新しい事務所で仕事を始めて、まだ数日しか経っていない。
澪は自分の机でノートPCを開いた。
それだけなのに、少し妙な感じがする。
六畳間では、ローテーブルの上に大学の物と会社の物が混ざっていた。
今は目の前にあるのは仕事関係だけだ。
真壁はすでに自分の席で何か確認している。
新しい場所だからといって、特別な感慨があるようには見えない。
理央は違った。
自分の席へ座る前に、机を一度見て、会社用スマートフォンを見て、ICカードも確かめている。
「ほんとに会社になりましたね」
理央が言った。
「前から会社ですよ」
澪は返す。
理央が一瞬だけ黙った。
「何ですか、その間は」
「何でもないです」
「今、何か考えましたよね」
「考えてないです」
前にも似たやり取りをした気がする。
ただ、今回は理央の言い分も少し分かった。
約50㎡の事務所には3人分の机があり、理央には専用の作業机まである。棚と打ち合わせ用のテーブル、会社用スマートフォン、ICキーカード、入口の看板も揃った。
どれも、六畳間にはなかったものだ。
窓の向こうには江古田の街が見える。
道路の向こうには浅間神社。
パーティションの奥には、異世界へつながる収納。
外から見れば、ようやく普通の小さな会社になった。
中身の一部を除けば。
シロガネは室内の端で自由に過ごしている。
古い燭台も、事務所の一角に置かれていた。
今のところ、どちらもただの白猫と古い燭台にしか見えない。
「今日、鷺沼さん来るんですよね」
理央が会社用スマートフォンを机に置きながら聞いた。
「午後ですね」
「お茶、私でいいですか?」
「お願いします」
「はい」
少し嬉しそうだった。
新しい事務所で、初めての来客対応。
それ自体は、とても普通の会社らしい。
その時、澪のPCがメールの着信を知らせた。
「メール来ました」
差出人を見る。
東都特殊金属試作。
鷺沼。
件名は、
『SFP用特殊光学部品 2027年度量産計画について』
だった。
「鷺沼さんですか?」
「はい」
本文は簡潔だった。
午後の打ち合わせ前に確認してほしい資料があること。
量産計画について相談したいこと。
予定どおり午後に訪問したいこと。
添付ファイルが1つ。
澪はそれを開いた。
表紙に、
『SFP用特殊光学部品
2027年度 世界需要予測・量産調達計画』
とある。
理央が横から覗き込む。
「……世界需要?」
「そう書いてありますね」
「新しい事務所で最初に来るちゃんとした仕事が、いきなり世界なんですか?」
「私に聞かれても」
真壁が椅子を引いて、こちらへ来た。
「見せてもらおうか」
澪は資料を開いた。
新事務所で最初に届いた本格的な仕事の資料は、会社案内でも取引先一覧でもなかった。
世界需要予測だった。
資料の最初に書かれていた結論は、短かった。
販売先の確保より、供給量の確保が最大の課題。
澪は、その下に並んだ数字を見る。
「7,800万個……?」
理央が先に声を出した。
「書いてありますね」
「これ、年間ですよね?」
「そうだな」
真壁は資料を上から追っている。
基本需要予測、7,800万個。
採用が予定以上に進んだ場合、1億個規模。
それに対して、押入商会がこれまで提示していた年間最大供給能力は、特殊蛍石約0.5t。
個数換算で約3,203万個。
理央の目がそこで止まった。
「……半分もないですよね」
「現状ではな」
真壁が答える。
澪は電卓を開いた。
量産単価は1個200円。
実務上の年間契約上限として資料に書かれている3,200万個を掛ける。
「64億円……」
数字は前にも見ている。
明石へ電話した時にも、最大供給量を全部売れた場合の金額として計算した。
ただし、あの時はあくまで最大値だった。
売れるかどうかは別。
だから、計算結果として切り離して考えられた。
今回は違う。
資料には、東都側の「年間確保推奨数量」として、ほぼその上限いっぱいの数が載っている。
「前は、最大なら64億円って話でしたよね」
理央が言う。
「そうです」
「今回は、向こうがその最大近く欲しいってことですか?」
「資料上は、そう読めますね」
澪は画面から一度目を離した。
その数量を作れるか。
200円で納められるか。
年間で安定して供給できるか。
最大値が、そのまま取引条件の候補になっている。
数字の意味が変わっていた。
真壁は別の欄を見ている。
「需要の確度は分かれているな」
量産確定・量産条件協議中。
評価完了・採用可能性高。
評価継続中。
全部が同じ確度の需要というわけではない。
それでも、最初の区分だけで年間上限へ届いている。
「確定に近いところだけで、もう年間上限まで来てるんですね」
理央が言った。
「そのようだな」
真壁は資料を閉じなかった。
午後に鷺沼が来る。
細かい内訳は、その時に確認すればいい。
澪もそれ以上、資料を先へ読み込むのを止めた。
ここで分かったことは十分だった。
押入商会が「かなり大きい」と思っていた年間供給量は、世界需要の前では少ない側の数字になった。
そして、前まで仮定だった最大売上が、初めて現実の商談候補としてこちらを向いていた。
午後。
インターホンが鳴った。
「来ました」
理央が立ち上がる。
「いらっしゃいました、です」
澪が笑ってたしなめる。
入口を確認し、鷺沼を中へ案内した。
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
新事務所の打ち合わせテーブルへ案内し、理央がお茶を出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯呑みを置く手つきは少し慎重だった。
会社用の机やカードを喜んでいた時とは違い、来客の前では余計なことをしない。
澪は内心で少し感心した。
六畳間では、こうはいかなかった。
来客用の席を作るだけで物を動かし、生活用品まで目に入る。
今は違う。
入口。
打ち合わせテーブル。
会社の机。
看板。
どこから見ても、小さな会社の普通の商談だった。
数m先のパーティションの向こうに、異世界への入口があることを除けば。
来客中は、あちらを使わない。
それだけは朝のうちに確認してある。
鷺沼にとって、ここはただの新しい事務所でいい。
シロガネは少し離れた場所にいる。
古い燭台も事務所の一角に置かれたままだ。
鷺沼から見れば、白猫と古い燭台。
それ以上ではない。
「資料はご覧いただけましたか」
「拝見しました。ずいぶん大きくなりましたな」
真壁が答える。
「こちらの予測より早いです」
鷺沼は鞄から資料を出した。
午前中に見たものと同じだ。
澪は最初に確認したかったところを聞く。
「7,800万個というのは、全部が確定しているわけではないんですよね」
「はい」
鷺沼は資料の該当箇所を開く。
「すでに量産が確定しているものと、条件を詰めているもの。それから、評価を終えて採用可能性が高いもの、まだ評価中のものに分けています」
「全部を同じ数字として見ているわけではない、と」
「そうです」
鷺沼は指先で区分を追った。
「ただ、量産確定と条件協議中だけでも3,200万個あります」
理央がわずかに顔を上げた。
午前中に見た年間上限と同じ数字だ。
澪もそこだけは、もう一度確認する。
「そこは、実際に動いている案件なんですね」
「はい。ですので今日は、まず直近の量産数量と、その先の年間供給枠について相談したいと思っています」
「承知しました」
真壁が答える。
鷺沼は資料を最初から説明し直したりはしなかった。
こちらが読んでいる前提で、必要なところだけ話す。
理央はお茶を出し終えると、自分の席へ戻った。
新事務所で初めての来客対応。
そこまでは普通だった。
聞こえてくる数字だけは、最初から普通ではなかった。
「もう一つ確認したいのですが」
真壁が資料の販売経路のページを開いた。
「国内2社だけではない、という理解でよろしいですかな」
「はい」
鷺沼は頷いた。
「FUJISHIROと新川電気で、まず年間3,200万個規模です。その先に海外案件があります」
理央が資料を見る。
そこには北米、中国、台湾、欧州と地域名が並んでいる。
朝の資料では数字ばかりに目が行った。
今は、その数字の行き先が見えてくる。
「海外へ売り込みを掛けている途中、というわけではないんですね」
澪が聞く。
「違います。評価依頼や採用相談がすでに来ています」
鷺沼の説明は淡々としていた。
「長距離通信だけではありません。データセンター間、機器間接続、光電融合でも評価が進んでいます」
「つまり、販売先を探している段階ではない、ということですな」
真壁が確認する。
「はい。今は、確保できた数量をどう振り分けるかの方が問題です」
理央が少しだけ眉を上げた。
商品を作り、売り先を探す。
普通ならその順番だ。
今回は逆だった。
欲しい側が先に並んでいる。
「同じ部品を他で作れないんですか?」
理央が思わず聞き、すぐに少し姿勢を正した。
鷺沼は気にした様子もなく答える。
「通常材料と通常加工では、同じ性能まで届いていません」
米国でも中国でも、完成モジュールを作ること自体はできる。
ただ、その中核に使う特殊光学部品を同じ性能で用意できない。
だから、採用が増えるほど東都と押入商会へ調達が集中する。
澪はそこで、資料の別のページを見る。
「東都さん側の仕事も増えますよね」
「増えます」
鷺沼は頷いた。
「こちらで、顧客ごとの品質保証、ロット管理、技術窓口、輸出対応、契約管理、供給配分、不具合時の追跡まで持ちます」
単に買って、そのまま売るだけではない。
誰にどの数量を回したか。
どのロットを納めたか。
不具合が出た時にどこまで追えるか。
世界へ広げるほど、東都側の仕事も増える。
「専任部門が必要になった理由が分かりました」
澪が言う。
「年間数百億円規模になれば、片手間では扱えません」
鷺沼は大げさに言わない。
売上が大きくなれば、その分だけ検査、物流、輸出、保証、技術対応も増える。
儲かるかどうかより、まず回せる体制が必要になる。
「営業を増やす話じゃないんですね」
理央が小さく言った。
「今は、むしろ断る順番まで考えないといけません」
鷺沼が答える。
澪は少しだけ妙な気分になった。
新事務所で最初の大きな商談なのに、売り込みの相談ではない。
誰に売るかですらない。
限られた数量を、誰に何個回すか。
話はそこまで進んでいた。
需要の話が一段落すると、鷺沼は直近の発注へ戻した。
「まず3月中に、800万個お願いしたいと考えています」
澪は資料の数字を見る。
800万個。
今度は予測ではない。
正式量産品として、3月中に必要な数量だ。
「800万ですかな」
真壁が確認する。
「はい。これでも3月分だけです」
理央は自分の席に戻っていたが、顔だけ少し上がった。
声には出さない。
商談中だと分かっている。
真壁は数量を材料重量へ直す。
「1個約15.6mgですから、800万個で約124.8kgですな」
「その計算です」
鷺沼が頷いた。
澪は次に金額を見る。
量産単価は1個200円。
「800万個で、16億円……」
数字にすると、やはり大きい。
理央の手が一瞬止まった。
午前中、自分の机と会社用スマートフォンを嬉しそうに確認していた17歳が、午後には16億円の商談のお茶を出している。
新事務所は、最初から金額の桁がおかしかった。
「全量、正式量産品ですよね」
澪が確認する。
「はい。評価品は含みません」
鷺沼は分納案を示した。
3月12日、19日、26日、31日の4回に分け、それぞれ200万個ずつ。
合計800万個。
1回あたり4億円分になる。
澪は金額より日付を見直した。
年間64億円という数字は大きすぎて、まだ遠く感じる。
3月12日という日付は違った。
その日までに、最初の200万個を正式量産品として納める。
次の週には、また200万個。
数字に期限が付くと、急に現実味が増す。
「最初の200万個から、量産条件で納める形ですね」
「はい」
「分納先は東都さんで一本化でよろしいですかな」
真壁が聞く。
「お願いします。FUJISHIRO、新川電気、それから海外の先行案件への配分はこちらで行います」
押入商会が最終顧客ごとに発送する必要はない。
東都へ納めれば、その先の品質保証や配分は東都側が持つ。
役割が分かれているのはありがたい。
真壁は少しだけ考えたあと、頷いた。
「3月分は対応可能ですな。分納日程については、加工側の段取りを合わせましょう」
「お願いします」
鷺沼もすぐ応じる。
800万個。
約124.8kg。
16億円。
どれも大きな数字なのに、商談としては日付と納品回数へ落ちていく。
理央が空いた湯呑みを下げるために立ち上がった。
澪と目が合う。
何も言わない。
でも、その顔にははっきり出ていた。
本当に800万個やるんですね。
澪はほんの少しだけ頷いた。
予測だった数字が、最初の納期を持った。
3月分の見通しが立つと、鷺沼は年間の話へ移った。
「次に、年間の供給枠についてです」
真壁が資料へ目を落とす。
「3,200万個というのは、需要予測ではなく、御社として確保したい数量という理解でよろしいですかな」
「はい。可能であれば、その数量を確保したいと考えています」
理央が資料を見直した。
午前中は「押入商会が作れる最大に近い数」として見ていた。
今は違う。
その上限近くを、東都が実際に押さえたいと言っている。
「現在提示している年間供給上限を、ほぼ全量ということになりますな」
「その通りです」
鷺沼は淡々と答えた。
量産単価200円なら、年間64億円。
前までは最大まで売れたら、という仮定だった。
今は、相手がその最大近くを契約枠として欲しがっている。
理央が思わず小さく息を呑んだ。
「全部……ですか」
鷺沼は少しだけ理央の方を見た。
「現状の需要では、それでも不足します」
言い方は静かだった。
大げさに煽っているわけではない。
必要な数量を積み上げたら、そうなっただけだ。
「それ以上の供給が可能になる場合は、追加分についても相談したいと考えています」
真壁はすぐには答えなかった。
澪も口を挟まない。
追加できるかどうかは、ここで勢いで答える話ではない。
「現時点では、提示している上限を超える数量まではお約束できませんな」
真壁が言う。
「承知しています」
「年間枠については、供給計画を詰めた上で正式条件へ落としましょう。それ以上については、社内で検討して改めて回答します」
「お願いします」
鷺沼はそれで十分というように頷いた。
「今回の上限を今すぐ変えてほしい、という意味ではありません。来年度以降の計画を立てるために、拡張余地があるかを知っておきたいんです」
「その趣旨であれば分かります」
澪も答える。
ここで曖昧に増やせると言ってしまえば、その数字が次の計画の前提になる。
逆に、今の上限だけを理由に将来の話まで閉じる必要もない。
約束できる範囲と、まだ検討が必要な範囲を分ければいい。
「では、今年度分は現在の上限で協議を進める形で」
鷺沼が確認する。
「はい」
澪が答えた。
「3月の800万個を含めて、年間の納入計画を詰めましょう」
真壁も続ける。
理央は黙って資料を見ている。
3月分と年間分。
午前中には大きすぎて現実味のなかった数字が、少しずつ契約の形へ変わっていく。
鷺沼の前で決めるべきことは、そこまでだった。
それ以上の話は、押入商会の中で考える必要がある。
商談が終わり、理央が鷺沼を入口まで見送った。
扉が閉まる。
事務所が急に静かになった。
さっきまで鷺沼が座っていた椅子と、飲み終えた湯呑みが残っている。
窓の外は、いつもの江古田だった。
道路の向こうには浅間神社。
その小さな事務所で、ついさっき年間の最大供給枠を相談していた。
澪には、その落差の方が金額そのものより妙だった。
「終わりました」
理央が戻ってくる。
「お疲れさまでした」
「お茶出しただけですけど、疲れました」
「16億円のお茶でしたからね」
「言わないでください」
理央が自分の席へ戻る。
真壁はまだ打ち合わせテーブルに残っていた。
「さて」
その一言で、空気が少し変わった。
鷺沼がいる間には出さなかった話をする時間だった。
澪は資料の年間数量を見る。
「3,200万個って、重さにするとどのくらいでしたっけ」
「1個約15.6mgだから、約499.2kgだな」
真壁が答える。
澪は計算し直す。
やはり同じだった。
約499.2kg。
「……ほとんど全部ですね」
理央が顔を上げる。
「何がです?」
澪は少し迷ってから答えた。
「今、確保している特殊蛍石です」
「え」
「だいたい0.5tありますけど、年間3,200万個を作ると、ほぼ使い切ります」
理央の表情が止まる。
「64億円売れるんですよね?」
「売れます」
「でも、石なくなるんですよね?」
「なくなりますね」
さっきまでの商談より、急に話が単純になった。
真壁も否定しない。
「3月分だけなら問題ない。だが、年間分をそのまま進めれば、今の確保量はほぼ消える」
澪は資料を見る。
東都側の需要は、それで終わらない。
むしろ、上限を超えてさらに欲しいと言っていた。
でも、押入商会側では今ある石を使えば、その先がない。
加工設備を増やす話ではなかった。
速度を上げる話でもない。
検査や包装を工夫する前に、材料そのものを増やさなければならない。
「この前まで、0.5tもあると思ってました」
理央が言う。
「私もです」
澪も同じだった。
0.5tもある。
そう思っていた。
今は違う。
0.5tしかない。
需要が変わっただけで、同じ数字の意味がひっくり返っている。
「追加分の話、鷺沼さんには何て返すんですか?」
理央が聞く。
「まずは今の年間分をきちんと進めます」
澪が答える。
「その上で、増やせるかどうかは私たちの方で確認してからです」
「そうなるな」
真壁も頷いた。
テーブルの上には、世界需要予測の資料が残っている。
朝から見てきた巨大な数字が、今は全部一つの問題へつながっていた。
どこまで話を大きくしても、最後に必要になるものは変わらない。
澪は資料を閉じた。
「まず、蛍石ですね」
「そうなるな」
真壁が答える。
理央は少しだけ遠い目をした。
「世界の話してたのに、最後は石なんですね」
「石がなければ始まりませんから」
販売先でもない。
価格交渉でもない。
加工設備でもない。
次に必要なのは、特殊蛍石そのものだった。