押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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会社を起こすと言うことがものすごく大変ということがわかりました。


第33話 六畳間、事業所になる

 澪は、ローテーブルの上に明石さんのメモと買取明細を並べた。

 

 銀行アプリの画面には、まだ見慣れない桁の残高が表示されている。白金の買取代金は、たしかに澪の個人口座へ入っていた。けれど、それは自由に使えるお金ではない。明石さんに何度も言われた通り、個人名義で受け取った白金売却代金であり、後から押入商会の売上に変えるものではなかった。

 

 ローテーブルの周りには、白い重砂の購入記録、リュシアへの支払い記録、グラデーションストーンの仕入れ明細、銀材の領収書、ネックレス箱の納品書が広がっている。少し離れた床には、グラデーションストーンの小袋、銀材のケース、侯爵家紋章シール、ペットボトルを入れた袋、大豆の残り、白い重砂残渣サンプルの容器が、互いに譲り合う気配もなく置かれていた。

 

 澪は、最初にその床を片づけようとした。

 

 透明ケースを動かし、レシートの束を持ち上げ、ペットボトル袋を少し横へずらしたところで、手が止まる。

 

 片づけたところで、税金用資金を分けなければ同じだった。開業届を出さなければ、押入商会はまだただの呼び名だった。事業用口座を作らなければ、仕入れも生活費も同じ財布から出ていく。法人化まで進めるなら、名前と住所と資本金と書類が必要になる。

 

「片づけても、前に進んでないなら意味がないですね」

 

 澪は、手に持っていた透明ケースをいったん戻し、スマホを開いた。

 

 ChatGPT先生に、かなり長い相談文を打ち込む。

 

「押入商会を個人事業として整え、法人化まで進めるために、今日から2週間で実行すべきTODOを、実行順に出してください。税金用資金、事業用口座、開業届、青色申告、賃貸契約、自宅兼事務所、法人名、資本金、社長貸付、登記住所、帳簿、在庫管理まで含めてください」

 

 送信してから、澪は少しだけ身構えた。

 

 返ってきた画面には、容赦のない量の作業が並んでいた。税金用資金を隔離すること。個人事業用資金を生活費と分けること。開業届と青色申告承認申請を作ること。事業用口座と事業用カードを申し込むこと。賃貸契約書を確認すること。自宅兼事務所として使うなら面積と使用実態の記録を残すこと。法人名候補、事業目的案、資本金と社長貸付案、本店所在地候補を作ること。帳簿ソフトを導入し、在庫表を作ること。

 

 澪は、画面を見たまま固まった。

 

「先生、今日は助言じゃなくて業務命令ですね」

 

 もちろん、画面は答えない。

 

 けれど、答えない代わりに、次の行には「今日やることを絞ってください」と表示されていた。優しいようで、逃がしてくれない。澪はノートを開き、TODOをそのまま写すのではなく、欄を分けることにした。

 

 今日やる。明石さん確認。管理会社確認。設立。部屋。

 

 5つの欄を作ると、山のような作業が少しだけ道に見えた。道に見えただけで、山であることは変わらなかったが、少なくともどこから登ればいいかは分かる。

 

 

 

 

 

 最初に開いたのは、銀行アプリだった。

 

 白金売却代金は、澪の個人口座に入っている。これは個人側の白金売却代金として整理する。法人売上にはしない。そこまでは、明石さんの声が頭に残っていた。

 

 澪は、ネット銀行の目的別口座を作った。

 

 名前は、税金用。

 

 定期預金ではない。明石さんには、税金用資金は増やすためのお金ではなく、納税額が決まった時にすぐ動かせるようにしておくお金だと言われていた。利息よりも、触らないことと、必要な時に出せることが大事らしい。

 

 澪は、白金売却代金の中から、多めに見積もった金額を入力した。税額を決めたわけではない。あくまで仮置きだ。けれど画面に並ぶ数字は、軽くなかった。

 

 振込ボタンの手前で、指が止まる。

 

 自分の口座から自分の目的別口座へ移すだけなのに、まるで別の人へ預けるような感覚があった。

 

「これは使えるお金じゃない。税務署に会うまで動かさないお金」

 

 声に出してから、澪は実行ボタンを押した。

 

 処理完了の画面が出る。

 

 残高が減ったのではなく、責任に置き場所ができたのだと、澪は自分に言い聞かせた。数字はまだ怖い。けれど、税金用という名前がついただけで、少なくともその数字は、うっかりネックレス箱や銀材に変えていいものではなくなった。

 

 続けて、澪はノートへ資金区分を書いていった。

 

 生活費として個人口座に残す分。個人事業として押入商会に使う分。法人化時に入れる候補資金。白金売却済み分は個人側で整理すること。法人化後に会社へ入れるなら、資本金か社長貸付として記録すること。

 

 そこで、またペンが止まった。

 

「あたしが会社に貸す。あたしの会社に。やっぱり日本語として変です」

 

 澪はChatGPT先生に、社長貸付とは何かを聞いた。

 

 返ってきた答えは、会社のお金と社長個人のお金は別、というものだった。社長個人が会社へお金を入れる時、資本金として出す方法と、会社への貸付金として入れる方法がある。貸付なら会社が社長へ返す義務がある。税理士に確認すること。

 

 澪はノートに、「会社とあたしは別人格」と書いた。

 

 そして、しばらくその文字を眺めた。

 

「押入商会、人格を持つんですか」

 

 もちろん、ノートは答えなかった。

 

 けれど、個人と商売の財布を分けるという話が、急に生き物の話みたいに見えた。押入商会が人格を持つなら、勝手に澪の財布へ手を突っ込ませてはいけない。逆に、澪も押入商会の財布を自分の生活費として雑に使ってはいけない。

 

 面倒だ。

 

 でも、少しだけ分かる。

 

 澪は、資本金と社長貸付の欄に「明石さん確認」と書き添えた。

 

 

 

 

 

 開業届の入力画面を開いた時、澪はしばらく屋号欄を見つめていた。

 

 名前を入れるだけだ。

 

 ただそれだけなのに、指が重い。

 

 屋号欄に「押入商会」と入力する。

 

 変換候補にも当然出てこない。澪が一文字ずつ入れて、確定した。画面の中に、押入商会という文字が現れる。

 

「冗談で言ってた名前を、国に出すんですか」

 

 口に出すと、さらに重くなった。

 

 でも、消さなかった。

 

 事業内容の欄には、異世界とは書かない。押し入れとも書かない。ChatGPT先生が出した候補を見ながら、現実側で説明できる言葉へ整える。

 

 アクセサリー、雑貨、食品関連商品の企画・仕入れ・販売。工芸素材、鉱物素材、貴金属関連素材の取扱い。

 

 書いてみると、意外と嘘ではない。グラデーションストーンネックレスはアクセサリーで、ペットボトルや大豆や補水飲料関係は雑貨や食品関連に近い。白い重砂や白金は、鉱物素材や貴金属関連素材と言えなくもない。

 

 言えなくもない、が増えるたびに、押入商会の正体が少しずつ現代語へ翻訳されていく。

 

 青色申告承認申請の入力も進める。分からないところは、すぐに判断せず、明石さんへ確認するために保存した。

 

 澪は、入力内容をPDFにして、明石さんへ送った。

 

 件名は、開業届と青色申告承認申請の内容確認。

 

 送信してから、澪はローテーブルの周りを片づけようとした。片づけ始めて3分も経たないうちに、スマホが鳴った。

 

 明石さんからだった。

 

「内容確認しました。提出して構いません。控えは必ず保存してください」

 

 短い。

 

 短いが、前に進むには十分だった。

 

 澪は深呼吸し、提出ボタンを押した。送信完了の画面が出る。控えを保存し、印刷用のファイルにも入れる。

 

 開業届。

 

 青色申告承認申請。

 

 画面上の控えに、押入商会の文字がある。

 

「出してしまった」

 

 澪は、誰もいない六畳間で呟いた。

 

「押入商会、国に名乗ってしまった」

 

 押し入れは黙っている。

 

 たぶん、何も責任を取る気はない。

 

 

 

 

 

 開業届の控えを保存すると、次は事業用口座だった。

 

 澪は銀行のサイトを開き、屋号付き口座にするか、まず個人名義で事業用として分ける口座にするかで止まった。説明を読んでも、銀行ごとに扱いが違う。必要書類も違う。審査もある。

 

 澪は明石さんに短く確認を送る。

 

 返答は、やはり短かった。

 

「まず個人事業用の口座を用意しましょう。屋号付き口座は銀行により扱いが違います。審査があります。生活費口座と分けることが重要です」

 

 澪は、画面に戻った。

 

 個人事業用として使う口座の申し込みを進める。本人確認書類を撮影し、必要事項を入力し、開業届の控えを添付する。入力画面が進むたびに、押入商会の財布が少しずつ輪郭を持っていく気がした。

 

 事業用カードも申し込む。

 

 カードの利用目的欄に、仕入れ、備品購入、通信費、事業関連支払い、と入力したところで、澪は少し遠い目になった。

 

「カードまで仕事用になると、押入商会が本当に財布を持ち始めた感じがします」

 

 申込完了の画面を保存する。

 

 口座開設もカード発行も、審査待ちだ。けれど、申し込みは終わった。止まっていない。

 

 澪はTODO表の「事業用口座申込」と「事業用カード申込」の横へ、赤いチェックを入れた。赤い印が増えると、少しだけ気が強くなる。

 

 

 

 

 

 次に澪を止めたのは、賃貸契約書だった。

 

 明石さんのメモにも、ChatGPT先生のTODOにも、賃貸契約確認と書いてある。だが、契約書はすぐには見つからなかった。

 

 大学の書類を入れたファイルを開ける。違う。家電保証書の封筒を開ける。違う。通販明細、古い公共料金の紙、彫金教室の資料、料理動画を見ながら書いたメモ、なぜ取ってあるのか分からない100円ショップのレシート。探せば探すほど、六畳間はさらに崩れていく。

 

「契約書を探すために、事業所化前の部屋がさらに崩壊していく」

 

 澪は床に広がった紙を見て、頭を抱えた。

 

 やっと出てきた賃貸借契約書は、古いクリアファイルの一番後ろに挟まっていた。澪はそれを両手で持ち、慎重にローテーブルへ置いた。

 

 読んだ。

 

 すぐに眉間に皺が寄った。

 

 居住用。転貸禁止。用途変更。管理会社への届出。法人登記の可否は、はっきりとは書いていない。事務所利用についても、これなら大丈夫とも、駄目とも言い切れない。

 

 澪は勝手に判断するのをやめ、付箋を貼った。

 

 居住用の欄には、生活が主であること。転貸禁止の欄には、法人に貸す形にすると危ないこと。用途変更の欄には、管理会社確認。法人登記の可否が不明な部分にも、確認と書いた。

 

 それから、ChatGPT先生に管理会社への問い合わせ文を作らせた。

 

「現在の住居内で、外部来客を伴わない書類作成、在庫保管、小規模な発送準備を行う可能性があります。住居兼事務作業場所としての利用可否、法人登記の可否、法人契約への切替可否について確認させてください」

 

 押し入れとは書かない。

 

 異世界とも書かない。

 

 澪は文面を明石さんへ送り、確認を待った。返事はその日のうちに来た。

 

「この文面なら送って構いません。回答は保存してください」

 

 澪は管理会社へ送った。

 

 数日後、返信が来た。

 

 外部来客なし、騒音なし、看板なし、大量発送なし、危険物保管なし、住居としての使用が主であれば、小規模な事務作業と書類保管、少量在庫保管は条件付きで可。法人登記は大家確認が必要。法人契約への切替は別途審査。

 

 澪は、条件付きで可、という文字を見て、椅子に座り込んだ。

 

「完全勝利ではない。でも、即死ではない」

 

 それで十分だった。

 

 少なくとも、六畳間を現実側で作業拠点として説明する道は残った。法人登記住所として使えるかはまだ大家確認が必要だが、そこで止まる必要はない。

 

 澪は、押し入れを見た。

 

 古い木の扉は、いつものように黙っている。

 

「押し入れは事業の入口。でも、登記住所にはできない」

 

 澪は、明石さんに相談を送った。

 

 返事は、少しだけ厳しかった。

 

「大家承諾が出るまで自宅を本店所在地にするのは避けた方が安全です。登記可能なバーチャルオフィスか、別住所を検討しましょう」

 

 澪は、そこで止まらなかった。

 

 登記可能なバーチャルオフィスを調べる。法人登記可、郵便転送あり、費用が高すぎない、怪しすぎない、銀行口座開設に不利すぎない、現実的な住所。条件を並べると、思っていたより選ぶのが難しい。

 

 住所があるだけでは足りない。郵便が届き、契約書があり、説明できることが必要だった。

 

 澪は候補を3つに絞り、明石さんへ送った。

 

 明石さんからの返事には、「この条件なら候補としてよいでしょう。契約書は保存してください」とあった。

 

 澪はバーチャルオフィスを申し込んだ。

 

 押し入れは動かさない。けれど、登記住所は別に用意する。

 

 その線ができた瞬間、詰まっていたものがひとつ抜けた。

 

 

 

 

 

 澪はメジャーを持った。

 

 作業机の予定場所を測る。棚を置く壁際の幅を測る。書類保管場所、在庫保管場所、貴金属関係を入れる鍵付き収納の位置も測る。最後に、押し入れ前の空けておく部分を測った。

 

 そこは異世界への出入口だ。

 

 けれど、現代側の記録にはそう書けない。

 

 澪はノートに、「在庫搬出入動線」と書いた。

 

「嘘ではない。嘘ではないけど、全部は言ってない」

 

 その言葉を言いながら、スマホで部屋の写真を撮る。

 

 作業机予定地。棚予定地。押し入れ前。書類保管場所。グラデーションストーンや銀材を置く予定の透明ケース。寝具の位置。食品系と金属系を離すための棚。

 

 写真を撮ると、部屋が急に自分の生活場所ではなく、記録される場所になった気がした。

 

 六畳間は小さい。

 

 でも、測って、写真を撮って、紙に残すと、その小ささの中にも仕事の場所と生活の場所があることが分かる。寝る場所、食べる場所、作業する場所、在庫を置く場所、押し入れ前の搬出入動線。

 

 澪は、事業使用面積メモと書いたファイルを作り、写真と寸法メモを入れた。

 

 これでまた、赤いチェックが1つ増えた。

 

 

 

 

 

 法人名候補を書く時、澪は少しだけ背筋を伸ばした。

 

 合同会社押入商会。

 

 押入商会合同会社。

 

 株式会社押入商会。

 

 株式会社は、重い。とても重い。文字の見た目からして、六畳間のローテーブルにはやや大きすぎる。

 

 合同会社の方が、小さく始めやすい気がした。

 

 澪は、「合同会社押入商会」に丸をつけた。

 

「合同会社って、急に本物っぽい」

 

 名前だけで疲れる。

 

 けれど、名前がないと進まない。

 

 次に、ChatGPT先生に事業目的案を作らせた。アクセサリー、雑貨、工芸品の企画、製造、販売。食品、飲料、日用品の企画、仕入れ、販売。貴金属、鉱物、工芸素材の取扱い。輸入雑貨および関連商品の販売。

 

 最後に出てきた一文を見て、澪は少しだけ椅子から身を引いた。

 

 前各号に附帯関連する一切の事業。

 

「この一文、異世界より広い」

 

 何でも入るように見える。

 

 もちろん、何でもできるわけではない。だが、この一文があることで、押入商会のやっていることが少しだけ現代の書類に収まりやすくなる。ペットボトルも、グラデーションストーンも、大豆も、白い重砂も、全部をそのまま書くわけにはいかない。

 

 現実の言葉へ翻訳する。

 

 その作業は、異世界の商品を現代へ持ち帰るより、ある意味ずっと面倒だった。

 

 

 

 

 

 資本金の案を書く時、澪はまた手が止まった。

 

 全部を資本金にしない。明石さんのメモにも、ChatGPT先生の回答にもそうあった。資本金として会社へ入れるお金と、澪個人から会社への貸付にするお金を分ける案にする。

 

 澪は、ノートに書いた。

 

 資本金:300万円。

 

 社長貸付候補:1,000万円。

 

 残りは、個人側で税金用、生活防衛資金、個人事業移行資金として管理。

 

 300万円という数字を書いた瞬間、澪の手が少し震えた。ついこの間まで、カード引き落とし予定を見て青ざめていた。今、その自分が300万円を「控えめ」として書いている。

 

「300万円が控えめに見える日が来るとは思いませんでした」

 

 明石さんへ確認メモを送る。

 

 返事は、数時間後に来た。

 

「方向性は妥当です。最終額は設立前に確認しましょう」

 

 澪は、すぐにTODO表へ赤いチェックを入れた。資本金と社長貸付の案、作成。明石さん確認済み。ただし最終額は設立前確認。

 

 進んだ。

 

 確かに進んだ。

 

 

 

 

 

 合同会社設立サービスの画面は、予想以上に現実的だった。

 

 法人名。本店所在地。資本金。社員構成。事業目的。決算月。代表者。出資額。

 

 画面の項目は淡々としている。こちらの緊張にはまったく配慮してくれない。

 

 澪は、法人名に合同会社押入商会と入力した。代表社員の欄に自分の名前を入れた。資本金の欄に、300万円と入れた。事業目的は、明石さん確認済みの形に整えたものを入れる。本店所在地には、契約したバーチャルオフィスの登記可能住所を使った。

 

 入力欄が埋まっていく。

 

 六畳間のローテーブルで打ち込んでいるのに、画面の中では会社が形を持ち始めていた。

 

 資本金300万円の払い込みは、別の意味で手が震えた。通帳の記録、振込明細、保存するPDF。ひとつずつ名前をつけて、後から説明できるようにする。

 

 社長貸付1,000万円については、明石さんから送られてきた雛形をもとに契約書を作った。貸付日、金額、返済条件、利息の扱い、返済方法。細かいところは明石さん確認へ回す。

 

「会社に貸すお金の契約書を、自分で作って自分で震えている」

 

 澪は、印刷した書面を見ながら、また遠い目になった。

 

 しかし、震えていても進む。

 

 明石さんへ最終確認を送り、返事を待つ。

 

「内容確認しました。登記申請へ進めてください。控えは必ず保存してください」

 

 短い返事だった。

 

 いつものように、短くて強い。

 

 澪は、登記申請の画面を開いた。

 

 送信前に、押し入れを見た。

 

 古い木の扉は、いつも通り何も知らない顔をしている。

 

「押入商会、国に出したどころか、会社として申請してしまった」

 

 澪は送信ボタンを押した。

 

 申請完了の画面が表示される。

 

 押入商会は、もう屋号だけではなかった。

 

 会社として申請された。

 

 

 

 

 

 そこからの数日は、変な濃さで過ぎた。

 

 大学の授業へ行き、ノートを取り、課題の締切を確認する。帰ってきてメールを見る。異世界へ行き、リュシアへ連絡し、侯爵家公認品の材料確認をし、白い重砂の次回回収予定を聞く。六畳間へ戻り、登記申請の進捗を見る。授業中に思い出して、慌ててスマホを伏せる。帰宅して、また確認する。

 

 日常と異世界と法人設立が、同じカレンダーの中で並んでいた。

 

 おかしい。

 

 でも、もうそういう生活になっている。

 

 数日後、登記完了の通知が届いた。

 

 澪は、画面を開いた。

 

 合同会社押入商会。

 

 法人番号。

 

 その文字が、画面の中に表示されている。

 

 澪はしばらく動けなかった。

 

「……できてしまった」

 

 声が小さく出た。

 

 昨日まで、押入商会は六畳間の中で呼んでいた冗談みたいな名前だった。今は法人番号がある。国のどこかの台帳に、合同会社押入商会という名前が載っている。

 

 押し入れは黙っている。

 

 けれど、今日だけは、その黙り方が少しだけ重かった。

 

 登記完了後、澪は法人銀行口座の申し込みへ進んだ。登記情報、法人番号、代表者本人確認、事業内容、バーチャルオフィス契約書、開業時からの取引記録、明石さんの確認メモ。必要なものを添付して送る。法人カードも申し込む。

 

「押入商会、個人の財布どころか、法人の財布まで持とうとしている」

 

 審査待ちではある。

 

 けれど、申し込みは終わった。

 

 会社ができたから、次の扉が開いた。

 

 

 

 

 

 修さんの店は、いつ行っても整っていた。

 

 作業台には必要な工具だけが出ていて、銀材は種類ごとに分けられ、小さな部品は引き出しに収まっている。棚のラベルは手書きだが読みやすく、布や紙や金属が混ざっていない。

 

 澪はその光景を見ただけで、自分の六畳間を思い出して少し縮んだ。

 

「材料と箱と書類が増えて、部屋が危ないです」

 

 澪が言うと、飯島修一郎は小さく笑った。

 

「危ない、まで来たんだ」

 

「作業机と保管場所を整えたいです」

 

 修さんは、彫金教室の棚を指した。

 

「床に置くと、材料は傷むし、人も転ぶ」

 

「すでに転びかけています」

 

「金属と紙と水物は分けた方がいい。金属は湿気が嫌いだし、紙は水が嫌いだし、水物はだいたい全部を巻き込む」

 

 澪はメモを取った。

 

「小さい材料は、なくなる前提で管理する。なくさないつもり、は信用しない方がいい」

 

「はい」

 

「ラベルは大事だよ。記憶よりラベルの方が信用できる」

 

「記憶よりラベル」

 

「それから、作業机と椅子と明かりは、ケチると身体が先に壊れる。身体が壊れると、作業も帳面も全部崩れる」

 

 修さんは、作業机の角を軽く叩いた。

 

「いい材料を床に置くのは、材料にも人にも失礼だよ」

 

 澪は、床に置いていたグラデーションストーンの小箱を思い出した。

 

「過去のあたしに聞かせたいです」

 

「今の澪ちゃんが聞けばいい」

 

 修さんは穏やかに言った。

 

 その言葉は、作業台の上の銀材みたいに、澪の中へ静かに置かれた。

 

 

 

 

 

 数日後、宅配業者は何度も来た。

 

「篠原さん、また荷物です」

 

「はい……すみません」

 

 最初は収納棚。次は作業机。その次は椅子。別の日にラベルプリンター、透明ケース、耐火ボックス、鍵付き収納、レシートファイル、マットレス。

 

 荷物を整理するための荷物で、六畳間は一時的にさらに狭くなった。

 

 段ボールが積まれ、緩衝材が床を占領し、説明書がローテーブルに広がる。押し入れ前だけは死守したが、そこへたどり着くまでが迷路になった。

 

 澪は段ボールの山を見た。

 

「整理するために買った物で、部屋が負けた」

 

 負けた部屋の中で、澪はメジャーを持った。

 

 押し入れ前は絶対に空ける。そこを塞いだら、異世界へ行く前に自分の部屋で詰む。作業机は窓際。棚は壁際。寝具は押し入れ導線を邪魔しない位置。ペットボトル袋は入口近くに置かない。洗浄済みと未洗浄を分ける。大豆や食品系は金属、鉱物系と離す。貴金属関係の明細やサンプルは鍵付き収納と耐火ボックスへ。

 

 作業机を組み立て、棚を立て、透明ケースを並べる。耐火ボックスは机の下へ置き、鍵付き収納は壁際に寄せた。マットレスは押し入れ前の動線を邪魔しない場所に敷く。

 

 六畳間は豪華にはならなかった。

 

 けれど、床に散らばっていたものが、少しずつ場所を与えられていく。グラデーションストーンはグラデーションストーンの箱へ。銀材は銀材のケースへ。レシートはレシートファイルへ。押し入れ前は、きちんと空ける。

 

 澪は、段ボールの山を潰しながら、TODO表の「六畳間事業所化」に赤いチェックを入れた。

 

 

 

 

 

 帳簿ソフトの初期設定は、予想通り一筋縄ではいかなかった。

 

 白金売却代金は個人側。税金用資金移動。個人事業用資金。法人資本金払い込み。社長貸付1,000万円。現代側仕入れ。グラデーションストーン在庫。銀材在庫。ペットボトル洗浄用品。大豆。白い重砂関連記録。

 

 項目を見ながら、澪は何度も止まった。これは材料費なのか、仕入れなのか。これは消耗品なのか、包装資材なのか。異世界側で正金貨を払った記録は、現代側の帳簿にどう書くのか。分からない項目には、無理に答えを入れず、明石さん確認とメモをつける。

 

「完璧じゃなくていい。分からないところを分かるようにする」

 

 自分に言い聞かせながら、初期設定を進めた。

 

 次に、ラベルプリンターを動かす。

 

 最初のラベルは少しずれた。2枚目は文字が小さすぎた。3枚目でようやく見られるものになった。

 

 買取明細のファイルには、白金売却の明細を入れる。税理士相談のラベルは、明石さんとのメモを挟んだファイルに貼る。開業届控え、青色申告控え、合同会社押入商会、登記完了、法人番号、社長貸付契約書。ラベルが増えるたびに、六畳間の中へ会社の部品が置かれていく。

 

 白い重砂購入記録は、リュシアへの支払い記録と並べて別のファイルへ入れた。グラデーションストーン、銀材、チェーン、侯爵家紋章シール、ネックレス箱は、それぞれ透明ケースへ分ける。ペットボトルは洗浄済みと未洗浄を分け、大豆は食品棚へ移した。

 

 白い重砂残渣サンプルのラベルを出す時、澪の手が少し止まった。

 

 注意鉱物・開封禁止。

 

 その文字が印字されると、ただの小さな容器が急に危険物の顔になる。

 

 賃貸契約書のコピーには、明石さん確認と貼った。部屋の寸法を書いた紙には、事業使用面積メモ。押し入れ前の動線を示した写真にも、同じラベルを貼る。

 

「ラベル、強い」

 

 同じ透明ケースでも、ラベルが貼られると意味が変わる。何が入っているのか、誰に触らせてはいけないのか、どこへ戻すのかが分かる。

 

「記憶よりラベルの方が信用できるって、本当でした」

 

 澪は、少し感動しながら、次のラベルを貼った。

 

 

 

 

 

「税金用のお金を分けました」

 

 屋台裏で澪がそう切り出すと、リュシアは串を返す手を止めた。

 

「押入商会で開業届を出しました。青色申告の申請も出しました。事業用口座とカードも申し込みました。合同会社押入商会を作りました。法人番号も出ました。自宅をそのまま登記に使うのは避けて、別の登記住所を使いました。部屋も事業所にしました」

 

 言い終わる頃には、澪自身も少し息切れしていた。

 

 リュシアはしばらく黙った。

 

「澪、昨日まで財布がひとつだったよね」

 

「はい」

 

「今日、急に商会を通り越して、会社になったね」

 

「なりました」

 

 リュシアは、少しだけ呆れた顔をしてから、ふっと笑った。

 

「やればできるじゃないか」

 

「やったら、ものすごく疲れました」

 

「そりゃ疲れるよ。金の通り道に名前をつけて、帳面を分けて、部屋まで商売用にしたんだろ。商売の骨を作ったんだ」

 

 澪は、その言葉に少しだけ救われた。

 

 商売の骨。

 

 税金用口座も、開業届も、法人番号も、帳簿ソフトも、ラベルも、机も棚も、全部ばらばらの作業に見えていた。けれど、リュシアに言われると、それは押入商会という身体を立たせるための骨なのかもしれなかった。

 

 リュシアは、串を皿に置きながら続けた。

 

「ただし、寝る場所は残しな。商売が寝床まで食うと、人が壊れる」

 

「はい。マットレスを買いました」

 

「それはいい」

 

 その横で、エレナが首を傾げた。

 

「では、私も澪の商会を見に行く」

 

「駄目です」

 

 澪は即答した。

 

「まだ何もしていない」

 

「する前に止めています」

 

「なぜだ」

 

「あたしの部屋は、侯爵家の姫様を招ける場所ではありません」

 

 エレナは不満そうにした。

 

 リュシアが横から、少し笑って言う。

 

「それもあるけど、たぶん違う理由もあるね」

 

 澪は曖昧に笑った。

 

 押し入れの秘密がある。

 

 ラベル付きの棚や耐火ボックスを見られるだけならまだいい。だが、古い押し入れが異世界へつながっていることを侯爵家の姫様に見られるのは、今の澪の管理能力を超えている。

 

「いつか、見せられる場所ができたら考えます」

 

「では、予約する」

 

「予約制度はありません」

 

 エレナはますます不満そうだったが、深追いはしなかった。リュシアが、姫様の皿へ串を一本置いたからだ。

 

 食べ物は、時々とても強い。

 

 

 

 

 

 夜、澪は作業机に座った。

 

 新しい机の上には、ノートPC、帳面、TODO表、赤ペンが並んでいる。押し入れ前は空いている。棚にはラベル付きのケースが並び、耐火ボックスは机の下で静かに存在感を出していた。鍵付き収納には貴金属関係と白い重砂残渣サンプルが入っている。ペットボトルは洗浄済みと未洗浄で分かれ、大豆や食品系は金属や鉱物から離した棚に移した。

 

 澪はTODO表を見た。

 

 赤いチェックが、思っていたより多く並んでいる。

 

 税金用資金を隔離した。個人事業用資金を分けた。開業届を出した。青色申告承認申請も出した。事業用口座と事業用カードは申し込んだ。賃貸契約書を確認し、管理会社へ問い合わせた。自宅登記は避け、バーチャルオフィスを契約した。事業使用面積メモを作り、部屋の写真も撮った。法人名は合同会社押入商会に決め、事業目的案も作った。資本金300万円を払い込み、社長貸付1,000万円の契約書を作った。合同会社押入商会の登記申請をし、登記は完了した。法人番号も確認した。法人銀行口座と法人カードも申し込んだ。六畳間は事業所として形を変え、帳簿ソフトの初期設定と在庫ラベル管理も始めている。

 

 書き出してみると、やったことが多すぎて、少し笑えてきた。

 

「これ、本当に一人でやったんですか」

 

 もちろん、一人ではない。ChatGPT先生に聞いた。明石さんに確認した。修さんに相談した。リュシアに背中を押された。それでも、ボタンを押し、書類を出し、契約書を探し、メジャーで部屋を測り、ラベルを貼ったのは澪だった。

 

 澪は、TODO表の下に新しい欄を作った。

 

 未完了、とは書かなかった。

 

 そこには、次に動かす仕事、と書いた。

 

 法人銀行口座の結果を待つ。法人カードの結果を待つ。法人として最初に何を仕入れるか決める。法人として最初の売上を帳簿に残す。家賃の扱いは明石さんと詰める。白金売却済み分は澪個人の申告として整理する。異世界側の金貨や正金貨の出入りは補助簿で記録を続ける。

 

 それは、会社ができなかった項目ではない。

 

 会社ができたから、次に動かせる仕事だった。

 

 澪は、その下に、ゆっくりと書く。

 

 押入商会、屋号になる。

 

 合同会社押入商会、登記完了。

 

 六畳間、事業所になる。

 

 ペンを置いた途端、肩から力が抜けた。

 

 大学の課題もある。異世界側の仕入れもある。リュシアへの報告もある。侯爵家公認品の追加発注もある。白い重砂の次回分もある。

 

 それでも、今日のTODO表には赤いチェックが並んでいる。

 

「これを大学に通いながら、異世界にも通いながらやったあたしって、偉いのでは……?」

 

 声に出すと、少しだけ本当に偉い気がした。

 

 もちろん、押し入れは答えなかった。

 

 けれどその沈黙は、今日は少しだけ、褒めているようにも見えた。

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