押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第320話 向かいへ引っ越してきます

 

 2月も終わりに近い朝は、まだ空気が冷たかった。

 

 新事務所へ向かう前に、澪たちは江古田浅間神社へ寄っていた。

 

 澪、真壁、理央。それにシロガネ。

 

 古い燭台も、澪が持ってきている。

 

 鳥居の向こうは前に来た時と変わらない。

 

 違うのは、道路の反対側だった。

 

「……ほんとに向かいですね」

 

 理央が道路の向こうを見る。

 

「向かいですね」

 

 澪も同じ方を見る。

 

 これから押入商会の事務所になる建物は、鳥居から普通に見える距離にある。

 

「この前、かなり真面目に、移していいですかってお願いしましたよね」

 

「しましたね」

 

「で、移転先があそこ」

 

 理央が指を向ける。

 

「道路1本ですよ」

 

「移転先が近かっただけではないか」

 

 真壁は平然としている。

 

「距離に条件はなかっただろう」

 

 澪は少し考えた。

 

「……それはそうですけど」

 

「澪さんまで納得しないでください」

 

「納得はしてません」

 

「でも、ちょっと真壁さん側ですよね」

 

「違います」

 

 言いながら、澪自身も少し分からなくなった。

 

 前にここへ来た時は、会社を別の場所へ移すつもりだった。

 

 どこになるかは決まっていなかった。

 

 だから、これまでこの土地で暮らしてきたことへの礼を伝え、接続を移したいと願った。

 

 それが数日後には、道路の向こうへ移ることになった。

 

 遠くへ去る話ではない。

 

 むしろ前より神社に近くなる。

 

 それでも、挨拶が不要になるわけではなかった。

 

「行きましょう」

 

 澪が言うと、理央も表情を戻した。

 

 神前へ向かう間は、3人とも会話を止める。

 

 持ってきたものを供える。

 

 ゲンダイ側からは日本酒と日本円。

 

 異世界側からは、リュシア食品会社の芋焼酎、異世界金貨、それに少量の味噌。

 

 日本酒だけなら、普通の奉納に見えたかもしれない。

 

 そこへ異世界の焼酎と味噌と金貨まで加わると、会社の引っ越し挨拶としてはかなり独特だった。

 

 ただ、澪は笑わなかった。

 

 今回は礼を言いに来た。

 

 それが一番大事だった。

 

 手を合わせる。

 

 移転先が道路向かいに決まったこと。

 

 これからも江古田で仕事を続けること。

 

 新しい場所でも、よろしくお願いしたいこと。

 

 一つずつ、丁寧に伝える。

 

 距離が近いからといって、軽く済ませる気はなかった。

 

 真壁も礼を崩さず、理央も静かだった。

 

 シロガネは少し離れたところで座っている。

 

 古い燭台も、この場ではただの古い燭台のように見えた。

 

 参拝を終え、3人は境内を出る。

 

 鳥居を抜けると、また道路向こうの建物が見えた。

 

 理央がもう一度見比べる。

 

「やっぱり近いですね」

 

「近いですね」

 

「さっきより近く感じます」

 

「道路幅は変わってませんよ」

 

「そういう意味じゃないです」

 

 真壁は建物を見てから神社を見た。

 

「報告も済んだ。次へ進めばいい」

 

「真壁さん、本当に全部工程で処理しますね」

 

「決まったことを順に進めるだけだろう」

 

 澪は少し笑った。

 

 これまでの縁を切る引っ越しではない。

 

 むしろ、その縁を持ったまま道路の向こうへ移る。

 

 そう考えると、少し気持ちが軽くなった。

 

「じゃあ、向かいへ行きましょうか」

 

「はい」

 

 理央が答える。

 

 3人は道路を渡った。

 

 会社の引っ越しにしては、移動距離は驚くほど短かった。

 

 

 

 参拝を終えたあと、3人はいったん江古田の六畳間へ戻った。

 

 ローテーブルの上には、新事務所の契約資料と支出予定のメモが並んでいる。

 

 その横には大学の資料と会社用品。

 

 まだ移転前なので、相変わらず全部が同じ部屋にあった。

 

「今回は普通です」

 

 澪はそう言ってから、スマートフォンを手に取った。

 

 前に明石へ電話した時は、2月の売上が3,800万円を超えた話になり、その先では最大で約64億円という数字まで出た。

 

 今回は違う。

 

 新しい事務所を借りる。

 

 それだけだ。

 

「明石さん、事務所を移すことにしました」

 

『分かりました。法人名義ですね?』

 

「はい」

 

『いつからですか?』

 

「今月中です」

 

『家賃と共益費は? 駐車場も借りますか?』

 

「家賃は20万円前後で、共益費が6,000円くらいです。駐車場も借ります」

 

 明石の確認は早い。

 

 澪がまとめて「事務所を借ります」と考えていたものを、名義、日付、費用、支払いへ分けていく。

 

『家具は会社で購入しますか?』

 

「はい」

 

『看板とセキュリティ設備、通信回線も会社側ですね?』

 

「その予定です」

 

『では、契約書と支払いが分かるようにしてください』

 

「今回は普通の事務所移転です」

 

 一応、言ってみる。

 

『普通かどうかではなく、契約書と支払いを分かるようにしてください』

 

「……はい」

 

 普通だと認定されたわけではなかった。

 

 横で理央が少しだけ笑っている。

 

 真壁は必要な数字だけ書いた紙を澪へ寄せた。

 

「駐車場は月2万5,000円前後だな」

 

「駐車場は2万5,000円くらいです」

 

『承知しました。ハイエースの保管場所も変わるんですね』

 

「はい。新事務所側へ移します」

 

『分かりました』

 

 明石はさらに、住所変更後に必要になる書類や支払先、契約関係を分けておくように言った。

 

 澪の手元のメモにも項目が増える。

 

「それと、会社用のスマートフォンを3台用意します」

 

『3台ですね。利用者は?』

 

「私と真壁さんと理央さんです」

 

 理央が自分を指さす。

 

 澪は頷いた。

 

『会社所有で貸与する形ですか?』

 

「はい」

 

『では、端末代と回線費用も会社側で分かるようにしてください』

 

「分かりました」

 

 電話を切るまで、会社の秘密側の話題は一度も出なかった。

 

 本当に普通だった。

 

 ただし、普通だから楽という意味ではない。

 

 通話を終えた澪はメモを見下ろした。

 

「増えましたね」

 

「何がです?」

 

 理央が覗き込む。

 

「やることです」

 

「電話する前より増えてません?」

 

「増えてます」

 

 真壁は特に驚かない。

 

「決まったものを処理していけばいい」

 

「真壁さんは簡単に言いますね」

 

「一つずつ終わらせれば減るだろう」

 

 澪はメモの一番上に印を付けた。

 

 明石への報告。

 

 そこだけは終わった。

 

 その下には、まだたくさん残っていた。

 

 

 

 正式契約の日。

 

 法人名義の契約が終わり、付属駐車場も一緒に借りることになった。

 

 必要な初期費用を払い、最後に鍵を受け取ったところで、澪はようやく実感した。

 

「……借りましたね」

 

「借りましたね」

 

 理央も鍵を見る。

 

 前に内見した時と、部屋そのものは何も変わっていない。

 

 約50㎡の空室。

 

 机も棚もない。

 

 看板もない。

 

 入口にカードリーダーも付いていない。

 

 でも、もう候補物件ではなかった。

 

 合同会社押入商会が使う場所になった。

 

「もう、ここ押入商会なんですよね」

 

「そうですね」

 

「何もないですけど」

 

「これから置きます」

 

 理央は室内へ入ると、前に自分の作業机を置こうとしていた辺りまで歩いた。

 

 まだ床しかない。

 

 それでも前とは違う顔をしている。

 

 もう、勝手に置き場所を想像しているだけではない。

 

 本当にここへ机が来る。

 

「ここ、私の机の場所にしていいんですよね」

 

「動線を見て最終的に決めますけど、たぶんその辺で大丈夫です」

 

「ほんとに置けるんだ」

 

 理央が少し嬉しそうに言う。

 

 真壁は入口から主室を見回し、そのまま水回り側へ視線を移した。

 

「その前に清祓を済ませよう。家具は後でいい」

 

「順番がありますね」

 

 澪が言う。

 

「家具を入れてから動かす必要はないだろう」

 

「それはそうです」

 

 真壁にとって、契約完了は区切りではなく、次へ進む条件が揃っただけらしい。

 

 澪は鍵を握ったまま、もう一度部屋を見る。

 

 入口の電気錠。

 

 カードリーダー。

 

 防犯カメラ。

 

 看板。

 

 収納前のパーティション。

 

 どれも勝手に取り付けるのではなく、施工できる範囲を確認してある。

 

 そこまでやって、ようやく自分たちの会社にしていく。

 

「鍵って、ちょっと会社っぽいですね」

 

 理央が言う。

 

「またですか」

 

「だって、自分たちの事務所の鍵ですよ」

 

「会社ですから」

 

「分かってます」

 

 理央は笑う。

 

 澪も少しだけ笑った。

 

 六畳間では、会社用の鍵というもの自体がなかった。

 

 自宅の鍵を開ければ、そこが会社だった。

 

 今は違う。

 

 住む場所とは別に、仕事のためだけに開ける扉がある。

 

 その違いは、思っていたより大きかった。

 

「今日はまだ何もしませんか?」

 

 理央が聞く。

 

「清祓が先だ」

 

 真壁が答える。

 

「本当に次のことしか見てないですね」

 

「先に決めておいた方が早いからな」

 

 空の室内に3人の声が少し響く。

 

 まだ何もない。

 

 でも、場所だけは正式に決まった。

 

 澪は鍵をポケットへ入れた。

 

 ここから先は、借りた部屋を会社に変える仕事だった。

 

 

 

 家具を入れる前の新事務所は、まだ音がよく響いた。

 

 その何もない室内で、開所の清祓を行うことになった。

 

 浅間神社へお願いし、神職に来てもらっている。

 

 澪たちは3人とも、いつもより少し背筋を伸ばしていた。

 

 シロガネは邪魔にならない場所で静かに座っている。

 

 古い燭台も、新事務所へ持ってきてある。

 

 初穂料と供物を用意する。

 

 ここにも、日本酒に加えて異世界側の品を少し添えた。

 

 神事そのものは、普通の新規事務所と同じように進んだ。

 

 神職の声が、家具のない室内へ静かに響く。

 

 澪は必要なところで頭を下げる。

 

 真壁も礼を崩さない。

 

 理央も、こういう場面では余計なことを言わなかった。

 

 部屋の四隅から中央、入口、奥へと順に清められていく。

 

 水回りの近くまで進み、例の収納の前でも神職は丁寧に清祓を行った。

 

 澪は何も言わず、その様子を見る。

 

 今はただの収納だ。

 

 扉を開けても、奥には普通の壁があるだけ。

 

 近いうちに、そこが異世界への入口になる予定だと知っているのは、ここにいる3人とシロガネだけだった。

 

 だからといって、神事を笑いにする気はない。

 

 むしろ、先にきちんと済ませておきたかった。

 

 働く人が無事であること。

 

 会社が問題なく続くこと。

 

 この場所で事故がないこと。

 

 澪はそれを素直に願った。

 

 やがて神事が終わる。

 

 神職を見送り、扉が閉まる。

 

 室内に3人だけになってから、理央がようやく息を吐いた。

 

「……あそこも、ちゃんとやってもらいましたね」

 

 視線の先は、水回り近くの収納だった。

 

「大事な場所なので」

 

 澪が答える。

 

「まだ物置ですけど」

 

「今はですね」

 

 真壁も収納を見る。

 

「先に清めておけば問題ないだろう」

 

「真壁さん、やっぱり工程として見てますね」

 

「必要なことを先に済ませただけだ」

 

 理央は収納の扉を開けた。

 

 中には何もない。

 

 奥には壁。

 

 清祓を受けた直後なので、さっきまでより少し特別に見える気もする。

 

 気のせいかもしれない。

 

「ここが本当に入口になるんですよね」

 

「その予定です」

 

 澪も中を見る。

 

 六畳間の押し入れとは形が違う。

 

 畳もない。

 

 襖でもない。

 

 それでも、ここが次の接続先になる。

 

 借りただけだった部屋が、少しずつ会社へ変わっていく。

 

 机も看板もまだない。

 

 それでも澪には、契約した時より一段先へ進んだ感じがした。

 

「次は家具ですね」

 

 理央が言う。

 

「その前に、まだ手続きが残ってます」

 

「……まだあるんですか」

 

「あります」

 

 理央の顔が少しだけ曇った。

 

 真壁は気にせず、収納の扉を閉めた。

 

 清められたばかりの物置は、また何の変哲もない収納に戻った。

 

 

 

 契約が終わり、清祓まで済んだ。

 

 そこで澪は、ようやく荷物を移せば終わると思いかけた。

 

 甘かった。

 

 六畳間のローテーブルには、また紙とPCとスマートフォンが並んでいた。

 

「……まだこんなにあるんですね」

 

 理央が一覧の下まで目で追う。

 

「あります」

 

 澪も見たくなかったが、消えてはくれない。

 

 本店所在地に関する手続きを済ませても、税務関係の住所、銀行などの登録先、取引先への通知、郵便、電気、水道、通信回線、警備会社、工事関係の確認、駐車場の利用開始と続いている。

 

 終わった項目に印を付けても、その下にまだ残っていた。

 

「荷物を運べば終わると思ってました」

 

「場所を借りただけだからな」

 

 真壁は落ち着いている。

 

「収納で何とかなりません?」

 

 理央が聞いた。

 

「手続きまでは収納では片づかないな」

 

「できたら怖いです」

 

 それは澪もそう思う。

 

 PCも箱も備品も、物なら収納できる。

 

 住所変更は靄にできない。

 

 契約先へ連絡する作業も、収納へ放り込んで終わりにはならない。

 

「引っ越しで一番面倒なの、荷物じゃないんですね」

 

「うちは特にそうなりますね」

 

 普通なら大仕事になる荷物運びが、押入商会ではかなり簡単な方に入る。

 

 その代わり、特殊能力がまったく効かないところだけが残る。

 

 澪は終わった項目にまた印を付けた。

 

「電気、済みました」

 

「次は?」

 

「通信回線です」

 

「まだある」

 

「あります」

 

 理央の顔が、少しずつ悟ったようになっていく。

 

 その日の午後、会社用のスマートフォンも届いた。

 

 3台で、澪、真壁、理央に1台ずつ。

 

「私のもあるんですか?」

 

 箱を見た理央の顔が、一気に明るくなる。

 

「ありますよ。仕事用と個人用は分けましょう」

 

「会社用……」

 

 さっきまで住所変更で疲れていた顔ではない。

 

 澪は少し笑った。

 

「まだ設定がありますけどね」

 

「今それ言います?」

 

「ありますから」

 

 3人分の端末を順に設定する。

 

 会社所有で、仕事に使う端末。

 

 取引先へ知らせる番号も、少しずつこちらへ切り替えていく。

 

 明石にも新しい会社用番号を伝えた。

 

 理央は自分の端末を両手で持っている。

 

「なんか、ほんとに会社から支給された感じします」

 

「支給してますから」

 

「アルバイトなのに」

 

「仕事で使うなら必要ですよ」

 

 真壁も自分の端末を確認した。

 

「個人用と分けておいた方が整理しやすい」

 

「RightInは今までどおりですか?」

 

 理央が聞く。

 

「私的な連絡は個人端末でいいと思います。仕事はこっちへ寄せましょう」

 

「分かりました」

 

 ただし、このスマートフォンが異世界まで便利にしてくれるわけではない。

 

 向こうへ持っていっても、ゲンダイの回線はつながらない。

 

 会社用になっても、そこだけは変わらなかった。

 

 理央は新しい端末を眺めてから、一覧を見る。

 

「スマホも終わりですか?」

 

「端末設定は終わりです」

 

「じゃあ1個消えますね」

 

「はい」

 

 澪が印を付ける。

 

 理央も少し満足そうに頷いた。

 

「で、次は?」

 

「警備会社との確認です」

 

「まだある」

 

「あります」

 

 荷物は一度も動かしていないのに、その日だけでかなり疲れた。

 

 六畳間の隅には、移動予定の会社用品が積まれたままになっている。

 

 澪には、それが一番簡単な仕事に見え始めていた。

 

 

 

 手続きが一段落すると、ようやく新事務所へ置く物を決められるようになった。

 

 家具は押入家具商会へ頼む。

 

 約50㎡の室内に合わせ、必要な寸法を先に出すことにした。

 

「私は普通ので大丈夫です」

 

 理央は最初、そう言っていた。

 

 澪もそのつもりで聞いていた。

 

 澪と真壁の机、理央の作業机、将来人が増えた時の予備机に、椅子と打ち合わせ用のテーブル、書棚、備品棚まであれば足りる。

 

 大げさな物は要らない。

 

 使いやすければ十分だった。

 

「理央君の机は、作業用にした方がいいな」

 

 真壁が言う。

 

「普通の机じゃだめですか?」

 

「彫金工具を置くなら、最初から用途に合わせた方が使いやすい」

 

「じゃあ……」

 

 理央が少し考える。

 

「引き出し、もう1段あってもいいですか?」

 

「いいですよ」

 

「あと、工具をここに並べたいです」

 

 机の図を指でなぞる。

 

「小さい材料も分けたいです」

 

「それなら仕切りを入れた方がいいな」

 

 真壁が寸法を見ながら答える。

 

「作業灯も置きたいです」

 

「置けるようにしましょう」

 

「それと――」

 

 澪は途中で理央を見る。

 

「理央さんが一番注文多くなってません?」

 

 理央が止まった。

 

「……ほんとだ」

 

「普通ので大丈夫って言ってましたよね」

 

「最初は本当にそう思ってたんです」

 

「分かりますけど」

 

 自分専用だと分かると、欲しいものが急に具体的になるらしい。

 

 工具が転がりにくいこと。

 

 小物を分けられること。

 

 照明を置けること。

 

 材料を広げても事務所の通路にはみ出さないこと。

 

 どれも無駄な注文ではなかった。

 

「使う本人が分かっているなら、先に決めておく方がいい」

 

 真壁が言う。

 

「じゃあ、ここも……」

 

「増えましたね」

 

 澪が言うと、理央は少しだけ笑った。

 

 押入家具商会へ寸法と用途を伝える。

 

 出来上がった家具は、必要な順に新事務所へ運び込んだ。

 

 空だった室内には、澪と真壁の机が並び、その少し離れた場所へ理央の作業机が置かれた。

 

 打ち合わせ用のテーブルと椅子、壁際の書棚や備品棚も入っていく。

 

「私の机です」

 

 理央が自分の机の前で立ち止まる。

 

「そうですよ」

 

「ずっと置いてていいんですよね」

 

「そのための机です」

 

 理央は引き出しを開けたり閉めたりしている。

 

「これ、すごくいいです」

 

「注文多かったですからね」

 

「それはもう言わないでください」

 

 真壁は別の作業をしていた。

 

 会社の看板だ。

 

 派手なものではない。

 

 必要以上に大きくもない。

 

 建物の外に出しても違和感のない、簡潔なものにしてある。

 

 書かれているのは、

 

「合同会社押入商会」

 

 それだけだった。

 

「普通ですね」

 

 澪が言う。

 

「書いてある名前以外は」

 

 理央が返す。

 

「会社名ですから」

 

「分かってます」

 

 真壁は看板の位置を確認する。

 

「これでいいだろう。目立たせる必要はない」

 

「むしろ普通に見える方がいいですね」

 

 澪も同意した。

 

 机と椅子と棚が入り、看板まで付いた。

 

 数日前まで空室だった場所が、ようやく人の働く場所に見えてきた。

 

 理央は自分の机の椅子に座り、両手を天板に置いた。

 

「……私、ここで仕事するんですね」

 

「そうなりますね」

 

 六畳間の一角を借りるのではない。

 

 最初から理央のために用意された作業場所だった。

 

 その違いは、机1つ分より大きそうだった。

 

 

 

 家具が入る頃には、入口まわりの工事も始まっていた。

 

 管理側への確認は済んでいる。

 

 真壁は、必要な場所へ必要なものだけ入れていった。

 

 入口にはICカードリーダーと電気錠。

 

 来客確認用のインターホン。

 

 入口付近に防犯カメラ。

 

 窓には補助錠。

 

 そして、水回り側の収納にもカード式の電気錠を付ける。

 

 さらに主室との間へパーティションを置いた。

 

 来客席からは、収納の扉が直接見えにくい。

 

「秘密基地っぽくはならなかったですね」

 

 理央が言う。

 

「普通の設備で足りるからな」

 

 真壁はカードリーダーの動作を確認している。

 

「外から見て普通の会社の方がいいです」

 

 澪も同意した。

 

 防犯カメラも電気錠も、ゲンダイの法人なら珍しいものではない。

 

 守る中身だけが普通ではない。

 

「これで入口はいいだろう」

 

 真壁が一歩下がった。

 

 理央がすぐカードを見る。

 

「使っていいですか?」

 

「やりたかったんですね」

 

 澪が言う。

 

「この前、真似だけだったので」

 

 理央は少し嬉しそうにカードを持った。

 

 リーダーへ近づける。

 

 ピッ。

 

 小さな認証音。

 

 続いて電気錠が外れる音がした。

 

 理央が扉を開ける。

 

「開きました」

 

「開きますよ」

 

「本物です」

 

「何がです?」

 

「ピッ、が」

 

 澪は笑った。

 

 前は何も付いていない入口で、理央が手だけをかざしていた。

 

 今度は本当にカードがあり、本当に鍵が開く。

 

「じゃあ、次だな」

 

 真壁はもう収納側へ向かっていた。

 

「余韻ないですね」

 

「動作確認だろう」

 

 パーティションの奥へ回る。

 

 そこには例の収納がある。

 

 理央が同じカードをかざした。

 

 もう一度。

 

 ピッ。

 

 収納扉の電気錠が外れる。

 

「こっちもです」

 

「理央君にも収納権限を付けてある」

 

 真壁が答える。

 

「会社スマホに、机に、カードに、収納権限……」

 

 理央が指を折るように考える。

 

「私、アルバイトですよね?」

 

「アルバイトですね」

 

 澪が答える。

 

「だんだん分からなくなってきました」

 

「仕事内容が普通のアルバイトじゃないですから」

 

「澪さんが言います?」

 

「言いますよ」

 

 カードそのものに特別な力はない。

 

 魔法が入っているわけでもない。

 

 入口を開けるか。

 

 収納扉を開けるか。

 

 その権限を利用者ごとに分けているだけだ。

 

 澪と真壁と理央は両方。

 

 将来、一般の社員が増えたなら、入口だけを開けられるようにもできる。

 

 真壁は3人分のカードを順に確認した。

 

 続いて、試験用に一度カードを失効させる。

 

 かざしても開かない。

 

 設定を戻す。

 

 また開く。

 

「紛失した場合は、そのカードだけ止めればいい」

 

「便利ですね」

 

「物理鍵を増やすより管理しやすい」

 

 理央は自分のカードを見た。

 

 さっきより少し大事そうに持っている。

 

「なくさないようにします」

 

「それが一番です」

 

 澪が言う。

 

 3人は来客席側へ戻り、パーティションを見る。

 

 収納は見えにくい。

 

 普通の人が来ても、その奥に何があるか気にする理由はない。

 

「これなら大丈夫そうですね」

 

「来客がいる時は、原則使わない方がいい」

 

 真壁が言う。

 

「はい」

 

 秘密を守るために入れたものは、どれもゲンダイでは普通の設備だった。

 

 その普通のカードを使うと、もうすぐ異世界入口の前まで入れる。

 

 理央は最後にもう一度、入口でカードをかざした。

 

 ピッ。

 

 今度は満足そうに頷いた。

 

 

 

 手続きに何日も掛かったわりに、荷物の引っ越しはあっけなかった。

 

 江古田の六畳間。

 

 会社用品と私物を分けるところから始める。

 

「これは会社」

 

 澪がPCの箱を指す。

 

「こっちは私物」

 

 大学関係の物は残す。

 

 ベッドも生活用品も当然そのまま。

 

 六畳間は、これからも澪の住居だ。

 

 会社の物だけを新事務所へ移す。

 

 理央も自分の道具を分けていた。

 

「これは新しい机に置きます」

 

「それは理央さんの収納で大丈夫ですか?」

 

「はい」

 

 真壁は、運ぶ量より新事務所で出す順番を見ている。

 

「先に棚へ入れる物を分けておこう。その後でPC類だな」

 

「引っ越しなのに、段ボール増やさないんですね」

 

 理央が周囲を見る。

 

「普通はもっと大変ですよね?」

 

「普通は大変ですよ」

 

 澪が答える。

 

 段ボールを組み立てて、ガムテープを貼る。

 

 台車で運ぶ。

 

 トラックへ積む。

 

 新しい場所でまた降ろす。

 

 何往復もする。

 

 そういう引っ越しを想像していた理央の目の前で、会社用品が靄に包まれ、そのまま消えていく。

 

「業者さん、いらないですね」

 

「うちだけです」

 

「これ、引っ越し屋さんが見たら怒りません?」

 

「見せられませんよ」

 

「そうでした」

 

 PC、資料、備品、小型の機材。

 

 会社の物だけが、次々と収納へ入っていく。

 

 生き物は入らない。

 

 だから人間は普通に移動する。

 

 ただ、物だけなら驚くほど簡単だった。

 

「終わりました?」

 

 理央が六畳間を見回す。

 

「会社分は、だいたい」

 

 澪も見る。

 

 床が見えている。

 

 ローテーブル周辺も、前より明らかに広い。

 

「……こんなに広かったんですね」

 

「六畳ですけどね」

 

「前より広く見えます」

 

「会社用品が多すぎたんですよ」

 

 自分で言って、少しだけ反省した。

 

 新事務所へ移る。

 

 収納から、必要な位置へ物を戻していく。

 

 棚へ備品。

 

 机へPC。

 

 理央の作業机には、理央自身が工具を並べる。

 

 普通なら丸一日どころか、もっと掛かりそうな作業だった。

 

 それが、驚くほど静かに進んだ。

 

「荷物より住所変更の方が時間かかりました」

 

 澪が言う。

 

「それ、思い出させないでください」

 

 理央が即座に返した。

 

「まだ全部忘れたいです」

 

「終わったからいいではないか」

 

 真壁が言う。

 

「真壁さんは平気ですよね」

 

「終わったものを気にしても仕方ないだろう」

 

「強い」

 

 最後にハイエースも、新事務所の付属駐車場へ移す。

 

 車が入ると、駐車場まで会社の一部になった感じがした。

 

 事務所の中には机と棚。

 

 外にはハイエース。

 

 入口には看板。

 

 澪は一度、六畳間へ戻った。

 

 仕事用品が減った部屋は、久しぶりに自分の家らしく見える。

 

 会社が外へ出ていった。

 

 そう思うと、少しだけ不思議だった。

 

 でも、まだ最後の一つが残っている。

 

 会社名の由来になった場所。

 

 新しい押し入れを、これから開けなければならない。

 

 

 

 住所変更を済ませ、電気と水道と通信回線を入れ、警備会社との契約も終わった。

 

 家具も看板もカード錠も揃い、会社用品の引っ越しまで済んでいる。

 

 最後に残ったのは、会社名の由来になったものだった。

 

 新事務所の奥。

 

 パーティションを回り込む。

 

 理央がカードをかざした。

 

 ピッ。

 

 収納扉の電気錠が外れる。

 

「ここですね」

 

「ここです」

 

 澪も少しだけ緊張していた。

 

 何度も異世界へ行っている。

 

 六畳間の押し入れを開けること自体は、もう日常になっている。

 

 でも、江古田の六畳間以外に接続を開くのは初めてだった。

 

 収納の奥壁は、まだ普通の壁だ。

 

 真壁は主室側を確認した。

 

「人はいない。パーティションの位置も問題ないな」

 

 続いて収納扉の開閉を確認する。

 

「ここでいいだろう」

 

 シロガネも収納前に来ている。

 

 古い燭台は、近くの台の上に置いた。

 

 理央はさっきまでカードを試していた時より静かだった。

 

「ほんとに、ここから行けるようになるんですよね」

 

「そのはずです」

 

 澪は奥壁を見る。

 

 その時、鑑定表示が開いた。

 

----------------------------------

【新拠点確認】事務所について【接続】

 001:木花開耶姫命

  移転報告、確認。

 002:木花開耶姫命

  奉納、受領。

 003:木花開耶姫命

  清祓、確認。

 004:鎮守

  接続先、確認。

 005:燭台

  準備、良好。

 006:木花開耶姫命

  接続、許可。

----------------------------------

 

 澪は最後の行を見た。

 

「許可、出ましたね」

 

「ほんとにここから行くんですね」

 

 理央も表示を見ている。

 

「開通を確認しよう」

 

 真壁は感想より先に作業へ戻った。

 

 澪は少しだけ息を整える。

 

 収納奥の壁へ意識を向ける。

 

 何もなかったはずの壁の向こうに、境界の感覚が生まれる。

 

 見慣れた異世界側の景色が、そこへつながった。

 

 理央が息を止める。

 

「……開いた」

 

「開きましたね」

 

 六畳間の押し入れとは形が違う。

 

 襖もない。

 

 畳もない。

 

 カード錠の付いた収納の奥に、異世界がある。

 

 3人で新事務所側から向こうへ抜ける。

 

 問題なく通れる。

 

 今度は異世界側から戻る。

 

 戻った先は、六畳間ではない。

 

 パーティションの奥にある、新事務所の収納だった。

 

「戻ってきました」

 

 理央が周囲を見る。

 

「会社です」

 

「そうですね」

 

 澪はそこでようやく実感した。

 

 ここが本当に新しい押入商会の拠点になった。

 

 事務所として使えるだけではない。

 

 ゲンダイ側の仕事と異世界側の仕事が、同じ場所でつながった。

 

 真壁は収納から主室側へ出て、見え方を確認する。

 

「来客がいる時は原則使わない。利用前に主室を確認してから入る。それでいいだろう」

 

「はい」

 

 理央も頷く。

 

 収納扉を閉める。

 

 カード錠を掛ける。

 

 パーティションの外へ出る。

 

 そこから見れば、普通の会社だった。

 

 机があり、棚があり、会社用のスマートフォンがあり、入口にはICカードリーダーがある。

 

 奥の収納扉まで見えるわけではない。

 

 そのさらに奥が異世界へつながっているなど、外からは分からない。

 

「完成ですね」

 

 理央が言った。

 

 澪も主室を見回す。

 

「完成ですね」

 

 普通の会社らしいものを積み上げてきた。

 

 最後に一つだけ、決定的に普通ではないものが入った。

 

 それでようやく、押入商会らしい事務所になった。

 

 

 

 その日の夜。

 

 澪たちは江古田の六畳間へ戻った。

 

 古い燭台も、いつもの場所へ戻す。

 

 シロガネは先に部屋へ入り、慣れた場所で丸くなった。

 

「……広くなりましたね」

 

 理央が部屋を見回す。

 

「六畳ですけどね」

 

 澪も同じことを思っていた。

 

 会社のPCや資料、備品の箱が大幅に減っている。

 

 床が見え、ベッドや大学関係の物、生活用品がきちんと部屋の中心に戻っている。

 

 久しぶりに、一人暮らしの部屋らしく見えた。

 

「ちゃんと家ですね」

 

「前から家です」

 

「会社でもありましたよね」

 

「それは……はい」

 

 そこは否定できない。

 

 今は違う。

 

 仕事をする場所は道路の向こうにできた。

 

 理央には専用の作業机があり、会社用スマートフォンとICカードもある。

 

 ハイエースも新しい駐車場へ移した。

 

 入口も警備も整えた。

 

 そして新事務所の収納から、異世界へ行けるようになった。

 

 澪はようやく、住居と会社を分けられたのだと思った。

 

「これで一段落ですね」

 

「運用上は問題ないだろう」

 

 真壁もそう判断している。

 

 理央は新しい会社用スマートフォンを見てから、自分のカードも確認した。

 

「明日から、あっちに出勤するんですよね」

 

「そうなります」

 

「カードで入るんですよね」

 

「今日はもう何回もやりましたよ」

 

「でも明日から仕事で使うんです」

 

 少し上機嫌だった。

 

 澪は笑いながら、部屋の中を見回す。

 

 会社用品がなくなると、今まで隠れていた場所まで見える。

 

 その中に、ずっと使ってきた押し入れもあった。

 

 新しい入口ができた以上、こちらはもう役目を終えた。

 

 澪はそう思っていた。

 

 特に確かめるつもりもなかった。

 

 ただ、何となく襖へ手を掛けた。

 

 開ける。

 

 澪の手が止まった。

 

「……」

 

 理央が気づく。

 

「どうしました?」

 

 澪は押し入れの奥を見たまま答えた。

 

「……理央さん」

 

「はい?」

 

「つながってます」

 

「え?」

 

 理央がすぐ横へ来る。

 

 押し入れを覗く。

 

 その向こうには、見慣れた異世界の景色があった。

 

 新事務所で見たものと同じ。

 

 いつもの入口も、何事もなかったように残っている。

 

「……え?」

 

 理央がもう一度言った。

 

 真壁も近づいて確認する。

 

 少し間があった。

 

「……これ、増えてません?」

 

 理央が言う。

 

「増えてますよね」

 

 澪もそうとしか言えない。

 

「便利になったな」

 

 真壁が言った。

 

「真壁さん、そういう問題ですか」

 

「出入口が2か所使えるなら、不便ではないだろう」

 

「そうですけど」

 

 理央が真壁を見る。

 

「やっぱり便利で処理するんですね」

 

 その時、鑑定表示が開いた。

 

----------------------------------

【接続確認】旧押し入れについて【江古田】

 001:燭台

  旧接続、継続。

 002:鎮守

  使用可能。

 003:木花開耶姫命

  新接続、追加。

 004:木花開耶姫命

  旧接続、閉鎖指定なし。

----------------------------------

 

 3人とも表示を見る。

 

 理央が最初に口を開いた。

 

「閉じるって言ってなかったんですか?」

 

「……」

 

 澪は思い返す。

 

 接続を移したい。

 

 新しい場所へつなぎたい。

 

 そのための許可が欲しい。

 

 前の参拝でも、今回の報告でも、そのつもりで話していた。

 

 でも。

 

 古い方を閉じてください。

 

 そう言った覚えはない。

 

「……言ってないですね」

 

 理央が押し入れと澪を交互に見る。

 

「じゃあ、2つですか?」

 

「2つですね」

 

「会社に1つ。澪さんの家に1つ」

 

「そうなりますね」

 

「それでいいんですか?」

 

 澪も少し考える。

 

 よくない理由を探す。

 

 住居側にも新事務所にも異世界への入口がある。

 

 即時通信ができるわけではなく、単純に出入り口が増えただけだ。

 

 安全面の運用は考える必要がある。

 

 ただ、今ここで困ることはなかった。

 

「こちらを残せるなら、澪君の住居側にも出入口がある。悪い話ではないだろう」

 

 真壁が言う。

 

「便利ですね」

 

 理央が先に言った。

 

「理央さんまで」

 

「だって、便利ではあります」

 

「そうですけど」

 

 澪はもう一度、押し入れの向こうを見る。

 

 会社を六畳間から出した。

 

 新しい事務所を借り、看板を付け、カードを作り、机を並べた。

 

 これでようやく普通の会社に近づいたと思った。

 

 その日の最後に増えたのは、異世界への入口だった。

 

 会社は引っ越した。

 

 押し入れは増えた。

 

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