながら、もう一度条件を見る。

 

 江古田で駅から近く、2階の約50㎡。家賃は20万円前後で、共益費は約6,000円。駐車場があり、ハイエースも置ける。

 

 道路の向かいは浅間神社で、接続先に使えそうな収納もある。キーカード式のセキュリティも入れられる。

 

 大きな欠点は思いつかなかった。

 

 澪は画面を閉じた。

 

「ここにしましょう」

 

 言った瞬間、少しだけ胸の奥が動いた。

 

 六畳間から会社を出す。

 

 考え始めた時には、もっと大きな決断に感じていた。

 

 でも実際には、条件を1つずつ見ていったら、最後は案外普通の言葉になった。

 

「異論はない」

 

 真壁が答える。

 

「私も賛成です」

 

 理央もすぐ続いた。

 

 契約はこれから。

 

 設備もまだ何もない。

 

 押し入れの接続を移すのも、その先だ。

 

 それでも、移る場所だけは決まった。

 

 澪は道路の向こうを見る。

 

 数日前には、あちら側の浅間神社からこちらの街を見ていた。

 

 今度は逆だ。

 

 こちら側には、まだ何も置かれていない新しい事務所候補。

 

 2階の空室には、これから机が入り、理央の作業台が入り、入口にはカードリーダーが付く。

 

 水回りの近くにある、今はただの備え付け収納も。

 

 やがて、その奥が異世界へつながる。

 

 六畳間に始まった会社が、ようやく次の場所を決めた。

 

 道路の向こうで、浅間神社の鳥居が見えていた。

 

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