2月も終わりに近い朝は、まだ空気が冷たかった。
新事務所へ向かう前に、澪たちは江古田浅間神社へ寄っていた。
澪、真壁、理央。それにシロガネ。
古い燭台も、澪が持ってきている。
鳥居の向こうは前に来た時と変わらない。
違うのは、道路の反対側だった。
「……ほんとに向かいですね」
理央が道路の向こうを見る。
「向かいですね」
澪も同じ方を見る。
これから押入商会の事務所になる建物は、鳥居から普通に見える距離にある。
「この前、かなり真面目に、移していいですかってお願いしましたよね」
「しましたね」
「で、移転先があそこ」
理央が指を向ける。
「道路1本ですよ」
「移転先が近かっただけではないか」
真壁は平然としている。
「距離に条件はなかっただろう」
澪は少し考えた。
「……それはそうですけど」
「澪さんまで納得しないでください」
「納得はしてません」
「でも、ちょっと真壁さん側ですよね」
「違います」
言いながら、澪自身も少し分からなくなった。
前にここへ来た時は、会社を別の場所へ移すつもりだった。
どこになるかは決まっていなかった。
だから、これまでこの土地で暮らしてきたことへの礼を伝え、接続を移したいと願った。
それが数日後には、道路の向こうへ移ることになった。
遠くへ去る話ではない。
むしろ前より神社に近くなる。
それでも、挨拶が不要になるわけではなかった。
「行きましょう」
澪が言うと、理央も表情を戻した。
神前へ向かう間は、3人とも会話を止める。
持ってきたものを供える。
ゲンダイ側からは日本酒と日本円。
異世界側からは、リュシア食品会社の芋焼酎、異世界金貨、それに少量の味噌。
日本酒だけなら、普通の奉納に見えたかもしれない。
そこへ異世界の焼酎と味噌と金貨まで加わると、会社の引っ越し挨拶としてはかなり独特だった。
ただ、澪は笑わなかった。
今回は礼を言いに来た。
それが一番大事だった。
手を合わせる。
移転先が道路向かいに決まったこと。
これからも江古田で仕事を続けること。
新しい場所でも、よろしくお願いしたいこと。
一つずつ、丁寧に伝える。
距離が近いからといって、軽く済ませる気はなかった。
真壁も礼を崩さず、理央も静かだった。
シロガネは少し離れたところで座っている。
古い燭台も、この場ではただの古い燭台のように見えた。
参拝を終え、3人は境内を出る。
鳥居を抜けると、また道路向こうの建物が見えた。
理央がもう一度見比べる。
「やっぱり近いですね」
「近いですね」
「さっきより近く感じます」
「道路幅は変わってませんよ」
「そういう意味じゃないです」
真壁は建物を見てから神社を見た。
「報告も済んだ。次へ進めばいい」
「真壁さん、本当に全部工程で処理しますね」
「決まったことを順に進めるだけだろう」
澪は少し笑った。
これまでの縁を切る引っ越しではない。
むしろ、その縁を持ったまま道路の向こうへ移る。
そう考えると、少し気持ちが軽くなった。
「じゃあ、向かいへ行きましょうか」
「はい」
理央が答える。
3人は道路を渡った。
会社の引っ越しにしては、移動距離は驚くほど短かった。
参拝を終えたあと、3人はいったん江古田の六畳間へ戻った。
ローテーブルの上には、新事務所の契約資料と支出予定のメモが並んでいる。
その横には大学の資料と会社用品。
まだ移転前なので、相変わらず全部が同じ部屋にあった。
「今回は普通です」
澪はそう言ってから、スマートフォンを手に取った。
前に明石へ電話した時は、2月の売上が3,800万円を超えた話になり、その先では最大で約64億円という数字まで出た。
今回は違う。
新しい事務所を借りる。
それだけだ。
「明石さん、事務所を移すことにしました」
『分かりました。法人名義ですね?』
「はい」
『いつからですか?』
「今月中です」
『家賃と共益費は? 駐車場も借りますか?』
「家賃は20万円前後で、共益費が6,000円くらいです。駐車場も借ります」
明石の確認は早い。
澪がまとめて「事務所を借ります」と考えていたものを、名義、日付、費用、支払いへ分けていく。
『家具は会社で購入しますか?』
「はい」
『看板とセキュリティ設備、通信回線も会社側ですね?』
「その予定です」
『では、契約書と支払いが分かるようにしてください』
「今回は普通の事務所移転です」
一応、言ってみる。
『普通かどうかではなく、契約書と支払いを分かるようにしてください』
「……はい」
普通だと認定されたわけではなかった。
横で理央が少しだけ笑っている。
真壁は必要な数字だけ書いた紙を澪へ寄せた。
「駐車場は月2万5,000円前後だな」
「駐車場は2万5,000円くらいです」
『承知しました。ハイエースの保管場所も変わるんですね』
「はい。新事務所側へ移します」
『分かりました』
明石はさらに、住所変更後に必要になる書類や支払先、契約関係を分けておくように言った。
澪の手元のメモにも項目が増える。
「それと、会社用のスマートフォンを3台用意します」
『3台ですね。利用者は?』
「私と真壁さんと理央さんです」
理央が自分を指さす。
澪は頷いた。
『会社所有で貸与する形ですか?』
「はい」
『では、端末代と回線費用も会社側で分かるようにしてください』
「分かりました」
電話を切るまで、会社の秘密側の話題は一度も出なかった。
本当に普通だった。
ただし、普通だから楽という意味ではない。
通話を終えた澪はメモを見下ろした。
「増えましたね」
「何がです?」
理央が覗き込む。
「やることです」
「電話する前より増えてません?」
「増えてます」
真壁は特に驚かない。
「決まったものを処理していけばいい」
「真壁さんは簡単に言いますね」
「一つずつ終わらせれば減るだろう」
澪はメモの一番上に印を付けた。
明石への報告。
そこだけは終わった。
その下には、まだたくさん残っていた。
正式契約の日。
法人名義の契約が終わり、付属駐車場も一緒に借りることになった。
必要な初期費用を払い、最後に鍵を受け取ったところで、澪はようやく実感した。
「……借りましたね」
「借りましたね」
理央も鍵を見る。
前に内見した時と、部屋そのものは何も変わっていない。
約50㎡の空室。
机も棚もない。
看板もない。
入口にカードリーダーも付いていない。
でも、もう候補物件ではなかった。
合同会社押入商会が使う場所になった。
「もう、ここ押入商会なんですよね」
「そうですね」
「何もないですけど」
「これから置きます」
理央は室内へ入ると、前に自分の作業机を置こうとしていた辺りまで歩いた。
まだ床しかない。
それでも前とは違う顔をしている。
もう、勝手に置き場所を想像しているだけではない。
本当にここへ机が来る。
「ここ、私の机の場所にしていいんですよね」
「動線を見て最終的に決めますけど、たぶんその辺で大丈夫です」
「ほんとに置けるんだ」
理央が少し嬉しそうに言う。
真壁は入口から主室を見回し、そのまま水回り側へ視線を移した。
「その前に清祓を済ませよう。家具は後でいい」
「順番がありますね」
澪が言う。
「家具を入れてから動かす必要はないだろう」
「それはそうです」
真壁にとって、契約完了は区切りではなく、次へ進む条件が揃っただけらしい。
澪は鍵を握ったまま、もう一度部屋を見る。
入口の電気錠。
カードリーダー。
防犯カメラ。
看板。
収納前のパーティション。
どれも勝手に取り付けるのではなく、施工できる範囲を確認してある。
そこまでやって、ようやく自分たちの会社にしていく。
「鍵って、ちょっと会社っぽいですね」
理央が言う。
「またですか」
「だって、自分たちの事務所の鍵ですよ」
「会社ですから」
「分かってます」
理央は笑う。
澪も少しだけ笑った。
六畳間では、会社用の鍵というもの自体がなかった。
自宅の鍵を開ければ、そこが会社だった。
今は違う。
住む場所とは別に、仕事のためだけに開ける扉がある。
その違いは、思っていたより大きかった。
「今日はまだ何もしませんか?」
理央が聞く。
「清祓が先だ」
真壁が答える。
「本当に次のことしか見てないですね」
「先に決めておいた方が早いからな」
空の室内に3人の声が少し響く。
まだ何もない。
でも、場所だけは正式に決まった。
澪は鍵をポケットへ入れた。
ここから先は、借りた部屋を会社に変える仕事だった。
家具を入れる前の新事務所は、まだ音がよく響いた。
その何もない室内で、開所の清祓を行うことになった。
浅間神社へお願いし、神職に来てもらっている。
澪たちは3人とも、いつもより少し背筋を伸ばしていた。
シロガネは邪魔にならない場所で静かに座っている。
古い燭台も、新事務所へ持ってきてある。
初穂料と供物を用意する。
ここにも、日本酒に加えて異世界側の品を少し添えた。
神事そのものは、普通の新規事務所と同じように進んだ。
神職の声が、家具のない室内へ静かに響く。
澪は必要なところで頭を下げる。
真壁も礼を崩さない。
理央も、こういう場面では余計なことを言わなかった。
部屋の四隅から中央、入口、奥へと順に清められていく。
水回りの近くまで進み、例の収納の前でも神職は丁寧に清祓を行った。
澪は何も言わず、その様子を見る。
今はただの収納だ。
扉を開けても、奥には普通の壁があるだけ。
近いうちに、そこが異世界への入口になる予定だと知っているのは、ここにいる3人とシロガネだけだった。
だからといって、神事を笑いにする気はない。
むしろ、先にきちんと済ませておきたかった。
働く人が無事であること。
会社が問題なく続くこと。
この場所で事故がないこと。
澪はそれを素直に願った。
やがて神事が終わる。
神職を見送り、扉が閉まる。
室内に3人だけになってから、理央がようやく息を吐いた。
「……あそこも、ちゃんとやってもらいましたね」
視線の先は、水回り近くの収納だった。
「大事な場所なので」
澪が答える。
「まだ物置ですけど」
「今はですね」
真壁も収納を見る。
「先に清めておけば問題ないだろう」
「真壁さん、やっぱり工程として見てますね」
「必要なことを先に済ませただけだ」
理央は収納の扉を開けた。
中には何もない。
奥には壁。
清祓を受けた直後なので、さっきまでより少し特別に見える気もする。
気のせいかもしれない。
「ここが本当に入口になるんですよね」
「その予定です」
澪も中を見る。
六畳間の押し入れとは形が違う。
畳もない。
襖でもない。
それでも、ここが次の接続先になる。
借りただけだった部屋が、少しずつ会社へ変わっていく。
机も看板もまだない。
それでも澪には、契約した時より一段先へ進んだ感じがした。
「次は家具ですね」
理央が言う。
「その前に、まだ手続きが残ってます」
「……まだあるんですか」
「あります」
理央の顔が少しだけ曇った。
真壁は気にせず、収納の扉を閉めた。
清められたばかりの物置は、また何の変哲もない収納に戻った。
契約が終わり、清祓まで済んだ。
そこで澪は、ようやく荷物を移せば終わると思いかけた。
甘かった。
六畳間のローテーブルには、また紙とPCとスマートフォンが並んでいた。
「……まだこんなにあるんですね」
理央が一覧の下まで目で追う。
「あります」
澪も見たくなかったが、消えてはくれない。
本店所在地に関する手続きを済ませても、税務関係の住所、銀行などの登録先、取引先への通知、郵便、電気、水道、通信回線、警備会社、工事関係の確認、駐車場の利用開始と続いている。
終わった項目に印を付けても、その下にまだ残っていた。
「荷物を運べば終わると思ってました」
「場所を借りただけだからな」
真壁は落ち着いている。
「収納で何とかなりません?」
理央が聞いた。
「手続きまでは収納では片づかないな」
「できたら怖いです」
それは澪もそう思う。
PCも箱も備品も、物なら収納できる。
住所変更は靄にできない。
契約先へ連絡する作業も、収納へ放り込んで終わりにはならない。
「引っ越しで一番面倒なの、荷物じゃないんですね」
「うちは特にそうなりますね」
普通なら大仕事になる荷物運びが、押入商会ではかなり簡単な方に入る。
その代わり、特殊能力がまったく効かないところだけが残る。
澪は終わった項目にまた印を付けた。
「電気、済みました」
「次は?」
「通信回線です」
「まだある」
「あります」
理央の顔が、少しずつ悟ったようになっていく。
その日の午後、会社用のスマートフォンも届いた。
3台で、澪、真壁、理央に1台ずつ。
「私のもあるんですか?」
箱を見た理央の顔が、一気に明るくなる。
「ありますよ。仕事用と個人用は分けましょう」
「会社用……」
さっきまで住所変更で疲れていた顔ではない。
澪は少し笑った。
「まだ設定がありますけどね」
「今それ言います?」
「ありますから」
3人分の端末を順に設定する。
会社所有で、仕事に使う端末。
取引先へ知らせる番号も、少しずつこちらへ切り替えていく。
明石にも新しい会社用番号を伝えた。
理央は自分の端末を両手で持っている。
「なんか、ほんとに会社から支給された感じします」
「支給してますから」
「アルバイトなのに」
「仕事で使うなら必要ですよ」
真壁も自分の端末を確認した。
「個人用と分けておいた方が整理しやすい」
「RightInは今までどおりですか?」
理央が聞く。
「私的な連絡は個人端末でいいと思います。仕事はこっちへ寄せましょう」
「分かりました」
ただし、このスマートフォンが異世界まで便利にしてくれるわけではない。
向こうへ持っていっても、ゲンダイの回線はつながらない。
会社用になっても、そこだけは変わらなかった。
理央は新しい端末を眺めてから、一覧を見る。
「スマホも終わりですか?」
「端末設定は終わりです」
「じゃあ1個消えますね」
「はい」
澪が印を付ける。
理央も少し満足そうに頷いた。
「で、次は?」
「警備会社との確認です」
「まだある」
「あります」
荷物は一度も動かしていないのに、その日だけでかなり疲れた。
六畳間の隅には、移動予定の会社用品が積まれたままになっている。
澪には、それが一番簡単な仕事に見え始めていた。
手続きが一段落すると、ようやく新事務所へ置く物を決められるようになった。
家具は押入家具商会へ頼む。
約50㎡の室内に合わせ、必要な寸法を先に出すことにした。
「私は普通ので大丈夫です」
理央は最初、そう言っていた。
澪もそのつもりで聞いていた。
澪と真壁の机、理央の作業机、将来人が増えた時の予備机に、椅子と打ち合わせ用のテーブル、書棚、備品棚まであれば足りる。
大げさな物は要らない。
使いやすければ十分だった。
「理央君の机は、作業用にした方がいいな」
真壁が言う。
「普通の机じゃだめですか?」
「彫金工具を置くなら、最初から用途に合わせた方が使いやすい」
「じゃあ……」
理央が少し考える。
「引き出し、もう1段あってもいいですか?」
「いいですよ」
「あと、工具をここに並べたいです」
机の図を指でなぞる。
「小さい材料も分けたいです」
「それなら仕切りを入れた方がいいな」
真壁が寸法を見ながら答える。
「作業灯も置きたいです」
「置けるようにしましょう」
「それと――」
澪は途中で理央を見る。
「理央さんが一番注文多くなってません?」
理央が止まった。
「……ほんとだ」
「普通ので大丈夫って言ってましたよね」
「最初は本当にそう思ってたんです」
「分かりますけど」
自分専用だと分かると、欲しいものが急に具体的になるらしい。
工具が転がりにくいこと。
小物を分けられること。
照明を置けること。
材料を広げても事務所の通路にはみ出さないこと。
どれも無駄な注文ではなかった。
「使う本人が分かっているなら、先に決めておく方がいい」
真壁が言う。
「じゃあ、ここも……」
「増えましたね」
澪が言うと、理央は少しだけ笑った。
押入家具商会へ寸法と用途を伝える。
出来上がった家具は、必要な順に新事務所へ運び込んだ。
空だった室内には、澪と真壁の机が並び、その少し離れた場所へ理央の作業机が置かれた。
打ち合わせ用のテーブルと椅子、壁際の書棚や備品棚も入っていく。
「私の机です」
理央が自分の机の前で立ち止まる。
「そうですよ」
「ずっと置いてていいんですよね」
「そのための机です」
理央は引き出しを開けたり閉めたりしている。
「これ、すごくいいです」
「注文多かったですからね」
「それはもう言わないでください」
真壁は別の作業をしていた。
会社の看板だ。
派手なものではない。
必要以上に大きくもない。
建物の外に出しても違和感のない、簡潔なものにしてある。
書かれているのは、
「合同会社押入商会」
それだけだった。
「普通ですね」
澪が言う。
「書いてある名前以外は」
理央が返す。
「会社名ですから」
「分かってます」
真壁は看板の位置を確認する。
「これでいいだろう。目立たせる必要はない」
「むしろ普通に見える方がいいですね」
澪も同意した。
机と椅子と棚が入り、看板まで付いた。
数日前まで空室だった場所が、ようやく人の働く場所に見えてきた。
理央は自分の机の椅子に座り、両手を天板に置いた。
「……私、ここで仕事するんですね」
「そうなりますね」
六畳間の一角を借りるのではない。
最初から理央のために用意された作業場所だった。
その違いは、机1つ分より大きそうだった。
家具が入る頃には、入口まわりの工事も始まっていた。
管理側への確認は済んでいる。
真壁は、必要な場所へ必要なものだけ入れていった。
入口にはICカードリーダーと電気錠。
来客確認用のインターホン。
入口付近に防犯カメラ。
窓には補助錠。
そして、水回り側の収納にもカード式の電気錠を付ける。
さらに主室との間へパーティションを置いた。
来客席からは、収納の扉が直接見えにくい。
「秘密基地っぽくはならなかったですね」
理央が言う。
「普通の設備で足りるからな」
真壁はカードリーダーの動作を確認している。
「外から見て普通の会社の方がいいです」
澪も同意した。
防犯カメラも電気錠も、ゲンダイの法人なら珍しいものではない。
守る中身だけが普通ではない。
「これで入口はいいだろう」
真壁が一歩下がった。
理央がすぐカードを見る。
「使っていいですか?」
「やりたかったんですね」
澪が言う。
「この前、真似だけだったので」
理央は少し嬉しそうにカードを持った。
リーダーへ近づける。
ピッ。
小さな認証音。
続いて電気錠が外れる音がした。
理央が扉を開ける。
「開きました」
「開きますよ」
「本物です」
「何がです?」
「ピッ、が」
澪は笑った。
前は何も付いていない入口で、理央が手だけをかざしていた。
今度は本当にカードがあり、本当に鍵が開く。
「じゃあ、次だな」
真壁はもう収納側へ向かっていた。
「余韻ないですね」
「動作確認だろう」
パーティションの奥へ回る。
そこには例の収納がある。
理央が同じカードをかざした。
もう一度。
ピッ。
収納扉の電気錠が外れる。
「こっちもです」
「理央君にも収納権限を付けてある」
真壁が答える。
「会社スマホに、机に、カードに、収納権限……」
理央が指を折るように考える。
「私、アルバイトですよね?」
「アルバイトですね」
澪が答える。
「だんだん分からなくなってきました」
「仕事内容が普通のアルバイトじゃないですから」
「澪さんが言います?」
「言いますよ」
カードそのものに特別な力はない。
魔法が入っているわけでもない。
入口を開けるか。
収納扉を開けるか。
その権限を利用者ごとに分けているだけだ。
澪と真壁と理央は両方。
将来、一般の社員が増えたなら、入口だけを開けられるようにもできる。
真壁は3人分のカードを順に確認した。
続いて、試験用に一度カードを失効させる。
かざしても開かない。
設定を戻す。
また開く。
「紛失した場合は、そのカードだけ止めればいい」
「便利ですね」
「物理鍵を増やすより管理しやすい」
理央は自分のカードを見た。
さっきより少し大事そうに持っている。
「なくさないようにします」
「それが一番です」
澪が言う。
3人は来客席側へ戻り、パーティションを見る。
収納は見えにくい。
普通の人が来ても、その奥に何があるか気にする理由はない。
「これなら大丈夫そうですね」
「来客がいる時は、原則使わない方がいい」
真壁が言う。
「はい」
秘密を守るために入れたものは、どれもゲンダイでは普通の設備だった。
その普通のカードを使うと、もうすぐ異世界入口の前まで入れる。
理央は最後にもう一度、入口でカードをかざした。
ピッ。
今度は満足そうに頷いた。
手続きに何日も掛かったわりに、荷物の引っ越しはあっけなかった。
江古田の六畳間。
会社用品と私物を分けるところから始める。
「これは会社」
澪がPCの箱を指す。
「こっちは私物」
大学関係の物は残す。
ベッドも生活用品も当然そのまま。
六畳間は、これからも澪の住居だ。
会社の物だけを新事務所へ移す。
理央も自分の道具を分けていた。
「これは新しい机に置きます」
「それは理央さんの収納で大丈夫ですか?」
「はい」
真壁は、運ぶ量より新事務所で出す順番を見ている。
「先に棚へ入れる物を分けておこう。その後でPC類だな」
「引っ越しなのに、段ボール増やさないんですね」
理央が周囲を見る。
「普通はもっと大変ですよね?」
「普通は大変ですよ」
澪が答える。
段ボールを組み立てて、ガムテープを貼る。
台車で運ぶ。
トラックへ積む。
新しい場所でまた降ろす。
何往復もする。
そういう引っ越しを想像していた理央の目の前で、会社用品が靄に包まれ、そのまま消えていく。
「業者さん、いらないですね」
「うちだけです」
「これ、引っ越し屋さんが見たら怒りません?」
「見せられませんよ」
「そうでした」
PC、資料、備品、小型の機材。
会社の物だけが、次々と収納へ入っていく。
生き物は入らない。
だから人間は普通に移動する。
ただ、物だけなら驚くほど簡単だった。
「終わりました?」
理央が六畳間を見回す。
「会社分は、だいたい」
澪も見る。
床が見えている。
ローテーブル周辺も、前より明らかに広い。
「……こんなに広かったんですね」
「六畳ですけどね」
「前より広く見えます」
「会社用品が多すぎたんですよ」
自分で言って、少しだけ反省した。
新事務所へ移る。
収納から、必要な位置へ物を戻していく。
棚へ備品。
机へPC。
理央の作業机には、理央自身が工具を並べる。
普通なら丸一日どころか、もっと掛かりそうな作業だった。
それが、驚くほど静かに進んだ。
「荷物より住所変更の方が時間かかりました」
澪が言う。
「それ、思い出させないでください」
理央が即座に返した。
「まだ全部忘れたいです」
「終わったからいいではないか」
真壁が言う。
「真壁さんは平気ですよね」
「終わったものを気にしても仕方ないだろう」
「強い」
最後にハイエースも、新事務所の付属駐車場へ移す。
車が入ると、駐車場まで会社の一部になった感じがした。
事務所の中には机と棚。
外にはハイエース。
入口には看板。
澪は一度、六畳間へ戻った。
仕事用品が減った部屋は、久しぶりに自分の家らしく見える。
会社が外へ出ていった。
そう思うと、少しだけ不思議だった。
でも、まだ最後の一つが残っている。
会社名の由来になった場所。
新しい押し入れを、これから開けなければならない。
住所変更を済ませ、電気と水道と通信回線を入れ、警備会社との契約も終わった。
家具も看板もカード錠も揃い、会社用品の引っ越しまで済んでいる。
最後に残ったのは、会社名の由来になったものだった。
新事務所の奥。
パーティションを回り込む。
理央がカードをかざした。
ピッ。
収納扉の電気錠が外れる。
「ここですね」
「ここです」
澪も少しだけ緊張していた。
何度も異世界へ行っている。
六畳間の押し入れを開けること自体は、もう日常になっている。
でも、江古田の六畳間以外に接続を開くのは初めてだった。
収納の奥壁は、まだ普通の壁だ。
真壁は主室側を確認した。
「人はいない。パーティションの位置も問題ないな」
続いて収納扉の開閉を確認する。
「ここでいいだろう」
シロガネも収納前に来ている。
古い燭台は、近くの台の上に置いた。
理央はさっきまでカードを試していた時より静かだった。
「ほんとに、ここから行けるようになるんですよね」
「そのはずです」
澪は奥壁を見る。
その時、鑑定表示が開いた。
----------------------------------
【新拠点確認】事務所について【接続】
001:木花開耶姫命
移転報告、確認。
002:木花開耶姫命
奉納、受領。
003:木花開耶姫命
清祓、確認。
004:鎮守
接続先、確認。
005:燭台
準備、良好。
006:木花開耶姫命
接続、許可。
----------------------------------
澪は最後の行を見た。
「許可、出ましたね」
「ほんとにここから行くんですね」
理央も表示を見ている。
「開通を確認しよう」
真壁は感想より先に作業へ戻った。
澪は少しだけ息を整える。
収納奥の壁へ意識を向ける。
何もなかったはずの壁の向こうに、境界の感覚が生まれる。
見慣れた異世界側の景色が、そこへつながった。
理央が息を止める。
「……開いた」
「開きましたね」
六畳間の押し入れとは形が違う。
襖もない。
畳もない。
カード錠の付いた収納の奥に、異世界がある。
3人で新事務所側から向こうへ抜ける。
問題なく通れる。
今度は異世界側から戻る。
戻った先は、六畳間ではない。
パーティションの奥にある、新事務所の収納だった。
「戻ってきました」
理央が周囲を見る。
「会社です」
「そうですね」
澪はそこでようやく実感した。
ここが本当に新しい押入商会の拠点になった。
事務所として使えるだけではない。
ゲンダイ側の仕事と異世界側の仕事が、同じ場所でつながった。
真壁は収納から主室側へ出て、見え方を確認する。
「来客がいる時は原則使わない。利用前に主室を確認してから入る。それでいいだろう」
「はい」
理央も頷く。
収納扉を閉める。
カード錠を掛ける。
パーティションの外へ出る。
そこから見れば、普通の会社だった。
机があり、棚があり、会社用のスマートフォンがあり、入口にはICカードリーダーがある。
奥の収納扉まで見えるわけではない。
そのさらに奥が異世界へつながっているなど、外からは分からない。
「完成ですね」
理央が言った。
澪も主室を見回す。
「完成ですね」
普通の会社らしいものを積み上げてきた。
最後に一つだけ、決定的に普通ではないものが入った。
それでようやく、押入商会らしい事務所になった。
その日の夜。
澪たちは江古田の六畳間へ戻った。
古い燭台も、いつもの場所へ戻す。
シロガネは先に部屋へ入り、慣れた場所で丸くなった。
「……広くなりましたね」
理央が部屋を見回す。
「六畳ですけどね」
澪も同じことを思っていた。
会社のPCや資料、備品の箱が大幅に減っている。
床が見え、ベッドや大学関係の物、生活用品がきちんと部屋の中心に戻っている。
久しぶりに、一人暮らしの部屋らしく見えた。
「ちゃんと家ですね」
「前から家です」
「会社でもありましたよね」
「それは……はい」
そこは否定できない。
今は違う。
仕事をする場所は道路の向こうにできた。
理央には専用の作業机があり、会社用スマートフォンとICカードもある。
ハイエースも新しい駐車場へ移した。
入口も警備も整えた。
そして新事務所の収納から、異世界へ行けるようになった。
澪はようやく、住居と会社を分けられたのだと思った。
「これで一段落ですね」
「運用上は問題ないだろう」
真壁もそう判断している。
理央は新しい会社用スマートフォンを見てから、自分のカードも確認した。
「明日から、あっちに出勤するんですよね」
「そうなります」
「カードで入るんですよね」
「今日はもう何回もやりましたよ」
「でも明日から仕事で使うんです」
少し上機嫌だった。
澪は笑いながら、部屋の中を見回す。
会社用品がなくなると、今まで隠れていた場所まで見える。
その中に、ずっと使ってきた押し入れもあった。
新しい入口ができた以上、こちらはもう役目を終えた。
澪はそう思っていた。
特に確かめるつもりもなかった。
ただ、何となく襖へ手を掛けた。
開ける。
澪の手が止まった。
「……」
理央が気づく。
「どうしました?」
澪は押し入れの奥を見たまま答えた。
「……理央さん」
「はい?」
「つながってます」
「え?」
理央がすぐ横へ来る。
押し入れを覗く。
その向こうには、見慣れた異世界の景色があった。
新事務所で見たものと同じ。
いつもの入口も、何事もなかったように残っている。
「……え?」
理央がもう一度言った。
真壁も近づいて確認する。
少し間があった。
「……これ、増えてません?」
理央が言う。
「増えてますよね」
澪もそうとしか言えない。
「便利になったな」
真壁が言った。
「真壁さん、そういう問題ですか」
「出入口が2か所使えるなら、不便ではないだろう」
「そうですけど」
理央が真壁を見る。
「やっぱり便利で処理するんですね」
その時、鑑定表示が開いた。
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【接続確認】旧押し入れについて【江古田】
001:燭台
旧接続、継続。
002:鎮守
使用可能。
003:木花開耶姫命
新接続、追加。
004:木花開耶姫命
旧接続、閉鎖指定なし。
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3人とも表示を見る。
理央が最初に口を開いた。
「閉じるって言ってなかったんですか?」
「……」
澪は思い返す。
接続を移したい。
新しい場所へつなぎたい。
そのための許可が欲しい。
前の参拝でも、今回の報告でも、そのつもりで話していた。
でも。
古い方を閉じてください。
そう言った覚えはない。
「……言ってないですね」
理央が押し入れと澪を交互に見る。
「じゃあ、2つですか?」
「2つですね」
「会社に1つ。澪さんの家に1つ」
「そうなりますね」
「それでいいんですか?」
澪も少し考える。
よくない理由を探す。
住居側にも新事務所にも異世界への入口がある。
即時通信ができるわけではなく、単純に出入り口が増えただけだ。
安全面の運用は考える必要がある。
ただ、今ここで困ることはなかった。
「こちらを残せるなら、澪君の住居側にも出入口がある。悪い話ではないだろう」
真壁が言う。
「便利ですね」
理央が先に言った。
「理央さんまで」
「だって、便利ではあります」
「そうですけど」
澪はもう一度、押し入れの向こうを見る。
会社を六畳間から出した。
新しい事務所を借り、看板を付け、カードを作り、机を並べた。
これでようやく普通の会社に近づいたと思った。
その日の最後に増えたのは、異世界への入口だった。
会社は引っ越した。
押し入れは増えた。