押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第32話 押入商会、法人化を考える

 

 銀行アプリの数字は、軽かった。

 

 画面の中でただ白く光っているだけで、音もしない。重さもない。けれど澪は、そこに並んだ桁を見た瞬間、胸の奥へ冷たいものを押し込まれたように動けなくなった。

 

 約4,400万円。

 

 少し前まで、銀行残高は約286,000円で、カードの引き落とし予定が約258,000円だった。実質、自由に動かせる円は約50,000円前後。そこから急に、4桁万円の数字が画面に出ている。

 

 増えた。

 

 増えすぎた。

 

「これ、全部あたしのお金じゃないですよね」

 

 誰に聞いたわけでもないのに、声が出た。

 

 机の上には、買取明細が置いてある。白金粒の重量、品位確認、査定額、振込予定。きちんとした紙で、きちんとした手続きで、きちんと澪の名前が入っている。そのきちんとしたものが、一番怖かった。

 

 金洗い場の泥。湿った麻袋。人夫たちの手間賃。リュシアが小皿へ分けた正金貨。修さんの忠告。買取店のカウンター。これから払う税金。

 

 銀行アプリの数字は軽く光っているだけなのに、その後ろにいろいろなものがぶら下がっている。

 

 一瞬だけ、広い部屋が頭をよぎった。新しい家具、ちゃんとした冷蔵庫、外食、服、少し良い布団。それから、すぐに税金という文字が浮かんだ。

 

 澪はスマホを持ち替え、ChatGPT先生を開いた。

 

「白金の買取で約4,400万円が個人口座に入金されました。大学生ですが、現代品の仕入れ販売も継続しています。税金、事業用口座、法人化について、何を先にすべきですか」

 

 送信してから、澪は少しだけ机に額を近づけた。

 

 返ってきた文章は、いつものように冷静だった。税額を断定せず、まず税理士に相談すること、買取明細や売却記録、取得や仕入れに関する記録を保存すること、生活費と事業資金を分けること、大口の貴金属買取は記録される前提で申告を考えること、すでに個人で売却した白金を後から法人売上にしないことが並んでいた。

 

 今後の取引は、個人事業か法人として整理する必要があるかもしれない。開業届、青色申告、事業用口座、帳簿ソフト、在庫管理。法人化は税理士と相談し、売上規模、継続性、コスト、責任を見て判断する。

 

 澪は、画面をスクロールして、もう一度同じところに戻った。

 

「税理士に相談してください」

 

 また出てきた。

 

 少し下にも出てきた。

 

 別の表現でも出てきた。

 

「ChatGPT先生が、今日は全然逃がしてくれない」

 

 澪はスマホを置き、ノートを開いた。

 

 最初に大きく書いた。

 

 税金用。

 

 その横に、絶対に使わない、と書きかけて、いったん止まった。絶対という言葉が怖かったので、線を引いて、税理士確認まで動かさない、と書き直す。

 

「税金分、見たら負け」

 

 口に出してから、澪はペンを止めた。

 

「いや、見ないと駄目」

 

 買取明細の金額を横目で見る。

 

「でも使ったら終わり」

 

 ノートの上で、税金用、仕入れ用、生活費、現代側設備、予備、と欄を分ける。銀行口座はまだひとつだ。実際に分けるには手続きがいる。だから今は帳面上で分けるしかない。

 

 けれど、分けると決めることだけは、今すぐできる。

 

 澪は、税金用の欄を太く囲んだ。

 

 見たら負けではない。

 

 使ったら負けだ。

 

 

 

 

 

 修さんの店へ行く時、澪はいつもより少し重い鞄を持っていた。

 

 中には買取明細のコピー、白い重砂の購入記録、現代側の仕入れレシートをまとめたファイルが入っている。異世界のことは書いていない。押し入れとも書いていない。ただ、説明できる範囲で、何がいつ動いたかを紙にしていた。

 

 飯島修一郎は、いつもの作業机の向こうで眼鏡を少し上げた。

 

「澪ちゃん、顔が硬いね」

 

「買取金が入りました」

 

「ああ、例の白い金属粒か」

 

「はい。まとまった金額になりました。税金と記録が怖いです。個人の口座で受け取ってしまいました。今後も、仕入れ販売が続きそうです」

 

 修さんは、澪の言葉を最後まで聞いてから、手元の磨き布を置いた。

 

「お金が入った時ほど、先に分けるんだよ」

 

「分けます」

 

「買取明細は捨てない」

 

「捨てません」

 

「説明できないお金は、商売の足を引っ張る」

 

 澪は、鞄の持ち手を握り直した。

 

「はい」

 

「澪ちゃん、税理士に行きなさい」

 

 言い方は穏やかだったが、逃げ道はなかった。

 

「やっぱり、行くしかないですか」

 

「僕は貴金属や作業の話はできる。でも税務判断は税理士の仕事。金額が大きいし、今後も商売として続くなら、早いうちに相談した方がいい」

 

 修さんは、机の端に置いてあった小さなケースを閉じた。

 

「それと、個人のお金と商売のお金は混ぜない方がいい。最初は面倒でも、後から自分を助ける」

 

「今、混ざっています」

 

「なら、今から分ける」

 

 澪は観念した。

 

 帰り道、スマホで「税理士 初回相談」「貴金属 売却益 税理士」「個人事業 法人化 相談」と検索した。検索候補が増えるたび、心拍数も増えた。

 

「異世界とは言わない」

 

 信号待ちで、澪は小さく呟いた。

 

「押し入れとも言わない」

 

 青信号になり、人の流れに合わせて歩き出す。

 

「でも、税金は払う」

 

 その日の夜、澪は若手税理士の初回相談を予約した。名前は明石さん。紹介文には、個人事業と小規模法人の立ち上げ、帳簿整理、創業相談に対応と書いてあった。

 

 澪は予約完了画面を見て、しばらく黙った。

 

 税理士に会う。

 

 それだけで、押入商会が冗談から少し離れた気がした。

 

 

 

 

 

 明石さんの事務所は、思っていたよりも明るかった。

 

 白い壁に、低い棚。机の上にはノートパソコンと、書類を挟むクリップボードが置かれている。明石さんは若かった。澪より少し年上に見えるくらいで、柔らかい色のジャケットを着ている。けれど、名刺を差し出す手つきも、書類を受け取る時の視線も、浮ついてはいなかった。

 

「篠原澪さんですね。明石です。今日は、まず事実関係を分けましょう」

 

 その一言で、澪は少しだけ息がしやすくなった。

 

「はい」

 

 澪は持ってきたファイルを机の上に出した。買取明細、入金の控え、白い重砂の購入記録に相当する帳面、リュシアへの支払い記録、現代側の仕入れレシート、侯爵家公認品の材料費メモ。侯爵家という言葉はそのまま書けないので、取引先Aとぼかしてある。異世界の部分は、知人経由の素材、海外由来の雑貨的な仕入れ、と説明できるところだけに抑えている。

 

 明石さんは、面白がる顔をしなかった。

 

 それが、澪にはありがたかった。

 

「白金の売却は、すでに個人名義で売却済みですね」

 

「はい。個人口座に入金されています」

 

「では、それは個人の申告対象として整理します。所得区分は、継続性や取得経緯、取引実態を見て判断します。ここで即断しません」

 

「即断しないんですね」

 

「しません。金額が大きい時ほど、先に結論を置かない方が安全です」

 

 澪は、膝の上で手を握った。

 

 明石さんは、買取明細に付箋を貼り、次に通帳アプリの入出金メモを見た。

 

「個人の生活費、仕入れ、買取入金、カード引き落としが、同じ口座で動いていますね」

 

「はい」

 

 明石さんは眉を少し寄せたが、責める声にはならなかった。

 

「今から分ければ大丈夫です。ただ、このまま混ぜ続けるのは危険です」

 

「危険」

 

「生活費なのか、仕入れなのか、在庫なのか、売上なのか、後から説明しにくくなります」

 

 澪は、六畳間の床に散らばるレシートを思い出した。グラデーションストーン、銀材、ネックレス箱、洗浄用品、大豆、ペットボトル関係。店のレシートも、通販の明細も、まだ箱に突っ込んである。

 

 明石さんは、メモ用紙を1枚引き寄せた。

 

「まず、事業用の口座を作りましょう。生活費口座とは分けます。可能なら事業用のクレジットカードも分けた方がいいです。現金で動いたものも、帳面に記録してください。レシート、買取明細、請求書、納品書は保存。在庫表も作ります」

 

「在庫表」

 

「今、材料や商品がありますよね」

 

「あります」

 

「それが、いくらで仕入れたものか、どれだけ残っているか。そこを分かるようにします」

 

 澪の頭の中で、六畳間の段ボールが一斉にこちらを見た気がした。

 

「部屋が、怒られそうです」

 

「部屋は怒りませんが、帳簿は後で怒ります」

 

 明石さんは真面目な顔で言った。

 

 澪は、少しだけ笑いそうになり、それでも笑えなかった。

 

 

 

 

 

「今後も継続するなら、個人事業として整える方向を考えましょう」

 

 明石さんは、書類を横へ置き、新しい紙に項目を書いていった。開業届。青色申告。帳簿ソフト。在庫管理。事業用口座。売上、仕入れ、在庫、経費、生活費の分離。

 

 澪は、知らない単語ではないのに、自分の名前と並ぶと急に重くなるのを感じた。

 

「屋号はありますか」

 

 明石さんが聞いた。

 

 澪は固まった。

 

「……押入商会」

 

「押入商会」

 

「はい」

 

 明石さんのペンが、一瞬だけ止まった。

 

 笑われると思った。

 

 けれど、明石さんは笑わなかった。きちんと紙に「押入商会」と書いた。

 

「分かりました。屋号として使うなら、その名前で帳簿を整えましょう」

 

 澪は、紙の上の文字を見た。

 

 押入商会。

 

 冗談みたいな名前だった。

 

 でも、税理士のペンで書かれると、冗談の逃げ場がなくなる。

 

「法人化は、どうなんでしょうか」

 

 澪は恐る恐る聞いた。

 

 明石さんはすぐには答えず、手元の紙を少し整えた。

 

「法人化は、今日決める話ではありません」

 

「今日じゃない」

 

「はい。今後の売上規模、継続性、利益、責任分離、取引先、社会保険、役員報酬、会計コストを見て判断します。節税だけで法人化すると、管理コストで苦しくなることもあります」

 

「管理コスト」

 

「法人を作ると、会計も届出も、個人より重くなります。けれど、押入商会として継続的に仕入れ販売をするなら、将来的に検討する価値はあります」

 

 明石さんは、そこで少しだけ声を区切った。

 

「ただし、白金の売却済み分を、後から法人売上に付け替えることは考えないでください。すでに個人名義で売却済みですから、そこは個人の申告として整理します」

 

「はい」

 

「法人にするなら、法人設立後の取引を法人に乗せる。個人から法人へ在庫や資産を移す場合も、記録が必要です」

 

 澪は、押し入れの向こう側に積まれている金貨や材料を思い出しかけ、慌てて頭から追い出した。

 

「押入商会が、本当に会社になるんですか」

 

「なるかどうかは、篠原さんが続けるかどうかです」

 

 明石さんはそう言って、澪の前にメモを戻した。

 

「今日は、まず白金売却済み分と、今後の押入商会の取引を分けましょう。そこからです」

 

 澪は頷いた。

 

 押し入れの向こうに店を広げることより、まずこちら側の帳面を分けること。

 

 それが、現代側での最初の仕事だった。

 

 

 

 

 

 帰宅して、澪は机に2種類のメモを並べた。

 

 ChatGPT先生のメモは、やることが整然と並んでいる。税理士へ相談。税金分を隔離。記録を保存。個人と事業の財布を分ける。法人化は今後の継続取引について検討。

 

 明石さんのメモは、もっと現実の手触りがあった。買取明細の保存場所。個人口座の入出金整理。白金売却済み分と今後の事業を分けること。開業届の準備。青色申告の検討。帳簿ソフト。在庫管理。法人化は急がない。

 

 澪は、2枚を見比べた。

 

「ChatGPT先生は地図。明石さんは役所へ出せる道」

 

 言ってから、自分で少し納得した。

 

 地図だけでは歩けない。

 

 でも、地図がなければ相談にも行けなかった。

 

 澪は、クリアファイルを出した。レシートを1枚ずつ広げる。通販の明細は印刷する。買取明細はコピーを取り、原本は別にする。白い重砂購入記録、リュシアへの支払い記録、侯爵家公認品材料費、現代側仕入れレシート、在庫表、税理士相談メモ、開業届準備、青色申告検討、法人化検討。

 

 項目を頭の中だけで並べると怖い。

 

 けれど、ファイルに挟むと、少しだけ管理できるものに見える。

 

 ラベルプリンターはまだないので、澪は手書きで見出しを書いた。

 

 押入商会。

 

 その文字を見て、手が止まった。

 

「本当に、これで行くんですね」

 

 もちろん、ファイルは答えなかった。

 

 

 

 

 

「税の役人に、自分から会いに行ったのかい」

 

 屋台裏で澪が報告すると、リュシアは串を返す手を止めた。

 

「役人ではなく、税理士さんです。税の専門家です」

 

「どちらにしても、澪の国は面倒だね」

 

「払わないと、あとで商売が壊れます」

 

 リュシアは、そこで表情を変えた。

 

「なら、払う方が安い」

 

「はい」

 

「で、何を言われたんだい」

 

「個人の財布と、押入商会の財布を分けろと」

 

「それは正しい」

 

 即答だった。

 

 澪は少し驚いた。

 

「分かるんですか」

 

「曖昧な財布は商売を腐らせる。今日の儲けが昨日の食費と混ざって、明日の仕入れがどこかへ消える。そういう店は長くない」

 

 リュシアは、焼き上がった串を皿に置いた。

 

「それと、押入商会をちゃんと事業として整理することになりそうです」

 

「今までは何だったんだい」

 

「押し入れを通った個人活動です」

 

「ひどい名前だね」

 

「自分でもそう思います」

 

 リュシアは笑ったが、すぐ真面目な顔に戻った。

 

「商会を名乗るなら、帳面と責任を持ちな。名前だけ立派でも、財布が穴だらけなら意味がない」

 

 澪は頷いた。

 

 その時、屋台裏の端で、エレナが首を傾げた。

 

「では、侯爵家公認の商会か」

 

「まだ違います」

 

 澪はほとんど反射で答えた。

 

「だが、侯爵家公認の首飾りは扱っている」

 

「それとこれは別です」

 

 リュシアが、横から少し笑って言った。

 

「姫様、澪の国では名前をつけるだけでも書類が増えるらしいですよ」

 

「面倒だな」

 

「はい。とても」

 

 エレナは、少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は踏み込まなかった。侯爵家公認という言葉がどれだけ大きいか、本人も分かっているのだろう。

 

 澪は胸の中で、小さく息を吐いた。

 

 今はまだ、侯爵家公認の商会ではない。

 

 まず、押入商会が押入商会として立てるかどうかだ。

 

 

 

 

 

 六畳間へ戻った澪は、改めて部屋を見回した。

 

 押し入れの前だけは空けてある。そこは絶対に塞げない。けれど、その左右にはローテーブル、レシートの山、買取明細、グラデーションストーンの小箱、銀材、ネックレス箱、ペットボトルの袋、大豆の残り、白い重砂残渣のサンプルが、生活の隙間をじわじわ奪うように置かれていた。

 

 これでは、商会以前に部屋が危ない。

 

「税金以前に、部屋が負けてる」

 

 澪は、明石さんのメモを見た。

 

 事業用口座。

 

 帳簿ソフト。

 

 棚。

 

 耐火ボックス。

 

 鍵付き収納。

 

 ラベルプリンター。

 

 作業机。

 

 椅子。

 

 必要なものが、また増えている。

 

 でも、これは無駄遣いではない。たぶん、商売を壊さないための道具だ。

 

 澪は帳面の新しいページを開いた。

 

 押入商会。

 

 そう書いて、しばらく眺めた。

 

 冗談のような名前だった。けれど、税金も、仕入れも、在庫も、売上も、もう冗談では済まない。

 

 その下に書く。

 

 税金分は使わない。

 

 さらに小さく書き足す。

 

 個人と商売の財布を分ける。

 

 開業届、税理士確認。

 

 法人化、急がず検討。

 

 澪はペンを置き、古い押し入れの扉を見た。

 

「押し入れから始まったのに……」

 

 木目の古い扉は、いつも通りそこにある。大学生の六畳間にある、ごく普通の押し入れの顔をしている。

 

「商会になっちゃうんですか」

 

 もちろん、押し入れは答えなかった。

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