数日後。
江古田の六畳間で、澪はノートPCの物件検索画面を開いていた。
「まず普通の条件から決めましょう」
「普通、大事ですね」
理央がローテーブルの反対側から画面を覗き込む。
その膝のすぐ横には仕事用の箱があり、真壁の資料はテーブルの端まで広がっていた。澪の大学の教科書まで混ざっている。
物件を探す理由が、視線を少し動かすだけで全部見える。
「江古田周辺。40から60平方メートルくらい。駅から遠すぎない。家賃は……20万円前後まで」
澪は条件を1つずつ入れていった。
「20万円」
理央が小さく繰り返す。
「高いですよね」
「会社の家賃なら、そうでもないんでしょうけど」
「でも毎月ですよ」
「そうなんですよ」
2月の売上は3,800万円を超えた。
だから20万円くらい気にしなくていい、とは澪にはならない。
一度払えば終わる金額と、毎月必ず出ていく金額は別だ。
しかも、まだ大学生である。
月20万円という数字には、会社代表より先に個人の感覚が反応する。
「理央さんは何かあります?」
「自分の作業机が置けるところがいいです」
「それは入れましょう」
「六畳間だと、彫金始めるたびに何かどかしてますから」
「……すみません」
「責めてないです」
理央は笑った。
真壁は検索結果より、条件を書いた紙を見ていた。
「収納は必要だな」
澪の指が止まる。
「もう普通じゃなくなりました」
「早かったですね」
理央もすぐ続いた。
真壁は気にしない。
「異世界接続先を移すなら、閉じられる収納空間が必要だ。奥行きも見た方がいい」
「不動産サイトに『異世界接続可』って検索項目はないですよ」
「なら写真と間取りを見るしかない」
「真壁さん、そこも普通に処理しますね」
「条件の1つだろう」
真壁にとっては本当にその程度らしい。
澪は検索条件のメモへ「収納あり」と加えた。
「あと駐車場ですね」
「ハイエースを置くなら必要だ」
「荷物の搬入もしやすい方がいいです」
理央が言う。
「できれば入口から遠すぎないところ」
「そうですね」
普通の条件に戻ったと思ったところで、澪はもう1つ思い出した。
「……土地神」
理央が黙った。
「そうでした」
「移転先でも許可が必要です」
「それ、検索条件に入れられます?」
「無理です」
「ですよね」
澪は画面を見た。
駅から近く、50㎡前後で、駐車場と収納があること。そこまでは不動産サイトで探せる。
土地神の許可が取れること。
最後だけ、どう考えても不動産サイトの仕事ではない。
「とりあえず、人間側の条件で絞りましょう」
「その言い方でもう普通じゃないです」
理央に言われた。
検索結果を1件ずつ見ていく。
30㎡台は、写真を見ただけで狭かった。
「これ、広くなっても今とあまり変わらないですね」
「3人で使うなら余裕がないな」
真壁も落とす。
次は駐車場がない。
保留。
その次は収納が見当たらない。
落とす。
広さは十分でも家賃が高すぎる物件もあった。
「ここまで広くなくてもいいですね」
「人数に対して過剰だな」
真壁が言う。
何件か見たあと、1つだけ条件の重なりがいい物件が残った。
2階で約50㎡。家賃は20万円前後で、共益費も大きくない。駐車場があり、間取り図には水回りの近くに小さな収納もある。
「これ、よくないですか?」
理央が身を乗り出した。
「悪くないですね」
澪も所在地を見る。
江古田。
駅から近い。
住所を読み進めたところで、指が止まった。
「……あれ」
「どうしました?」
「いえ」
澪は地図を開いた。
表示された場所を見て、今度は声が出なかった。
画面のすぐそばに、見覚えのある神社名があった。
内見の手続きを済ませ、3人で物件へ向かった。
江古田なので、澪にとっては完全に生活圏内だ。
駅からも遠くない。
道を歩きながら、澪は頭の中で条件を並べ直していた。
約50㎡。
家賃20万円前後。
共益費は約6,000円。
駐車場あり。
収納あり。
数字だけなら悪くない。
むしろ、今まで見た中では一番まともだった。
「……澪さん」
隣を歩いていた理央が、急に足を止めた。
「はい?」
理央は道路の向こうを指さしている。
澪もそちらを見る。
見覚えのある鳥居。
数日前、日本酒と異世界の焼酎、日本円と金貨まで持って参拝した場所。
「あそこ、この前行った神社ですよね」
「そうですね」
道路の向こうには江古田浅間神社。
そして澪たちがこれから見る空き事務所は、そのほぼ向かいだった。
澪は物件情報の地図をもう一度開いた。
分かっていたはずなのに、画面の地図で見る距離と、実際に道路を挟んで見る距離は全然違う。
近い。
近すぎる。
「……向かい、空いてますね」
理央が言った。
「空いてますね」
「出来すぎじゃないですか?」
「私もそう思います」
真壁は神社を見た。
次に建物を見る。
道路を見る。
そのまま少し歩き、駐車場の位置を見る。
「近いな」
それで終わった。
理央が振り向く。
「真壁さん、それだけですか?」
「近いのは悪い条件ではない」
「そういう問題ですか?」
「土地神への確認が必要なら、近い方が話は早いだろう」
理央が澪を見る。
澪も内心では理央寄りだった。
ここまで条件が重なると、偶然と言うには少し出来すぎている。
ただ、だからやめる理由もない。
むしろ物件探しの一番面倒そうだった条件が、道路1本分の距離にある。
「……悪くはないですね」
「澪さんまで」
「でも、悪い理由あります?」
「ないですけど」
理央が負けたような顔をした。
建物は派手ではなかった。
小規模な数階建てで、今回の空室は2階。
会社の事務所として使うなら、むしろこれくらい普通の方がいい。
外から見て押入商会だと分かるような要素は何もない。
それがいい。
3人は建物の前で一度立ち止まり、駐車場から入口までの距離を見る。
「ハイエースから荷物を降ろして、ここから運べますね」
澪が言う。
「距離は短い。悪くないな」
真壁が答えた。
東都向けの資材や会社用品を運ぶなら、車から遠いより近い方がいい。
理央の作業材料もある。
今まで六畳間へ持ち込んでいた物を、今度はこちらへ集めることになる。
入口から2階へ上がる動線も見る。
特別便利というほどではない。
でも不便でもない。
その「普通」が、澪には少し新鮮だった。
六畳間は、会社にするために選んだ部屋ではない。
住んでいた部屋が、そのまま会社になっただけだ。
今度は違う。
初めて、会社として使うために場所を選んでいる。
「行きましょうか」
澪が言う。
「はい」
理央が答える。
真壁はもう階段の方を見ていた。
3人で2階へ上がる。
途中、澪は一度だけ振り返った。
道路の向こうに浅間神社が見えた。
ここまで近いと、土地神というより向かいのご近所さんみたいだった。
2階の扉を開けると、最初に感じたのは広さだった。
「広い……」
理央の声が少し響いた。
「広いですね」
澪も同じことを言う。
まだ机も棚もない空室だから余計に広く見える。
まとまった主室に昼の光が入り、人のいない床へ足音が返ってくる。
約50㎡。
数字では分かっていた。
でも六畳間から来ると、別の種類の建物に見える。
「澪さん」
「はい」
「比較対象が六畳間になってません?」
「……なってますね」
理央に言われて気づいた。
50㎡が広いのではなく、六畳間で会社をやっていた方がおかしかったのかもしれない。
理央はすでに自分の作業机を置く場所を探している。
「ここなら、彫金の道具を出しても邪魔にならないですね」
「机を置いても、その横を普通に歩けますよ」
「それが嬉しいです」
「基準が低くないですか?」
「六畳間基準なので」
言い返せなかった。
澪も主室を見回す。
自分の机。
真壁の机。
理央の作業机。
書棚。
打ち合わせ用のテーブル。
そこまで置いても、まだ人が歩く場所が残りそうだった。
六畳間では、机を増やすという発想そのものが無理だった。
「50㎡あれば、この人数なら十分だ」
真壁は部屋の端から端まで視線を走らせている。
広い、と感想を言うより、どこに何を置けば使いやすいかを見ている顔だった。
「入口側は来客用。奥を普段の作業側に分ければいいだろう」
「応接室を作ります?」
「壁を増やすほどではない。テーブルと棚で十分だ」
「豪華にはしないんですね」
「必要がない」
真壁らしい。
会社が大きくなったからといって、見栄えのためだけに何かを増やす気はない。
澪もその方が安心した。
内装にお金を掛けるより、毎月の固定費が増える方がまだ気になる。
理央が主室の中央まで歩いて、くるりと振り返った。
「ベッドもないですし」
「事務所なので」
「会社っぽいです」
「今までも会社です」
理央が黙った。
澪も黙った。
「何ですか、その間は」
「いえ」
「今、何か考えましたよね」
「考えてないです」
「絶対考えましたよね」
真壁は2人を放って、壁際を見ていた。
「棚はこの辺りだな。作業台は奥でもいい」
理央もすぐそちらへ寄る。
「私の机、こっちでもいいですか?」
「通路を塞がなければ問題ない」
「澪さん、ここなら私の道具箱、毎回片づけなくていいですよ」
「それだけで喜ばれると、今まで申し訳なくなります」
「だから責めてないですって」
澪は笑いながら、改めて空室を見た。
今まで六畳間でも何とかできていた。
そう思っていた。
でも「何とかできていた」は、「十分だった」と同じではない。
3人が離れて立っても窮屈ではない。
誰かが資料を広げても、別の誰かがその横で作業できる。
来客が来ても、ベッドを見られない。
最後の一点だけで、会社の事務所としてかなり前進している気がする。
「この広さなら、何人か増えても大丈夫そうですね」
澪が言う。
「机は追加できる」
真壁が頷く。
「私の場所、先に確保していいですか?」
理央が聞く。
「もう確保してる顔してますよ」
「ばれました?」
声が少し響く。
まだ何も置かれていない部屋なのに、澪にはもう、六畳間より仕事場らしく見え始めていた。
主室を一通り見たあと、3人は水回りの方へ移った。
小さな給湯設備。
トイレ。
その近くに、備え付けの収納がある。
普通なら掃除用品や消耗品を入れる程度の場所だろう。
澪は何となく扉を開けた。
「……ここ、いけません?」
声が止まったのは、収納の奥にちゃんと壁が見えたからだった。
浅い物入れではない。
人が中へ入って、奥壁の前に立てるくらいの奥行きがある。
真壁もすぐ横へ来た。
「奥行きは十分だな」
収納の中へ視線を入れる。
幅と奥壁、扉の位置を見て、人が入った時の向きや、戻ってきた時に外へ出やすいかまで確かめる。
見る場所が主室の時より細かい。
「押し入れですか?」
理央が聞いた。
「押し入れ候補です」
「クローゼットですよね、これ」
「シロガネが、しまう場所ならいいって言ってましたから」
「そうでした」
理央も中を覗き込む。
澪は数日前の六畳間を思い出していた。
押し入れでなくてもいい。
接続そのものを移す。
閉じられる収納空間なら使える。
そう聞いた時には、まだ具体的な形が浮かんでいなかった。
今は目の前にある。
この扉を開ける。
中へ入る。
奥壁の接続を抜ける。
それだけで、六畳間に残っていた会社の一番大事な機能をここへ移せる。
「さっきの広い部屋より真剣に見てません?」
理央が言った。
「一番大事なので」
「会社の一番大事な場所が水回りの横なんですか」
「そう言われると嫌ですね」
澪は一度、収納から顔を出した。
確かに言い方が悪い。
約50㎡の主室より、水回り横の収納の方が重要。
普通の会社なら逆だと思う。
「位置としては悪くない」
真壁が言う。
「主室の真ん中ではない。来客の目にも入りにくい」
収納の扉を閉める。
見た目はただの備え付け収納だった。
異世界への入口があるとは、誰も思わない。
「扉を閉めれば普通ですね」
理央が言う。
「そこがいいです」
「中身は全然普通じゃないですけど」
「外から普通なら十分です」
理央が少し考えてから、主室側へ戻った。
今度は収納の扉を見る位置を変える。
「ここからだと、誰かが開けてても全部は見えないですね」
「来客がいる時は使わなければいい」
真壁が答えた。
「それでも、主室から少し外れている方がいい」
澪も収納から主室へ戻る動線を歩いてみる。
向こうから帰ってきた時。
荷物を持っている時。
理央とすれ違う時。
今の六畳間より、ずっと余裕がある。
「ここ、かなりいいですね」
澪は扉へ手を掛けたまま言った。
「物件としても悪くない。接続先にも使える」
真壁が頷く。
理央がまた収納を見た。
「約50㎡の事務所を見に来て、最後に小さい収納で決まりそうなの、変じゃないですか?」
「押入商会なので」
「社名が強いですね」
それは少し分かる。
会社名を付けた時には、ここまで本当に押し入れが重要設備になるとは思っていなかった。
澪はもう一度、収納の奥壁を見る。
まだ白い壁しかない。
でも、ここに接続が移れば、その向こうは異世界になる。
何もない壁が、急に会社の中心候補に見えた。
収納から入口側へ戻りながら、澪は空室を見回した。
「机と棚以外、何を入れます?」
「最低限でいい」
真壁はすぐ答えた。
「壁を増やしたり、応接室を作ったりは?」
理央が少し期待した顔で聞く。
「必要ないな」
「秘密基地っぽいのは?」
「いらん」
「即答ですね」
理央が少し残念そうにする。
澪はむしろ安心した。
会社が大きくなったからといって、内装まで急に豪華にする必要はない。
外から見て普通。
中も普通。
その方がいい。
「ただし、セキュリティだけは固めたいな」
真壁が入口を見る。
今は普通の鍵が付いているだけだ。
「どうするんですか?」
「入口はキーカードがいいだろう」
理央が目を丸くした。
「会社のカードですか?」
「会社のカードですね」
澪が答える。
少しだけ嬉しそうなのが分かる。
真壁は入口の横へ視線を移した。
「カードリーダーと電気錠。来客はインターホンで確認して解錠。入口付近に防犯カメラ。窓には補助錠を追加する」
「警備会社も?」
「契約しておいた方がいい」
どれもゲンダイの会社なら珍しくない設備だった。
異世界の秘密を守る話なのに、出てくるのは普通の防犯設備ばかりだ。
その方が真壁らしい。
「魔術とか使わないんですね」
理央が言った。
「ゲンダイで不審者を止めるなら、まず鍵だ」
真壁は当然のように返した。
「普通の会社が使っている物で足りるなら、それを使えばいい」
「急にまともですね」
「いつもまともだが」
理央が澪を見る。
澪は目を逸らした。
「収納も同じ方式にする。ただし権限は分ける」
真壁が続ける。
「事務所に入れるカードと、収納を開けられるカードを別にするんですか?」
「カード自体は同じでもいい。利用者ごとに権限を分ければいい」
澪はそこで意味が分かった。
「一般社員は入口だけ」
「そうだ」
「私たちは入口と収納、両方」
「そういう運用ができる」
理央が収納の方を見る。
「急に秘密施設っぽくなりました」
「中身が秘密なので仕方ないです」
「さっきまで普通の会社にしようって話してたのに」
「外から普通ならいいんです」
理央がまた少し黙った。
「澪さんもだいぶ真壁さん側になってません?」
「なってません」
「今の即答、似てました」
真壁は2人を気にせず、入口から収納までの動線を見ている。
誰がどこまで入れるか。
来客は主室まで。
一般社員も基本はそこまで。
異世界を知る者だけが収納を開けられる。
物理鍵を人数分増やすより、紛失したカードだけ止められる方が扱いやすい。
「生体認証とかは?」
理央が聞く。
「そこまではいらん」
「顔認証とか」
「不要だ」
「指紋」
「不要」
「ちょっとくらい秘密基地っぽくしても」
「不要だ」
3回目で理央が諦めた。
澪は笑いながら入口を見る。
まだ何も付いていない。
でも、カードリーダーと電気錠が付き、カメラが付き、机が入る。
空室だった場所へ、少しずつ会社の形が見えてきた。
普通に見えること。
それ自体が、この会社では一番大事な防犯かもしれない。
入口の話をしているうちに、理央は少し迷うような顔になった。
「……私もカードもらえます?」
「もちろん」
澪が答えると、理央の顔がぱっと明るくなった。
「ほんとに会社っぽい」
「会社です」
「はい」
「今、納得してない返事でしたよね」
「してますって」
理央は入口の横を見た。
まだカードリーダーはない。
それでも、そこへカードをかざして自分が入ってくる姿を想像しているらしい。
六畳間へアルバイトに来るのとは少し違う。
自分の机があり、自分の入館権限がある。
17歳の理央にとっては、たぶん金額よりその方が分かりやすく「会社」なのだろう。
「理央君は収納権限も付けておこう」
真壁が言った。
「収納権限」
理央がその言葉を繰り返す。
少し考える。
「カードキーで異世界に入る高校生みたいになってません?」
「高校には行ってないですけどね」
「そこじゃないです」
すぐ返ってきた。
澪は笑った。
「でも、カード自体で異世界に入るわけじゃないですよ」
「分かってます。収納の扉を開けるだけですよね」
「そうです」
「分かってるんですけど、言葉にするとすごいです」
理央は手のひらをカードに見立て、入口の横へかざす真似をした。
「ピッ」
「まだ付いてませんよ」
「分かってます」
次に収納の方を見る。
「こっちもピッ」
「そこもまだです」
「分かってますって」
少し楽しそうだった。
真壁はそんな理央を横目で見ながら、運用の方を考えている。
「カードIDは個別にする。紛失したらその1枚だけ止める」
「はい」
「入口権限と収納権限は別設定。将来、一般社員が増えても同じカード方式で分けられる」
「普通の社員さんは、入口だけ?」
「そうだ」
「私たちは収納も?」
「理央君は異世界を知っている。仕事でも使う。外す理由がない」
理央は一度だけ真面目な顔になった。
「……はい」
その返事は、さっきまでの「会社っぽい」とは少し違った。
押入商会で働くということ。
それは机をもらうことや、カードをもらうことだけではない。
会社の一番大きな秘密へ入れる側にいる、ということでもある。
澪は理央を見た。
六畳間へ初めて来た頃とは、もう立場が違う。
今では異世界へ行き、商人になり、押入商会の仕事にも参加している。
カード1枚に特別な力はない。
でも、そのカードにどこまで開ける権限を付けるかは、理央が今どこにいるのかを分かりやすく示していた。
「澪さんも同じカードですか?」
「たぶん同じ見た目でしょうね」
「社長カードとかないんですか?」
「いりませんよ」
「黒いやつとか」
「いりません」
「真壁さん」
「不要だ」
「聞く前に断られました」
理央が笑う。
澪もつられて笑った。
真壁だけは、入口から収納までの距離を見ている。
その温度差まで含めて、少しずつ新しい事務所らしくなっていく。
「カード、楽しみです」
理央が言った。
「まだ物件、契約してませんからね」
「あ」
「順番があります」
「忘れてました」
そこだけは、まだ六畳間の会社だった。
室内を見終え、最後に駐車場へ下りた。
建物の近くに1台分。
ハイエースを置くには十分だった。
「駐車場も借りておこう」
真壁が言う。
「ハイエース、こっちに置きます?」
「その方がいい。会社で使う車だからな」
今までは江古田の六畳間を中心に考えていたから、車もその周辺にあるのが自然だった。
でも事務所を移すなら、会社の車も会社の拠点へ置いた方がいい。
東都へ持っていく資材。
会社用品。
理央の作業材料。
車から降ろして、そのまま事務所へ運べる。
澪はスマホで物件条件をもう一度見た。
家賃は20万円前後。
共益費が約6,000円。
駐車場を入れると、全部で月23万円前後になる。
「……毎月23万円」
声にすると重い。
払えない金額ではない。
今の押入商会なら十分払える。
それでも、大学生の自分から見ると、毎月固定で消えていく23万円は大きい。
「気になるか」
真壁が訊いた。
「気にはなります」
「当然だな」
「でも」
澪は建物を見上げた。
2階の空室。
約50㎡。
自分たちの机を置ける。
理央の作業場所を作れる。
来客を入れても生活用品を見られない。
収納には異世界接続を移せる可能性がある。
ハイエースもここへ置ける。
六畳間で箱を動かしながら仕事を続けることと比べると、何に払う23万円なのかは分かりやすかった。
「会社の場所と、理央さんの作業場所と、押し入れと、車までまとめられるなら……高いだけではないですね」
「そういうことだ」
真壁が頷く。
理央は駐車スペースから建物を見上げていた。
「事務所があって、カードがあって、駐車場があって、会社の車も置いて」
少し満足そうに言う。
「本当に会社っぽくなりますね」
「だから前から会社です」
理央が黙った。
「またその間ですか」
「何も言ってないです」
「顔が言ってます」
真壁は道路の向こうへ視線を移した。
浅間神社が見える。
「立地も悪くない」
「真壁さん、神社の向かいを最後まで立地で処理するんですね」
「立地だろう」
「そうですけど」
理央が澪を見る。
澪は今回は真壁側だった。
「近いのは便利です」
「澪さんまで」
「土地神への確認もありますし」
「どんどん普通の不動産条件みたいに言いますね」
澪は笑いながら、もう一度条件を見る。
江古田で駅から近く、2階の約50㎡。家賃は20万円前後で、共益費は約6,000円。駐車場があり、ハイエースも置ける。
道路の向かいは浅間神社で、接続先に使えそうな収納もある。キーカード式のセキュリティも入れられる。
大きな欠点は思いつかなかった。
澪は画面を閉じた。
「ここにしましょう」
言った瞬間、少しだけ胸の奥が動いた。
六畳間から会社を出す。
考え始めた時には、もっと大きな決断に感じていた。
でも実際には、条件を1つずつ見ていったら、最後は案外普通の言葉になった。
「異論はない」
真壁が答える。
「私も賛成です」
理央もすぐ続いた。
契約はこれから。
設備もまだ何もない。
押し入れの接続を移すのも、その先だ。
それでも、移る場所だけは決まった。
澪は道路の向こうを見る。
数日前には、あちら側の浅間神社からこちらの街を見ていた。
今度は逆だ。
こちら側には、まだ何も置かれていない新しい事務所候補。
2階の空室には、これから机が入り、理央の作業台が入り、入口にはカードリーダーが付く。
水回りの近くにある、今はただの備え付け収納も。
やがて、その奥が異世界へつながる。
六畳間に始まった会社が、ようやく次の場所を決めた。
道路の向こうで、浅間神社の鳥居が見えていた。